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68年をめぐる論争(番外)

もうこのネタは終わりと書きましたが、番外編ということでル・モンドの「視点」欄に掲載されていた日本の記事を紹介しておきましょう。他にも作家のポース・オースターが自分の運動体験について書いている記事もありました。Le nouvel observatoireは1968年の紙面を仮想的に再現する企画をやっていて、当時の中国や日本の動向の記事もアップされています。日本では1968年4月28日に学生が警官隊に投石したニュースがありますね。

「日本の5月あるいは祝祭と記憶なき暴力」(Le Monde)Par Michael Prazan
今日フランスでは新聞、テレビ、ラジオなど至る所で「5月の大祝祭」が祝われているが、日本ではそうしたものはなにもない。しかしこの国での学生反乱は1968年に爆発を経験した全民主主義国の中でおそらく最も大規模かつ最も攻撃的なものであった。

日本の学生運動の連合である全学連(1965年に発足)は、世界中の、とりわけフランスの学生達を魅了した。シチュアショニスト達は全学連に熱のこもったテキストを捧げたし、ジュネが東京に来て、ピエール・ゴルドマンも空手を始めた。この列島も間接的に参加していたベトナム戦争、そして体制主義的、権威主義的な社会に反対した日本の学生達は自治や組織化の手本であった。彼らは西側世界の反乱の最先端におり、そのメートル原器でもあった。

1968年に火薬に火をつけたのは日大─「栄光の30年」世代の象徴─の大学当局による20億円の横領であった。この横領は学生の一人秋田明大によって非難されたが、彼はすぐに学生運動のリーダーに抜擢され、我らがダニエル・コーン・バンディットに相当する存在となった。彼はみなから忘れられて、今は広島郊外の奥深くに引きこもって修理工場主をしている。いったいなにが起こったのか。

自由に飢えた日本の運動は驚喜して東京中心部や他の至る所で巨大デモに参加し、当初は人々の広範な支持を得ていた。フランスと同じように。1968年の夏の始まりに停止しなかったことを除いては。運動はなお1年ほど続いたが、内部闘争、街頭での乱闘、暴力的逸脱で分裂し、数ヶ月のうちに人々の好意を失い、1969年1月の東大の安田講堂の占拠にまで至った。これは日本の機動隊との市街戦で終了したが、この後、主要な学生リーダー達は全員投獄された。

しかし、確かにより「戦闘的」であったが、ヨーロッパやアメリカと同じように自由で、女性解放的で、反人種主義的で、「反戦的」だったこの運動には正しいものがあったのだが、問題は次に起こったものであった。1年後、1970年に学生運動から派生した極左集団の日本赤軍は、日本航空の飛行機を北朝鮮に転じて、国際テロリズムへのゴーサインを出したのだった。日本の指導者の暗殺や爆弾が日本のあちこちで炸裂して多数の死傷者を出し、1972年冬の山荘の恐るべき事件へと至った。日本でのありそうもない革命に備えて、長野の山荘で訓練をしていた赤軍の一派が同士討ちを始めたのだった。狂気に襲われた集団の若いリーダー達に命じられた拷問、虐待、暗殺は14人の犠牲者─そのうちの一人の女性は9ヶ月の子供を宿していた─という結果となった。この醜悪なエピソードに日本の全テレビによって放映され続けた人質事件が続くのであった。

この出来事のトラウマは人々の間で非常に深く、先行した運動の全面否定を、さらにこれに関連した全左翼党派の完全否定すら生み出した。日本共産党は戦後最強の政党の一つであったが、これ以降、文字通りに崩壊し、その勢力を決して挽回することはなかった。そしてこれでは十分ではないというばかりに、赤軍の別のグループは「世界革命」を行うべくレバノンのパレスティナ解放戦線に加わり、同年5月にテル・アビブのロッド空港で世界初の自殺テロとなるものを実行した。26人の死者と約100人の負傷者。2000年までこのかつての学生達の写真は日本中の駅や交番に掲げられ、日本社会に鈍い耐えざる脅威の負荷を課し続けた。

フランスにおける68年5月の記念が示すもの、それはこの「事件」が祝祭の範囲のものに過ぎず、日本を、また旧枢軸の他の2国(ドイツ、イタリア)を震撼させた過激派集団による政治プロジェクトに至るものではなかったということだ。日本は学生運動の目に見える痕跡をとどめていないが、これはかつてフランス以上に権力を動揺させ、今日は当時の完全なる忘却の下にある。1968年のエリート学生達─そのメンバーはフランスのように著名人になったものもいる─は武勲をもたない。そのキャリアを通じて彼らは自身の若気の至りを忘却させようとして止まないのである。
(了)

細かい事実の間違いが見られますが(死者数、要人暗殺の言及、赤軍派、連合赤軍、日本赤軍の差異など)、フランスの能天気さに比べて日本の冷ややかというよりも無関心な態度はよく活写していると思います。わたしは世代的なこともあるのでしょうが、肯定的であれ否定的であれ、この時代に特に強い感情を持たないのですが、ここで生じているらしい記憶の切断には関心があります。一番大きいのは1945年ですが、歴史というよりも集合的記憶のレベルではプッツリ切れているポイントというのがいくつかあります。実際には連続性があるにもかかわらず。こうした現象はどこの国にも存在しているわけですが、日本社会にとってもややネガティブな効果をもたらしているような気が個人的にはしています。それは欧米では68年は肯定的な意味をもったのに対して、日本では云々といった話ではなく─それは欧米(ってどこ?)のことも日本のこともよく分かっていない物言いです─、どうも清算主義的に過ぎるといいますか、この記事にもありますが、過去に対する「全否定的」態度というのは一般的に言ってよろしくないと思うわけです。そうすることによって逆説的に過去の一時点に固着してしまうことになる。といってももちろんノスタルジーの奨励や過去の不可能な称揚を勧めているわけではなく、歴史の持続の事実への敏感さを失わないためにもこういうトラウマ的な記憶のポイントをいかに処理するのかという問題は重要だろうという話です。抑圧されたものが歪んだ形で回帰するのを防ぐためにも─こういう精神分析的な発想は信用しないはずなのに、実際、わたしはオウム事件にそれを感じました─本当の意味で過去の亡霊を「殺す」ことが必要だということです。そのためには対象化しないといけないわけですが、当事者世代による武勲詩やら告白録やらは別にして(親世代を反復しているのは皮肉な話です)、まだまだ十分に言語化されていないように思います。とはいえ完全に歴史化されるには世代交代が必要になるのでしょうね。

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