« waiwaiの閉鎖について | トップページ | 左の左 »

なぜかくもナショナリズムを恐れるのか

Japan Focusはその編者の選好のせいでJapan misFocusと呼びたくなるほど─ええ、煽ってますとも─内容的に偏りがあるサイトでありますが、それでも読める記事が掲載されることもあります。正直に言えば今回はそれほど興味深くもなかったのですが、こんな論調もありますよということでクリップしておきます。今日はあまり機嫌がよくないので、不愉快な表現もあるかもしれませんのでご注意下さい。

Laura Hein, The Cultural Career of the Japanese Economy: Developmental and Cultural Nationalisms in Historical Perspective[JF]
日本のナショナリズムの研究も大量生産され過ぎてもはや飽き飽きしているのですが、これは戦前戦後の経済ナショナリズムを扱った記事です。とはいえ対象になっているのは政府や企業や家計の行動ではなくて経済言説です。それを「時代精神」とみなしてナラティブを紡ぐというやり方ですね。もう方法論的に最初から危うい感じであります。戦前、高度経済成長期、1970年代80年代、1990年代以降と4つの期間に区切っています。

戦前のナショナリズムの特徴としては、欧州のナショナリズム(特に後発国)と似ている一方で、アジア国家であった点に日本の特異性が見られる。植民地と後発近代国のナショナリズムの特徴を同時に備えている。近代化に成功したにも関わらず、列強クラブから人種的に排除されたことに加えて、近代化=西洋化であるとみなされ、完全な西洋化の不可能性と自らの文化的正統性の喪失の不安がナショナリズムの根拠になっていた。その不安は特に戦間期に亢進し、反自由主義的で文化ナショナリズム的な経済思潮を生むことになった。満州国の実験がその実現であったと。これはもはや伝統的なナラティブといっていいでしょう。ただ現実の経済は戦時体制が構築されるまでは古典的なレッセ・フェールだったことに言及すべきではないでしょうかね。またナショナリズムについてももっと複雑だと思いますよ。

敗戦によって日本の特殊性は否定的に捉えられるようになり、開発主義的ナショナリズムとノ−マルな近代化の夢にとって代わることになる。他の先進国との共通性が強調され、古い社会的、文化的伝統が批判され、社会的平等が促進された。1970年代までに「二重構造」や「経済成長の歪み」といった批判も姿を消すほどの平等主義的な社会が実現し、環境主義的な「成長第一主義」の批判にとって代わる。この時期には過去の日本への批判はあっても日本の経済成長はノーマルなものであり批判は資本主義そのものに対するもので日本をこの逸脱として批判することはなかったと。近代主義者の黄金時代として描かれていますが、ここで言及される「開発主義的ナショナリズム」の中身はなんでしょうかね。いろいろな議論があることはそれなりに知ってはいますが、最低限の概念規定はして欲しいところです。ところで安保の頃の平和主義ナショナリズムや戦後民主主義者の日本特殊論についての言及はないんですかね。

しかし1970年代以降、文化ナショナリズムが再浮上することになる。グローバルな経済舞台に登場することで他者に日本を説明する必要が生じ、日本人論が人気を博することになる。日本の特殊性は経済に向けられ、過去を想起させる国家には向けられなかった。日本に関する海外の評価が翻訳され、討論され、受容され、拒否されといったように、他者に受け入れられないのではないかという不安がこの文化ナショナリズムを支えていた。文化的同質性が平等主義の理由として称揚されたが、勿論平等は戦後の格差の是正によるものであり、伝統的でもなんでもないと。この時期の日本論の隆盛をグローバルな環境との相互作用として捉える視点は大切だろうとは思います。とはいえ本当にこの時期を日本人論の時代としていいのですかね。私は一応この時代には存在しているのですが、あまり記憶にないんですよね。それにこの程度のナショナリズムのなにが問題なんでしょうね。実際、平和な時代でしたよね、うんざりするほどに。

1990年代の経済の悪化は楽観的な差異の称揚を不可能にし、文化的変化を受容すべきか、国際社会にどうアプローチするか、新自由主義的改革を受け入れるべきかといったように公論を両極化させる。ベストセラーになった「複合不況」は日本経済がグローバル経済に統合されている事実を強調しつつ、国内での開発主義的ナショナリズムの原則への呼びかけを行った。ナショナル・アイデンティティーの問いかけは諸々のリベラルな動きを生み出し、日本人はコスモポリタン的なアイデンティティーへと向かうように見えた。「1940年体制論」のように戦後の開発主義的ナショナリズムを批判し、新自由主義改革を唱導する声と石原慎太郎のような文化主義的ナショナリストの声が強くなり、小泉、安倍政権がこれを実現した。以下ずっと悪口が続きます。左派メディアの言説だけ追っているとこんな風に見えるんでしょうね。政治家の失言を並べるのがナショナリズムの証明なんですかね。こんな失言集ならどこの国に関してもつくれるような気がしますが。言論人はぎゃあぎゃあ喚いてますが、近隣諸国の恫喝にも関わらず、大衆はのほほんとしたもんですよ。そんなに怖がらなくてもいいじゃないですか。あなたの恐怖はどこに起因しているんでしょう。それを掘り下げて文章にしてくれたほうが興味深いかもしれませんね。「なぜジャパノロジストはかくもナショナリズムを恐れるのか」。これを御題にみなさんなにか書いて下さい。よろしくお願いします。ついでにマコーマック氏もナショナリズムについて寄稿してますね。マクニールとかマクガイアとか我々はマックに呪われているのでしょうか。これはさすがに言い過ぎですか。そうですか。

The Keiretsu and the Japanese Economy[JF]
これは楽しいですね。三輪氏とRamseyer氏の系列神話解体に対する応答です。応答になっているのかどうか判りませんが。系列が存在しないだって!メインバンクなんてものはないだって!そんな馬鹿な!私が見たあれは幻だったのか!といった内容です。この研究はどれほど世間的に知られているのか判りませんが、たいそう刺激的なものです。だいたいジャパノロジストは政治学者や法学者や歴史学者や社会学者が多く、ごりごりの経済学者は少なかった上に、日本の経済学者はマルクス主義者ばかりだった─しかしなんという国なんでしょう、西側の一員ではなかったのですか、我々は─ために日本経済像はえらく歪んでいるが、普通の新古典派経済学で説明できてしまう、日本は特殊な国じゃなかったという話です。この議論は日本的経営批判や統制経済批判に依拠する一部の構造改革主義者のベースを掘り崩してしまうのでしょうが、刺激的過ぎて反発も多いようですね。上にあげた開発主義の話も同断なんでしょう。この文章はこの説への戸惑いをユーモラスに描いています。

追記
Japan TimesにKevin M. Doak氏のナショナリズム本の書評が掲載されていますね。国民主義、民族主義、国家主義、ナショナリズムという日本語(カタカナ語)を一括して英語でnationalismと呼んで議論することについては前々から疑問を感じていたのですが、どうもこの点でとりあえず一歩前進した議論のようです。全部一緒くたにして論じるから混乱が生じてきた訳ですよ。とはいえ例のcivic nationalism対ethnic nationalismという図式を外挿して論じているらしいのでそこはどうなのよという気がしてきますが。国民はcivic nationですか、無理訳ではないですかね。例えば徳富蘇峰はどっちなんですかね。まあ読んでいませんからなんとも言えませんけれどもね。

コメント欄にも書きましたが、ナショナリズム研究やナショナリズム批判は勿論あっていい。ただ客観的に言って東アジアで最もナショナリズムの弱い状態の国に批判が集中し、他の国はスルーという奇妙な言説効果をもたらしていることに自覚的になってもらいたいわけです。この扱いに対する不公平感が逆説的に日本のナショナリズムを高めてしまうかもしれない可能性について少し考えてみたらどうでしょうか。可能性ではなく一部では現実になっていると思います。

|

« waiwaiの閉鎖について | トップページ | 左の左 »

我が国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

経済」カテゴリの記事

コメント

>「なぜジャパノロジストはかくもナショナリズムを恐れるのか」。

未だに太平洋戦争のトラウマがあるんでしょうねえ。あと、それ以前の黄禍論の影響もあったりして。もっともこのへんで議論を組み立てると、件の論調と同じレベルに墜ちてしまいそうですが。w

投稿: Baatarism | 2008年6月27日 (金) 09時55分

そうですねえ。そうした要素はあると思いますが、その作業はジャパノロジスト自身にお任せします。ナショナリズム批判はまあそれはそれであっていいのですが、どうもトーンがおかしいんですよね。例えば、フランスの経済ナショナリズム批判とは全然違う。

また研究テーマが偏り過ぎというのも問題です。客観的に言えば東アジアで一番ナショナリズムが弱い国に向けて批判が集中し、他はスルーという状況は奇妙です。これが扱いの不公平感を生み、ひいてはナショナリズムを高めるという逆効果をもたらさなければいいんですがね。というかもたらしているような気がしてならない。

投稿: mozu | 2008年6月27日 (金) 13時51分

>ナショナリズムが弱い国に向けて批判が集中し、他はスルーという状況は奇妙です。これが扱いの不公平感を生み、ひいてはナショナリズムを高めるという逆効果をもたらさなければいいんですがね。というかもたらしているような気がしてならない。

これ自分も思いました。そこそこ程度をふまえて扱っておけば過去は置いといて、こんなにお気楽な民族もないだろうにと。
寝た子を起こす行為ですよねぇ・・。
あえてやってるんですかね?それともなめられてるのか。たまたまなのか。過大評価されすぎなのか。

ちょっと日本自身の責任もあるやもしれないかもと最近思ってます。
自分達の事を発信するのがヘタすぎて、何考えてるのかわからんこいつら みたいに妙にとらえられてたりするのかもと・・。それが警戒を生んでしまってたりするんでしょうかと。

・・にしても偏ってますね。

投稿: かかし | 2008年6月27日 (金) 14時36分

あえてやっているというのはうがち過ぎで日本はナショナリズムの強い国だと本気で思っているんだと思います。お前らに言われたかねえよという話ですがね。これほど一般国民が生活に直接関わらないことには無関心でのほほんとしている国もないんですがね。そこに右派は焦って金切り声をあげているわけですが、これを日本人全体の見方みたいに取り扱う訳ですよ。いったいなにを見ているのでしょうかね。まあ言論と現実との乖離が問題なんですけどね。それから戦後のアカデミズムが左翼のみなさんに制覇されていたというのもあると思いますね。彼らのいささか迫害妄想的な目を通じて見られた日本像が定着してしまっているんですよね。困ったもんです。本当に。

投稿: mozu | 2008年6月27日 (金) 15時15分

昔のBulletin of Concered Asian Scholarsを読んだことがあるのですが、アジアのほとんどの国(中国、フィリピン、インドネシア)についての論文では、ナショナリズムは好意と共感を持って書かれるのに、なぜか日本だけは例外でした。

Japan Focus 編集委員のマ×ーマック氏はかつて北朝鮮やポルポト派の擁護者で、セル×ン氏は若かりし日には、毛沢東シンパにしてベトナム反戦の闘士だった、というヒジョーにわかりやすい左翼の方々です。
なんでこういう人が21世紀に日本研究を?とも思いますが、結局、実際に共産主義を実践した国を専門にすると、その人権侵害のヒドさに目をつぶってまで自分のイデオロギーを投影しつづけるのが難しくなる。中国や朝鮮、インドシナのプロパーだとソ連崩壊後の新資料などで理論武装した後進の批判をモロにあびることになるからじゃないの、と邪推したくなります。
でもイデオロギー的に煮詰まっても、日本ナショナリズム研究に逃げ込めば大丈夫。なにをいっても「戦争責任論」や「日本の右傾化」みたいな魔法のタームがあります。英語圏左翼アジア研究者のガラパゴスみたいなところになってるんじゃないですか、わが日本は。(無責任なシロウトの考えですが)


モンゴル研究者で大戦中に蒋介石の政治顧問でもあったオーウェン・ラティモアは後の赤狩りで迫害されたこともあり、日本では同情的に見られています。
ところが、モンゴルでは現地の知識人には、共産党のプロパガンダを真に受けた、とキビシイ評価を受けています。
その代わり「モンゴルは本当はどのように統治されているのか」なんて扇情的なタイトルの本を、反共のフーバー研究所から出したロバート・ルーペンは、いまだに現地の人間によって、社会主義時代のモンゴルの権威として引用されているという皮肉な現実があります。(たしかルーペンは執筆前にモンゴルには一度も足を踏み入れたことがなかったはずです。)

結局、「口に苦けりゃ何でも良薬」みたいな思い込みと、公開の場で英語で反論しない日本の知識人に問題があるといわざるを得ませんね。

投稿: Aceface | 2008年6月29日 (日) 03時18分

なるほど。さすがですね。モンゴルの話はまったく知りませんでしたので勉強になります。左翼の落ち延び先としての日本というのは私もひしひしと感じています。Japan Focusばかりではないんですが、ここそれなりに影響力もってしまっていますから批判されてしかるべきだと思います。なによりもこの連中に領有化されている日本左翼の醜悪さと無惨さには涙が出そうになります。あんた達いつまで利用され続けているんだよと。

投稿: mozu | 2008年6月29日 (日) 15時51分

それで思い出すのが、5,6年前にNHKの衛星放送で「ショアー」のクロード・ランズマン監督がイスラエル国防軍を題材にしたドキュメンタリー「ツァハル」を放送したときのことです。
「ツァハル」は基本的にホロコーストの末裔がパレスチナの地でいかなる軍隊を持つようになったかをめぐる映画ですが、若干批判的な描写やコメントはあるものの、基本的に「イスラエル軍に栄光あれ!」みたいな作品で、ラストカットは戦車に乗ったイスラエル兵が赤銅色の顔を屈託なくほころばせて終わるというものです。

ランズマンはレタンヌ・モデルヌ誌の編集長時代に「イスラエルとパレスチナ」特集号を編集しており、(日本ではサルトル名義でサイマル出版からでてます。)パレスチナ問題の深刻さもよく知っている人なのですが、ユダヤ人国家を守り抜くには、強い軍隊は必要、なんてメッセージを持つ映画を作ってしまったんですね。

さて、映画の後に特別編として、東大教授の高橋哲哉がランズマンと対談するというおまけがついていたのですが、(ちなみに高橋は日本における「ショアー」上映運動を95年ごろに鵜飼哲と共同でおこなっていました。)日ごろ憲法9条を称揚したり、イスラエルのパレスチナ政策批判をしている高橋先生なのに、ランズマンを前にして、完全に借りてきた猫状態だったんです。小生はいたく失望しました。
後に、浅田彰の映画論に所収された対談の中で、高橋先生は遅ればせながら、ランズマン批判や軍事力で問題は解決できない、やっぱり平和憲法だ、みたいなことをゆってるんですが、なぜそれを本人の目の前で言わないんだ!みたいな気持ちになりました。

それでもって、昨年ル・モンド・ディプロマティークのオンライン日本語版を読んでいたら、ベストセラー「靖国問題」の著者として、パリで講演され、その抄録が載っている。イヤな予感がしつつも読んで見ると、案の定、国内と同じ靖国は軍国主義のシンボルでケシカランみたいな議論をしている。別にそれが悪いとはいいませんが、フランスでですよ、凱旋門もあれば、アンヴァリッドもあるあのパリでですよ。

無理な相談とはわかっていますが、高橋先生はいっそ「フランス人はサンテクジュペリをパンテオンに祭っていますが、あれは「星の王子様」を書いたからか?それとも自由フランス軍のパイロットとして戦死したからか?もし後の理由であればカミカゼのいる靖国とサンテックスのいるパンテオンはどこが違うのか?」ぐらいかましてほしかったですね。そっちのほうが、よっぽどフランス人に問題の深刻さを肌で理解させることができたとも思いますし。

でも、なぜか高橋先生はそうしない。そうして「世界に通用するニッポンの良心的知識人」に収まってしまうんですね。

投稿: Aceface | 2008年6月30日 (月) 02時21分

それは典型的な例のように思えますね。左翼というよりも戦後民主主義的といったほうがいいのかもしれませんが。きつい言い方をするとそんなに頭をなでてもらって嬉しいんですかと言いたくなります。日本の右派を批判するのは結構なのですが、自分が日本の知識人であるという当事者意識が抜けているようなお気楽さを感じてしまいます。本人は深刻な顔をしているつもりでも厳しいコミュニケーションを避けているようにしか思えない。あちらの文脈に押し込められることへの抵抗感はないんでしょうかね。違う文脈もあるんだということを説明してほしい。

ただフランスの場合は英語圏とはまたやや異なった受け止め方がありますけれどもね。例えば原爆の問題なんかはホロコーストと同列ですし、第二次世界大戦での日本の評価も勿論否定的ではありますが、もう少し幅があるように思えます。反アングロサクソン意識が働いているせいなのかどうかは判りませんが。

いわゆるリビジョニスト問題ではメディアでは厳しい評価になっていますけれども、コメント欄などでは日本に同情的な声がちらほら見られるのが不思議なところです。まああちらも歴史問題をめぐって大火傷しているので同情的な声も出てくるのかもしれません。9条については端的に理解不能でしょうね。

これは言うべき事柄なのかどうか判りませんが、例えばアメリカ人の平和運動家に9条は素晴らしいと言わせるセンスは私にはまったく判りません。私は決して反米主義者ではないつもりですが、この構図の醜悪さにはとうてい耐えられない。とこんなことを書いているとどんどんナショナリストみたいになっていく自分を感じてしまいますが(笑)。

投稿: mozu | 2008年6月30日 (月) 03時47分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/507226/21916001

この記事へのトラックバック一覧です: なぜかくもナショナリズムを恐れるのか:

« waiwaiの閉鎖について | トップページ | 左の左 »