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2008年6月

左の左

フランス左翼の分極化傾向はずいぶん前から明らかであったのですが、現在の社会党に不満を抱く層の独自路線の動きが活発化している印象を受けます。両者の対立軸というのは非常に複雑なんですが、簡単に言ってしまうと、市場経済(資本主義ですか)に対する考えの差異が根本的な分岐ポイントになっていることは言うまでもありません。「左の左」から見れば、社会党は「自由主義liberalisme」に妥協しすぎな体制派に過ぎないということになります。

ご存知の方も多いでしょうが、一応注意しておきますと、フランスでは「リベラル」というのはアメリカとは正反対で右翼です(保守主義と自由主義が右)。なお日本でも昔はそうだった訳ですが、戦後は欧州的意味のリベラルとアメリカ的意味のリベラルの両方がいて─あるいは社民主義者やアジア主義者や社会保守がリベラルと呼ばれるというよく判らない傾向のせいで─混乱を招いています。イデオロギー的多神教ともいうべきこの種の混沌を我が邦の国体であるとみなし、それはそういうものなのだと観じることもできるのかもしれませんが、少なくとも私には著しく難解な状況です。

話が逸れました。フランス左翼の分裂傾向でありますが、「左の左」を象徴する人物としてオリヴィエ・ブザンスノという人物がいます。社会党の人気低落傾向の一方で、最近のブザンスノ人気というのはたいしたものです。社会党のセゴレヌ・ロワイヤルよりも人気があります。実際、なかなか魅力的な人物ではあります。革命的郵便局員さんです。

Olivier Besancenot : une popularité qui commence à inquiéter le reste de la gauche[Le Monde]
がブザンスノ人気の分析をしていますが、それによると(以下訳ではなく要約)、Opinion WayとLe Figaroの調査で革命的共産主義同盟(LCR)のリーダーたるオリヴィエ・ブザンスノがニコラ・サルコジの最大のライバルに選ばれた。またExpressの調査でもフランスの政治生活により多くの影響を与えて欲しい3番目の政治家となった。45%から60%ぐらいの好意的評価を獲得しているこの男は社会党やかつて反リベラル同盟の仲間だった共産党のリーダー達を不安にさせている。サルコジはこの男を「すごくいい」と強調することを忘れず、右翼でル・ペンが占めるのと同じ位置を左翼で占めることを望んでいるようだ。

IFOPの研究によると、三つの段階を通じて公衆の前に存在感を増してきた。2005年の欧州憲法の国民投票、2006年のCPEをめぐる争論、そして2007年の大統領選挙だ。政治学者によればなおイメージ先行で確たる基盤を得ているとは言えないが、大衆の怒りの代弁者となった。市議会議員選挙でもLCRは顕著な結果を出している。この人気を受けて「反資本主義新党」の結成に向けた動きが見られる。6月28日と29日にサン・ドニで7000から8000人が集結する予定だ。しかしこの極左のリーダーの人気が新党の人気につながるとは限らない。

Tiberj氏によれば、LCRに近いとする選挙民は2%に過ぎない。「人々はブザンスノに投票するが、LCRのことは知らない。活動的、ラディカル左翼はブザンスノに投票するが、彼には社会党が失った一貫性と純粋性があるからだ」「もし社会党がコンプレックスなきリベラル路線を維持し、中道左派の道を目指すならば、ブザンスノは本当の居場所を得るだろう」とTiberj氏は語る。

というように今後右翼側で国民戦線が果たしたような役割をこの反資本主義新党が左翼側で果たすかもしれないといいます。反リベラルで極右と極左の勢力が拡大するといいますと、なにかあの時代を想起させるものがあって症候的な政治現象に思われますが、おそらくはエコロジー派やボヴェ(マクドナルド襲撃の人)ファンみたいな層も含めて現状不満勢力を糾合して一定の勢力をなしていくのではないかという予感がします。景気後退が長引くようなことがあればなおさらですね。なおサルコジのセリフはもちろん左翼の分裂を歓迎したものです。保守は国民戦線の攻勢にずいぶん手こずりましたからね。この左の左の動きはプロテスト勢力にとどまって政権の獲得をすることは勿論ないでしょうが、左翼の勢力地図を塗り替え、また欧州連合に対する国内世論にも結構な影響を与えていくことになるでしょう。ええと、欧州連合=リベラルです。

誰が読むのか判りませんが、この反資本主義新党結成の動きを告知しているル・モンド記事にも登場していたTiberj氏の呼びかけがありましたのでリンクしておきます。

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なぜかくもナショナリズムを恐れるのか

Japan Focusはその編者の選好のせいでJapan misFocusと呼びたくなるほど─ええ、煽ってますとも─内容的に偏りがあるサイトでありますが、それでも読める記事が掲載されることもあります。正直に言えば今回はそれほど興味深くもなかったのですが、こんな論調もありますよということでクリップしておきます。今日はあまり機嫌がよくないので、不愉快な表現もあるかもしれませんのでご注意下さい。

Laura Hein, The Cultural Career of the Japanese Economy: Developmental and Cultural Nationalisms in Historical Perspective[JF]
日本のナショナリズムの研究も大量生産され過ぎてもはや飽き飽きしているのですが、これは戦前戦後の経済ナショナリズムを扱った記事です。とはいえ対象になっているのは政府や企業や家計の行動ではなくて経済言説です。それを「時代精神」とみなしてナラティブを紡ぐというやり方ですね。もう方法論的に最初から危うい感じであります。戦前、高度経済成長期、1970年代80年代、1990年代以降と4つの期間に区切っています。

戦前のナショナリズムの特徴としては、欧州のナショナリズム(特に後発国)と似ている一方で、アジア国家であった点に日本の特異性が見られる。植民地と後発近代国のナショナリズムの特徴を同時に備えている。近代化に成功したにも関わらず、列強クラブから人種的に排除されたことに加えて、近代化=西洋化であるとみなされ、完全な西洋化の不可能性と自らの文化的正統性の喪失の不安がナショナリズムの根拠になっていた。その不安は特に戦間期に亢進し、反自由主義的で文化ナショナリズム的な経済思潮を生むことになった。満州国の実験がその実現であったと。これはもはや伝統的なナラティブといっていいでしょう。ただ現実の経済は戦時体制が構築されるまでは古典的なレッセ・フェールだったことに言及すべきではないでしょうかね。またナショナリズムについてももっと複雑だと思いますよ。

敗戦によって日本の特殊性は否定的に捉えられるようになり、開発主義的ナショナリズムとノ−マルな近代化の夢にとって代わることになる。他の先進国との共通性が強調され、古い社会的、文化的伝統が批判され、社会的平等が促進された。1970年代までに「二重構造」や「経済成長の歪み」といった批判も姿を消すほどの平等主義的な社会が実現し、環境主義的な「成長第一主義」の批判にとって代わる。この時期には過去の日本への批判はあっても日本の経済成長はノーマルなものであり批判は資本主義そのものに対するもので日本をこの逸脱として批判することはなかったと。近代主義者の黄金時代として描かれていますが、ここで言及される「開発主義的ナショナリズム」の中身はなんでしょうかね。いろいろな議論があることはそれなりに知ってはいますが、最低限の概念規定はして欲しいところです。ところで安保の頃の平和主義ナショナリズムや戦後民主主義者の日本特殊論についての言及はないんですかね。

しかし1970年代以降、文化ナショナリズムが再浮上することになる。グローバルな経済舞台に登場することで他者に日本を説明する必要が生じ、日本人論が人気を博することになる。日本の特殊性は経済に向けられ、過去を想起させる国家には向けられなかった。日本に関する海外の評価が翻訳され、討論され、受容され、拒否されといったように、他者に受け入れられないのではないかという不安がこの文化ナショナリズムを支えていた。文化的同質性が平等主義の理由として称揚されたが、勿論平等は戦後の格差の是正によるものであり、伝統的でもなんでもないと。この時期の日本論の隆盛をグローバルな環境との相互作用として捉える視点は大切だろうとは思います。とはいえ本当にこの時期を日本人論の時代としていいのですかね。私は一応この時代には存在しているのですが、あまり記憶にないんですよね。それにこの程度のナショナリズムのなにが問題なんでしょうね。実際、平和な時代でしたよね、うんざりするほどに。

1990年代の経済の悪化は楽観的な差異の称揚を不可能にし、文化的変化を受容すべきか、国際社会にどうアプローチするか、新自由主義的改革を受け入れるべきかといったように公論を両極化させる。ベストセラーになった「複合不況」は日本経済がグローバル経済に統合されている事実を強調しつつ、国内での開発主義的ナショナリズムの原則への呼びかけを行った。ナショナル・アイデンティティーの問いかけは諸々のリベラルな動きを生み出し、日本人はコスモポリタン的なアイデンティティーへと向かうように見えた。「1940年体制論」のように戦後の開発主義的ナショナリズムを批判し、新自由主義改革を唱導する声と石原慎太郎のような文化主義的ナショナリストの声が強くなり、小泉、安倍政権がこれを実現した。以下ずっと悪口が続きます。左派メディアの言説だけ追っているとこんな風に見えるんでしょうね。政治家の失言を並べるのがナショナリズムの証明なんですかね。こんな失言集ならどこの国に関してもつくれるような気がしますが。言論人はぎゃあぎゃあ喚いてますが、近隣諸国の恫喝にも関わらず、大衆はのほほんとしたもんですよ。そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか。あなたの恐怖はどこに起因しているんでしょう。それを掘り下げて文章にしてくれたほうが興味深いかもしれませんね。「なぜジャパノロジストはかくもナショナリズムを恐れるのか」。これを御題にみなさんなにか書いて下さい。よろしくお願いします。ついでにマコーマック氏もナショナリズムについて寄稿してますね。マクニールとかマクガイアとか我々はマックに呪われているのでしょうか。これはさすがに言い過ぎですか。そうですか。

The Keiretsu and the Japanese Economy[JF]
これは楽しいですね。三輪氏とRamseyer氏の系列神話解体に対する応答です。応答になっているのかどうか判りませんが。系列が存在しないだって!メインバンクなんてものはないだって!そんな馬鹿な!私が見たあれは幻だったのか!といった内容です。この研究はどれほど世間的に知られているのか判りませんが、たいそう刺激的なものです。だいたいジャパノロジストは政治学者や法学者や歴史学者や社会学者が多く、ごりごりの経済学者は少なかった上に、日本の経済学者はマルクス主義者ばかりだった─しかしなんという国なんでしょう、西側の一員ではなかったのですか、我々は─ために日本経済像はえらく歪んでいるが、普通の新古典派経済学で説明できてしまう、日本は特殊な国じゃなかったという話です。この議論は日本的経営批判や統制経済批判に依拠する一部の構造改革主義者のベースを掘り崩してしまうのでしょうが、刺激的過ぎて反発も多いようですね。上にあげた開発主義の話も同断なんでしょう。この文章はこの説への戸惑いをユーモラスに描いています。

追記
Japan TimesにKevin M. Doak氏のナショナリズム本の書評が掲載されていますね。国民主義、民族主義、国家主義、ナショナリズムという日本語(カタカナ語)を一括して英語でnationalismと呼んで議論することについては前々から疑問を感じていたのですが、どうもこの点でとりあえず一歩前進した議論のようです。全部一緒くたにして論じるから混乱が生じてきた訳ですよ。とはいえ例のcivic nationalism対ethnic nationalismという図式を外挿して論じているらしいのでそこはどうなのよという気がしてきますが。国民はcivic nationですか、無理訳ではないですかね。例えば徳富蘇峰はどっちなんですかね。まあ読んでいませんからなんとも言えませんけれどもね。

コメント欄にも書きましたが、ナショナリズム研究やナショナリズム批判は勿論あっていい。ただ客観的に言って東アジアで最もナショナリズムの弱い状態の国に批判が集中し、他の国はスルーという奇妙な言説効果をもたらしていることに自覚的になってもらいたいわけです。この扱いに対する不公平感が逆説的に日本のナショナリズムを高めてしまうかもしれない可能性について少し考えてみたらどうでしょうか。可能性ではなく一部では現実になっていると思います。

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waiwaiの閉鎖について

どうやらwaiwaiは閉鎖ということになったようですね。この件でずいぶん引用されたりリンクされたりしているようですので、改めて一言だけ書いておきましょう。既に以前のエントリで示したように、大手の一流とされる新聞が実話系の根拠の薄い(というかほぼ虚構ですよね)週刊誌の記事を面白可笑しく掲載しているのはメディアのタブロイド化が進んでいる昨今にあってもやり過ぎだろうというのが私の考えです。それはこれまで毎日新聞が築いてきた信頼を失わせる行為であり、いくら客商売だとは言ってもそんな醜悪な姿は見たくはないと。したがって今回の閉鎖の決断を歓迎します。

というのも私は毎日の読者であった期間がけっこう長かったのでそれなりに愛着があるからです。ここは元から毎日を嫌っていた人とはやや違うところです。右だの左だのにほとほと嫌気がさしていた頃にどちらの論調も入っていて記者さんの自立性が高い新聞として重宝していました。私が毎日を離れたのはその経済論調に反発を覚えたからでありまして、いろいろな論調があって全体としては良識的で穏健な中道左派ぐらいのポジションを占める新聞を目指して活躍していってもらいたいなと個人的には願っています。まともな中道左派が政治勢力として弱いのは日本の不幸だと思っていますので。関係ないですが、どうして日本の左派メディアは経済学的にはリベラルではなく保守なんでしょうかね。

反waiwaiの動きについては、ある程度は予想されたことですが、途中からいろいろな別のアジェンダが絡み合ってきてどうもまずいなという印象を持っていましたので、空さんと同じく、まとめサイトの管理人さんが目標を達成した時点で終了宣言をしたことを評価したいと思います。抗議もやり過ぎたり、やり方を間違えた場合には逆に望まない結果を生むというのはよくある話です。感情論としては判りますが、人種の問題などはやっかいですから入れないほうがいいと思います。またこれが右翼的アジェンダになるのは望ましくない。日本の排外主義みたいな角度でとり上げようとする人もいますからね(残念ながらそういう反応が出ているのも事実なんですが)。歓迎してくれている在日外国人の反応もありますが、既にいくつかの英語のサイトでそういう意見も目にしました。なお英語圏での受容ということで言いますと、waiwaiおよびその関係者を嫌悪し、批判する人々、ネタとして楽しむ人々、無邪気に信じる人々、これを利用して日本叩きをする人々といましたが、それぞれがそれぞれの仕方で受容していた訳で悪質な人々ばかりでないことは知っておいたほうがいいでしょう。

なおこの問題は広く言えば偏見の問題にもつながる訳ですが、これは複雑で根の深い問題ですから抗議の仕方を間違えた場合には逆効果になる可能性が大だと思います。またこうした問題に日々直面しなくともけっこうのほほんと生きていけるという点で日本人はかなり恵まれた地位にいるんだという点も忘れてはならないでしょう。不快な時に不快だと言うのは正しいですが、変な被害者感情を持つのは正しくない。ともかくこの問題はあくまでも報道のルールや倫理の問題として扱うのが賢明だろうと考えます。虚構を報じてはならないなんて当たり前の話ですよね。それだけです。とはいえなんだかこれでは済まないような予感もしないことはない。はっきり言えば、街宣車が出てBBCが報じるみたいな黄金パターン(笑)は望ましくないわけですよ。というわけでそちら方面の方々におきましては何卒ご自制なさるようよろしくお願いします。思う壷です。

ところで別のmozuさんをたまに見かけるのですが、まぎらわしいですからしばらくはmozu@に名称変更して様子を見てみたいと思います。@がないのは別人です。どうぞよろしく。

追記
いささか微温的なエントリにしたのは激烈すぎる反応をあちこちで目にしたからでしたが、どうも毎日新聞の対応を見ているに事態の深刻さを理解していないのではないかという疑念も湧いてきます。いいですか、毎日さん、ここで編集体制のいい加減さを本格的に見直さなければ復活はないですよ。優秀な記者さん達もこの件を深刻に受け止めて動いて下さいよ。なお「イデオロギー抜き」のルールを守った草の根不買運動でしたら声援を送りたいと思います。少しは緊張感をもってもらうためにもいい刺激になるでしょう。

再追記
どうも一度ついた怒りの炎が、毎日側の対応のまずさもあってなかなか鎮火しないようですね。上にも書きましたが、無軌道な抗議は自分の首をしめることにつながります。感情的には判らなくもないですが、瞬間的な盛り上がりで無責任な行動をとるようでは正当性を掘り崩すだけですよ。といっても無理なのかなあ。それがネットというメディアの特性なのだとしたら不可避的なものなのかもしれませんが、どうもネット初の動きはなかなか成熟しないようで残念です。ともかく自制的に行動したほうがいいですよ。

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サルコジ外交

近年のフランスの政治家の中でサルコジほど毀誉褒貶激しい人もないでしょうけれども、その理由のひとつに彼がいったい何をやりたいのか、何をしているのか読み難いという点が挙げられるでしょう。あれやこれやに手をつけては中途半端に終わるただのショーマンさという揶揄を受ける一方で(口の悪さと軽卒さから小さな失点を重ねて軽侮され易いところがある)、原則論的な批判をどんどんすり抜けていく政治的狡知のある行動派の政治家だという声もあります。煙に巻かれているようで私には判断がつき兼ねていますが。

SoredaさんのところのEU絡みでサルコジがどう動くのかという話でどう応答したものかとしばし考えたのですが、正直難しいですね。リスボン条約批准交渉は続けるでしょうけれども、欧州連合の野放図な拡大にはもともと慎重な立場ということもあり、原則論的部分はごまかしてでも、安全保障、移民、エネルギー、食糧あたりの問題を賭け金として実質的な部分でコアの部分の統合の強化を進めていくつもりなんでしょうか。それが具体的にどういう姿をとるのかは例によってさっぱり見えないのですけれども。

英語圏のフランス政治経済ウォッチャーの中でたぶんベストなんじゃないかと思っているアーサー・ゴールドハマー氏がサルコジ外交について書いた記事を発見しましたので、これを紹介しておきます。サルコジの外交スタイル全般についての論評です。なかなかバランスよくまとまっていると思います。

まず最初にサルコジは確かにフランスの外交のスタイルに変化をもたらしたが、実質をも変えただろうかと問い、これに力強い肯定形で答えています。サルコジはゴーリストの遺産を継承しているかもしれないが、彼らの「偉大さla grandeur」のエートスはほとんど共有していないといいます。1958年に「将軍」がフランス国民の偉大を称揚し、ゴーリスト神話を打ち立てたのは米ソ対立の2局構造の時代であったが、50年後にこうした発言をしたら狂気すれすれの常軌を逸したものになるだろう。サルコジのフランスは再編されつつある多極的なグローバルな舞台で影響力拡大を目指す数ある中規模国家のひとつに過ぎないのだからといいます。

そしてこのフランスの姿はライバル達との権力闘争に勝ち抜いたサルコジ自身の政治的キャリアに重なり合うといいます。ここは論者が強調しているポイントです。それによると、彼はこれまでひとつの舞台で物事がうまくいかない時には別の舞台に進めるように、常に同時に複数のゲームを慎重に戦い、他人には気付かれないような制度を道具的に使いこなし、メディアの注意を集めるよう影響力を最大化することを学び、権力をもつ者とももたない者とも、意見の合う者とも合わない者とも関係を結び、必要とあれば、躊躇なく関係を断ち、友を悩ませてでも敵を懐柔してきたと。

それでサルコジはこうした戦術のすべてを最初の1年で外交政策にも採用し、多くのフロントで主導権を発揮したと評価されています。例えば、欧州連合とはリスボン条約の同意を得ること、リビアとはブルガリア人の看護婦を解放して、政権と取引し、カダフィを地中海連合の中に組み込むこと、ロシアとは西欧へのガス供給を議論すること、アフリカとは旧植民地との新しい関係を構築し直すこと、中国とは経済問題で交渉し、核のリアクターを売ること、レバノンとは新政権を支援すること、英国とはフランスが「アングロサクソン的」になった思わせて英国を称揚すること、ドイツとは欧州中央銀行や地中海連合についてアンゲラ・メルケルとの意見の違いを調整すること、NATOとは軍事機構への完全統合を考慮すること、米国とはより柔軟な立場を示すことといった具合にです。

そしてこのうちのどれに本当にコミットしているのか、どういう優先順位なのかについてはいつものサルコジ流で答え難いといいます。首尾一貫性のなさが彼のアプローチの特質なのだとまで言っています。例えば彼が本当に批判者が言うように親米主義者ないし大西洋主義者だとしたら、シリア大統領を地中海連合を議論するためにパリに呼ぶ危険を犯すだろうかと問いを発していますが、この背景には、アメリカはシリアとの対話を拒絶している一方で、イスラエルはシリアと対話をしており、アメリカがフランスを通じたもうひとつのコミュニケーション回路を開くことに関心をもつかもしれないという読みがあるといいます。この戦略において地中海連合とはこうしたコミュニケーションの便利なカバーであると同時に地域のブローカーの役割を高める枠組みであるといい、また独裁者との対話への国内批判をかわすためにレバノンの新政権との連帯を演じてみせたりしているとされます。

こんな風に一見バラバラに見えても複雑な策略があって単にサルコジをショーマンに過ぎないとは見なせない。外交政策の入り組んだゲームでの彼の動きは非常に計算され、互いに補完的なものであると評価しています。目的は限られたリソースで最大限可能なものを達成することであり、失敗は別の得点で救済されていると。また米国から独立して行動する自由がアメリカの政策と補完的な役割をフランスが担うことを可能にしているともいいます。

サルコジは多数のアドバイザーに囲まれていますが、その中でも重要なのが元駐米大使のジャン・ダヴィッド・レヴィット、欧州連合関係ではジャン・ピエール・ジュイエ、リビアやチャドを含めた多くの問題ではクロード・ゲアン、地中海連合や新アフリカ政策に影響を与えているのはスピーチライターのアンリ・ゲノであろうと論者は主要人物の名前を挙げています。特にベルナール・クシュネルを外相に任命したことは人権や人道支援へのコミットメントを象徴していて、チベット問題での中国批判やタリバンの女性問題の批判などに見られるように、時折思い出したようにこうした理念に連なることを可能にしているとされます。もっともコストが低いと見なされた時にそうする訳で、中国訪問やロシア訪問のような場合には人権は姿を消してしまうとも付け加えています。クシュネルは国内での野党社会党からの批判封じの意味もあり、さらに先ほどの欧州統合関連のアドバイザーのジュイエも左翼出身者でこの起用はフランス左翼を分裂させる意味合いを持っているといいます。

フランスとて人権の重要性が経済問題となると後退するのは他の国と同様ですが、とりわけサルコジは企業家精神を尊重する人物ですのでいつでもCEO達を引き連れて外遊し、かならず契約を結んでから帰国するというスタイルです。特にエネルギー関連が政策の主要な軸をなしているといいます。ロシアと北アフリカからのガスの供給の確保に全力を注ぎ、原子力のプロモーションにもコミットしていますが、特にリビアとの取引は世界的に驚きをもって迎えられたのでご存知の方も多いでしょう。

最後に再び現在の多極的な世界でのフランスの位置を示し、このゲームをどうすればいいのかサルコジは本能的に知っていると評価しています。最後の締めの部分は英語のままにしておきます。ちなみにサルコジは禁酒家で有名です。

The world may have to find a way to avoid cataclysm without relying on France, but the Gaullist knack for combining bluff with bravado may prove to be a winning strategy for la Grande Nation as it shakes off its last lingering delusions of grandeur. Sobriety has its compensations, and Sarkozy seems to have made up his mind to enjoy as well as exploit them.

というようにゴールドハイマー氏は首尾一貫性を欠いた(ように見える)サルコジ外交にそれなりのロジックを見出しています。こんなスタイルですから次になにをするのか、前にやっていてことが後でどう繋がるのかとても予見しにくい訳です。任期の一年目にあちこちに種を蒔いておいてこれからそれをうまく育てて料理していくところなんでしょうから、あまり短期的な成果がどうこうと言っても仕方がないかもしれません。リスボン条約の否決には動揺したでしょうが、当面は─喜々として─失点をリカバーしようと動いていくのでしょう。フランスの国益上のリカバーのことです。この記事は変化について語っている訳ですが、善かれ悪しかれ、ゴーリスト的な部分は確実に今後も残るだろうと思います。それが欧州連合にとってプラスになるのかマイナスになるのかはよく判りませんけれども。

一部修正しました(6.24.2008)

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チェコが駄々こねてます

リスボン条約否決を受けた首脳会議でありますが、大方の予想通りにチェコが駄々をこねているようです。サルコがなんとしても死守せんと頑張っているようですが、さて、いったいどうなるんでしょうね。

まず先日の物議を醸した大統領発言についてはテレグラフのこの記事でしょうか。アイルランドのノーを「自由と理性の勝利」とし、批准作業は継続できないと述べた発言です。
Czech president says Lisbon Treaty project is over[Telegraph]

首脳会議の様子についてはBBCのこの記事が手際よくまとめています。
Czech threat looms for EU treaty[BBC]
首脳会議で出される宣言にはチェコは当面批准できない旨が明記される模様です。またイギリスでは既にこの条約は議会で批准されたのですが(「正式の批准」はまだ)、国民投票なしでの条約批准に法廷で挑むビジネスマンも出現している模様です。食料や燃料価格の高騰の問題を焦点にしようという試みも空しく、今回の首脳会談では内部対立が表面化する結果となったといいます。

チェコの状況ですが、上院が憲法判断を要求したために憲法裁判所の意見が出されるまでは批准手続きは一旦停止のようです。首相のトポラーネク氏は自国での批准手続きを停止するつもりはないと述べたといいますが、議員に条約を擁護するよう強制するつもりもないし、自分ならチェコのイエスに100コルナを賭けないだろうとの発言。というわけで状況は非常に不確かな模様です。

一方、サルコジとEU首脳ですが、条約批准の手続きは全加盟国で継続されなくてはならないという立場をあらためて表明しています。またサルコジはリスボン条約の批准なしでは欧州連合の拡大はないとチェコに色目をつかった発言をしているようです。

チェコがらみのサルコジの動きについてはやはり山口昌子記者が報じていますね。まあ短い記事ですが、いつもながらの痒い所に手の届く報道に敬意を込めてリンクしておきます。

実は今、東欧ではいくつかの国の経済が危険水域に達しているという観測がありまして、もしかすると危機の発端になるかもしれないという危惧が徐々に高まっているようなのですが、チェコ経済はかなり好調でそのせいもあってユーロ加盟(通貨の方のユーロです)には慎重というスタンスをとっているといいます。このへんの背景についてはエントリをあらためて紹介したいと思います。

追記
一部加筆、訂正しました(6.21.2008)

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ニュース斜め読み

欧州ネタが続いていますが、国内ニュースもクリップしておきます。以下ただの感想です。

ブラジルで移住100周年記念式典、皇太子さまがスピーチ[読売]
ブラジル移住の100周年の記念式典で皇太子殿下が御挨拶なされたそうで、なによりな話です。とりわけご苦労なされた1世、2世の方々にはなにかしら深く感じるところがあったのではないかと想像します。日系人モノは以前まとめていろいろ読んだ事がありますが、胸に迫るものがありましたですね。手軽に読める新書でしたら、コレなんかフォーカスが独特ですが、楽しくていいかもしれません。日系人社会の音楽を扱ったもので演芸会やのど自慢やカラオケがどんな風に享受されてきたのか、紅白歌合戦はあちらでどう見られているのかといったことが論じられています。

100周年記念に関してはなぜかBBCも記事にしていますね。
Lasting legacy of Brazil's Japanese[BBC]

最近では移民について政治家も公然と語るようになっていますが、私としてはまずは今国内にいる方々を社会統合することにもっと本気になって欲しいなと言いたいです。同胞でありますし、幸い歴史的怨恨もない訳ですからこの方々をうまく統合できないようでは話にならんだろうと。既に2世問題も発生しつつあるようですしね。

一方で日本の周囲も騒がしくなっているようです。
尖閣諸島 台湾は冷静に問題処理を[読売]
ずいぶん新政権も煽っていますが、どうやらこの事故じたいは沈静化に向かっているようですね。政治家の方々におかれましては国民党とのパイプづくりもちゃんとやって欲しいものです。つき合いやすい勢力とだけつき合うというのは悪い癖なんだと思います。会うたびに喧嘩だって立派なコミュニケーション履歴の積み重ねな訳ですから。それから気持ちはよく判りますが、台湾に対して政治的レベルで変な幻想を抱くのは双方にとってあまりよくないことのように思います。そういう意味では一つの学びになる事件なのではないでしょうか。

日中ガス田合意 「戦略的互恵」へ具体的一歩だ[読売]
よく知らないのでこの取引そのものについて適切な評価はできませんが、まあこんなもんかなという感想を持ちました。実際、回収の見込みがあるほどのガス田ではないようですから領有権に関わる問題はいったん棚上げしておきましょうという合意なのでしょう。ただこの結果を中国側がどう受け止めるのかは予断を許さないように思われますね。ところで上の事件と同時期であったことにはどういう意味があるのでしょう。いろいろと想像は膨らみますが。

北朝鮮、核放棄に応じない姿勢…6か国協議に向け強硬姿勢[読売]
なかなか厳しいですが、ここはいかに失点を減らすかという局面なんでしょう。国内でもいろいろな動きが出て来ていますが、イデオロギーの人達にはアメリカが裏切った!だの日本が孤立化する!だのみっともない悲鳴はあまりあげてほしくないものだと思います。また外国人のウォッチャーにはこの問題を単に右翼的アジェンダととらえたら間違いますよと言っておきます。「国民感情」と呼ばれるものも肉親を奪われた家族への同情ばかりではない。国民の生命を守ることに必ずしも熱心ではなかった(ように見える)戦後体制そのものが生んだ悲劇の象徴として拉致被害者とその家族は現れている、そういう了解は実はかなり広い層の間で─意識的であれ無意識的であれ─成立しているという点を強調しておきます。

最後にこの手の社会ネタはこのブログではスルーしようと思ったのですが、この記事などが典型的に見えます。
特集ワイド:秋葉原殺傷事件 問われる「社会の責任」--大塚英志さんに聞く[毎日]
サブカルの問題ではなく派遣の労働の問題として捉えよう、自己責任ではなく社会の責任も考えようということですが、大塚氏自身の印象と違ってこれは必ずしも反時代的な少数意見ではないと思います。私は何度も書いたように現在のいささか極端な二元構造を緩和すべく労働市場改革をなすべきであるという立場です。またいわゆる就職氷河期世代の経済的統合に失敗した場合、大きな政治的リスクを抱えることになるだろうという危惧もあります。が、この事件そのものに過大な意味を与えたくない、またこれまでの例からこういうセンセーショナルな事件に便乗して政策決定すると副作用が発生するとも考えますので、ここは猫猫先生に賛意に表したいと思います。やはり偉い方だ。

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社会の分断

アイルランドの否決をめぐる議論は百花繚乱といった感じでありますが、経済的背景に触れた記事を紹介します。前のエントリの記事でも最後に触れていましたが、急激な経済成長の一方で不平等が拡大していたという事実が今回の投票行動に与えた影響というのはたぶんあるのでしょう。論者自身十分なデータがないと言ってるようにこれはまだ印象論に過ぎないのでありますが、さもありなんといった構図を描いています。なお私は接近遭遇したのですが、2005年のフランスの投票行動に関してはこの構図でかなりの部分を説明できるだろうと思います。勿論それだけではないのですが。ともかく指導者はきちんと説得せよというのは多くの論者が述べる通りであります。賛成にせよ反対にせよ、煽りの言説ばかりでは社会不安が高まるだけであります。苦みがあっても宥める言説が求められているのでしょう。これは日本の政治経済の言説にも言えることではありますが。

「アイルランドのノーと富裕層/貧困層、都市/農村の分断」
Kevin H. O’Rourke 14 June 2008

多くの同胞達と同じように私は金曜の晩をパブで過ごしていた。私の場合は、フランスの美しいシャルトルーズ地方の心臓部にあるパブだったが。ここはフランス人とオランダ人のサッカー・サポーター達の占拠するところまで満杯だったが、オランダ人サポーターは夜が更けるにつれてますます荒っぽくなっていった。これは感じのいいとても欧州的な機会だった。地元の子供達─私の子供も含めて─と一緒にオランダ人が酔っぱらってラ・マルセイエーズを歌って答えるといった具合にだ。これはまた少なくともアイルランド人にとって非常に象徴的な機会でもあった。この3カ国の市民は共に欧州の制度的変更の最終ラウンドにノーを投じたのだから。

一見したところフランス人のノーとアイルランド人のリスボン条約の拒否には共通するようなものはない。フランスではさらなる統合は減税ゲームにつながり、フランスのリベラルな避妊の法律が危険にさらされるぞとデマが飛んだ。アイルランドではさらなる統合は増税ゲームにつながり、リべラルな避妊の法律がこの深くカトリック的なままの国に押し付けられるぞとデマを広める者がいた。しかしこの2つの投票の間には欧州の政治家が怯えて無視する驚くべき社会経済的類似性がある。

選挙区地図を眺めるだけで最初の世論調査が示したものを確認するのに十分だ。つまりアイルランドの投票ははっきりと戸惑わせるほどに階級のラインに沿って分断したのだ。Dun Laoghaireのようなダブリンでもっとも豊かな選挙区では─慎ましい家庭ですら100万ユーロ以上のコストがかかる(変わりつつあるが)─60%以上が条約に賛成を投じた。シティーの労働者階級の地区では60%以上のスコアをつけたのはノーの投票だったのだ。2006年のBrouardとTiberjの研究は、2005年のフランスの投票では富裕層と貧困層ないし熟練労働者と非熟練労働者の間の分断が正確に認められることを示している。

こうしたパターンを解釈するのには少なくとも2つの方法がある。一つは教育がある投票者はより政治的に洗練されていて欧州連合の制度的土台への複雑な改定に含まれる諸問題をよりよく理解できるというものだ。二つ目の解釈は反対に富裕層も貧困層も正確に自分達の経済的利害がどこにあるのか認識していてそれに応じて投じるというものだ。一般にグローバル化、狭くは欧州連合が少なくともフランス、アイルランド、オランダのような豊かな国では圧倒的に熟練労働者に有利に働いたという議論だ。反対に非熟練労働者はルーマニア人(やアジア人)の競争や東欧やさらなる遠方からの移民の脅威を感じている。我々みたいな幸運な人間はこのことを遺憾に思っているが、ヘクシャー・オーリンの論理に従って、彼らが票を投じていることにはなんら驚くべきものはない。

投票の重要性に鑑みて信じられないことに我々になぜノーを投じた人々がそうしたのかを示してくれる出口調査のようなものはなかった。しかし中産階級と労働者階級の投票ギャップのパターンはいわゆる政治的洗練の差異以上に、現実的なものであれ想像的なものであれ、異なる利害とより多く関連していることに私はベットすると言わざるを得ない。これを優先するのは諸国を通じてのグローバル化の決定要素に関するAnna Maria MaydaとDani Rodrikの仕事、それからRichard Sinnottと私自身の仕事に大部分基づいている。この仕事が示したのは、豊かな国の非熟練労働者は熟練労働者よりも貿易と移民に敵対的で、貧しい国では最もグローバル化に好意的なのは非熟練労働者だということだ。 これはあまり教育のない者達には国際的な経済統合の利益の理解を期待できないなどといった議論と両立するのは難しいように思える。もしこの解釈が正しいならば、欧州連合で最も好意的な加盟国であるアイルランドの国民投票の結果は政治家達の目覚ましコールとして役立てられるべきだ。もしオープンな国際市場の利益を維持したいならば─私もそうだが─、彼らは取り残された者達の懸念に注意しなければならないだろう。

勿論私はこの国民投票の結果が様々な投票グループの経済的利害のみに関わるのだと主張したい訳ではない。親条約派が直面する困難は2005年と2007年の拡大の波が明瞭に破綻しなかった時にイエスを投じる説得的な理由をはっきりさせることにあったのだ。アイルランドとフランスでの政治家への公衆の不信が意味するのは条約が本当に必要である─その反対に見えてしまうのだが─ことの保証が多くの人々の耳に届いていないということだ。オランダと同様に、小国としてのアイルランドはノーを投じるのを諦めなさそうな形勢にある恐れがあった訳だが、ありそうなこととして欧州の指導者達がアイルランドは小国だといった理由から彼らの制度的野心へのアイルランドの障害を無視しようとするならば、この印象はこの先の何週かにわたって大きくなっていく運命にあるのだ。フランスとオランダの国民投票結果が本質的に欧州の指導者に無視されたそのやり口に嫌悪している者もいるのだ。などなどと。

私が言いたいのは経済的利害は多くの中の一つの要素で無視されるべきではないということだ。労働者階級と農村の投票者が組織的にさらなる欧州統合に反対票を投じるならば、これは欧州の政治的指導者が耳を傾ける必要のある事柄だ。彼らがこんな風に感じるという事実はまたなぜかくも多くのフランス人の隣人や友人が今週私の同胞達の投票に関して私を祝ってくれているのかを説明している。私は勿論感謝して彼らの連帯の表現を受け入れているが、もし今年アイルランドに住んでいたならば、イエスを投じただろうということは教えていない。今週物事が進む中で、アイルランドはできるだけ多くの友人を必要とするだろう。
<了>

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愛故にノンを投じたのだ

アイルランドのリスボン条約否決と今後の見通しに関しては様々な分析がなされていますが、経済的観点からこの否決を解読する記事がいくつかありました。原因としてはやはり政治的な要因が大きいだろうと思いますが、個人的に興味を惹かれた記事を紹介したいと思います。まずエロワ・ロランという人の記事です。かなりビッグ・ピクチャーですが、この論点は今後の欧州の小国の動向を占う上でもそれなりに有効な洞察を含んでいるように思われます。欧州の東方拡大でこれまで享受してきた有利な立場を奪われるのではないかという不安です。しかしあらためて実感したのですが、「ケルトの虎」とか言われた成長は凄かったのですね。

「いや、アイルランドは恩知らずなのでなく、不安なのだ」
15 juin 2008, Par Eloi Laurent (OFCE)

1963年6月28日にアイルランド議会を前にした演説の際に、アイルランドは「これまで豊かな国であったことも強い国であったことも一度もなかった」とジョン・F・ケネディーは喚起した。40年ほど後に時代はすっかり変わった。アイルランドは一人でリスボン条約を無効にしてのけたのだ。欧州統合のおかげで豊かになった訳だから、アイルランドは恩知らずと非難されている。欧州連合の四方八方から非難の声があがる。アイルランド人は誰よりも「ウイ」を投票すべきだったのだと。

まずアイルランド人が「ノン」の常習犯であることを忘れよう。そう、彼らは既に多数をもってニース条約を拒否したのだった。しかし、単に非難するのは、人々の知恵というものを誤解ないし軽蔑することだ。アイルランド人が「ウイ」を投じる合理的理由─経済的利害─があるならば、彼らはおそらくそうしただろう。それゆえこの「ノン」には理解すべきなにものかが存在しているのだ。2005年の国民投票の後のフランスの社会危機やオランダのアイデンティティー危機について理解すべきなにものかが存在していたのと同様にだ。

ここで大急ぎの仮説を試みてみよう。つまりアイルランドは拡大欧州の中では居心地が悪いのだ。欧州統合の小さな奇跡であるアイルランドは、商業的、金融的、財政的な波が東に向かっている時期にあたって、自身の成長と繁栄の戦略の永続性に不安を抱いている。そしてアイルランドが経験している経済的、政治的困難の時期はこれにどうにも対応できないのだ。

ユーロバロメーター(2008年5月)の最後の波の結果は雄弁だ。欧州連合に属していることはよいことだと74%(27カ国中4位)が、自国が欧州統合から利益を得ていると87%が(1位)、欧州連合に肯定的なイメージをもつと69%(1位)が、さらにユーロを支持すると87%(1位)が考えているのだ。それが将来の拡大への支持を尋ねられると、これに好意的なのは45%に過ぎなくなるのだ(20位)。

結論。アイルランド人は欧州連合はかくも愛しているのでこれを他者と共有したくないのだ。

まず疑いようもなく欧州統合に多くを負うアイルランドの信じられないほどの成功を考えてみよう。グラフの1は1970年と2006年の間の一人当たりの国民所得の発展を再現したものだ。アイルランドは、周知のように、1973年に欧州経済共同体に加盟した際には最も貧しい国だった(欧州平均所得の60%)。それが2006年には欧州の最も豊かな大国(英国や独逸)より上位であるだけなく、アイスランドやスウェーデンのような北欧の小国よりも上位にあるのだ。

もう少し歴史的に遡行するとアイルランドのパフォーマンスはより劇的でよりはっきりと欧州統合の各段階と結びついている。グラフ2によると、アイルランドは1870年から1998年まで西欧諸国の平均や英国よりも貧しかったが、ついに1998年に(ルクセンブルクを除く)欧州連合のすべてを追い越したのだ。1973年以来追い上げが明瞭に始まり、欧州建設の各段階ごとに加速している。

アイルランドの「軌跡」は欧州の3つの柱に依存する。

共通市場、そして単一市場の陰で展開した貿易開放、そこではアイルランドの開放度(国内総生産に占める輸出入の割合)は1970年の38%から2006年の75%へといたるのが見られることだろう(2001年には92%)。アイルランドは今日ではOECDの最も開放された経済の5位を占める。

欧州の第一歩以来の税の競争でアイルランドは1981年に法人税を45%から10%へと下げることを選んだ。欧州平均が48%であるのにだ。

統一の名の下での欧州の巨大な財政移転、これがアイルランドの成長戦略の2つの柱を補強し、この国の人的資本を強化したのだ(アイルランド財務省の計算では1973年と2005年の間に総額402億ユーロが─すなわちこの時期の平均国内総生産の3,3%が─欧州予算を通じて投入された)。

この3つの柱が現在揺らいでいる。アイルランドの経常収支は赤字になった(たとえ貿易収支が常にプラスであっても)。外国の直接投資のストックは2006年には国内総生産の3分の2を示したが、親加盟国に移動したために資本の投下は大幅に減速している。最後に欧州連合で2番目に豊かなアイルランドは今日では欧州連合の予算の正真正銘の貢献者となっている。アイルランド人の不安、それは2004年の拡大を定式化したニース条約の批准の際に既に表明されたが、それはこの経済的文脈によって先鋭化した。この文脈はフランスを嫉妬に狂わせたが、アイルランドにとっても懸念なのだ。経済成長は1996年と2006年の間にほぼ2分されたが(それでも5%に達している!)、失業率は上昇している。2001年まで大幅に低下した後、2007年には4,6%に上昇した。

しかしとりわけ不動産危機の文脈の中でアイルランド人の心を占めているのはインフレと生活コストだ。最近公にされたデータが示すところではここ12ヶ月で物価は4,7%の上昇だ(住宅、エネルギー、食糧については約10%の上昇)。ところでアイルランドは野心的な社会政策がないために貧困率を減らさなかったし、個人所得の不平等は地域間の不平等をともなっている(ダブリン地域の国民所得の113%に対してミッドランヅ、ボーダー、ウェスターンの91%)。

結局、経済的理由だけにとどめても、アイルランドは恩知らずというよりも不安なのだ。アイルランドは深く欧州であるが、JFKが予感したように、アイルランドは欧州連合の中で「他の小国が従うべき模範、モデル」となったのだ。アイルランド人はおそらくこのプロトタイプにとどまることを望んだのだろう。
<終了>

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否決の余波

今回のアイルランドの国民投票によるリスボン条約の否決という結果はまたしても欧州の政治エリートと市民との間の溝を照らし出す機会を提供してくれました。実際、アイルランドでなくても国民投票を実施したならば多くの国で否決の結果が出たでしょう。私はユーロ懐疑派ですが必ずしも欧州統合反対派ではないというスタンスですが─極東の見物人に過ぎないのでそもそも賛成も反対もないのですが─政治エリート主導の性急な統合プロセスには、いささか焦り過ぎではないかという印象を持っていましたので、今回はたださもありなんといった感想でした。

日本語ソースもずいぶん出ていますが、朝日の「EU各国、「リスボン条約」否決に衝撃と落胆」から引用すると、

アイルランドが、13日開票された国民投票で欧州連合(EU)の新基本条約「リスボン条約」を否決したことは、加盟各国に衝撃を与えた。統合推進派の国から次々と落胆の声が上がる一方、EUの権限拡大に懐疑的な一部の国からはアイルランドをたたえる声も出た。

欧州統合の牽引役であるドイツのメルケル首相とフランスのサルコジ大統領は「大変残念だ」とする共同声明を発表。「他の加盟国が批准作業を進めていくことを望む」と各国に呼びかけた。

EU議長国・スロベニアのヤンシャ首相は「アイルランド国民の民主的な声は尊重するが、結果は極めて遺憾で失望した」と述べ、シュタインマイヤー独外相は「このように後退したことに失望している」との声明を出し、落胆を隠さなかった。

イタリアのナポリターノ大統領は「一国の有権者の半分以下で、しかも人口でもEUの1%に満たない数の人々の決定(反対)によって、かけがえのない改革が止められてしまうことがあってはならない」と述べ、「小国の反乱」への不快感をのぞかせた。

一方、EUに批判的な発言で知られるチェコのクラウス大統領は声明で「リスボン条約の企てはきょうで終わりだ。批准(手続き)を続けることはできない。エリート主義的な欧州の官僚支配に対する自由と理性の勝利だ」とした。大国主導、本部があるブリュッセル中心のEU運営が加速することへの不満をぶちまけたかたちだが、EUへの懐疑はチェコだけでなく一部加盟国に根強くある。

EUは19、20両日にブリュッセルで開く首脳会議で対応を協議するが、アイルランドの否決をきっかけに、統合への考え方の違いが表面化する可能性もある。
(朝日新聞6月14日)


というように統合の主導者の独仏は批准作業の継続を求めています。今後はどうなるのか予断を許さないですが、26カ国で批准を済ませてアイルランドを包囲し、第二回の国民投票での批准を目指すというのがひとつのプランのようです。2001年のニース条約の際にアイルランドはいったん否決した後に二度目の国民投票で批准したという前例があります。リスボン条約の再交渉については独仏は今のところは考えていないようですが、この記事にもあるように、欧州連合の権限拡大に懐疑的な諸国との間で鍔迫り合いの結果の修正があるのかもしれません。残っているのは北からスウェーデン、ノルウェー、エストニア、オランダ、ベルギー、チェコ、イタリア、スパイン、キプロスの9カ国ですか。記事でも引用されているチェコの動向が気になります。

英国とアイルランドの論調は他の方が紹介されるでしょうから、フランス・メディアから。ル・フィガロは「アイルランドのノンへの唯一の解決策」という社説を掲げています。この社説はまず2005年のフランスでのノンの衝撃を想起しつつ、なぜ否決になったのかと問います。それは国民投票をするならば多様かつ矛盾した動機からなる不満の声というものは明確な動機をもつ人々の数を上回るものだからだ。この危機を乗り越える唯一の解決策は、批准作業を継続することだ、なぜなら300万人が4億5千万に関する事柄を決定するのは民主的ではないからだと。ふーん。アイルランド人が不安を感じるような条項を手直しして二度目の国民投票にかけるがよい、ニース条約の時を思い出せ。雪だるま現象を防ぐには出来るだけ急がなくてはならない。そうすれば麻痺状態に再び陥ることを避けられるだろう。欧州が前進するにはアイルランドのノンを劇的なものにしてはならない。これが議長国フランスの挑戦となるだろうと。以上、なにがあろうと迅速に批准作業を推進せよという意見です。

ル・モンドの社説「欧州にとってのチャンス?」は今回の否決が議長国フランスに重くのしかかるとし、いくらサルコジが身近な懸念の問題(移民、エネルギー、農業など)に集中したとしても今度6ヶ月ほどは制度的問題に妨げられるだろうとしています。それで今後なにができるのかですが、アイルランドに再び国民投票をさせるのも、ダブリンに「休暇を与える」のも満足いく解決策ではないといいます。全員一致の原則が放棄されない限りは欧州連合は改革できないことが示された一方で、現状を打破するには全員一致が必要だ。この悪循環から脱する可能性はひとつしかない。現在の欧州連合とは別に統合深化のために多数決原理を受け入れる国々からなる前衛組織を創るしかないと。このことに気付かせた点でアイルランドのノンは欧州にとってのチャンスとなるだろうと締めくくっています。以上、全員一致の原則にこだわっているとなにも進まないから、前衛組織を創れという提言です。

またリベラリシオンも社説「泣き女」でこの国民投票をとりあげていますが、それによると、欧州を覆う危機の際にはいつも同じ喜劇が見られる。今回も、欧州は破滅の淵にあると叫ぶ泣き女と、なあに、これまでのように前進するさと豪語する乱暴な男の二人芝居が展開されている。欧州連合は精妙な外交とか断固たる口吻とかではもはや前進しない。欧州連合には民主主義と教育とが必要とされている。欧州市民を建設事業に参加させなければならない。議長国フランスも戦略を変えるべきだ。特に重要とする事柄を推進しなければならないが(移民、気候、防衛、地中海)、そこにも説明が必要だ。アイルランド人の否決が示している不安はアイルランド人特有のものではない。フランスは欧州建設の推進者であった。泣いたり、乱暴に振る舞っている場合ではないと。以上、エリート主導を見直して民主主義と教育を重視せよと説いています。

このように主要紙はいずれも欧州統合を推進すべきだという立場でありますが、各紙ともその論調を反映したニュアンスの差が出ています。なおコメント欄はブラボー!アイルランド!や民主主義の勝利だ!の声のほうが大きいような印象を受けます。ここにも市民との溝が感じられますね。他に気になったのはメディアについての分析記事でしょうか。他国の介入を極度に嫌うお国柄のアイルランドということもあって、この国民投票前は各国とも発言を控えていたそうですが、その空白をアングロサクソン右派の反対プロパガンダが埋めた、すべてはマードックのせいだという─いささか偏った─解説をけっこう見かけました。英国保守派の工作だそうです。ふふふふ。

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アイルランドが漢を見せるか

ここのところ少し忙しくて更新が滞っていたのですが、あまり間を置くとまた続かなくなりそうですので、ニュースのクリップだけしておきます。

アイルランドがリスボン条約の批准をめぐって欧州政治の焦点になっています。既に投票は終わっていますが、結果は予断を許さない状況のようです。アイルランドでなにか起きるのではないかという予感がずっとあったのですが、さてどうなることやら。前回の欧州憲法の批准の失敗に続いて出てきたプランBのリスボン条約でありますが、実質的には欧州憲法の内容とほとんど変わりないと言われます。長大な条約ですので未読でありますが。フランス、オランダの国民投票の否決を反省して、議会での批准の手法が採用された訳ですが、アイルランドでのみ憲法上の理由から国民投票が実施されたということのようです。

前にアイルランドのバブル崩壊の紹介をした際に少し書きましたが、今回の国民投票をめぐる言説を追っていましてもEUへの懐疑心はかなり強いものがあるように感じられます。良くも悪くも愛国心の強さは欧州でも随一のお国柄でありますが、主権問題に加えて経済問題が焦点になっており、今回の景気後退が反対論の予想以上の広まりを後押ししている模様です。与党は賛成を呼びかけていますが、例のシン・フェイン党と市民団体が激しい反対運動を展開しているようです。

他国の論調ではやはりテレグラフのオピニオンには楽しませてもらいましたが、フランスのメディアはだいたいどこも2005年の苦い思い出を想起しつつ懸念するといった論調ですね。あの時は社会党が分裂の危機に陥るほど割れた訳ですが、今回は特にメッセージは出していないようです。反対派の雄であったローラン・ファビウスは微妙な言い回しでノーコメントを出していて笑わせました。ちなみにコメント欄は、ノン!ノン!の合唱が優勢のようです。まあ嫌われたものです。

東アジアのアイルランドたる─そっくりだと思います─かの国もまた凄い事になっているようです。私が愛着のある国はどこもデモやらストやらが激しい国ばかりだったりしますが、かの国の今回の騒ぎはタイミング的にはかなりまずそうです。日本や台湾よりも条件が緩かったことが問題になっているようですが、もはやBSEだけの話ではなくなっている模様です。ろくでもなかった前政権が残した唯一の置き土産のFTA交渉に直接響くようですし(米国の条件は牛肉と自動車の市場開放)、また安全保障関連にも波及しないとも限らないでしょう。奥山さんのブログで紹介されていたこの記事にはアメリカ側の苛立ちが感じられます。ライス長官の談話でも韓国は「パートナー」扱いになっているそうで。そう簡単にはアメリカは韓国を切らないとは思いますが、今回の反米デモ(ですよね?)の心証もまた良くはないでしょう。かの国のものの見える人々の心のうちを想像するに大変だなあとしみじみとした気分になります。

最後にオーストラリアの首相の来日に対する我が邦の無関心にはなにかしら冷え冷えとしたものがあります。全般に日本のメディアのオーストラリア軽視─鯨問題みたいなある意味どうでもいい問題は別として─は問題だと前々から思っていましたが、ちょっと無関心が過ぎませんかね。逆にオーストラリアの有力新聞が盛んにラッドの日本軽視を気にしているようなのがなんとも。Asia Timesにもこんな記事がありました。日本とオーストラリアのポジションには似たところもあって両国のパートナーシップはそうとう重要だと思うのですがね。この首相の提唱する「アジア太平洋共同体」のヴィジョンには福田首相の「内海としての太平洋」にも似た暢気さを感じざるを得ないのでありますが。

追記
コメント欄にも書きましたが、英国との関係におけるアイルランドのナショナリズムのあり方が日本に対する韓国のナショナリズムのあり方に似ているという意味合いでしたが、ちょっと不用意な記述でした。実際の二国関関係の歴史はかならずしも似ていませんし、両国関係の現状もだいぶ違います。この種のアナロジーには注意しないといけないですね。反省。

国民投票では漢を見せましたね。なおBBCのこのQ&Aの記事が判りやすいのでおすすめしておきます。

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保護主義の声

このたびの金融危機を受けてあちらこちらから保護主義的な声が聞こえ始めているような印象があります。例えば、日本でも地味に人気のあるフランスの人口学者のエマニュエル・トッドがFrance Infoのインタビューでグローバリズム批判をしているのをさきほど見ました。最近ではイスラム主義の「近代性」を論じるなど異色の議論を展開している人です。

サルコジの対米追従を批判する中で(この点については以前別の議論を紹介しました)保護主義への待望が語られます。曰く。諸問題の根源にあるのは自由貿易なのだが、このことについてエリートは沈黙している。自由貿易主義のもたらす問題を解決するのは保護主義だけだ。我々の社会は保護主義を待望しているのにエリートはこのことを理解していない。しかしいつまでも抵抗はできないだろう。政治的カタストロフィーを待つしかない。第一次世界大戦とナチズムを生み出したのは最初のグローバル化であった。またヒトラーの台頭に貢献したのは自由主義のエコノミスト達であり、そういう歴史をいずれ書きたい

テレビのインタビューから刺激的な発言だけを引用するのは反則的ではありましょうが、それなりに影響力のある知識人がこうストレートに語るようになっているのは兆候的に感じられます。かの国では「経済愛国主義」的な声は特に珍しくはないのですが、トッドが想定しているのはどうもEU規模の保護主義のヴィジョンのようです。むう。景気後退が長期化するようならば、こういう声はだんだん大きくなっていきそうです。

一方、クルーグマンのブログで紹介されていた"THE RISE AND FALL OF WORLD TRADE, 1870−1939"という論文。残念ながらモデルの解説の部分が私の理解能力を超えているのですが、序論と結論を読む限り、面白そうな話です。以下概要です。

Measured by the ratio of trade to output, the period 1870−1913 marked the birth of the first era of trade globalization and the period 1914−39 its death. What caused the boom and bust? We use an augmented gravity model to examine the gold standard, tariffs, and transport costs as determinants of trade. Until 1913 the rise of the gold standard and the fall in transport costs were the main trade-creating forces. As of 1929 the reversal was driven by higher transport costs. In the 1930s, the final collapse of the gold standard drove trade volumes even lower.

というように19世紀後半から第一次世界大戦まで─いわゆる帝国主義時代─は最初のグロバール化の時代と最近では言われますが、それが一転して戦間期に世界貿易が縮小することになったのはなぜかという問題です。勿論グローバル化をめぐる現在の議論を意識しています。グローバル化の研究は戦後に集中しているが、教訓を引き出すべき重要な失敗例があると。普通は1920年代に広まり、大不況の時代に頂点を迎える保護主義が犯人として非難される訳ですが、論者達によれば、この通説の定量的な根拠は非常に貧弱なんだそうです。

それで結論ですが、通商政策や関税に加えて、通貨制度(金本位)や輸送コスト(海運コスト)をめぐる摩擦の果たした役割が非常に大きかったといいます。曰く。関税は1914年以前には最小限の役割しか果たしていなかったのがそれ以降はより影響が大きくなる。貿易量の変化の大部分は支払い(金本位)をめぐる摩擦に左右され続けた。輸送コストは世界貿易の盛衰に重大な役割を果たした(1914年まで劇的に減少したが、その後増大)。というわけで論者達は保護主義(関税バックラッシュ)の影響はどうやら思われているよりは限定的で、むしろ通貨や輸送コストといった要因を重視しています。それゆえ関税に対して現在の先進国は基本的には自由主義的な立場をとっている訳ですが、問題がないわけではなく、今後のグローバル化の進展にとっては後者のファクターが重要になると予言しています。

輸送コストの増減というのが戦間期の貿易収縮にこれほど影響を与えていたというのは初耳でしたのでちょっと意外でした。個別の国家の議論でなく全世界を対象とした研究なので日本のデータも使われているようなのですが、これ日本近代史でそれほど強調されている論点ではないですよね。あるいは私が絶望的に無知なだけで常識なのでしょうか。第一次世界大戦後のコスト上昇の要因としては、いわゆる生産性ショック─他の産業に先行して生産性が上昇していたが、20年代になると自動車のような花形産業が誕生する─、海運カルテルによる独占的な行動、労働運動の影響によるコスト上昇の三つを挙げています。これ日本にもあてはまるのでしょうか。このファクターは地政学的な状況にかなり左右されるような気もしますね。

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魚はいつも頭から腐るんだ

前のエントリでリンクしたeconoclasteから。2006年の記事ですが、ヘラルド・トリビューンが「フランス式経済学」という記事でフランスを揶揄し、これがブログ界で波紋を呼んだ際に書かれた「フランスは経済に無知な国か?」という心の叫びのようなエントリを紹介します。

<開始>
愉快ではないかもしれないが、前置きから始めよう。そう、その通り、フランス人は経済に関してダメだ。経済への無知は全世界的に最も共通するもののひとつだ。でもクルーグマンの言葉を借りると、「フランスの政治エリート階級が経済的問題を討議する仕方にはなにか特殊なものがある。他のどこの先進国においてもこれほど美辞麗句を論理に優先させ、偉大さの幻影のために経験の教えを投げ捨てたがるエリートは見当たらない」。この特殊性はなにも政治階級特有のものではない。これはまた知識人にも言える。彼らにとって経済分析や事実の提示はオピニオン以上の価値はもたないし、客観性というものも左翼の言うことを聞いて、次に右翼の言うことを聞くといった程度のことだ。この点についてはちょっと前に語った通りだ。それからこの特殊性はまた最も愚かな論理に反省することなく飛びついてしまう国民全体にも言える。このことを納得するには、FNACのような本屋の(存在するとして)「経済」の棚を見に行くだけで十分だ。一方では「もうひとつの経済学」(そこで見つかる一番主流の著者はたいていスティグリッツだ・・・)を標榜する左翼的な火種の山、他方で右翼のパンフレットを目にすることだろう。もし君が大学都市にいるならば、さらにそこの教師が書いた出来にむらのある教科書─購入者はこの教科書を買うことを義務付けられた学生達だ─を多分見つけるだろう。「通常の」(「もうひとつの」ではない)アカデミックな経済学については、出直すか、散文的にアマゾン・ドット・コムで英語の本を探すかのどちらかだ。
 
もっとひどいことに、フランスの(そしてベルギーの)普通の大学生は外国の同類と比べてオピニオンだけでなく事実の判断についてもひどく違っている。フランスではアカデミックな経済分析の現実とパリ114大学やリセ・モーリス・トレーズ校で教えられる[註 どちらも存在しない学校]やかましい説教とがひどく違っていることを仰天とともに(しばしば恐怖とともに)発見する学生が容易に見つかるけれども、これは驚くべきことじゃない。確かにあんまり一般化すべきではない。フランスのエコノミスト人口はひどく不均質で、有能かつ有名な多く人々もいるのだから。でも長い間平均してひどかった─この凡庸さが続いたのは部分的には大学システムを支配する縁故主義のせいだ─経済教育の現実を覆い隠してもいけない。

またこの凡庸さが部分的には世代的現象─グローバル化によってかすむ傾向があるけれど─であることも認めないといけない。今の学生は簡単にインターネットを通じて外国の教科書や著作にアクセスできるし(もちろんフランス語圏の素晴らしいインターネット・サイトにも)、ハイ・レベルな国際的な雑誌を読んだり、ハイ・レベルな経済的現実についての考えをもつこともできる。現在の経済学教授達の世代はかつてと同じではないし、この学問分野の現実にずっと自覚的で、多くの才能ある人物もいる。他のどことも同じくフランスでも、葬式から葬式へと科学は進歩している。フランスの指導的なクラスの平均年齢を考えると、こうした進歩はかろうじてこの人々の頃に遡るに過ぎない。でもフランスの経済の討議は以前に比べたらだいぶましであることは率直に認めないといけない(いや、いや、信じていいよ)。

でもヘラルド・トリュビューンの記事ではこうした現実は描かれていない。反対にアカデミックなシステムが生み出した最良の例としてジャン・クロード・トリシェ[註 現欧州中央銀行総裁]を「ヨーロッパで最も高名なエコノミスト」と呼ぶようなひどく驚くような事が書かれていて、その上エナルク[註 国立行政学院ENA出身者]の経済教育がひどく貧しいことが確認されている。ジャーナリストの怠慢だろうか。実際、この記事にはとてもフランス的な古くさい議論の痕跡が見てとれる。つまりリセでの経済、社会科学教育の議論だ。記事の大部分は事業研究所(訳語不明l'Institut de l'Entreprise)が「再教育のために」中等教育の教育者に与える教育の記述にあてられている。中等教育の経済学の教科書は内容的に実際ひどいものだし、実際に企業が知っているような経済的現実からひどく隔たった見方を教えている。

あまり事業研究所を批判したくない。というのもここが出しているSocietalという雑誌は質が高いと思っているから。ここが出している教材はたいしたものだし、中等教育の教師達のために企業の研修を組織することにはなにも悪いことはない。いやその反対だ。でもとてもいいものだと評価できない経済、社会科学教育のプログラムを擁護するつもりもない。ただこの教育が経済に関するフランスの時代精神の病根だとまでは思わない。それからこのリセでの教育に関する議論の展開の仕方は、我が国で優勢なアカデミックな学問分野として経済学が軽蔑されている点で典型的だと思う。

この教育が70年代の議論に囚われていようが、大部分が政治的な集団の道具となっていようが、これには可能性がある。事態を改善するだろう経営者のウルガタ[註 ウルガタ訳聖書、普及版ぐらいの意]のためにこのプログラムに内蔵されている左翼のウルガタの影響力を減少させない限りは可能性はないけれども。もう長い間この教育はこの2つのウルガタの間の影響力の闘争の対象になっている。そしてこうした事態が経済に関するフランス的な感情を正確に表現しているのだ。つまり経済とはオピニオンに過ぎないと。経済に関する「客観性」というのは右翼にも左翼にも同じだけの語る時間を与えることなんだ。フランス人の経済の知識を改善するというのは「経営者の視点を連中に理解させる」ということなんだ。こうした純粋なオピニオンとしての経済学という概念がフランスでの経済学の地位をつくっている。結局、もし経済学がオピニオンなら、誰もが自分のオピニオンを表現できるし、自分のオピニオンを他のどんなオピニオンとも同じく有効なものと考えることができる。その結果は、お手製経済学(DIY economie)の国民的な大成功だ。外科学や核物理学について自分の意見を無謀にも開陳しない人々が失業との戦いや通貨政策に関してはなんのコンプレックスももたずに自分の視点が信仰対象に値し、忠実につき従われるべきものだと考えるのだ。

エナルクではなく企業トップのティエリ・ブルトンを讃えるヘラルド・トリビューンの記事はこうした視点という点で典型的だ。彼の地位は彼がトンデモ発言の偉大なチャンピオンであることと両立するのだ。国債を「フランスの借金」と呼ぶことは─ティエリはいつもそう言う、いや彼だけじゃなく自己満足的な全報道機関がだ─国民的な経済の知識に貢献し、国家と社会の混同を回避できるだろうか。ヨーグルト生産者やカジノは海外資本のTOBから保護されるべきだと宣言して「経済愛国主義」に大喜びすることが国民的な経済の知識に貢献するのだろうか。ティエリやその助言者みたいなのがフランス人は経済が判っていないと不安がり、事態を改善すべくエコノミストや金融ジャーナリスト(!)や教育者からなる「経済教育委員会」を設立しなければならない─雇用をつくれる領域があっても、この種の無益な委員会の領域ぐらいなのだ─とか言っているのを見ているのはもはや最高の喜劇だ。その通り、フランス人は経済に関してダメダメだ。それは事実だ。でも魚はいつも頭から腐るんだ。

経済の知識を改善するというのは8時のニュースの前に1分間国内総生産とはなにかをフランス人に説明することではない。経済の知識がもたらす特殊だが些細でないこと、それはいくつかの基本的な考え方を理解することだ。まず、比較優位の概念の周囲にある相互依存という考えだ。次に、一般均衡という考えだ。一部で生じる事柄は残りの部分へと反響し、「孤立した」経済的出来事というものが存在しないという事実のことだ。最後に購入は常に売却で相殺されるという事実のような、会計均衡(équilibres comptables)の考えだ。こうした視角から私にとっていいこと(給料アップ)が経済全体に一般化されたならばかならずしもいいことではないということを理解できるんだ。こうした種類の知識から経済言説のよくある誤りである構成の詭弁[註 全体について真であることを部分についても真であると考えること、また一部について真であることを他の部分についても真であると考えること]を避けることができるんだ。こうした誤りを正すことは実際にいいことだけれども、おそらくフランスほどこうした経済学的な誤りが広まっているところは他にないだろう。
<終了>

フランス人の経済に関する無知という話ですが、一般の人に関してはフランスに限らない話でしょう。そのことにいらだつのは専門家の奢りに過ぎないでしょうが、ただ問題は「魚はいつも頭から腐るんだ」式の無知、つまり知っているはずの人達の無知にあるような気がします。この点で程度の差はあっても日本でも見られる光景が描かれているように思えます。日本の経済言説もマルクス主義やら国家主義やらポピュリズムやらに汚染され続けた訳でありまして、そこから類推可能な部分が多々あるかと存じます。財政均衡至上主義的な財務官僚やら重商主義的メンタリティーの経済官僚やらも存在していますしね。このエントリにあるように大分変わってきていますが。なお本屋に「もうひとつの経済学」が並んでいるというのは事実で、そこでスティグリッツの果たしている機能も微妙なものがあるように見えます。若い世代のエコノミストの奮闘に期待したいところでありますが、なかなか大変だなあと思います。

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IMFチーフ・エコノミスト就任を祝して

IMFのチーフ・エコノミストにブランシャール先生が就任されるようでおめでたい話であります。先生と勝手に呼んでいるのは私が氏の教科書を以前から愛用してきたからです。フランス人経済学者がなんとなくパっとしない印象がある時期以降続いておりますが、これを機にフランスの経済学界も盛り上がっていただきたいものです。

氏はマクロ経済学の教科書で有名ですが、ヨーロッパの労働市場と失業問題の研究でも知られておりまして、こちらの領域でも勉強させていただいています。哀しいかな、単なる素人なんであんまり専門的なものは読めないのですが。なお現在のIMFの総裁はドミニク・ストラス・カーン(DSKと略します)ですから稀に見るフランス勢の躍進ということになりますね。ちょうどこの組織も曲がり角にきているところですからここは是非手腕を発揮して改革を押し進めてもらいたいものです。でも、新しいIMFの役割ってなんなんでしょうね。ずいぶんと偉そうなわりにさっぱり使えない組織ですよね。言い過ぎですか。

フランスの経済学界も盛り上がって欲しいものだと書きましたが、それなりの動きはあります。歴史主義的な学派が長らく支配的であったせいで後塵を拝したと言われることがありますが、パリに加えてトゥールーズが中心になって元気なエコノミスト集団が形成され始めているようです。このeconoclasteというブログは仏語ですが、その雰囲気は伝わると思います。ここは一番人気のハブ・ブログです。

ついでに仏語圏の経済系ブログですが、上と似たようなポップなノリの経済系ハブ・ブログとしてはEcopublixとかBlogizmoなどが有名です。個人ブログではCeteris-ParibusとかEtienne WasmerとかOlivier Bouba-OlgaとかMa femme est une économisteとかOptimumなどはよく巡回しています。時事的なネタやヤバい経済学的なネタ(そんなにヤバくはないか)が扱われているので専門家でなくともなかなか楽しめます。誰が読むのか判りませんが、ご参考までに。

ちなみに日本語圏でも若手の経済学者達のハブとなるブログみたいなものができるといいなあと前から思っているのですが、どうなんでしょう。そんな暇ありませんか。そうですか。ところで前から思っているのですが、どうも複数の書き手からなる議論を喚起し、オピニオンを主導するようなハブとなるブログって日本語圏にないですよね。個人ブログはたくさんあっても。どうしてなんでしょう。なにか独特に発達してしまった日本語圏のネット環境とは合わないからでしょうか。それともステレオタイプと違って我々は共同作業が苦手な人々なのでしょうか。怪しげな日本論になりそうなのでこれ以上は止めておきますが。

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平和維持軍の醜聞

国連の平和維持軍による現地での悪行についてはここ数年来国際的に問題となっていますが、日本のメディアはあまり力を入れて報じていないような印象を受けます。国連が好きなくせに国連のことをよく知らないという状態は非常によくないと考えますので紹介しておきます。なお前にも書きましたように私は醒めた国連重視派ですのでここで単なる国連バッシングをしたい訳ではありません。日本も平和維持活動へのコミットを深めているのですから他人事ではない問題です。NGOや援助団体の行動をどこまで政府はつかんでいるのか判りませんが、協力体制はうまくできているのでしょうか。以前よりは多少は良好な関係になりつつあるとは思いますが、うまく恊働できなければ有効な活動などできないでしょう。また我らが自衛隊はその士気と規律の高さにおいて国際的に評価が高く、私も深い信用を置いていますが、万一の場合も想定しないといけない。これは確率論的な話です。またこうした想定は軍法会議がそもそも不在であるという戦後の我が国の異例状態をあぶりだすことになるでしょう。公正かつ有効に機能する軍法会議を運営すること、それは我が国が歴史から学ぶべき重要な教訓なはずなのですがね。当分先の話になりそうですけれども。

「誰が監視人を監視するのか」[Economist]
危険な場所に平和の番人や援助活動従事者を派遣する組織はたいていは派遣された者達の身体的安全に懸念している。しかし醜悪な懸念が近年持ち上がっている。他人を助けているとされる人々の道徳的誠実性をいかに保証するのかという懸念だ。

援助機関のSave the Childrenのイギリス支部による今週のリポートはこの問題を強調している。国際機関が介入している三カ所─南スーダン、ハイチ、コート・ジボワール─で昨年実施された調査で援助活動従事者やとりわけ国連平和維持軍の兵士による子供の性的虐待─6才の児童まで─が広まっていることが確認されたと言う。インタビューを受けた10才から17才の250人の少年少女の半数以上がこうした事例を知っていると答えた。しかし子供が訴え出るのを恐れるためにこうした虐待は「広く報告されない」状態のままだというのだ。

悲しいことにこのリポートが語るのはおなじみの話だ。とりわけ国連は最近その平和維持軍兵士のセックス・スキャンダルに見舞われている。2003年のコンゴでのネパール人のブルーヘルメットによるショッキングな一連のレイプ事件の後、国連事務総長のコフィ・アナン氏は調査委員会を立ち上げた。国連平和維持軍兵士によるレイプやその他の性的虐待の「繰り返されるパターン」の発見によって、アナン氏は国連とその機関に世界中で雇用されている民間人、軍人含めて20万人の要員に対してこうした犯罪に対する「寛容ゼロ」政策を宣言した。

この世界機関は現地スタッフが売春婦や18才以下とセックスすることを常に禁止してきた。またホスト人口の同意可能な成人との性的関係すら「強く反対」している。現在、こうした災いを根絶すべくニューヨークの司令部の特別ユニットと並んで「行動と規律」チームが国連の17の平和維持活動のそれぞれで設立されている。さらに2005年以来すべての新しい平和維持軍兵士は現地に派遣される前に性的搾取を防ぐべくトレーニングを受けることを求められている。

しかし虐待は一見したところ衰えることなく続いている。コンゴでのスキャンダルに続いて毎年ブルー・ヘルメットによる民間人の深刻なレイプ事件が起こっている─ブルンジ(2004)、スーダン(2005)、ハイチ(2006)、リベリア(2006)、コート・ジボワール(2007)。昨年は国連は兵士による748件の不品行の申し立てを受理したが、そのうち127件が性的搾取や虐待に関連したものだ。すべてではないが大半が調査されることになる。しかし有罪判決や処罰を受けることはほとんどなさそうだ。

ブルーヘルメットに関しては、国連には拘束があるためだ。国連はブルーヘルメットに対する深刻な苦情を調査できるし、実際しているのだが、容疑者に対する裁判権をもたず、彼らの母国のみが審理し、処罰する権威をもつのだ。大半の平和維持軍の部隊は発展途上国出身─バングラディシュ、パキスタン、インド、ヨルダン、ナイジェリア、ネパール、ガーナが最大の貢献者だ─であり、多くの国がこうした事件をカーペットの下に払いのけることを好むのだ。国連ができることはこうした者達を解雇し、補償を求めることだけだ。全国連平和維持部隊が絶対的な法的免除(immunity)を享受しているので、ホスト国もなにもできない。

こうした活動に付属する警察は別の問題だ。現地人でない国連民間人スタッフ同様に警察は条件つきの免除─公的な職務の間に犯された行動に対して─のみを享受する。レイプや未成年者の虐待はもちろんこうしたカテゴリーには含まれない。したがってこうした犯罪は理論的には現地で訴追され得る。しかし実際にはこうしたことはなさそうだ。ブルーヘルメットが派遣される諸国はぞっとするような裁判制度だったり、裁判制度がなかったりするからだ。その上、語ろうとする証人を探したり、十分な証拠を集めたりすることはこうしたカオスにおいては実質的に不可能なことが多い。

また援助機関やNGOは異なる法に服している。外国に拠点をもつ従事者はホスト国で免除を受けない。もしフランスのような大陸法の国の出身ならば、自国で─大変困難であるが─訴追される得る。イギリスやかつてのコモンウェルス諸国のような慣習法の国の市民は海外で犯した犯罪に関して自国で訴追されることはないが、性犯罪については訴追され得る。

ほとんどのNGOは行動準則を持ち、実際の虐待はもちろん売春も厳しく禁止されている。しかし彼らが課すことのできる最大の処罰は解雇だ。不法ではないが、この準則を破る17才の少女とセックスをした3人の従事者を最近Save the Children UKは解雇した。

この慈善団体は現在、虐待と戦う国際的な監視団体を望んでいる。国連が失敗した分野でどうやって成功できるのかは不透明だ。最大の問題のひとつは被害者が訴えたがらないことではなく、被害者が基本権に無知であることだ。必要なのは簡単にアクセスできる不服手続きと並んで地元の人々に自分達の権利を知らせるキャンペーンだと国際法の教授のFrançoise Hampsonは示唆する。しかしコンゴのような巨大でカオス的な場所ではそれは無理な注文だ。

現在のシステムを改善する別の方法は正式な申し立てを待つよりも最初の気配の段階で犯罪を調査することを作戦司令達に求めることだと彼女は言う。また国連と貢献国との間で結ばれた協定が犯人の処罰としてなにがなされたのかを報告することを義務付けるように改定されるべきだと彼女は提案する。

国連はこうした手続きを強化するよう努めている。昨年採用されたmodel memorandum of understandingの改定版の下、各国政府は明示的に国連の行動基準を強化するために「法的処罰を完全に効力あらしめる」よう求められる。これが実際なにを意味するのかはまだ判らない。しかし少なくとも調査手続きは改善した。深刻な不品行のケースの通知について国連は関係国に知らせるだけでなく、国連の内部監督局と協力して事件を調査するように招待する。この新しい調整は昨年ハイチでのスリランカ人の兵士による虐待容疑に初めて適用された。100人以上の兵士が現在軍法会議にかけられている。

平和維持軍の国連スポークスマンのNick Birnbackは、この新しいリポートを「深く憂慮すべき」とみなすが、こうした巨大な組織で「事件ゼロ」を保証することは不可能だと語る。「我々ができることは寛容ゼロのメッセージを理解させることです。これは信用すべき申し立てがあった際にみくびることがゼロで、違法行為が判明した際に処罰を免れることがゼロを意味します」と彼は言う。どうやらこれは有益なスタートになるだろう。
(了)

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やっぱり代弁人でしたよ

最近のBSE問題を含めた現政権に対するデマ騒動はかの国の情報に対する極度に政治的な態度を示しているように見えます。あんなデモ日本では起きないだろうという点では確かにかの国の土地柄を忍ばせるものがありますが、やはり日本でもネットや週刊誌やワイドショーを中心になにかあるたびに大量の色つきの情報やデマが出回る構造がある訳です。これに対して徐々に山が動くというような静かな反応の仕方は確かに違いますが、真よりも善を優先するかのような情報に対する態度には共通する部分が大きいような気がしてきます。まあ全世界そうだと言えばそうなのですが、ただ情報を通じた権力ゲームの作動の仕方がなんとなく似ているように感じられます。なお既にタブー化しているように見えますが、日本のBSE問題はどうなるんでしょうかね。

ところで、この記事ですが、
「北の代弁人」に転落した日本の左派知識人[朝鮮日報]
死んだ犬を叩く趣味はないのですが、最後の部分は現在でも妥当する話ですから引用しておきましょう。

こうした日本の左派知識人には、最低限の徳目である「事実確認」と「実証的態度」が欠如しており、実体と経験に全く根拠を置かないまま「北朝鮮=善」という単純な論理をそのまま表に出していた、と本書は指摘する。それは、知識人自身の感情を満足させるための虚勢と自己欺瞞の結果だった、というわけだ。

「事実確認」と「実証的態度」を欠いた政治的言説は、右派的なものであれ左派的なものであれ、決して信用してはならないというのは、冷戦時代の不毛なイデオロギー闘争が残した唯一の─平凡かつ当たり前過ぎる─教訓なんだろうと思います。ちっとも進歩していないように見えるのが切ないところですが。勿論この批判は韓国の左翼知識人にもそっくりそのまま妥当します。嫌韓派の方々におきましては不愉快だろうと存じますが、韓国を見ているとまあなんと似たような国がお隣にあることよという感想をもつことがやっぱり多いですね。現実と相即した柔軟性のある理念をベースにした実証主義的かつ実用主義的な政治的言説が左右両方面から沸き起こってくることを願っています。

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この流れは止まらないのかな

地方新聞の記者さん時代から愛読しているガ島通信の藤代裕之氏が日経のIT-PLUSで最近のインターネットの状況について「J-CAST炎上」事件に絡めて論じている記事を見かけました。大手新聞系サイトとネットとの関係についてだいたい適切な見取り図のような気がします。

この炎上事件そのものはまあどうでもいい話なのですが、J-CASTは俗に「炎上メディア」と呼ばれるようにネット上でバトルになっているネタを拾ってはこれを報じるという「ミドルメディア」と性格づけられています。この「事件」など見るとマッチポンプメディアと呼びたいような気もしますね。ともかくここから筆者はネットにおける「私刑化」の問題を指摘し、さらに

重要なことは、ある種「どうでもいいようなこと」をネット系、新聞社系に限らずニュースサイトが取り上げるようになっていること、そしてメディアの相互作用の中でJ-CASTのようなミドルメディアも「首が取れる」ことが明らかになってきたことだ。

と述べています。「首が取れる」というのはメディア界のジャーゴンでトップを辞任に追い込むことを意味する言葉だそうですが、ミドルメディアがこの「首を取る」権能を獲得しつつあるといいます。そして筆者によれば現在のメディアは三層構造化しつつあるとされます。

そのパワーの源泉は三層化したメディアの相互作用にある。ブログや掲示板といったパーソナルメディアとミドルメディア作用に加えて、ネット界では日本最大のポータルサイト、ヤフーがパワーをレバレッジしている。[...]アクセス数は「首を取る」パワーの源泉にもなるのだ。

一方にブログや掲示板があり、他方に大手メディア・サイトがあり、両者を媒介するミドルメディアがパワーを持ち始めているという話です。ちなみに各国のヤフーを見比べた時に日本ヤフーのニュースのヘッドラインがその記事のどうでもよさにおいて群を抜いていることにお気づきの方も多いでしょう。ちなみに海外の日本報道でしょうもないニュースばかり配信されるのも─偽の啓蒙主義的な記事よりはなんぼかましではありますが─最終的にはこうした日本のメディアのトリヴィアリズムのせいな訳ですが、ここではその問題は置いておきましょう。最後に大手メディアもまたアクセス数稼ぎが自己目的化しているという指摘をしています。

別の新聞社系ニュースサイトでは、芸能や事件・事故の刺激的な見出しを多用するようになり、写真は女性タレントか水着。確実にアクセスを稼ぐことができる「編集」が行われるようになっている。より刺激的に、より面白おかしく…数字を求めてさまざまな取り組みが行われている。

この点については以前毎日新聞英語版の「凄さ」について書きましたが、あそこまでいかなくとも─虚構記事を掲載するレベルということです─いくつかの新聞系サイトのアクセス数稼ぎのための「面白おかしさ」の追求ぶりについては皆さんお気づきの通りです。私はこうした傾向に眉をひそめるほど上品な人間ではありませんが、この先どうなるのか多少心配にならない訳でもないです。最後に、

なぜ、アクセス数のみに頼るのか。アクセス数が増えなければ広告収入が増えないというのがもっとも大きな理由だ。それに加えて、どのようなニュースサイトを作りたいかがはっきりしないという理由もある。 特に新聞社系のニュースサイトは依然として「マスメディア」を志向しているため、誰に、どのような価値を提供するか不明確なまま運営されている。「顧客視点」と言えば聞こえは良いが、要するに指標がアクセス数しかないのだ。 このアクセス数重視は、視聴率競争に明け暮れ、最終的に人々に見放されつつあるテレビの「いつか来た道」にも重なる。ただし、チャンネルが限られるテレビと異なり、ネット上ではメディアは誰もが簡単に作ることができる。「ワイドショー化」「衆愚化」が進むからこそ、別の価値を持つメディアが登場するチャンスがあると考えている。

と広告収入のみならず目的意識のなさをこの原因に帰していますが、上記の三層構造内部の相互作用的力学の中でニュースサイトのインフォテイメント化はとどまることなく進行し、最終的に人々に見放されることになるのではないかという見通しを─別のメディアの登場のチャンスを暗示しつつ─提示して記事は締めくくられています。テレビの報道番組が情報娯楽番組の侵食を受けてほぼ壊滅状態─価値評価が強い表現ですが─になってしまったことがいくつかの新聞においても反復されてしまうのでしょうか。

こうした趨勢は世界的なもののように思われますが、日本の新聞の文脈で言えば、戦後日本には寡占的メディア構造下にあって「中新聞」しかなかったという点が重要になるかと思います。朝日にせよ読売にせよ毎日にせよ現在の大手新聞はいわゆる「子新聞」から出発し、新中間層の成長とともに「大新聞」を蹴散らして現在の地位を築いたことをここで想起しますと、今後は中新聞にとどまる新聞社と再び子新聞化する新聞社とに分化し、大新聞はいくつかの海外紙で間に合わせる─日本にも大新聞があっていいような気がするのですがね─ことになるのでしょうか。分権化の進行とともに地方新聞が再編されつつ。あるいはこうした古典的な構造が消滅し、もっと不透明で入り組んだメディアの布置になるのでしょうか。つまり新聞というマスメディアそのものが消滅─勿論ニュース需要がなくなるわけはないでしょうから今存在している意味ので「新聞」がということです─していくプロセスです。私としては後者の可能性に思いを馳せてしまいますが、ネットの出現によるメディア再編の混乱期はまだまだ続くのでしょう。その間に起きるだろうごたごたのいちいちに敏感に反応するつもりもありませんが、混乱による弊害は最小化していただきたいものだと思います。もはや一国の内部だけに収まる問題ではないのですから。

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