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宗教ねえ

少し酔いがまわっている状態ですが、なんとか理性を取り戻して軽くエントリしておきます。とはいえ周囲は妙に浮世離れしたラテンな音楽が鳴り響いている環境なのであんまり落ち着いた気分にはなれそうもないですが。

"Reporting the Georgian War: Is Bernard-Henri Lévy a Fabulist?"[World Politics Review]
前にエントリを立てたBHLのグルジア・リポートの件についての記事です。彼の戦場リポートの文章スタイルがはらむ問題についてはやや直感的に言及しましたが、この記事によると、

Although the extent of the controversy unleashed by the Rue89 article is unprecedented, this is by no means the first time that BHL's war reporting has come in for criticism. Indeed, his instant "eyewitness" accounts have frequently been exposed as unreliable by specialists in the regions or conflicts in question. A part of the problem is undoubtedly that Lévy's literary style of war reporting is, after all, at least as much literature as it is journalism.

とされています。どうやら今回だけの話ではなかったようですね。ジャーナリズムではなく文学だという言い方をしていますが、これは逃げ口上にはならないと思います。文学がはらむ非倫理性を私は全面的に引き受けるのだといった逆説的な倫理といったものがここにある訳でもないですし、単に駄目な文学に過ぎないのではないでしょうかね。さらに記事は政治的批判にも進んでいます。仏語圏で言う知識人のアンガージュマンの問題ですが、

The more fundamental issue, however, is one not of genre but of partisanship. For when BHL turns up in a war zone, he typically does so as what the French call an "intellectuel engagé": a "politically-engaged intellectual" -- the champion of a cause, in effect. It was this same partisan spirit that during the Bosnian War permitted Lévy to denounce Serb "barbarism," while remaining oblivious both to the presence of and the abuses committed by the thousands of foreign mujahideen fighting on the Bosnian Muslim or "Bosniak" side. (On this subject, see John R. Schindler's recent book "Unholy Terror: Bosnia, Al-Qa'ida, and the Rise of Global Jihad".) Somewhat ironically in light of Lévy's reputation as "pro-American" and a supporter of the "war on terror," one of these foreign mujahideen whom BHL managed not to see, the Bosnian War veteran Khalid Sheikh Mohammed, would go on to be the principal Al-Qaeda coordinator of the 9/11 attacks.

というようにボスニア戦争の時にもこの人は現地に飛んでセルビアの悪を糾弾した訳ですが、この記事によれば、BHLはこの時にボシャニャク人(ムスリム)側に立って戦っていたムジャヒディーンの存在を「見なかった」。親米家でテロとの戦いの支援者たる彼にとっては皮肉なことだが、911テロの主犯の一人はこの戦争に加わっていたムジャヒディーンだったと。むう。これはなんといったらいいのか、ボスニアの例は今度のグルジア紛争でも批判派が言及していましたね。二つのケースを同一視したりはしませんが、それでもこの時のBHLの思想的介入の仕方にも違和感を抱いた記憶があります。もうなにを言っていたのかはよく覚えていませんが。

Pape, Paris, Pap[French Politics]
べネディクト16世教皇猊下のパリ訪問ですが、随分大騒ぎになっていましたね。サルコジがカトリック的フランスのアイデンティティーを修辞的に強調したりしたこともあって世俗性(仏語ではライシテ)をめぐっていつもの論争が起こっています。社会党は猛反発ですね。やや過剰な反応にも感じられるのですが、これは歴史的背景のあるフランスの「国体」ですから外国人が気軽にどうこう言える問題ではないです。近年のアメリカにおける宗教右派の興隆への不安の投影として国内の保守的なカトリックの動きにメディアの焦点があたったりもすることもありますが、カトリックの宗教活動(教会に定期的に通うとか)をする人が7%程度しかいない状況には大きな変化はないようです。イスラム・フォビアからカトリックへの回帰みたいな話もマクロ的な現象にはなりそうにないですね。宗教的には(多分)その辺を歩いている日本人の一人に過ぎない私のような者の目には、こちらのほうが気楽でいいような気もするのですが、フランスの世俗化というのはやはり世界的にも珍しいケースなのでしょう。教皇猊下はルルドでミサをしたようですが、こういう奇跡話はカトリックですねえ。私はこういうのわりと好きなんですよね。勿論信じたりはしませんが、たのもしい感じがして楽しくなります。ところで日本の知識人の一部の間に漠然とあるように感じられるカトリックへの偏見はプロテスタント経由なんですかね。大塚久雄氏の西洋史の辺から来ているようにも感じられますが・・・、もっと古いのかな。

関係ないですが、日本における宗教をめぐる言説が神話にまみれているのはやはり先の大戦とアメリカの影のせいなんでしょうかね。「国家神道」(©占領軍)の(多分歪んだ)イメージに未だに怯えているのか、いや、明治の頃からそうなのかもしれませんね。ともかくこうしたアメリカの目を意識したような宗教談義には正直に言って飽きています。あるいは「日本教」をめぐる議論なんかもそうですね。結局のところ日本の知識人によるペイガノフォビアの内面化に過ぎないんじゃないかという気もしてきます。日本特殊論の臭いもしますしね。いや、日本特殊論そのものですね。シンクレティズムなんて別に珍しくもなんともないと思うのですけどね。この点では他のアジア諸国の宗教のあり方と比較したほうが生産的で開放的な議論ができるように思えます。念のために言っておくと文化的アジア主義とは無関係な話ですね。淡々とした実証的な議論が望ましいです。などといい加減なことを書きながら感じるのですが、どうもあちこちに地雷があるようで宗教について論じるのはやはり難しそうですね。

追記
酔いの入った状態で書いたので少し走っている感じですが、「国家神道」について別に「修正主義的」な主張をしようという訳ではないですね。現在の目から見て国営神社制度というのがやはりグロテスクな存在だろうという点に異論はないです。ただイデオロギー面ばかりに注目して当時の受容の文脈を無視するのは片手落ちでしょうねということです。また戦後に神話化された部分がけっこう大きい印象を受けます。それは右派と左派と(仮想的な視線としての)アメリカの三者が共同でつくりあげたものなんでしょう。また山本七平氏についてはよくある批判をしようというつもりもなく、実際、興味深い考察をしている方だと思います。ただ今の私には戦後の特異な知性の残した歴史的ドキュメントという距離感でしか読めないです。最期に私が言っているのは、「日本の宗教」ではなく「日本における宗教」のことです。religions in Japanで複数形の宗教です。なにか予防線ばかりをはっているようですが、地雷を踏むかもしれなけれどもそれでも直進する勇気のようなものも必要なのかもしれないと思ったりもします。

ペイガニズム・フォビア→ペイガノファビアに修正。paganophobiaという単語を忘れていました。異教徒嫌悪ということですけど、この場合は非一神教への偏見や恐怖のことです。明治以降、西洋文化と出会った日本の知識人はある意味でペイガノフォビア派と一神教フォビア派に分裂してきたわけですが、私はこういう分裂には飽きたよ派です。勿論宗教的対立のことでなく欧化派と国粋派、亜細亜派の間の文化論的対立の一部のことです。その痕跡は今日の通俗的な日本論や日本人論にも微妙に残っているような気がします。それで私個人としてはこの三幅対をどうにかしたいわけですね。誤解なきように言っておきますと、私には一神教嫌悪はありません。

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コメント

大変勉強になります。世界三大仏教遺跡の一つに、ミャンマーのBaganがあります。国名をミャンマーに変えたときに、幾つかの地名の英語表記も変更しました。Baganもその一つで、植民地時代にPaganと表記されていた地名です。英和辞書にはpagan:非基督教徒、異教徒の訳が載っており、変更理由に納得していました。このため、paganismもその敷衍上で解釈していました。
貴ブログでの使われ方を見て、別の意味があることを知りました。神道に対する個人的観点から、信仰心(内面的規範・紀律)と宗教心(対他的戒律)とは異なるのではないか、と考えているのですが、paganismやsyncretismの記述を読むと、同業異種の気もして、一寸ぐらついています。

投稿: chengguang | 2008年9月16日 (火) 09時32分

国家神道って、たしかに、あの時期戦争のために利用された、ということを否定するつもりはなですけど、、一部の知識人や英語圏の記事にあるように、日本国民や植民地の人々にそんなにインパクトあったんですかねえ?

投稿: | 2008年9月16日 (火) 13時16分

>chengguangさん
少し混乱した記述だったので意図が伝わり難かったかと思いますが、「日本の宗教」の説明が欧米人向けに構成されていて、それが日本人自身を縛っている点に不満があるのですね。

paganismは一神教以外の宗教を指す侮蔑語ですが、歴史的にそれが意味するところは変化していますね。ギリシア・ローマやらゲルマンやらケルトの神様だったり、正統信仰からはずれた民間信仰や異端信仰だったり、インディアンの宗教だったり。

侮蔑語ですから厳密な定義がある訳ではないのですが、この語が喚起するイメージ世界の中には性的要素に対する嫌悪が強く含まれていると思います。神道や道教やヒンズー教なんかそうですね。paleo-paganismなんていう言い方もありますが、欧米人が日本好きと日本嫌いに分裂するのにこの要素があると思います。

日本の知識人のうち特にキリスト教の影響を受けた人々や西洋人視線に飲み込まれた人々が「日本の宗教」を語る時にpaganismの土地として日本を見てしまうのですね。そうした言説が非キリスト教徒の人々にもなんとなく受け入れられている訳ですが、そこには文化的偏見があるという点を指摘したかったのです。

シンクレティズムは宗教学で使う語ですからもっと中立的ですが、やはりよくないこととみなされがちです。神道と仏教と儒教(と道教)の要素の混淆状態に対して滅茶苦茶だみたいな言い方をする日本の知識人もいますが、彼らの目線で言っている訳です。ただこれって別に日本に特有な現象ではないですよと言いたいのですね。

ニュートラルと言いましたが、宗教学は実際には中立的な学問ではないと思います。キリスト教、特にプロテスタント中心主義的な概念構成になっている点は批判されて多少は変化はあるようですが、かといって別の枠組みが準備されている訳でもないようですね。宗教religionや信仰belief概念そのものがキリスト教ベースですからどうしてもずれてしまいますね。神道は宗教ではないみたいな言い方がここから出てきてしまうのですが、それは宗教の概念が狭いせいですね。これは例の「国家神道」の問題につながりますが。

投稿: mozu | 2008年9月16日 (火) 18時52分

>一部の知識人や英語圏の記事にあるように、日本国民や植民地の人々にそんなにインパクトあったんですかねえ?
皇室崇拝のツールとして使おうとしたのは事実でしょうが、それによって在地の宗教が根絶やしにされたとかないわけですからね。日本国民へのインパクトは現在にも微妙に残る宗教的混乱をもたらしたことですかね。ただ当時と今と基本的には全然変わっていないと思いますけどね。shisakuさんの大好きなアマテラスオオミカミ様の実在をみなが本気で信じていたとでもいうのでしょうかねえ。戦時プロパガンダと社会的現実を同一視しているのでしょうね。

英語圏では要はカミカゼがイスラム聖戦士みたいなものとして受け止められているようですが、別に宗教戦争ではないですからね。あちらさんはそう思っていたのでしょうけれども。単なる投影ですね。中国や韓国の研究者は儒教バイアスがひどいですが、英語圏の無茶苦茶なイメージとはまた質が違いますね。

投稿: mozu | 2008年9月16日 (火) 19時21分

私もそんな感じだと思いますね。とくに資料をしらべたこともないのですけど・・・
僕らも諸外国をみるとき自らの文化的偏見を投影しているんでしょうが、むこうから投影されると、何となくわかる。もっとも、むこうの枠組みになぜか、ありがたがって、乗っかっている日本人もいるわけで、そこらへん困ったもんですね。
まあ、「サムライ」「カミカゼ」でほとんど何でも説明がつくんですから気楽なもんですね。

投稿: | 2008年9月17日 (水) 01時31分

あとは1930年代生まれの多くに心の傷を残したというのもありますかね。まじめな子供はプロパガンダを真に受けたのでしょうし、価値観の逆転を経験して大人は信じられないと思ったのでしょう。「戦後の」軍国主義時代のイメージは大部分この人達がつくったんでしょうね。ただ子供だったわけですから大人達が戦っていた戦争の全体がなんであるかは勿論知らないし、実際歴史像が一番歪んでいるように見えます。それを責め立てるつもりはあまりないのですが、左派であれ右派であれ非常識な政治的主張が出てくることがあるので困ります。ただこれはこの世代の知識層に見られる傾向性の話で全体としてどうこう言うつもりはないです。人それぞれでしょうから。

投稿: mozu | 2008年9月17日 (水) 13時25分

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