« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月

諸行無常

以下ニュースクリップ。

三菱UFJ、モルガンに20%出資 最大9000億円[日経]
野村証券のリーマン買収に続き、大型のM&A案件です。私はこの分野については(いや、どの分野についてもか)歴史的な見方しかできないので意味のあることはなにも言えないのですが、それでもなにかしら感慨深いものがありますね。モルガン家の栄光の時代なんてはるか昔の話ですけれどもやはり老舗の風格みたいなものはなんはなしにあったわけですよね。中はともかく外から見ると。FTでも特集があったみたいですが、日本勢が買いあさっているというのが国際ニュースになっています。すっかり意気消沈していた感のある日本の金融屋さんもそれなりに動き始めているようでなりよりな話です。次の展開につながるといいですね。まあ私個人には関係ないんですけどね。次に気になるのはUBSの行方ですかねえ。

"Prepare for N Korea crisis, says Japan"[The Australian]
ampontanさん経由の記事。オーストラリアンの日本記事ってなにか微妙な感じなんですけれど(ラッド首相に日本重視を訴えたりもしてますけれどね)、この記事は北朝鮮がらみでの日本の動きを報じています。麻生氏の選挙演説の引用、それから内閣が北朝鮮の偶発事態に備えたプランを検討、更新する会合を開くことを伝えています。

The contingencies include conflict on the North-South and North Korea-China borders, uncontrolled refugee flows into the region, civil war between competing elements of the People's Liberation Army, and the threat of missile attacks or, less likely, nuclear strikes on Seoul and Japan's east coast cities, including Tokyo.

と起こり得る事態について列挙されています。周囲の環境の荒々しさやメディアのいつもの煽りにかかわらず国民が相変わらずのほほんとしているようなのは今では我が国の強みのような気すらしてきてもうとうに苛立つのは止めていますが、北朝鮮は本当にどうなるんでしょうね。どうでもいい脅威としてキム氏が頑張ってくれているのが日本にとっては一番都合のいい展開だったという説が有力ですが、遠くない将来になんらかの決断を迫られそうです。そしてそれが出来そうなのは麻生氏ぐらいなんでしょうか。

"The road to Yasukuni's survival" by Kiroku Hanai[Japan Times]
Japan Timesが懐かしい論調の避難場所であることは周知の事実でありますし、私はそうした論調を揶揄する趣味はないのでありますが、このオピニオンにはさすがに深いため息をついてしまいました。靖国に批判的なのは全然構いませんよ。それはそれで立派な意見です。でもね、靖国問題でお父さん、正義の鉄槌を、って情けなくないですか。恥知らずにもほどがあります。いいですか、これは日本国民が解決しないといけない話なんですよ。9条ありがとうの人なんでしょうけれどもね、もういい加減精神的に自立なさいな。あなた方とニューディーラー気取りとの馴れ合いの構図は醜悪という他ないです。政治的には全く評価しませんけどね、せめて天木氏ぐらいの矜持は持ったらどうですか。

米政府のAIG救済はダブルスタンダードか?アジア通貨危機と比較[AFP]
アジア通貨危機の時と今回を比べてダブルスタンダードではという話。スティグリッツが糾弾したようにこの時のIMFの指示はなんとも苛烈でしたね。ここでは韓国の人が発言していますが、フランスからはこのたびのアメリカの「経済愛国主義」を讃える声が飛んでいますね。勿論嫌みです(笑)。日本の金融危機の時にもずいぶんと批判していましたよねえ。空売り規制って、そんなのありですか。一方でthe United Socialist State Republic of Americaみたいな皮肉がでるのも米国ならではですね。今後は米国でもリベラル派のエコノミストの声が強くなるんでしょうかね。ケインズ、ミンスキー復活の声があちこちから聞こえるのですが・・・、今度は逆に極端にふれ過ぎなければいいなと思います。日本は常に真ん中あたりを走っていればいい。そういう国なんですから。そんな感を強くする日々ですね。

とっちらかった感想ばかりですが、それでは取り急ぎ失礼します。

追記
JTのオピニオンですが、いわゆる戦後民主主義の一番駄目な部分(外部の権威に極度に弱く自分達の自由民主主義をそもそも信じていない部分)をこの姿勢に感じ取ったわけですが、あるいは読み込み過ぎだったかもしれませんね。それでもなに言っているんですかという感想に変わりはないです。あなたがなすべきは問題の複雑性について、いろいろな議論や提言があってもなかなか事態が動かないその理由について、外国人読者の期待の地平を裏切って、分析し、説明することではないですか。

"US woes are a taste of honey for Japan"by Gillian Tett[FT]
気になった記事追加。アメリカの不幸は日本にとって蜜の味ということで日米逆転の構図を描いています。Tett氏は日本の金融危機の著作(未読)のある方です。これを読んで有頂天になる人はいないでしょうけれども(いや、いるか)、無常感漂うものがありますね。この記事は二国間の比較でどうこう言っていますが、アメリカの場合には対岸の火事では済まないのがつらいところですね。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

ジャック・アタリの大陸大連合

これまでNATOと欧州連合の動向についてたびたび言及してきたのですが、ジャック・アタリがレスクプレスのブログで短い記事ながらもひとつの見解を開陳しているのを見つけて、しばらく唸ってしまったので紹介しておきます。氏は有名なエコノミストで思想家ですが(邦訳も多数あります)、欧州復興開発銀行総裁や大統領補佐官としてミッテランの側近を務めたり、話題になったアタリ・リポートを提出して現サルコジ政権に対しても経済アドバイザーのような役割を果たしている人です。現実的かどうかは別にすれば、それなりの合理性のあるひとつのヴィジョンにも思えてくるから不思議なものです。実際、似たような事を言っている人は何人かいますね。NATOは解体して欧州連合にロシアを包含するという松岡洋右ばりの大連合構想ですね。「でかいこと」を言うのがこの人の常ですが、まあアメリカは許すまいし、東欧は同意すまいでしょうね。ただとっても大陸的な発想ですね。

"Inutile OTAN" par Jacques Attali[L'Express]
周知の危機をもたらしたNATOへのグルジア加盟問題はまもなく大規模に炸裂することになろう。ブリュッセルの12月の西洋軍事同盟の外相会談でその加盟が首相議題となるだろうウクライナとともに。この会談はまた米国大統領選挙の結果に非常におおきく影響されることだろう。大統領選ではウクライナとポーランドの利害を代表する圧力団体が加盟を支持する候補を獲得したが、この地域におけるロシア帝国の2世紀にわたる支配に対してポーランド、ウクライナが復讐する夢を育んでいるのだ。

ロシアから見れば、ウクライナのNATO加盟は戦争事由となり得る。というのもそれはロシアが1000年来受け入れなかった事柄、すなわちバルト諸国から中国までのロシア包囲網を完成するものだからであり、ウクライナにはロシアの主要な海軍基地とロシアの軍事産業の本体が集中しているからである。このような加盟が実現したならば、ロシアは部隊を国境に集中し、ますます権力を軍に委ねることになるだろう。他方でウクライナの統合もまた問題となるだろう。

こうしたことは我々をより古い問題へと導く。なぜNATOを維持したのかだ。この組織はソビエト連邦やワルシャワ条約機構に直面してこそ意味を持った。今日では両者は消滅し、世界はテロリズムに対する惑星的な(軍事ではなく)警察連合を必要としているのだ。欧州は経済的、政治的、軍事的組織を必要としている。しかし消滅した敵を対象とした組織など誰も必要としておらず、敵がソビエト連邦でければ意味のない軍需品を生産する西洋の軍事産業の圧力以外による以外にこの組織の存続は説明できないのだ。

したがってNATOを解体し、3つの存在でこれを代替することを要求する勇気を欧州は持たねばなるまい。ひとつは防衛的欧州連合だ。2004年に紙上で誕生した欧州防衛局がその萌芽となるのだ。第二に欧州連合をウクライナへ、さらにロシア、トルコへ拡大することだ。第三にNATOを対テロリズムの世界的警察連合に変化させることだ。ロシアはそこで自らの場所を占めるだろう。

いずれにせよ米国の次期大統領と対話せねばなるまい。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

ブルマの叱咤

最近のJapan Timesはどうも日本と無関係な記事のほうが面白いような印象を受けますが、そりゃ私も長いこと日本国民をやっているわけですから、日本関連記事については同じ事件がいかに違うアングルで報じられるのかとか、なにが報じられてなにが報じられないのかその差について考えてみるとか、日本の新聞では凡庸すぎてネタになりそうもない話題が記事になっているのを見てなんとなく微笑ましく思うとか、いや、その説明はどうなのよと突っ込むとか、まあ歴史は歴史でいいですけどね、少しは愚かな政治家や珍奇な風俗以外でも現代の日本について報じてくださいよとか、まあ、異文化圏に身を置くとけっこうしんどいこともあるでしょうけど、元気だしてくださいねとか、なんだ、しょうもないやつがまた顔を出してるな、お前さんはもう反則退場だろうとか思うぐらいで、それほどの面白みを感じないのはある意味で当たり前のことなのかもしれませんが、私の最近のこの新聞への関心は書評欄を別にすればイアン・ブルマ氏の寄稿ぐらいに限られているようです。

前にも書いたような気がしますが、氏のアングラ文化へのいささか由来の不明な愛着を別にすれば(寺山修司の短歌を除くとどうも駄目みたいです)、欧州の左派のジャーナリストの中ではそれなりに買っている人です。ひとつには戦後日本の思想状況や社会状況についてよく知っていることもあって批判的な論調でも西洋左派にありがちな偏見にもとづいた形式的非難にはならないということがありますし、また日本にせよ欧州にせよ戦後の左派のあり方の問題点について自覚的であるということがあります。必ずしも意見が一致するという訳ではないのですが、欧州にせよ、日本にせよ、見ている光景はそれほど違わないような気がします。見ている光景がそれほど違わない人というのは、赤であれ白であれ黒であれなんであれ、コミュニケーション可能なものです。

でこの記事なんですが、けっこう踏み込んでいますね。以下逐語訳ではありません。

"Europeans draw wrong lesson from Munich"[Japan Times]

英国首相ネヴィル・チェンバレンのミュンヘン協定は悪名高いが、戦争に疲弊していた当時の人々はそうは考えなかった。ナチとの戦争の用意はなく、外交と妥協がより安全な選択だという考えは実際には多くの欧州人に共有されていた。しかしチェンバレンは「臆病者」の代名詞となり、ナチとの妥協はヒトラーの欧州制覇を許したと非難されている。チェンバレンはおそらく誤ったし、イギリスとフランスはドイツを止められただろう。「1938年のミュンヘン」は民主主義国の歴史で慎重な外交が誤りであった稀のケースのひとつだ。必要だったのはチャーチルのような「どんな犠牲を払ってでも」戦うことで国民の運命を賭けられるロマチックな英雄だったのだ。「歴史から学ばない者はそれを繰り返す運命にある」という有名な言葉があるが、実際には歴史は矛盾した多くの教訓を教えるし、同じような仕方で繰り返したこともない。過去に過剰に関心を向けることが道を誤らすこともある。では世界はミュンヘンからどんな教訓を得たのか。

第二次世界大戦後の西欧人はチャーチルよりもチェンバレンに近い結論を導き出した。二度の破滅的な戦争の後に西欧人は軍事的紛争を余計なものとするような諸制度を建設した。外交、妥協、共有された主権が規範となり、ロマンチックなナショナリズムは過去のものとなるだろう。廃墟の中から新しい種類の欧州は立ち上がった、平和憲法すら持った新しい種類の日本が立ち上がったように。ナショナリズムは文明的、外交的、平和的外交を発見したという気取った自己満足に席を譲った。実際に平和は維持された。しかし第二次大戦以前の国家安全保障、国際安全保障観念にしがみつく米国がこの平和を保証したからなのだ。米国ではミュンヘンは違った響きをもつ。そこではミュンヘンは自由の擁護者として歴史に名を残すことを夢見る「戦時大統領」というチャーチル的な幻想を育んだ。ミュンヘンは何度も召喚された。共産主義と戦うため、サダム・フセインを打倒するため、イランを阻止するため、「テロとの戦い」を遂行するため。

このような異なったパースペクティブが米国とその民主主義の同盟国との間で特有の緊張をもたらした。欧州人と日本人は安全を米国の軍事力に頼っているが、米国がそれを使用するやり方が気に入らない。永遠の若者のように、欧州人と日本人は偉大な父たる米国の安全保障を切望し、同時に深く父に憤っている。米国が愚かな戦争を始めたり、ガキ大将のように振る舞ってきたことは疑えない。しかしなにもミュンヘンの亡霊を召喚せずとも圧政者の相手をするのに軍事力が唯一の方法であるような場合は存在している。欧州人はセルビアの大量殺人者達に立ち上がるのに乗り気でなかった。米国人は最初はいやがったが、汚れ仕事をしなければならなかった。米国がサダム・フセインの殺し屋達をクウェートから追い出すことを決定した時には、ドイツの抗議者達は自分達は「石油のために血を流す」ことはないと叫んだものだった。

他方で欧州外交はいくつかの顕著な成功もした。欧州連合に参加させるという見込みは中欧、東欧、そしてトルコで民主主義を強化する助けとなった。こうした民主主義国のいくつかはNATOに参加し、他は絶望的なまでにそれを望んでいる。しかしNATOは欧州連合とは異なり、軍事組織だ。ここにチェンバレンの古い問題がある。欧州人は仲間のために戦争を行う用意があるのかだ。

冷戦時代にはこれは深刻なジレンマではなかった。欧州人はソビエトの侵略の際に守ってもらうべくNATOや米国に依存した。今やグルジアやウクライナがロシアを相手に血を流して守ってくれることを欧州人と米国人に期待したいのだ。この選択はあからさまなものだ。グルジア、ウクライナのために戦う用意が欧州人にあるならば、こうした国々はNATOに加盟させるべく招待されるべきだし、そうでないならば、招待されるべきではないのだ。しかし選択することなくドイツのような主要国はためらったのだ。まず美味いニンジンとしてNATO加盟をちらつかせ、次にこの提案を撤回し、米国人が後を考えずに英雄的な修辞をほしいままにするようにさせたのだ。

こうしたことが西側の同盟を一貫性を欠いたものにみせ、その莫大な富と米国の軍事力にもかかわらず、奇妙に無力なものにみせている。欧州の民主主義国にとって決心する時だ。米国の保護に依存したままで、しかし不平を言うのを止めるか、欧州を自分達で防衛する能力を高めていくのかだ。最初の選択はパクス・アメリカの黄昏にあってそれほど長い間うまくいかないだろう。二番目の選択は高くつくしリスクもある。欧州連合内部の多くの対立からいって、深刻な危機に行動することを強いられるまでは欧州人は多分混乱したままだろう。しかしその時にはもはや遅過ぎたということにもなり得るのだ。


という風に戦後欧州と戦後日本を父アメリカに依存して文句ばかりたれている永遠の若者に例えています。日本ばかりではないわけです、甘ったれているのは。家族のメタファーで国家間関係を語るのはあまり好きではないのですが、この文脈ではいいでしょうかね。依存するなら文句を言うな、じゃなきゃ自立しろと。この部分ですね。

It is time for European democracies to make up their minds. They can remain dependent on U.S. protection and stop complaining, or they can develop the capacity to defend Europe, however they wish to define it, by themselves.

非常にシンプルで力強いメッセージです。我が国には米国への敵愾心から欧州に政治的な幻想を抱く人というのはいつもいるわけですが、実は日本とそんなに変わらなかったりもするわけですね。いや、ドイツはともかく戦後も独立戦争つぶしをやったりあちこちで戦争に参加していた国とは確かに違うのですが、日本にせよ欧州にせよ、第二次世界大戦後の平和は米ソ超大国の対立構造がもたらした束の間の幸運に過ぎないのに自分達の理想が平和を実現したかのように思いたがり、さらには恥知らずにも反米主義に身を染めてしまうといっただらし無い傾向で共通する部分はあるわけです。まあどちらかというと左派の話ですけどね。右派には恥の自覚ぐらいはあるわけですから。いえ、恥を知る左派も恥知らずな右派もいますけれどもね、傾向としては言えるでしょう。ちなみにブルマ氏は早い時期から日本の「普通の国」化に賛成していましたね。

日本にまとわりついている左派というと、ここだけの話、昔は金日成の擁護をしてましたとか、いやあ、若い頃はマオイストやってましたとかいった昔の日本を叩く以外にやることがなくなった極左崩れだの、憲法9条をまるで自分が書いた宝物みたいに錯覚しているニューディーラー気取りのパターナリストだの、沖縄基地反対運動に精を出しているあなたの国籍はどこですかと聞きたくなるような平和主義者だの、国家意識など欠落した大学生に向かって日本のナショナリズムのなんたるかを教えてくれる歴史学の素養のない文化左翼だの、いかに日本社会が閉鎖的で差別的なのかをデマばかりでなくあろうことか人種主義的な修辞で訴えることによって反移民世論の高まりにのみ貢献している自称多文化主義者だの(いや、別に左派じゃないか)、日本におけるフェミニズムの弱さを嘆き、メディアにおける女性のモノ化を批判していたと思ったらwaiwai問題ではネット右翼の強迫から毎日を守れと叫ぶリベラルだのばかりをイメージするかもしれませんが、勿論そういう冗談みたいな人々ばかりではないのであって、ちゃんと物の見える左派の方もそれなりにいますのでそういう声はしっかり聞いといたほうがいいと思いますね。はい。

追記
なおこの論説の内容に必ずしも同意というわけではないです。アメリカの黄昏というのは少し気が早いように思えますし、欧州のあり方のヴィジョンもどうなんだろうなという気がします。ただありがちな論調や態度に対する批判としては判りやすく面白かったので紹介しておきました。日本にもあてはまる部分があるし、欧州のある側面がうまく描かれているように思えましたので。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

宗教ねえ

少し酔いがまわっている状態ですが、なんとか理性を取り戻して軽くエントリしておきます。とはいえ周囲は妙に浮世離れしたラテンな音楽が鳴り響いている環境なのであんまり落ち着いた気分にはなれそうもないですが。

"Reporting the Georgian War: Is Bernard-Henri Lévy a Fabulist?"[World Politics Review]
前にエントリを立てたBHLのグルジア・リポートの件についての記事です。彼の戦場リポートの文章スタイルがはらむ問題についてはやや直感的に言及しましたが、この記事によると、

Although the extent of the controversy unleashed by the Rue89 article is unprecedented, this is by no means the first time that BHL's war reporting has come in for criticism. Indeed, his instant "eyewitness" accounts have frequently been exposed as unreliable by specialists in the regions or conflicts in question. A part of the problem is undoubtedly that Lévy's literary style of war reporting is, after all, at least as much literature as it is journalism.

とされています。どうやら今回だけの話ではなかったようですね。ジャーナリズムではなく文学だという言い方をしていますが、これは逃げ口上にはならないと思います。文学がはらむ非倫理性を私は全面的に引き受けるのだといった逆説的な倫理といったものがここにある訳でもないですし、単に駄目な文学に過ぎないのではないでしょうかね。さらに記事は政治的批判にも進んでいます。仏語圏で言う知識人のアンガージュマンの問題ですが、

The more fundamental issue, however, is one not of genre but of partisanship. For when BHL turns up in a war zone, he typically does so as what the French call an "intellectuel engagé": a "politically-engaged intellectual" -- the champion of a cause, in effect. It was this same partisan spirit that during the Bosnian War permitted Lévy to denounce Serb "barbarism," while remaining oblivious both to the presence of and the abuses committed by the thousands of foreign mujahideen fighting on the Bosnian Muslim or "Bosniak" side. (On this subject, see John R. Schindler's recent book "Unholy Terror: Bosnia, Al-Qa'ida, and the Rise of Global Jihad".) Somewhat ironically in light of Lévy's reputation as "pro-American" and a supporter of the "war on terror," one of these foreign mujahideen whom BHL managed not to see, the Bosnian War veteran Khalid Sheikh Mohammed, would go on to be the principal Al-Qaeda coordinator of the 9/11 attacks.

というようにボスニア戦争の時にもこの人は現地に飛んでセルビアの悪を糾弾した訳ですが、この記事によれば、BHLはこの時にボシャニャク人(ムスリム)側に立って戦っていたムジャヒディーンの存在を「見なかった」。親米家でテロとの戦いの支援者たる彼にとっては皮肉なことだが、911テロの主犯の一人はこの戦争に加わっていたムジャヒディーンだったと。むう。これはなんといったらいいのか、ボスニアの例は今度のグルジア紛争でも批判派が言及していましたね。二つのケースを同一視したりはしませんが、それでもこの時のBHLの思想的介入の仕方にも違和感を抱いた記憶があります。もうなにを言っていたのかはよく覚えていませんが。

Pape, Paris, Pap[French Politics]
べネディクト16世教皇猊下のパリ訪問ですが、随分大騒ぎになっていましたね。サルコジがカトリック的フランスのアイデンティティーを修辞的に強調したりしたこともあって世俗性(仏語ではライシテ)をめぐっていつもの論争が起こっています。社会党は猛反発ですね。やや過剰な反応にも感じられるのですが、これは歴史的背景のあるフランスの「国体」ですから外国人が気軽にどうこう言える問題ではないです。近年のアメリカにおける宗教右派の興隆への不安の投影として国内の保守的なカトリックの動きにメディアの焦点があたったりもすることもありますが、カトリックの宗教活動(教会に定期的に通うとか)をする人が7%程度しかいない状況には大きな変化はないようです。イスラム・フォビアからカトリックへの回帰みたいな話もマクロ的な現象にはなりそうにないですね。宗教的には(多分)その辺を歩いている日本人の一人に過ぎない私のような者の目には、こちらのほうが気楽でいいような気もするのですが、フランスの世俗化というのはやはり世界的にも珍しいケースなのでしょう。教皇猊下はルルドでミサをしたようですが、こういう奇跡話はカトリックですねえ。私はこういうのわりと好きなんですよね。勿論信じたりはしませんが、たのもしい感じがして楽しくなります。ところで日本の知識人の一部の間に漠然とあるように感じられるカトリックへの偏見はプロテスタント経由なんですかね。大塚久雄氏の西洋史の辺から来ているようにも感じられますが・・・、もっと古いのかな。

関係ないですが、日本における宗教をめぐる言説が神話にまみれているのはやはり先の大戦とアメリカの影のせいなんでしょうかね。「国家神道」(©占領軍)の(多分歪んだ)イメージに未だに怯えているのか、いや、明治の頃からそうなのかもしれませんね。ともかくこうしたアメリカの目を意識したような宗教談義には正直に言って飽きています。あるいは「日本教」をめぐる議論なんかもそうですね。結局のところ日本の知識人によるペイガノフォビアの内面化に過ぎないんじゃないかという気もしてきます。日本特殊論の臭いもしますしね。いや、日本特殊論そのものですね。シンクレティズムなんて別に珍しくもなんともないと思うのですけどね。この点では他のアジア諸国の宗教のあり方と比較したほうが生産的で開放的な議論ができるように思えます。念のために言っておくと文化的アジア主義とは無関係な話ですね。淡々とした実証的な議論が望ましいです。などといい加減なことを書きながら感じるのですが、どうもあちこちに地雷があるようで宗教について論じるのはやはり難しそうですね。

追記
酔いの入った状態で書いたので少し走っている感じですが、「国家神道」について別に「修正主義的」な主張をしようという訳ではないですね。現在の目から見て国営神社制度というのがやはりグロテスクな存在だろうという点に異論はないです。ただイデオロギー面ばかりに注目して当時の受容の文脈を無視するのは片手落ちでしょうねということです。また戦後に神話化された部分がけっこう大きい印象を受けます。それは右派と左派と(仮想的な視線としての)アメリカの三者が共同でつくりあげたものなんでしょう。また山本七平氏についてはよくある批判をしようというつもりもなく、実際、興味深い考察をしている方だと思います。ただ今の私には戦後の特異な知性の残した歴史的ドキュメントという距離感でしか読めないです。最期に私が言っているのは、「日本の宗教」ではなく「日本における宗教」のことです。religions in Japanで複数形の宗教です。なにか予防線ばかりをはっているようですが、地雷を踏むかもしれなけれどもそれでも直進する勇気のようなものも必要なのかもしれないと思ったりもします。

ペイガニズム・フォビア→ペイガノファビアに修正。paganophobiaという単語を忘れていました。異教徒嫌悪ということですけど、この場合は非一神教への偏見や恐怖のことです。明治以降、西洋文化と出会った日本の知識人はある意味でペイガノフォビア派と一神教フォビア派に分裂してきたわけですが、私はこういう分裂には飽きたよ派です。勿論宗教的対立のことでなく欧化派と国粋派、亜細亜派の間の文化論的対立の一部のことです。その痕跡は今日の通俗的な日本論や日本人論にも微妙に残っているような気がします。それで私個人としてはこの三幅対をどうにかしたいわけですね。誤解なきように言っておきますと、私には一神教嫌悪はありません。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

快楽亭ブラック

Electronic Journal of Contemporary Japanese Studies[ejcis]という日本研究の電子ジャーナルの存在はどれぐらいの人に知られているのか判りませんが、ここは一定の水準の記事が多くてそれほどはずれが少ないなという印象があります。寄稿者の大部分は英語圏の日本研究者ですが、日本人研究者もいますね。ただ日本語圏でここが参照されたり、ここから議論が展開したという光景も見たことがありません。なんとなくもったいないので新しいのを2本紹介しておきたいと思います。

"Transforming Security: Politics Koizumi Jun'ichiro and the Gaullist Tradition in Japan" by H.D.P. Envall[ejcis]
「日本のゴーリスム」をテーマにした論文ですが、岸信介、中曽根康弘、小泉純一郎の安全保障政策が検討されています。そもそも戦後日本にゴーリスムの伝統はあるのかという点から議論は開始されています。以下内容を要約すると、確かにゴーリスムの伝統はあるのだが、理想主義的な少数派だ。また日米同盟を受け入れている点で軍事リアリストと論じることも可能だろう。とはいえ自立(autonomy)を目指す伝統というのはあり、岸、中曽根はこうした目標を共有していた。実際には首相として日米同盟の枠組みの中で現実的にアジェンダを追求したのだが。小泉もまたこの伝統に適合する。前二者よりも自立への関心は低いようだが、憲法改正や自立外交(イラン、北朝鮮)といったゴーリスト的な政策を追求した。また小泉は安全保障に関する国内変化をもたらしたという点で前二者よりもはるかに前進した。今後ゴーリスムが日本の政策となるかどうかは未知数だが、この可能性を開いた点で小泉は重要であると。

日本の外交安全保障潮流を記述する際の用語系ですが、戦後日本には非武装中立主義、政治リアリズム、軍事リアリズム、ゴーリスムの4種類が存在したという望月氏の分類に基づいているようです。軍事リアリズムとゴーリスムの違いは前者が日米同盟を自明視しているのに対して、後者が「自主防衛」への志向を少なくとも理念において保持している点にあるようです。そして論者が強調しているのは日本のゴーリスムが国内アジェンダとの関連性が強いという点です。国内体制を変化させるためにこうしたアジェンダが追求されると。それから日米同盟との兼ね合いから自立をめぐるパラドックスがあるとしています。日米同盟の強化によるアジェンダの追求という形をとると。憲法9条と日米同盟という枠組みの中で自立を追求するのだからそうなるのは自明なのですが、英語で説明するにはここから確認しないといけない訳ですね。ただアメリカと接近することがむしろ自立性を強化するのだという考えは別にパラドックスではないと思いますけどね。この点でCIAのスパイだから岸はどうのこうの言っている人は底が浅いですね。この人はなかなか凄いです。現在のフランス的な補完的自立の道というのもないわけではないのですから。結局のところコストを考えて判断するしかない訳ですが、後者の志向も現実的にはともかく原理的に排除すべきではないと思いますね。素朴な反米主義の情念に染まった自立論には私は与しませんが、安全保障関連についてはもうタブーなく様々なオプションが検討されるべきなのは言うまでもないことだと思います。

"Narrating the Law in Japan: Rakugo in the Meiji Law Reform Debate" by McArthur, Ian[ejcis]
こちらは面白かったですね。名前しか知らなかった明治の外人落語家快楽亭ブラックと自由民権運動、明治の司法改革の関わりを探った論文です。イギリス植民地オーストラリア出身の英国籍のヘンリー・ブラックが渡日したのは1865年のことですが、新聞社のスタッフ、政治活動家、演説家、落語家として精力的な活動を展開します。自由民権運動の最高潮の時期には民権論、条約改正、監獄制度の是非、ナポレオン、吉原の廃止、開国のデメリット、治外法権、刑事訴訟手続き、コレラ予防、陪審制、政体論、課税、証拠裁判の説、米価高騰、人民と政府の関係などについて登壇して演説をしたといいます。1880年の政府の集会条例による弾圧以降はいわゆる軍談グループに参加して政治活動を続け、1890年には落語家グループに参加、真打ち快楽亭ブラックとなります。論者によれば、ブラックのキャリアは、この時期多くのかつての闘志が政治小説家になったり社会運動に参加したり新聞を創刊したりしたように、民権運動の拡散のプロセスをなぞるものであったといいます。

落語は映画登場以前の最大の大衆的娯楽であった訳ですが、論者によれば、検閲にひっかからずに自由な表現ができる柔軟なメディアであったとされます。この時代の落語家はマスにアピールする教育者、啓蒙家、エンターテイナーであり、また出現したばかりの大衆向けのいわゆる「小新聞」、さらに落語の「速記本」を含めたメディア環境はブラックのアジェンダの追求の場として相応しかった。主として落語化された英語の探偵小説やミステリー小説をレパートリーとしたといいますが、このジャンルは社会規範や司法批判の要素を含んでいます。以下論文は司法に関わる師匠の三遊亭円朝とブラックの噺の比較分析をしていますが、前者が儒教的なモラルへのノスタルジーに染められているのに対して後者が西洋化と近代性のネガティブな影響への警告を含むものの基本的に変化に楽観的であるという対照性を示しているとされます。

結論として1890年代においても寄席や速記本のオーディエンスの間では近代性が好奇心と議論の対象であったこと、西洋並みを目指した司法改革によって失われたモラルを哀惜していたことが指摘されています。最期にこのアプローチの差は近年の司法改革の議論においても同じように見られるが、一方通行の議論にならないようにするためにもこの時代の国内法と西洋諸国の法律との擦り合わせの歴史に注目すべきであるとしています。また歴史的経験から日本側からもいろいろメッセージを発することができるだろうと。

大衆メディアと民権運動、翻訳文学、テキストと口頭、在日外国人(帰化日本人)、司法改革の問題など論点は非常に多岐にわたるのですが、いわゆる外人タレントのはしりみたいな存在でもある「江戸の英国人」快楽亭ブラックという人物が単純に興味深かったですね。この人物を突き動かしていたのはフリーメーソンとしての情熱だったようですが、ここまでやる人はそれはそれで尊敬に値するように思えます。英語の世界に閉じこもっている人々に比べたらね。民権と落語というテーマは他にも論じている方がいたと記憶してますが、政治史中心の民権運動史では見逃される運動の裾野を垣間見させる面白いテーマだと思いました。演歌もそうですが、この時代はとても政治的なんですよね。しかしディケンズやモーパッサンが落語化された時代なんですよねえ。凄い時代です。

こんな感じで興味をひいた記事はまた紹介したいと思います。ジャパノロジストの成果が英語圏や研究者の狭いサークルだけで閉じているのはもったいないと思うのですね。何度かケチをつけたので誤解されているかもしれませんが敵愾心を持っている訳では全然ありません。ただアカデミシャンの間でも健全な相互批判がなされているのかどうか怪しいというのと、一般的に日本の公論との間で相互性が欠如しているのはとても問題だと思うので、その資格があるのかどうか不透明な素人にも関わらずあえてブログで紹介したりコメントしたりしている訳ですね。というわけでお気を悪くされないように願います。

ではでは。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

憂鬱な月曜

ぐぅ。以下気になった記事のクリップです。

"A Partner and an Adversary"by BHL[The New Republic]
すっかりプロパガンダ・ライターと化しているBHLの記事です。いつものように民主主義の擁護者として西洋の奮起を促していますが、こういう扇情的な文章はどうにも私の性に合わないようですね。こういうというのは

People say, "We knew this war was going to happen. We should have foreseen it and prevented it." That's true. But what exactly did we know was going to happen? And once again, how dare reverse the roles in this way? On one side there is the Georgian whose only mistake may have been to overestimate our willingness to support him. On the other is the Russian who is pursuing the program he laid out in April 2005, when, in an address to the Federal Assembly, he said the collapse of the Soviet Union had been "the greatest geopolitical catastrophe of the 20th century." Yes, you read that correctly: the greatest catastrophe. Greater than the world wars. Greater than Hiroshima, Auschwitz, Cambodia or Rwanda.

というような調子のことですね(ちなみに仏語圏ではこうした文脈で躊躇なく広島が出てきます)。68年の怒れる反スタ青年の姿を彷彿とさせる文です。グリュックスマンとともにロシアに関してはずっとコミットメントしてきたのでその思いに嘘はないことはよく判るのですが、どうもこの世代の思想家の書くものは私の好みではないようです。意見の是非以前に深みに決定的に欠けているような気がしてきます。いえ、戦略家が戦略論を展開するのは無論それでいいのです、思想家には違ったアプローチがあるだろうことですね。現代のサルトルにはなれそうもないですね。Tant pis pour BHL!

"Nicolas Sarkozy appelle Moscou à un comportement 'responsable'"[Le Monde]
8日にモスクワ訪問したサルコジがメドヴェージェフに「責任ある」振る舞いをしろと訴えた模様です。ロシア大統領はEUの監視団の派遣の受け入れを拒否したとされます。国連とOSCEが既にその役割を果たしていると。サルコジはフランスの提出した和平案が「よき出発点」となって解決が見出されることを望む旨語ったようです。ちなみに例の和平案の文面の「翻訳問題」というのがあります。オリジナルのフランス語では「アブハジアとオセチアにおける安全」となっているところがロシア語版では「アブハジアとオセチアの安全」となっている問題です。enとde、英語だとinとofの違いです。これをロシア側が部隊駐留の根拠としているのですが、フランス側はフランス語版の「における」が正しいのだと主張しています。領土一体性の文言の欠如もそうですが、これはフランス側がわざと逃げ道をつくってやっているようにしか思えないのはさすがに穿ち過ぎでしょうかね。ロシアが国際法や国際条約を徹底的に利用する(都合の悪い時は破る)国だということは知り抜いているはずですからねえ。

"Down but not out"[Economist]
少し明るい気分になる記事ですのでおすすめしておきます。いや、米欧に比べたらそんなに悪くなるはずないんですよね。しばらく落ち込みがあっても復活は早いだろう、来年は他の先進国よりもいいパフォーマンスを示すだろうという予想です。根拠は日本は西洋諸国を襲う経済的、金融的インバランスを避けたからというのが一つ。惨憺たる有様になっている米欧とは異なり、クレジットクランチを経験していないし、住宅価格も急落していない。また家計の借金が2000年の71%から60%に減っている点、また企業についても1991年の131%から78%にまで減っている点が挙げられています。最期に日本の輸出の半分はアジア地域向けである点。長期的に成長するには改革が必要だが、来年は米欧よりもGDPはより速く成長するだろうし、一人当たりGDPも─人口減少によってではなく─米欧よりも増大するだろうと。問題は他のアジア諸国が大丈夫かどうかですが、もう上を向いていきましょうよ。Don't panic, it's just a test!

"Aso braced; Fukuda into the sunset"[Economist]
"Another grey man bites the dust"[Economist]
同じくエコノミストの政局記事。やはり他よりはだいぶまともに見えます。麻生氏についてはさっそく過去の発言の恣意的な引用によってナショナリストとか右翼とか色をつけるような記事が続々と出ているのですが、エコノミストはさすがに少しはニュアンスがあります。

Mr Aso, a 67-year-old Catholic, is from a prosperous right-wing family. He was foreign minister under both Mr Koizumi and Mr Abe. A hawk who wants Japan to play a much more robust role abroad, Mr Aso is also an original compared with more ideological conservatives. For instance, he advocates taking the sting out of the militarist Yasukuni shrine, which bedevils Japan’s relations with its neighbours, by moving worship of Japan’s war dead to somewhere less contentious.

いや、大久保利通も牧野伸顕も吉田茂も別にright-wingじゃないと思うのですがね。どちらかと言えば右も左もない政治リアリストの家系ではないでしょうか。この記事では他のイデオロジカルな保守に比べるとオリジナルであるという留保をつけていますが、こういう一文があるかどうかでちゃんと見ているのかどうかが判ります。なおGlobal Talk21の奥村さんがこの点について英語圏で説明されているのには頭が下がります。本当に「日本の保守」というと色眼鏡で見られるんですよね。無知なくせにイメージと逸話だけでなにか判ったような口を利くから困ったものです。麻生さんを支持している濃い人々もこの点よく判っていないようですし、足あげとりばかりの日本のメディアがどうしようもないんですけどね。ただあの口の軽さはどうにかして欲しい。私的にはあのお祖父様譲りのユーモアのセンスは嫌いではないですが、こうもグローバルに情報化されてしまうと冷や冷やしてしまいます。いや、サルコジやらベルルスコーニやらなんかのほうが口は悪いんですけどね。狙っているジャーナリストが多くて本当にうざい話であります。ちなみに私は財政出動派じゃないので積極的には支持しません。地方分権はオーケーなんですけどもね。

もうひとつはこの混乱を通じて政界の再編を待望すという内容の記事です。自民党の改革派と民主党の改革派がくっついて政策に基づく真の政党政治が開始されることを希望すると。そうなりますかねえ。FTといい本当に小泉氏が好きみたいですね。ちなみにエコノミストの記者さん、Observing Japanを参考にしてますでしょ、英語圏ではいいブログだと思いますけどね、死角もけっこうあると思うのですよ。ひとつはハリス氏は政局分析にイデオロギーを持ち込んでいますよね。でもですね、ここはアメリカじゃないんですよね。妙に大義名分にこだわる生真面目さの一方でですね、いざとなると尊王攘夷を叫んで暴れていた連中がいつの間にか文明開化を唱導していたような国なんですからね、hahaha。

ふう。なんだか妙なノリなのは憂鬱な一日だったことの反動です。それではみなさん御機嫌よう。愉快な火曜日になりますように。

追記
サルコジのモスクワ訪問ですが、記事が差し替えられていました。EUの監視団を受け入れ、南オセチアとアブハジアを除いたグルジア領内から撤退する合意がなされた模様です。監視団が入れるのはグルジア領内にロシアが設定したzones tamponsのみであり、撤退するのもここのみだという点で限定された合意内容ですが、トビリシはこの「非常に重要な結果」を歓迎しているようです。

"The Power of De"by Paul Krugman[NYT]
エントリでリンクするのを忘れたのですが、クルーグマンの気になる記事。ますます状況が日本に似てきているという観察です。ファニー・メイとフレディ・マックの救済は正しいが(住専の時に喚いていた人は今なにしてますか?)、fedはこの戦いに敗れつつあるように見える。住宅価格の下落は「債務デフレ」の状況を生んだ。インフレではなくデフレだ。フィッシャーが1930年代に"stampede to liquidate"と呼んだアセット売りの悪循環の現象が見られる。さらに借金で買ったアセットなだけにこの債務デフレは醜悪だ。現状は1980年代末の日本の金融危機にそっくりだ。日本型金融危機に対する処方箋は利下げと財政出動のアグレッシブな組み合わせになるはずだった。バーナンキは思い切った利下げをしたが、財政出動はtoo smallで poorly targetedだ。我々はどうやら戦いに負けつつあるようだ云々と悲観的な見通しを示しています。うーむ。アメリカは回復は早いだろうと思っていたのですがね。思い切った財政政策ですかあ、共和党政権には無理そうに見えますね。というところでこのオピニオンをアメリカ国内政治の文脈で解釈するべきなのか、いや不偏不党のエコノミストの正論と考えるべきなのかどうか迷ってしまう自分がいたりもします。いや後者なんでしょうけれどもね。ところでタイトルのDeはdebt deflationとdeleverage、あるいはdefeatのDeなんでしょうかね。

それからOberving Japanですが、麻生氏についてニュアンスのあるポストを書いていますね。こういう部分は評価しているところです。一応書いておきますが、もちろんイデオローグがいないとかイデオロギーは重要ではないなどとは言っている訳ではありません。ただ国際情勢次第、政局次第でいくらでもトーンが変わってしまうことを知っているのであんまり真に受けないんですね。無定見とか無節操とも言えますが、こういう日本流プラグマティズムの伝統というのはまあ基本的によい政治レガシーだと思っていますのでね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

サルコジのシリア訪問

先日のEU首脳会談では各国の利害の不一致にもかかわらずなんとか対ロシアで共通メッセージを発することができたわけですが、その後もサルコジは動き続けているようです。以前書いた地中海連合立ち上げの際に最も注目されたのはシリア大統領アル・アサドのパリ訪問、そしてシリア、レバノンの国交樹立であったことを記憶されている方もおられるでしょう。アメリカとは異なるフランス主導の中東安定化の動きとして注目されたのですが、その話の続きです。

外相クシュネルのレバノン訪問に続き、4日大統領サルコジがダマスクスを訪問し、トルコ首相、カタール首長も交えて4者会談を行いました。
シリア:和平プロセス「枠組み案」提示[毎日]
仏、シリアなどの4首脳会談 中東安定化へ新枠組み[産経]
産経は共同配信記事ですが、短信ですので全文引用します。

フランスとシリア、トルコ、カタールの4カ国首脳が4日、シリアの首都ダマスカスで会談した。議題は、シリアとイスラエルの間接和平交渉の促進に向けた方策や、停滞するパレスチナ和平交渉への対応、イランの核開発問題など。会談にはシリアのアサド大統領とフランスのサルコジ大統領、トルコのエルドアン首相、カタールのハマド首長が出席。トルコとカタールは最近、中東各国の対立や争いを解決に導くため仲介外交を活発化させており、フランス、シリアとともに新たな枠組みで中東安定化を目指す動きといえる。

この場でアサド大統領がイスラエルとの交渉の「枠組み案」を仲介役のトルコに手渡したとされます。シリアとイスラエルは今年5月からトルコを介して間接和平交渉を進めている最中なのですが(現在4回)、イスラエル側の「枠組み案」がトルコに手渡された後には、両国の直接交渉に移行するという段取りになっています。なお第5回目の間接和平交渉は諸事情により延期された模様です。またイランの核問題についてシリアが西洋とイランの仲介役を果たすよう要請した模様です。

"France's Fling with Syria"by Bruce Crumley[Time]
これはよくまとまった記事です。ブッシュ政権はシリアの孤立化を目指してきた。サルコジはシラクに比べてフランス外交をワシントンに接近させようとしている。ではなぜサルコジはダマスカスを訪問するのか。アメリカと同じゴールを目指しつつフランスの独自性を復活させる外交ゲームを演じるためだと言います。レバノン首相ハリリ暗殺事件以降シラクはシリア批判の急先鋒となったのですが、サルコジはシリアが国際社会復帰への意志を持っていると睨んで現在のアプローチに展開したとされます。確かに人権上問題は大きいが改善の兆しも見えると。この記事で重要なのはカタールについての言及だと思います。

Whereas Chirac had relied on Saudi Arabia as his primary Arab interlocutor, Sarkozy appears to have turned to Qatar as the key intermediary to re-establish contacts and prepare visits and exchanges between Paris and Damascus. Evidence of Qatar's mediating role is clear in the fact that the Gulf State will participate, along with Turkey, in a four-nation summit Thursday during the second day of Sarkozy's Syria visit.

シラクがサウジアラビアに依拠したのに対してサルコジはカタールに目を向けている。この四者会談にカタール首長が加わっているのが仲介者の役割の明瞭な証拠であるといいます。またイランとシリアを切り離し、西側寄りにすることを目指しているのでアメリカの戦略とも一致すると。さらに記事はグルジア紛争の際に国際的非難の中シリアがロシア支持を表明した点を指摘しています。ポーランド、チェコのミサイル防衛システムに対抗するロシアのミサイルシステムを設置することをシリアはロシアに提案し、ロシアは軍事演習と武器売却を約束したといいます。ただこの点についてはフランス側は西側の気を引くための演技だと見ているようです。以上、この記事はいかにアメリカの中東戦略とサルコジ外交が合致しているのかを強調しています。

一方でアメリカとの間でいざこざがあったことを報じる記事もありました。
"France elbows U.S. aside in Syria negotiations"by Zvi Bar'el[Haaretz]
イスラエルのハアレツの記事によれば、アメリカは会談への参加を説得されていたが、フランスがシリアへ「強行」することでアメリカの決定を当面キャンセルさせたといいます。国務次官補のウェルチがトルコでのシリア・イスラエル会談でのオブザーバー参加を予定していたが、ワシントンはフランスの後追いをするつもりはないとしてウェルチの参加が取りやめになったそうです。アメリカが不参加であるゆえにアサドはこのフランス・カタール・トルコの支援するイスラエルとの直接交渉でなんとかやるつもりだとしています。またこの首脳会談は米仏が通した国連決議1559を無にするものである。この決議は外国軍のレバノンからの撤退とヒズボラを含む民兵の解散を定めたもので、レバノンのハリリ首相暗殺の遠因にもなったとされるものですが、フランスとシリアの関係改善とともにこの決議の履行を推進する者はいなくなったと記事は締めくくられています。

このアネクドートは一見小さな外交的駆け引きの話にも思えますが、けっこう広い射程をもった話のような気がしています。再三述べていますが、やはりゴーリスムの伝統というのはなかなかに強固なものであってアメリカの戦略とより連携したとしてもこの国が独自外交を諦めるはずがないのです。ゴルドハマー氏はこの四者会談でのトルコとの接近に注意を促していますが、トルコの地政学的重要性はこのたびのグルジア紛争であらためて焦点が当たり始めているところですから、欧州連合加盟交渉で冷えきった仏土関係にも新しい展開があるのかもしれません。と考えると地中海連合という枠組みは思わぬ形でその有用性を発揮し始めることになりそうですね。企画倒れだという声もけっこう大きかったのですが、これは使えそうです。勿論資源の話も絡むわけですね。複数のゲームを同時に展開するというサルコジ外交の持ち味が出てきているように思えます。やはり手数は多い方がいいのですねえ。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

福田首相辞任

私は福田氏を首相としては評価していませんでしたので、このたびの辞任の報に接しても、ああ、そうですか、ご苦労様でした、という以上の感想はないのですが、この難題山積の状況でこうも短命政権が続くとやはりなにかしら末期的に見えてきます。あるいは宰相の任期の極端な短さについてこれこそが我が邦の国体なりと開き直ってもうこの際歌い踊っていればいいのかもしれませんが、自民党がその歴史的使命を終えて解体していく緩慢なプロセスにつき合わされているという話なのでしょうかね。2代にわたって宰相を輩出するのに失敗したのですから政権与党として指導者を養成、輩出する能力がもはや弱体化しているのではないかと疑われても仕方がないでしょう。

民主党が対決路線をとっているのに対してなぜ福田首相が衆議院の3分の2以上の再可決で迎え撃たないのか私にはよく判らなかったのですが、結局のところ昔気質な方ということなのでしょうか。また政治家としてこれをやりたいというなにかを持ち合わせていなかったということなのかもしれません。現在のいわゆるねじれ国会における政治力学を十分に理解していないにせよ、何事かを実現せんとする確たる意志を欠いているにせよ、首相としては不適格だと思われても仕方がないと思われるのですが、いかがでしょうかね。早々にこれだけはやるんだというヴィジョンなり政策なりを示して臨んだならばここまで不人気にならなかったように思えるのですがね。

なお「強行採決」という言葉の使用は止めるべきだと思いますね。単なるオーバーライドなのにこれではなにか悪いことのようではないですか。コンセンサス政治の伝統から来ているのでしょうが、野党が何を言おうが与党が法案をがんがん通していくのが二大政党政治の流儀な訳で、我が国の政界もそこに近づいているのですから。いつもなごませていただいているムネオ先生流に言うと、俺が俺がの「我」の世界ばかりでお蔭お蔭の「げ」の世界が失われている哀しい世の中だ、ということになるのかもしれませんが、やはりそうも言ってはいられないでしょう。

このたびの辞任の背景については既に様々な憶測が出回っていますが、安倍前首相の時ほどの謎はあまりないように思えます。公明党との調整がうまくいかなくていやになったということなのでしょう。また麻生幹事長の独走で党内勢力のバランスも崩れてしまったというのもあるのかもしれませんね。去り際のセリフが実にこの方らしかったですね。辞任会見がひとごと的だという記者の質問に対して曰く「『ひとごとのように』とあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」。泥をかぶることのできない人なんでしょう。二世議員の淡白さみたいなものも感じてしまいますね。1970年代ぐらいならこの首相でもよかったかもしれませんがね。もっとやる気のある人求む。

さすがに国際ニュースになっているのでクリップしておきます。
"Fukuda quits as Japanese PM"[FT]
"Get someone else"[Economist]
"Japan's prime minister Yasuo Fukuda resigns"[telegraph]
"Japanese PM Yasuo Fukuda resigns"[Guardian]
"Japan PM in surprise resignation"[BBC]
"Japan’s Prime Minister Resigns"[NYT]
"Japan PM resigns to avoid `political vacuum'"[WaPo]
"Fukuda Resigns, in Japan's Latest Test"[WSJ]

英語圏のニュースは他もいろいろあたりましたが、どれも似たような記事ですね。公明党への言及があるかどうかが政局分析ができているかどうかのひとつの判断基準になろうかと思いますが、エコノミストとガーディアンがよく書けていると思います。マッカリさんのこともたまには誉めておきましょう。ワシントン・ポストとBBCはイエロー判定しておきます。私はワシントン・ポストのこの記事のスタイルを嫌悪しているのです。一人や二人をインタビューして市民全体の意見であるかのごとく表象するというお手軽スタイルのことです。なおここで言っているのはこうしたスタイルへの不満であってこの記事の内容そのものへの不満ではないです。英語圏のメディアにおける日本国民の「声」の選択をめぐる政治については誰かつっこんだ分析をしてください。また今現在皇室典範問題に関心があるのはBBC以外誰もいないでしょう。ずっとやってなさい。さらにテレグラフ様、麻生氏の名前はティローではなくタローですからね、やる気を出してください。フランス語圏、スペイン語圏も確認しましたが、ただの事実経過の記事ですね。経済的難局の時期に景気対策を発表したと思ったら唐突に辞めてしまったのはなんなんでしょうというのと、小泉純一郎以降、日本政治は不安定局面に入ってしまったというのがおおよその共通認識のようです。現在の政局では誰が首相になろうがあまり展望が見えてこないのがなんともしんどい話ですね。

今回の辞任の原因のひとつであろう給油問題に言及している記事がJapan Focusにありましたのでリンクしておきます。インドネシアの専門家でアメリカのアジア戦略に批判的な立場の人みたいですね。内容についてはあまりコメントしたくないですが、Japan Focusらしい記事と言っておきましょうかね。シーシェパードの国際指名手配と日本の「軍事化」の話は関係しているのですか。へえ。

追記
少し書き足しました。なおキャラとしては福田氏はそれほど嫌いではないです。もっとも持ち味はあまり出ていませんでしたが。ただ今のような政局では喧嘩のできる人でないと駄目でしたね。こんなタイミングで選ばれて不運でしたねぐらいの気持ちもなくはないですが、一国の首相ですからね、結果で評価するほかない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »