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2008年11月

マグロ食うな

すっかりと冬めいてきましたねえ。私はこの時期がわりと好きなんですよね。というわけでここしばらくなにか生き生きとしているような気がします。

"Geithner a balm for Japan's Clinton trauma"[Asia Times]
Kosuke Takahashi氏のこの記事ですが、新政権における財務長官へのガイトナー氏の就任をめぐる日本側の反応についてよくまとまっています。民主党政権ということでクリントン時代の悪夢を想起する人も多かろうが、そんな心配はいらんだろうということですね。日本語話せるから嬉しいみたいな反応はどうかとは思いますが、確かにサマーズ氏よりはやりやすそうではありますね。前政権からの「変化」の強調には向かないでしょうけれども、GSのポールソン氏よりはこの実務屋さんのほうが受けがよさそうな印象を持ちますが、私はアメリカ国民ではないのでその辺はよく判りません。なお橋本政権時のパッシングについての物悲しいけれどもやはり正しさを含んでいるのかもしれない解釈に軽く頷かされました。どうせまた今後もジャパン・パッシングだの日本の存在感の低下だのといった扇情的な文句がメディアの一部で踊るのでありましょうが、共和党政権のゼーリック氏にだって「パッシング」されていたわけで、この凪を利用して我々は我々がなすべきことを淡々とやればそれでいいのであって、あのニコラ・クリストフ氏とつるんでいる誰かさんがなにを言おうとも涼しい顔をしてスルーすればそれでいいのですね。関係ないですが、記者クラブのよくある批判なんかよりもFCCJ改革の提唱をしたらこの方も評価するかもしれません。そうですねえ、まずはスシ・バーからマグロネタを出すのを止めることあたりから始めたらどうでしょうかね。いえ、勿論冗談です。

"China's cyber warriors a challenge for India"[Asia Times]
同じくアジアタイムズですが、インド側から中国のサイバー・ナショナリズムを警告する記事です。孫子の戦わずして勝つ戦法を紹介して国境問題での心理戦でインド国民が戦意を喪失しないようにする必要があると論じています。インド国民はそんなやわではないような気がするのですがね。というか最近はきなくさい話ばかり聞こえてきますねえ。この記事ではオリンピックの際の反西洋ナショナリズムをとりあげていますが、やはりこっちが本筋なわけですよね、日本は手軽なターゲットということで。逆に西洋メディアが日中対立を強調するのは願望が入っているような気がしますね。このもつれた関係を日本に有利に動かすにはどういう戦略が望ましいのかなかなか難しいところですが、結局、涼しい顔で見物しているのが当面は正しいような気がしてきます。この点で我が国が外国語音痴ばかりなのはあるいは幸運なのかもしれません。ところで前に紹介したサルコジ氏とダライ・ラマ猊下の会談話がサミットへの中国代表の欠席ということでさっそく展開しているようです。中仏の確執ならばまあいいですよね、自己中同士やってなさいと。だいたい砲弾が飛び交ったり死人が出るようなこともないわけでしょうし。まあ他国は最終的にはどうでもいいのであって淡々となすべきことをなすのがすべてに優先ということなんでしょう。

"Obama and Japan’s security policies"[East Asia Forum]
Peter Drysdale氏の岡本氏の提言への論評。前に岡本氏がアジアタイムズに寄稿している記事は紹介しましたが、このブログ記事が言及しているのはNautilus Instituteのサイトに掲載されたほうの記事です。内容はだいたい同じで日本がより自立性を高めることが対米関係を安定させるとして、具体的になすべきことが列挙されています。
(1)在外日本人の保護の能力を高めよ(バングラディッシュなど大使館等在外公館保護のために自衛隊を利用せよ)
(2)復興支援国で援助活動をする民間人保護のために兵員その他を送れ(アフガニスタン)
(3)大量避難や人道救助のための自衛隊の能力を向上させよ
(4)公海における船舶の安全航行を保護する作戦への参加のための恒久法を策定せよ
(5)テロとの戦いへの「言葉での」コミットメントを再び表明せよ
これは難易度はそれほど高くなさそうですが、現在の政治の混迷ぶりを見るとちょっと実現しそうにはないとしています。ただ日本の著名かつ尊敬されている安全保障グルの意見として重要だと。まあこんな風に受け止める人もいるわけですから、やはり英文で公表する意味はありますね。なおDrysdale氏の対北朝鮮政策への論評はやや田中均氏寄りに過ぎると思います。いえ、私は別にもともと強硬派支持者ではないです。が、タカとハトの間にもいろいろなスタンスがあり得ることを知っていただきたいなと思うのですね。

"軍を律する文民統制とは何か 民主国軍と非民主国軍の違い(1)"[NBonline]
吉田鈴香氏の文民統制に関するバランスのとれた啓蒙的記事。スウェーデンに詳しい方のようで具体論の部分は著者の見聞が活かされています。この件で統制主体であるはずの総理大臣と防衛大臣が他人顔をしているのはよくない、またこの問題を政争の具にしようとしている野党の姿勢も筋をはずしている。また日本の政治家は兵士の士気を高める言葉を常日頃から発しなければならない。文民統制が真に機能しているかどうかを判別するのには教育プログラムを見ればいい。軍の質をはかるには「理論教育」「倫理教育」「実戦訓練」「最新鋭装備」の4つの視点から観察すればいいが、この4点が○なのが民主国軍であり、非民主国軍は「理論教育」が△ないし×であり、「倫理教育」は×である。だから危ない。倫理教育とは人権思想の根幹が入っているかどうかだ云々。日本語圏で議論をするとどうしても先の大戦の記憶に左右されてニュートラルにならないこともあってこういう冷静な視点はいいですね。ただ一般論部分はいいとしても、文民統制の具体的なあり方というのは国によってけっこう違うのでなかなか面倒くさいんですけれどもね。

なお文民統制に関するネットソースとしては山田邦夫氏の「文民統制の論点」というpdfは一般論から具体論まで論点が網羅されているのでおすすめしておきます。スミスもハンチントンも読んでいない無学な人間なのでなにも言えませんが、日本の政軍関係史におけるパールマター氏やファイナー氏の見方は興味深いですね。三宅氏や纐纈氏は反論されていますが、実は私もこういう見方に近いところがあります。明治立憲体制は完全に維持されており、言うまでもなく途上国型の軍事独裁などではなかったのですから。いえ、別にだからいいというのではなくて、だから難しいのだと言いたいのです。単に低く見たり悪く言えばそれを克服できると思い込むのは思い違いというやつです。それから文民統制の話になると文官統制とは違う云々という決まり文句が飛び出ますが、ここは政治文化の問題になると思います。行政権の強い国はどこでも文官統制的になっていますし、それも文民統制の一部と理解されているようですから。ちなみにタモガミ・アフェアに関して国会やメディアで叫ばれている文民統制についてはうーむ、という感じがありますね。私みたいな無学者でもなにか変だと思うのですから、困ったものです。シビリアンの側がこれでは軍隊をコントロールできないではないですか。まあ私もぼちぼち勉強することにします。

ではでは。皆様もお元気で。

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封建制をめぐって

封建制の文明史観 (PHP新書)Book封建制の文明史観 (PHP新書)

著者:今谷 明

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室町政治史論や天皇論で高名な今谷明氏の新書です。ビザンツに関する著書で最近は比較封建制論に関心をお持ちであることは承知しておりましたが、本書からは著者の新しい関心の在処とともに著者のよって立つ基盤のようなものが伺えます。非常に大きな史学上のテーマを扱っていますが、同時に非常にパーソナルな印象を与える不思議な書です。特定のテーマについての新書としての完成度という意味ではそれはあるいは欠点なのかもしれませんが、私のような読者はある種の感慨を与えられました。封建制についての本というのも最近はあまり見かけませんし、このテーマに関心のない方にも近代日本が過去をいかに捉えたのか、あるいは西洋人が日本の過去をいかに捉えたのかといった事柄について予備知識なしで平易な文体で読めますのでおすすめしておきます。

多岐にわたる話題を同時に扱っているので率直に申しましてやや見通しがよくないのですが、本書は文明論としての封建制と日本の封建制をめぐる言説史のふたつのテーマを同時に扱っています。実際、前者に関しては本書ではそれほど明瞭な像が与えられるわけではないのですが、我が国の近代化にとって封建制の時代は不可欠であった、それなくして日本の近代はなかったという著者の確信が本書を通じて強く伝わってきます。そのヒントとして、モンゴル帝国の進撃を食い止められたのは封建制の確立していた西欧とエジプトと日本のみであった事実(著者は単なる神風原因論を否定しています)、また「東洋的専制主義」のウィットフォーゲルと「文明の生態史観」の梅棹忠夫の説を紹介してユーラシア大陸の内陸ではなくその辺境地域たる封建制を通過した西欧と日本において近代化が展開された事実を重視しています。実際、西欧と日本の歴史の奇妙な平行性について語られることが多いわけですが、著者はこれをグローバルな枠組みの中に位置づけることを志向しているようです。

こうした壮大な文明論の展望が語られる一方で、本書のコアになっているのは封建制の言説史です。日本においては「封建」「封建的」「封建制」等の言葉が概念規定の曖昧なままに多用されたこと、またその言葉に込められた思いや評価が激しく揺れ動いたことが叙述されます。まず概念規定の曖昧さには二重の原因があって、一つは中国の「封建」と西欧のfeudalismの両者の意味の間で混乱が生じたこと、もう一つは西洋の法制史的概念としてのfeudalismと経済史的な発展段階論(ドイツ歴史学派、マルクス主義)の概念としてのfeudalismの混同があったことを上原専禄の所論を紹介して指摘しています。さらにこうした混乱に加えて単なる旧弊や固陋を意味する非難のための言葉として明治および戦後にこの語が使用されたことがこの言葉の意味の過剰を生んだ大きな原因であったとされます。

まず近代以前における封建ですが、勿論これは群県に対するところの封建という中国的意味です。周の時代に王の一族や功臣を地方に分封し、その子孫が世襲をして各地を治めたという古典の記述に倣ったもので、この王の一族による分封は中国的ないし儒教的封建観と呼ばれています。「愚管抄」にせよ「神皇正統記」にせよ「武士の世」という言葉あっても「封建」の語はなく中世で同時代を封建時代と考えたものはいないとされます。しかし江戸時代になると本居宣長を含めた国学者達が大化以前の古代を封建の時代とみなす考えが生まれたといいます。国造が世襲して地方を統治する制度を「封建」とみなすと。さらに日本の中世を「封建」と捉えた最初の例は幕末の頼山陽の「日本外史」で、鎌倉、室町の開幕を「封建の勢」と呼んでいるそうです。

西洋のfeudalismを最初に封建と訳したのは他ならぬ「文明論之概略」の福沢諭吉で明治8年(1875年)のこととされます。福沢は門閥制度=封建制ということで啓蒙家として封建制批判の急先鋒に立つわけですが、著者はここで福沢の封建制攻撃は「為にする議論」であって本音ではないというニュアンスのある解釈をしています。またアカデミックな用法でもないと。なおこの訳語はまだ定着しておらず、法学者の間では「籍土の制」とされていたのが、国会開設の頃までに徐々に「封建制」にとって代わられたそうです。しかし文明開化の反対物としての封建といった民間の議論は別にして、伝説を次々と放逐したことで通称「抹殺博士」と呼ばれた実証史学の重鎮たる重野安繹の見解たる「日本に封建の制なし」が学会の公式見解であったとされます。これが変わるのは20世紀に入ってからで福田徳三、中田薫、三浦周行の三人の巨匠によって日本に封建制が存在したことが主張され、日本中世は封建時代であることになったといいます。ここで言う封建は勿論西洋的なfeodalismの意味の封建で日本と西欧の歴史展開が類似したコースを辿ったという認識が学会で広まったとされます。ここでの封建制は全く中立的な学問的用法であったとされますが、著者はここで開国時には圧倒的に思われた落差が日清日露戦争を通じて急速に接近したという意識が日欧を類似の存在としてみなす風潮として存在したのではないかと推測しています。

ここで学会から目を転じて島崎藤村の文明論が分析されます。西洋熱に浮かされて洋行し、一時はパリの日本人コロニーの主的な存在になるのですが、英国植民地でのコロノストの横暴を目の当たりにするにつれて祖国の運命に思いを巡らせる文明批評家藤村が誕生したとされます。西洋の植民地化に抗することを可能にしたなにか強力な「組織的なもの」はなんだったのかという問いに対して日本に中世があったこと、封建時代があったことを発見するプロセスは平田篤胤の熱烈な信奉者で最後は狂死した父(「夜明け前」の主人公)とのある種の和解を伴ったようです。藤村によれば日本文明とは江戸封建制の遺産の近代化である。こうした見方は明治世代とは異なって断絶ではなく江戸と近代の連続性を重視する立場であったといいます。少し引用します。

幸いにして我が長崎は新嘉堡たることを免れたのだ。それを私は天佑の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力にのみ帰したくない。その理由を辿ってみると様々なことがあろうけれども、私はその主なるものとしてわが国が封建制度の下にあったことを考えてみたい。実際わが国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。(中略)印度でもなく支那でもないのは彼様いう時代を所有したからではないか。今日の日本文明とは、要するにわが国の封建制度が遺して置いて行ってくれたものの近代化ではないか。

こうした封建制の肯定的評価が出現する一方で大正後半にマルクス主義が導入されると再び福沢諭吉同様の封建制害悪説が復活することになります。有名な講座派と労農派の対立(「封建論争」)についても言及されていますが(明治をブルジョワ革命後とみなすのか絶対王政とみなすのかという不毛なアレ)、こうした政治的議論とは別に朝河貫一や上原専禄の学問的業績が生み出されています。

戦後は再び「封建制バッシング」の時代となるわけですが、これは敗戦原因が日本の前近代性の克服の不十分性に求められたからで学会と論壇の両者で「封建」をめぐる言説がインフレーションを起こします。しかしここでも学問的な用語ではなく旧弊や固陋と同意味で「錦の旗のように」使用されたのは明治と同じであり、戦後啓蒙派の丸山真男、大塚久雄、川島武宜等も史的唯物論の影響下にあった戦後史学の言説も同様であったとされます。上原専禄による概念整理の提言が要請されたのは、講座派的な「封建遺制」の克服が社会運動の文脈でも政治課題として取り沙汰されたような沸騰的状況であったとされます。こうした高揚した状況の中にあって駐日大使となったライシャワーは封建主義的なものを経過したことが日本の近代化を促す要因となったと説きます。専制制度に比べて法律的な権利と義務が重視され、商人と製造業者は大幅な活動範囲と保障を得られ、政治権力の外部にあっては身分志向的な倫理観よりも目的合理的な倫理観が重視される傾向があると。これは西洋史ではごく標準的な見方ですが、史的唯物論の支配下にあった当時の学会ではタブーとなる考え方だったといいます。またライシャワーを擁護した西洋中世史学者の堀米庸三は封建制を先行統一国家の崩壊の後に治安秩序を維持するために自然発生的に生まれた不可避の制度であるが、同時に先行的統一への寄生をも要請するとして天皇制度が持続した原因を説明したとされます。こうした冷静な議論が可能になり、1970年代以降は封建制の用語の使用に人々が慎重になる一方でこの語のもつ「イデオロギー性」ゆえに歴史学会でも封建制を語るのを忌避する傾向が徐々に広まるといいます。2004年には保立道久氏が封建制は西欧に固有の制度で日本中世史理解から封建制概念を放棄すべきとする本を出版するにいたって「日本に封建の制なし」に再び戻ったかのようだと述べています。大谷瑞郎氏の批判を引用しておくと、

問題の所在については(中略)きょくたんな言いかたが許されるならば、第二次世界大戦後の日本における歴史学は、「封建」というまじない文句に振廻されてきたとも言えるのではなかろうか。「封建」ということばの安易な用法が、日本についても外国についても、また、近代からさかのぼって古代にいたるまで、歴史の見かたをゆがめてきたと言っても、おそらく言いすぎにはならないであろう。そして、その背景にはいわゆる「単系的発展段階説」が伏在し、それが大きな影響を及ぼしてきたのである。

かくして「日本に封建の制なし」から「日本に封建の制あり」へ、一方では「日本の近代化の原因」、他方では「日本の近代化を阻害する要因」と日本近代史を通じて学会、論壇を巻き込んだ論争を引き起こし続けた封建制ですが、現在は鳴りを潜めている状態のようです。またこれが開国と敗戦の二度にわたる日本の自信喪失の局面で否定的に使用され、そこから自信回復する局面で肯定的に使用されるというパターンを辿った点も興味深く思われます。つまり封建制をめぐる言説史は近代日本が自身の過去にいかに対するのかという態度の動揺をきれいに反映しているわけですね。なお本書ではザビエル以来の西洋人の見た日本と封建制についての言説も日本人の言説の鏡として叙述されているのですが、興味のある方はそちらのほうは購入してご確認下さい。初めて知ったことも多かったですし、個人的に勉強になりました。最後に本書の随所からまた上原専禄氏のobituaryのエピローグあたりからはなにか個人的に伝わってしまったものがあるような気がしますが、一読者として著者が今後もスケールの大きな比較封建制論的視座から新鮮な歴史像を提示され続けますことを期待しております。

追記
大谷氏の批判ですが、状況は例えばフランスも似たようなところがありますね。あちらもマルクス主義が強かったわけで1980年代以降に封建制について語るのになにかしら白けた空気が漂うようになる点も含めて。ただなにが違うのかと言えば、日本の戦後の学会が一色に染まってしまった点ではないでしょうかね。敗戦の心理的ショックに加えて学会におけるネポティズムの問題等いろいろあるのでしょうが、あまりにも支配的論調が硬直的だったせいで、それが倒壊した後にアカデミズムの信頼そのものを一時的に失わせる結果を招いてしまったという点は今後に生かされるべき教訓に思えます。90年代以降の「歴史認識論争」があれほど熾烈かつ不毛なものになってしまった原因はやはりアカデミズムの世界の側にもあったと思います。今のドグマ的な特定論壇の論調を擁護する気はさらさらないですし、先行世代の負の遺産を苦々しく思う現役世代の方々を批判する意図もないのですが(ええと、ゾンビ除く)、戦後のアカデミズムがもう少し健全だったならばたぶんここまでひどい状況にならなかったのでしょうねえ。ふう。

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ともかく景気刺激が始動するようですね

Plan de relance européen : "La France travaille, l'Allemagne réfléchit"[Le Point]
ル・ポワンの記事。景気刺激策をめぐる独仏の確執が続いています。月曜にサルコジ氏がメルケル氏をエリゼに迎えたのですが、欧州レベルの景気刺激計画への参加を渋るドイツの説得は(予想通り)うまくいかなかったようです。欧州レベルの景気刺激策の件ですが、「フランスが動き、ドイツは内省する」というサルコジ氏の弁が事態を要約しています。ドイツは健全な財政なので11月4日に発表されたターゲットを絞った措置に加えて財政政策を行う余地があるのに、メルケル氏はこれまで渋り続けているといった具合に記事は不満そうな書きぶりですが、いったい誰が財政規律ゆるゆるの国の肩代わりを喜んでするというのでしょうかね。しかし両国は「協調」と「他の措置をとる必要性」で一致した模様です。次に自動車産業については両国は一致して救済にあたるとのことです。サルコジ氏によれば、アメリカのビッグ3救済のようなものではなく、ターゲットを絞った財政支援であり、競争ルールに反したり、保護主義に訴えるのではなくイノヴェーション、研究開発の支援だということです。最後に付加価値税(消費税)減税については独仏ともに英国には追随しないと。メルケル氏はこれは両国にふさわしくないといい、サルコジ氏は物価下落の中で付加価値税減税の必要性はあるのかと述べています。氏が自分が語っている言葉の意味を判っているかどうか不明ですが、ともかく独仏の確執は今後も続く模様ですね。なお共同声明はフィガロのこの記事で読めます。

"La France prépare un plan de relance de 19 milliards d'euros, selon Lagarde"[Le Monde]
フランスの景気刺激策ですが、火曜にラガルド財務相がGDPの1%にあたる190億ユーロ規模のものになることを公表しています。その詳細はまだ明らかではありません。このGDPの1%という額ですが、欧州委員会が欧州レベルの景気刺激として提案した数字—27カ国で1兆3000億ユーロ—に相当しているようです。委員会は最大2年間「協調して」財政政策をとるよう勧告しているとのことです。2年後には一斉に財政の不均衡の是正に取り組みましょうと。なおカトルメール氏は既に各国で公表されていた計画に共同体の名前を与えているという意味でwindow-dressingと呼んでいますが、ニコラ・ヴェルノン氏も語るように開放経済で有効な財政政策をするにはこうやって協調する以外にないでしょうね。なおラ・トリビュヌによく寄稿しているヴェルノン氏が欧州レベルの協調景気刺激策を提案しているPDFはここでDLできますね。グラフも多く、また英語ですので関心のある方におすすめしておきます。

おまけ
"Levelling the lingerie playing field"[Guardian]
サンにはサンの道がある、ガーディアンさん、あなたなにをやっているのですか。水産関係ネタへの粘着には飽きたのですかね。こんなのはJ-blogに任せておきなさいな。私は少なくとも英国ネタでは貴紙のことはそれなりに尊重しているんですから、是非ともこちらを唸らすような批判記事を書いてもらいたいんですよ。どうも批判も冗談も薄っぺらでつまらんです。つ・ま・ら・ん・で・す。

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恐慌時のフランスですか

経済史から見たサブプライムの衝撃 (上)
経済史から見たサブプライムの衝撃(下)
なかなか興味深い対談だったのですが、特に気に留まったのは三点です。まず今回の金融危機に関してマルチラテリズムが有効かどうかという論点です。欧州における預金保護についての竹森氏の発言。

竹森 英国の銀行保護策は、ものすごく包括的なものでした。注入と預金の全額保護、銀行間取引の債務まで全部保証する。12日にはユーロ圏がみんなこの方針を受け入れた。

これを国際協調と見るかどうかです。むしろこれは協調ではなくて、英国だけが包括的な保護策で突っ走ったら、ほかの国も同じようにしないと預金が英国に逃げるから結果として協調したと言えます。

金本位制の時も、ドイツやオーストリアが金本位制から離脱する。そうすると英国は離脱した国に対して為替が高くなって不利になる。すると今度は英国が危ない。英国が離脱すると今度は米国にプレッシャーがかかる。

米国の金が英国に逃げていくと、米国もやめる。その次は金がフランスから逃げる…。こんな競争的プロセスでどんどんとみんな金本位制をやめていった。それと同じように、今回は英国というプレッシャーが、ほかの国に包括的な保護を呼んだ。

この当初の預金保護競争については前に書きましたが、確かに欧州協調というのは意志的なものではなく強いられた結果でした。この点、ブラウンやサルコジを英雄視するのは問題がありそうですね。貿易を別にすれば国際協調がいいものかどうかは疑問だとしています。プラザ合意コンプレックスかもしれないが、日銀も自国優先にしている姿勢そのものはよろしいと。ただしみったれた利下げは批判しています。

次は日本の危機対応の受動性について警鐘を鳴らしている部分です。ここで例として出されているのが大恐慌時のフランスです。最後まで金本位制を維持したためにしわよせが押し寄せたと。マジノ線に安住していたかの国同様に日本も一次被害の直撃を免れたと思っていたら一番ひどい目に合う可能性もありますよと。むう、そうならないといいのですけれども、追い込まれているの図が浮かんでしまいます。竹森氏の発言です。

金融危機では、日本は最初のうちは最もきれいな状態だったけど、最終的には最悪の状態になることだって考えられる。大恐慌のたとえで言うと、悪いところから順番につぶれていったわけですから。オーストリアが金本位制をやめる、次はドイツ、その次が英国、そして次は米国、最後がフランスでした。

フランスは最初、金の価格の評価を上げて、ともかく為替レートを切り下げて、金本位制に戻った。一番長く金本位制を持ちこたえた。ところが他国が順番に競争で金本位制をやめていった結果、最後のしわ寄せがどっとフランスに行った。結局フランスは第2次大戦が始まる頃まで、景気回復していません。一番長くかかった。

ほかの国はともかく首をつなぐために、ぼんぼん刺激策を取っている。そんな時に、日本は景気刺激策を出す前に消費税の引き上げを決めなければいけないような中途半端なことをやっている。そのしわ寄せが後でどっと来る可能性はある。

そしてこれは結局のところ政治の弱さに起因しているのではないかと。

大恐慌時のフランスと似ていると思うんです。ドイツの脅威が増して、大恐慌が広まって、フランスの中は分裂状態。国益を言う前に、小党が乱立して対立していた。

当時なぜフランスが金本位制にこだわったかというと、今の日本と似たところがあります。政治が弱かったわけです。つまり財政の規律というのがものすごく弱かった。財政の規律が弱い国は、プライマリーバランスを2010年までに回復するとか、あるいは財政赤字をGDPの3%に抑えるとか、数値目標を設けないとダメになる。
(中略)
日本の場合はどうでしょうね。1998年の長銀の救済は、危ないという銀行が目の前にあるのに、3カ月放っておいた。その間に株は落ちるわ、預金は逃げ出すわとなってしまった。あるいは今年の4月に日銀の総裁をどうするか、2カ月もめた。こういった前例を考えてみると、ほかの国がどんどん新しい形を作っていく間に、日本の2次被害がどんどん大きくなっていくようなことになるのではと思いますね。

フランスの大恐慌への対応については一般的な事柄しか知らないのですが、イメージとしてはなんとなく納得させられます。内輪もめに興じているうちに経済的にも、軍事的にもやられてしまった感じですね。政治の弱体はちょっと・・・、物の見えている方々の奮闘に期待するほかなさそうですね。まあ、あそこまでひどくはないとおもいますけれど。

最後はフーバー神話の見直しの部分です。RFCという金融公庫をつくったり、公共事業を拡大したにもかかわらず、オーストリアのクレジットアンシュタルト銀行の破綻と英国ポンドの金本位制離脱で方針転換を余儀なくされた、実際にはルーズベルトはフーバーの枠組みを引き継いだのである、オバマもブッシュの枠組みを引き継ぐことになるだろうと。ふーん、そんな評価になっているのですね。この記事は読みやすいですのでおすすめしておきます。

"Fonds souverains : pourquoi Sarkozy se trompe" by Kavaljit Singh[telos]
サルコジのSWFについてはその詳細が明らかでないためまともなエコノミストの論評があまり見あたらないのですが、これはやや一般論的な批判記事です。10月21日の欧州議会でサルコジは欧州諸国は外国資本から自国の企業を防衛するために政府系ファンドをつくるべきだと提案したが、この提案の狙いは経済的というよりも政治的なものだ。実行可能性の問題だけでなく外国の政府系ファンドに対する欧州のパラノイアは誤った仮定に基づいている。サルコジが表明した不安は新しいものではなく、西洋世界全体で中東やアジアの政府系ファンドの台頭への嘆きがある。政府系ファンドをめぐる論争の大部分は政治的問題に集中している。西洋の政治指導者はこれが純粋な商業的目的ではなく戦略的目的から運営され、政治目的での重要産業のコントロールを怖れている。アメリカ、カナダ、オーストリア、ドイツなどでは最近政府系ファンドの投資を管理し限定するための法律が整備された。サルコジは10月21日の欧州議会での提案の2日後にアヌシーでフランスが重要企業を防衛するための政府系ファンドを立ち上げることを宣言した。

欧州諸国が政府系ファンドを立ち上げるには多くの問題がある。まず欧州はこうしたファンドをつくる客観的条件がない。東南アジアや中東諸国は輸出に支えられた経常黒字からこれをつくったのだが、中国やシンガポールと違って欧州諸国の多くは赤字であり、中東諸国と違って大部分の国は黒字をもたらすような資源をもたない。第二に非欧州諸国のファンドの目的はサルコジが提案したように自国企業防衛ではなく、輸出で獲得した外貨準備や所得の収益性の改善や多様化である。欧州のファンドは政治目的になるだろうし、これは海外の政府系ファンドへの敵意によるものだ。ところでこのパラノイアは誤った仮定に基づいている。現在までに政府系ファンドが金融市場を不安定化したり、戦略的政治目的を追求したような事例は知られていない。長期投資のためのものであり、キャピタルゲインを得るためにポジションの決済を迫られたりもしない。大部分の政府系ファンドは受動的投資である。その資金は主として国債や公債のような手段の下に置かれている。2007年の海外直接投資はこうした国々の国富の1%にも満たないし、直接的な投資の場合でも支配を目指しているわけではない。欧米の銀行への直接投資ですら少数派に過ぎず、敵対的なものでもなく、透明性のある方法でなされ、ホスト国の金融官庁の同意とともになされている。最後に西洋の銀行への投資は深刻な流動性の危機の際になされていることを思い出すべきだ。多額の資金を銀行に投資することで政府系ファンドは投資家として役立ち、銀行の営業を可能にしてくれたのだ。他方で大部分の政府系ファンドは西洋の銀行への投資で損失を出している。信用危機の進展とともに彼等の出資金の価値は下がったのだ。

といった具合にパラノイアと斬って捨てています。国内では右も左も支持者がけっこう多いようですが、エコノミストで支持する人はやはり稀少でしょうね。相手は政府系ファンドばかりではなくいわゆるハゲタカさんも念頭にあるのでしょうし、また中小企業支援の意味もあるのでしょうが、サルコジ氏の提案が経済目的というよりも政治目的というのはその通りでしょう。いわゆる改革を進めながら同時に経済愛国主義を掲げないわけにもいかないという根本的に矛盾した難しい舵取りになっているようです。

おまけ
"Press review: French Socialist vote"[BBC]
日本語メディアでも報じられていましたが、社会党の指導者はオブリ氏に僅差で決まったようです。このBBCの記事は各紙の論調をよく拾っているので便利ですね。ともかく予想し得る最悪のパターンに終わったようです。これでは党をまとめることは至難の業でしょう。ところで私にはなぜ人々がかくもロワイヤル氏に対して感情的になってしまうのか今ひとつ判らないんですよねえ。それはそれでたいしたものだと思いますが、結局、今回はオブリ支持というよりも反ロワイヤルが親ロワイヤルにややまさったということのようです。大統領選はあきらめていないそうですから、当分分裂状態が続きそうですね。

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協同主義の地下水脈

占領と改革 (岩波新書 新赤版 1048 シリーズ日本近現代史 7)Book占領と改革 (岩波新書 新赤版 1048 シリーズ日本近現代史 7)

著者:雨宮 昭一

販売元:岩波書店
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岩波新書のシリーズ日本近現代史は発刊とともに現在の左派ないしリベラル派史学者の動向をつかむべく目を通したのですが、その中で異彩を放っていたのがこの「占領と改革」である点には多くの方が同意されるのではないでしょうか。想定される岩波新書の読者層の困惑した表情を想像してしまいますが、たぶん想定されていない読者であろう私にも、うーむ、これは、とかなり微妙な読後感が残りました。ただ著者とモチーフを共有しない人間の目にも本書が荒削りな印象を与えるもののひとつのパースペクティブを示しているという点で無視できないように思えましたのでメモしておきます。

帯のいささか扇情的な「占領がなくても戦後改革は行われた その原典は総戦力体制にある」が示しているように本書は冒頭でジョン・ダウワー的な「サクセス・ストーリー」としての占領統治史に抗うことを宣言しています。反米色の強い右派論壇人の異議申し立てとは異質な理路を辿る本書が、現在もなお世界各地で強迫反復される「占領改革モデル」の相対化を目指すという動機に発していること、また同時にグローバル化の名の下に世界を席巻する「市場全体主義」に抗して「協同主義」の思想水脈の可能性を提示するという現在的な問題意識からなる戦略的読み直し作業であること、こうした点について著者は隠し立てなく正直に打ち明けています。ここで読者を選んでしまうわけですが、まあ先に進みます。

本書を理解する上でキーになるのが1980年代ぐらいから話題になった「総力戦体制論」の枠組みです。簡単に言うと、戦前と戦後を連続的なものと捉え、現代社会のシステムが戦時体制に端を発しているという見方のことです。これは日本に限った話ではなくて、一般に総力戦体制において政治、経済、社会の合理化、国民の平準化と平等化等等が進行し、こうした動きは戦後の福祉国家体制へと接続したとされます。例えばいわゆる構造改革主義のバイブルのように世間を賑わせた「1940年体制論」という本がありましたが、同じような認識に依拠して戦時に由来するとされるシステムの改革を説く書物でした。本書が違うのは市場主義に対して総力戦体制下に端を発する「協同主義」で対抗せよという真逆のモチーフになっている点です。来るべき社民主義的なものの可能性をここに見るということですね。そしてこうした著者のモチーフがよくあるナラティブを転倒させるような暴力的な読み直し作業を導くことになっています。

著者の用語系では「高度国防派」「社会国民主義派」「自由主義派」「反動派」の4種類に戦前の政治潮流が分類されています。高度国防派は上からの軍需工業化と国民負担の平等化を強行する政策を推進した陸軍統制派や革新官僚のことです。東条英機、岸信介、加賀興宣、和田博雄といった具体名が代表するところの勢力です。社会国民主義派は下からの社会の平等化、所有と経営の分離、労働条件の改善、女性の社会的地位の向上を目指した勢力で近衛内閣周辺の人脈や昭和研究会のメンバー達のことです。本書のキーワードの「協同主義」や亜細亜共同体はこの人脈に由来しますが、風見章、麻生久、有馬頼寧、亀井貫一郎、千石興太郎といった人物がこの派に分類されています。自由主義派は産業合理化、財政整理、軍縮、自由主義経済政策を追求する20年代以来の政財界の主流勢力で、田中義一、浜口雄幸、鳩山一郎、吉田茂などの名が挙げられています。最後の反動派は明治体制への復帰を唱える勢力で観念右翼、地主、陸軍皇道派、海軍艦隊派がここに分類されています。真崎甚三郎、末次信正、三井甲之などの名前が挙げられています。

勿論この分類については異論もあるでしょうけれども、そもそも多様性を切り分ける作業たる分類とは本質的に暴力的なものでありますし、この大ざっぱな分け方にもそれなりの認識利得があるように思えます。左右とか保革といった枠組みに依拠しなくてもいいところ、また右翼と軍部の台頭により・・・といった通俗的なナラティブを無効化させてしまうところがあるからです。 著者によれば、総力戦体制を構築したのが前二者であり、これに抗ったのが後二者であるということになります。これがはっきりするのは戦争末期において自由主義派と反動派が反東条派、反翼賛派を形成して倒閣運動を起こした例の動きです。実際、反動派の領袖たる平沼騏一郎のきわめて両義的な動きは私も以前から気になっていました。本書で引用される近衛文麿の言葉を引用すると、

軍閥と極端なる国家主義者が世界の平和を破り日本を今日の破局に陥れたことに付いては一点の疑いもない、問題は皇室を中心とする封建的勢力と財閥とが演じた役割及び其の功罪である、此の点米国に於いては相当観察の誤りがあるのではないかと思ふ。即ち、米国では彼等は軍国主義者と結託して今日の事態を齎したと見て居るのではないかと思う、然るに事実は其の正反対であって彼等は常に軍閥勢力の向上を抑制する「ブレーキ」の役割を努めたのである。(中略)日本を今日の破局に陥れしものは軍閥勢力と左翼勢力の結合であった、今日の破局は軍閥としては確か大なる失望であるが、左翼勢力としては正に彼等の思う壷なのである。

というように戦争の原因を軍閥勢力(高度国防派)と左翼勢力(社会国民主義派)に求め、封建的勢力(反動派)と財閥(自由主義派)がこれに抗ったのである、米国はこのことを理解していないと近衛公は述べています。今でもアンクルサム氏は理解していないようですね。いまだに政治勢力としてはどうということもない人々に過剰にぴりぴりしているわけですから。

なお社会国民主義派ですが、著者は本書においてその戦争責任を糾弾しているわけではなく総力戦体制下における現代化勢力としてむしろ「肯定的に」捉えています。そしてニューディーラーと協同主義はきわめて近い政治潮流であったにもかかわらず、占領軍はこのことを認識できずに彼等を超国家主義者と見誤ってしまった点を指摘しています。また改革とされるものもすべて高度国防派と社会国家主義者のタッグが用意していたものであり、占領統治がなかったとしても戦後改革はなされたであろうとし、リベラリズム対封建主義という素朴な対立図式で理解しようとした占領軍の不見識を嘲笑しています。彼らが改革したと錯覚した日本は総力戦を通じて既に現代化した社会だったのであり、この致命的な錯誤は現在もなお米国の世界戦略を狂わせていると。なおググってみた限りはどうみても左派である著者はこの章で右派と見まがうほどの「愛国」ぶりを発揮しています。また翼賛体制の「肯定的側面」(そう言う言葉は使っていませんが)を説く著者は戦後左派の認識の縛りを軽々と突破しているようです。

戦後この協同主義がどうなったのかですが、翼賛政治会、大日本政治会、日本進歩党、民主党の流れ、また日本協同党、協同民主党、国民協同党の流れに受け継がれ、国民民主党で両者が合流して改進党、日本民主党、最後には保守合同により自民党の中に協同主義の潮流が流入したプロセスを描いています。また社会党にも協同主義の潮流は流れ込んでおり、イデオロギー的には左から共産主義、社会主義、協同主義、自由主義の中央の位置を占め、左右の両者に関わっていたとされます。そして協同主義的な政権として著者は片山政権と芦田政権を挙げています。さらに55年体制が完成して以降も自民党、社会党の内部で協同主義の思想水脈は命脈が保たれ、戦後日本の中道的なスタンスを可能にした要素と著者はみなしているようです。著者には岸信介と社会保険についての論考もあるようですからこの高度国防派の領袖の一人も協同主義者として評価しているのでしょう。最後に現在世界規模で自由主義派が席巻する中にあって協同主義派の復活に著者は期待を寄せているのは当然のことですね。戦後的な保守と革新の対立の時代は終焉し、自由主義対協同主義の対立の時代に回帰したとしています。

淡々とした筆致で書き進められるのですが、以上のような著者の認識はきわめてラディカルなものに見えます。社民主義的なものの価値を説く人はたくさんいますし、亜細亜主義の可能性を説く人もそれなりにいますが、総力戦体制的なものに自己の政治思想的根拠を求める人はあまり知らないからです。いえ、そういう潮流を知らないでもないのですが、ここまでストレートに語った例はあまり知りません。政治的にはどちらかといえば穏健と賢明を求める一方で、認識におけるラディカルさにはわりと寛容な質ですので居心地の悪さとともに著者にはもっと走っていただいて左派やリベラル派を撹乱して欲しいものだなという感想を抱きました。もっとも現実において高度国防派と社会国民主義派が今後台頭するようなことになったならば、自由主義派としては反動派とタッグを組んで(笑)打倒する側にまわりたいものだとここに書き記しておきます。自由主義派と穏健な社会国民主義派の連携というのは場合によってはあり得ましょうけれどもね。といった具合にこれは歴史の書というよりは政治の書です。歴史好きとしては協同主義に関するもっと緻密で実証的な研究がなされることを期待します。このテーマはいろいろなものが見えてきそうで面白そうですね。

追記
最後のほうは半ば冗談みたいに書きましたが、景気後退が長引くと「協同主義的」な声も大きくなる可能性がありそうです。それがアジア主義的感情と接続して奇妙なイデオロギーにならないことを祈っています。また左派論壇には素朴な反米主義的感情をうまく処理することを願います。戦後的な思考の縛りから解放されることそのものはいいと思うのですが、歴史の探求はともかくこの論調では政治的にはやや危うい印象を受けます。興味深い事実や認識を提示しているとは思いますけれども。

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ドイツ語できる人求む

"Bouclier antimissile américain : Sarkozy fait marche arrière"[NouvelObs]
東欧に設置されるミサイル防衛システムについて先週の木曜と金曜にサルコジ氏がかなりストレートに批判したことは大きく報じられていましたね。ミサイルの設置は不適切であり、欧州の安全に貢献しないと。この発言はもはや宿敵と化した感のあるチェコ大統領の憤激をひき起していましたが(ポーランドからもお前は関係ないだろ発言がありました)、G20の後にはあっさりとトーン・ダウンしています。曰く、ミサイル防衛システムは「他国、とりわけイランからの脅威に対する補完物」となるだろうと。ブログでも書いたようにグルジア紛争勃発時には少し違う感想を持っていましたが、だんだんフランスの戦略が見えてきて基本的に合理的なんだろうと思っていたのですが、ちょっとこの展開は拙かったように見えます。少なくともオバマ政権の対露政策が見えてから動くべきだったのではないでしょうかね。どういう圧力がかかったのかは判りませんが(G20に出席していたオルブライトあたりでしょうか)、結果、ロシアの猜疑心を高める結果になったように思えます。いつものおっちょこちょいなのか、あるいはレヴィット氏あたりの入れ知恵なのか判りませんが、まあ、またリカバリーに動くのでしょう。

"French Socialists torn after congress failure"[FT]
社会党党大会については仏語メディアはずいぶん騒いでいましたが、このFTの記事は要領よくまとまっていますね。分裂の危機かまで言われていましたが、社会党、あいかわらず重症です。結局、パリ市長のドラノエ氏が退場してロワイヤル氏とオブリ氏の対立構図が残される結果になりました。問題はこの二人の対決がなにを意味しているのか意味が判らないところにあると思います。理念的な路線対立というわけでもなく、また誰の利害を代表しているのか(階級、地域、人種)不透明ということもあり、結局、ただのいがみ合いにしか見えないところが問題です。さっそく右翼からは野次が飛んでいますね。さすがに政党政治が機能しないというのはまずいと思うのですが(まあ我々は慣れっこですが)、むー、このままフランス左翼は沈没していくのでしょうか。社会党については書き出すと長くなりそうなのでこのぐらいにしておきます。

"Ce n'est plus Jean-Marie Le Pen qui dirige le Front national"[Rue89]
国民戦線のごたごたですが、幹部級のカール・ラングとジャン・クロード・マルティネがどうやら離脱する可能性があるようです。「もはや国民戦線を指揮しているのはジャン・マリ・ル・ペンではなく娘だ。残念だがそういうことだ」というのはラング氏の弁。ラング氏は国民国家派、マルティネ氏は欧州派ということで最近の欧州極右の分裂傾向を体現しているような二人ですが、両者から見ると娘のマリヌはぬるくて仕方がないようです。発言だけみるならば、別に与党UMPの議員でもおかしくないような人ですからまあそれは判らなくもないです。ということで一世を風靡した(?)国民戦線もすっかり退潮のようです。

"Jean-Pierre Jouyet quitte le gouvernement"[Coulisses de Bruxelles]
ジャン・ピエール・ジュイエ氏が欧州担当閣外大臣を辞職する話については書きましたが、この件についてのカトルメール氏の論評です。英語圏ではジュイエ氏の辞職後はサルコジ氏周辺のユーロ懐疑派勢力が強くなるのではないかという危惧する声が既に見られるようですが、カトルメール氏の意見では、まずクシュネルは駄目(海外プレスに対する荒っぽさと軽蔑ゆえに)、また空位が続くようだとサルコジ氏周辺の助言者連中がやりたい放題する危険がある。また現在サルコジ周辺でドイツ語を話せる人間がいないのに対してベルリンの欧州チームは全員フランス語を話せるという状況でこれがパリに対するルサンチマンになっている。したがって空位期間は短く閣僚級の人物でドイツ語が出来て・・・と条件を挙げています。あまり夢見ることはできないとおっしゃっていますが、実際、そんな人間はいるのでしょうかね。普通に考えるとアンリ・ゲノー氏かジャン・ダヴィッド・レヴィット氏のどちらかが主導しそうな気がしますが、どちらにしても周辺国の猜疑心を高めそう(特に前者)です。ここは重要ポストですから興味深いです。

こんな具合でどうもサルコジ氏のパワーを前にあらゆる政治勢力がかすんでしまっている感があります。また今後の対欧州政策の責任者が誰になるのかというのはフランスだけの話ではないのでかなり重要ですね。当初のパプリック・イメージ(「大西洋主義者」「新自由主義者」云々)は多分につくられたものでしたが、徐々に地が出てきているところなだけに目が離せないです。もっともなにが地なんだかよく判らないのですけれどもね(笑)。筋金入りのボナパルティストということなんでしょうかね。

ではでは。

追記
ゲノー氏あたりの入れ知恵→レヴィット氏あたりの入れ知恵に直しました。実際のところよく判りません。しかし、バランサーってなかなか難しいですね。

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海運指数

Chart1
http://www.investwalker.jp/shisuu/Baltic-Dry.shtmより転載

海運関連の記事を個人的なメモとしてクリップしておくことにします。上のグラフですが、バルチック海運指数と呼ばれる海運関連の指数のグラフです。ロンドン海運取引場に上場している鉄鉱石や石炭や穀物などを運ぶ不定期船の運賃の指標なのですが、世界の海運状況を理解するのに最も適したデータとされているようです。以前FTの記事を紹介しましたが、「世界貿易の縮小」が叫ばれる中にあってこの指数が一部で熱い視線を浴びています。上のグラフに明らかなように金融危機以来劇的な下落を続けているわけですね。93%の急落です。これはそのまま新興市場ブームに乗った海運の衰退を示しています。

私は別に投資家ではなく単に世界をより明晰に見たいものだと願っているだけの人間なのでお呼びでない感じもしますが、ココはとても判りやすい説明です。他の指標なんて忘れてしまえ、こんな環境ではBDIのみに注目せよ!とのことです。DryShip Incのサイトで日々データが更新されています。またこの指数についての詳しい解説はココがいいですね。

それでこの下落の原因についてはいろいろな人が論じているいるのですが、まず金融危機以降の景況の悪化とともに原材料の需要が落ち込んでいるということがあります。例えば、報じられているところではインフラ・プロジェクトが縮小するのにつれて中国の鉄鉱石需要が落ち込んでいるという話があります。他の原材料についても同様であり、これにともなって海運業者全体の稼ぎも減っていると。ただどうやら通常の需要と供給のカーブの問題だけではないとみなされているようです。

それで問題になっているのが信用状です。信用状は貿易の決済を円滑化するために銀行が発効する支払いの確約書のことで、この取引においては会社がローンを返済する能力を銀行が保証することになります。信用状の説明はたくさんありますが、とりあえず英語版のwikipediaをリンクしておきます。それで400年以上の歴史のあるこの決済手段は海運システムの本質的な部分をなすとされているのですが、銀行にとってはリスクを生むことになります。そのためこのたびの信用危機の中にあって信用状の発行がきわめて困難になっていると言われています。そのため輸送船が港に停泊したままの状態になっていると。したがって需給の問題に加えて金融セクターから実体経済への流動性の不足の伝染的な波及効果がここに見て取れるのではないかとされています。

さらには海運業者の収入が減少している一方で、アセットたる輸送船の価値も下落している模様です。フォーブスの記事によれば4ヶ月ほどでドライ・バルク船のアセット価値は50%ほど下落した模様です。ローンがまだ残っているわけですから不動産バブルの崩壊が住宅所有者や不動産価値に与えたのと類似したような打撃を受けていることになります。こうして多額のローンを抱えている状態であり、また新規の造船のためのローンに既存の船が担保として用いられていることもあって—担保価値の下落とともに—造船活動の停滞も予想されているようです。

"Systemic Risk, Contagion and Trade Finance - Back to the Bad Old Days"[London banker]
それでいろいろ解説を探していたのですが、naked capitalism経由で見つけたこのLondon Bankerのこのポストが一番優れた記述になっているように思えました。システミック・リスクという語は今では金融セクター内部での流動性不足の波及効果を指す言葉になっているが、1980年代以前のこの言葉のもともとの意味であった金融セクターから実体経済への波及が生じている。実体経済から遊離した金融諸組織内部の自己言及的システムが決壊して現実の人間を相手にするサプライ・チェーンへと影響が表れ始めていると。その例としてバルチック海運指数を採り上げています。それで金融危機が信用状に与えている打撃については、

The combination of the global interbank lending freeze with the collapse of the speculative, leveraged commodity price bubble have undermined both the confidence of banks in the ability of a far-flung peer bank to pay an obligation when due and confidence in the value of the dry cargo as security for the credit if liquidated on default. The result is that those with goods to export and those with goods to import, no matter how worthy and well capitalised, are left standing quayside without bank finance for trade.

Adding to the difficulties, letters of credit are so short term that they become an easy target for scaling back credit as liquidity tightens around bank operations globally. Longer term “assets” – like mortgage-back securities, CDOs and CDSs – can’t be easily renegotiated, and banks are loathe to default to one another on them because of cross-default provisions. Short term credit like trade finance can be cut with the flick of an executive wrist.

Further adding to the difficulties, many bulk cargoes are financed in dollars. Non-US banks have been progressively starved of dollar credit because US banks hoarded it as the funding crisis intensified. Recent currency swaps between central banks should be seen in this light, noting the allocation of Federal Reserve dollar liquidity to key trading partners Brazil, Mexico, South Korea and Singapore in particular.

と解説されています。以下、金融危機の実体経済への影響についての憂慮が中央銀行マン的な感慨でもって語られています。

これ以上海運指数が急落するようにも思えませんが、どうやら回復するまでには数年はかかりそうです。1930年代以前の自由貿易体制が急激に収縮するにあたって保護主義よりも通貨制度や海上輸送のコストが果たした役割が大きかったという説については以前紹介しましたが、このたびの海運の急激な沈滞の現象は当時とは勿論全然その理路は異なっている—当時は生産性ショック、海運カルテルによる独占的行動、労働運動の影響によるコスト上昇とされています—のですが、やはりきわめて雄弁な現象ですね。

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やはりロワイヤルなんですかね

今日は久しぶりに新鮮な魚介類をいただいて満たされた感じはあるのですが、やや疲労しているせいかどうもあまりやる気が出ないのでフランスの国内ニュースでもクリップしてお茶を濁すことにします。

"Dalaï-lama : Pékin met en garde la France"[Le Figaro]
北京オリンピックを前にしてダライ・ラマ猊下とのパリでの会談が流れた際には、「この根性なしめ!」コールが沸き起こったわけですが(大統領夫人、外相、人権担当大臣のみが会談)、サルコジ氏と猊下との会談が実現する運びのようです。12月6日のポーランドでの会談についての発表が金曜になされると、やはり予想通り北京政府からの圧力がかかった模様です。両国関係にネガティブな影響を与えることになるぞと。サルコジ氏はこの会談の重要性を強調せず、既に20回も猊下と会っているとされるクシュネル外相も「特に問題はない」と述べているそうです。大統領は適切に扱うだろうと。といった具合に適度に人権カードを使ったりもするわけですね。

"Jean-Pierre Jouyet va quitter le gouvernement"[Le Figaro]
先日紹介したジャン・ピエール・ジュイエ欧州問題担当大臣が12月15日に辞職する予定とのことです。EU絡みの司令塔的地位にあった氏が辞職となるのは議長国の席がチェコに代わるからです。10月の時点では議長国交代とともに政府に残らない旨述べていたのですが、今後は金融市場庁長官に就任する予定のようです。金融問題での欧州的協調が叫ばれる中でのこの配置はなかなか考えられたものに見えますね。欧州問題担当大臣としてのキャリアを生かせそうです。またあちこちでその名を見ることになるのでしょう。

"Copé est "très réticent" au vote des non Européens"[NouvelObs]
UMPの下院議員団長ジャン・フランソワ・コペ氏が最近またなにか発言していますね。今度は外国人の地方参政権問題のようです。共同体メンバーとして欧州系には認められているのですが、非欧州系の外国人に地方参政権を認めるべきか否かという問題がありまして、大統領の息子のジャン・サルコジ氏がル・ポワンのインタビューでこれに賛成の立場を示したのに対するリアクションのようです。ちなみに父サルコジ氏も賛成派で知られているのですが、与党UMPは反対の立場を崩していません。理由はコペ氏が述べるように「選挙権は国籍と不可分」だからということですね。この問題で特に現実に動きがあるようには思えませんが、コペ氏としては右派向けのアピールの機会とみなしたのでしょうかね。日本でも話題になっていますが、この問題は外交関係や地政学的配慮とも関連するのでなかなか一般論はしにくいところがありますね。

"Cinq enjeux pour un congrès"[Le Monde]
ランスで始まった社会党党大会のニュースが盛んに報じられていますが、特に社会党第一書記に誰が選ばれるのかが注目されています。セゴレヌ・ロワイヤル、ベルトラン・ドラノエ、マルティヌ・オブリ、ブノワ・アモンといった人々の名前が出ていますが、今のところはロワイヤルが優勢のようです。大統領選で顔が世界的にも知られたロワイヤルですが、社会党の伝統からはだいぶずれているとみなされていることもあって、今回の党大会でも反ロワイヤル派の結集といった話も聞こえてきます。社会党内部の内紛は正直飽きているのですけれども、便利な図がありましたのでリンクしておきます。こんな具合に激しく党派抗争をしておりまして、外から見るとなにやっているんだ感が漂っています。サルコジとともに刷新されたUMPに対して古くさい政党という一般に広がったパーセプションをどう変えていくのかが社会党にとって課題なわけですが、記事によれば、この点でロワイヤルとドラノエが革新的なのに対してオーブリーはより慎重な立場とされています。また同記事によれば、理念的には社会的不平等に対抗すべくEtat preventif(「予防国家」でいいんですかね)という北欧社民主義から借りた概念が採用されているようですね。ともかく極左に食われないように不況をどこまで有効利用できるかの勝負だと思います。平衡の原則から個人的には刷新された社会党の登場を待ち望んでいるのですが、むー、どうなることやらです。内政はともかく外交が出来そうなのはこの中では誰なんでしょうかねえ。

ところでいつの間にかRue89Japonというサイトが出来ていたのですね。私はRue89がわりと好きなので足繁く通っているのですが、し、知らなかったです。社会党がらみの記事をリンクしておきますかね。やや古いですが、コレコレなどですかね。

こんな感じでしょうかね。それでは皆様御機嫌よう。

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これって政治ショーですよね

What the G20 should do on November 15th to fix the financial system[VoxEU]
またVoxEUが代表的なエコノミストの提言を集めたE-bookを公刊しています。今週末のG20でなにがなされるべきか(なされるべきでないか)についての提言です。ここのサイトはこの危機で随分活躍していますね。論者によって意見のばらつきはありますが、1.金融部門では指導者は迅速に行動し、緊急措置を強化し、協調せよ、実体経済では景気刺激策を採用すべし、2. 新興市場での危機に対処すべくIMFその他の既存の機関の機能強化のために行動せよ、3. 長期的な金融、通貨制度改革について思考し始めよ、4. do no harmが4つの柱になっています。すべての提言をちゃんと読んでいないのですが、ざっと眺めた感じだとアイケングリーン教授の提言が目にとまりましたかね。WTOと同じようにWorld Financial Organization(WFO)をつくれ、またIMFの貸付機能を強化すべく新G7を結成せよと。後者ですが、アメリカ、EU、日本、中国、サウジアラビア、南アフリカ、ブラジルから構成されるべきだといいます。タイトルの「新ブレトン・ウッズではなく新ブレトン・ウッズ・プロセスを」が示すように、ローマは一日にしてならずの精神でG20の席上では大急ぎの協定を結ぶことよりもプロセスへのコミットをしろと提言しておりますね。おそらくは合理的な意見なのだろうと思われますが、IMF改革や新G7は政治マターですねえ。日本からは伊藤教授が寄稿しています。

"Bush and Obama Diss the G20 Financial Summit"[naked capitalism]
今度の危機で急激にアクセス数が上がっているnaked capitalismにもG20についての記事がありました。FTの記事へのコメントです。マルチラテラリズム嫌いのブッシュ氏がこのサミット開催に動いたのはサルコジ氏の要請に応えたからなのだが、これは奇妙なジェスチャーだった。オバマ新政権に用意はあるのか。また中国は通貨体制の問題を議題に含めよう脅しをかけている。そんなわけでアメリカは面子を守るためにさっそく人々の期待値を下げている。これはワン・ステップにすぎないと。またアメリカは金融危機の責任を中国にかぶせようとしているが、結局、元安も輸入もアメリカに都合がよかったのだ。本当はグローバル・インバランスが問題なのだが、ポールソンにそんな事が言う資格があるのだろうか(ここはポールソン叩きが好き)。アメリカのメディアと違って中国は我々の政策の一貫性の欠如を喜んで指摘するだろう。

This now looks deeply cynical. Were the Bushies trying to undermine multilateralism on the way out by neutering a potentially useful group? Given the funk the markets are now in, this could have been a good forum for crafting an emergency market-reassuring response. International coordinated moves did buoy the markets for a couple of weeks last month.

というようにエコノミスト達の意見も政治の前ではかき消されてしまうのようでありますね。

"After the fall"[Economist]
このエコノミストの記事はよくまとまっています。上のE-bookでのアイケングリーン教授その他の提案も紹介されていますね。教授は21世紀冒頭における—今我が列島でのみ妙な具合に有名になっていますが—ハリー・ホワイトになれるのでしょうか。記事はブレトン・ウッズのかけ声はあるが、今度のサミットは非常に難しいものになるだろうという内容です。国民国家の利害と全体の安定とを調停する困難についてたびたび触れていますね。そこそこ長い記事で論点を列挙するのもなんなので、最後のところだけ引用しておきます。

There are two ways of thinking about this weekend’s summit in Washington. To be charitable, look on and wonder at the sheer ambition of taking on so many hard, important questions. A severe financial crisis may be the only time when the technicalities wallowing near the bottom of policymakers’ agendas receive the attention they deserve. But there is a more cynical interpretation. Perhaps the summiteers will bask in the headlines and then, out of the glare of the television lights, set about something disappointingly modest.

現状ではどうもそれほど野心的な取り組みができるような雰囲気ではありませんね。IMFのストロス・カーンはなにか斬新な提案でもできますでしょうか。それなりに高い調子でひどく漠然たる構想を出して後は今後のサミットの日程が決定されるだけに終わるのかもしれません。まあ判りませんけれどもね。米中の鍔迫り合いが最大の見所でしょうが、私としては英仏の火花の散らし合いでもウォッチしましょうかねえ。固まってしまっている感のある我が国の指導者達にもいい刺激が与えられんことを。ところでこれって政治ショーですよね。違いますか。

おまけ
"Time for N. Korea to Give Up Nuclear Weapons"[Korea Times]
via Coming Anarchy
日本にとってはオバマ政権の対北朝鮮政策がどうなるのかが関心の集まるところですが、このインタビュー記事で登場しているジョージア大学教授のHan S. Park氏は新政権の重要な外交アドバイザーであるFrank Jannuzi氏との強いパイプを持っているんだそうです。で、このインタビューの内容ですが・・・頭が痛くなりました。外交的にはカーターの再来になるのではなどと以前から囁かれていますが、Park氏の述べるような戦略を採用した場合にはそんな風になってしまうと思うのですがね。こんなんで核放棄するとでも本気で思っているのでしょうか。まあ、政権とのパイプを強調する口だけの人かもしれませんけれどもね。

昭和恐慌 その時、宰相・犬養は /岡山[毎日]
地方版とはいえ毎日新聞にこの記事が掲載されているのはなにかしら感慨深いものがあります。毎日さんリベラルなんでしょう、自社の経済論調が正しいのかどうか本気で検討してみてください。豹変しても別に笑ったりはしませんて。

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閉ざされた言語空間

"The ghost of wartimes past"[Economist]
"Japan's revisionist problem"[Observing Japan]
エコノミストの幕僚長氏の更迭に関する記事です。内容はObserving Japanのいくつかのエントリの内容のほぼ引き写しです。ここしばらくのエコノミストの政治ネタのハリス氏のブログへの依存ぶりは普通の参照の度合いを超えていると思いますが、こんなんでいいんですか。まあ経済ネタ以外ははじめから期待していないですけれども。内容については特に言う事はないです。まあこう書かれるよねという見本です。以前のエントリで書いたように例の「論文」の稚拙過ぎる内容を支持できるというのは知的にさらには道徳的にどうかしている人しかいないでしょう。これは右だの左だのとは無関係です。また政治的次元から言えばこの幕僚長氏の自爆行為はこれまで自衛隊が揶揄されつつも必死に築いてきたソフトイメージを壊してしまうものであり、国益侵害的なものであることも忘れてはならないでしょう。自衛隊関係者=右翼みたいなステレオタイプを強化してしまうことは我が国の自縄自縛的な安全保障の枠組みを動かしていく上で障害にしかなりません。先鋭的な人々にはどうしても理解できないようですが、中道層にまでアピールできないようでは自由民主主義国家においてはなにもできないのです。

それとこの記事やハリス氏のエントリにもある日教組批判ですが、元文科相にせよ大阪府知事にせよ結局のところイデオロギー的観点からの批判のようですから拍手をおくる気にはなれないです。現在の学校現場からはひどくかけ離れた存在になってしまっている点で批判されるべきだと思いますがね。またその教育メソッドも意見の多様性を尊ぶ自由民主主義の原則から言って批判されるべきです。ところで英語圏の論調の一部を見ていると多分日教組というのがどういう組織なのかご存じないのでしょう。平和主義の社会主義者ぐらいの認識なんでしょう。で、それが批判されているから平和が危ないみたいな。一言だけ述べますと、戦後の国民的平和志向と平和主義イデオロギーは「別物」です。前者は評価するが、後者はさほど評価しないというのが私の立場です。平穏な日常を愛するという意味での平和志向はやはり日本のよさなんでしょう。後者についてもう少し言えば、死者の記憶が生々しかった時代にはそこにはある迫力があったわけですが、遅くとも1970年代以降は形骸化してしまったと思います。形骸化とイデオロギー化は同じことです。

なぜ「歴史修正主義」が90年代からごく一部の世論ではありますが、大きな声になっているのかですが、彼らは焦っているのでしょう。冷戦終了以降、国際政治がこれほど大変動しているのに、大きな政治にまったく興味を示さない国民と念仏を唱えるばかりで現実を見ようともしない昔ながらの知識人に。勿論彼らの主観的な世界にそう映っているという話であって日教組だの朝日的論調だのは現在のメインストリームなどではないのですけれども。かつて左翼全盛の頃に日陰者としていじめられたルサンチマンがあるんでしょう。また左派やリベラルが安全保障について現実的なことを語れないのが問題なわけです。ここは英語圏であまり理解されていないようですが、戦後民主主義者とか戦後平和主義者とかいうのはニューディラーとは「全然関係なく」てですね、日露戦以降の平和主義思潮の流れを受けていて、ともかくなぜあの戦争を防げなかったのかという反省意識がその起点にあったわけです。あまりにも理想主義的過ぎておまけに冷戦構造の中でアカい風味がついたりして結局奇妙なものになってしまったわけですが。現実政治とメディア、教育界がねじれた状態だったことも英語圏の方々には知っておいていただきたいです。1980年代ぐらいまで「保守」というとひどくやばいイメージが流布されていたんですね。なにしろ「反動勢力」ですから。もっとも国民は社会党には投票しないんですけれどもね(笑)。そこは非常に賢明なんです。なぜこんな昭和の光景を想起しているかと言うと「歴史修正主義」の主導者達は今でもこの時代の世代的記憶に生きているみたいだからです。ある世代以下は判らないでしょう。私はぎりぎり昭和末期の記憶がありますけれども。元号によって時代が変わるという感覚はやはり日本独特ですから英語圏の人には判り難いかもしれませんが、江藤淳の言う「閉ざされた言語空間」が確かにそこにあったのです(彼みたいに占領軍のせいだみたいなことは「プライド」にかけて言いませんが)。平成の世の中になってもなかなかそこから出られなくてもがいているという状況なんだと思います。明治初期の言語空間が江戸後期の言語空間の内部で悪戦苦闘していたようにです。結局、それを終わらせたのは無用の観念論を排したプラグマティズムでしたというのは我々にとってとてもいい話なのでやはり日本の保守派は明治に根拠イメージを持つべきです。「東京裁判史観」とやらと戦っているうちは戦後の内部です。だいたい東条英機なんてあんなつまらぬ人間よりも維新の志士や明治の元勲のほうが格好いいじゃないですか。明るいですしね。

それからハリス氏のいう社会ダーウィニズム云々ですが、帝国主義の時代ではないというのはその通りでしょうが、中国にせよロシアにせよ「19世紀的」な安全保障観の国であることは自明だと思いますし、理想主義的な戦略家はこの点について幻想を持つべきでないと思います。これは単なるゲームの与件であって別に私は反露派でも反中派でもありません。6カ国協議から北東アジアの地域的安全保障の枠組みというアイディアそのものは理解できなくもないですが、ワシントン体制の失敗みたいなことにならないようにそこでは徹底的にリアリズムを貫く必要があるのではないでしょうか。四カ国条約で日英同盟を失った後の日本帝国の漂流の歴史は教訓に満ちていると思います。右派の論壇人みたいにアメリカのせいだなどとは「プライド」にかけて言いませんが、やはり当時の米国の対日政策にはなにか問題があったように思えます。もし地域的な安全保障の枠組みづくりを推進したいならば、各国の世界観について主観的なアプローチもしないといけないと思います。東アジア諸国は伝統的に欧州諸国のような戦略文化、外交文化ではないですからあちらのイメージでやると必ず間違えます。何人かの民主党系の戦略家の意見を読んでいるとなにか途方もない錯誤をしているのではないかと思わされることがあるのです。日本もそうですし中国のことも基本的な事柄すら判っていないのではないかと。

空さんとハリス氏の間の忘却と修正は違うという議論に関して言いますと、単なる忘却ではないでしょうと意地悪なつっこみを入れておきましょうか。誰もが知っているように英米には問題化を防ぐための巧妙な戦術があります。例えばフランスはこの辺のハンドリングはあまり上手ではないようです。もう少し正直みたいです。私はこの賢明さといいますか狡猾さを、不道徳でありますが、たいしたもんだなと思っているのですね。例えば、メディアのレベルでも、日本がアジアのaggressorだという時には(ええ、勿論堂々たるaggressorだと思います)、against Asian countriesまでであって、colonized by Western Powersをさりげなくオミットするとかです。こうすることで自分達を第三者であるかのように切り離すわけです。いえ、お前らも・・・みたいな下品なことは言いません。ただ忘却はdeliberateなものであることだけ指摘しておきます。これは例が悪かったかもしれませんが、英語圏のアジア報道全般にネタの取捨選択のレベルから記述の仕方のレベルまで問題化を防ぐための言説戦術は見て取れます。BBCだろうがインディペンデントだろうがNYTだろうがです。たいしたものです。

だらだらとなにを書いているのかよく判らなくりましたが、もう眠いので投稿しておきます。

追記
「全然関係ない」というのはさすがに言い過ぎでしたね。そこには互いに利用し合うような関係があったわけですから。ただ基本的には彼らも日本思想史の中にいるんだという点を強調しておきます。また論壇がなんでこんなに歴史の議論ばかりしているのかという点については中韓の歴史カードの乱用や右派内部の親米と自立をめぐるジレンマなどについても言及しないといけなかったですね。ただこういう議論は国民の大多数からはかなり遊離したところの空中戦だと思います。そうした努力を無益だなどとは勿論言いませんが、全体として閉ざされた空間の中での白熱に感じられてしまいます。で状況はさっぱり動いていないと。こういうメタに立ったような物言いは偉そうですが(私もその内部にいることは自覚しています)、やはり現実を動かすことのほうが先に思えます。それからこのエントリはエコノミストの記事ではなくてハリス氏のポストに対するコメントです。空さんのエントリも参照しています。誰に向けてどういう文脈で語っているのかここだけ見ても意味不明な文章で失礼しました。

再追記
>例の「論文」の稚拙過ぎる内容を支持できるというのは知的にさらには道徳的にどうかしている人しかいないでしょう。

あちこちのブログを読んでいるうちにやはり少しキツ過ぎる表現かなと思いました。別に一般の人が嫌みたらしいセミプロ歴史家気取りになる必要もないわけですから。「この論文は知的にさらには審美的にかなり深刻な問題を含んでいる」に修正しておきます。制服組トップクラスの人にはもっと戦史や国際法について重厚な知識を期待したくなるのでこんなもんなのかという拍子抜け感があるのです。種々の情報から察するにたぶんいささか風変わりなところはあっても根は国を愛する「いい方」なんでしょう。この職務にふさわしい方だとは思えませんが。政権にダメージを与えることを想像していなかったんですね。ふう。

"Tamogami's World: Japan's Top Soldier Reignites Conflict Over the Past"[Japan Focus]
「昭和天皇」における史料の扱いの杜撰さと解釈の恣意性によってかつて春先の午後の公園のベンチで激しくわなわなとさせられたビックス氏がここで介入ですか、軍国主義の復活ですかと身構えて読んだら随分ぬるくて拍子抜けしました。幕僚長の認識に軽蔑の入り混じった微笑みを見せつつ現状の日本の平和に安堵し、アメリカ帝国主義に敵愾心を燃やす内容です。また米国の後押しで進む平和憲法の骨抜き化を憂いています。天皇裁判がなかったことを悔やむ一方で、米国による都市無差別爆撃と原爆投下を非難し、パール判事と呼応するかのように西洋列強の帝国主義、植民地主義も糾弾しています。まあ左翼としてある意味一貫している人ではあります。確かに一見したところダブスタはない。一貫していればそれでいいのかという話もありますが。ただもしビックス氏が述べるように1945年に皇室制度を廃止して共和政にした場合には戦後日本は第二のワイマール共和国になったかもしれませんね。敗戦後、先帝陛下が強力な統合象徴機能を果たされたことはやはり日本にとって僥倖だったのでしょう。

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独仏の不和

"A quand l'Union économique?"[Vues d'Europe]
アフリカ政策を担当するアンリ・ゲノーについては前に書きましたが、欧州問題担当閣外大臣であるジャン・ピエール・ジュイエはサルコジ政権の欧州政策全般を担うキーマンです。外相のベルナール・クシュネル同様に社会党出身の左翼ですね。日本で今、左翼と言うと、反国家的なイメージになりますが、この典型的なエリートは「左のゴーリスト」、つまり国家主義者とされています(左翼というものの正統的なあり方なんですけれども)。この政権の欧州政策の中心人物のブログは正直退屈なのですが、この「経済連合はいつ?」というエントリでは2009年の欧州連合の暗い経済見通しについて語っています。曰く、委員会報告によれば、欧州連合は金融危機に対して米国に比べても抵抗できず、景気の回復も2010年まで不確実なままにとどまる。フランス大統領の後押しで委員会は金融危機への対応に比肩し得る経済危機に対応した共通戦略の策定を試みたが、この提案はきわめて大胆さを欠いたもので景気後退の時期に有効な手段となっていない。欧州連合が低成長(ケインズ的不況)の文脈で経済戦略を見直せないリスクは大きい。2009年には米国との比較は再び衝撃的なものになるだろう。景気後退はまたしてもユーログループ内部での経済政策の協調メカニズムの不在と各国の行動の余地の乏しさを明らかにしている。ECBのみが現在真に有効な共同の機関である。委員会の報告は家計の借金に基づいた経済の「奇跡」(アイルランド、スペイン、イギリス)と欧州中核国経済の相対的な抵抗の時代の終焉を画している云々。ということで経済危機に対する欧州協調の弱さへの苛立ちとをまたアメリカに負けるのかという屈辱感を静かな筆致で漂わせるエントリでした。

ここで氏が不十分としている経済危機への共通戦略ですが、サルコジ氏が提案した欧州レベルでの景気刺激政策案がまたしても却下されて国別対応になったという経緯があります。英語の記事だと
"EU Rules Out Joint Stimulus, Backs Coordinated Action"[Bloomberg]
がいいでしょうか。ラガルド財務相も諦めないと述べている通り、共和国大統領は今後も提案魔として動き続けるでしょう。

"Crise financière: mésentente franco-allemande?"[Coulisses du Bruxelles]
リベラシオンのジャン・カトルメール氏のブログの独仏の不和についてのエントリです。今回の危機への対応をめぐる独仏の不和にはたびたび言及していきましたが、まとめ的な内容ですね。後半でユンカーがたいした違いはないのだと強弁していますが、明らかに両国には利害の対立があります。以前紹介したミュンヒャウ氏が述べていた通り、危機が深刻化すればフランスに有利な展開になるでしょうね。私はドイツが貧乏クジを引く光景はあまり見たくはないのですが。以下概要で正確な訳ではありません。

銀行、経済危機に直面して独仏は明らかに波長が合っていない。衝撃の波が欧州連合を襲って以来、ベルリンはパリが展開する行動主義を拒絶している。パリの10月5日のG8の欧州4カ国サミットの際の共同行動計画の拒否の後、ベルリンは金融ツナミの規模に驚いて、一週間後の10月12日のフランスの首都でのユーロ圏の首脳サミットの際に圧倒され、強いられてこれに賛成したに過ぎなかった。その後もベルリンは景気後退に対応するのに国別対応を好んで欧州レベルの景気刺激案を拒否する側にまわっている。10月15日、16日の欧州評議会の際にもベルリンはフランスあるいはオーストリアが提案したような「失業率上昇を防ぐための実体経済のためのパッケージ」の採用をブロックした。この時、「欧州の金融危機に協調対応ができたのだから、欧州の経済危機にも協調対応をすべきではないのか」とニコラ・サルコジは問うている。

フランスが設立を求めているユーロ圏の「経済政府」もドイツは同様に拒否している。10月22日にストラスブールでフランスの国家元首は「ユーログループの真の経済政府、それは首脳レベルが集まるユーログループのことだ」と説明した。「いつから欧州は前例なきこの金融危機に協調した対応をできたのだろうか。いつ我々はユーログループの首脳全体を集結したのだろうか。これは危機における画期だった」と。ベルリンは即座にこうした機関を制度化するのは問題にならないと告げた。(ベルリンにとって)ユーログループというのはルクセンブルクの首相にして財務相のジャン・クロード・ユンカーの権威の下に集まるユーロ圏の財務相達のことなのだ。

パリでは苛立ちが感じられる。その後はあからさまに英国カードを切っている。首相のゴードン・ブラウンは必要な共同的な協調をより受け入れるように見える。要するに現在の危機はその規模によって欧州をリシャッフルしたのだ。

ベルリンが当初より過小評価していたように思える経済情勢の深刻さを前にしてのドイツの不信は理解し難い。ドイツ首相のアンゲラ・メルケルが完全に麻痺し、古い図式にとらわれていたかのように物事は展開している。ベルリンにとってはECBの独立を脅かすものとみなされる「経済政府」を押し付けるためにパリは明らかに状況を利用しようとしている。しかしベルリンは独立とは対話の不在を意味しないことを示して政治権威との完全な協調を受け入れた。同様にベルリンは他国、とりわけフランスのために支出しなければならなくなることを怖れている。ベルリンが苦労して財政の均衡を回復したのに、蝉という評判に忠実にヘキサゴンは赤字と負債を拡大(2010年にはGDPの70%)させた。

しばしばパリとベルリンの間の仲介者を演じるジャン・クロード・ユンカーはユーログループに関してドイツを支持した。「首脳レベルでのユーログループを制度化してもあまり有用でない」。同じく「私はフランス人が全面的な景気刺激案と呼ぶものにもドイツ人が言うような景気プログラムにも賛成ではない」。

ルクセンブルク首相はいわゆる独仏の不一致を「際立たせる」必要がないと評価した。「ドイツ人が好まない言葉である「経済政府」の例のようにライン川の両岸で同じ意味を持たない言葉は使用すべきではない」。彼にとってはドイツとフランスは実際には波長が合っている。「必要な情勢の時に開催されるユーログループのサミットに反対する者はいない」。景気刺激の考えについては「1970年代スタイルのケインズ型の景気刺激策」を避けることが彼によれば重要だ。「これはかつて実行したのだが、赤字と負債を減らすのでなければ無意味だ」。彼によれば「人口の最も影響を受ける層と自動車業界のような特定の経済セクターのために目標の絞った措置が必要だ。そういうわけで本日ドイツ人は今後2年間の新車への税の免除を公表する予定だ。各国が他国と協調して予算の余地を用いる必要がある」。「私はニコラ・サルコジと会談したが、二つの点で完全に合意した」とユンカーは主張する。パリとベルリンの軋轢というのは言葉の問題に過ぎないのだろうか。

おまけ
同じブログですが、欧州議会でユンカーが自己批判した模様です。この危機が欧州を脅かすと当初は考えていなかったと。どう考えても欧州の方が悲惨になるに決まっていたのになぜか自画自賛していたのだから仕方がないです。また銀行の無謀な投資に関しても「アングロサクソン型資本主義」批判は全部自分にはねかえってしまいます。ともかく目前の景気後退への対応に集中すべきではないでしょうかね。

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変われば変わるほど

「狡(こす)いぞ日銀」[産経]
一般紙はまたスルーかと思ったのですが、産経が今回の利下げについて批判的な記事を掲載しています。産経の経済論調ってこんな感じでしたかね。一言、「狡いぞ」と。中央銀行の政策について一般の人が関心がない(さらに日銀がなにをしているのかも知らない)というのはどうかと思いますのでこうやって記事が出ること自体は多分いいことなのでしょう。でも普通に考えてこういうイベントの時にはエコノミスト達が各紙に論評を寄稿するものだと思うのですが。ところで産経サイトの「小新聞化」傾向は世の中的にはどのように受け止められているのでしょうか。世相への敏感さとある種のアナーキーさが持ち味だったのは以前からそうだったような気もするのですがどこまでいくのかやや心配になります。

“パラオの父”死去 日本軍玉砕のペリリュー島で遺骨収集や慰霊に尽力[産経]
産経らしい記事ということなのかもしれませんが、遺骨収集事業に関しては個人的に思うところがあるので感慨深く読みました。こういう方への感謝を忘れるべきではないですし、また個人で執念深くやっている方にも関心が払われるべきです。本当は政府が動くべきなのであって、こういう部分を怠るから祟られるのだと思います。

"Probing the real Japan"[JT]
国際交流基金賞受賞記念のケネス・パイル氏のインタビュー記事。著名な近代日本外交史家で最近話題になったJapan Risingの著者です。積読ですが、明治期の欧化と国粋のせめぎあいを扱った著書もあります。このインタビューでも著者の基本的な考え方が示されています。長期的な視座からいわゆる政治文化の連続性を強調する議論ですから文句のある人もあるでしょうが、そうした視座にはそうした視座なりの認識利得があるのだろうとは思います。それですべて説明されると困りますがね。

まず日本はその生存のために外的環境の変化にきわめて敏感でなければならないという条件を背負っている国であるという点。長期的なスパンでの外部環境への適応の話です。インタビューにはありませんが、著者によれば、ここから日本の驚嘆すべき「機会主義」の伝統が生まれると。外部からの無原則的な文化の摂取の貪欲さもこの外部環境への敏感さと関わっているわけです。島国は多かれ少なかれそういう傾向があるような気がしますが、これはまあその通りでしょうね。

それから日本の保守的伝統とはなにかという点。日本の保守的伝統は全歴史を通じて一貫している。アメリカは占領時代に日本を民主化し、保守主義を根絶やしにしたと考えたが、彼らは生き残り、今でも権力を握っている、今の内閣のメンバーを見てご覧なさいなと。それで日本の保守とはなにかという点ですが、

And Japanese conservatism is very different from conservatism in, say, Europe, where you have a set of deep-seated conservative principles. Japanese conservatism is pragmatic. It goes with the flow.

欧州の保守のようなプリンシプルズを持たないプラグマティストだ、流れのままに行くと。go with the flowというとなんだか禅みたいです。なんだかんだ言っても私はこういうプラグマティズムの伝統については基本的には尊重していますので、ドグマチックな保守には違和感を抱くのかもしれません。非イデオロギー的な実際家といえどもやはり言葉は欲しいわけでそれを供給する言論の質の悪さに困惑させられてしまうようです。ついでに言っておくとパイル氏によれば日本の保守的エリートは国粋主義だろうが亜細亜主義だろうが自由民主主義だろうが西洋的な意味において「信じている」わけではないということになるのですが、そこまでクールなマキャベリスト集団とまで言えるかなという気もしてきますね。「情」の成分の濃さというのもありますね。

最後に外部から見るとなにをしたくてどこに行こうとしているのかさっぱり判らないが、そこには感知し難いdeliberateな戦略というものがある。インタビューでは、最初に日本に来た頃には戦後の世界情勢への非関与は平和主義や戦争のトラウマによって説明されていたが、そこには戦略の存在が感じられた、永井陽之助教授が「吉田ドクトリン」と名付けたものだが、日本が戦略をもっているということを見つけ出すことが一番エキサイティングだったと語っています。また日本で変化が起こる時にしばしばその急激さで外国人を驚かせるが、それは部分的には我々がレーダーの下で進行している事態について研究していないからだと言います。

The things that are changing — they're there, and when the tipping point comes, whether it's through North Korea deciding to fire a missile over Japan again, or Chinese provocation, or something, or a consensus reached through a political realignment at home — Japan can change very rapidly because those things are there.

those things are thereのフレーズを繰り返しているのですが、お前さんには見えないのかと言いたいのかもしれません。そういうわけで著者はJapan Risingでやはり微細な兆候的な事象から今後は日本が外交的にassertiveになると予測しています。インタビューでは軍国主義云々ではないよと釘を刺していますね。前からそう思っていましたが、このインタビューを読んでいて日本研究というのは暗号解読に近いものがあるんだなとあらためて感じました。また日本研究者の第一世代と第二世代の差について述べているところも興味深かったです。ライシャワー世代に比べるとsympatheticでないということはないのだが、アカデミックなのでもう少しdispassionateだと。個人的にはこのぐらいの距離感がいいようです。それと小沢一郎の高評価がこの人の特徴でしょうね。そこからアーミテージ・ナイ・リポートを批判したわけです。日本がイギリスみたいになるはずがないと。ところでJapan Risingの邦訳がなくて韓国語訳があるという状況はどうなのよと思います。あちらでは日本の野望云々の文脈で受け取られているようですね。とほほ。

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反論では弱過ぎる

"Rudd angered by Gallipoli remarks"[BBC]
日本にとって第一次世界大戦はやはりどこか対岸の火事のように—それが誤りの始めだったわけですが—記憶されている歴史事象でありますが、ガリポリ上陸作戦は後のトルコ共和国初代大統領ケマル・アタチュルクが当時零落の一途をたどっていたオスマン・トルコ側の「反乱将軍」として獅子奮迅の激闘をしたことで有名な戦いです。オーストラリア史には最近まで興味がなかったので恥ずかしながらこの戦いで敗北した側へのインパクトについて知ったのはごく最近のことでした。そういうわけで個人的にとてもタイムリーな記事でした。オーストラリアとニュージーランドのネーション意識形成にとって重要な意味を持つとされるこの戦いの評価をめぐって元首相と現首相の間でちょっとした諍いが生じているようです。記事によると、労働党の元首相のポール・キーティング氏の発言は以下。

Without seeking to simplify the then bonds of empire and the implicit sense of obligation, or to diminish the bravery of our own men, we still go on as though the nation was born again or even was redeemed there - an utter and complete nonsense.

これに対してラッド首相がガリポリはオースラリアのナショナル・アイデンティティーの一部であり、この戦いの犠牲となった兵達はプライドの源泉であり続けると批判しているとのことです。「ナショナリスト」ラッドの一面が出ていますね。記事にもあるように、この戦いで勇敢なアンザス軍兵士が無能な英軍に裏切られたという「伝説」(ママ)が旧宗主国からの独立意識の高揚に大きな役割を果たしたとされているようですね。オーストラリアのナショナル・アンデンティティー・ポリティックスもなかなかに複雑なようでそれが時に不透明に見える動きとなって現れることもあるようです。最近少し勉強し始めたばかりの素人ですのでここではあまり踏み込まないことにします。なお今日はオージー・ビーフをいただきました。牧畜業のポールさん(かどうか知りませんが)には感謝を捧げます。

"U.S. candidates vow to 're-engage' Japan"[Japan Times]
アメリカの両大統領候補の対日政策についてのJTの記事。小泉ブッシュの蜜月時代—首脳同士の個人的関係に依存する—から徐々に齟齬が大きくなっている中で日米関係をどう再定義していくのかは勿論我が国にとって死活的な問題なわけですが、関係者を除くとどうもそういう問題意識が広く共有されているようにあまり感じられないのが困ったものです。それほど濃い内容ではありませんが、ジャパン・ハンズや研究者の声が拾われているので便利な記事かもしれません。個人的にはマケイン氏よりもオバマ氏のほうが日本の国益にとってはいいのではないかと思い始めていますが、これには賛成しない方も多そうな気がします。ただ嬉しいことを言ってくれる相手が必ずしもいいパートナーとは限らないわけで、一部にある民主党アレルギーにはあまり根拠がないように思います。それもある種の対米依存心の現れだといったら叱られるのでしょうか。記事の最後にあるように問題は日本側で政権交代があった場合にどうなるかですね。やはりやらかしてしまうのかもしれません。それが致命的なものにならないことを願うばかりですが、いくらなんでもそこまで愚かではないだろうと信じたいものです。

白川日銀総裁記者会見の一問一答[朝日]

 ──与謝野馨経済財政担当相が利下げに肯定的な発言をして以降、日銀の考えが変わった印象があるが。総裁は政治的な圧力を感じたか。

 「結論から言うと、政治的なプレッシャーを感じたことは全くない。どの委員もそうだが、国会の同意を得て内閣が任命して政策委員メンバーが選ばれるが、いったんこの仕事に就くと、何を一番大事にするかと言うと、自分に託されている仕事をしっかり果たしていくという責任だ。責任は、その瞬間で評価されるのではなく、ある程度の時間を経て経済や金融の姿によって評価される。それだけに、何年何月にこういうことがあったというのは、ほとんどの人は覚えていない。自分が、ここでどういう決断をするかが、将来の金融・経済にどのような影響を与えるか、その一点で判断をしている。例えば、これだけ経済情勢が厳しい中で、政策金利を引き下げてもどれほどの効果があるのか、ということもあると思う。確かに、今、経済の大きな調整を考えると、金利だけで変化するわけではない。一方で、日本銀行は金利政策を委ねられている。自分達自身がアクションに責任を持っている立場であり、そうした立場で何をやるべきかということをギリギリ考えているということだと思う。ほかの委員の頭のなか、感情の動きをわたしが云々する話ではないが、自分の経験からして政治的なプレッシャーがあって、この際、金利を下げようと判断した人は1人もいないと断言できる」

へえ、そうなんですか(棒読み)。しかし金利の上げ下げのたびにこうも方々からノイズが発生するのは本当に困ったものです。日経も・・・。日銀がまるで高い見識をもって政策決定しているがごとく見せることが大切だと思うのですけれどもね。

"So much for the Japanese system of lifetime employment"[Coming Anarchy]
またですね。これほどの責任ある公的地位にある人間がなぜこうも不用意な個人的見解を公表したがるのか理解を絶しています。繰り返しますが、歴史は歴史家に任せろです。この「論文」は読んでいませんが、報じられている限りでは「正論」あたりのサークルの論議とさほど変わらないように見えます。仲間内の談義の臭いがします。この方はまったく存じ上げておりませんが、幕僚長がこの程度の見識では困ります。個々の論点についてコメントしませんが、この手の論調の問題を指摘するならば、それが「反論」でしかない点です。「東京裁判史観」とやらへの反論形式をとっている限りは永遠に脆弱な立場にとどまり続けるでしょう。たとえそこに実証的になにほどかの貢献があったとしてもです。戦後の支配的言説に不満があったとして事実を淡々と積み上げて単純なナラティブに複雑な現実を対置するか、より洗練された複数のパースペクティブを提示していくかのどちらか以外にはなんら生産性はないのであって粗雑な「反論」の形をとった時点で敗北してしまいます。不条理に思えてもそれが現実であることを認識してください。ともかくこういう自爆は百害あって一利無しです。拍手をおくっているむきには暗澹たるものしか感じません。あなた方はすっきりすればそれでいいのですか。政権の動きは迅速で評価に値すると思います。やはり麻生氏は外交に関してはなかなか手堅いようですね。

ではでは〜。

追記
後で読んで舌足らずに感じられましたので追記します。「歴史は歴史家に・・・」というのは単に放っておけという意味ではなくて歴史問題については国際的に通用する学者を養成することが大切だという積極的な意味合いもあります。また不用意な発言に対して批判的なのであって、一切語るべきではないという意見でもありません。ただ余程戦略的に振る舞わないとやられます。メディアも日本語圏以上に英語圏のメディアを意識したほうがいいと思います。もはや主戦場はそちらになってしまっているようですから。次に幕僚長の主張ですが、論点のすべてを全面否定するつもりはないですが、単純な誤謬に溢れていますし、自衛隊のトップクラスの主張としては幼稚過ぎると思います。こんなチープな陰謀論つかまされるなんて。最後に「正論的」論調(ひとくくりにはしませんが)については「東京裁判史観」へのアンチをやっている限り、そこから抜け出せなくなると思うのですね。東京裁判そのものはいくつかの優れた仕事によって既に「歴史化」されているわけですからもはや議論の参照点にしないほうが賢明だろうと思います。またここにこだわりだすと反米主義しか出てこないような気がするのですが。また一部の論者はその悪魔化の修辞の乱用により視点が極度に狭隘化してしまっていて対立する当の相手のイメージもそうとうに奇妙なものになっていると思います。もはやマルクス主義者全盛の時代ではないのです。アンチが強くなり過ぎると対立する当の相手をちょうど裏返したようにしてドグマ化、イデオロギー化してしまうなどとよく言われますが、その見本のような話に思えます。こういう人々に関しては、率直に申し上げまして、左翼イデオローグもろともに没落することを祈っています。

再追記
雪斎氏の軍人勅諭による批判にシビれてしまいました。まあここで226を想起するのはいささか行き過ぎかもしれないとは思いますが。今回の事件には人をして脱力させるなにかが漂っています。なおこの件についてはいろいろ読んでみていくつかの軍事ブログが一番説得的でした。

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