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shikata ga nai

「仕方がない」あるいは「しょうがない」というフレーズを日本人の心性を凝縮したようなものとみなし、市民性の観点からこの心性を批判するのが啓蒙派の紋切り型になっていることはご存知の方も多いでしょう。怒れ、日本の市民よ、といった具合に。それは日本の市民派ばかりでなく日本人に説教したい外国人がよく言っていますね。さすがに極東の地において樹立さるべき近代的社会規範とは相容れない「封建遺制」みたいなものとしてこれを激しく糾弾する一種の文化革命派みたいなのは稀少になってしまいましたがね。あるいは、しょうがないではない、それでは敗北主義だ、日本人も戦わなくてはならないのだ、といった勇ましい用法もあり得ますかね。外国からの理不尽な要求に諾々と従うことはない、時には毅然とノーと言わねばならないのだ、みたいに。それから仏教的起源をもつ「仕方がない」の精神は西洋的なセルフとは別のセルフの可能性をもつものであり、キリスト教起源のセルフ概念を至上のものとみなすのは文化的傲慢と偏見に過ぎないといった反批判だってあり得るでしょう。

それで私はと言えば、shikata ga naiだのmottai naiだのkatajike nai(それはない)だのといったワン・フレーズでもって日本社会や日本文化全体を理解した気になるような知的怠惰に対しては日本人だろうが非日本人だろうが批判的なわけですね。こういう問題設定では議論はしたくない。といっても通俗的な日本論に飽き飽きしているだけなので日本文化などはないとか日本は存在しないとか無茶な主張をするような観念論的な立場をとるつもりはないです。ただ日本をそう簡単に語るなよということです。実際、「仕方がない」というフレーズがこの島国において日々発され、また私自身もよく口にしている事実を認めるにやぶさかではありません。例えば、またくだらない日本人論かよ、しょうがないな、いや、しょうがないじゃない、真の国際交流のためには他者の誤れる認識を正すことも必要なことなんだろう、ああ、面倒くさい、あのね、あなた、それちょっと違うんじゃないですか・・・といった具合にね(私も嫌みですね)。

私が関心あるのは私が日頃用いるだらしのない「仕方がない」ではなくて、深刻な受苦の経験において口にされる用法です。自然災害戦災において発される「仕方がない」、あるいは日系人達が異国の地において口にしたshikata ga naiです。前者についてはそのポジティブな側面について心理学者に解説されたりもしていますが(そうつぶやきつつ戦後復興を遂げたわけですからね)、後者については英語圏では文学作品化されたり、研究がなされたりしているようです。一世達がいつもいっていたあの言葉はなんなんだろうと二世、三世達が回顧するわけですね。ある意味では英語化した日本語のひとつなのかもしれません。キング・クリムゾンにもそういう曲がありましたね。

先の大戦でかのインターンメント・キャンプにおいてshikata ga naiがつぶやかれていたことはそれなりに有名な話なのでご存知の方もあるかもしれません。 ジャンヌ・ワカツキ・ヒューストンの小説Farewell to Manzanarではこのフレーズが呪文のようにたびたび繰り返されて作品のトーンを決定しています。残念ながら私はテレビ版は見ていないのですが、カリフォルニア州では学校の教材にもされているようですね。このインターンメント・キャンプにおけるgamanとshikata ga naiがいかに収容者達の精神を支えたのかについては日系人社会のアイデンティティーを規定するほどの意味を持っているみたいです。またカナダのインターンメント・キャンプにおいても事情はまったく同様であってshikata ga naiの精神によって日系人はある種の尊厳を維持したとされています。Joy Kogawa氏のObasanというやはりインターンメントの経験を扱った有名な小説がありますが、舞台は異なるものの二つの作品は非常に似ていますね。どちらも一世の苦難の物語です。私は北米の(南米も)日系人のブログもよく巡回しているのですが、そこでshikata ga naiがなにか崇高な響きとともに用いられることがあるのですね。wikipediaの説明の一部はたぶん一世の経験から来ているのでしょう。曰く、

The phrase has been used by many western writers to describe the ability of the Japanese people to maintain dignity in the face of an unavoidable tragedy or injustice, particularly when the circumstances are beyond their control.

と、これは私が用いるだらしない用法とはだいぶ違うわけです。いろいろ読んだり聞いたりしてみるに、日系人社会においてはshikata ga naiとgamanの二つは一世そのもの、「古い価値」そのものを象徴する言葉とみなされるまで意味づけがなされているようなんですね。そこに二世や三世が畏敬の念をもったり反発したりすると。沈黙し耐える一世、怒れる三世、その間で揺れ動く二世といったステレオタイプがあるようですね。日系アメリカ人はshikata ga naiとgamanのステレオタイプを脱してアメリカ社会の不正義に立ち向かわなければならないといったようなアジも見ることがあります。勿論世代論というのも神話的なものですから実際にはずっと多様なわけでしょうし、それほど政治意識の強くない人のほうがたぶん多いんでしょう。またこうした世代間対立に対して一世をshikata ga naiとgamanのナラティブに閉じ込めるのに抵抗するような試みというのも目にします。例えば、コレなどもそうですね。母は母なりにagencyを持っていたのだと。おしんのしんは辛抱のしんみたいな話でありますけれども、北米におけるshikata ga naiは日本のそれとは少々違うコノテーションがあるようですね。いえ、一世の方々がつぶやいたそれは多分日本のそれと変わらないのでしょうが、状況の相違から意味付けの仕方が違うのでしょう。そこにはなにかと偏見をもたれがちなアジア系の少数派という立場から来る葛藤だったり、また強制収容のトラウマ的な記憶とも結びついていたりといった具合になかなか複雑な背景があるわけですね。そういうわけで日系人社会におけるshikata ga naiは日本とは異なる文脈にあるフレーズと認識しておいたほうがいいような気もします。そういう意味では多分もう日本語ではないのかもしれません。

で、なんでこんなことを書いているのかというと、何年か前に三世に随分からまれたことがあっていったいこの人はなにを私に投影しているのだろうと疑問に思っていろいろ調べた記憶が蘇ったからです。それでなにが判ったということもないのですがね、あちらはあちらの文脈があってなかなか大変なんだなぐらいで。その時のことを想起させるような出来事があったのですね。今日はそういう日でした。はい。

追記
変な文章を修正しました。私の愛着のある国はデモ好きな国が多いこともあって日本国民もそれぐらいやってもいいんじゃないのぐらいのことは思わなくもないのですよ。でも政治的な意思の表現としてどういうスタイルをとるかはいろいろあってもいいんじゃないでしょうかね。短くコメントしておくと、私は別に人々は政治的アパシーだとは思いません、また日本国民はだいぶおかんむりですよ、ロジャーさん。それから私はWesternerではないですし、westernizedされた日本人みたいに呼ばれることは微笑みとともに拒否するぐらいには政治的な人間なんですが(ええ、あなたのthe Westが釣りであることは知っていますよ、え、マジですか)、匿名的であることと政治的であることは必ずしも矛盾しないと思うんですよ、マークスさん。the Westだのthe Eastだのの政治文化(ってなんだか判りませんが)の話でなくて一般的に言ってですね。そもそも大衆とは匿名的権力の別名ではなかったですか。また政治の定義如何でしょうけれども、ある意味これほど政治的な国民もそうはいないんじゃないですかね。そう思いますよ。まあお気持ちは判らないでもありませんがね。

追記

マルクスさん→マークスさん。マルクスの文化理論に興味があるらしいというと連想からか間違えました。失礼しました。

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コメント

mozuさんの書かれている主題とは離れていると思いますが、『雌伏のときを過す』という言葉で抱くイメージと同じく、頑張るとは目標を定め、耐えて努力する意味を持っていると解釈しています。『仕方がない』と日系人や外国に住む日本人が言うときには、他人の国に来ている自分たちは、この国では異邦人だから、という意味で使っているように思います。そしてどちらの言葉も『内省』を主体にしています。
この内省を主体とする考えは、どうも日本人の特徴のような気がします。哲学を専攻していなくとも内省できる日本人は、高い民度にあることを示しているのではないかと思います。その所為か、適当な英語やアジア語がありません。だから、mozuさんの書かれているように日本語がそのまま残っているのかもしれません。(話は飛びますが、数年前のタイでは、semakuteという言葉が、日本人を表す言葉として意味もなく使われていました)
ただ、言葉を理解していなくても、ガンバル日本人を評価した白人(ユダヤ人)はカナダにはいたようで、一世の多くは評価された日本人に呼ばれて渡航した人が多いそうです。

投稿: chengguang | 2008年10月16日 (木) 10時45分

私がここでいちゃもんをつけているのは「仕方がない」をただの諦めの言葉と捉え、人生に対する消極的、受動的態度と理解して、日本人の政治的未成熟ぶりを糾弾するためにこのフレーズを利用するようなタイプの言説ですね。まあ彼らは批判のためならなんでも利用するんですけどね。

用法にもよりますが、「仕方がない」というのは必ずしも諦めの言葉ではないんですよね。肯定性がある。仏語のセラヴィ(これが人生というもんだ)にも似ていますが、やはり全然違いますね。

北米にせよ南米にせよ一世の方々の忍苦には襟を正すような思いがします。こういう方々の努力が日本の評価を下支えしているわけですしね。三世の方々にも理解してほしいんですよね。いや、多くの人は尊敬していると思いますがね。

タイのsemakuteというのは知りませんでした。おもしろい情報ありがとうございます。

投稿: mozu | 2008年10月16日 (木) 23時32分

shikata ga nai とメイファーズ没法子の違いをどう捉えておられますか。中国に4年出征した父が度し難いというか不屈というか、日本人とは違う感覚として言及したのを記憶します。

投稿: arz2bee | 2008年10月19日 (日) 22時32分

肯定性を含んだ諦めの言葉という点では似ていますが、やはり随分違う印象を受けます。chengguangさんもおっしゃるように日本語の「仕方がない」にはやや内省的な響きがあるような気がしますね。赤塚不二夫さんの「これでいいのだ」は満州で身につけたメイファーズの氏ならではの翻訳だという話もありますが、強かなユーモアの響きがありますね。語源や用法について確かな知識がないのでイメージだけで書いているのですが。私の祖父も満州帰りですが、「連中」のたくましさについてはよく語っていました。

投稿: mozu | 2008年10月19日 (日) 23時56分

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