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荘園絵図

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遷都1300周年に合わせたように発見が続いています。江戸時代まで東大寺に保存されていたもののその後消失していた日本最古級の地図が発見されたというニュースのことです。この地図を含めて8世紀の東大寺荘園絵図19点は現存する日本最古の地図として有名なものみたいですね。なおこれは世界的にみても非常に稀少なもののようです。確かに私の知る限り同時代の欧州にはこうした資料は存在していないはずです。中国では作製はされていたようですが、残っていないみたいですね。なぜ日本にこんな古い地図が残っているのかというのもちょっとしたミステリーではあります。

最古級の荘園絵図を発見…奈良国立博物館「国宝級」[読売]

◆東大寺所領、外部流出の1枚

奈良時代中期に奈良・東大寺が所領した荘園の開発状況などを描いた荘園絵図=写真上=が見つかった。正倉院宝物として現存する同時期の荘園絵図18点とともに江戸時代まで東大寺に一括保存されていたが、その後外部に流出し、所在不明だった絵図であることが奈良国立博物館(奈良市)の調査でわかった。日本で最も古い時期に描かれた地図原本の一つで、同博物館は「正倉院宝物より保存状態が極めて良く、国宝級の発見」と評価している。

「越中国射水(いみず)郡鳴戸開田地図」で、縦77センチ、横141センチの麻布製。現在の富山県高岡市の一部を、東を上に、「条里」と呼ばれる碁盤の目状の区画に割って、荘園の範囲や地番、田の開発状況を個別に墨書き。「沼」などの書き込みや水路のような線がある。

造(ぞう)東大寺司や東大寺僧、越中国司の署名と「天平宝字三年(759年)十一月十四日」の日付が添えられていた。

東大寺では、越中と越前、近江の開田図や墾田図を中心に、奈良時代中期の麻布の荘園絵図19点を保存していたが、うち1点が江戸時代後期に外部に流出。一時、個人所蔵となったが、戦後は所在不明だった。残る18点は明治初期に献納され、正倉院宝物となった。

同博物館は、今回見つかった絵図のほぼ全面に押された97個の「越中国印」の印影などを正倉院宝物のものと比較した結果、外部流出した1点と確認した。

正倉院宝物以外で現存する同様の荘園絵図は、国宝・額田(ぬかた)寺伽藍(がらん)並(ならびに)条里図(国立歴史民俗博物館蔵)しかない。

同博物館はすでに絵図を購入しており、修理後、同博物館で一般公開する。

杉本一樹・宮内庁正倉院事務所長の話「(正倉院宝物の荘園絵図と異なり)修理の跡がほとんどなく、当初の状態に近いところが大変貴重だ。この価値を損なわないよう保存・展示してほしい」

■荘園絵図

荘園で収穫される米などは当時、寺などの経営基盤を支えていたため、その荘園の所在や田の開発状況などを絵図として記し、重要な書類として取り扱われた。奈良時代の荘園絵図は、日本最古の地図群として、当時の地形や地名の研究にも欠かせない。
(2008年5月24日)

この「越中国射水郡鳴戸開田地図」のあまり解像度の高くないフォトを目を凝らして見ると確かに「条里制」の痕跡が見て取れます。この8世紀の富山県の地域社会の断面を眺めているとなにか心を打たれるものがあります。荘園絵図というのは実用目的で作製されたものということですので、古代人の世界観をストレートにイメージ化した世界図のような地図類とは性格が違うのでしょうが、それでもこの絵画性から当時の人々の空間認知のあり方だとか律令体制的な政治意思だとか読み取れるのでしょうね。正統的な荘園史のみならず様々な視角からこの資料は利用できそうです。東大寺荘園絵図に関してネット上では文献情報以外見当たらないのですが、私みたいな素人はこの新書を読めば十分のように思えます。著者は歴史地理学の大家だそうですから内容は保証されているものと思われます。

この際ですので、古代の地図史を確認しておくと、日本最古の地図というのは646年2月8日の改新の詔によるもの(現存せず)という記述につきあたります。「日本書紀」の大化2年8月の部分を引用しておきます。

大化二年(六四六)八月癸酉【十四】》◆秋八月庚申朔癸酉。詔曰。[...]宜観国々疆堺。或書或図。持来奉示。国懸之名来時将定。国々可築堤地。可穿溝所。可墾田間。均給使造。当聞解此所宣。

「宜しく国々の疆堺を観、或は書し或は図し、持ち来って示し奉れ」、つまり地方豪族に地図作成を命じたという部分のことです。いわゆる班田収授法に関連した詔の中に見えますが、ご承知のように大化の改新の評価についてはややこしい問題があるようですので深入りしません。この図がどのようなものを指しているのかははっきりしませんが、徴税のためのものでしょうから、後の荘園図につながるような狭い範囲を対象としたものだったのかもしれません。

一方、もう少し広い地域一体の地図も8世紀になると作成された模様です。これも現存していないそうですが。実際、天平10年(738年)と延暦15年(796年)には諸国に国郡の地図作成が発令されています。それぞれ「続日本紀」と「日本後紀」の該当箇所は以下。

《天平十年(七三八)八月辛卯【廿六】》○辛卯。令天下諸国造国郡図進。

《卷五延暦十五年(七九六)八月己卯【廿一】》○己卯。巡幸京中。』始置正親司史生二員。』是日。勅。諸國地圖。事迹疎略。加以年序已久。文字闕逸。宜更令作之。夫郡國郷邑。驛道遠近。名山大川。形體廣狹。具録無漏焉。

「天下の諸国をして国郡図を造ってたてまつらしむ」とあるように天平10年に国郡図の作成が命じられています。延暦15年のほうの記述が少し詳しいのですが、それによると「諸国地図」が「事迹疎略、加以年序已久、文字闕逸」といった状態になったため新たに命じられたとあります。この「諸国地図」は天平10年に作成されたものなのかもしれませんね。ともかく延暦15年の地図は「郡國郷邑。驛道遠近。名山大川。形體廣狹」を示すようなものだったようです。

なお時代的に少し前後しますが、713年の「出雲風土記」には地理的に非常に詳細な情報が記述されていることで有名でありますが、これも国郡図の存在が前提になっていると考える方もいらっしゃるようです。このサイトが詳しいですのでご参考までに。ここで引用されている金田氏の見解を孫引きしますと、

天平十年(738)には、中央政府が諸国に「国郡図」の造進を命じた。国郡図というからには、少なくとも国単位でかつ郡が明示されていたものと思われるが、実物は現存していないので内容は不明である。 延暦十五年(796)新しく作製が指示された「諸国地図」には、「郡国郷邑、駅道遠近、名山大川、形体広狭」を録せとしたことを『日本後記』は伝えている。国・郡・郷は行政単位、駅道は国家管理の下に七道諸国を貫いた官道であり、まずは行政単位と官道の距離に加えて、邑つまり主要集落を記入し、かつ著名な山と大河、ならびに土地の形状と広狭を表現することを命じていることになろう。

とすれば、現存史料類の中でまず想起されるのは『出雲国風土記』の記述である。和銅六年(713)選上を命じられたものであり、例えば次のように記載されている。

  意宇の郡
合わせて郷は十一、餘戸は一、駅家は三、神戸は三里は六なり。(中略)
母理の郷 郡家の東南のかた三十九里百九十歩なり。(中略)
伯太川 源は仁多と意宇と二つの郡の堺なる葛野山より出て母理・楯縫・安来の三つの郷を経て、入海に入る。

このような内容が地図に表現されていると考えるのが最も推定しやすい状況である。天平十年のものがこれより疎略とすれば、さらに簡便なものとなるが、あるいは改訂のための単なる文飾に過ぎないかも知れない。

というわけで7世紀の半ばぐらいから律令体制が整備されていくのに応じて地図作成事業が進捗していく様子が伺えます。空間を支配、管理するにあたって地図というのは権力にとって必須の技術体系でありますから頷けるところであります。これは国家レベルの話ですが、東大寺の荘園図の場合には近隣との争論の処理みたいなもっとミクロな政治力学の文脈に置かれるのかもしれませんね。

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