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ある国民主義者の肖像

徳富蘇峰?日本ナショナリズムの軌跡 (中公新書)Book徳富蘇峰?日本ナショナリズムの軌跡 (中公新書)

著者:米原 謙

販売元:中央公論新社
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明治、大正、昭和と健筆を振るったジャーナリスト、政治家、歴史思想家の徳富蘇峰の軌跡を描いた新書です。日本近代史に多少の関心がある人には徳富蘇峰という名前はおなじみでしょうが、今日顧みられることがあまりないこともあって、いくつかの挿話的な知識を除けば、その仕事について知っている人は稀でしょう。本書は徳富蘇峰の言論活動を時系列に辿ることで日本ナショナリズムの変転を描き出そうという試みです。たった一人の人物に焦点を当ててそんな大きなテーマを論じられるのだろうかと疑問に思うむきもあるでしょう。ところがこの信じられないほど精力的な人物は一身で各時代の精神をそのつど体現しているような貴重な存在なのです。その言論人としての活動は明治19年(1886)から昭和32年(1957)まで71年にも及び、ライフワークである「近世日本国民史」100冊の偉業に加えて著書も200冊を優に超えるといいますから(新聞に寄稿した論説やビラなど含めた全集はいったい何巻になるのか)、「驚」あるいは「狂」の字を冠したくなるような健筆ぶりです。明治の元勲世代を同時代に論じた人が憲法9条を語っているというのは不可思議な時間感覚をもたらすものがあります。

まず、帯刀を許されたが武士ではない熊本の郷士の家系に生まれた事実を著者を強調しています。「全く自力にて食むもの」としての自負がこの人物の核をなしていたといいます。熊本洋学校でキリスト教に入信、同志社英文科に進学しますが、キリスト教を捨て退学するというようにその反骨精神は若いうちから発揮されていたようです。その後、熊本の自由民権運動に加わり、私塾大江義塾を経営しつつ、板垣退助と親交を結んだり、「改革政治家」の出現を待望する政治評論を執筆したりします。新世代の「青年」として論壇の寵児となる出世作「将来の日本」は、マンチェスター学派の自由貿易主義とスペンサーの社会進化論の影響を受けつつ、貴族主義的な軍事型社会から平民主義的な産業型社会への歴史の必然的な進化を説明して、前者を体現する老人達を後者を代表する新世代の青年が克服しなければならないと説くという一種の世代交代論です。後の蘇峰を知る者にはなんとも皮肉なことではありますが、中江兆民のあの「三酔人経綸問答」で西洋志向の理想主義的な青年として登場する「洋学紳士くん」はこの蘇峰がモデルなのではないかと著者は仮説を立てています。

その後アメリカの「ネーション」から名をとって「国民の友」を創刊、「改革」の論陣を張りますが、その際、蘇峰が敵としたのは上からの欧化主義者と保守主義者であったといいます。前者は鹿鳴館に代表される西洋風を上から押し付けようとする外相井上馨に体現される立場であり、後者は国粋保存を訴える陸羯南や志賀重昂らの立場です。国会開設、憲法制定、条約改正という国民国家日本の基礎づけの時期にあたって、蘇峰は英国モデルの近代化(自由貿易主義と議院内閣制)を構想し、商工階級の発達と彼らの主導権の獲得を夢見ます。これは具体的には旧自由党と改進党の「進歩党連合」の主張として展開されますが、明治24年頃の社会の保守化を前にして蹉跌してしまいます。

吏党と区別される民党の支持による藩閥政治批判は続きますが、彼の論調のトーンが変わるのが日清戦争の頃とされます。「国民の友」で「自主的外交」や「国家の拡張」が主張され始めますが、平民主義(国民的自由)と自主的外交(国家的自主)は連動されるべきであるという自覚にもとづく主張であったといいます。また傑作とされる「吉田松陰」では水戸学派的な鎖国論者ではなく「国民的統一、国体的保存、国権的拡張」を訴える開国論者として松陰を描き出します。つまりこの頃にはかつて対立した陸羯南らの国民主義と和解がなされています。そして日清戦争においては文明と野蛮の戦争という脱亜論的な立場から日本の戦争の正当化に努める一方で、ペリーによる強制的開国を「強姦」にも等しいとし、その後の条約改正の屈辱をはらすための「国民雄飛」の機会としてとらえていた点にも著者は注意を向けています。文明国の立場を欧米にアピールしつつ、この戦争を欧米の偏見に対する勝利として捉えたというわけです。

戦争の勝利に酔いしれた日本を襲ったのは三国干渉という平手打ちでした。よく引用される有名な「戦争によりて一夜のうちに巨人となりし国民は、平和談判のために、一夜に侏儒となれり」からはこの時の蘇峰の落胆ぶりが伺えますが、すぐさま「世界の人情を活現する国民」として「世界の同情」を博する存在になれと立ち直ります。ここでいう「人情=ヒューマニティー」は西洋列強の偽善を超えたものとして蘇峰が文明の普遍性を訴える際によく使うことになる概念です。その後、第二次松方内閣で政界に接近し、「国民新聞」も政府の機関誌化しますが、これは平民主義者蘇峰の「変節」として非難される原因になります。

日露戦争が近づくにつれ、蘇峰を悩ませたのは人種と宗教の問題だったといいます。黄禍論が広まり始めていた欧州巡歴から帰ったばかりの蘇峰は人種については「人性の共通」、宗教については「人道の一致」を強調すべきであり、アジア主義を断固として否定します。また帝国主義とは「平和的膨張主義」であると強弁し、平和主義を掲げながらの侵略主義に過ぎないという批判を受けます。無論そのことを知り抜いているわけですが、列強と対立する愚を犯すよりも協調して帝国主義政策を実行するのが国際政治的現実に合致すると説いたわけです。以後、日英同盟締結から日露戦争のプロセスでは桂内閣のスポークスマン的役割を果たします。戦争の際には「世界の同情」を買うことを説き、アジアには地理的名称以上の意味はなく、日本は黄色人種を率いるつもりもない、ただ「文明社会共有の慶賀」を得たいだけなのだと宣伝します。もちろんこれは宣伝に過ぎず、この戦争が「人種的競争」であると別のところでは断言していることを著者は強調しています。

日露戦争後、日本を襲った思想的、社会的混乱の中、蘇峰は「白閥打破」さらに「亜細亜モンロー主義」へと急速に反欧米に転回していくことになりますが、著者によれば、その契機となったのが日英同盟改定の頃であったといいます。信頼を寄せていた英国との関係が希薄化するに従って「広き世界に孤立せる一個の旅烏」というように日本を形容するようになり孤立感を深めていったといいます。政界との関係も断ち切り、再び一記者の立場に戻った蘇峰は「白閥打破」を語り始めます。言葉は勇ましいですが、欧米列強に同等の存在として承認されることは人種および宗教の理由から不可能であるという断念の思いを吐露したものと著者は見ています。

これが「亜細亜モンロー主義」という強い主張へ転化したのはアメリカへの敵愾心でありました。蘇峰は日露戦争後の米国における反日世論の高まりを早くから観察していましたが、第一次世界大戦後、欧州の疲弊を尻目に大国化する米国の「西漸」の動きに徐々に警戒心を募らせていったといいます。ここで抑圧していた人種のテーマが浮上し出します。アジア人が劣等人種とみなされている状況では「擬白人」となるか黄色人種であることを誇りとし白人に承認させるかふたつの道しかない。前者の道は欧化主義者が目指して失敗したものであり、それは「烏が孔雀の真似」をしてかえって侮辱されるようなものであったと。以後、「国民新聞」ではアジアのことはアジア人が処理する主義として亜細亜モンロー主義が唱えられ始めます。これに追い討ちをかけたのが排日移民法であり、この事件への激怒により蘇峰のアジア回帰が完成したといいます。

ウィルソン主義の偽善を早くから見破るなど大正時代にはまだ国際情勢への鋭い洞察力のあった蘇峰ですが、昭和に入るとすっかり時事論文からは生彩が失われていった著者は評価しています。まず老齢という身体的問題、また修史作業に没頭していったこと、さらにジャーナリズムの狭隘化が挙げられていますが、いずれにせよ満州事変以降はひたすら精神主義的に戦争遂行を鼓吹する「言論報国」活動に邁進したとされます。中国を裏でささえているとしてソ連と英国を敵視する一方で、米国との戦争は回避すべしという論陣を当初は張っていましたが、三国軍事同盟のあたりからは鬼畜米英になってしまったようです。

敗戦時82才で、一切の公職から退き、A級戦犯容疑指名を受けますが、老齢と健康上の理由から容疑解除となり、自由の身になるとさっそく執筆活動を再開します。完全に日本と同一化していた蘇峰にとっては自己の敗北そのものであったといいますが、戦後は日本国家の再生の作業にとりかかります。老齢にもかかわらず文体はすっかり生気を取り戻し、執筆意欲も旺盛になったといいます。蘇峰の言い分によれば、日本は本来好戦的でも自己中心的でもない、明治維新以降の運動は国家の自存自衛と自尊心を守るためのものであり、日本の戦争は列強と同等の扱いを受けられなかったことへの不満の爆発であった、敗戦は日本の「自業自得」であるが、これを責め、罰する資格は欧米にはないと東京裁判を批判する一方で、アメリカに対しては、この勝利により世界の心配を一手に引き受けなくてはならないという貧乏くじをひくことになった、「勝ったアメリカざまを見ろ」と毒づいています。その一方で戦争の原因は中庸を失って自己陶酔と自己欺瞞に陥った自分たち国民にあるとして皇室中心の国体の擁護をし、また冷戦下の対日政策に関しては日本の弱体化は米国の利益にならない、共産化の波を防ぐには日本的民主主義を認めて日米提携すべきだ、という風に親米ナショナリズムへと転回しています。以上のように時代の空気を読むのに敏感な蘇峰は戦後のナショナリズムの形を予告することにある程度成功したと著者は評価しています。最後に「頼朝論」において隠忍自重の「保守的政治家」の理想像を描いてこれを戦後の国民に贈ったといいます。これが最後に落ち着いたところだったようです。

蘇峰はいかなる意味においても原理主義的でなく、機会主義的であったし、そのことを信条にしていたような人ですから、時代の変化へのそのすなおなまでの順応ぶりを批判することにあまり意味はないような気がします。キリスト者、自由民権論者、平民主義者、日本主義者、国家主義者、帝国主義者、アジア主義者、親米保守主義者と変転を重ねるのですが、一言で言うと「国民主義者」ということになるのでしょうか。近代日本の苦悩も歓喜も絶望も国民とともに分かち合った生涯だったのでしょう。わたしの政治的志向とはどう考えても一致しないにもかかわらず、また言論人としてこの人の盲目性と無責任性は批判されてしかるべきにもかかわらず、憎めないばかりかどこか惹かれてしまうのは、この人の天真爛漫なキャラクターのせいというばかりではなさそうです。その秘密はおそらく多分読まれることのない「近世日本国民史」100巻に書かれているのではないかと想像したりもします。

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コメント

帝国主義とは「平和的膨張主義」であると強弁し、平和主義を掲げながらの侵略主義に過ぎないという批判を受けます。無論そのことを知り抜いているわけですが、列強と対立する愚を犯すよりも協調して帝国主義政策を実行するのが国際政治的現実に合致すると説いたわけです

→ここらへんが非常に微妙で、それ以後の日本の選択もそうですが、振り返ってみれば非常に残酷な亜細亜への侵略や暴行があったわけですが、そしてそれに関しては申し開きようんがないわけですが、それじゃ、過去の様々な場面で、どうしたらよかったの?と考えると、一概に日本の侵略主義が諸悪の根源だった、といってことたれる、とする一部の風潮にも同意しかねるところがあります。

投稿: 空 | 2008年4月16日 (水) 18時59分

帝国主義の最盛期ですからね。日本の帝国主義だけを絶対悪とすることはできないでしょう。もちろんよりましな選択をしていればよかったわけですが、貧乏くじを引いてしまったのはやはり「自業自得」としか言いようがないとは思いますがね。被害者意識と陰謀論的解釈のせいで国際情勢認識がおかしくなってしまった。

投稿: mozu | 2008年4月16日 (水) 19時55分

なかなか難しいところですね。自業自得のところはあったと思います。いろいろ論争があるところですが、因みに、Mozuさんのお考えではどの辺で手を打っておけばよかったとお考えですか?

投稿: 空 | 2008年4月16日 (水) 20時01分

どこでというのは難しいですが、最低でも対米戦争さえ回避できていたらなあという感想です。南部仏印進駐の読み間違いがなければ、アメリカの参戦はおそらくなかったでしょう。最近ではこの点で識者の間で意見が一致してきているんじゃないでしょうか。

もちろん大陸戦争で現地軍が戦線を広げ過ぎたのも問題だと思います。少なくとも満州にこもっていればよかった。その場合でも戦後にはフランスのアルジェリア撤退みたいな泥沼になったでしょうけれども、それでも「よりまし」には違いない。

投稿: mozu | 2008年4月16日 (水) 20時19分

ありがとうございます。
歴史ってのは、こうしなかったら、こうしていたら、という発想は禁じ手だとも、言われると同時に、そう考えてみるのも歴史をみる訓練の一つですね。
 間違った道をとってしまったことはいまとなっては、明かですが、それでは、どこで手を打っておくべきだったか、そして、それはあの状況で可能であったか・・・・答えようのない形而上学的な問いなのかもしれません。
 確かに、少なくとも満州でとどまっていれば、その後の混乱はあったにせよ、いまほどではなかった、といえるかもしれませんね。

投稿: 空 | 2008年4月17日 (木) 06時33分

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 日本の近代史において、関係国の一次史料が公開されはじめたと何度も紹介している。日本の歴史研究者、歴史学者は米国の史料をあたることはあっても従来は、国内の歴史資料ばかりを対象とすることがほとんどであった。冷戦終結で旧・ソ連の史料が英国の情報機関へ流出というか、旧指導者の金銭を伴う提供だと想像できるが、「ミトローヒン文書」や「ヴェノナ文書」等がある。  これを基にした書籍、日本では未訳のアレキサンドル・コルバキディ他共著『GRU帝国』や、これは読んでいるが、ユン・チアン他著『マオ 誰も知ら...... [続きを読む]

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