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批評系

Japan Focusに吉本隆明と柄谷行人という戦後を代表する2人の批評家の社会運動に対するスタンスを論じた記事がありました。From Withdrawal to Resistance. The Rhetoric of Exit in Yoshimoto Takaaki and Karatani Kojinここで言う批評は普通のレヴューのことではなく、哲学的、理論的な背景をもった一群の言説のことです。単に作品を解読するにとどまらずその背景にあるもの、言語の謎とか人間存在とか政治や社会とかそういうものを論じるジャンルです。日本ではこの批評が非常に発達して、公共的な議論の中で特異な位置を占めたと言われています。ふつうは哲学者や政治学者が果たすべき役割まで批評家が担った、担わなければならなったわけです。この2人が知的世界でヒーローだったのはたぶん昭和という時代が関係しているのかもしれません。

それはともかく「撤退から抵抗へ」というこの記事によると、吉本と柄谷はシステムへの抵抗の形式としての「脱出」という戦略を志向した点が共通していると指摘しています。そして論者によれば、社会運動とは声をあげること、街頭でのデモや演説をふつうは意味するのであって、ラディカルな運動とつながる批判的知識人がデモを評価せずに、こうした戦略を説いているというのは非常に特異なことであるといいます。ちなみにタイトルのwithdrawalは撤退としましたが、退出とか隠遁とかひきこもりも意味する語です。つまり社会から降りることです。また脱出はexitですね。これはいいでしょう。

まず吉本氏は60年代の政治運動に全体主義的な動員の臭いを嗅ぎ付け(この臭覚は先の大戦で身につけた)、左翼の知識人主義を批判するとともに、非イデオロギー的な大衆の私的な利害感覚を称揚したとされます。なんだか坂口安吾みたいでかっこいいですが、滅私奉公ではなく闇市的な私的利害志向が戦後民主主義の基礎なのだと。彼の言う「大衆の自立」とは政治エリートやその他の権威によって介入されずに非政治的なままで生きていく権利の擁護であったといいます。また80年代以降の消費社会の擁護は、それが大衆の生活水準の向上をもたらしただけではなく、彼の嫌う国家や市民社会(公共圏)を掘り崩していく力をもっていたからだといいます。なるほどこう言えば完全に首尾一貫した立場です。彼の最大の敵はもともと国家や知識人共同体であって資本主義ではなかったし、現在も撤退の形としてひきこもりを積極的に擁護するのもうなずけます。論者が言うように彼の大衆の私性の擁護はナショナリストやポピュリストの大衆の偶像化とも全然ちがう。ただ彼のいう「超資本主義」が多くの問題を解決するのはいいとして具体的な戦術としてなにをすればいいのというのには答えてくれないという問題があると指摘しています。なにもしなくていいというのもわたしには立派な回答のような気もしますが。

一方の柄谷氏は吉本氏が批判的に支持した60年代の学生運動への幻滅から出発した。ルールを共有しない他者同士が出会う場として国家や民族を相対化するグローバル市場に対して肯定的であったという点では吉本氏と共通していたが、80年代にはバブルにわく日本に対してより批判的であった。それが90年代以降は市場に対してより批判的な立場を強めていくようになったといいます。この転回がなにを意味しているのかについて特に説明はありませんでしたが、ともかくアクティヴィズムに回帰した。彼の言う「資本、ネーション、国家の三位一体」に対抗するべく伝統的なヒエラルキー的な組織ではなく「アソシエーション」に希望を見いだし、新しい社会運動を開始したわけですが、ここで論者はこの運動がシステムからの「脱出」を目的としている点に注意しています。以下詳しく彼の運動のプランが論じられますが、撤退やプライバシーや匿名性の権利が確保されている点で先行者のレガシーを受け継いでいるとされます。また街頭デモや暴力のような戦術を完全に拒否しているのは60年代の敗北の経験に負う部分が大きいとしています。このNAMとかQとかいうのは結局うまくいかなかったんでしたっけ。ただの地域振興券がどうして資本主義の乗り越えになるのだという批判はむかし目にした記憶があります。

以上のように吉本氏や柄谷氏の戦略は通常の社会運動とは異なって、私的であること、撤退することに価値を見いだしている点で共通しているといいます。これに対して柄谷氏の運動に参加していた若い世代から非正規労働に対抗する運動が生まれつつある。ここでは脱出のモチーフが消え、街頭行動への回帰、声の回復が生じているといいます。また撤退ではなく抵抗することへの転換が見られると。一方で中央集権的な組織を嫌い、私的であることが確保されている点でやはり先行者のレガシーを受け継いでいるとしています。

わたしにはこうした社会運動がどこに向かっていくのか、ここでいう抵抗がなにをもたらすのかよく分かりませんが、このように縦の流れでたどっていくとたしかに日本の60年代以降の展開に一本の筋が通っているのだということはこの記事から受け取れました。もっともこれはひとつの流れに過ぎず、もっと複雑な展開があるのでしょう、きっと。ただ政治の季節の敗北以降、人々は非政治的になり、政治はオートマティックに作動するばかりで日本の民主主義はうんぬん、それにひきかえ欧米ではといったリベラル系の人にありがちな説教話でなくてよかったです。ともかく60年代、70年代の負の遺産をどう処理するのかが課題になっている様子が見て取れます。まだ世の中的には社会運動というとゾンビみたいな人達のことだというイメージが強いわけですからこれはなかなか大変な作業でしょう。ほんとうを言えば、わたしは反国家とか反グローバリズムとかいった大仰な目的そのものに対して懐疑的なこともあって、こうした運動があまり観念的にならずに地に足の着いたものになればいいなという希望をもっています。ともかくこの記事は日本の文脈を深くおさえているのでこれは外国人に対していい紹介になるでしょう。

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