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魚はいつも頭から腐るんだ

前のエントリでリンクしたeconoclasteから。2006年の記事ですが、ヘラルド・トリビューンが「フランス式経済学」という記事でフランスを揶揄し、これがブログ界で波紋を呼んだ際に書かれた「フランスは経済に無知な国か?」という心の叫びのようなエントリを紹介します。

<開始>
愉快ではないかもしれないが、前置きから始めよう。そう、その通り、フランス人は経済に関してダメだ。経済への無知は全世界的に最も共通するもののひとつだ。でもクルーグマンの言葉を借りると、「フランスの政治エリート階級が経済的問題を討議する仕方にはなにか特殊なものがある。他のどこの先進国においてもこれほど美辞麗句を論理に優先させ、偉大さの幻影のために経験の教えを投げ捨てたがるエリートは見当たらない」。この特殊性はなにも政治階級特有のものではない。これはまた知識人にも言える。彼らにとって経済分析や事実の提示はオピニオン以上の価値はもたないし、客観性というものも左翼の言うことを聞いて、次に右翼の言うことを聞くといった程度のことだ。この点についてはちょっと前に語った通りだ。それからこの特殊性はまた最も愚かな論理に反省することなく飛びついてしまう国民全体にも言える。このことを納得するには、FNACのような本屋の(存在するとして)「経済」の棚を見に行くだけで十分だ。一方では「もうひとつの経済学」(そこで見つかる一番主流の著者はたいていスティグリッツだ・・・)を標榜する左翼的な火種の山、他方で右翼のパンフレットを目にすることだろう。もし君が大学都市にいるならば、さらにそこの教師が書いた出来にむらのある教科書─購入者はこの教科書を買うことを義務付けられた学生達だ─を多分見つけるだろう。「通常の」(「もうひとつの」ではない)アカデミックな経済学については、出直すか、散文的にアマゾン・ドット・コムで英語の本を探すかのどちらかだ。
 
もっとひどいことに、フランスの(そしてベルギーの)普通の大学生は外国の同類と比べてオピニオンだけでなく事実の判断についてもひどく違っている。フランスではアカデミックな経済分析の現実とパリ114大学やリセ・モーリス・トレーズ校で教えられる[註 どちらも存在しない学校]やかましい説教とがひどく違っていることを仰天とともに(しばしば恐怖とともに)発見する学生が容易に見つかるけれども、これは驚くべきことじゃない。確かにあんまり一般化すべきではない。フランスのエコノミスト人口はひどく不均質で、有能かつ有名な多く人々もいるのだから。でも長い間平均してひどかった─この凡庸さが続いたのは部分的には大学システムを支配する縁故主義のせいだ─経済教育の現実を覆い隠してもいけない。

またこの凡庸さが部分的には世代的現象─グローバル化によってかすむ傾向があるけれど─であることも認めないといけない。今の学生は簡単にインターネットを通じて外国の教科書や著作にアクセスできるし(もちろんフランス語圏の素晴らしいインターネット・サイトにも)、ハイ・レベルな国際的な雑誌を読んだり、ハイ・レベルな経済的現実についての考えをもつこともできる。現在の経済学教授達の世代はかつてと同じではないし、この学問分野の現実にずっと自覚的で、多くの才能ある人物もいる。他のどことも同じくフランスでも、葬式から葬式へと科学は進歩している。フランスの指導的なクラスの平均年齢を考えると、こうした進歩はかろうじてこの人々の頃に遡るに過ぎない。でもフランスの経済の討議は以前に比べたらだいぶましであることは率直に認めないといけない(いや、いや、信じていいよ)。

でもヘラルド・トリュビューンの記事ではこうした現実は描かれていない。反対にアカデミックなシステムが生み出した最良の例としてジャン・クロード・トリシェ[註 現欧州中央銀行総裁]を「ヨーロッパで最も高名なエコノミスト」と呼ぶようなひどく驚くような事が書かれていて、その上エナルク[註 国立行政学院ENA出身者]の経済教育がひどく貧しいことが確認されている。ジャーナリストの怠慢だろうか。実際、この記事にはとてもフランス的な古くさい議論の痕跡が見てとれる。つまりリセでの経済、社会科学教育の議論だ。記事の大部分は事業研究所(訳語不明l'Institut de l'Entreprise)が「再教育のために」中等教育の教育者に与える教育の記述にあてられている。中等教育の経済学の教科書は内容的に実際ひどいものだし、実際に企業が知っているような経済的現実からひどく隔たった見方を教えている。

あまり事業研究所を批判したくない。というのもここが出しているSocietalという雑誌は質が高いと思っているから。ここが出している教材はたいしたものだし、中等教育の教師達のために企業の研修を組織することにはなにも悪いことはない。いやその反対だ。でもとてもいいものだと評価できない経済、社会科学教育のプログラムを擁護するつもりもない。ただこの教育が経済に関するフランスの時代精神の病根だとまでは思わない。それからこのリセでの教育に関する議論の展開の仕方は、我が国で優勢なアカデミックな学問分野として経済学が軽蔑されている点で典型的だと思う。

この教育が70年代の議論に囚われていようが、大部分が政治的な集団の道具となっていようが、これには可能性がある。事態を改善するだろう経営者のウルガタ[註 ウルガタ訳聖書、普及版ぐらいの意]のためにこのプログラムに内蔵されている左翼のウルガタの影響力を減少させない限りは可能性はないけれども。もう長い間この教育はこの2つのウルガタの間の影響力の闘争の対象になっている。そしてこうした事態が経済に関するフランス的な感情を正確に表現しているのだ。つまり経済とはオピニオンに過ぎないと。経済に関する「客観性」というのは右翼にも左翼にも同じだけの語る時間を与えることなんだ。フランス人の経済の知識を改善するというのは「経営者の視点を連中に理解させる」ということなんだ。こうした純粋なオピニオンとしての経済学という概念がフランスでの経済学の地位をつくっている。結局、もし経済学がオピニオンなら、誰もが自分のオピニオンを表現できるし、自分のオピニオンを他のどんなオピニオンとも同じく有効なものと考えることができる。その結果は、お手製経済学(DIY economie)の国民的な大成功だ。外科学や核物理学について自分の意見を無謀にも開陳しない人々が失業との戦いや通貨政策に関してはなんのコンプレックスももたずに自分の視点が信仰対象に値し、忠実につき従われるべきものだと考えるのだ。

エナルクではなく企業トップのティエリ・ブルトンを讃えるヘラルド・トリビューンの記事はこうした視点という点で典型的だ。彼の地位は彼がトンデモ発言の偉大なチャンピオンであることと両立するのだ。国債を「フランスの借金」と呼ぶことは─ティエリはいつもそう言う、いや彼だけじゃなく自己満足的な全報道機関がだ─国民的な経済の知識に貢献し、国家と社会の混同を回避できるだろうか。ヨーグルト生産者やカジノは海外資本のTOBから保護されるべきだと宣言して「経済愛国主義」に大喜びすることが国民的な経済の知識に貢献するのだろうか。ティエリやその助言者みたいなのがフランス人は経済が判っていないと不安がり、事態を改善すべくエコノミストや金融ジャーナリスト(!)や教育者からなる「経済教育委員会」を設立しなければならない─雇用をつくれる領域があっても、この種の無益な委員会の領域ぐらいなのだ─とか言っているのを見ているのはもはや最高の喜劇だ。その通り、フランス人は経済に関してダメダメだ。それは事実だ。でも魚はいつも頭から腐るんだ。

経済の知識を改善するというのは8時のニュースの前に1分間国内総生産とはなにかをフランス人に説明することではない。経済の知識がもたらす特殊だが些細でないこと、それはいくつかの基本的な考え方を理解することだ。まず、比較優位の概念の周囲にある相互依存という考えだ。次に、一般均衡という考えだ。一部で生じる事柄は残りの部分へと反響し、「孤立した」経済的出来事というものが存在しないという事実のことだ。最後に購入は常に売却で相殺されるという事実のような、会計均衡(équilibres comptables)の考えだ。こうした視角から私にとっていいこと(給料アップ)が経済全体に一般化されたならばかならずしもいいことではないということを理解できるんだ。こうした種類の知識から経済言説のよくある誤りである構成の詭弁[註 全体について真であることを部分についても真であると考えること、また一部について真であることを他の部分についても真であると考えること]を避けることができるんだ。こうした誤りを正すことは実際にいいことだけれども、おそらくフランスほどこうした経済学的な誤りが広まっているところは他にないだろう。
<終了>

フランス人の経済に関する無知という話ですが、一般の人に関してはフランスに限らない話でしょう。そのことにいらだつのは専門家の奢りに過ぎないでしょうが、ただ問題は「魚はいつも頭から腐るんだ」式の無知、つまり知っているはずの人達の無知にあるような気がします。この点で程度の差はあっても日本でも見られる光景が描かれているように思えます。日本の経済言説もマルクス主義やら国家主義やらポピュリズムやらに汚染され続けた訳でありまして、そこから類推可能な部分が多々あるかと存じます。財政均衡至上主義的な財務官僚やら重商主義的メンタリティーの経済官僚やらも存在していますしね。このエントリにあるように大分変わってきていますが。なお本屋に「もうひとつの経済学」が並んでいるというのは事実で、そこでスティグリッツの果たしている機能も微妙なものがあるように見えます。若い世代のエコノミストの奮闘に期待したいところでありますが、なかなか大変だなあと思います。

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コメント

スティグリッツへのあてこすりはリベラル派のニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスでも目にしたのですが、そこまで批判されるべき人なんですかね?

イラク占領体制の責任者のポール・ブレマーが、「イラク占領の最大の遺産は何か」を質問されて、「輸入品への関税の撤廃」とか答えるのが、今のアメリカですから。スティグリッツさんみたいに、市場経済という方程式だけでは、すべての社会問題の解にはならない、という正論も必要かと。
もっともフランスの「新自由主義が諸悪の根源」みたいなのにもついてはいけませんが。

スティグリッツのグローバル経済批判は、エドワード・サイードのパレスチナ論同様、アメリカ論壇における絶対的な主流思想を相対化するために、あえて一石を投じている、と解釈すべきで、論壇の政治学が異なる日本やフランスではその分割引かないといけないと思うのですが。

投稿: Aceface | 2008年6月 7日 (土) 13時05分

私は批判されるべきだと思っていなくて、スティグリッツは有意義な言論活動をしていると考えています。特に世銀、IMF批判には痺れました。私怨もなくはないでしょうけれど。ただクルーグマンもそうですが、政治的発言はさすがにどうだろと思うことはあります。おっしゃるようにあちらの文脈もあるでしょうし、またモチ屋はモチ屋ということもあるでしょうからそれはそれで仕方ないと思いますが。

フランスにおけるスティグリッツの受容は、なんというのか、ほら、アングロサクソンにもこういうこと言っている偉い学者がいるぞと権威づけに使われている感じです。でもそれは政治的な利用に過ぎなくて経済学そのものにはひどいアレルギーがある訳です。それはスティグリッツにとっても不本意な展開だろうと思います。彼だってフランスに対しては経済改革したほうがいいと言うでしょうから。漸進主義的なアプローチをすすめるでしょうけれども。

投稿: mozu | 2008年6月 7日 (土) 18時26分

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