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2008年3月

十字軍の実像

十字軍という聖戦?キリスト教世界の解放のための戦い (NHKブックス 1105)
本の書評ではなく紹介です。十字軍に関しては日本人研究者によるものも欧米の研究者の翻訳ものもけっこうあるわけですが、八塚春児氏の「十字軍という聖戦」は啓蒙的な概説書ではありますが、十字軍研究の現在の水準を知るのにいい本かと思います。とはいえ最初の一冊ではなく、橋口倫介氏の古典的な十字軍本を読んだ後にクールダウンするために読むことをおすすめします。

世界史上有名なこの大事件については誰もが漠然としたイメージぐらいは持っているでしょうが、その実像となると十分に知られているとは言いがたいでしょう。最近では反米主義的な文脈で米国の行動を揶揄するのに、あるいはイスラム圏では本気で批判するのに十字軍のイメージが召喚されることが多いですが、宗教が政治に強力に絡んでいた中世という時代にあっても理念と現実というものの関係は時には牽引し、時には乖離し、時には反転しといった具合に複雑と錯綜をきわめているものです。堅実なる実証史家の筆になるこの書は十字軍にまとわりつく神話的イメージを相対化し、崇高なる理念と政治的利害や打算の絡み合いを解きほぐしてくれるとともに人間というもののあいもかわらぬ業のようなものを垣間見せてくれることでしょう。

著者が冒頭で述べるようにこの巨大な運動を紙幅の限られた概説書の形式の中に封じ込めることなどとうていできはしません。それゆえに焦点と論点はかなり絞られています。本書は多くの人々の脳裏に浮かぶ高校世界史的な十字軍像に対して、様々な仮説を検討しながら、時には実証の困難を正直に告白しつつ、現実の複雑さを対置するといった論述の進め方をとっています。それゆえかならずしも歯切れのよい本ではありません。読書にロマンやカタルシスを求めるむきにはかったるい経験となる恐れなしとはしませんが、歴史の好きな人間はこうしたジグザグした記述が著者の誠実を保証してくれるものであることを経験的に知っているはずです。

先に述べた高校世界史的なナラティブとは「1096年から1291年まで通算7回の十字軍遠征がなされた。当初の十字軍は宗教的動機による純粋な十字軍だったが徐々に世俗的利害が全面に出るようになって堕落していく。その転機となったのが第四回十字軍であった。なぜならばヴェネチア商人の商業的利害によって聖地ではなくその商敵であったコンスタンチノープルを占領することになったのだから」といったものです。

まず1095年のクレルモン会議において教皇ウルバヌス2世が第一回十字軍の招集を行ったことにこの運動の端緒があるとされるわけですが、著者はこの背景について丹念に分析を重ねていきます。まず当時の東方情勢についてですが、当時聖地を治めていたセルジューク朝トルコによってキリスト教迫害が激化したのかどうかは定かでなく、現在ではこれを主原因とする通説は批判されているそうです。それで十字軍招集の理由として、当時分裂していた東方正教会とローマ・カトリック教会の教会統一をはかるためという説、叙任権闘争の最中にあって神聖ローマ帝国に対して教皇権の優位を確立するためという説、内戦を外征に転化することにより西欧内部に平和をもたらそうとしたという「平和運動」説、スペインや南イタリアで再征服した地に宗主権を要求する政策を追求していたが、これを東方にも拡大しようとしたという宗主権政策説を検討します。著者は以上の仮説はすべてが正しくどの目標も同時に追求しようとしたとしています。そして重要なのは「キリスト教世界christianitasの解放liberatio」観であるとしています。キリスト教世界という単一の共同体に自由を保障すること、それがキリスト教世界の解放ですが、当時教会改革を通じてこの理念が高唱されるようになる。上述したようなすべての目標はこのキリスト教世界の解放の理念の一部として包含され得るというわけです。

ここで当初は絶対的な無抵抗主義であったキリスト教がいかにして聖戦思想を形成したのかという問題になります。著者はエルトマンに依りつつ十字軍思想の発展を説明していますが、画期となるのはローマ帝国におけるキリスト教の国教化であり、その後アウグスティヌスがドナティスト論争を通じて「正戦just war」の概念を発明します。これは教会内部の敵との戦争ですが、異教徒との戦争を理論化したのがゲルマン人の改宗を推進した大教皇グレゴリウス1世とされます。この後は徐々に「正戦」から「聖戦holy war」へ、すなわち消極的な戦争から積極的に推進されるべき戦争へと変化していきますが、聖戦思想にとって重要なのがカノッサの屈辱で有名なグレゴリウス7世です。彼の教皇の招集する義勇軍による戦争の構想を現実化したのがウルバヌスの十字軍ということになります。

著者は実際の十字軍参加者を分析して、(1)十字軍の理念に忠実なタイプで宗教的動機による参加者、(2)現状不満者で東方で一旗揚げようとした世俗的利害による参加者、(3)政治的利害から消極的に参加せざるを得なかった者に具体例をあげて分類しています。以上から第一回十字軍を宗教的に「純粋な」十字軍と見るのは誤りであり、むしろ時代が下るほどに「十字軍家系」の形成とともに世俗的動機が薄くなるという正反対の仮説を提示しています。

次に聖地解放の目的を放棄してコンスタンチノープルを占領したことで悪名高い第四回十字軍ですが、著者によればコンスタンノープル占領は計画的なものではなく偶然の重なりからであり、聖地への希求は揺るいでいなかったといいます。その原因となったのはヴェネチアの傭船計画であり、見積もりが多すぎたために費用を払えなくなり、ヴェネチアの要求でザラを占領するはめに陥った。しかしヴェネチアの役割はそこまででコンスタンチノープル占領には直接は関係ない。ヴェネチアとコンスタンチノープルも商敵ではなく当時強い結びつきをもっていたとされます。コンスタンチノープル占領にいたる原因は十字軍がビザンツ宮廷のクーデターに巻き込まれたことにあり、教皇はこれを叱責するが、事態の展開に応じて教会統一のためという名目の下に結局は占領、さらに教会国家の設立を追認していくことになったとされます。この展開は当初誰も予想していなかったものであり、偶発事態の連鎖の結果に過ぎなかったことが説得的に論述されます。

また「民衆十字軍」と呼ばれる運動についても一章を割いています。正規の十字軍とは言い難い動きです。例えば、後に半ば伝説化することになる隠者ピエールの活動は実際には無謀な作戦を繰り返し、悲惨な結果に終わったことで知られます。ドイツではフォルクマルに率いられる一隊がプラハでユダヤ人を虐殺した後にハンガリーで軍に撃破されます。またライニンゲン伯エミコの率いた隊はライン地方の諸都市でユダヤ人虐殺を行ったことで悪名高いですが、やはりハンガリー軍と戦闘になり、敗走、解散したとされます。こうした暴挙ともいえる運動について模擬反乱説、経済的窮乏説、経済的繁栄説などの解釈が提示されていますが、著者はこの時代の都市経済の発展が社会的格差の拡大を生んだことが宗教的熱狂とあいまってユダヤ人迫害につながったのではないかと推論しています。

最後に十字軍は7回というのもひとつの見方に過ぎず、実際には十字軍は数多存在していた点も強調されています。これも十字軍とは聖地解放のための宗教的動機によるものという先入観によるもので、一般に「非東方十字軍」とか「政治的十字軍」などと別のカテゴリーでくくられる十字軍も東方への十字軍とまったく同じ論理による同一の現象としてみなければならないことが強調されています。「キリスト教世界の解放」のためにその敵に対して教皇の招集により遂行される戦争、すなわち十字軍なのであり、その敵は異教徒であろうと異端であろうと皇帝であろうと誰だろうと構わない、また聖地であろうとどこであろうと構わないことになります。アルビジョワ十字軍しかりイタリア十字軍しかりレコンキスタしかり。16世紀ぐらいまで十字軍は存在しましたが(ウィーン包囲に対する神聖同盟も含めれば17世紀まで)、現在でも廃止されたわけではないので法理論的には現在でも発動可能なようです。まあそれはないでしょうがと著者も述べておりますが。

以上のように本書は通説的なイメージに対して綿密な分析を通じて修正を加えつつ、十字軍がきわめて複雑で多様な現象であったことを教えてくれます。ここではいくつかの論点について結論的な部分だけを抜き書きしたに過ぎませんので、詳細は本書を手に取られてご確認ください。わたしたちが知っていると思っている歴史がいかに幻想にまみれたものであるか、当時の現実の手応えのようなものを感じ取るにはこうした堅実な仕事をじっくり読んでみる経験が大切であることを教えてくれます。

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頼むよ民主党

わたしも何度か現在の与野党の対立を民政党と政友会の党争にたとえてきたわけですが、雪斎殿こと櫻田淳氏が産経の正論欄にて論説を寄稿されています。良質な政治的現実主義者として敬意を抱いている人ですので心強いものを感じました。ロンドン海軍軍縮条約締結に絡んで統帥権干犯問題が浮上し、政党政治が崩壊に至るプロセスを想起し、民主党に対して「内治」案件を党争の具にするのはけっこうであるが、「安全保障、対外関係、国際経済に絡む案件」は党争の具にすべきではないという提言をしています。民主党は正しい権力の使い方を学ばなくてはならないと。

わたしは日本の政党政治の成熟を望む者であり、その点で民主党に期待するところが非常に大きいのでありますが、昨今の民主党の行動のいくつかはその期待を裏切るものでありました。与党と妥協しろと言っているわけではありません。現在の政治力学の下では対決姿勢を鮮明にして政府与党を攻撃することはまことに理にかなった行動であります。また本来野党とはそうしたものであります。自民党長期政権下で蓄積された膿みを白日の下にさらすことはよりよいガバナンスの実現にむけて必須の作業でありましょう。道路の問題などなかなかよくやっております。しかしながら党争の具にしてはならない案件というものがあり、あぶない案件を「狙い撃ち」するかのように党争の具にする姿には時に不安を抱きます。

日米同盟を対等とはいわないまでもより透明度の高い関係にするのも大切なことでありますし、そのためにはこれまでタブーであった領域に切り込むことも必要でありましょう。自衛隊の装備の調達の問題やいわゆる思いやり予算の問題などで透明性と説明責任を要求することは成熟した民主主義国にあっては理にかなったことでありましょう。しかし党内で共有されたヴィジョンもないままに批判のための批判を行っているように見えるのが問題です。「国連中心主義」を本気で信じているのかどうかもよく分からない。言うまでもなくそれは安全保障政策などというものではありません。かつて社会党がおそらくは信じてもいない日米安保反対を主張したことがどれだけ日本の安全保障に関する合理的かつ現実的な議論を妨害することになったのか計り知れないほどでありました。

外交に関しても同様であります。民主党の外交方針は今もって不明でありますが、心情的なアジア主義やら国連信仰を外交の基本に据えて、幼稚な反米主義を煽っているように聞こえます。これがきわめて危険であることは言うまでもないことです。それではいつか来た道です。冷戦後の世界にあって寛大なる米国への甘えの心情を捨て去らなくてはならないでしょうし(子供じみた反米は甘えそのものです)、アジア諸国との友好を深めることもまたまことに結構なことであります。しかしながら外交とはアイデンティティーや好悪の問題ではなく、国益計算の問題です。しょせんは他国は他国にすぎない。親中派だの親米派だのまことに主体性のない話でありますし、甘い戦略にもとづいて心情論で外交を行う危険性については亡国という最悪の結果をもって我が国はいやというほど学んだはずであります。まず外交や安全保障について党内で合意された政策を練り上げて国民を安心させなくてはならないでしょう。この点で現在の民主党がメディアとともに国民をミスリードする危険についていくばくかの不安を抱かざるを得ない。

民主党には党内合意もない案件を非戦略的に争点化したりすることではなく、政官の癒着にともなう腐敗の構造をどんどん追求すること、チェック・アンド・バランスの効く新たな政治システムの構築にその努力を傾注することを期待しております。よりよい統治の実現に向けてです。それが多くの国民の期待する役割でもあります。頼むよ民主党。

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地方ニュース

千葉市、市債格付け「A+」 財政健全化へ意欲[朝日]
千葉市が米国の大手信用格付け会社スタンダード・アンド・プアーズに市債の格付けを依頼し、「A+」の評価を得たというニュースです。他に横浜、京都、大阪、新潟が格付けを取得しているそうです。安定した財政基盤をもつ自治体はどんどん乗り出すことになるのでしょう。この手の格付け会社ってあまり信用していないんですけどもね。日本でもつくればいいのに。

同社は、千葉市を重工業プラントのほか、外資系企業の業務・研究拠点などが集まる成長地域と評価。人口も増え続けており、安定した自主財源基盤を持つとしている。

 一方、都市基盤整備や市街地活性化策を相次いで進めたため債務負担が非常に重く、徴税率や各種料金の徴収率も他の政令指定市に比べ見劣りすると分析している。

千葉市って今ひとつキャラクターを把握しにくいような気がしますが、わたしが知らないだけかな。観光案内をざっと見るに千葉城、千葉寺、千葉神社、青木昆陽、それに貝塚ですか。千葉氏のこともよく知らなかったのですが、相馬氏のご先祖様なんですね。麻生太郎氏ともご縁があるとはなんとも数奇なことです。

地方政府創造会議が初会合・分権提言へ、せんたく議連と連携も[日経]
例のせんたくが地方分権推進をめざす地方政府創造会議の初会合を都内で開いたとのことです。山田啓二京都府知事が座長となり、約40人の首長さんが出席しましたが、地方自治体の行財政改革や国の出先機関の廃止・縮小などに関する提言をおこなっていくそうです。これまで東国原知事人気にあやかって注目をあびることが多かったように見えるせんたくですが、今後地方分権論をめぐってどんどん具体的かつ実効性のあるアイディアを出していってほしいです。

徳島市長選に三人が立候補[日経]
任期満了に伴う徳島市長選が告示されたとのこと。再選を目指す自公推薦の現職の原秀樹氏(52)、共産推薦の新人で徳島大名誉教授の十枝修氏(66)、民主推薦の新人で会社役員の加藤真志氏(60)の三氏が立候補を届け出たそうです。投開票は4月6日とのことですが、JANJANに三氏のマニフェスト分析がありました。JANJAN的なものにはいささか懐疑的なわたしですが、こういう記事はいいですね。

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NATOの現状

Economistの記事から。抄訳です。やや長めですが、NATOの現状について非常に分かりやすい記事ですのでご参考までに。我が国にもけっこう影響はありますから、この問題は広く理解される必要があると思います。アフガニスタンの現状から現在ぐずぐずの感のあるNATOの現状の解説になります。なぜ象徴的な貢献とはいえ給油問題であれだけ非難されたのか分かるでしょう。個人的には日本はNATOのオブザーバー的な地位を占めてもいいと思うのですがね。少しは国民の世界観も広がるでしょう。改革のキーになるのはサルコジです。ここで言及されているNATOと欧州連合との関係をどう調整していくのかという問題ですが、欧州の対米関係や対露関係の定義、さらには欧州そのものの定義にかかわるだけにかなり難しい問題です。


「暗い谷間の一条の光」[Economist]
アフガニスタンでまた戦闘のシーズンが始まる。欧州諸国が戦争に嫌気がさしている一方でアメリカはやる気のない同盟国にうんざりし、アフガン人は幻滅しつつある。それでもNATOは主導権を握っていると主張している。

昨年は最悪の流血の年であった。230人以上の欧米の兵士が死亡した。アヘン生産が記録的に上昇し、タリバンを財政的に潤し、カブールの政権の腐敗が進んでいる。対反乱作戦(counter-insurgency)の古い真理が有効だ。軍はあらゆる戦闘に勝利するが、収拾のつかない戦争を遂行する意思を失っていく。

英国の政治家で元軍人のパディ・アッシュダウンは大英帝国とアフガンの部族との戦いを描いたキプリングの詩「辺境の算術」を引用して説明する。こうした弱いはずなのに捉え難い敵との戦いでは「オッズは安い者の側につく」。実際、ジェイムズ・ジョーンズ将軍によるリポートによれば、「間違えてはならない。NATOはアフガニスタンで勝利しているのではない」。「この失敗は信頼性が高く、一体的で、実際的な軍事同盟としてのNATOの未来を深刻な危険に投げ込むことになる」だろうと。

来週ブカレストにNATOの指導者達が集まるが、アメリカの国防長官ロバート・ゲイツはNATOが「戦う意思があり、人々の安全を守るために死ぬ意思のある同盟国とそうでない同盟国」との2重の同盟になるだろうとの警告を発した。コストは主としてアメリカ、イギリス、カナダ、オランダによって担われているが、(イタリア、ドイツとともに)オランダはぐらいついているし、カナダは別の同盟国がカンダハールに1000人の部隊を派遣しなければ撤退すると言っている。イラクでのコミットにもかかわらず、戦力の大部分を供給し、アフガンの軍事訓練を行い、経済援助するのはアメリカというわけだ。アメリカは現在3000人以上の海兵隊員を展開している。

しかしこの暗闇にいくばくかの希望が生まれている。ニコラ・サルコジが駆けつけているのだ。ブッシュの不人気にもかかわらず、フランス大統領はアメリカとの友好を求め、ド・ゴールが1966年に脱退したNATO統合軍事機構への復帰を望んでいる。さらに望ましいことにサルコジ氏はブカレストで東部アフガニスタンに1000人のフランス軍兵士を展開することを発表することが予想されている。そうすれば米軍兵士がカンダハールに移動し、カナダ人はアフガニスタンにとどまり、互いに士気を高め合うことになるだろう。

またもうひとつの支援の手段が別の予期せぬ方からやってくる。ロシアだ。NATOの拡大とアメリカのミサイル防衛への怒りにもかかわらず、プーチン大統領はブカレストに招かれており、そこでNATO軍の補給のためのロシア経由の空路と陸路を開放する協定に調印する予定である。

米仏軍の到来は現地のNATO軍の指揮官が求めている戦力の不足を埋めることになるだろう。アフガニスタンはなお兵士不足なのだ。イラクの反乱が示すように異なる結果を生むのは数である。

対等ではない同盟
米欧はアフガニスタンへの同程度のコミットを共有しているわけではない。軍事手段が大幅に異なっているのだ。欧州はアメリカよりもGDPが大きく、より多くの兵士を抱えているが、そのグローバルな軍事的効果は弱々しいものだ。アメリカがGDPの4%ほどを防衛に費やしているのに対して、24の欧州の同盟国のうち5カ国だけがNATOの最小限防衛費の目標たるGDP2%を満たしているにすぎない。アメリカが対外遠征のために軍を組織しているのに対して、欧州諸国の軍はなお自国の国境線防衛のためのものだ。

欧州では英仏のみが対外派遣の伝統をもつが、軍事予算の伸びと闘っている。国家的プライドのためか自国の産業振興への願いのためか欧州の軍事支出は断片的で重複的だ。欧州の4種類の戦車に対してアメリカは1種類、16種類の装甲車に対して3種類、11種類のフリゲート艦に対して1種類といったように。

バルカン、中東、アフリカで戦力を展開している多くの欧州諸国は限界に近づいている。NATOのソースによればこれ以上10000人の部隊しか欧州から出せない。ヘリコプターも不足している。アフガニスタンの戦力強化の望みはイラクの米軍の縮小を待つほかないのだ。

そういうわけでアメリカはフランスの帰還を「巨大なチャンス」と見ている。NATOの議論はこれまでフランスの頑固とアメリカの苛立ちとの惨めな混ぜ物であった。アメリカは欧州連合が自らの安全保障と軍事力を展開しようとする試みを無駄であると考えていたし、2003年のサミットではイラク戦争をめぐる危機の中、フランス、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルクが独立した欧州連合の作戦司令部をつくる計画を発表し、イギリスと他の大西洋主義者はこれをブロックするという具合だ。

今やムードが変わった。フランスの拒否(Non)の代わりにアメリカの考え方がおそらく(peut-etre)で迎えられる傾向にあるのだ。NATOの会合も衝突の場から「日曜ミサぐらい退屈な」会合へと変じた。

しかしNATOに参加することは立ち去ることよりも大変なことである。フランスは軍事計画のトップテーブルに地位を再獲得しようとする試みたが、あまりにも指揮権を求めたがゆえに1996年に決裂した。今回は今のところそのような駆け引きはない。その代わりにサルコジ氏は政治的なトレードオフを求めている。欧州連合の安全保障の役割を拡大することへのアメリカの支持だ。

アメリカもまた「コペルニクス的転回」を遂げつつある。より強力な欧州連合の防衛政策はNATOに取って代わるものではなくこれを補完するものであるというサルコジ氏の考えに説得されているようなのだ。アメリカのNATO大使は欧州安全保障政策(ESDP)の必要性を訴えたのである。「欧州は、アメリカは、NATOは、そして民主主義世界は必要としている、より強力かつ有能な欧州の能力を」「ソフトパワーのみのESDPは十分ではない」と。

米仏の接近によってイギリスは奇妙に仲間はずれにされている。イギリスは1998年にESDPの着手を手助けしたが、最近ではユーロ官僚(Eurocrats)に自律的な欧州連合防衛政策の最大の障害とみなされているのだ。今やイギリスはアメリカに方針を変えるように説得されている状態だ。

フランスは7月に始まる欧州連合の6ヶ月の議長国の期間に欧州防衛の野心的な計画を新たに開始しようとしている。これは2009年のNATO60周年にNATO統合軍事機構への帰還を可能にするだろう。サルコジ氏はイギリス議会で「兄弟関係」を望んでおり、防衛に関する「神学的」議論を放棄したいと述べた。しかし未来の統合へのイギリスの敏感さを配慮して詳細については言及するのを避けた。

アフガニスタンの教訓
ペンタゴンもアメリカの軍事力の限界を自覚している。アフガニスタンでは問題はタリバンの強さだけでなくアフガン国家の弱さである。

ブッシュ政権がかつて小学生をエスコートして時間を潰すなと述べた師団は今学校をつくり、モスクを改装し、「軍事的ソーシャルワーク」を行っている。司令官は今緊急に必要なのは非軍事的な力であると述べている。すなわち農業技術者、獣医、さらには人類学者だ。

軍や医師や国際的なエージェンシーはアフガニスタンで様々な目的で─例えば教師のいない学校の建設─働いている。この機能しない再建努力に方向性を与えるひとつの試みはアッシュダウン卿をカブールの国連代表に就任させることだ。しかしカルザイ大統領は彼をイギリスの総督を体現するものとみなし、反対した。尊敬されてはいるが控えめなノルウェーの外交官のカイ・エイデ氏が現在候補にあがっている。

アッシュダウン氏は問題を次のように要約した。「我々はタリバンを打倒できないだろう。タリバンを打倒できるのはアフガンの民衆だ。もし我々が彼らの支援をこのプロセスで獲得できなければ、我々は勝利できない」と。

軍事的なツールと非軍事的なツールをどう混ぜるかという問題─「包括的アプローチ」─が大西洋の両岸の戦略家の心中を占めている。米英は兵士を助けるために送られる民間の専門家の「予備」を結成する計画である。

この点で欧州連合はアメリカにもっと魅力的に見え始めている。欧州連合は既に経済援助と反腐敗トレーニング、警察、憲兵スタイルの作戦、選挙監視、他の国家建設のためのツールを結合させている。欧州連合は現在世界中で12のESDPの作戦を展開中ないし計画中であるが、ほとんどが警察や法の支配に関わる活動だ。しかし軍事的野心も増大しつつある。欧州連合はボスニアでPKFを展開し、ダルフール国境で警察活動をすべくチャドに3700人の兵士を送りつつある。

欧州連合は戦闘グループ(?battlegroups)の交代制も設置した。ノルウェーの戦闘グループのような部隊は統合のモデルである。小規模ではあるが、多くの専門家はこの戦闘グループは危機管理により役立つツールであると考えている。

欧州の無様なかたち
アメリカはこうしたリソースに頼りたいと考え、独立した欧州司令部に対するタブーを再考する用意があるように見える。イギリスもそうした組織をSHAPEに付属し、NATOのラベルを与えることを提唱している。NATOの頭でっかちな構造を簡素化し、その指揮権の一部をコンバートすることを提唱するアメリカ人もいる。欧州連合の役人は非軍事的な技術を利用する目的ならば、ブリュッセルに本部を設置するのがいいと答えている。フランスの国防大臣のエルヴェ・モランは欧州は軍事的影響力をもつべきで、「NATOの民生部門」ではないと言う。

NATOと欧州連合は多くの点で同じ団体の2つの腕である。21のメンバーを共有し、ブリュッセルに本部がある。欧州連合はNATOの保護下で発展したし、ベルリンの壁の崩壊後はかつての共産主義国の統合は共通の冒険であった。NATOのメンバーになることはたいてい欧州連合への参加に先行してきた。

しかしフィットしないギアのようにこの2つの団体はうまくかみ合わない。アメリカとの関係の設定は、キプロスの紛争やトルコの欧州連合内の位置の問題と同様に、閉塞を明らかにするだけである。キプロス政府はトルコを欧州防衛の団体から排除しようとするし、トルコはキプロスが代表になるならばNATOが欧州連合と結合することを禁じようとする。

その結果が危険な不条理だ。NATOと欧州連合はボスニアについて語るばかりで、NATOはアフガニスタンでの欧州連合の警察活動に保護を提供しないのだ。コソボでもNATOの平和維持活動と欧州連合の法の支配の活動に間にいかなる協定もない。両者は非公式に協力するが、重要文書は「テーブルの下で」交換されるだけだ。キプロスの新たな大統領選挙や平和交渉の約束は官僚同士の接触を滑らかにするかもしれない。しかしトルコの欧州連合のメンバーシップが疑問視されているうちはこれ以上の決裂があるだろう。

欧州の境界が至る所で問題を生み出している。アルバニアとクロアチアはブカレストでNATO加盟に招かれるようだが、ギリシアは国名紛争ゆえにマケドニアの加盟を保留している。アメリカはさらに進んで、NATOの加盟プランをウクライナやグルジアへと拡大することを望んでいる。アメリカと元共産主義諸国はこれを新興民主主義国の安定手段と見ているが、ドイツはウクライナの世論が分裂していることを理由に反対している。グルジアの民主主義の信任も疑わしいし、アブハジア、南オセチアをめぐる領土紛争も未解決のままだ。

クレムリンはNATO拡大を侮辱とみなしている。ドイツと他のいくつかの国は大統領がプーチンからメドベージェフに変わろうとする時にロシアを刺激したくない。ロシアとの直接対決に引き込まれるような国々へNATOの相互防衛の約束を拡大するという考えを好むメンバーはほとんどいないのだ。

悪い隣人達
プーチン氏はNATOの気の進まないゲストになるだろう。彼は新冷戦の恐怖をふりまくのに多くのことをなした。彼は自国で民主主義を抑圧し、対外的にも攻撃的に行動した。

ロシアは欧州の通常兵力を限定する条約を停止した。またもしアメリカのミサイル防衛を受け入れるのに同意したならばポーランドとチェコを核ミサイルの標的にすると威嚇した。ロシアは隣人への供給を停止することでオイルとガスを政治的武器として利用した。ますますコソボの独立からイランへの制裁まで欧州の利害の関わる問題で妨害者の役を演じている。

プーチン氏は不快なナショナリストのロゴージンをNATOの大使として派遣した。ロゴージン氏のオフィスはソ連時代の赤軍の戦車を率いるスターリンのポスターで飾られている。ロシアは良好な関係を望んでいるが、NATOがその友好を阻害しているのだと彼は言う。

西側の外交官はロシアのいじめ戦術はバックファイアを呼び、欧州人により強硬な立場を採用させるものだと論じている。バルカン諸国のような直接の隣人を恐怖に陥らせる一方で、ロシアはNATOへの通常の軍事的脅威となっているわけではない。がかつて中立だったフィンランドもスウェーデンもNATO参加を語りつつある。

新たな「戦略概念」を描いてNATOを再編成する必要についてブカレストで多くの事柄が語られるだろう。しかしアフガニスタンにおけるNATOの困難、さらには失敗の可能性にもかかわらず、ロシアの恫喝は同盟国が結束する明瞭な理由を提供することになるかもしれない。

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がんばれイタリア

さて北朝鮮お家芸のミサイル発射ですが、韓国新政権への挑発のようです。アメリカの対北朝鮮政策も微妙な時期にきているようなのでこれはそれなりに重要な局面になるのかもしれません。

北の韓国圧迫は対米交渉への備えか(上)同(下)[朝鮮日報]
朝鮮日報のこの記事ではこれまでの事例から北が対米交渉を有利に進めるべく米韓への圧力を低レベルから中レベルへ上げて緊張を高めようとしているとの分析。南北関係はしばらく膠着するだろうとの予測をしています。また軍事専門家の中にはいつもの日本海ではなく中国を刺激するかもしれない黄海への発射である点を重視する人もいるようです。

またこれと連動するように例の開城工業団地から韓国側当局者11人を撤収させた模様です。
韓国に対し物理的行動を取り始めた北朝鮮(上)同(下)[朝鮮日報]
朝鮮日報の社説ですが、この行動は統一部長官の「核問題の解決なしに工業団地の拡大は難しい」との発言への対抗措置と見られているようです。韓国新政権が原則論的な対応をとり始めていることへの意趣返しなんでしょう。社説は核放棄を求めて進め、ひるむな、韓国国民よ、ここは堪えどころだと叱咤する内容です。

最後に北朝鮮情勢についてあまり信頼に値しないニュースを報じてきたBBCですが、新政権の対北朝鮮外交についてハト派の北朝鮮ウォッチャーのフォスター・カーター氏の記事。太陽政策を支持してきた人ですから軽く動揺入っています。Sunset for Korean Sunshine Policy?[BBC]

どうやら多少の時間的余裕はありそうですから、韓国新政権と協力するのはもちろんのこと、国内でやるべきことはいい加減やらないといけないでしょう。誰がやるかって?むー、となるのが哀しいところです。

PS. シリア空爆の対象が「北朝鮮支援の核施設」であったとイスラエルのオルメルト首相が福田首相に語ったというニュースが出ましたね。いよいよという感じでありますが、今のところ朝日しか報じていないのはなぜ?


我らがイタリアではベルルスコーニがまた返りざきそうな模様です。Economistの解説記事がありました。経済ボロボロ、政治は停滞、改革も進まずと絶不調なイタリアですが、今回の選挙では新たな変化が見られるとのこと。由緒あるプリンセスでローマ教皇とも知り合いの熱心なカトリックで有名なアレッサンドラ・ボルゲーゼさんの「わたしはこの国の再生に貢献したいの」というセリフからはじまるこの記事ですが、「カースト」などと呼ばれる年寄りの白人男性ばかりのクローニー的な政治家階級への不満が高まり、各政党が若手の候補を大量に立てているそうです。ベルトローニ党首率いる中道左派の民主党の候補者の30%は40才以下、42%が女性、一方自由の人民を率いるベルルスコーニ党首も元ショーガール達、モロッコ移民のリーダー格の女性などを引き入れ、閣僚の4分の1は女性にすると約束するといった具合に若返りと女性候補を全面に出して選挙戦を戦っている模様です。世論調査では中道左派のプロディー政権の不人気から中道右派がリードしているそうです。ベルトローニ氏はイタリアのオバマだと言ってキャンペーンをしているものの演説の才能はないそうで、浮動票と右派のUDCの分裂に賭けるしかない状況で苦戦を強いられています。まあどちらになったとしても景況の悪化と財政赤字に苦しめられるだろうねと締めくくっています。イタリア政界のニュースを見るたびにどこかの国の姿とダブってしまうのはわたしだけでしょうか。

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満州国

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しばらく前に読んだJapan Focusに掲載されたシカゴ大学のPrasenjit Duaraという人の満州国に関する記事がありまして、けっこうあちこちで言及されているので紹介しておきます。これは実証史学的というよりも理論的な研究でかならずしも私の好みではないのですが、まあこんな議論もありますよと。流行の感のある帝国論の観点から満州国をどう理解するのかといった話です。

The New Imperialism and the Post-Colonial Developmental State: Manchukuo in comparative perspective

まずAnthony Pagdenという人が20世紀後半の帝国主義はむしろある種の連邦主義として理解すべきなのではないかという問題提起をしているのを紹介しています。19世紀的な主権国家、国民国家体制から定義し難い連邦的なものへの移行ということでPagdenの念頭にあるのは米国とEUの例ですが、これに対して論者はこの最初の完璧な例として満州国があるとしています。

論者によれば満州国は「新帝国主義」の完璧な事例であり、これはアメリカ、ソ連、そして日本において出現した帝国主義であり、ヨーロッパ列強の帝国主義とは異質であるといいます。以下Duara氏の提案する概念である「新帝国主義」の特徴が列挙されます。軍事的な従属を通じて帝国の辺境をコントロールしようとはするが、自らの似姿のような主権をもった国民国家を創造し、法的にこれを維持しようとする。反植民地主義的なイデオロギーを鼓吹し、経済的な投資を行い、制度やアイデンティティーの近代化を推進する。換言すれば、統治者と被統治者の間の差異化ではなく同一化の原理に立つ。さらに軍事的政治的側面と経済的側面との間には分離があり、従属国家は軍事的には従属するものの、宗主国は経済的にはかならずしもペイしないと。つまり産業主義的な宗主国と一次産品を提供する植民地といったような古典的な搾取理論にもとづく植民地主義の理解を超えているとします。また地域的なブロック志向であり、グローバルな覇権を獲得すべく域内で経済的自給自足を推進しようとすると特徴づけられています。このように日本の帝国経営が英仏のそれとは異質である点についてはこれまでも認識されてきたわけですが、これを米ソと同じ型と見るというのがDuara氏の認識枠組みのポイントになります。

日本の場合、この変化にあたって大きいのが反帝国主義的なナショナリズムとの遭遇であり、朝鮮の三一独立運動と中国の五四運動に直面した日本帝国は逆説的に反帝国主義的な言説である反西洋的な汎アジア主義を生み出すことになります。日本のナショナリストは西洋帝国主義や人種主義の犠牲者と自らをみなす一方で自らの帝国を形成しようしますが、文化的、人種的に連続的な人々の住む地域に帝国を形成する中で汎アジア主義のレトリックに自らが拘束されることになります。論者はこの「アジアの兄弟」という理念は現実を隠蔽する単なる煙幕というよりも新帝国主義の自己矛盾ととらえた方がいいとしています。これは正しく、理念と現実の乖離はもちろんあるわけですが、理念を軽視すると矛盾した行動の意味を解釈できなくなるでしょう。

論者は大英帝国やフランス帝国、あるいはナチス・ドイツの新秩序構想にもブロック志向はあったものの日本帝国のブロックはより機能的なものであると述べます。たとえばインドのGDPが1900年から1946年の間で年間1%以下であったのに対して、朝鮮は1915年から1940年の間で年間3%以上であり、1938年の大英帝国のインドに対する投資は一人当たり8ドルであったのに対して、日本の朝鮮に対する投資は一人当たり38ドルでした。この点は右派が肯定的側面として強調したがるところですが、もちろん価値評価ぬきで帝国経営の特徴としてただ広く認識されるべきでありましょう。

以下各論になりますが、重要な論点に即して日本帝国の歴史的展開を記述していきます。論点を列挙しますと、明治以来日本の帝国主義はナショナリズムによって正当化されるが、北東アジアは西洋列強に対する国防の「生命線」とみなされたこと、満州事変そのものは完全な断絶とはみなせないこと、満州事変に対して国民の圧倒的な支持があったこと、第一次世界大戦後に既に「戦略的自給」の概念が生まれていたこと(小磯国昭、松岡洋右の例)、また三一独立運動以後の朝鮮における「文治政治」もまた新帝国主義的であること(日鮮同治、共存共栄といったスローガン)、汎アジア主義が1920年代に広まる過程においてワシントン会議、海軍軍縮協定、アメリカの排日移民法が決定的であったこと(反人種主義感情)、満州において同盟者を得るため軍が汎アジア主義を採用したこと(石原莞爾の例)、1930年代にブロック理論が出現したこと(東亜連盟、東亜協同体、大東亜共栄圏へ)を追って説明しています。ここはこれまでの様々な研究のまとめ的な内容ですが、帝国の歴史を考える時、満州事変に先立つ第一次世界大戦が画期となるというのは正しいでしょう。また論者のように朝鮮における文治政治への転換もこの全体の流れに位置づけると理解しやすくなります。

次に家族的国家観の話に移ります。一般に新帝国主義における従属的同盟国ないし保護国は植民地とは異なり、その地位も流動的であると述べ、満州国が独立国家から「大東亜共栄圏の長男」へとその地位が変化したことを跡づけていきます。まず1940年に満州国皇帝溥儀が天皇の(異母の)弟として再生する儀礼を行ったという一見不可解な事例をとりあげていますが、この儀礼的関係は日本民族の雑種理論と合わせて考える必要があるとします。小熊英二氏によれば日本の「家族国家」のイデオロギーは日本のイエを理想化したもので、血統主義的な家系lineageとは異なり、部外者も養子として受け入れることが可能であったといいます。そして天皇の弟になるという先の例は従属的地位の下に入ることを象徴しているとします。またこの「兄弟」の理念は汎アジア主義においてもヒエラルキー的な「家族国家」に加わることを意味したと解釈しています。ここはやや微妙な感じもしました。実証主義的な研究が検証しないとイメージだけが一人歩きしそうな論点ですね。

以下、急激な産業化プロセス、現地の協会を用いた社会動員、五族協和の理念について詳述した後に結論になります。結論ではソ連の帝国主義(東欧の衛星国との関係)、アメリカの帝国主義(中南米との関係など)が日本と満州帝国の関係ときわめて類似していることを強調しています。いずれも古典的な「搾取型」ではなく「開発型」の帝国主義であり、グローバルな軍事的覇権の維持のために従属国家を単純な支配ではなく構造的に統合しようとします。またいずれも反植民地主義的なイデオロギーに駆動されるという自己矛盾を抱えている点が共通していると述べています。米国のモンロー主義と門戸開放の自己矛盾はよく知られるところでありますが、それが新帝国主義の段階に達するのはキューバ危機以降としています。国益と啓蒙主義と軍事的暴力の一体化したCarl Parriniのいう「超帝国主義」の出現であります。満州国自身が同時代の米ソの影響を受けているわけですが、第二次世界大戦以降出現する新帝国における開発主義的な従属国家の原型を先行的に実現したとされます。最後にナショナリズムを結局のところ克服できなかった日本帝国の前例は、今日のグローバル化、経済ブロック、地域形成の流れにとってdiscouragingな前例であるとしています。

内容は以上です。帝国主義という用語から脊髄反射するむきもあるかもしれませんが、マルクス主義的な議論ではありません。旧帝国と新帝国とを区別し、20世紀後半の米ソ両帝国に代表される新帝国的な秩序の完璧な前例として満州国をとらえるという発想ですが、いかがでしょう。わたしはこうした図式的な議論を好まないのですが、満州国の伝統的なナラティブにも飽き飽きしているのでその分だけ新鮮かなという感想を持ちました。ところで論者は言及していませんが、新帝国といった時に現在の中国を想起してしまうのはわたしだけではないでしょう。あれはやはり日本帝国の似姿なんですかねぇ。ふう。

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事件報道

メディア上を疑わしい言説がかけめぐり、それが政府の政策に歪みを与えるという現象はなにも今に始まったことではありません。かつてイデオロギーの横行した時代にはこの歪みはさらにひどいものだったはずです。とはいえ状況が改善しているとはとうてい言えない。現在において流言飛語にも等しい疑わしい言説が流通する理由は、主としてメディアが顧客たる視聴者の需要に応じて情報を供給するという剥き出しの市場の原理なのでしょう。

やや保守的とはいえ基本的に自由主義を奉じるわたしとしてはメディアの商業主義そのものをなじるつもりはありません。ただ一消費者として粗悪品が市場に出回るのはよくない、もっとちゃんと品質管理をしなさいとクレームをつける権利はあるわけです。なにが良質な言説であるのか判別する基準は難しいのですが、実証的であることというのは数あるなかのひとつの基準となり得るでしょう。実証性とはなにかという哲学的な議論はパスでよろしくお願いします。ここで要求しているのはさほど高尚な話ではなく、社会面をにぎわす事件などについて識者やジャーナリストや占い師やその他素性の知れない人たちの疑わしいコメントばかりがついて、彼らをシャットアウトしろとは言いませんが、これを中和するようなコメントが出ないのはまずいだろうといった程度の話だからです。

こんな誰もが思ってはいるもののもはや言うのも野暮に思われるような話題をあらためてとりあげたのも若者論批判をテーマにされているリベラル派社会学者(?でいいですか)の後藤和智さんのこのエントリーを読んだからです。ここでは社会学者の宮台真司さんの若者論がやり玉にあげられています。援助交際やオウム事件の頃にメディアに華々しく登場したその姿を見てドストエフスキーの「悪霊」に出てきそうなタイプだなあとある種の感慨を覚えたのを記憶していますが、その後は大アジア主義の復活とかわけの分からない方向に向かわれてしまったようですね。それで後藤さんが90年代の彼の若者論がいかに実証性を欠いた議論だったのか、またそれがいかに有害だったのか、すなわち学的批判と政治的批判の観点から宮台氏を難詰しています。

誰かが言っていましたが、90年代ぐらいから事件の際にコメントを求められる識者が進歩的文化人から心理学者や社会学者に変化したそうなんですが、この学者たちの言うことがなぜうさんくさいのかが問題になるわけです。占い師と言っていることが変わらないわけですが学的に粉飾されているだけ有害だと思います。天然の人と確信犯がいると思われますが、宮台氏は後者でしょうね。意図はともかく政治的効果ということでは同じことです。ごく一部の若者をとりあげては「危険で理解不能な若者」というステレオタイプをつくり、それが行政の青少年対策に大きな影響を与えたわけですから。

この若者論の問題は犯罪報道の問題と密接に結びついています。犯罪報道の問題点については識者によってずいぶん指摘されていますが、このブログが分かりやすいでしょうか。要するに凶悪犯罪は全体として増加するどころか減少している。残酷な青少年犯罪など昔からあった。治安はまったく悪化していないどころか良くなっている。にもかかわらず国民の「体感治安」が劇的に悪化しているのはメディアが稀少な凶悪犯罪を微に入り細に入りしゃぶりつくすまで連日報道していることにあるからだという見解がどうやらリベラルな犯罪学者の間の合意になっているようです。つまりメディアが抑制的な報道を行い、統計資料にもとづいた科学的な議論が正しく啓蒙されてきたならば、ここまで歪んだ社会像が蔓延することはなかったと。ここにも微妙な政治があるのかもしれませんが、おおよそ正しいのでしょう。もっともメディアばかりのせいなのかは考えなくてはいけないでしょうが。

いずれにせよメディア化し情報化した社会において疑わしい言説が疑心暗鬼と不安心理ばかりを増幅しているというわけです。これは世界的な現象でありましょうが、日本はこの点でやや特異なんじゃないかなと思います。日本特殊論はいやなんですが、外国人が驚くのはなぜ日本のメディアは事件報道ばかりしているのかという点だそうです。なぜ日本のメディアで事件報道が多いのか(これも実証的なデータが必要ですが)の理由として、ひとつにはどんなトリヴィアルなニュースも逃さないメディア網の稠密さ、もうひとつは治安秩序に対する伝統的な要求水準の高さがあげられるだろうかと思います。いろんな国に行きましたが、どう見ても日本は安全ですよ。これは請け合います。

あまり根拠のない怯えによって社会が動くというのは健全ではないだろうと思いますので、犯罪は減っている、治安はよくなっているということは、呪文のごとくメディア上で強調されてもいいと思います。今日もテレビを見ていて、事件そのものはご遺族の気持ちを考えればやり切れなくなるものですが、三輪さん、そんな心配しなくとも凶暴な若者は稀少ですからご安心くださいね、霊的なものとかたぶん関係ないんですよ、と言いたくなりました。右派の政治家や評論家がまた道徳教育とか宗教教育とか叫び出さなければいいんですがね。残念ながら凶暴な人間が確率的に出現するという現実はそう動かせそうにないですし、淡々とどう対処すればいいのか考えるほかなく、大騒ぎしても無駄だというある種の諦念と実際思考が必要なのでしょう。

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道州制に関するメモ(3)

九州の事例を紹介しましたが、北海道もまた道州制の実現にむけて積極的な姿勢で知られていますね。日本の両端から大きな声があがっているわけです。どちらも地理的な完結性をもっている点で共通していますが、地域意識も重要なのでしょう。「日本のアメリカ」とも言われる北海道が他の地域とは異なったその歴史的成り立ちから特有の地域性を保持していることはあらためて指摘するまでもないでしょう。なにか感覚が違いますよね、北海道出身者と話していて感じることがあります。

北海道は自らを道州制のパイロット地域と位置づけ、その先行的な実現を求めています。新たな行政区の画定が必要ないですから「縦の区割り」だけでいい、道州制の実現は最短コースとなるわけです。それだけ導入しやすい。また北海道が重要なのは九州に比べて経済的に弱い地域である点です。夢みる九州に対べて、北海道はより厳しい認識をもってなお道州制の実現を求めているわけです。地方分権化や道州制論に対してそれは「地方の切り捨て」だという左右の国家主義者からの批判があるわけですが、この点において厳しい財政事情の北海道のケースは注目に値するでしょう。

北海道庁のHPが道州制に関して詳細なコーナーを設けていますが、そこにあったこのPDFは北海道の思考を端的に伝えていると思われます。まず「官治的」な地方分権ではなく、住民自治の拡充を目指すとのことですが、地域間の経済格差、財政格差がある以上、自己完結型の道州制論(九州の「自律経済圏」)には立てないと述べています。そのうち2点についてだけ紹介します。ひとつは「縦の区割り」の問題、もうひとつは財政問題についてです。

先に述べましたように、北海道の場合は「横の区割り」は必要ない。国、道、市町村の役割分担だけに論点は集約されます。北海道の考える役割分担は、

・国の役割
外交、国防、社会保障
・道の役割
警察、高等教育、都市計画、産業政策、電源開発、金融、運輸、雇用、環境対策
・市町村の役割
消防、初等中等教育、都市計画、保健福祉、公衆衛生

といった感じで九州と同じく「ラディカルな」分権論に近いと言えます。法的には連邦制ではないが、実質的にはそれに近いイメージです。また公共事業に関しても国からのバラマキでなく道や市町村レベルで主体的に行うのが望ましいと述べられています。

次に財政問題ですが、まず北海道は財政力指数で全国的に下位にあり、市町村レベルでも自主財源でまわっているのはわずかというシビアな現状であります。97年と古い統計ですが、地方税収入が18%に対して地方交付税が23%、国庫支出金が22%とのこと。ふう。税源移譲した場合のシミュレーションによれば、移譲額は現在の交付税より1兆円低くなってしまうとこのこと。ふう。

というわけで経済的に完全に自立するのは無理なわけです。それで財源をどうするのかという問題になりますが、まず同州間での水平的財政調整モデルが挙げられています。各州間で所得移転をするやり方でドイツ連邦で採用されているそうです。ところが試算してみるとこの方式でも財政はもたないようです。それでどうするかですが、国庫支出金は全廃、また特定財源(いわゆるヒモつき財源)も可能な限り減らす必要がある述べ、地方税と地方交付税のふたつで構成される財政を理想型として提出しています。根拠はどちらも地方自治体の自由裁量が認められている一般財源であり、地方自治の理念からいって望ましいからであるとしています。

以下ややテクニカルになりますが、地方交付税のあり方についても現状維持でよしとはせず、現在の補助金化したあり方を改革すること、簡素化することで財政調整機能を充実させた新たな交付税のあり方を提言しています。またこの新しい地方交付税が確立するまでは国庫支出金を廃止する代わりに暫定的に包括的補助金という制度にすべきだとしています。これはフィンランドの制度だそうで、国が支出項目を細かく決定せずに地方に任せる補助金のあり方だそうです。また建設事業に関して国庫支出金ではなく一括交付金にすべきだと述べていますが、これも同様の論理で、要は地方の裁量を大きくするということです。

「道州制は自主・自律のバラ色の未来ではなく、国の財政構造改革により公共事業が減少していく中で、公共事業に依存してきた地域社会と経済を支えるため自らに厳しい改革を課す取組ともなり得るのである」という言葉が端的に示しているように、厳しい改革の試練としてとらえています。

もちろん完全自立できないところに所得移転はなされるべきだと思いますが、その条件は透明性が確保されていること、効率的な経営がなされていることにあります。大都市圏の住民たちが怒っているのは非効率なバラマキであります。北海道の提言する新たな地方財政のあり方がそれに答えるものであるのかどうかはわたしの能力を超えています。経済学者や財政学者のみなさんの評価を読んでみたいところですね。

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道州制に関するメモ(2)

九州地方が明治維新および日本の近代化を推進する上で重要な役割を果たしたことについてはいまさら強調するまでもないことです。それに先立つ幕藩体制下においても先見の明をもった藩主の下で多様な政治的、経済的実験が試みられたことでも知られるお国柄です。この進取の気性に富んだ地方が件の道州制論議をリードしていることも頷ける話であります。中央からの議論ばかりでなく、地方からの議論が活発化するのがいいと書きましたが、麻生氏の道州制論は九州発の議論なんですよね。

九州知事会および九経連が提唱している「九州モデル」は今後の道州制議論に大きな影響を与える可能性を秘めたものとして注目されていますが、わたしの関心に引き寄せてその一部を紹介しておきます。いろいろなソースがありますが、この九経連のPDFが包括的で分かりやすいでしょう。

九州が目指すべき道州制とは「自律的経済圏」を可能とする地方自治システムであるとし、5つの戦略を柱にしています。

(1)広域的な産業政策の展開
(2)競争力のある社会資本の蓄積
(3)人材力を高める教育の推進
(4)対外的な情報発信 PR戦略の強化
(5)広域的な生活環境の整備

それぞれ要点だけ述べると、
(1)これまで県や市町村単位で行ってきた非効率な産業政策を改め、州政策として産業クラスターの形成をすすめる。既存の半導体、自動車、環境産業のクラスターに加えて、ロボットやバイオテクノロジーの産業集積を推進する。
(2)循環型高速交通体系の整備、港湾、空港整備による域外ネットワークの形成をすすめる。財政事情を勘案して選択と集中の原則により効率的なネットワークを構築する。
(3)半導体、バイオテクノロジーなどの分野での産学連携を進め、海外との連携を強化するために語学力の強化をはかる。ドイツの州立大学のモデルを挙げています。
(4)アジアからの観光客の受け入れ、アジア企業の誘致をサポートする。
(5)州の観点からの交通計画や都市計画、九州独自の環境政策、防災、救急、消防エリアの再編成をすすめる。

特に重要なのが、国、州、市町村の役割分担です。空間的な区割りでなく、「縦の区割り」ですね。ここで提唱されているのはわたしの望む「ラディカルな」分権論に近いものです。これによると、

・国の役割
   外交、防衛、国全体の治安維持に関わること
   一律の基準が必要な分野(法律、金融、社会保障)
   広範囲にわたる大規模プロジェクト、政策等
・州の役割
   域内の治安維持、災害対策に関わること
   域内の国土、環境保全
   広範囲にわたる社会資本整備の計画
   地域の特性を活かした教育
   競争力をもつ産業の育成
   地域の実情に沿った雇用政策
・市町村の役割
   住民生活と密接に関わる分野
   医療、福祉に関わる分野
   下水道、公園、街路の整備やまちづくり

最後に道州制への移行については漸次的なアプローチを主張しています。まず地方分権の推進、県間連携の強化、市町村機能の強化の段階、次に、県連合の形成の段階、最後に州への移行です。順序論としては基本的に正しいと思いますが、この過程では激しい権限と利権をめぐる角逐がみられるでしょう。期限を切って強力に押し進めていかないといけないでしょうね。

日経連は全国一律ではなく九州先行で道州制の導入を求めているようです。成功例をつくることが肝要なのかもしれませんが、九州は「自律的経済圏」の形成におそらく成功するでしょう、それだけの潜在力がある。まあ夢があっていいですね。

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党派性

これはチベット人の歴史的悲劇とは無関係な極東の島国における退屈な光景についてのメモです。

このたびのチベットの争乱に対する日本の民間のリアクションの大方が予想通りいまだに深く冷戦期のイデオロギー的枠組みにとらわれていることに嘆息させられる一方で、そこから抜け出た言動もあちこちで見られることにいくばくかの希望を感じています。この枠組みについてリベラル左派の教育学者の内藤朝雄氏が中国政府への抗議のメッセージの中で「論点抱き合わせセット」という表現を用いてその硬直ぶりを批判しています。

左派と右派の言動が合わせ鏡的な関係にあり、一方がこう言うから、他方はこう言うというような相対的な位置取り合戦のごとき様相を呈していることへの批判です。これが個人が自分の名において率直な意見を表明することに対して抑圧的に機能しているわけです。もう少し具体的に言うと、各論点ごとに意見が違うのは当たり前な話なはずなのに、なぜか安全保障について現実的な議論のできる左派とか、人権トークのできる右派みたいな存在が稀少であるという問題です。

今回の件で言えば右派と一緒になりたくないという消極的理由(あるいはイデオロギー的積極的加担)から普段人権を訴えているのにこの件を無視してやり過ごそうとしたり(こんなまとめサイトもありますね)、相殺論的にアメリカ批判で話を逸らしたり、ひどい場合には無理な中国擁護をしたりする態度のことです。もちろん中国を攻撃するチャンスができたといってはしゃいでいる悪質な連中も論外であることは言うまでもありません。そこではチベットは記号としてしか存在していないわけですから。もうまとめて地獄に落ちよと言いたい。

一方でそうしたあいかわらずの枠組みから切断した形でチベットへの共感が広まっている印象も受けます。成熟した民主主義国の国民がごく普通に備えているはずの感受性にもとづいた自然発生的な動きです。まだナイーブでおずおずとしたものであるように見えますが、あまり独善的でないという点をむしろ評価したいです。こうした感受性が既存の政治運動の文脈に回収されずに、またそれを動揺させるものとして静かに成長することを希望します。

PS 一応注記しておきますが、この件で中国政府を批判しなければ偽の平和団体だとか偽の人権団体だとかまでは言いません。それぞれの団体にはそれぞれのアジェンダがあるでしょうから。ただなぜ古いタイプの日本の市民運動がこれだけうさんくさい目で見られているのかもう少し反省的であってもいいはずです。単なる偏見だけではないのですよ。

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ふう

正直に言いましてこれまであんまりその活動を評価していなかったアムネスティー・インターナショナル・ジャパンですが、今回のチベットの争乱に関してアクションをしていましたので、その主旨に賛同し、要請書を印刷、署名してそれぞれ日本政府宛てと中国国家主席宛ての書簡を送りました。恥ずかしながらよく知りませんでしたが、チベットのサポート・グループというのは日本にもけっこうありますね。

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道州制に関するメモ(1)

区割りの議論の例としてWikipediaからフォトをコピペしておきます。これは内閣総理大臣の諮問機関である地方制度調査会が2006年に発表した「道州制のあり方に関する答申」の案です。上からそれぞれ9道州制、11道州制、13道州制のプランです。他に経団連が10程度、大前研一氏が12道州制のプランを出しているようですね。各州のGDPのデータがWikipediaには記載されています。

これを眺めているとそれだけでいろいろ考えさせられて楽しいのですが、そこが区割りの議論の危うさかもしれません。実際、道州制の議論で一番大切なのは中央と地方の権限の画定にあるわけですから。単に行政区画の組み替えで中央集権が維持されるようならば地方の政治的、経済的成熟は期待できそうにない。区割りについても現在の行政単位の単なる足し算ではなく、住民のニーズに答えるためにも都市間ネットワークの構造をベースに考えていく必要があるのでしょう。そのためにも中央からの議論ばかりでなく地方からの議論が活発化するのが望ましい。

ナショナルミニマムの維持は言うまでもないですが、わたし自身は中央政府は主として外交、安全保障を扱い、それ以外の分野は地方政府が自主的に行うという「ラディカルな」枠組みが好ましいと思っています。となると区割りは4つとか5つとか大きなものになるのでしょうか。いずれにせよそうとう戦略的にやらないと中途半端な結果に終わりそうな予感がします。手順論が重要になるでしょうね。300pxregion_system9
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MANGA

批評家の東浩紀さんがパリで「マンガ、60年後」という会議に出席するようです。このイベントにちなんで日仏語併記のブログがつくられています。中身は今のところそれほど濃いものではないですね。そのうち更新されていくんでしょうか。

フランスにおけるマンガのプレゼンスはそれはなかなか凄いものがあります。量的に言えばアメリカのほうが売り上げは多いようですが、おそらくは趣味人の間での消費という印象を受けます。一方、フランスではもっと普通に消費されている印象があります。町の小さな本屋にもかならず置いてありますし、パーキングエリアの売店みたいなところでも売っています。

ネットでは例えばskyblogというブログサービスがありますが、ここは主としてティーンエイジャーが身辺雑記や自分の趣味や交遊関係なんかを熱心に書いているサービスとして有名です。ブログというよりもソーシャル・ネットワークに近い印象を受けます。でマンガやアニメやゲームやJ-POPやアイドルなんかの名前を検索すると、でるはでるはということでライトな層からディープな層まで高校生の日常の中に定着しているんだなという印象を受けます。

というわけですっかり日常的風景の中に日本のサブカルが浸透しています。政治家や教育関係者がたまにヒステリーおこしたりしますが、道徳主義的抵抗感は北米よりは薄い感じがします。それはこの国が外国文化を異文化として愛でる帝国的余裕を持っているということがひとつ、それから道徳に関して二元論的な峻厳さをはぐらかすというか相対化する傾向がその風土に存在していることがあるのかもしれません。清濁合わせ飲むといいますか、カトリック圏なんだかラテン圏なんだか分かりませんが、特有の包容力というのがあるような気がします。まあ、あまりにコアなオタクアニメみたいなものは日本同様にやばいという目で見られてはいますよ、もちろん。

それはともかく東浩紀さんはむかーし「存在論的、郵便的」を読んで以来、その活動を追っていませんのでオタク関係の業績については知りません。だからこのブログの記述だけからの印象になりますが、どういう対話になるんだろう、話が通じるかなと思います。東さんは自分はフランスそのものではなく英語圏経由で日本の批評の文脈でポストモダニズムを学んだと正直に書いていますが、この文脈はフランスからはほとんど見えないものだからです。フランスでは68年の思想ということでうさんくさい目で見られることが多いとはいえ、最近では英語圏から逆輸入しようとする若い世代の人間もいるみたいですから、そういう文脈で受容されるんでしょうかね。わたしはフランス現代思想とかアメリカの文化左翼とかいうのがどうも苦手なのですが、素材がマンガという身近なメディアですから、とりあえずどんな対話が可能なのか、そこではどんな理解と誤解が生じるのかという一点だけに興味があるので成り行きを見守りたいと思います。

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道州制についての中間報告

総務省の私的懇談会である「道州制ビジョン懇談会」が中間報告をとりまとめて総務相に提出したとのこと。以下、読売の記事です。

増田総務相の私的懇談会「道州制ビジョン懇談会」(座長・江口克彦PHP総合研究所社長)は24日、中間報告を取りまとめ、総務相に提出した。

国と道州、基礎自治体の役割分担を明確に規定した上で、2011年までに「道州制基本法」(仮称)を制定し、18年までに道州制に完全移行するよう提言した。

焦点だった道州の区割りと税財政制度については、専門委員会を設置して検討するとし、09年度中にまとめる最終報告に結論を先送りした。

中間報告では、「中央集権体制が日本を衰退させている」と分析、各地域が繁栄の拠点として活力を回復できる新しい体制整備が必要だとした。中央政府の権限を限定し、地域で生活や地域振興を独自決定できるよう「地域主権型道州制」への転換により、道州間の「善政競争」が促進され、日本全体に活気がよみがえるとしている。

具体的には、国の役割は外交や大規模災害対策など16項目を基本とし、道州は広域の公共事業や市町村間の財政格差の調整などを行う。福祉、教育、都市計画など身近な行政サービスは基礎自治体が実施。国と道州間の行財政の調整は「国・道州連絡協議会」(仮称)が担うとした。道州の組織面では「広範な自主立法権を持つ1院制議会」を設置、首長、議員は直接選挙で選ぶ。課税自主権を与え、道州債の発行も可能とする。道州制移行は全国一律が望ましいとし、基本法制定後、首相を長とする「道州制諮問会議」(仮称)を設置するとした。

この懇談会のサイトでこれまでの議事録が公開されています。そのうち目を通しましょう。国と道州政府との権限の画定が焦点になるのでしょうが、中央官僚の猛攻が予想されます。わたしは分権論者ですのでこの動きが失速しないことを願っています。

政界のキーマンでは麻生氏が少し前にVoiceに道州制についての未来のヴィジョンを論じています。なかなか痛快なヴィジョンにみえてくるのがたいしたものです。ちなみに左派からは民族主義者のレッテルをはられがちですが、そのプレゼン能力と卓越した交渉力を買っているわたしとしては残念なことだなと思っています。閣下、くれぐれも失言にご注意ください。

日本自由主義界の雄、石橋湛山の言葉を引用しておきます。普通のことを言っているだけなのでなにも湛山の権威を借りることもないのですが、言っていることが今とあんまり変わらないなあという感想です。第二維新ですか、そう思うと夢が膨らもうではないですか。

元来、我が行政組織は、維新革命の勝利者が、いわゆる官僚政治の形において、新社会制度の下において、国民を指導誘掖する建て前の上に発達し来ったものである。であるから、役人畑に育て上げられた官僚が、国民の支配者として、国民の指導者として、国運進退の一切の責任を荷なうという制度に、自然ならざるを得なかった。これ、我が政治が国民の政治でなくて官僚の政治であり、我が役人が国民の公僕でなくて国民の支配者である所以であり、我が行政制度が世界に稀な中央集権主義であり、画一主義的である根因である。

[...]
元来官僚が国民を指導するというが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。国民一般が一人前に発達したる後においては、政治は必然に国民によって行なわるべきであり、役人は国民の公僕に帰るべきである。而して、政治が国民自らの手に帰するとは、一はかくして最もよくその要求を達成し得る政治を行い、一はかくして最もよくその政治を監督し得る意味にほかならない。このためには、政治は出来るだけ地方分権でならなくてはならぬ。出来るだけその地方の要求に応じ得るものでなくてはならぬ。現に活社会に敏腕を振いつつある最も優秀の人材を自由に行政の中心に立たしめ得る制度でなくてはならぬ。ここに勢い、これまでの官僚的制度につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義(特に文官任用令の如き)というが如き行政制度は、根本的改革の必要に迫られざるを得ない。

[...]
今や我が国はあらゆる方面に行詰まってきた。而してこの局面を打開して、再び我が国の国運の進退を図るためには、我輩がこれまで繰り返し言える如く、いわゆる第二維新を必要とする。而していわゆる第二維新のため、就中この際最も必要なることは、国民の聡明と努力とを組織化して、最も有効にこれを利用することである。

[...]
古き革袋に新しき酒は盛られない。我が現在の息詰まりを打開する第二維新の第一歩は、政治の中央集権、画一主義、官僚主義を破殻して、徹底せる分権主義を採用することである。この主義の下に行政の一大改革を行うことである。
「行政改革の根本主義 中央集権から分権主義へ」(大正13年9月6日号東洋経済新報社説)

PS 毎日の記事が道州制論議の見取り図を提供してくれます。これによると現在の焦点は「区割り」で、道州制ビジョン懇談会は2年以内に結論を出すということで問題を先送りしたそうです。他に自民党の調査会の案や経団連の案など様々な構想がせめぎあっていて混沌とした状況である模様。

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フランス世論

Gondoletibet

このブログをフランス関連ブログにするつもりはないのですが、前エントリーで政府の対応についてル・モンドの批判社説をのせましたので、バランスをとるべく世論調査結果について紹介しておきます。

世論調査によれば、北京オリンピック開会式の政治的ボイコットに賛成が多く、スポーツのボイコットには反対が多いという結果がでました。CSAの調査によれば、53%のフランス国民が「中国の人権状況に抗議するために」サルコジ大統領による開会式ボイコットに賛成(42%が反対)であるそうです。一方でスポーツ選手のボイコットについては41%が賛成であるものの、55%は不賛成とのこと。IFOPの調査でも同様で、「フランスは北京オリンピックをボイコットすべきだと思うか」という質問に、60%が「いいえ」、39%が「はい」、1%が無回答という答えだったそうです。反対に、54%が「フランスの指導者は開会式をボイコットすべきである」と考え、45%がこれに反対し、1%が無回答だったそうです。また「フランスのアスリートはオリンピック期間中中国における人権軽視に反対の意思を示すべきだ」と55%が考え、45%がそれに同意しないという結果だったとのこと。

さらに68%が「IOC委員長のジャック・ロッジは人権軽視に関して中国を公的に非難すべきである」と考え、32%がこれに反対という調査結果もあります。また国民の84%が「IOCは人権を尊重しない国の組織参加を防ぐべくオリンピック憲章を書き換えるべきである」と評価しているそうです。

政界では社会党のジャック・ラングが日曜夜にベルナール・クシュネル外相はチベットに関して自制すべきでなく、ニコラ・サルコジはこの地域における「中国の残虐行為」に対してイニシアティブをとるよう要求しました。「ベルナールよ、君は君が生涯をかけて戦ってきた核心的なテーマについて自制的態度を捨てるべきだ」とテレビ番組の中で述べたとのこと。このクシュネル外相はあの国境なき医師団の設立者の一人でして、ホンモノ人道活動家であります。個人としての信念とフランス外相としての職務の間で彼は今ひじょうにきつい立場に置かれているものと推察されます。

PS 世論の圧力を受けて政府の動きも少し変化しつつあるようです。大統領サルコジ氏が暴力を停止するよう要請し、ダライ・ラマと中国政府との仲介役を演じる旨公表し、人権担当相ラマ氏がダライ・ラマをハイレベルで歓待する旨述べたそうです。またサルコジは開会式ボイコットの可能性にも言及しています。根性みせろよ!

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中国批判を回避するフランス

このたびのチベットにおける事変に関して各国政府の対応が非常に及び腰であることについては広く指摘されている通りです。メディアや市民レベルでの抗議の声が高まる一方で、自由や人権や民主主義を看板に掲げているはずの国々の政府が対応に苦慮している様は情けないの一言に尽きますが、これも現実です。溜息。フランスはいつもの狡猾外交でしょうか。メルケルがけなげに見えてきます。もっともここでいう北京の権力中枢の「強硬派」と「穏健派」の対立という枠組みはリアリティーがありますが。以下、3月21日のル・モンド社説の翻訳です。粗い訳ですので読みにくいかもしれません。ご寛恕願います。

「フランスはチベットについて中国批判を避ける」

北京との「戦略的かつ包括的なパートナーシップ」の維持への配慮として、フランスはチベットの事変を前にして他のヨーロッパ諸国に比べて控えめな態度をとった。この20年来の「自治区」における中国の治安部隊によって遂行された最悪の弾圧の波に抗議するためにパリはいかなる具体的な手段もとっていない。チベットでは3月21日金曜に重要な軍事作戦が展開された。この一週間の暴力による死者は数百人にのぼるだろう。

フランスの態度は英国やドイツによってとられた立場と対照的であり、欧州が確固たる共通の立場をつくりあげる困難を示している。欧州連合は「各メンバー」に「慎み」を呼びかけるにとどまった。高貴な外交へと豹変した英国の首相のゴードン・ブラウンは水曜、5月にロンドンでダライ・ラマの訪問を受け入れると予告した。この予告は北京の強烈な非難をひき起こした。ベルリンは同じ日にチベット情勢への抗議の印として「(経済的)発展」の問題に関して中国との二国間交渉の凍結を告げた。

かくしてニコラ・サルコジの外交はチベット危機によりデリケートな立場に立たされることになる。一方で重要な経済的な契約が調印された2007年11月の北京訪問の際もそうだったが、人権の擁護はこの国家元首の優先事項として示されたわけだから。

フランスの路線はジャーナリストのチベットへのアクセスを要求し、北京当局とダライ・ラマ─もっと過激な若い世代のチベット人を抑えるのに適任の穏健勢力とみなされる─との直接対話を呼びかけることにあった。

こうした支援はパリにハイレベルでチベットの精神的指導者を受け入れるという明瞭な措置をともなうものではない。その際ダライ・ラマはオリピック期間の8月に数日間滞在するはずである。サルコジ氏は彼に会うのだろうか?この点を問われて、エリゼは金曜朝に答えた。「その問題はあらゆる変数に応じて来るべき時に解決される」と。ダライ・ラマは2007年9月にドイツ首相アンゲラ・メルケルに歓迎されたが、これは数ヶ月にわたる北京との外交的危機をひき起こした。

最も深刻な弾圧は終了し、チベットに秩序が再建されつつあり、批判を強めることで北京の権力の強硬派を利するよりも、北京の「穏健派」がチベット問題を把握し、対話に取り組む「事後の」局面を待つほうがよい、とエリゼでは説明されている。「フランスは中国に賭けている」とサルコジ氏の周辺は強調している。彼らの間ではダルフールやイランの核のような問題に関して北京との協力が祝福されてきたのだった。

フランスは他のヨーロッパ諸国、とりわけドイツとは反対に1989年の天安門虐殺の直後に決定された中国への武器輸出禁止の解禁に好意的であるとエリゼは確認している。北京へのもうひとつの賭け金についてパリは木曜に台湾に関してその立場を繰り返した。「フランスにとって中国はひとつしかない。台湾は中国の一部である」とケ・ドルセー(外務省)は述べた。サルコジ氏は2007年11月に対中国外交は「ウィン・ウィン」の性質を帯びていると説明し、いくつかの点で中国を安心させて「率直に」語るための駆け引きの余地を残した。

しかしエリゼはチベットの事変に関していかなるコミュニケも行っていない。反対に、ドイツ外相のフランク・ヴァルター・シュテインマイヤーは3月16日に電話で中国外相と会談し、チベットでの暴力の停止を要求し、ゴードン・ブラウンは3月19日に中国首相温家宝と意見を交わした。

外務省のこの問題に関する「コミュニケーション」は流動的、さらには矛盾したもののように見えた。ベルナール・クシュネル外相はオリンピック開会式ボイコットの考えは「評価できる」といった後、それは「非現実的だ」と強調した。その後には彼はラサでの出来事にもかからず人権問題に関して「中国人はおどろくべき進歩をした」とコメントしたのだ。

ロンドンがチベットに関して急先鋒に立つ一方で、エリゼは人権担当相ラマ・ヤデに「国際社会はチベットの状況悪化から結論を引き出すだろう」と宣言させたが、具体的な行動についてなにも告げなかった。エリゼは「われわれのメッセージにいっそうの力を与える欧州連合の立場をプロモート」したいと述べている。いずれにせよサルコジ氏はオリンピックに出席することになる。11月26日に北京で胡錦涛国家主席の前でそう約束したのだから。

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在留管理制度

外国人の在留管理制度に関して法務省の諮問機関からの提言の内容が明らかにされた模様です。

外国人在留を5年に延長、管理厳格化を機に…法務省方針[読売]

外国人の在留管理制度の改善を検討してきた法相の諮問機関「出入国管理政策懇談会」(座長・木村孟(つとむ)大学評価・学位授与機構長)が月内に鳩山法相に提出する「新たな在留管理制度に関する提言」の全容が20日、明らかになった。

身分証となる「在留カード」を入国管理局が発行し、不法滞在対策などを強化する一方で、「在留期間の上限の延長」を盛り込んだのが柱だ。提言を受け、法務省は、原則3年が上限の現在の外国人の在留期間を5年に延長する方針だ。来年の通常国会に出入国管理・難民認定法などを改正する関連法案を提出する。

提言は、不法滞在外国人の増加などを受けて対策を講じるもので、〈1〉市区町村が発行する外国人登録証明書を廃止し、入管が「在留カード」を発行する〈2〉外国人に、在留期間中の勤務先などの変更を入管に届け出ることを義務づける〈3〉外国人の留学、研修先などの所属機関に在籍状況などの報告を義務づける——ことなどが柱となっている。国が在留管理を一元化し、厳格化する一方で、適法に在留する外国人の利便性を向上させることを目指している。

日本国内では、昨年10月の改正雇用対策法の施行により、外国人を雇用する事業主には、氏名、在留資格などをハローワークへ報告することが義務づけられ、在留管理が厳格化された。提言を受け、法務省は、この報告義務を、大学など他の所属機関にも拡大する。

外国人の在留期間は在留資格ごとに決まっており、「日本人の配偶者等」「企業内転勤」などの在留資格では、「1年または3年」となっている。最初は1年で、問題などが起きなければ、3年に延長されるのが一般的だ。5年に延長されれば、日本人の配偶者などの長期滞在の外国人は、在留期間更新手続きなどの負担が軽減される。

現在、外国人登録をして日本に滞在している外国人は、約208万5000人(2006年12月31日現在)。このうち、新たな在留管理制度の対象となるのは、「永住者」をはじめ、「日本人の配偶者等」「企業内転勤」の外国人などだ。

今回の提言は、「外交・公用」が目的で滞在する外国人や、「特別永住者」と呼ばれる在日韓国・朝鮮人(約44万人)などは対象としていない。

出入国管理政策懇談会は不法滞在外国人の増加などを受け、昨年2月に「在留管理専門部会」を設置。新たな在留管理制度について検討してきた。

記事にありますが、在留管理を国が一元的に把握しつつ、適法滞在者の利便性を向上するというのが今回の提言の眼目のようです。不法滞在者の増加や外国人労働者の搾取といった問題が既に発生している中で状況の透明性を高めていく必要があることは言うまでもないでしょうし、また適法在留者の存在は日本社会にとっても重要な人的リソースになるわけですから彼らの生活の利便性を高める必要があることもまた論をまたないでしょう。大きな方向性としてはそうするほかないという意味で現実的だろう、後は個々具体的な場面でどういう問題があるか考えていくべきなのだろうなという感想をもちました。

わたしは在日外国人のブログをよく覗くのですが、だいたい彼らの不平の根というのは些細なことなんですよね。わたしも外国に長期滞在したことがあるので分かりますが、手続き的な事柄の面倒くささというのが生活の上での最大の障害に感じられるものです。まして言語能力が低いとすれば。「在留カード」の携帯や呈示要求のあたりで反発するむきがあろうかと予測しますが、こうした問題は「技術的に」改善可能な問題に属していると思いますので無茶苦茶な要求をする勢力を周縁化しつつプラグマティックな解決を探していけばいいでしょう。

PS 問題となっている外国人研修制度に関して、鳩山法相による労働関係法令を適用すべきとの発言があったようです。これも必要な措置でありましょう。

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テリーブル

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フランスの新型ミサイル原潜「テリーブル(terrible)」の進水式がシェルブールで行われました。テリーブルの性能ですが、哀しいかな、その方面の知識がまったくなく、たしかに恐ろしげですねぇ、みたいなリアクションしかできませんので軍事に詳しい方にお任せします。そのうち出てくるでしょうね。

この進水式の席でサルコジ大統領がフランスの核ドクトリンについて新たな方針を述べた模様です。核戦略に関する最近の演説ではフランスの「死活的利害」を脅かす諸勢力に対する核報復の可能性を訴えた2006年のシラク前大統領のものが話題になりましたが、このたびの演説はそれに次ぐものです。ル・モンドの記事によれば、シラク演説が「死活的利害」を具体的に列挙したのがかえって論争を招いてしまったのを反省したのか、詳細な使用可能状況については言及しなかったそうです。サルコジによれば、核戦力は侵略国の経済的、政治的、軍事的な権力中枢に対する「正当防衛兵器」であり、それが向けられる対象は国家のみであると限定しています。以下、演説の骨子は産経の山口昌子さんの記事をそのまま引用します。

フランスのサルコジ大統領は21日、同国の航空核戦力を3分の2に縮小することで、核弾頭の総数を300以下に減らすことを明らかにした。核戦力をスリム化しながら、軍縮問題でフランスが主導権を握る姿勢も鮮明にした。

大統領は、仏北西部シェルブールの軍港での新型原子力潜水艦の進水式で防衛政策について演説。この中で、短・中距離の地対地ミサイル禁止条約や兵器用核分裂性物質生産禁止条約の交渉開始のほか、核分裂性物質の生産を即時停止することを提案した。

フランスの核抑止力戦略に関しては「軍縮の新措置を決めた」と述べ、核兵器やミサイル、核搭載航空機の数を3分の1削減することを言明。大統領は「この削減後、われわれの軍装備は核弾頭数が300以下となる。これは冷戦中にわれわれが保有していた最高期の核弾頭数の半数に当たる」と述べ、核弾頭を多数所持している米露の削減を暗にうながした。米国は2006年のジュネーブ軍縮会議で、兵器用核分裂性物質生産禁止条約案を提示。フランスはこれを支持したが、具体化していない。

また大統領は、イランの核開発問題に言及して「欧州の安全が危険にさらされている」とも指摘。欧州全体の安全保障においてフランスの核抑止力が果たす役割について、欧州各国と対話することを提案した。

核戦力のスリム化、核軍縮問題でのフランスのイニシアティブ、イランの核開発への牽制、欧州安全保障におけるフランスの核抑止力の位置づけの4点を主張したようです。このうち核戦力のスリム化ですが、航空核戦力を3分の2に縮小する一方で戦略原潜に再配置するということのようです。これを核軍縮の議論につなげるわけですね。他の日本語ソースだと大胆な核軍縮に乗り出したみたいな印象を受けますが、それはちょっと違います。

またイランへの牽制とフランスの核抑止力の役割の強調は、4月のEUのサミットの席で予定されていると伝えられるNATOへの復帰の宣言につながる話であります。しばらく前にドイツのメルケル首相にフランスと核戦力を共有しないかとラブ・コールしたのも同じ流れです。まだ十分に見えてきませんが、どうやらフランスの安全保障政策も大幅に変更されることになりそうですね。ぐずぐずのNATOではありますが、さてサルコジのイニシアティブはどのような結果をもたらすのでしょうか。大西洋の距離は縮まるのか、はたまたフランスのエゴですったもんだの紛糾になるのか。4月のEUのサミットが興味深いです。

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マケドニア問題

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この旗がどこの国旗なのかご存知の方はそれほど多くはないと推測しますが、みなさまいかがでしょう。わたしは最近Coming Anarchyというサイトで知ったのですが、これはthe new sun of libertyと呼ばれるマケドニアの国旗です。またこの国に親近感を抱く日本人というのは稀少であろうと推測しますが、これもなにかのご縁でしょうか、この旗を見ているとなんとなく身近な存在に感じられるのが不思議なところです。

この旗がマケドニアの国旗になったのは1995年のことで、そこにいたるまでには隣国ギリシアとのごたごたがありました。マケドニアは旧ユーゴスラビア連邦の共和国のひとつでしたが、1991年の連邦解体とともに独立国家となり、Vergina Sunと呼ばれる類似の太陽モチーフの旗を国旗に選定したのですが、ギリシアはこの国旗の著作権を世界知的所有権機関(在ジュネーブ)に訴え出ました。国連の仲介で1995年に妥協が成立し、上の旭日旗(みたいなもの)に落ち着いて現在にいたっています。

問題はギリシアがこの国旗ばかりではなく、マケドニアという国名そのものの使用停止を求めていることにあります。現在マケドニアはEUやNATOへの参加を希望していますが、この国名問題がその障害となっています。遠くから見ているとなにやってんだかという感想を抱きますが、考えてみれば、われわれのすぐそばにも海の名前を変えろと躍起になっている国があるわけですから親近感がいや増そうというものではないですか。

わたしの巡回先のひとつにGlobal Voicesという世界各国のブログ界の議論を紹介しているサイトがあるのですが(もちろん日本のブログ界の議論もです)、このマケドニア呼称問題をめぐる議論の一端が紹介されていました。無体な要求にも見えるギリシア側の主張ですが、「マケドニア共和国」の呼称を使用することは、ギリシアの歴史、文化的な権利を侵害するものであり、またギリシア北部のマケドニア州に対する領土的主張を含意するものであるとのことです。そう、あの世界史で学ぶフィリッポス2世とアレキサンダー大王のマケドニアのことです。この名称はギリシア史に属するというのは果たして普遍妥当性をもつ主張でありましょうか。そのせいもあり、ギリシアと国連はこの国を「マケドニア」とは呼ばず、「旧ユーグスラビアのマケドニア共和国」と呼んでいるそうです。

Lucy Mooreさんは「この小さな国の名前としてはひどく長過ぎるけど、略してFYROM(長い名前の英語表記の略)と呼べるかも」とする一方で「紀元前3世紀の名前にこだわっているギリシアに比べれば、1389年のコソボに対するセルビアの主張が突然ずっと理に適っているように見えてくる」とその主張の妥当性に疑念を呈していますが、事情をよく知らないわたしも彼女に同意したくなります。ギリシアはNATO、そしてEU参加に対して国名を変更しない限りは拒否権を発動すると威嚇しており、EU拡大委員会も「この問題を解決できなければ、ネガティブな波及効果がある」と述べています。

もう少しブロガーの意見を拾うと、Balkan Babyさんは地域の安定を維持するために両者が妥協すべきだと論じていますが、その際、ギリシア側に柔軟になれと諭しています。ギリシア側の要求はマケドニアのナショナリストを刺激することになり、2001年に起きたアルバニア系住民との衝突のような事態を招くかもしれない。またマケドニアは貧しいけれども西側寄りの民主主義国となろうとしており、バルカン諸国ではなく地中海国家として自国をプロモートしているのだからと。Dieneke's Anthropology Blogさんは「マケドニア」というのは単なる地理的呼称ではなく、民族呼称であると述べ、マケドニア民族はマケドニア地方に住み、スラブ語族のマケドニア方言を話し、バルカンのスラブ人とは違うと考えているのであるから、両国の主張はそれぞれ一理あると述べています。ふーんという感じですが、そういう議論になるとやっかいそうですね。もう面倒だし、文化的に共通しているところが多いし、アレキサンダーを同じく英雄にしているんだからひとつの国になろうぜというラディカルな解決を主張しているギリシア人ブロガーもいます。

国連は現在、5つの国名の選択肢を提示しています。マケドニア立憲共和国、マケドニア民主共和国、マケドニア独立共和国、マケドニア新共和国、上マケドニア共和国の5つですが、マケドニアの国民にはえらい不人気らしくデモが各地で起こっているそうです。他はともかく上マケドニアはいやだろうなと推察申し上げます。

というわけで4月のEUのサミットでこの問題がどうなるのか続報を待ちたいです。われわれには直接関係ない話ではありますが。やはり国旗や国名の問題というのは感情を刺激する話ですから難しいですね。

PS われわれには関係ないと書きましたが、日本政府はコソボの独立を承認したばかりでした。日本政府にしては早い対応だったと思います。これもロシアがらみの問題ですが、日本になにができるでしょうね。政府の現状ではとてもなにかできるような状態ではなさそうに見えますが。

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各国中央銀行金利予想

WSJにシティーのエコノミストの今後の金利予想の記事がありました。どういう根拠なのか解説はありませんが、今後のひとつのシナリオとしてメモしておきます。

それによると、

・米国の米連邦準備理事会は2008年半ばまでに短期金利を現在の2.25%から1%まで引き下げ。
欧州中央銀行はこれまで4%を維持してきたが、第2四半期末から引き下げ開始、2009年始めまでに3%に下げ。
イングランド銀行は現在5.25%の金利だが、2009年半ばまでに3.75%まで引き下げ。
日本銀行は現状の0.5%から切り上げようと努力してきたが、2009年を通じて変化なし。
スイス中央銀行は現在2.75%だが、年末に2.5%、2009年に再び2.25%まで引き下げ。
・例外としてオーストラリア準備銀行は最近インフレ退治のために利上げしてきたが、今年末に7.25%から7.5%に利上げ。

景気の予測としては、米国の景気後退は予想以上に深刻化、2009年末まで低成長トレンド、欧州の成長も今年は低調で、2009年も回復はほとんど、あるいはまったくなし、新興市場は先進国よりいいパフォーマンスで先進国の低成長のクッションとなるとの見通し。2008年、2009年は景気後退が続くという予想ですが、それぐらいで済めばいいのですけれどもね。ともあれ日銀がこんなタイミングで利上げできるはずないでしょう、民主党大丈夫ですか?

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求む!日銀総裁

日銀総裁選出にからんだこの茶番に対する怒りはすでに別のエントリーでぶちまけましたが、あまり世論が感情的になるのもいいことではないでしょうからわたしも生暖かい目で見守ることにしました。なにかと昭和初期に言及するのはあまりいい趣味ではないかもしれませんが、血気盛んなわれわれの父祖たちは、内憂外患を前にしてこんな風に党争にあけくれる指導者たちを見て、もう政党政治家には任せられない、ムキーッ!となったんでしょうね。われわれは淡々といきましょう。

Financial Timesがこのごたごたを社説で採り上げていましたので訳しておきます。粗い訳ですので原文と対照して確認してください。注目すべきは民主党の反対そのものには理解を示している点です。民主党の低金利政策批判にも理解を示すんでしょうか。ここで描かれる完璧な総裁像に合うような人はいるんでしょうか。わたしは伊藤教授がいいと思いますが、思い切ってヘイゾーさんでもいいかも。

求む!日銀総裁

対処せねばならない国際金融危機のより重要でない問題とともに、日銀総裁を見つけだすことは緊急に見えるかもしれない。しかし野党日本民主党が強力な財務省に近すぎると判断した候補者に反対票を投じたのは正しい。市場は不安定であり、一刻もはやく妥協して候補者を見つけなければならない。しかし理想的な選択はマクロエコノミストとしての確固たる信任のあるアウトサイダーだろう。

福田総理は同じ行動が異なった結果を生むものと信じているように見える。東大法学部卒で財務省のキャリア官僚である武藤敏郎氏を日銀総裁として野党が拒否した後に、福田氏はまた東大卒で財務省のキャリア官僚である田波耕治氏を推薦した。民主党は今度は田波氏にも反対した。

武藤氏任命をめぐる政治は不可解である。野党が参議院をコントロールしているために、戦いを挑むのはリスキーであり、強い世論の支持を得られる事柄に関してのみこの戦いはよく遂行できる。しかし戦いを挑み、敗れ、また同じ戦いを挑むというのは奇妙である。福田氏の弱い政府は今やさらに弱く見える。

福田氏の選択はなによりも官僚的伝統に従ったものであるように見える。ある程度のランクの財務省のOBが日本銀行のような組織で職を得るのが慣習になっているのだ。金融省庁が中央銀行の当然のリクルート先になっている、あるいはその逆になっているのだが、しかし日銀に財務官僚が半ばフォーマルにパラシュート的に天下りすることは金融政策の独立性を低下させるものだ。

それゆえ民主党がより強力な総裁を求めて圧力をかけたのは正しいが、民主党が受容できる候補者の黒田東彦・アジア開発銀行(ADB)総裁、そして年若い渡辺博史前財務官はとうていアンチ・エスタブリッシュではない。このポストを埋める緊急性を考えればこの二人のどちらも可能だろう。

しかしもっとラディカルな選択肢もありえる。中央銀行を治めるというのは通常の仕事ではない。完璧な候補者は優秀なマクロエコノミストで市場の心理学者、確かな語り手、国際感覚のある外交官で有能な経営責任者でもなければならない。こうした能力をもったエコノミストを探すのは困難であり、またスタッフに支配されるのではなくスタッフを疑うだけの十分な深い経済的見識をもった官僚を探すのも困難だ。日銀は正統的なものの見方に挑戦するような総裁から利益を得るだろう。

総裁空席はそれほど重要ではないと論じる人もあるかもしれない。日銀はそれでも機能するし、当面金利を変えることはありそうもないし、多くの重要な選択は財務省によってなされると。とはいえ、日々新たな危機が生じているこの時に、信頼が不安定で、日本経済の見通しが弱くなっている時に、トップが空席なのは悪いメッセージを送ることになる。政府と民主党は一刻もはやく候補者について合意しなければならない。このプロセスの中で日本の生温い人事システムが揺るがされるならば、なおいいことだ。

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中選挙区制の復活?

最近政界再編にむけて中選挙区制度の復活を論じる議論を目にするようになりました。政界のキーマンがあいついで同様の発言をしています。わたしが目にしたものだけでも、中曽根、麻生、小泉古賀各氏が小選挙区制度の弊害を述べているようです。少数党に転落している公明党、共産党、社民党がこれに賛成であることは言うまでもありません。公明党についてはたとえばここ

ヤフーの「みんなの政治」に与謝野氏のインタビューがありましたが(その1その2)、ここで氏も小選挙区制度の批判に連なっています。経済論戦におけるミスター財務省的な発言にはうんざりしていましたが、この人のことは以前からそれほど嫌いというわけではない。優秀な仕事人なんでしょう。まず日本経済に関して「自虐的」になるなとクギをさした上で(なかなかいい指摘もしています)、ねじれ国会について述べています。選挙制度に関係する発言を抜粋すると、

一つは、「無手勝流」の新人が、まったく選挙に出られなくなってしまった。小選挙区制は、志のある若い人に実質的に門戸を閉ざしているわけです。

また選挙において、正論だと思っていても、一部でも有権者の反感を買うような主張をしたら当選は危うくなりますから、皆に好かれるような口当たりのいいことしか言えない。

かつての中選挙区制では有効投票の二五%程度の得票で当選できたわけです。今は四五%ぐらいが必要ですから、そりゃあ「いいこと」しか口にできませんよ。第一、これだけ国民の意識が多様化していると言われるのに、どうして選挙では「二大政党」のどちらかを選択しなければならないのですか?

日本の選挙制度の変遷を見ると、明治時代に小選挙区制でスタートしたものが大選挙区制に変わり、その後、原毅が小選挙区制を復活させましたが、昭和三(一九二八)年以降は基本的に中選挙区制に改められました。この中選挙区制導入の時に、小選挙区制の弊害がずいぶん議論されたのです。「小選挙区小人物論」というのもあって……。

自民党の唯一と言ってもいい「売り」は、肝心な局面では多少国民の反発を食らっても「こうすべきだ」と言えたところでしょう。それが結果的には信頼につながっていた。ところが、今や総裁選びでさえテレビ映りや国民の人気が優先される。小選挙区制は、そういう政治の堕落を生んだ元凶です。

というように政治のポピュリズム化や政治家の小物化を小選挙区制度の導入に帰責しています。かつての中選挙区制度の弊害(利権屋の跋扈など)が除去されつつあるというメリットの部分の言及がないため一方的な批判だと思いますが、どうなんでしょう。二大政党制批判というのは英米にももちろんあるわけですけれども(国民の意見の多様性を反映しない)、日本政治の現状で中選挙区制度への復帰というのはやはり支持したくないと思います。またぐずぐずになりそうです。人材の確保や育成は党が責任をもち、ねじれの弊害は国会改革で対処し、政界再編は政策志向の違いで組み直しということでいいんじゃないですか。

ただ日本において二大政党制が今ひとつ機能しないかもしれない要因として社会グループ間の利害対立がそれほど明瞭になっていないことが挙げられるでしょうか。こののっぺりした社会では(格差がないという意味ではない)、労働者階級だから労働党とかヒスパニックだから民主党みたいなアイデンティティーと投票行動の密接な結びつきがあまり望めそうもない。実際、ここしばらくの選挙結果を見るとそのときどきの「空気」で大振れしてしまうという傾向が見て取れるのがやや不安ではあります。これはメディアの問題が大きいと思いますが。

PS ここで与謝野氏が歴史的経緯について簡単に触れていますが、1928年の議論に少し興味が湧いてきました。どういう背景があったんでしょう。

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フランス政局の印象

かつてフランス政治に関するブログをやっていたこともあるのですが、しばらく関心を失ってしまったこともあり、ニュースもあまり読んでいませんでした。サルコジの人気が急落していることは承知していましたが、9日と16日に行われた統一地方選では左派の巻き返しがありました。主要都市で与党UMPの候補が現職を失ったようですが、メスのような保守的で知られる都市までとられていますね。左派が49%に対して右派が47.5%の得票だったそうです。英語の解説ではエコノミストの記事が分かりやすいです。

改革者として期待を一身に集めたサルコジですが、ここまでのパフォーマンスから判断するならば、失望が広まっても無理はない。実質なにもしていない。私生活の露出で保守層の支持を失い、問題含みな発言の連発で中道層の反感を呼び、なによりも景況の悪化がこうした不満に拍車をかけているようです。またサルコジ寄りになっていたメディアが敵に回ってしまったのも大きい。ル・モンドの論調の変化もいちじるしいです。

とはいえこの結果は批判票であって有権者が社会党の政策そのものを支持しているわけでもありません。実際、社会党は深刻な分裂状態にあり、なにが政策なのかもよく分からない。どうやらフランスもしばらくは政治的に停滞する予感がします。今後は内政からしばらく手を引いて外交や安全保障に専念するか、あるいはデモの嵐の中ででも強硬に改革を押し進めるのかのどちらかになるのでしょうが、個人的には前者にベットしたくなります。

やはりこの人はサッチャータイプではなかったですね。日本で言えば小泉政権というよりもなんとなく安倍政権を想起させます。空疎なレトリックばかりで実質的な仕事が進まない。無用なイデオロギー的な争論を巻き起こして中道層を失望させると。どうもこの人はあれやこれや中途半端に手をつける器用さはあっても、一点突破するだけの愚直さを欠いているようです。

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PS 最近日本のねじれ国会がらみでフランスのコアビタシオン(字義通りには同棲、保革共存体制のこと)に言及する人が多いような気がします。フランスの議会としては元老院と国民議会がありますが、元老院は諮問機関に過ぎませんし、元老院議員は直接選挙で選出されるわけではありません。コアビタシオンとは国家元首たる大統領と議会の代表たる首相の政党が異なるという意味ですから日本の現在の状況を指す言葉としては不適当だと思います。というわけで議会主義の国に例を求めるべきなんでしょうが、日本の参議院の状況は他国の上院(=元老院)ともずいぶん異なるので、はて困ります。参議院の衆議院化の趨勢にはずいぶん前から批判があったわけですが、こんなふうになってしまうとはとほほですね。

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波乱の予感

チベットについては、わたしは通り一辺倒な認識しかなく、なにが起こっているのか把握しようと連日の報道を追いつつ、みなさん同様に今回の事態を憂慮しているところです。現在官憲に捕縛されるている抗議に立ち上がった人々の無事を祈るばかりであります。

民主党の長島議員のブログで以下のようなエントリーがありました。民主党有志の声明だそうですが、鳩山幹事長というのはなんともつかみどころのない方ですね、本当に。こうした声明がどういう効果をもつのかといった問題とは別に、意見だけは表明しておくべきです。少なくとも歴史的ドキュメントとしての意味はある。

「チベット情勢の人道的解決を望む」

今回のチベットにおける暴動は、49年間の中国によるチベット人権弾圧、文化破壊に遠因があるといわざるを得ない。これに対し、ダライ・ラマ法王とチベット人は、一貫して対話と非暴力によって問題を解決しようと努めてきた。しかし、未だ問題の解決には至っていない。

毎年3月10日に行われるチベット人による「平和蜂起記念日」がこのようなことになり、誠に残念である。中国政府は、真実を明らかにするとともに、人道上の見地に立って根本的な原因を除去すべく問題解決に努力すべきである。そのためにも、国際調査団の派遣を検討すべきである。

我が政府は、即刻、中国政府に対し、問題の理性的解決のため、あくまでも人権を尊重し事態の収拾を図るよう強く求めることを要望する。また、中国政府もダライ・ラマ法王と直接交渉し、和平をつくり出すような度量の大きさを見せて欲しい。

平成20年3月17日

衆議院議員 鳩山由紀夫、 民主党所属国会議員有志一同


一方でこの事変は台湾総統選に少なからぬ影響を与えているようです。中国的遠近法からみた場合、チベットが西の不安定地域ならば台湾は東の不安定地域になるのでしょうし、逆に台湾から見ればまったく他人事ではないと。228事件を想起させるのでしょう、おそらく。民進党の謝候補者にこれが追い風になるとふんだのか、国民党の馬候補者のレトリックがこれまでになく反大陸的になっている模様です。こことかこことか。馬候補者は日本の右派からはずいぶん嫌われているようですが、台湾人アイデンティティーというのは理屈でなくもう実感レベルで大衆に根付いているのでしょうか、支持を得るにはこうしたスタンスをとるほかないのでしょう。独立か統合かみたいな政治的に分極化した議論からより強かで現実的な方向に全体として収斂していっているように見えますが。ただの希望込みの印象です。

オリンピックまでにまだまだいろんなことが起こりそうです。いったいどうなってしまうんでしょう。。。

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日本女性について

西洋(あるいはそこを経由した世界)における日本女性のイメージというのはわれわれにはなかなかはかりがたいものがあります。われわれが知っているのはなんとかさんとかだれだれちゃんとかいった具体的な人であり、日本女性一般なるものと出会うことはないからです。ところが世界には厳然として「日本女性」のイメージが実体であるかのごとく流通しています。ハリウッド映画などでなにこれといいたくなるような日本女性が登場するのを目撃したこと経験はみなさんにもおありでしょう。最近では「サユリ」でしたっけ。彼女は日本人でも日系人ですらありませんでしたが。ちなみにこの反応を素朴なナショナリズムと受け止めるむきがあちらにあるのですが、そういう受け止め方の問題じたいも文化-政治的な考究の課題となるのでしょう。アジアン・ビューティーと言えば、タイも日本もベトナムも一緒なわけです。

こうした一方で現代日本女性の紹介といった試みがささやかに行われていることはあまり知られていないと思われます。川上澄江さんというジャーナリストの方がしばらく前に「さようなら蝶々夫人」というタイトルの本を英語で出版されました。著者はかならずしもばりばりのフェミの方というわけでなく、現在女性の置かれている場所に肉薄したいといったモチベーションから仕事をされている方とお見受けしました。10人の女性(と1人の男性)のインタビュー集です。わたしはこのインタビュイーの方々を「普通の人」とは呼びたくないような気もしましたが、いずれにせよわれわれ同様の無名人たちの生と性を掘り起こした試みです。

Neojaponismeという現代日本カルチャーを扱った有名なブログで彼女のインタビューが掲載されていました(日本語版もあります)。彼女のインタビューの答えはちょっと一般化しすぎじゃないの、とか、時代ごとの変遷が十分に説明されていないじゃないの、といった感想もところどころで持ちましたが、まず、ステレオタイプな日本女性のイメージがあるとしてそこに対して現在の日本の女性を提示する試みとしてはなかなか誠実なものだろうと判断します。ありがちな男性=抑圧者、女性=非抑圧者といったマニ教的な枠組みに過剰に依拠していない点も好感がもてました。この本のタイトルはどうなのよと言いたいところもありますが、まあ一般の人に読んでもらうことを狙えばこうするしかないんでしょうね。

でこの本に対するリアクションをいろいろ探っていくと、だいたいがこの本に登場する女性たちに「個人的に」共感したとか変だとかいった素直かつ人間的な反応です。また日本の会社システムっておかしくねという「社会派的」な感想も多く見受けられます。わたしが興味をもったのはAsian Review of Booksの評で、日本女性のロマンティックな生活に興味をひかれるのは謎だ、ペルー女性やインドネシア女性についての本などあまりないという言葉、また蝶々夫人はもはや存在しない、いやはじめから存在しなかったのだという言葉です。ここでもやはり記号としての「日本女性」の強さが確認されます。

また日本人のみならず外国人による現代日本女性を紹介しようという試みもあります。ヴェロニカ・チェンバースさんの「キックボクシング・ゲイシャ」という本は、タイトルはともかく(なんとかならんか)、同じようにいろんなタイプの女性の生を扱ったリポートです。これも日本女性につきまとうステレオタイプを打破して、具体的に生きている女性たちの姿を共感的に伝えようとした試みと言えるでしょう。著者のインタビューもあります。日本女性というと着物を着た芸者さんのイメージとセーラー服の女子高生のイメージが強いけれども、「普通の女性」たちが社会を大きく動かしているといった主旨です。運動なき革命という表現も使っていますね。これまでの草の根の女性運動の果たした役割を十分理解しているのかどうかを別にすれば、だいたい正しい認識ではないでしょうか。

いろいろ眺めていて分かるのは、だいたいもの静かで(quiet)従順な(submissive)女性というイメージが強固にあり、現在の女性たちのイメージは過剰に性的(oversexualized)なイメージといったところでしょうか。前者は芸者さん、後者はAVなんかのイメージなんでしょうか。まあ、たしかにこれでは日本女性像は歪むわけですね。もっともこうしたイメージの普及にあたって日本のメディアの果たした役割も大きいわけですがね。ここにあるのは相互作用であってオリエンタリズム!とか言って単に彼らを責めればいいというものではない。こちらにも反省すべき点は多々あるわけです。

ところでこういうロマンティックなイメージとは別に抑圧された(oppressed)女性たちというイメージも相当に根強くあるのを実感します。別に抑圧がなかったとか今ないなどとは言いませんよ。でもどうでしょう。キリスト教のような強力な一神教の下での抑圧とはずいぶん様相が異なるような気がします。中世はもちろん19世紀ぐらいでも西洋史の本を紐解くならばそのミソジニーぶりにけっこう震撼させられます。アメリカだってなかなか凄いなと思います。社会的な抑圧というよりも宗教的、内面的な部分での抑圧ですね。ああいう強力なフェミニズムが生まれるにはそれなりの土壌もまたあるわけです。性的な意味での抑圧は日本では明治以降中途半端に西洋の模倣をしたわけですが、内面的な部分まで強力にはいってくるような感じではないような気がしますが、いかがでしょう。明治儒教的な要素(良妻賢母主義)の残存を甘くみるつもりもないですし、まあひどい抑圧があったのは事実ですし、どっちがいいというような話ではないつもりですが、前提が違っていないかなといつも感じます。またそれが直輸入的なフェミニズムが今ひとつ日本でパっとしない理由でもあろうかと思います。日本が遅れているからだとか大衆が無知蒙昧だからだとか思っている人がいるとしたらちょっとそこは考え直したほうがいい。もっともこういうことも賢明で真摯なフェミニストは折り込み済みだと思いますのでまったく大きなお世話ですね。

それはともかくこの抑圧された女性のイメージと先ほどのもの静かで従順な、あるいは過剰に性的な女性のイメージは独立したものではなく、相互に連携しつつ日本女性のイメージを形作っているようです。ええ、これはイメージの話であって具体的なあなたやあなたの知り合いのことではないのです。でもひとたび日本を離れた時には、あるいは日本でも外国人とコミュニケーションするときには、こうしたステレオタイプとの格闘が待っているのかもしれません。その場合、鏡像的な関係に入らないこと、あるいはイメージに亀裂を入れること、そうした実践が課せられることになるでしょう。ステレオタイプに飲み込まれたほうが楽なんですけれどもね。わたしとしてはここで優雅に抵抗する人が増えてほしい。

こうしたなか最近日本の女性で英語発信する人が徐々に増えてきていまして、それを個人的には非常にうれしく感じています。Shisakuという日本政治に関するブログ(皮肉っぽいですがなかなかいい)で知ったアンナ・キタナカさんのブログを見つけたことでこうした思いを新たにしました。そのエントリーのひとつ「性差別はグローバルだ。日本だけじゃない」というエントリーには心打たれるものを感じました。

内容はインデペンデントとガーディアンというイギリスを代表する左翼新聞による毎度毎度の日本批判に対する反論です。ちなみにこの両誌はどこの国に対しても批判的ですからなかなか骨があるじゃないと思うことももちろんあるのですが、日本に対する批判はちょっとあまりにもポイントをはずしていることが多いのが問題です。記者のレベルがどんどん落ちている。現実の日本というよりも想像上の日本への批判ですからこっちとしてもはあ?となることが多い。

インデペンデントによれば日本の職場における「見えない天井」は「コンクリートの天井」「鉄の天井」だそうです。それで女性の社会進出に対する意識の大幅な向上を示す統計を示した後に、いつものテンプレです。日本では伝統的に女性の場所は家庭であり、日本は女性が職場での平等を求めていまだに戦っている唯一の先進国であるのだそうです。こうした物言いに対して日本だけでなく全世界で女性の居場所は伝統的に家庭にあったのであり、職場での平等は現在においてもすべての先進国での課題でしょうとごくごくまっとうな批判をしています。同様にガーディアンの記事に対しても、問題を日本だけに押し付けるな、日本以外では性差別がなくなったなどと嘘をついてわれわれを混乱させるなと批判しています。また結婚と出産を選択した女性を憐れむべき存在と考える権利などお前にはない、それも人生の選択なんだとやっつけています。

要するにこうやって問題を日本に特殊化して自分たちをそこから切り離す作法を常套的に用いるわけですね。これは本当にいらやしい言説戦術ですが、英語の新聞ではテンプレ化しています。ですからもはや書いている記者にもさほど自覚がないのでしょう。そしてそういう記事を読む読者は自分とは無関係の話として極東の遅れた国の女性たちを安心して憐れむことができるわけです。ここには本気で世界における女性の地位向上を願う真率さなどみじんもない、つまり偽善しかないわけです。こういった正義を偽装した記事を掲載することでイギリスは帝国意識の残滓が左翼を含めて強固に残っている国であることを日々暴露し続けているわけですね。ちなみに彼女はイギリス生まれの方だそうですから、当地の事情をよーくご存知なんでしょう。

話を少し大きくしますと、こうした欧米左翼に巣食う傾向性を一般にリベラルパターリズムと言いますが、そこにはソフト・レイシズムがまとわりついています。善意と蔑視の混じった視線ですね。この問題性についてはアカデミックな世界では論じられているのですが、ややラディカルな人達が唱えていることもあって一般にはあまり広まっていない認識のようです。あまり声高に訴えるとそれはそれで変なイデオロギーになっていく罠があるのでしょうけどもね。それはともかくアジア・テンプレというのが既にありまして記事はこの枠組みの中でしか書かれない。とりわけ社会、文化記事はほぼどこの国でも同じような切り口になります。女性に関するシンポジウムが開かれた時、そこでの議論は複雑多様にして実に興味深いであったのにガーディアンにのった記事はアジアは遅れているというテンプレ記事だったと怒っている女性に出会ったこともあります。英語を学んでこういう記事を読んで同胞たちが土人扱いされているのに自分だけはそこに属していないと勘違いしているbananaさんたちを苦手としているわたしとしては、こういう真の国際交流をする気のある女性たちが続々と出現することを希望しています。

最後にこの裏返しとしてわれわれ自身が同様のまなざしを他の国々に向けていないかどうかも深く反省すべきだと思います。それは非常に醜悪な光景です。批判がいけないというわけではない。ただ偽の批判と真の批判があり、偽の批判とは本当はどうでもいいと思っているのに単に心理的な満足を得るためだけの批判であり、確かな情報もないのにイメージだけにもとづいた批判のことです。一般の人にまでこうした倫理を要求するつもりもありませんが、日本のメディアや知識人にこうしたまなざしが巣食っていることに苛立ちを感じます。日本の場合はオクシデンタリズムとオリエンタリズムの使い分けをその特徴としていると言われます。思い当たりますよね?

PS ここではイメージの話しかしていないのですが、もちろん日本社会における現実の女性の置かれた地位の問題というのがあります。なにが女性の行動の制約条件になっているのかというのは相当に複雑だと思います。最大の問題が企業慣行にあるのは間違いないでしょう。とても結婚や育児を支援するような体制にはなっていない。そしてわたしが疑問に思うのは日本のフェミニストがパート労働の問題について十分に問題化していないように見える点です。問題化とは気付いていないということではなく実際のアクションがあまり目につかないという意味です。経済的に見ればここが最大の問題でしょう。その点、非正規雇用の問題が騒がれ出しているのはいいことだと思います。もっとも男性の非正規雇用者が増大している事実が引き金になったのでしょうからそれはそれで問題なのですがね。いずれにせよ労働市場改革が急務である所以です。また文化的な要素も無視できないのでしょうね。トラックバックしていただいた空さんが役割期待の話をされていますが、日本における役割期待の起源はどこにあるのだろうとつねづね疑問に思っていました。これは儒教的な要素とも思われない。domestic matriarchyという表現も見かけますが、どちらかという言えば海洋アジア的(島嶼的)なものなのかなあなどと感じますが、よく分かりません。なかなか実証的に議論しにくい論点ですよね。ただ私は不毛な文化闘争とか象徴闘争のたぐいに入り込むよりもこういう問題ではプラグマティズムのほうが好ましいと考えますので文化的文脈に配慮しつつ文化論はあまり表に出さないほうが政治的に賢明だろうと思っています。

若干訂正、加筆しました(6.3.2008)

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今後の政局の行方

どうやら日本は政治的停滞の時期に入ったらしいというのが国内的にも国際的にも共通了解になりつつあるわけですが、今後の日本政治の政局の行方についてアマチュア的な視点からぼんやりと想像してみます。シナリオとしては3つほどあり得るだろうと思われます。

シナリオ1. 大連立
シナリオ2. ねじれたままの共存
シナリオ3. 政界再編

このうち第一の大連立構想はしばらく前の小沢党首の奇異な行動によって表面化しましたが、おそらくは保守老人たち(フィクサーたち)が思い描いているシナリオと思われます。難局に当たって「挙国一致の姿勢」で臨むのだということですが、選挙区制度と根本的に矛盾しているという問題があります。比例代表制を敷いている多党制の国であればともかく(ドイツの大連立を例に出す人が多いですが)小選挙区制度を導入して本格的な2大政党制へと向かっている我が国の現在の政治情勢に鑑みてこれは採用すべきシナリオとは思われません。具体的な場面を想像すれば、各選挙区で自民候補と民主候補が立ってどちらがいいのか考えろという時に大連立というのではどちらに投票すべきか有権者を混乱させるだけではないかということです。小沢氏の先だっての不透明な行動が巷間ささやかれているように朝鮮半島有事をにらんだ集団的自衛権がらみの緊急措置(=解釈改憲)ということであれば了解可能ですが、それが真実だとしてもあくまでも一時的な措置であろうし、仮に実現したとしてもこの大連立が長く続くことはないでしょう。

2番目のねじれたままの共存ということですが、少なくとも2013年頃までは参議院での野党の優越的な地位は確定していますから、衆院と参院の間で国会運営についてルールづくりを進めていき、ねじれ状態を解消することなく立法府の機能を向上させていくというシナリオです。他の民主主義国を見渡してもねじれ現象それじたいはそれほど珍しいことではなく(アメリカであれオーストラリアであれ)、成熟した民主主義国であれば、こうしたシナリオを歩むものと想像されます。可能性としては一番高そうに思えますが、内外に政治的停滞の印象を与えざるを得ないでしょう。問題はこうした事態を想定していなかった日本の憲法学者たちの責任であります。いったい何をしていたのか。換言するならば、参議院(=元老院)とはそもそもなんなのかという問題です。もはや貴族院としての性格を失った結果、庶民院がふたつあるという日本の現状をどう理解すべきなのか真剣に考えなくてはならないでしょう。国会改革が急務である所以であります。

そして最後のシナリオとして政界再編があります。わたし自身の中の理想的な部分がこの選択肢を選ぶよう急かしているのを感じますが、もう自民にせよ民主にせよ政党としてどうなのよというのは誰しも思うところでありましょう。歴史の教科書に書いてあるように、現在の自民党はそもそも自由党と民主党、戦前で言えば政友会と民政党の二つの政党が合同したことによって成立した政党であり、最初から相容れない諸潮流の寄り合い所帯に過ぎません。自民党をヌエ的と形容するのはクリシェでありますが、およそ近代政党とは呼べない(共産党と公明党を見よ!哀しいけれどこれだけが近代政党)、選挙の互助会のような組織です。民主党も同様に田中派の元自民党議員(民政党の流れになるんでしょうか)と社会党右派の寄り合い所帯に過ぎない、つまり55年体制そのものをひとつの党として体現したような政党なわけです。ちなみに社会党右派とはなんなのかというのは日本政治史を考える上で興味深いテーマだと思いますが、それはともかく、松下政経塾出身の青年トルコ派を除けば、民主党にさほどの新しさはない。このどっちもどっちの政党のどちらかを選べというのは有権者にとってもしんどい選択であることはみなさん選挙のたびに実感されていることでありましょう。これではパンツで言えば、黒と赤のストライプのトランクスと赤と白のストライプのトランクスのどっち、みたいな話であります。そんなテレビ番組ありましたね。

というわけでもうここでざっくりと政策志向に基づいて分かりやすくクラス替えしたらという衝動が湧いてくるわけですが、この複雑化した社会にあってなにを政策志向の対立の軸にしたらいいのかというのは本当に難しい。良くも悪くも実利的で誰とでもつるんでしまえる我らがリーダーたちにここだけは譲れないという一点はあるのか。統治のあり方なのか(中央集権VS地方分権)、経済なのか(規制緩和VS格差是正)、外交なのか(親欧米VSアジア主義)、社会なのか(個人主義VS共同体主義)などなど。政治思想的には保守主義と自由主義と社民主義の3流派が現在の政界に存在しているとは思うのですが、問題は一人の議員さんの中に、そしてわれわれの中にこうした志向性が矛盾したまま共存していることにあります。「イデオロギー的多神教」などと言われる所以であります。どうも西洋人のように(雑な言い方ですいません)収斂し先鋭化しない。皇室あたりが唯一の対立軸になるのかなという気もしてきますが、個人的には政争のネタにはしていただきたくない。というあたりで政界再編の軸もあまり見えてこない。小泉一派と民主党若手(=自由主義的?)対社会党右派と保守主義(=国家主義的?)になるのかなあなどとは思いますが。。。

この3つのシナリオのどれになるにせよ、わたしが願うのは新55年体制のようなことにならずに政権交代がスムーズに行われることで各機関の間でチェックアンドバランスがちゃんと効き、透明性と説明責任が明瞭になること、ただこの1点だけです。このささやかな希望が実現することを祈念しつつこのエントリーを終えたいと思います。特にオチはありません。

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フレンチ・リバタリアンを君は知っているか

日本であまり知られていないフランスの思想家にフレデリック・バスティアという人がいます。19世紀の自由主義思想家で政治経済学者です。アキテーヌのバイヨンヌ出身で若くして一家の輸出商のビジネスに関わり、この体験から国家の規制の理不尽に敏感になったと言われます。時あたかもナポレオン戦争の時代です。大変な博識で関心領域も広いので今イメージする経済学者というわけではありません。経済思想家としての公的活動はわずか6年ほどと言われますが、この際に「リバタリアン的」な経済思想の普及に努めました。

オーストリア学派の先駆者などと遡及的に言及されることもあるほどその自由主義は当時にあって徹底的なものであったと言われます。国家主義者に対する激しいアジはアナーキスト的にも感じられるほどです。政治的には生命、財産、自由といった個人の権利を守る以外に政府の役割を認めないという急進的な自由主義の立場であり、また経済学的には消費需要の役割を重視する立場をとりました。20世紀にハイエクが注目したことでも知られています。

彼の作品は論文のようなかっちりした形式ではなく時事的な関心に基づきつつ風刺文学的な手法で論敵をやっつけるという形式ですので、あまり経済学に詳しくない人でも楽しんで読むことができます。もっともこの時代の思想家はみんなそういうスタイルですけれど。日本語情報の極度に少ない中できゅうりさんという方がなんと彼の代表作の「法」の翻訳をなされていたのですが、残念ながら現在接続できない状態になっています。どうしたのでしょう。

以下のサイトで彼の代表的な著作をフランス語か英訳で読むことができます。内容についてはいずれ別エントリーで書きたいと思います。
Bastiat.org/
Library of Economics and Liberty

20世紀を通じてすっかり国家主義的、統制主義的経済になってしまったフランスではありますが、フレンチ・リバタリアンというのがかつて確かに存在したのです。アングロサクソン型経済との対決などといつまでも気負ってばかりいないで、自らの過去を振り返ってこうした思想の地脈を掘り返してみたらいいと思うのですがねぇ。かつてはもっと自由だったですよ、フランスは。

PS きゅうりさんの翻訳ですが、ブログの方で公開されていました。リンク(PDF)をはらせていただきます。なおわたしは雄々しきリバタリアンではなく、ぬるい保守的自由主義者に分類されるような人間ですが、理屈や思想はともかくリアルなリバタリアンの人々は好きなんですよね。

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一人当たりでみると

人口減少をめぐってはさまざまな見解があるわけですが、個人ベースの生活水準という観点からみたならばという記事がエコノミストに掲載されています。以下簡単な紹介です。訳でありません。

Grossly distorted picture(Economist)
まずここ数年の経済的パファーマンスに関してアメリカがダイナミックに繁栄する一方で、日本は停滞を余儀なくされているという一般的なイメージがある。実際、GDPもアメリカが2.9%に対して日本は2.1%にとどまっている。ところが一人当たりのGDPで考えるならばまったく違うストーリーが見えてくる。実際、日本の一人当たりGDPが2.1%の成長をしている一方で、アメリカは1.9%、ドイツは1.4%にとどまっているからである。意外なことにアメリカが毎年1%の移民による人口増加と高い出生率を誇っていることがこの数字を引き下げているのであり、人口減少が進んでいるがゆえに日本のパフォーマンスがよい結果になっている。

一人当たりGDPを指標に利用するならばまったく異なった像を示すことになる。3.3%の成長を誇りにしているオーストラリアも人口増加ゆえに一人当たりGDPで考えれば日本以下であるし、ユーロ圏の成長頭のスペインも日本はおろかドイツにも劣っている(ドイツもまた人口減少に悩む)。また一人当たりGDPを指標にすれば景気後退の定義も変更せざるを得なくなる。例えば、アメリカは去年の第四四半期から景気後退に入っていたことになる。

こういう考え方を政治家、特に世界に対する経済的、軍事的支配を維持することを政策としている政治家は好まない。アメリカ人ならば、高齢化によって労働力が減少する中で生産性をあげられなければ現在の成長を維持しにくくなる点、成長が鈍化するならば財政赤字を減らすのが困難になる点、投資家は一国のGDPで投資先を選ぶという点の三点から反論するだろう。

一人当たりGDPの値を四半期ごとに公表するならば、国民は自分達の平均所得の上下がわかるし、そのことが経済に恩恵を与える効果がある。悲観的なレボートばかり聞かされて萎縮してしまっている日本では消費を活性化し、GDPそのものを高くすることができるかもしれない。

この論点そのものはさほど新しいものではなく、日本でも人口減少を憂う言説に対してこういうプラス面だってありますよという形で男女の経済的平等を促すという論点とともに指摘されてきたものです。ただ影響力から言ってエコノミストにこうした記事が掲載される意味は大きいです。数値を四半期ごとに公表することで消費を促す効果があるかもというのは面白いですね。政府も一考してみてはどうでしょう。景気は気から。少子化対策に関してはわたしは積極的にとりくむべきだという立場ですが(財政的側面から減少カーブがきつすぎるのはやはりまずい)、過度に社会不安を煽る言説には心底うんざりしているので、少し心に余裕をもって日本の未来を見ていくためにはこういう論点がもう少し一般化してもいいかなと思います。

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アジア主義

Japan Focusは日本を中心にした東アジア全般に関する論考を集めているサイトなんですが、英語圏のリベラル左翼知識人の発表の場となっています。まあ内容は推して知るべしなんですが、中には面白い記事が出ることもあるので一応チェックしてはいます。それでアジア主義に関してCemil Aydinという研究者の論考がありました。

Japan’s Pan-Asianism and the Legitimacy of Imperial World Order, 1931–1945
実はポストコロニアリズムの流れで90年代ぐらいから日本のアジア主義の研究が英語圏でプチ・ブームになっていたのですが、911テロ以降「文明の衝突」が喧伝される中でアクチュアリティがあるとみなされているのかずいぶんこのネタを目にするようになりました。これまでの研究の成果を受けつつ全体の流れを要約したような記事です。全体として公平に書かれていると思います。細かい部分は省略で問題意識と研究史の部分だけ紹介しておきます。

まず1920年代には親英米的な外交政策を採用していた日本帝国において満州事変以降どうやって汎アジア主義的なレトリックが日本のエリートの言説に浸透していったのか、なぜそれまでのリベラル国際主義からアジア主義的な国際主義へと国際秩序に関する主流のヴィジョンが転換していったのかと疑問を提示して導入としています。

論者はこれまでの研究を国内の政治的要因を強調するものと国際的な環境の変化に重点をおくものとにおおざっぱに分類しています。前者によればアジア主義とは拡張主義者、軍国主義者、保守主義者によって支持されたイデオロギーで、例えば、ディッキンソンは第一次大戦後の新英的な自由主義者と山県有朋周辺の親ドイツ的な反自由主義者の対立にその起源を求め、ストリは大正デモクラシーが右翼の攻撃によって崩壊していくプロセスを論じつつ、なかでも軍の将校に与えた影響から大川周明をその中心人物であったとみなしているそうです。まあよくある伝統的なナラティブです。

これに対して論者はアジア主義を保守的な拡張主義的イデオロギーとみなすのは狭すぎるとし、自由主義者にもアジア主義的な発想があったこと、満州事変に対する公汎な支持が存在していたことを指摘しています。例えば親西欧的な国際主義者で有名な新渡戸稲造が日本の中国政策の擁護をしたり、国際連盟脱退を受け入れたこと、またリベラルな国際主義者である頭本元貞が満州事変を機にアジア主義なレトリックを用いるようになった例などです。

さらに京都学派や昭和研究会の例を挙げてアジア主義を単なる保守的イデオロギーと見ることの誤りを強調しています。日本のアジア・アイデンティーや東西文明論など自由主義者にせよ反自由主義者にせよ共有している部分があると。この点は非常に正しい。右翼と軍部の台頭でうんぬんというナラティブに無理があることはまともな歴史学者であればみな知っているわけですが、国際的には、いや、国内的にもまだこの次元なんですよね。

一方国際環境を重視する立場からは、この時期のエリートの世界情勢の理解が問題になります。地域主義の高まりは当時の世界的趨勢であって自由主義的な国際秩序を否定したのはナチスドイツやソ連ばかりでなく、アメリカの汎アメリカ的な貿易ブロック、保護主義やイギリスのスターリングブロックの動きも当時の指導層は観察していた。したがって1930年代の世界的趨勢への対応としてアジア主義というのは出てきたと言えるだろうとしています。

1930年代の研究をしているクロウリーという研究者によれば保守主義者や右翼が主導権を奪ったという説明はまったくの誤りで、「公的な精神」においても「政策決定プロセス」においても立憲国家の枠組みは維持されており、政策決定は責任ある政治、軍事指導者によってなされていると述べているそうです。これも正しいわけですが、国内でもまだ常識になっていないようですね。下手をすると修正主義者扱いされかねない。

以下大川周明と三木清、またアジアの反植民地主義的なナショナリストの事例について詳細に検討していきます。ここが本論なのですが、長くなるので割愛します。興味のある方は英語でどうぞ。結論は以下。日本帝国のナルシシズムと理念と現実の乖離を批判しつつもアジア主義のもった意味について政治的に問題含みな評価をしています。

日本の汎アジア主義は1933年以降、日本政府と軍事指導層によるその理念の予期せぬ保護の格好の機会を得た。1930年代を通じてアジア主義の中にあった人種的な反西洋主義の伝統は、アジアにおけるヨーロッパ諸帝国の終焉、とりわけ大英帝国の弱体化に焦点をあてたが、米国への挑戦は主張も推奨もしていたわけではない。それゆえパールハーバーは日本の汎アジア主義者にとっては望ましからぬ展開であった。たとえ彼らがすぐさま東西文明論や黄色と白色の人種闘争論の言説を通じてこれを称揚し、正統化すべく馳せ参じたとしてもだ。その一方で、日本の様々な知識人のセグメントからのアジア主義への新たな改宗者たちは、このアジアの連帯という両価的なスローガンに対して、地域協力と多民族共同体に関する社会科学的な諸理論を通じて、実際的かつ政策論的な内容を付け加えたのだった。日本帝国のロジックとの内的な逆説や緊張にもかかわらず、汎アジア主義は、東南アジアにおいて西洋帝国主義へのプロパガンダ戦に相対的な勝利を得ることを日本に許し、数多の理想主義的な日本人のアクティヴィストやその協力者たちに動機を与えることになった。汎アジア主義のプロパガンダは、第二次世界大戦における日本帝国そのものの拡張をともなうものであったが、西洋諸帝国の終焉に貢献することになったのであった。部分的には第二次世界大戦後の世界秩序をより包容的で非帝国主義的なものとして構想させ約束させることを連合国に強いることによって、また部分的には植民地化されたアジアの諸民族の間にヨーロッパの植民者を敗退させる自信と反植民地主義的な思考を刺激することによって。

なおわたし自身はアジア主義に対しては心情的には当時の国際環境から言ってそういう議論が出てきても理解できなくもないと思いつつも(実際、尊敬に値するアジア主義者というのはいた)、結局は他者を欠いた一方的な議論に過ぎず、国際情勢判断を誤らせ、亡国をもたらしたという点で評価しません。結果的にはシニカルな帝国主義者や孤立主義的な国粋主義者の方がまだましだったでしょう。そこには理想や正義があったのでしょうが、理想や正義ほどおそろしいものはないという政治的真理をかみしめなくてはなりません。アイデンティティーポリティクスとしての外交などというものはないのです。現在左右からアジア主義の亡霊の声が聞こえていますが、非常に甘い見通しに基づいた議論であり、当面は断固として拒否していきたいと思っています。

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「独立」フェチについて

(以下怒りをそのままぶちまけた内容ですので、感情的な表現を多用しています。ご注意ください)

日本に民主党という正体不明の政党が存在していることはみなさんご存知の通りです。長期にわたってなにひとつ善をもたらさなかったあの議会妨害勢力たる社会党を撃滅することに成功した我が国の民主主義はどうやらまた類似の議会妨害勢力によって撹乱させられ続けるという悲喜劇に直面しているようです。

わたしは積極的な自民党支持者であったことは一度もなく、民主党に票を投じたこともあります。ただ我が国が憲政の常道を歩むこと、政党政治が成熟することを願い続けているわけですが、この民主主義国にあって当たり前の願望がなぜ叶えられないのか一国民として不思議に思うばかりであります。なぜ我が国の政治指導者たちは国民に対して適切な選択肢を提供するのに失敗し続けるのか。

言うまでもなくこの不満と憤りは現在の日銀総裁の選出過程における民主党の「馬鹿」としか言いようのない戦術によってもたらされたものであります。わたしは汚い言葉は実生活でもネットの世界でも使いたくないのですが、こう言うほかないような醜悪さです。民主党が宣う「財金分離論」なるものが反対のための反対にすぎないことは明々白々であります。もし本気で言っているのならば正真正銘の「馬鹿」でしょう。

「中央銀行の独立」とは政府と政策目的を共有しつつ、その政策手段に関しては中央銀行は独立して判断をするという考え方のことであります。ところが民主党にあっては(あるいは日銀にあっては)中央銀行には政府の政策目的に背く自由があるということを意味するようです。実際、日銀が2000年代に入って政府の懸念をも撥ね除けて奇妙な金融政策を行い続けることで不況の長期化をもたらしたことは多くの知るところであります。

この「独立」の語の物神化のプロセスを見る限り、あの忌まわしい統帥権問題を想起するなというほうが難しい。かつて政友会と民政党の政争のための政争から「独立」の語の意味が拡大解釈され、ついにこれが濫用されるという結果に陥ったことは歴史を知る者の常識であります。

第二にこの選出劇において民主党は根本的に我が国が直面している問題を理解していないことを暴露してしまいました。デフレの進行する中で行われた低金利政策がなんだったのか、現在景気後退の懸念の中にあって先進国各国において金融緩和の必要性が叫ばれている意味を民主党は理解していない模様なのです。わたしが知る限り、民主党には金融政策について十分な知識のある議員も何人かいるはずなのですが、この不毛な政争のせいで彼らの声は圧殺されているようです。

日銀総裁の選出は日本一国の問題ではなく、世界経済の動向にとってもある程度は重要な問題です。それを政争の道具にするとはなんという政党でしょうか。インド洋での給油問題の際にあれだけ国際非難を浴びたことを民主党はどのように受け止めているのでしょう。こんな視野狭窄に陥った知性もなければ能力もない政党を誰が支持できるというのでしょうか。あの戦術はあっても戦略のない党首がいすわっている限り、この茶番劇は続くのでしょうか。これが出来レースであることを願うばかりでありますが、どうやらこの党首は政権奪取のためならば日本そのものを人質にとることも辞さない気のようです。本末転倒いちじるしい話であります。

PS 統帥権問題と言えば現幹事長の祖父にあたる鳩山一郎ですね。鳩山兄弟は現政界においてなんだか訳の分からない存在として異彩をはなっていますが、鳩山家の来歴に少し関心が湧いてきました。鳩山家の料理本とか勉強法とかアレな本はありますが、それほど図書が出ていないですね。代表的な研究者って誰なんでしょう。気になったものだけクリップ。
鳩山一族—誰も書かなかったその内幕 伊藤 博敏
The Hatoyama Dynasty: Japanese Political Leadership Through the Generations by Mayumi Itoh

PS 白川氏が総裁を代行してその間に協議で選定するという手続きになりそうですね。経済はまあなんとかもつでしょう。大げさに書きましたが、民主党に完全に絶望しているというわけではないです。ただ与党を攻めるにしてももっと戦略的かつ生産的にやってほしい。前に書きましたが、行政のガバナンス全体の問題を突いてチェックアンドバランスの効くシステムを構築してほしい。政党政治が成熟し、新たなシステムが機能するまで政治的混乱は続くでしょうが、それができるだけ短期間で済むように心から願っています。

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岸信介

岸信介—権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))原 彬久
ずいぶん前に読んだ本ですが、ブックオフで100円になっていたので購入して再読。非常にバランスのとれたいい新書です。岩波ということで特に警戒する必要もないです。筆致は冷静で淡々としていますが、飽きさせることなく、さりげなく散りばめられている興味深いエピソードにひかれたこともあって最後まで一気に読めました。岸信介は毀誉褒貶が激しい人ですが、間違いなく凄い政治家です。著者は「権勢の人」と呼んでいますが、これは蔑称ではありません。その理想への情熱と怜悧な知性と狡智に長けた権謀術数には圧倒されます。こんな政治家が日本にもいたのだなと感慨にふけりました。

岸の評価としては満州がらみのいつもの批判は別にしても、最近では日本経済に統制的な要素を導入した責任者として指弾するという1940年体制論者の批判が有力みたいな印象を受けますが、どうも批判としては底が浅いような気がします。なんとか論者に仕立て上げるにはかなり複雑で多層的な人ですから。政治家であって思想家じゃない。こういう真のマキャベリストはどんな矛盾でも平気で飲み込んでしまう。

戦前はともかくとしても戦後に関しては、小選挙区制の導入による2大政党制の提案にせよ、安保改定にせよ、非常に正しい認識だったと言わざるを得ないでしょう。また反対派はいったいなにをやっていたんだと言わざるを得ない。社会党のミスリードっぷりにはあきれてしまう。どこまで本気だったのかよく分からないんですよね。

この人に関しては国粋主義者とか国家社会主義者とかそういうレッテルをはって片付けてしまうのは実に惜しいことだと思います。あ、そう言えば、お孫さんもいましたね、おじいさんからいったいなにを受け継いだんでしょうねえ。

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異端審問

ヴァチカンが異端審問に関する展示会を開催しているようです。Revisiting the Inquisition[Newsweek]ヨーロッパの暗黒史としてこの異端審問は今でも恐怖の感情をひきおこす対象になっていますが、この展示会の目的はいわれているほどひどくはないことを示すためのものだそうです。現在の対テロ戦争における囚人の虐待や拷問について米欧諸国へ警告を与える意図もあるとのこと。むー。そういう言い訳になりますか。ローマのヴィットリアーノ美術館で異端審問にまつわる「神話を解体する」ために開かれたこの展示会には拷問具みたいなエグいものはなく、ユダヤ人やプロテスタントの迫害に関する史料や禁書目録やユダヤ人居住区の地図、監獄のスケッチなど60点ほどが展示されているそうです。ひざの出血部分を「修正」されたイエスの磔刑画が目玉のようですね。なにか地味な印象です。

これは異端審問が思われているほど残酷ではなかったことをヴァチカンが示そうとした最初の例ではないそうで、2004年には悪名高いスペインの異端審問で処刑されたのは被疑者のうち1,8%に過ぎなかったという内容のレポートを出版したこともあるそうです。確かに異端審問は近代の刑事訴訟法の先駆けともいうべき当時にあっては先進的な裁判制度だったと言われていますね。世俗の法廷などよりもはるかに理論的にも制度的にも厳密かつ稠密なものだったそうです。それぐらい知的リソースが結集していたわけです。

ヴァチカンとローマ市の共催でこれはイタリア史における両者の複雑な関係の和解の意味合いもあるそうです。またローマ教会の透明性を高める試みの一環として位置づけられている模様。とはいえこの程度の展示では異端審問の全容にせまるというわけにはいきません。異端審問に関する研究はそれこそ山のようにありますが、ヴァチカンに秘匿されている史料が完全公開される日は来るのでしょうか。すごい史料がまだまだたくさん眠っていそうな印象があるがゆえに作家の想像力を刺激するのでしょうね。

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批評系

Japan Focusに吉本隆明と柄谷行人という戦後を代表する2人の批評家の社会運動に対するスタンスを論じた記事がありました。From Withdrawal to Resistance. The Rhetoric of Exit in Yoshimoto Takaaki and Karatani Kojinここで言う批評は普通のレヴューのことではなく、哲学的、理論的な背景をもった一群の言説のことです。単に作品を解読するにとどまらずその背景にあるもの、言語の謎とか人間存在とか政治や社会とかそういうものを論じるジャンルです。日本ではこの批評が非常に発達して、公共的な議論の中で特異な位置を占めたと言われています。ふつうは哲学者や政治学者が果たすべき役割まで批評家が担った、担わなければならなったわけです。この2人が知的世界でヒーローだったのはたぶん昭和という時代が関係しているのかもしれません。

それはともかく「撤退から抵抗へ」というこの記事によると、吉本と柄谷はシステムへの抵抗の形式としての「脱出」という戦略を志向した点が共通していると指摘しています。そして論者によれば、社会運動とは声をあげること、街頭でのデモや演説をふつうは意味するのであって、ラディカルな運動とつながる批判的知識人がデモを評価せずに、こうした戦略を説いているというのは非常に特異なことであるといいます。ちなみにタイトルのwithdrawalは撤退としましたが、退出とか隠遁とかひきこもりも意味する語です。つまり社会から降りることです。また脱出はexitですね。これはいいでしょう。

まず吉本氏は60年代の政治運動に全体主義的な動員の臭いを嗅ぎ付け(この臭覚は先の大戦で身につけた)、左翼の知識人主義を批判するとともに、非イデオロギー的な大衆の私的な利害感覚を称揚したとされます。なんだか坂口安吾みたいでかっこいいですが、滅私奉公ではなく闇市的な私的利害志向が戦後民主主義の基礎なのだと。彼の言う「大衆の自立」とは政治エリートやその他の権威によって介入されずに非政治的なままで生きていく権利の擁護であったといいます。また80年代以降の消費社会の擁護は、それが大衆の生活水準の向上をもたらしただけではなく、彼の嫌う国家や市民社会(公共圏)を掘り崩していく力をもっていたからだといいます。なるほどこう言えば完全に首尾一貫した立場です。彼の最大の敵はもともと国家や知識人共同体であって資本主義ではなかったし、現在も撤退の形としてひきこもりを積極的に擁護するのもうなずけます。論者が言うように彼の大衆の私性の擁護はナショナリストやポピュリストの大衆の偶像化とも全然ちがう。ただ彼のいう「超資本主義」が多くの問題を解決するのはいいとして具体的な戦術としてなにをすればいいのというのには答えてくれないという問題があると指摘しています。なにもしなくていいというのもわたしには立派な回答のような気もしますが。

一方の柄谷氏は吉本氏が批判的に支持した60年代の学生運動への幻滅から出発した。ルールを共有しない他者同士が出会う場として国家や民族を相対化するグローバル市場に対して肯定的であったという点では吉本氏と共通していたが、80年代にはバブルにわく日本に対してより批判的であった。それが90年代以降は市場に対してより批判的な立場を強めていくようになったといいます。この転回がなにを意味しているのかについて特に説明はありませんでしたが、ともかくアクティヴィズムに回帰した。彼の言う「資本、ネーション、国家の三位一体」に対抗するべく伝統的なヒエラルキー的な組織ではなく「アソシエーション」に希望を見いだし、新しい社会運動を開始したわけですが、ここで論者はこの運動がシステムからの「脱出」を目的としている点に注意しています。以下詳しく彼の運動のプランが論じられますが、撤退やプライバシーや匿名性の権利が確保されている点で先行者のレガシーを受け継いでいるとされます。また街頭デモや暴力のような戦術を完全に拒否しているのは60年代の敗北の経験に負う部分が大きいとしています。このNAMとかQとかいうのは結局うまくいかなかったんでしたっけ。ただの地域振興券がどうして資本主義の乗り越えになるのだという批判はむかし目にした記憶があります。

以上のように吉本氏や柄谷氏の戦略は通常の社会運動とは異なって、私的であること、撤退することに価値を見いだしている点で共通しているといいます。これに対して柄谷氏の運動に参加していた若い世代から非正規労働に対抗する運動が生まれつつある。ここでは脱出のモチーフが消え、街頭行動への回帰、声の回復が生じているといいます。また撤退ではなく抵抗することへの転換が見られると。一方で中央集権的な組織を嫌い、私的であることが確保されている点でやはり先行者のレガシーを受け継いでいるとしています。

わたしにはこうした社会運動がどこに向かっていくのか、ここでいう抵抗がなにをもたらすのかよく分かりませんが、このように縦の流れでたどっていくとたしかに日本の60年代以降の展開に一本の筋が通っているのだということはこの記事から受け取れました。もっともこれはひとつの流れに過ぎず、もっと複雑な展開があるのでしょう、きっと。ただ政治の季節の敗北以降、人々は非政治的になり、政治はオートマティックに作動するばかりで日本の民主主義はうんぬん、それにひきかえ欧米ではといったリベラル系の人にありがちな説教話でなくてよかったです。ともかく60年代、70年代の負の遺産をどう処理するのかが課題になっている様子が見て取れます。まだ世の中的には社会運動というとゾンビみたいな人達のことだというイメージが強いわけですからこれはなかなか大変な作業でしょう。ほんとうを言えば、わたしは反国家とか反グローバリズムとかいった大仰な目的そのものに対して懐疑的なこともあって、こうした運動があまり観念的にならずに地に足の着いたものになればいいなという希望をもっています。ともかくこの記事は日本の文脈を深くおさえているのでこれは外国人に対していい紹介になるでしょう。

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右翼のみなさん

今朝国会前で右翼の活動家と思しき男性が拳銃で抗議自殺したようです。国内のニュースでは政府の外交方針についての抗議が書かれていたという話ですが、BBCではこれを靖国問題の一環として報じています。神社の写真つきで。内容そのものはただのテンプレ記事です。

The man was holding two letters, according to police. One urged Prime Minister Yasuo Fukuda to take a firm line on foreign policy and the issue of the Yasukuni shrine.

The other letter was addressed to the media, calling on journalists to promote visits to the controversial shrine.

Yasukuni honours soldiers who have died in the service of the emperor, including 14 people convicted as Class A war criminals after World War II.

Japan's neighbours believe it is a place that glorifies militarism.

The annual visits to the shrine by former Prime Minister Junichiro Koizumi, damaged relations with China and South Korea.

Mr Fukuda has said he will not go there while in office.

Japan's right-wing activists are a small but vocal minority. On occasions they have shot at and killed left-leaning politicians.


日本語ソースでは靖国の話が見当たらないのですが、実際どうなんでしょうね。おそらく事実に関して誤りはないだろうと思います。わたし自身は靖国に対しては両義的な感情をもっていますが、こうやって右翼の神社みたいなイメージが広められるとそれ必ずしも正しくないよと言いたくなります。またこの記事にはられているリンクをたどるとまた歴史問題の話につきあわされるという仕組みになっています。

こうしてこの人のせいでまた靖国のイメージが悪くなるわけです。右翼のみなさん、衷心より申し上げますが、あなたがたの写真や映像は日本をおとしめるためにさんざんメディアやネット上で使われています。こうした政治的に無意味で短絡的な行動もまた我が国の品位をいちじるしくおとしめる行為に他なりません。愛国者だと本気で思っているのならば一般人を怯えさせ、国益を侵害するだけの馬鹿げたパフォーマンスをすぐに止めて地道に日本社会に貢献してください。

PS 領土問題や拉致問題とならんで靖国参拝に関しても「毅然とした態度」を求めたそうです。ところでBBCやAPが靖国だけに焦点をあてているのはなぜなんでしょうね(棒読み)。

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タックスヘイヴン

この世の中にはタックスヘイヴンと呼ばれる法人税等の税金がかからない地域が存在していることはご存知でしょう。口座に関しては秘密主義をとっているので脱税やマネーロンダリングの舞台になりやすいこともあり、国際謀略モノの小説なんかではよくお目見えするところです。タックスヘイヴンについては英語版のwikiがよくまとまっています。

それでヨーロッパのリヒテンシュタインという小国はこの租税回避地として有名だったわけですが、ついに欧米諸国が捜査にのりだした模様です。ドイツが主導しているようですが、イギリス、スウェーデン、フランス、イタリア、アメリカも調査に加わっている模様。租税当局にも顧客データが渡されたようです。さあ、誰が捕まるのでしょうね。
リヒテンシュタインの隠し口座、欧米各国が一斉調査[朝日]

記事の後ろの方にあるように、テロ組織や犯罪組織の資金源になっているという理由から、911テロ以降、OECD対タックスヘイヴンの戦いが繰り広げられてきたのですが、ここでリヒテンシュタインが軍門にくだったという流れです。EUではアンドラ、モナコなどが残されていますが、ここにもいずれ捜査の手が入ることになるでしょう。地理の時間にこうした小国がなぜ国として成り立っているのだろうと思ったものでした。もう国としては消滅してしまいそうですね。

ちなみにイギリスの属領になるジャージー島でスキャンダルが発生したようで、BBCなどで連日報道されています。Island's 'culture of secrecy'[BBC] ここも有名な租税回避地ですので、なにか偶然とも思えないものを感じます。もっともこのスキャンダルというのは施設における子供の虐待に関するもので、かなりショッキングなものですが、マネーロンダリングなどとは無関係の事件です。ジャージーの「秘密主義の文化」についてもバッシングされているようですので、これを突破口に捜査の手が及ぶこともあるかななどと想像してしまいます。ところでリヒテンシュタインやジャージーの歴史ってすごく面白いですね。小国の知恵には舌をまくものがあります。

 

池田信夫さんがこうした動きについて、有名なケイマン諸島の例を挙げつつ、主権国家対グローバル資本主義の戦いと捉えています。

しかし状況は、9/11で一変する。それまでオフショア規制に反対していたアメリカが、「テロマネー」を根絶するために、国家主権も人権も無視する強硬手段で、マネー・ロンダリングの摘発に乗り出したからだ。その具体的な状況は、テイラー『テロマネーを封鎖せよ』に描かれているが、結果的にはこの作戦は失敗に終わった。テロリストの金はケイマンからも逃れ、(経済学者の予想どおり)アルカイダのつくった「地下金融網」に潜ったのだ。
 
他方、このブッシュ政権の強硬策は、ケイマン諸島の合法的なビジネスに大きな打撃を与え、資金は香港、シンガポール、バミューダなどに流出した。その結 果、ケイマンの黄金時代は終わったが、アンダーグラウンドの資金はさらに複雑で見えにくい形で増殖している。このグローバル資本主義と主権国家の闘いは、 これからも果てしなく続くだろう。

まあそうなんでしょうね。今はどこに逃げているのでしょう。東京市場からヤクザマネーの追放の動きも着実に進んでいるようですが、それが日本経済にとっていいのか悪いのか、ちょっと考えてしまいます。

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外人ブログ

ちょっと重たい話を。ほとんどの日本人に気付かれていないですが、この広大なるウェブの世界には日本関連ブログや日本関連フォーラムの世界というものがあります。そしてこうしたJ-blogやJ-forumの一部として「外人ブログ」および「外人フォーラム」というものがあります。こうした舞台で活躍しているのは主として日本在住のアングロサクソン系の人々のようです。ここで「外人」という言葉は使うのは、彼ら自身がその名称に固有の意味を付与してしまっているからです。私はこの語は差別語だとは勿論思わないのですが、少なくない「外人ブロガー」はこれを差別語とまではいかなくともある種の負の記号と認識した上で自称に使っています。つまりここには微妙なアイロニーと共同体意識があります。

それで外国人なり非日本人を書き手とするブログにはいろんなタイプがありますが、乱暴に言えば、「美しい日本の伝統を愛する派」と「日本っておもしれー派」と「日本を告発する派」に分かれると思います。ことわっておくとこれは専門家や批評家のブログではなくアマチュアの話です。

最初の美学派は日本好きに多いひとつの古典的なパターンです。私はオリエタンリズムの名の下にこういう人々の興味や関心を政治的にぶった切るやり方は好まないのですが(誰にも幻想を愛する権利はあると思うんです)、彼らの愛する日本はこのせせこましい日常からはかけ離れた日本です。私も日本の歴史や古典文化には興味はありますし、勉強になることも多いのですが、私が呼吸して生きているこの日本ではかならずしもない。

次の娯楽派は現代日本のサブカルチャーにはまった人たちです。海外にもオタクがけっこういることは、政府が日本の宣伝に使うご時世ですからもう有名ですが、実際、日本関係のブログではこれがいちばん多いでしょう。アニメやマンガはもちろんですが、映画やTVやJ-POPやアイドルやAVや電子ガジェットなど思いつく限りのネタに関してブログもフォーラムもあります。オタクですから海外でも非常に濃いです。まあこれはよく知られていますよね。在日外国人のブログでもサブカル関係ネタが多いです。以上は日本文化に興味のある層で、一部非常にシニカルなものもあり、またステレオタイプの生産を担う効果は必ずしも無視できないのですが、趣味の世界にとどまっている限り実害はそれほどない。

で問題なのが最後の社会派です。gaijinを自称するブログやフォーラムの多くはこのカテゴリーに属していると言ってもいいのかもしれません。私はこれまで半ば見て見ぬ振りをしてきたのですが、ここのところどうにも無視できないような「事件」があちらこちらで起こっているし、また彼らの言説がメディアにも微妙に影響を与えつつあるようなので、これは日本人に広く知られてしかるべきだと思うようになりました。大多数の与り知らぬところで少数の英語話者の間で物事が進んでいくというのは非常に好ましくない。

こうした社会派の生態をThe Westerner's Fear of the Neonsignというブログがユーモラスに描いています。引用すると、

It's impossible to live in Japan for any decent length of time and not become cynical about politics. In the early stages, political views tend to be half-formed ones like knowing the LDP is “full of shit” but only being able to suggest that the Japanese electorate mates with “the other guys, you know, the good guys”. But the event that triggers the onset of becoming an ill-informed activist is either a horrific racist ordeal involving a Japanese pensioner gagging at the sight of your freakishly dishevelled chest pubes in a public bathhouse or, for people who aren’t Debito, buying a copy of Alex Kerr’s Dogs and Demons, taking it home and reading it fully clothed.

政治に対してシニカルにならずに長く日本に暮らすことはできない。最初の段階では、政治の見方は、自民党がクソだと知って、日本の選挙民が「他の連中、つまりいい連中」と組むように提案するといったような不十分なものになる傾向がある。しかし「無知なアクティヴィスト(ill-informed activist)」となる端緒を拓く出来事は、公共浴場で異国風に乱れた胸毛を見て我慢できない日本人年金受給者を巻き込んだおそるべき人種主義の試練だったり、あるいはDebitoでない人々にとっては、アレックス・カーのDogs and Demonsを買って家に持ち帰って読むことだったりもする。

From this it becomes obvious that Japan is a bad tooth in need of some severe canal work. But the Japanese people themselves don’t realise this; the ill-informed activist alone can save them from their political mire. That is, if he can escape from the clutches of arch-nemesis, Black Vans. Such a person always goes into a paranoid flap at the sight of said nationalist sound trucks, even when the announcement is actually saying: “Takeshima belongs to the Japanese! Advance this position strongly at the next Asian summit! And please buy a lottery ticket!”

これ以来、日本はやっかいな治療の必要な虫歯のような存在であることが明らかとなる。しかし日本人はこのことに気付いていない。無知なアクティヴィストのみが日本人を政治的窮地から救うのだ。復讐の神たる「ブラック・バン(註、街宣右翼のあれ)」の魔の手から逃れることができたならば。こうした人間はたいていナショナリストのサウンドトラックを見てはパラノイドの興奮状態におちこむ。実際には次のように叫んでいたとしても。「竹島は日本領だ!次のアジア・サミットでこの立場を強く訴えろ!どうか宝くじを買ってください(註、意味不明、ダフ屋のイメージ?)!」

Now don’t misunderstand me here. Real activism and self-empowerment are noble indeed. This particular activist, however, shuns actual engagement. He tends to rely on the latest op-ed in The Japan Times for information and his protests never go further than the audience of his English-language blog.

ここで誤解しないで欲しい。本当のアクティヴィズムとエンパワーメントは確かに尊いものだ。しかしこの特殊なアクティヴィストは実際の社会参加は避けるのだ。彼は最新のジャパン・タイムスの社説に情報を頼る傾向があり、彼の抗議は英語ブログの読者より前に進むことはないのだ。

というようにカルト的なネット・アクティヴィストの集団がいるんですね。ここで触れられているデビトという帰化した日本人、小樽の温泉で入浴拒否されるという「事件」(その背景は複雑なようですが)を契機に人権活動家に転身したとされる人物ですが、外国人識者からこれまでも多くの批判がなされてきたにもかかわらず、一部ではカリスマ扱いされています。彼とそのフォロワーの特徴はおそろしく独善的で奇妙な迫害妄想を抱いている点にあります。この独善性は遅れた存在である日本人を教導せんとする優越コンプレックスと日本にいて酸っぱい生活をしているという惨めな現実のギャップによって日々強化されているようです。

主に外国人差別の問題を針小棒大にとりあげてはデマをひろめて歩いているわけですが、それだけなく第二次大戦時の戦争犯罪を持ち出しては日本人がいかに残酷なのかを訴えたり、あるいは軍国主義の復活が近い!といった妄想をまきちらしたりと英語圏の日本関連の情報を汚染することを生き甲斐にしている奇特な人々です。本人達は人権の闘士で反差別運動の旗手のつもりなのですが、この崇高な目的ゆえに彼ら自身の日本人への偏見や差別は正当化されてしまいます。実際、ひどいものです。この手のアクティヴィズムには往々にしてともなうわけですが、本人達は栄誉ある行為をしていると真剣に思い込んでいるという点に問題があります。つまりブレーキがない。

なにに似ているかというと偏執狂的なところも含めて2ちゃんねるの嫌韓厨が思い起こされます。違いがあるとすれば、嫌韓がアジア系同士の同族嫌悪的な部分が強いのに比べて、この無知なアクティヴィスト達は欧米至上主義者、ひどい場合には無自覚なアジアフォビアであるという点でしょうか。別に嫌韓のほうがましだなどとは言うつもりはありません。まあどちらに似たようなものだと思います。ただ困ったことに嫌韓は公的場面からはほぼ排除されているのに対して(ネットが公的場面なのかどうかは問題ですが)、おめでたいことに無知なアクティヴィストをありがたがる日本人もいるわけですね。土人扱いされているのも知らずに。

日本語がほとんどできないこともあって、もっぱら英語ソースに頼っているわけですが、ジャパン・タイムズとかジャパン・フォーカスとか左傾の英語メディア、また毎日新聞の英語版などが情報元になっているようです。ここから彼らの嗜好に合うニュースだけを選択して都合の悪いニュースは無視するわけですね。こういう非常に偏った情報環境にあって日本人とろくにコミュニケーションがとれない状態で同志うちで固まっていくわけですからどんどんカルト化していくのも無理はない。それで企業や学校に脅迫メールを送ったり、押しかけたり、裁判の被告のプライバシーを暴いたり、海外のメディアに登場して日本の悪口を言ったりするのですから実害が出始めている。困ったことにそのオーディエンスも日本語情報に接することができないので彼らのデマに簡単に同調してしまう。このネットにひきこもっているアクティヴィスト達の最大の問題は「日本人vs非日本人」というマニ教的な対立図式を奉じて日本人との間のコミュニケーションを拒絶している点でしょう。つまり差別的な個人ではなくて記号としての「日本人」(そんな実体は存在しない)と戦っている訳です。

さすがにこいつらおかしいということで最近になって英語のできる日本人ブロガーや日本のことをよく知っている在日外国人ブロガーが批判を始めています。どこかでブレーキをかけないとバックラッシュがいずれ来るでしょうから批判すべきは批判したほうがいいのでしょう。そのことはいずれ書くとしてまず私たちの与り知らないところでこんなプロレスが行われていることをとりあえず紹介しておきます。日本人ブロガーも日本語にどっぷりつかっていないで日本関連の英語ブログの世界を覗いてみて、また英語のある程度できる人たちはコメント欄などに下手でもいいから自分の意見を表明してコミュニケーションすることをおすすめします。いろいろ学ぶことが多いですし、相互性の欠如がどれほど不幸な事態を招いているのか身に染みて自覚できると思います。もっとも2ちゃんねらーみたいなノリで参加しないでくださいね。それは彼らを利するだけですから。

追記

誤解のないように言っておきますと、私はここで我々日本人は名誉にかけて「反日外人」と戦わねばならないなどと主張している訳ではありません。問題はコミュニケーションの欠如にあり、英語話者のネットワークで流言飛語が広まっている状況に敏感たれと言いたいのです。かなり不健全な状態だと思います。正確な中和的情報をどんどん流す一方で、日本人だけではなく在日外国人と協力して悪質な部分については周縁化していく戦術をとるべきでしょう。日本社会の側が在日外国人の声のうち正当とみなし得るものに対して謙虚に耳を傾けるべきことは言うまでもありません。一方、コミュニケーションを拒絶しようとする輩についてはイデオロギーではなく事実に基づいて批判していくべきでしょう。特にリベラルな感性の人々に言いたいのですがね、この手の状況を放置することで結果として社会の不寛容を高めてしまうんですよ。なお通俗的な日本人論をこよなく愛するのは文化保守と左翼とこの手の人々だというのはなんとも皮肉な話ですねえ。

再追記

「美学派」と「サブカル派」と「社会派」について言及しましたが、「日常派」に言及しないのはまずかったですね。心和まされるのは最後の人々です。こういう人々が多数派なのでしょう。

再々追記

このエントリを書いて以降、情報の多様化も進んで状況はだいぶましになりつつあるように思います。いくつかの悪所がつぶれ、無知なアクティヴィストへの批判の声も強くなりました。日本語ができる若い人達も増えていますし、将来にはさほど悲観的ではないです。

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