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自殺報道

あいもかわらず自殺関連の話題に関してあまりにも無神経かつ不正確な報道がなされることにうんざりしています。もういいやという投げやりな気分になっていたのですが、気をとりなおしてエントリしておきます。まずこの不満は我が国のメディアに向けられるものです。全テレビ局が一斉に朝から晩まで扇情的に自殺関連情報を伝えることがルール違反であることは識者によってこれまで何度も警告されたポイントです。社会の闇だの心の闇だのに光をあてるのだとかいった大義名分の下に「民間社会学的、民間心理学的」なアプローチで連鎖のリスクの高い情報を流し続けるのは偽善を通り越して悪そのものだと考えます。おそらくは先だってのいじめ自殺事件の際の厳しい批判を受けて報道に携わる人々の中でもジレンマがあるだろうと推察申し上げますが、自殺報道に関するガイドラインを一刻も早く作成し、現場に周知徹底させることを要求します。

また自殺関連のネタに関しては海外報道にも私は非常に不満があります。空さんのブログで少し前にとりあげられていた記事なんですが、安易な文化的決めつけをしてはならないというのは外国の報道をする際の基本的なルールであると私は考えますが、英語圏の日本報道に関してはこのルールが全く守られていないようです。これがアンチCNN的な愛国的被害者意識にもとづいた印象論でないことは、私もそれなりに年季の入った海外ニュースマニアですから信用していただいてよろしいかと思います。日本報道の「異様さ」は他のアジア諸国に関する報道のバイアスとは一線を画すレベルにあるといっていいと思います。ここにいたるには長い歴史的経緯があるわけです。英語圏の日本報道に関して常にベストなのはEconomistであることは衆目の一致するところでしょうが、それでもいい加減な記事が掲載されることも結構あるわけです。こんな風に。

日本は豊かな国の中で最も高い自殺率の国のひとつである。部分的に文化的要因が働いている。日本社会は失敗や破産の恥から復帰することを人々に許すことは稀である。自殺は時に同意とともになされる─運命を回避するのではなくそれと向き合う行為として。侍の伝統は自殺を高貴なものとみなす(おそらくは利己的なものでないとして、というのも捕虜になった戦士はおぞましく扱われるので)。日本の主要な宗教である仏教、神道は自殺に対して、アブラハムの信仰が明示的にこれを禁止しているのと異なり、中立的である。 [...] 昨年政府は自殺率を9年で20%下げるという目的でカウンセリングのサービスとホットラインのような措置を制度化した。しかしこれは一時しのぎのものである。より重要なのは社会的態度の変化である。人々に生涯にわたる恥を耐えることを人に強いるよりも、人々にセカンド・チャンスを与える始めなるならば、自殺は一般的でなくなるだろう。

といった具合であります。現在の硬直的な労働市場を改革する必要性に関しては私も心から同意いたしますが、問題はこのわけのわからない「文化的解説」です。この記事を書いた記者の頭にあるイメージは分かりやすい。ルース・ベネディクトの「恥の文化」(戦争捕虜の尋問に基づいた「古典」)、ユダヤ・キリスト教圏以外では自殺はタブーでないらしいという思い込み(我々のみが倫理的基準をもつもんね)、侍の切腹イメージ(これが刑罰の一種でもある事実を無視、多分三島由紀夫のイメージが混じってる)、最後の捕虜うんぬんはオリエンタリズムへの迎合ぶりが痛々しい「戦場のメリークリスマス」の捕虜虐待の「文化的説明」の受け売りです。これがどうして10代、20代の現代女性の痛ましい自殺を「説明」するのでしょうか。ちなみにこのコメント欄はさすがにEconomistだけあって日本よりも高い自殺率の国を列挙して、敬虔なカトリックのポーランドの方が高い自殺率なのはどういうわけなのかとか、仏教は自殺を含めて殺生を禁じているぞとかといった正しいつっこみが入っております。だいたい侍と少女の関係はどこにあるんですか、Economistさん。さっきは文句をつけましたが、民放連の放送基準にもこんな条項があるのですよ。

49) 心中・自殺は、古典または芸術作品であっても取り扱いを慎重にする。 人命尊重は現代社会の基本理念である。いかなる場合でも、これを否定的に扱ってはならない。 古典、芸術作品でも、心中や自殺行為を美化・礼賛するものの取り扱いは慎重にしたい。

この点でやっかいなのはこうした文化的説明を往々にして日本人の側がしてしまうという事実であります。大島渚監督の最低の武士道映画が英語圏に与えたインパクトの跡がここにも見られますが、実際、文化保守だけでなく左翼論客も含めて好まれる通俗的な日本論(優れた日本論も勿論あります)は実はかなりの部分が想像された「西洋人」(そんな実体は存在しない)の視線を自己のアイデンティティー形成の軸として受け入れる(ステレオタイプや偏見も受け入れてしまう)というコロニアルな主体形成のモデルをなぞってしまっているわけです。もちろん父祖達の努力のおかげで現在の恵まれた地位にある日本国国民がアンチCNN的な熱情をもって西洋人の偏見と戦うべきだなどと呼びかけるつもりはありません。我々はもはやそんなポジションにはいないのです。ただ「文化的説明」は悪循環を生むだけですからわざわざこちらの側から提出する必要はないわけで実証的なデータがない事柄については判らないと率直に答える癖をつけましょう、また変な説明に対しては涼しい顔でおかしいね、どこの国の話、と答える癖をつけましょうとだけ言いたいのです。日本関連のニュースで彼らを実に満足させそうなことを喜々として語っている人がよく「日本人の声」としてとりあげられている(たぶん編集もかかっているわけですがね)のを見るたびに萎えた気持ちになるのは私だけではないでしょう。結局のところ偏見を互いに支え合っているわけです。たぶん英語の教本あたりから見直していくべきなんでしょうね。最後に日本のメディア自身がこうした安易な文化的説明を拡散したりするはずはないですよね(棒読み)。

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