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歌木簡

聖武帝の紫香楽宮跡から万葉の歌木簡が発見されたというニュースですが、これは万葉集の成立(745〜)以前のもの(743〜745破棄)と推定されるそうです。写本は11世紀半ばが最古ですからオリジナルにもっとも近い史料ということになります。大発見でしょうね。

木簡に墨守されていた歌ですが、「安積山(あさかやま)の歌」と「難波津(なにわづ)の歌」の2首。前者が万葉集に収録されている歌で、後者は古今和歌集収録歌です。古今集の歌木簡というのはこれまでに見つかっていましたが、万葉集の歌木簡としては初めての例です。それでその歌ですが、

安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに

難波津に咲くや木の花冬こもり今を春べと咲くや木の花

の2首です。福島県の安積山は安積香山とも表記するみたいですが、大意は「安積山の影までも見えるほど澄みきった山の泉ほど浅い心でわたしはあなたを思っているわけではありません」といったところです。この相聞歌ですが、陸奥国に派遣された葛城王(橘諸兄)が現地の国司の接待に不満を示したところ、機転のきく采女がこの歌を詠んだことで葛城王が機嫌を直したという詞書とともに伝わるものです。以下です。

右の歌は、伝へ云へらく、葛城王(かづらきのおほきみ)の陸奥国に遣さえし時、国司の祗承(つか)ふること緩怠(おろそか)にして異に甚し。時に、王の意(こころ)悦(よろこ)びず、怒の色面に顕れ、飲饌(みあへ)を設(ま)けしかども、あへて宴楽せざりき。ここに前(さき)の采女あり、風流(みやび)たる娘子なり。左の手に觴(さかづき)を捧げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日(ひねもす)なりきといへり。

「国司の祗承ふること緩怠にして異に甚し」は字義通りには国司がなすべき祭祀を正しく行っていなかったということなんですが、どういう祭祀なのかは記述がないですね。また「前の釆女」はかつて人質として皇室に献上されたことのある地方豪族の娘という意味なのか、皇室に仕えたことのある巫女という意味なのかよく判りませんが、いずれにせよ歌の技をかつて都で学んだということなのでしょう。たぶん。

また古今集の仮名序で紹介される「難波津の歌」は王仁が仁徳天皇の治世の繁栄を歌ったとされるいわゆる雑歌です。かるたの一番最初に詠まれる歌でありますが、当時(平安時代)ポピュラーだったと言われます。作者とされる王仁というのは百済から漢字と儒教を伝えたとされるあの伝説的な人物の王仁です。なおこの歌の花は桜ではなく梅だと言われていますので、大意は「難波津に梅の花が咲いています。冬ごもりの後、ようやく春が来たと言わんばかりに梅の花が咲いています」となるのでしょう。

Osk200805220118_3それで今回の発見がどういう意味をもつのかという点ですが、まず時期的に言ってオリジナルに限りなく近いだろうという点。それから写本は漢字仮名まじりなのですが、この木簡では万葉仮名で記されている点です。朝日新聞の記事のフォトにあるように、「阿佐可夜(あさかや)」と「流夜真(るやま)」の7字が、「奈迩波ツ尓(なにはつに)」と「夜己能波(やこのは)」と「由己(ゆこ)」の13字が判読されたようです。わずかな事例ではありますが、万葉仮名研究の資料になるのでしょうね。

それから論点としてはこの2首がセットになっているという点のようです。この点について各社の記事が触れていますが、産経の記事を引用しますと、

木簡の両面に記された「安積香山の歌」と「難波津の歌」の2首は、905年に編まれた『古今和歌集』の序文「仮名序」で紀貫之が、「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は、采女の戯れよりよみて、この二歌は、歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と紹介。最初に覚えるべき和歌の手本だといっている。さらに年代が下った『源氏物語』などでも、手習いの歌としてセットで登場する。

「木簡の両面が古今和歌集(の序文の2首)と、まさに同じペア。すごく驚いた」とは、大阪市立大文学研究科の村田正博教授(国文学)。2首をセットにしたのは貫之の独創とも思われていたものが、実はその150年前からセットとして認識されていたことになるという。

とあるように平安時代に紀貫之がこの2首を「歌の父母」と呼び、子供のための手習いの歌として紹介しているのですが、この2首をセットにするのは奈良時代からの伝統であったことが判明した訳です。これは新事実の発見ですね。

なお産経はこのネタにずいぶん力を入れていまして、いろいろな学者の発言を紹介していますが、その中で目を惹いたのが甲子園短大の木本好信教授の政治史的な解説です。要するに藤原氏対反藤原氏の政争ですが、固有名を列挙すれば長屋王、藤原4兄弟、橘諸兄、藤原広嗣、藤原仲麻呂、大伴家持といった人物達がめまぐるしく登場するアレです。教授は聖武天皇の皇子たる安積親王の擁立運動(反藤原側、つまり橘諸兄や大伴家持による)をこの木簡の読解の鍵にしています。

「紫香楽宮では、家持や諸兄らによる安積親王の擁立運動が盛り上がっていた。安積香山の歌を口ずさんで、同じ読みの安積親王を連想しないことはありえない。天皇の治世の繁栄を歌った難波津の歌と裏表なのは、示唆に富んでいる」

こう指摘するのは、奈良時代の政治史に詳しい甲子園短大の木本好信教授。「安積親王の擁立で安定した国家を築こうとしたことを、2首の組み合わせから読み取ることは可能」という。

万葉歌木簡の年代は743年秋から745年春にかけて。安積香山の歌は、相手への深い気持ちを伝える意味が込められていることから、親王追悼の儀式で詠まれた挽歌の可能性もあると、木本教授はみている。

安積香山=安積親王の音に頼りすぎのような気もしないではないですが、歌会や儀式で使われたという一般論よりもかなり踏み込んだ解釈です。まあ和歌の解釈というのは短いだけあってどこまでもできてしまうのではありますが。まだまだ出土するかもしれませんので今後の調査に期待したいところですね。短命に終わった紫香楽宮がどういう都だったのかという観点からも興味深いものがあります。この辺の政治史もよく判らないことが多いんですよね。

追記
・日本史の年号変換フリーソフトがFlog in a wellで紹介されていました。これとても便利ですのでおすすめしておきます。ここからDLできます。ドイツの日本史研究者が作成したもののようですね。

・天漢日乗さんのエントリが勉強になりました。手習い用というのがどうも正しいような気がしてきました。

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