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シヴィックとエスニックの二項対立について

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書) Book 民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)

著者:塩川 伸明
販売元:岩波書店
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本書は我が国を代表するソ連・ロシア研究者の一人によるエスニズム・ナショナリズム論です。90年代以降はこの問題を扱う研究の洪水状態になっておりますが、正直に言いまして類似図式の反復に個人的にはもう飽きていました。塩川氏の著作ならそれほどはずれはないだろうということで手にとりましたが、紙幅の制約にもかかわらず論点も整理され、事例もきわめて豊富でよく書かれていると思いますので同じような思いを抱いている方におすすめいたします。いたるところに散見される慎重な留保があるいはまどろっこしく感じられるかもしれませんが、そこが大切な部分だと思いますのでそうした部分にこそ注目して読まれるといいかと存じます。ナショナリズムというこの変幻自在な現象はお手軽な図式ではとうてい把握し切れない訳ですから。

第1章で理論的な問題を扱っていますが、氏はエスニシティー、民族、国民の三つの概念でこの現象にアプローチすることを提唱しています。言語なり宗教なり文化なりを共有している意識が広まっている集団をエスニシティーと呼び、この集団が国ないし政治的単位を持つべきだという意識が広まった時にこれを民族と呼び、国家樹立後の正統な構成員の総体を国民と呼ぶという風にゆるやかに定義されていますが、ここで可変性と流動性がきわめて大きいエスニシティーと民族の具体的な確定の困難と確定作業じたいがきわめて政治的な行為である点について注意を促しています。また三者を峻別すべきだとする規範的主張に理解を示しつつも三概念が入り組んだ関係をなしている現実の複雑性を対置しています。それから原初主義対近代主義、本質主義対構築主義、表出主義対道具主義という図式に対しても近代主義=構築主義=道具主義という暗に想定される等式が必ずしも成立しないことに注意を喚起しています。といった具合にこの章では理論家にありがちな抽象的原理からの現実の裁断の傾向に対して事実性の重視からニュアンスを含んだ分析概念の構成が目指されています。私みたいな人間には非常に好ましい態度でありますが、ここは意見が分かれるところなのでしょう。

第2章以降は具体的な歴史編になります。「国民国家の登場」と題される2章では欧州における国民国家の誕生、帝国(ロシア帝国、オスマン帝国、ハプスブルク帝国)の再編、新大陸における新しいネーションの誕生、東アジア(中国、日本、朝鮮)への衝撃が豊富な事例とともに記述されます。私個人はこの章では帝国の再編の節と新大陸の節、とりわけ南米の部分に興味を引かれました。ロシアのいわゆる「公定ナショナリズム」の中途半端性と南米におけるエスニシティーと国民国家の無関連性の部分です。アンダーソンのフィールドが東南アジアと南米である事実が氏の古典的な国民国家論におけるエスニシティーの軽視をもたらしているという指摘は多分正しいのでしょうし、逆に塩川氏がエスニシティーを重視せざるを得ないのはソ連・ロシア研究者である事実とも切り離せないのでしょう。

第3章では世界戦争の時代における自決論に基づく国際秩序の再編が記述されます。まずウィルソンの提唱したself-determinationの語が想定していたのはネーション、つまり米語における「国民」の自決である訳ですが、第一次世界大戦後における国際秩序の再編の焦点たるドイツ・中東欧・ロシア地域においては「民族自決」としてこの言葉がシンボル化されて激越な政治闘争の根拠として受け取られた経緯について言及され、第二次世界大戦後の植民地の独立を受けた国際秩序再編(インドネシア、インド、トルコ、アラブ諸国、イスラエル)や自立型社会主義の実験(ユーゴ、中国、ヴェトナム)が論じられています。この章は私の知識の空白部分が多いので非常に興味深かったのですが、なかでも「アファーマティブ・アクション帝国」ソ連の節がやはり力がこもっています。この論点については氏が以前から語られていたことですが、ソ連における積極的な「民族形成」政策と中心民族たるロシア人の被害者意識は昨今のこの地域のニュースを見る際の前提的知識として共有されるべきだろうと思います。

第4章は冷戦以降の現代世界の章で「帝国」アメリカ、欧州の東方拡大とエスニシティーの問題、新たなる民族自決の動き(ユーゴスラヴィア、旧ソ連およびその周辺地域など)、各地で起こっている歴史認識論争などが論じられています。まずグローバル化とボーダーレス化の進行とともに先進国においてエスニシティーをめぐる問題が激化していること、また現在の民族問題が第一次、第二次世界大戦の後の国際秩序の再編と同様に冷戦という「戦争」の戦後処理の性格を持つことが大づかみに開示されます。さらに冷戦終焉にともなって誕生した多くの国家に共通する性格として連邦制を採用していた多民族国家の旧共和国の枠組みに依拠している点が指摘されますが、ドイツ統一のように複数国家にまたがる「同一民族」が統一する場合もあれば、またモルドヴァとルーマニアのように「同一民族」にかかわらず統一がなされない場合もあるといった具合に一様ではないとされます。そして全体としては「民族自決」のスローガンがかつてのような輝きを失い、条件次第で認められるやっかいな主張のような受け止め方が広まっているとされます。あらゆる民族に自決を与える訳にはいかないという現実的な理由による訳ですが、あの民族に自決を認めてこの民族に認めない理由はなにか、その恣意性が不満を呼ぶことは不可避であると(コソヴォ独立の波及効果の懸念)。歴史問題ではトルコのアルメニア人虐殺、ナチスのホロコースト、第二次世界大戦中のセルビア人とクロアチア人の相互虐殺の記憶が政治的に利用される例やドイツとチェコの間の「追放」をめぐる問題、中東欧におけるユダヤ人虐殺への加担の歴史、ウクライナとロシア、エストニアとロシアの歴史認識論争などが挙げられていますが、犠牲者の人数をめぐる論争の泥沼化といった日本をめぐる歴史論争とも似たような構造があることが指摘され、アルメニア系トルコ人作家フラント・ディンクらの発言に歴史問題の乗り越えの可能性を見ています。加害と被害の重層性や相互入れ換え性についての冷静な指摘の部分は過熱しがちなこの問題について考えるのに頭を冷やす効果があるだろうと思います。

終章ではナショナリズムをどう評価すべきかという問題に踏み込んでいます。19世紀を通じて、それから第一次世界大戦後の民族自決の時代、また第二次世界大戦後の植民地独立の時代に至るまで国民国家形成やナショナリズムには基本的には肯定的な評価がともなっていたが、1990年代にユーゴスラヴィア内戦をはじめとした暴力的衝突が世界中で頻発したこと、また先進国においては移民排斥を訴える極右ナショナリズムが高まったことなどから肯定的評価が後退し、その克服が叫ばれるようになる傾向がある、とはいえその評価は論争的なままであると全体的な論調を要約し、「よいナショナリズム」と「悪いナショナリズム」の区別論を検討していきます。素朴なものでは「抑圧民族」のナショナリズムは悪いが「被抑圧民族」のナショナリズムはよいとする人々の感情に訴える議論があるが、現実には強者・弱者関係には逆転現象や重層関係があること、また国際秩序が流動化した際に誰が強者で誰が弱者か、誰が進歩的で誰が反動的なのかの裁定は中立的ではありえず、それ自体が極度に政治的行為となるとしています。またナショナリズムをリベラルなものと非リベラルなものに区別して前者をよいもの、後者は悪しきものとみなす議論(ミラー、キムリッカなど)、あるいは自由や公共性を目指すパトリオティズムをよきナショナリズムとみなす議論(ヴィローリ、ハバーマス)に対しては現実には両者は往々にして相互移行しがちであり、境界も流動的であると評しています。

さらにこうした区別論の中でも特に影響力のある図式としてシヴィック・ナショナリズムvsエスニック・ナショナリズムの二項対立が検討されています。ネーションの基礎にエスニックな共通性があるという考えが優位な国では合理主義や自由主義が排斥され、権威主義に傾き、自民族中心主義や排外主義が優位になりやすいのに対して、ネーションの基礎にエスニックな共通性を求めない国ではエスニックな多様性や個人の自由が尊重され、自由主義や民主主義と親和性が高いという例の噺です。こうした議論に対して著者は二点から疑義を呈しています。まず多くの論者において「西」ではシヴィック・ナショナリズムが優勢であり、エスニックな差異に対して寛容であるのに対して「東」ではエスニック・ナショナリズムが優位であり、偏狭で排他的であるというイメージが想定されているが、ここにはオリエンタリズム的発想が潜んでいる。そもそも「東」とされる諸国には均一性はなく、歴史的にも「東」の諸国のナショナリズムは「西」の諸国への対抗のための模倣であり、「西」と無縁なものではないと。

もうひとつの問題点としてこの二項対立が普遍主義vs特殊主義と結び付けられている点を指摘しています。実際には大半のナショナリズムは普遍主義の論理に立ちながら、特殊主義的な色彩を帯びるという二面性を持っているのであり、両者を分離することはできない。「我が国こそが普遍的な価値の担い手だ」という意識は「その価値の卓越した、先駆的担い手が自分達だ」というナショナリズムを正当化することになるが、これは「自由、平等、友愛」を掲げるフランス、「アメリカ的自由」を掲げるアメリカ合衆国、「社会主義インターナショナリズム」を掲げたソ連のナショナリズムに典型的に見られる。またドイツ、ロシア、日本もまた特殊性のみに依拠した訳ではなく普遍主義的論理を振りかざしていた。そもそも他者に対する自己の卓越性を主張する以上は物差しとしての普遍と自己を上位におく特殊との並存は論理必然的である。以上のようにこの二項対立はよいナショナリズムに分類される「西」の国々の危険な要素を覆い隠し、悪いナショナリズムに分類される「東」の国々を宿命的に劣った存在として決め付ける危険があるとして批判されています。

要するに、ナショナリズムは善とも悪ともなり得るが、予めなにが善なるナショナリズムでなにが悪なるナショナリズムかは原理的に決定できないし、また外部の観察者は誰が寛容な善玉で誰が不寛容な悪玉かを決定すべきではないし、こうした加担的態度は事態を悪化させるだけだ(アルメニア・アゼルバイジャン紛争でのデリダ、ハバーマス、ローティーらの思想的介入が糾弾されています)という禁欲的な要請がなされます。また紛争の原因論についても図式的な一般論は無意味であるとしていますが、エスニシティー、民族を要因とする紛争が軍事的衝突にいたる事例においては政治指導者達の役割が大きいとし、彼らが軍事的選択が「合理的選択」に見えるような条件とは既存の国家秩序が解体するような特別の状況が現出するケースに限定されるといい、小規模紛争の段階で悪循環的拡大を防ぐための初期対応の重要性が説かれています。「魔法使いの弟子」にならないようにと。

以上、アフリカを除くほぼ世界全体を対象としてナショナリズム現象を概観する本書は限られた紙幅の中でこの問題の複雑性を提示することに成功しているように思われました。善悪の価値評価を留保し、「寛容」や「相互理解」といった美名それ自体が政治的に機能してしまう現実まで記述する著者の禁欲的姿勢にはなにかしら畏敬の念に近いものすら感じました。ここから元気の出る当為を引き出すのはなかなか難しい訳ですけれども、よくある反ナショナリズム論やその逆の論にはないこうした歯切れの悪さを積極的に評価したいと思います。またここで何度か書きましたが、シヴィックとエスニックの二分法のはらむ問題には私自身意識的になっていることもあって最終章では考えさせられました。西洋志向の強い研究者からはなかなか出てこない論点ですが、ユーゴの時もグルジアの時もあるいは北東アジアに関しても西側メディアの論調のイデオロギー性にはいささかうんざりさせられていましたので。最後に要約困難なので歴史編は軽い紹介にとどめましたが、ここの部分が一番面白いことは言うまでもありません。民族問題やナショナリズムについては一般論はあんまり役に立たない訳で徹底的に個別的アプローチをしつつ同時に比較の視点を失わないようにするという本当に言うは易く行なうは難しの作業をここまで積み上げられた氏の仕事に対して敬意を表したいと思います。

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コメント

  本ブログで紹介されていたので、さらっと読んでみました。なるほど、思考を刺激する本であります。

ただ、「自由」などを普遍的理念を国の基本原理にすることとナショナリズムの問題に関しては著者に多少混乱があるのではないか、という印象があります。
 自由や民主主義など普遍的な理念を掲げながらも現実にはそれが、強いナショナリズムの影響を受けている、という具合に整理されるべきものではないか、と思います。つまり、普遍主義をうたいながら、普遍主義対ナショナリズムではなく、実態はナショナリズム対ナショナリズムになっているというほうがすっきりするのではないか、というのが私見です。

 また、国際紛争に対する評価、介入に関して、確かに安易な評価は一方の側への偏った応援にしかならないのも確かですが、懐手してずっと禁欲を保つべきか、というとこれも方手落ちで、非常に微妙で困難な問題を提示しているように思います。

 全般として、本書が、複雑な状況を単純化しないで提示しているのはさすがですね。


投稿: | 2009年1月 4日 (日) 00時04分

>自由や民主主義など普遍的な理念を掲げながらも現実にはそれが、強いナショナリズムの影響を受けている

たとえ普遍的な理念を掲げようとも現実には主体となっているのが特殊な歴史的来歴を抱えた個別国家に過ぎない以上はナショナリズムとの結合は不可避であるという論理ですね。私自身はやはり政治社会の成熟度によってナショナリズムの質に決定的に差異がある点は見逃せないと思いますが、西側先進国に自戒を求めるという意味ではそれなりに意味がある指摘に思えました。実際他国のナショナリズムには極度に敏感なくせに自国のあるいは自己のナショナリズムは無視という態度をとる人はけっこういますよね(笑)。

>懐手してずっと禁欲を保つべきか、というとこれも方手落ちで

この点については私も同じ感想を持ちました。旧ソ連圏やバルカン半島への介入に批判的なスタンスなのは分かりますが、一般論としての介入の是非論になると違和感を抱かされますね。ただこれまでの氏の発言からこれは知識人論なのかなとも思いました。禁欲的と評したのは自分はあくまでも分析者にとどまるのだという意志に対してです。それは思想的死者を累々と生み出したソ連研究というフィールドとそこで養われた著者の実存と切り離せないように見えますね。

投稿: mozu | 2009年1月 4日 (日) 15時35分

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