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ガストン・トン・サン

フランス領ポリネシアの大統領選挙については以前とりあげましたが、いつの間にか中華系のガストン・トン・サン氏が新大統領に就いていたようであります。どうやらパリがガストン・フロス氏とオスカール・テマル氏の「自然に反した同盟」を切り崩すことに成功したようです。そんなのありかと思わず言いたくなりますが、ガストン・フロス氏の勝利を受けて与党UMPが絶縁宣言した後に、どういうごたごたがあったのか舞台裏についてよく知らないのでここは口ごもっておきましょう。簡単に説明しておきますと、ガストン・フロス氏(大ガストン)はシラクとの腐れ縁の関係にあった「自治派」のリーダーで、オスカー・テマル氏は言わずと知れた独立派の領袖です。この二つの党派がしのぎを削っていた中、するすると姿を現したのが新顔のガストン・トン・サン氏(小ガストン)です。

ル・モンドにガストン・トン・サン氏のプロフィール記事がありましたので紹介しておきます。タイトルのzenですが、冷静沈着なぐらいの意味でよく使われます。勿論日本語から入った言葉です。またこれをとりあげるのはフランスの海外県や海外領土に関心があるからというだけではなく、太平洋島嶼部への文化的また地政学的関心からであります。核実験問題もありますしね。

「ガストン・トン・サン、ポリネシアの禅大統領」[Le monde]
ポリネシアの政治階級の中でガストン・トン・サン氏は伝統的な花柄のシャツよりも灰色のスーツと暗い色のネクタイをつけるといった具合に対照的だ。「彼は反フロスなんだ。働き者で誠実だけれどカリスマも権威もない。フロス時代の後にポリネシア人が求めていたプロフィールなんだ」と海外県領土担当省のあるメンバーは断言する。

彼は海外におけるUMPの希望を体現している。シラク時代─この領土でガストン・フロス、ジャック・ラフルール、リュセット・ミショー・シェブリといった人物達が我が物顔に振る舞い、パリが政治的、財政的逸脱に目を塞いでいた時代─の新たなページを開きたいという意思を。

ガストン・トン・サン─独立派の指導者オスカー・テマルが2月に「エストロシのマリオネット」(かつての海外県領土担当大臣)と呼んだ─はメトロポルとの関係の正常化の意思を隠さない。4月16日、フランス領ポリネシア大統領選出の翌日に、彼はPapeeteの大統領官邸に荘厳な入場式を行い、権力の移譲後初のフランス国旗とポリネシア国旗の掲揚に参加した。共和国とフランス領ポリネシアへの帰属を強調するための象徴だ。ステップの上で退任する大統領ガストン・フロスがうつむいて彼を迎えた。「小ガストン」が「大ガストン」に復讐したのだ、大ガストンが転覆活動に加わった8ヶ月後に。

彼の小柄な体躯はあだ名の「イティ」(タヒチ語で「小さい」)にぴったりだ。しかしこれはまた─独裁的な「政治の師」である─「ニュイ」(「大きい」)のあだ名をもつガストン・フロスの対になってもいる。フロス上院議員は彼の党であるTahoeraa Huiraatiraに加わっていたかつての部下を打倒せんとしてきた。ガストン・トン・サンはこの党への所属の下に1991年にイル・ス・ル・ヴァンの議員に選出され、再編、都市化大臣として政府に加わったのだった。

この2人の男の間の対立はガストン・トン・サンが2006年12月にフェヌア(「国」)のトップに選出されて以来全面的なものとなった。ガストン・フロスは2007年8月にトン・サンを倒した問責決議を支持した。続いて2008年2月には大統領選挙で独立派とも同盟した。2ヶ月後もう一つの不信任決議がこの自然に反した同盟を終わらせた。ガストン・トン・サンが復讐したのだ、いささかも勝利者の奢りに高ぶることなく。

戦後、ボラボラに生まれた彼はポリネシア人の母と─すぐにどこかに消えた─中国出身の靴直しの父の息子だ。ガストン・トン・サンは漁師でコプラ農家の優しい義理の父がやって来る頃から記憶がある。10才で彼はボラボラを立ち去って、タヒチの中学と寄宿学校で学んだ。「働くことは中国人の家ではなによりも優先するのです」と彼は想起する。彼はメトロポルで高等教育を受け、ENACの試験に落ち、リールのEcole des hautes etudes industriellesに登録した。

彼は1989年のボラボラの市議会議員選挙で初めての選挙戦をたたかう。30年近くもの不在の後、40才にして自分の島への帰郷であった。ボラボラ市長は自分を国の息子と考える。中国系であることを問われると、「中国語は話さないがフランス語とタヒチ語は話す」と彼は言う。「私の母語は隣人の言語だ」と強調する。彼は自分のアジアの起源を否定しないが、ボラボラの王族の血について長々と述べることを好む。

最近、労働組合の指導者が「国がアジア人に指導されることを恐れる」と宣言した。大統領は「火に油を注ぎたくないし、この言葉をあまり重大なものとしたくない」。しかし彼は「中国人というよりもタヒチ人」だと自分を感じると明確にしたがっている。1960年代にフランスに帰化するのに中国人の一家が名前をフランス化しなければならなかったことにショックを受けた。「これは─名前を我々に変えることを要求した─共和国の唯一の刻印です」。

フロス・テマルの同盟は痕跡を残した。この同盟は独立派と自治派の伝統的な政治的断層を人種主義の臭いのする深い分断に代えた。一方を根っこであるポリネシア人、他方を外来と考えられる要素─中国系、popaa(メトポリタン)、demis(「混血」)、トン・サンを一斉に支持した人口集団だ─とに分ける分断だ。新海外県領土担当大臣イヴ・ジェゴは「ポリネシア社会の分断のリスク」を心配している。「開放戦略を実現する」と彼はポリネシア大統領を信用している。

友人達は彼を禅だと言っている。彼は独立派のオスカー・テマルの理念だけでなく、彼によれば「より多くの金を得るためにより多くの権限を望んだ」自治派のガストン・フロスとも断絶したところに自分を位置づけている。「私の立場は異なっています。核はもう過去のことです。ポリネシアはより多くの金ではなく真のパートナーを必要としているのです。経済的に自立するために国家の援助が減少するのは当然のことです。」

小ガストンがこの海外領のトップにいられる能力をもつのかどうか疑いを抱く者もいる。「彼は欲望の渦巻く中ペンチで抜かれます(意味不明)。自分の政党をもたないので連立を構成する党派の意のままになるからです」とフランス領ポリネシア大学政治学科助教授のSemir Al-Wardiは分析する。この研究者はまた「二重の性格」として語る。「彼はフロス時代の逸脱を演説で非難するが、彼自身こうした政治のやり方に浸っていました。彼はこうしたやり口を残していました」。こうして彼は若者省に2度汚職で非難された官房長官を採用させた。

常に不信任決議の噂がPapeeteの政治的ミクロコスモスを揺り動かしている。ガストン・トン・サンの多数派はポリネシア議会の57議席の内29議席と脆弱だ。ポリネシア大統領の主要な切り札はパリにいて、ニコラ・サルコジと呼ばれる人物だ。共和国大統領は彼への支持を惜しまなかった。2007年に既に彼を迎え入れたが、今週にもパリで彼と会談する予定だ。4億3500万ユーロにのぼるプロジェクトの契約に調印するためだ。ポリネシアとその大統領が必要とする酸素吸入器だ。
(了)

Carte_polynesie

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