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2009年1月

西から東へ

愛用のマックは手術を受けている最中で、ありえないほど古臭いパソコンを使っているのですが、この驚異的な遅さにも徐々に慣れているのが恐ろしい話です。いいじゃん、スローなネットライフでもという気分になっています。読み込むのに十秒ぐらいかかり、テキスト以外ほとんど見られないのですが(笑。以下、記事のクリップをしておきます。

"And worse to come"[Economist]

エコノミストの欧州シリーズが非常に簡潔ですが、当地の雰囲気を伝えています。これはスペインの光景。サラゴサのストの掛け声から始まるこの記事ですが、壮大なバブル崩壊を経験した同国の失業率は政府予測では13%から16%、あるビジネススクールの予測では20%に達する模様です。記事ではエキスポの建設ブームに沸いたアラゴンの苦境が言及されていますが、特に移民と若年層の雇用の問題が深刻化しているとのこと。母国への帰国を促す政策については以前から報じられていましたが、これは機能していないとのことです。ブームの時期に大量に入った移民の子弟が学校からもドロップアウトして失業者化しているようです。社会問題化するでしょう。

"A time of troubles and protest"[Economist]

こちらはフランスの光景。パリ西部のプジョー工場のあるポワシーを覆う不安と沈鬱に同国の空気を代表させています。日本同様に短期雇用労働者の解雇が進んでいるのですが、同国の失業率は2010年には10%の大台に達することが予測されているようです。これが今後社会不安を高めることになるとして学生組合と労働組合の動きに注意を向けています。外国人向けにアナルコ・サンディカリスムの伝統を解説し、特にSUDの動向を報じています。ええ、確実にこの機を逃さないでしょう。また国際ニュースで騒がれるのではないでしょうか。で一般市民はわりと平気な顔をしていると。

"To the barricades"[Economist]

こちらは東欧全体を扱っていますが、中心になっているのはラトヴィアです。IMFの緊急融資を受けた同国ですが、リガでは暴動が発生した模様です。借金漬けの状態で金融がメルトダウンということで緊縮財政と増税しか手がないようです。IMFは通貨ラットの切り下げとユーロの採用を勧めているようですが、政治的に不可能な状況のようです。リトアニアも同様の苦境に置かれているようですが、エストニアはまだましとのこと。緊縮財政をとるか財政拡大をとるかの選択肢が残っているだけポーランドはましだが、借金漬けのハンガリーには選択肢はなし、と各国で状況に差異はありますが、東欧の多くの債務国で財政政策をとることはできず、通貨ペッグ制も不安定性と厳しい条件への適応負担をもたらしていると記事はまとめています。アジア通貨危機以前の東アジア諸国にも似たこの地域の発展モデルはこの危機の試練を乗り越えられるのでしょうかね。

欧州経済についてVoxeuの記事が関心を引いたので紹介しておきます。

"The looming divide within Europe" by Zsolt Darvas and Jean Pisani-Ferry[Voxeu]

こちらは欧州内部の非対称性を扱った記事です。スムーズな経済統合をすると思われた欧州連合新加盟国の脆弱性が露呈している。ユーロのシェルター効果の利益を享受する国とそうでない国とに欧州は分裂している。ユーロ圏の危機管理は中東欧地域では金融機関とユーロ圏諸国の利害に偏向し、地域の状況を悪化させていると非難されている。逆にユーロ圏のオブザーバーは非ユーロ圏諸国の政策対応を不適切であるとみなしている。それは確かだが、ユーロ圏で採用された政策がこの非対称性に貢献しているのもまた事実だ。西側が採用した非協調的な預金保護と非対称的な流動性、クレジット管理がチャンネルとなっている。実際、新加盟国の地元の銀行のユーロへのアクセスは制限されている。最後にこのたびの危機は欧州連合レベルの監視システムの不在を明らかにしてしまった。一方のみを非難すべきではないのだが、政治的対立には理由がある。ユーロ圏への加盟がこうした問題の解決策であると考える者もいるし、欧州連合はキャッチアップ経済の国々に不適切な基準を設けていると非難されている。ユーロ圏加盟交渉の迅速化には理由がある。しかしチェコとスロヴァキア経済が示すように、ユーロ圏メンバーであることは安定の鍵とは必ずしも言えないし、新興経済に低すぎる実質金利を課すことは避けるべきだという意見は有効だ。以下、具体的な政策提言をしていきますが、ここは省略します。双方の非難には理由があるが、ユーロ圏は自分達の政策が非ユーロ圏に影響を与えていることを認めて、オープンに議論し、共通の結論が導かれるようにしないといけない。さもないと欧州内部の新しい分断が生み出されることになるという結論ですね。

"Was the euro a mistake?" by Barry Eichengreen[Voxeu]

軍靴の響きではないですが、リラ復活!リラ復活!の響きが私の耳には聞こえているのですけれども、アイケングリーン教授のこの記事はこの問題について扱っています。現実問題としてユーロ圏の加盟は後戻り不可能であり、そこからの離脱は深刻な金融危機をもたらすために不可能な選択だ。しかしそもそもユーロは間違いだったのか。批判派は非対称ショックを根拠にしている。非対称的ショックが債務国を襲った時には政府は財政政策を展開する能力がない。国家間での再分配メカニズムがない以上は唯一の選択はデフレと失業のみだと。我々が目撃しているものの一部は明らかに非対称的な金融ショックだ。債務を抱えるギリシアや、住宅バブルの崩壊したアイルランドやスペインの苦境がそうだ。しかし時間が経つにつれてネガティブな経済ショックが全ユーロ圏に及んでいることも明らかになりつつある。程度は違うにしても全メンバーが同様の経済的苦境に立たされている。このショックは対称的なのだ。つまり共通の金融政策が適当であることを意味しているのだ。ECBに対してゼロ金利、量的緩和を求める圧力がかかっていくだろう。今や不況とデフレはユーロ圏全体に及んでいるので財政刺激についても合意できるはずだ。ドイツのような予算に余裕のある国がこれを行えば、債務国の手助けにもなるだろう。無論これは政策担当者が正しく行動することが前提になっている。ECBはインフレへの固執を捨てて、ゼロ金利、量的緩和策を採用しなければならなくなり、ドイツは赤字フォビアを捨て、財政刺激策を採用しなければならないだろう。ロスする時間はない。2008年は非対称的な金融ショックの年だったが、2009年は対称的経済ショックの年だ。政策担当者は行動しなければならない、とのことです。政策担当者が合理的に行動できるかどうかですが、うーむ、という感じがしますね。離脱組の出現は確かに現実問題としては可能性は低いのでしょうが、内輪もめしている間にずるずるという図が浮かんでしまいます。うるさい政治家が揃っていますからねえ。また政策的には教授の提言の通りなのですしょうが、いくつかの国を除くとそれで救済できるほど甘い状況ではないように見えてしまいますね。いえ、勿論分かった上でよりましな未来のための提言をなされているのでしょうけれども。教授の大恐慌の説明に従えば金本位制からの離脱とユーロとの固定相場制からの離脱が重なってしまうのですが・・・どうも昔からユーロに懐疑的なこともあって私の見方にはバイアスがあるかもしれませんね。

ではでは。

おまけ

"Japan's outcasts still wait for acceptance"[NYT]

"Discrimination claims die hard in Japan"[Japan Times]

"Breaking the silence on Burakumin"[Japan Times]

なぜだかよく判りませんが、先週ぐらいから英語圏が部落問題で騒ぎ始めていますね。なぜ今なんでしょう。アイヌの次ということなんですかね。オバマ大統領就任記念の大西記者のNYTの記事は涙を誘うほど貧弱な出来でしたが、今度はジャパン・タイムズの番みたいです。ちなみに大西氏の記事についてはGlobalTalk21の奥村さんが批評されています(コレコレコレ)。これに便乗したジャパン・タイムズの記事は記事の前半と後半が言っているところが矛盾しているところが奇妙です。前半のコピペ部分と後半のインタビュー部分ですね。裏事情は知りませんが、野中氏の凋落とこの問題を結びつけるのはそもそも無理があるように思います。政治改革の進展とともに野中氏的な政治手法がダーティーとみなされていくプロセスを眺めていて当時その政治的な「進歩」を寿ぎつつも滅びゆく者達へのいくばくかの愛惜の念を抱いたものでした。ムネオ先生もそうですね。個人的には任侠的なものとか浪花節的なものとか-なんと呼んだらいいのかよく判りませんが-はそれほど嫌いではないので。

で、もう一本のジャパン・タイムズの記事はこれらの惨めな記事に比べればだいぶ文脈に敏感に思えますが、英語圏を含めて各方面から批判された国連のあの報告を錦の旗のごとく用いている部分にはやや溜め息がでます。いえ、差別が存在しないなどと言いたい訳ではありません。そうではなくてそもそも多文化主義的なアジェンダとなじむ問題なのかどうか少し疑問に思うのです。人種やエスニシティ-に基づく差別とはやや違うという点でやや違う戦術がとられるべきなんじゃないでしょうかね。私には中長期的にはいい方向に向かっているように思えるのですけれども、楽観的に過ぎるのでしょうか。なお確かにネットのヘイトスピーチは問題だと思いますが、記事の主張とは違って一昔前では考えられないほどタブーは解けてきていると思います。ちなみに私はこの問題が存在しない場所に生まれ育ったせいか、その後いろいろ学んだ訳ですけれども、いまだにforeignな話に感じられてしまいます。知識としては理解しているつもりでも実感としてはよく判らないなということです。

追記

"Economic Crisis Fuels Unrest in E. Europe"[WaPo]

ラトヴィア情勢のより詳しいリポートです。これを読む限りでは政権の動揺はあっても根本的なイデオロギー的混乱にはなりそうにないですね。同国にとってはロシア系の問題や無国籍者の問題が大きいと言われますが、ここに引火しなければいいです。

再追記

EUの南端が崩れる時 南北格差が生む亀裂、ユーロ離脱の動きも?[JBPRESS/FT]

ユーロに関するFTの記事の邦訳。ギリシアは文化的に欧州ではないという感覚があるんですよね。トルコとあんまり変わらないと。この辺の感じが判るようで判らないところです。それでやはりイタリアが鍵になりそうですね。

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アルノルドゥス・モンタヌス「日本誌」の挿絵が楽しい件

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BibliOdysseyで他の挿絵が見られます。17世紀オランダ人にとっての日本。これはなんなんでしょう。仏教なんでしょうけれども、異教の国ですねえ。

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アルジェリアのユダヤ人

極東におけるラテン歌謡の一愛好者にして国際ニュースオタクとしてはこのニュースをスルーする訳にはいかないような気がするのでクリップしておきます。

”Concert by pro-Israel singer scrapped in Mauritius”[AFP]

”Enrico Macias défile pour Israël, l'Ile Maurice le boycotte”[Liberation]

モーリシャスでのエンリコ・マシアスのコンサートがキャンセルされたというニュースです。先日のパリの親イスラエル・デモにマシアス氏が参加していたことが理由のようです。モーリシャス政府がガザでの「不均衡な戦力行使」ゆえに首都ポートルイスにおける氏の音楽活動にストップをかけることを告げたとのことですが、やや意外でした。というのも政治家やムスリムのグループが反対の声を挙げたようですが、外交的には親英仏的で宗教的にはヒンズー教が優勢な国というイメージがあったものですから。インド系が多数派の国ですよね、この島。また著名人とはいえ歌手の活動に政治家が口出しするのはよくないことだと思うのですけれども。主催者側は当日予想される混乱を避けるためとしています。当地においてそんなに物騒な空気が瀰漫しているのでしょうかね。

このアルジェリア生まれのユダヤ系フランス人歌手が、1960年代、70年代のフランス歌謡界に新鮮な異国情緒の息吹をもたらしたこと、日本でもけっこうヒットしたことはご記憶の方も多いでしょう。シャンソン好きなら知らぬ者はないという人です。エンリコの名に甘酸っぱい記憶を喚起される世代ではないのですが、私はこの人のいかにもオリエンタルな哀愁を帯びた歌や砂糖菓子みたいに甘ったるい歌詞の歌はわりと好きです。しかし日本では氏が「平和の歌手」と呼ばれ、国連大使として平和の唱導者の役割を積極的に果たしてきたことで国際的に著名である一方、熱心なイスラエル擁護者の顔を持つこと、ツァハル(イスラエル国軍)の勲章持ちである(レジオン・ドヌール持ちでもある)ことなどはあまり知られていないのかもしれません。第三次中東戦争、第四次中東戦争では応援歌を歌っています。批判者達からは「シオニスト」とラベルされることになるのでしょう。

エンリコ・マシアスというのは芸名で本名ガストン・グレナシア氏と言いますが、グレナシアというのはアラビア語起源の名前のようです。氏のルーツはスペインにあります。そういうタイトルの歌も歌っていますが、スペイン系ユダヤ人というのが氏のエスニック・アイデンティティーのようです。あの乾きと湿りけの独特な結合が魅力的なアンダルシアのアラブ(・ユダヤ)音楽という混交的音楽文化のルーツを持つ氏がイスラエルへの愛ゆえに郷愁と憧憬の母なる国アルジェリアへの帰還を果たせずにいることは、自らの政治的選択の結果であるとはいえ、悲劇と言っていいのでしょうね。マルフの音楽一家に生まれた氏にとってアラブ文化は自らの身体そのものである訳です。仏語にピエ・ノワール(黒い足)という言葉がありますが、彼らアルジェリアにおける欧州系の植民者とその師弟達の屈折を孕んだ望郷の念が氏の初期の歌には響いています。コンサートを熱望しているようですが、アルジェリア政府からイスラエル支持者であることを理由に入国を拒否されているようです。

政治的には左翼であり、少数派と異邦人の友であり、ユダヤとアラブの共生を訴える平和の使徒である氏のイスラエルへの入れ込みを政治的に批判するのは容易い訳ですが、こういう矛盾に引き裂かれた人に惹かれてしまう個人的な傾向性がどうもあるようです。善男善女の若い頃の苦く甘い記憶を召喚させる事のほうが人々の生活の実質への応援となるのであって、もうその年になってあまり政治に翻弄される姿は見たくないような気がすると言いたいような気持ちもありますが、尊敬される懐メロ歌手というポジションには収まれない星の下に生まれたと自身思い決めているということなのでしょう。以下のリンクは若い頃の氏ですが、アルジェリアの生まれた町のことを忘れてないと熱唱していますね。

http://jp.youtube.com/watch?v=54P8VPUwT38

なおこのエントリに特に結論はありません。それでは皆様もお元気で。

追記

自分で書いておいてなんですが、「砂糖菓子のように甘ったるい」という形容はお前はいつの時代の人間なんだという気がしてきますね。まあ、私は問答無用のあんこ至上主義者なんですけれども。

ついでにBHLがまたオピニオンを書いていますね。

”Les douteux « amis » du peuple palestinien”[Le Point]

今回の「パレスティナ人民の疑わしい友人達」という記事では欧州の反イスラエル・デモの批判をしています。第一に現実のパレスティナ人達のほうが穏健で、共生への意志を持ち、物事が白か黒かではないことを知り、ハマスのやり過ぎも自覚しているのに、想像上のパレスティナ人達を駆動する憎悪はなんだ。第二に和解と平和を考えなければならない時に憎悪を煽っている遠隔にいる者達の思考停止ぶりはなんだ。平和は二つの国家の並立と土地の共有によって実現されるのであり、極端主義と徹底主義の放棄が求められるのだ。イスラエルがヨルダン川西岸地区とガザ地区から撤退する際にパレスティナ人側がこれを利用してロケット弾の基地にしないようにしないといけない。これは無辜の民の犠牲者を出してしまった戦闘の停止によって、そしてハマスの政治的排除によって成し遂げられるのだ。第三にこの「ホロコースト」に反対して街頭に踊り出た者達はダルフールの時にチェチェンの時にボスニアの時に同じようにしたのか。イスラエルに対する時のみムスリムに加勢する人間達がいるではないか、とある種の人々のダブルスタンダードを批判しています。

前回のイスラエル政府のスポークスマンみたいな記事に比べると生彩がありますかね。この紛争で勧善懲悪的に一方のみを支持することが和解につながらないという点も、また二国家並立の形をつくるために極端主義者を排除しないといけないというのも正しいでしょう。長く険しい道のりですが、これしか現実的な解決の道はないように私にも思えます。ただレバノン戦争や今回の侵攻がこうした未来図の実現に資するものなのかどうかの判断は分かれるでしょう。また遠隔の地において極右や極左や宗教的極端派が煽動したり、動員をかけているのも事実のようですし、こうした恥知らずで有害な連中が批判されるべきなのは言うまでもないでしょう。ただ事態のどうにもならなさを理解した上でやはり人道的観点から批判される他ないと考える人間がいてそれで批判されている訳ですから、批判者の内の最低の部分を捉えてこれに代表させるというのはあまり公正ではないと思います。最後に、BHL氏自身ずいぶんダブスタを犯している点は指摘しておきます。ダブスタのまったくない人間なんてほとんどいないでしょうし、いても無害なだけでつまらないかもしれませんけれども、氏の場合、けっこう致命的なダブスタと現実認識の誤りがあったと思います。それとこの発達したメディア環境においては「私は見た」はもう通じないです。

再追記

”Le juif, coupable universel” par Pierre Jourde[Le Monde]

文芸評論家で作家のピエール・ジュルド氏のイスラエル批判への批判記事。この方は文芸業界や大学業界の内幕を暴露するような批評活動で知られる人ですが、ここで参戦するのはやや意外でした。ググってみたら郊外の反ユダヤ主義をテーマにした文章がありますね。ふーん。内容は上のレヴィ氏の記事とダブっていますが、こちらのほうがストレートですね。熱い調子でフランスにおけるイスラエル批判の偽善性を難じています。メディアに駆動された選択的共感、ダブルスタンダード、中東紛争の国内への持ち込みの奇妙さ、反ユダヤ主義的空気等々を指摘し、独裁国家に囲まれた自由民主主義国家イスラエルへの共感を表明しています。まあ、このたびもまたフランス社会の暗部を見せつけられたような感じでうんざりさせられていたのでこうした批判そのものはよく理解できます。ちなみになぜマグレブ系の移民子弟がダルフールではなくパレスチナに憤怒するのかというのは私にも興味深い問題です。人種も民族も違うのでいわゆる遠隔ナショナリズムの定義に収まらないですし、私の印象ではこの現象は宗教対立とも呼べないような気がします。誰か説明してください。で、この記事ですが、まあ趣旨は理解できます、でも、タイトルにあるようにユダヤ人を「普遍的な罪人」として聖化してしまうのはどうなんですかね、と思います。歴史の重みや問題の根深さは分かりますが、いつまでもこうした罪悪感を媒介とした関係に固執するのはあまり健全ではないですし、逆にいささか「均衡を欠いた」激しい憤怒を生み出す心理的土壌になっているとも思うのですがね。まあこうした歴史とは無関係な人間がどうこう言うのもなんですのでここは声のトーンを下げておきます。

”Israel a atteint l'essentiel de ses objectifs militaires"[Liberation]

こちらは軍事史家でツァハルを専門とするピエール・ラズー氏のインタビュー。まずこのたびの侵攻でイスラエルは軍事目標の重要な部分を攻撃することに成功したと評価しています。ハマスは保有するロケット弾の3分の2を失い、軍事的には大打撃を受けて停戦を受け入れざるを得なかった。またイスラエルはエジプトからのトンネルのおそらく80%を破壊し、停戦条件として国境ラインのコントロールの保証もアメリカ、欧州、エジプトから獲得した。最後にハマスの戦闘員500名、他のジハーディスト100名ほどを殺害し、130名の戦闘員を捕虜とした。最終的に1300名の死者が出たが、大部分は民間人であった。

次にイスラエル側の損失としては10名の兵士と3名の民間人、80名が負傷している。レバノン戦争とは異なり、今回はまったく戦車、戦闘機を失わなかった点が興味深い。洗練された対戦車、対空ミサイルをハマスが保有していない証拠だとのこと。次にこれは古典的な戦争への回帰であり、スターリングラード流のロード・ローラー戦略であるとしています。戦闘員が隠れている、あるは占拠されていると思しき建造物は組織的に破壊された。レバノン戦争とは異なって新たな戦闘能力、作戦能力を示すことができてツァハルは自信を回復しただろう。しかし無論ハマスはヒズボラではないので慢心はできない。最後にハマスは政治的に強化されることになったとしています。パレスティナ人の間に混乱はあるが、確かなのはファタハの信頼の失墜である。今後ハマスは西岸地区への浸透を進めるだろう。もし開かれた選挙を行ったならば、ハマスの勝利の可能性が高いと。

軍事の素人が言うのは躊躇われるのですが、ロケット発射能力を奪うことが目的にしては大規模に過ぎ、ハマスの解体を目指したにしては-軍事的にそれが可能なのかどうかは別にして-中途半端に見えてしまいます。どうも戦略目標が明確でないままに国内事情から始まったように見えるのも、またあまり意味のない仕方で大量の死傷者を出してしまったんじゃないかといった後味の悪さが残ってしまうのも目的手段関係のちぐはくな印象のせいなんでしょう。さらに記事の最後にあるように今回の侵攻が穏健派の凋落をもたらしてしまうのだとすれば、政治的観点からはどう理解すべきなのかよく判らなくなります。これは本当に望んだ事態なのでしょうかね。他の理解もあり得るのかもしれませんので特に固執するつもりはないのですが、とりあえずの印象を述べておくとこんな感じになります。

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重い空気

イスラエルによるガザ侵攻については日本語圏でも多くのブロガ-諸氏が精力的に記事翻訳をしたり意見表明をしているようですね。それほど情報をつぶさに追っている訳ではないのですが、今回の攻撃に関してイスラエル政府は国際世論の非難を避けられないでしょう。さすがにあの画像を見せられては無反応でいることは難しいという人は多いでしょう。また長期的にはこのたびの侵攻が同国の安全に資するとも思えない。とはいえこの地域の悲劇的状況を前にして現実解が見えない現状では無辜の民の死を悼む他には私に語るべき言葉はあまりないという思いもやってきます。なおイスラエルのことを考えると自動的に満州国をめぐる状況を連想してしまうのですが、この点に関連して岡崎氏の記事がありました。絶望的に厳しい地政学的条件という他ないのですが、こう言ったからといってイスラエルに対してより深い共感を抱いているという訳ではないです。どうもこの件についてはシビア過ぎて直接書く気が沸かないので、芸もなくフランスの反応について書いておきます。

外交に関して現サルコジ政権は伝統的な親アラブから親イスラエル的な方向に転換しているなどと批判派から叩かれていましたが、それは相対的な話であって本気で泥をかぶる覚悟はさらさらないでしょう。日本語圏でも大きく報じられたようにさっそく停戦に向けた交渉を行っていますし、今後も仲介役として欧州代表みたいな顔で登場するでしょうけれども、結局のところ、米国が動かないことにはどうにもならないでしょうし、米国としてもそこまでの本気度と余裕があるようには今のところは見えないですね。フランスは米国の出方を見ながら、これを補完するような役割を果たすことになるのでしょう。それで今は同国が関与しているレバノン情勢への波及をなによりも恐れているのではないでしょうか。シリアとの交渉もどうなるんだかあやしくなってきましたが、地中海連合の枠組みは果たして機能するのでしょうかね、といった感じです。以上、新聞をぼんやり眺めているだけの印象です。そのうちもう少しなにか書くかもしれません。

フランスが欧州随一のユダヤ人共同体とムスリム共同体を抱える国であることはご存知の方も多いでしょう。このことは中東情勢の不安定化がダイレクトに国内での社会不安を惹起することを意味します。インティファーダの頃からあちらでなにか起こるとこちらで事件が起こるといった具合に連動してしまう傾向です。またフランスと両共同体との関係にはそれぞれ歴史的経緯から複雑な感情的な要素があって、90年代を通じて高進した政治的正しさの風潮もあり、外部の目からするとなにか奇妙に感じられるような屈曲が公論に与えられることになりがちです。つまり偏っているとみなされるとあっちからこっちから叩かれる訳ですね。不用意な修辞を理由に訴訟沙汰になってしまったりする。あっちよりもこっちの方がメディアへの政治力があるとかいった話もありますけれども、だからと言ってメディアが親イスラエル的かというとそうではないです。このあたりは本当に複雑なので図式的な理解を避けるために言っておくとユダヤ系だからと言って皆がイスラエルの政策をそのまま支持している訳ではないですし、ムスリムが反ユダヤで凝り固まっているという訳でもないです。そうなったらいよいよ救いようがない話なのですが、そこまではいっていない。協同の可能性の領域は残されている。とはいえ例のごとく国内は緊張が高まっているようです。

”Actes antisémites : Nicolas Sarkozy condamne des "violences inadmissibles"”[Le Monde]

12日月曜にサルコジ大統領が国内での反ユダヤ主義的な行為を「許されざる暴力」として非難したという記事です。「わが国に相応しくない、そして21世紀に相応しくないこうした振る舞いの直接、間接の犠牲者に対して心よりの連帯」を表明し、その場に集まった「フランスの偉大なる諸宗教の代表者達に感謝し、祝福した」とのことですが、ユダヤ教とイスラームの指導者がフランスの一体性の護持を訴えかけた模様です。そう、こういう時は単一にして不可分なる共和国の国体を確認しなくてはなりません。これは日曜に9発のカクテル・モロトフがユダヤ人共同体センターやシナゴーグに投じられ、十数件の人種主義的な落書きが発見されたのを受けてなされた声明です。

”Deux lycéens agressés par des militants extrémistes pro-Israël”[Le Monde]

こちらは反対にマグレブ系の2人の高校生が親イスラエル的な極端派から暴力を振るわれた事件に関する記事です。1月8日の木曜にリセの前でLDJ(ユダヤ防衛連盟)という米国でもイスラエルでも活動を禁じられている組織の闘士によってビラの受け取りを拒否したマグレブ系の高校生が暴力行為を受けたということですが、反人種主義団体はLDJの活動を禁止することを求めているようです。なお大統領が反ユダヤ主義的行為の批判のみをすることに不満を抱いている層が一定数いるようです。今回に限ったことではなくてアンチ・セミティスムには極度に敏感なのにイスラモフォビアには甘過ぎるという印象を持つ人がいる訳ですね。そしてそれは無根拠だとは言えないと個人的には思いますが、これ以上はコメントしにくい領域になります。私はかの国に愛着を抱いている者ですが、このあたりになると結局他者だよなという感じになります。余計なコミットをする気にあんまりなれない。まあアジア系はそういう意味では心理的に気楽なポジションだったりします。

”Les synagogues de Lille et de Mulhouse dégradées”[Le Monde]

こちらは14日付けの記事ですが、上述のセーヌ・サン・ドニのシナゴーグへの攻撃に続いて、リールとミュルハウスのシナゴーグの壁面に反ユダヤ主義的な落書きが発見されたという記事です。また投石もなされた模様です。以上、ル・モンドから関連記事を拾いましたが、ガザへの作戦開始以来50件以上の類似行為がなされたとユダヤ系団体が公表しているようです(件数はソースによって違いがあるようです)。昨年は年間で270件ほどのようですから激増と言っていいのでしょう。なお今のところ犯人は捕まっていないようです。確認されていない以上は余計なスペキュレーションはすべきでないでしょう。

それからいつもは良くも悪くもあらゆる問題に関して口を挟む知識人達が妙に静かに感じられるのは別に驚くべきことではないでしょう。空気読みというのはなにも極東の島国の知識人達の専売特許ではないのです。それと反比例するかのごとくネットで一般人(といっても一部ですが)が大騒ぎしている光景もそうですね。露骨なヘイトスピーチを避けるぐらいのマナーというのか狡猾というのかは多くが維持しているようですが、それでもけっこう陰惨なことになっていますね。重苦しい空気に支配されているようですが、それでも声を挙げている勇気ある(?)人々もいますので紹介しておきますかね。

”Gaza, une riposte excessive ?, par André Glucksmann”[Le Monde]

グリュックスマン氏のこの寄稿ですが、ガザへの攻撃は均衡を欠いている(disproportionnée)という批判に反批判しようとしています。ファタハがハマスを批判するなど当事者の間でこれまでの徹底主義(jusqu'au-boutisme)から離れるという進歩が見られるのに、均衡を欠いている、っていったいハマスとどう均衡させよというのかと。中東和平は徹底主義と天使主義を捨てない限りは実現しないだろうとパスカルを引用して論じています。イスラエル側から見ればたとえ「均衡のとれた反撃」だとしても両者の非対称性ゆえに国際世論からの批判を受けるといった道義的泥沼状況だろうと思いますし、部外者が勧善懲悪的に一方に加担をすることが事態を改善しないばかりか悪化させる場合が往々にしてあるというのはあらゆる紛争に通じる真理を含んでいるとは思いますが、グリュックスマンさん、それをあなたが言うのですかという批判はあるでしょうね。あれだけチェチェン問題にコミットしていたあなたが、と。いえ、なんでもかんでも一緒くたにするつもりはないですが、そういう批判はできるでしょうという話です。個人的にはサルコジ政権への心酔と落胆を繰り返す近年の躁鬱的な言動を眺めてきて私はもはやこの方のことは半ば哀れむような心情になっているのですけれどもね。

"Libérer les Palestiniens du Hamas"[Le Point]

こちらは盟友のBHLの「ハマスからパレスティナ人を解放せよ」という記事。ガザの子供らのイメージに私自身衝撃を受けたが、いくつかの事実を確認しておきたい。第一にどんな政府であろうとも自国の都市へのロケット弾の攻撃を容赦しないだろう。驚くべきは「イスラエルの残酷」ではなく自制である。第二にハマスのロケット弾による死傷者はそれほど多くなくとも、イスラエルでは悪夢のような生活を強いられている。第三に多くの犠牲者が出ているが、これは意図的な「虐殺」ではない。逆にハマスが自分達の人民を攻撃にさらしているのだ。古典的な「人間の盾」戦術だ。第四にパレスティナ側は都市を、民間人を標的にしているが、イスラエル側は軍事施設を標的にしている。第五にイスラエル軍は民間人が避難できるように標的を通告し続けている。第六に封鎖によって前例なき人道危機が生じているというのは正確ではない。地上戦が始まるまで人道援助物資は通過できたし、今これを執筆している時点でイスラエルの病院はパレスティナ人の負傷者の介護をしている。ともかく戦闘終結を望む。コメンテーター達はイスラエルの誤りをまた発見するのだろうが、パレスティナ人の最大の敵はハマスである。ハマスの暗い支配から解放されなくてはならないのはイスラエルだけでなくパレスティナ人達である。といった具合にイスラエルを擁護していますが、だいたい予想の範囲の発言です。こちらはグルジアの時のあの嘘リポートで正体見たりですので(まあそのずっと前から信用していないのですけれど)、いや「祖国」を思う気持ちはいいですけれど、もう世界の紛争地に駆けつけて人道について語っても説得力はないのではないですかねと言いたくなります。言わなくとも判ると思いますが、グリュックスマン氏もレヴィ氏もユダヤ系の哲学者です。

"Librér les Palestiniens des mensonges de Bernard-Henri Lévy"[Le Monde dipomatique]

上の二つの文章を受けたアラン・グレシュ氏のディプロの批判記事。「ベルナール・アンリ・レヴィの嘘からパレスティナ人を解放せよ」というタイトルです。まだ議論するには声が足りないが、グリュックスマンとBHLの記事は典型的だ。そう、あらゆる嘘、誤った信念の典型だ。イスラエルの政策が野蛮人に対して自己防衛するためのものだという信念だ。以下BHLの記事に逐条的に反論する。第一点。イスラエルの「自制」については両者の死者数を比較すればいい。停戦合意の後にも空爆をしていたのはイスラエルだ。また40年の長い「自制」をしているのもパレスティナ人だ。第二点。BHLはガザに行ったことがあるのか。何十年もパレスティナ人がどういう状況を生きているのかを知らないのか。ハマスの前から空爆はなされていたのだ。第三点。憎むべきはマイケル・ウォルツァ-的な意味での戦力の不均衡だ。またBHLはイスラエルのプロパガンダを真に受けているが、中立的な観察者はこれが嘘であることを知っている。それからガザは人口の密集する狭隘な地区であり、戦闘員と民間人と標的の区別はできない。第四点。ここには戦略的非対称性がある。また道徳的非対称性もある。これは人道に対する罪だ。第五点。通告したかどうかでなく避難ができない状態が問題なのだ。民間人が避難を禁じられた紛争なのだ。第六点。哲学者は抽象の天上から具体の地上へと降りて来れないようだが、人道援助物資を運ぶには現状ではまったく不十分なのだ。一日500台のトラックの通過が必要なのだが、封鎖後には23台だけだった。今はもっとひどい。最後に11月4日に停戦を破ったのはイスラエルであること、ガザへの通行に関する合意条項を尊重していないのもイスラエルであることを確認しておく。また平和条約の調印を拒んでいるのもイスラエルだ。アラファトにせアッバスにせよ合意への意志はあったのに時間を無駄にしたのはイスラエルが拒否したせいなのだ。またハマスは民主主義的に選出されたのだ。人々が誤った投票をしたのだからそれを変えよう、あるいはよき独裁を押し付けよう、文明化すべく占領しよう、これはアフガンに侵攻したソ連の論理であり、植民地主義の論理だ。以上、多くの具体的な情報を挙げてBHLを批判しています。批判としてはおおむね正当なものだと思いますが、それではどうすればいいのかの展望が見える訳ではないのがやりきれないところです。またイスラエル批判が正しくとも、それがハマスの正しさを証明する訳ではない。実際、あの戦術は正統化すべきではない。たとえ民意の支持があったとしても。

"La rue, la mosquée et la télévision"[Le Figaro]

哲学者のレデケル氏が先日の大規模なデモについて論評しています。まず、平和主義を装っているが連中は平和を願っているのではなくハマスの勝利を願っているのだと断定されております。これは冷戦時代の平和主義が反米、反帝で、ソ連批判をしなかったのと同じ左翼的偏向だということです。さらに「ホロコースト」「ジェノサイド」という文句やダビデの星と鍵十字まで見えるではないか!と。しかしこれは昔からの話だが、氏によれば新しい要素があったと言います。それはテレビとモスクの出会いだといいます。テレビは思考停止をもたらすイメージのメディアであり、感情的動員力をもつ。今回のデモの特徴はテレビのイメージに同一化した者達のイスラム色にあって68年に叫ばれた自由からはなんと遠いのだ、と。しかしこんなに「政治的に正しくない」記事がフィガロによく掲載されましたね。なおレデケル氏はかつてコーランを罵倒する記事を寄稿して通称「フィガロ事件」を引き起こした張本人です。まあなんと言いますか、「この正直者め!」というのは日本にもありますけれど、世論の一部はこれで溜飲が下がると、そういう論調ですね。

という訳でまだ本格的な論戦はないのですけれども、強い非難を含んだ事実報道が主体で後は社説でもコメンテーターでも停戦を求めつつともかくフランス国内への紛争の輸入を防がなくてはならないという内向きな論調になっています。イスラエル支持派には反イスラエル的に感じられ、パレスティナ支持派には親イスラエル的に感じられるという中途半端な報道ですね。そういう訳で両者がネット上でメディア批判をしています。思想的には寒々しい限りの光景ですけれども、今後それなりに力のこもった意見も出始めることを期待したいところです。言葉が出て来ないという感じなのは判りますけれどもね。なんの利害関係もない私ですらそうですから。

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予審判事廃止?

サルコジ氏が予審判事(juge d'instruction)制度を廃止する意向を表明したのを受けて活発な議論が行われているようです。予審判事というのは調査権限を有する司法官のことですが(判決は下さない)、政治権力や検察から独立した存在とされます。主として重罪裁判において警察と協力して証拠を収集したり被疑者を尋問したりして訴追するか否かを予審する[註 コメントでご指摘いただきましたが、訴追するか否かの予審ではなく、訴追された事件について,証拠を収集し,公判に付するか否かを決定する手続である予審を行うのが正しいとのことです]活動を行う訳ですが、あちらのミステリーやドラマなどではこの人達がよく登場します。「フランスで最も権力のある人々」と呼んだのはナポレオンとされますが(バルザック説もあるようです)、ともかくフランスの刑事司法のある種象徴的な存在としてよく語られる存在です。以下、素人のメモですので誤りが多数含まれているかもしれませんので、お気づきになりましたら遠慮なくご指摘ください。

予審判事が最近話題になったのはウトロー事件という大冤罪事件の時でした。当時、私もずっとニュースを追いかけていたのですが、この田舎町を舞台にした集団的小児性愛者事件は子供らの告白ごっこで大量の人々が被疑者とされるというまるでセーラムの魔女裁判を思い起こさせるような悪夢的な展開を辿りました。ここでビュルゴなる新任予審判事が独走したことが、悲劇を生みます。結局、被告全員無罪となるのですが、拘置所内で自殺する被疑者まで生み出す結果となりました。野心に燃えたこの予審判事によって自白の強要もあったとされます。その後、このスキャンダルを受けて合議制の導入など制度の見直しがなされました。クロード・シャブロル監督の女性予審判事を扱った「権力への陶酔」という映画がつくられたのもこの騒ぎの頃ですが、「大統領より強い」と形容される予審判事の大衆的なイメージを理解するにはいい素材だと思います。もっとも映画は映画だと思ったほうがいいと思いますけれども。

”M. Sarkozy envisage de supprimer le juge d'instruction”[Le Monde]

それでこのたびの予審判事制度廃止の提案ですが、ル・モンドのこの記事によれば、サルコジ氏は予審判事(juge d'instruction)制度を廃止してjuge de l'instructionという名の司法官の下で検察に調査権限を移すプランを持っているようです。職名に定冠詞を付加するというこの言葉遊びのセンスはともかく、これはかなり思い切った刑事司法改革を意味します。フィリップ・レジェ氏率いる刑事訴訟改革担当委員会の多数が予審判事制度の廃止に賛成のようです。この改革案ではまた調査開始前に弁護士にアクセス権を認めるなど弁護側の強化が目指されているようです。これまでの予審判事制度批判を耳にしていると、これは改善なのではないだろうかとも思われそうなこの話ですが、記事は最後の一文で懸念を表明しています。

C'est ce qui fait craindre un renforcement de la mainmise du pouvoir sur les enquêtes les plus sensibles, qui ne seraient plus confiées à un juge du siège indépendant, mais à un magistrat du parquet dépendant du ministère de la justice.

独立した裁判官ではなく司法省管轄の検察官が担当するのは権力の支配強化になるのではないかという懸念です。実際、これは司法権の独立を脅かす企てであるという批判の合唱が沸き起こっているようです。

”Supprimer le juge d'instruction ? "Une régression démocratique"”[Rue89]

Rue89のこの記事がこの件を扱っています。USMという司法官の組合による「民主主義の後退」という糾弾の声を紹介したり、政治はこれを道具化する誘惑を捨てがたいだろうという批判的な発言を拾っています。それから通念とは異なり、予審判事は単独行動する訳ではなく、検察や弁護側によって行動が制約されている点について啓蒙的な解説をしています。またウトロー事件の際の委員会の場でのパスカル・クレマン氏の発言を引用しています。問題となっていた予防拘禁については状況は改善されていると。予審判事の人数が少ないせいで予防拘禁期間の長期化を招いている批判がこの頃に盛んになされていました。最後に我々のシステムは実際には最も平等なものであり、収入や社会的地位とかかわらず同じ質と中立性をもった審理を保証しているのだ、と英米システムに心酔する改革派への牽制的発言を紹介しています。

Le juge enfin pendu, dansez Messires![Journal d'un avocat]

こちらはよくリンクされている弁護士ブログの批判記事です。1980年代、90年代に政治経済エリートの腐敗を追及したのは権力から独立した予審判事であったとしてその価値を訴えています。賛成派にとっては、これが唯一の権力から独立した機関であり、特権的な人物達への法の適用を保証する存在であり、司法権の独立、権力分立の柱であるが、反対派は予審判事を審理と起訴を同時に扱う知的に逸脱した存在として捉えるとしています。しかし反対派と言えども、予審判事の独立性に代えて検察の独立性を保証しなければならないと訴えていた、しかしこのたびの改革では検察の改革が伴っていない、従ってこれは司法の弱体化であり、共和国にとっての後退であり、オートクラシーにとっての進歩であり、腐敗した人間達の保護策であると難じています。

"Premières réflexions sur la suppression annoncée du juge d'instruction"[Journal d'un avocat]

同ブログに掲載された別の論者の論考。やや長いですが、啓蒙的で優れたポストです。まず、司法官は裁判官と検察官に二分されること、後者が95%の案件を扱うが、残りの特に複雑な5%の案件を扱うのがこの両者の性格を併せ持つ予審判事であることを説明しています。またフランスで最も強力な人々という世評は神話であり、もはや彼らがそれほどの権限を持たないことを説いています。むしろ新たに導入されようとしているjuge de l'instructionがかつての予審判事のような強力な存在になってしまうだろうと警戒しています。それから度重なるスキャンダルで現在では予審判事は司法の誤りと失敗の象徴になってしまったけれども、メディアの報道にも問題があり、政治にとって都合のよいスケープゴートにされている点を指摘し、予審判事の孤立の問題は合議制の導入によって解決されるとしています。最後に比較法制的観点から時代遅れのフランスに固有の制度のように言われるが、それは事実ではなく他国にも存在している点を強調しています。

以上のように予審判事をめぐる言説は政治権力vs司法権、さらにフランス法vs英米法という枠組み(分かりやすいので20minutesの図を下に貼っておきます)の中でこの制度の孕む実際的、具体的な問題点が論じられるといった形式で編成されています。前者の論点についてはサルコジ政権がとりわけ対メディアで政治権力の強化を企てている(とされる)事実に鑑みると必ずしも杞憂と断じることはできないように思われます。慎重な論調があって然るべきなのでしょう。後者の論点については確かにフランス固有の文脈もありますが、かの国のいつもの愛国心の発現として他人事的に捉えるのではなく、司法の迅速化の名の下に進められる改革において我々はなにを獲得し、なにを失うのかという大陸法圏に共通する問題の一局面として捉える視点があってもいいのではないかと思います。ちなみにナポレオン法典を継受した戦前日本では[註 コメント欄で指摘されましたが確かにここおかしいですね。ドイツ法の方でした]予審判事が存在していたという歴史的事実も忘却すべきではないでしょうし(小説に出てきますね)、戦後は糾問主義の権化のごとく批判されているようですが、確かに問題があったにしても性急な価値判断によらない認識があってもいいのではないのかなと思いました(勿論復活せよとは言いませんが)。私が単に絶望的に無知なだけで、専門家の間ではレベルの高い議論がなされているのでしょう。

Article_france1フランス・モデル対アメリカ・モデルの図

http://www.20minutes.fr/article/286645/France-Suppression-du-juge-d-instruction-Les-avocats-manifestent.php より転載

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偏りについて

気づいたらこのブログを始めて一年経ったみたいなのですけれども、変わりなく淡々と更新していくことにします。なお自宅のマックが死亡しているためしばらく更新頻度は落ちると思います。ご了承くださいませ。以下最近読んだ日本関連記事をクリップしておきます。

”Celebrating ’Multicultural Japan’ Writings on 'Minorities' and the Discourse on 'Difference” by Cris Burges[ejcjs]

最近の英語圏の日本に関するアカデミックな言説に警鐘を鳴らす記事。以前Japan Focusに掲載されたこの論文と類似した内容の記事を読んでからバージェス氏には注目してきました。とりわけ90年代以降は日本人論批判と文化的多様性称揚がトレンドな訳ですが、それが奇妙な政治的効果を果たしている点については私もここで度々書いてきました。社会的現実から遊離したまま英語圏の論調と日本語圏の論調との間で変な悪循環現象を起こしている点、また英語圏における日本人論批判が、おそらくたいがいの人がそんな議論とはほとんど無関係に生きているという事実にも関わらず、すべての日本人を日本人論の盲目的な信奉者であるかのように表象することでもうひとつの日本人論に成り下がっている点については誰もが気付く問題点だと思いますし、またこののっぺりとした集団として表象される「多数派日本人」という名の想像的な存在に対比されるところのマイノリティー達に関する言説にしても、いわゆるマイノリティー自身の声を本当に反映しているのだろうかとか、個々人をエンパワーするどころかむしろ抑圧的に機能する側面もあるのではないかとか、こうした言説そのものが社会的範疇の創造を行う政治効果(囲い込み効果)を持つことについてやや鈍感なのではないかといった問いもおそらく多くの人が抱くだろうと思います。このあたりの機微について記事は様々な事実を挙げて丁寧に論じています。

まずmulticultural Japanを強調する言説には二重の性格がある点について指摘しています。ひとつは現在もかつても存在した日本社会における多様性を確認する記述的側面と1970年代以降の英語圏における多文化主義的実践が日本において採用されるべきだとする規範的主張の側面が未分離である点です。

Thus, in contrast to the use of 'multicultural Japan' as used to describe social variation, these works have a predictive and prescriptive slant, showing what Japan inevitably will and indeed should become.

それからなにを「差異」の焦点とするのかという点で極端にエスニシティニ-に偏りすぎている点が指摘されます。しかし例えば在日にとってはエスニシティーよりもクラスの問題のほうが大きいという金氏の指摘が引用されているように差異のラインというのは部外者が勝手に引けるものではない訳です。また多様性を強調すべくあらゆるサブカルチャー集団を同等にあげつらう傾向に対してもそれぞれの歴史的経験が無視されているという批判を引用しています。より深刻な問題としては自分たちの言説を日本人論に対抗させることによってこれをむしろ正統化し、強化する結果に陥っているという指摘が重要でしょう。クラマー氏によれば、

[Mouer and Sugimoto] still choose to frame their argument in terms of a debate with the Nihonjinron even though it is the (false) assumptions of this that they are supposed to be attacking…so the Nihonjinron is kept in the foreground of academic debate, especially internationally, by those who deny its legitimacy…Paradoxically the concentration by scholars on the Nihonjinron…has actually succeeded in strengthening rather than undermining the view of Japan as a culturally and sociologically monolithic entity

ということになります。実際、こうした議論の形式は半可通のブロガ-あたりにも伝染しているのですが、ただの藁人形議論になっているのですね。またマイノリティーへの過剰な関心の集中がマジョリティーを捉える視点をおかしくする点についても警告しています。ヘンシャル氏によれば、

[T]he pendulum has now swung too far. Decontructionist literature, while valuable as a counter-balance, has come to occupy a disproportionate role in recent studies in Japan. You cannot properly understand English society by concentrating on French-speakers in the Channel Islands, or on recently arrived Chinese immigrants running fish-and-chip shops in the East End of London. The equivalent is true of Japan and its minorities. This does not mean that such people, minorities, can be ignored….And yet, in any society the vast majority of people generally conform to a range of accepted norms, however much they might differ in gender, age, occupation, and personality profile

それから一枚岩で画一的な国家が抵抗するマイノリティーを抑圧、排除しているといった「陰謀論」に注意しなくてはならないと述べています。実際、「闘争」や「抵抗」がロマン化され過ぎてすべてがヘゲモニーと対抗ヘゲモニーの二項的な関係で解釈されることになっているが、こうした「排除」する国家の像とは異なって、実際には日本でもどこでも「同化」がネーション形成における特徴なのだと。ここで戦前における議論を想起しています。アスキュー氏によれば、

One of the ironies of modern Japanese history is that assimilation was advocated by the egalitarian members of the Japanese enlightenment, thus providing a justification for a wholesale assault on local traditions and customs, while it was the racist social evolutionists who argued in favour of a low-cost form of colonial rule which entailed local autonomy and respect for local customs

といった具合に啓蒙的な平等主義者が同化を主張し、差別主義者が植民地における自治や慣習の尊重を主張していた点に注意を向けています。以下そもそもマイノリティーとは何ぞやという議論になりますが、社会において「差異」がそれとして認知されるプロセスにおける恣意性と流動性が強調され、誰が「エスニック・マイノリティー」なのかも必ずしも自明ではないことを在日やアイヌや沖縄のアイデンティティーの複雑性や内部の多様性やリーダーや活動家の代表性をめぐる問題に言及しつつ論じています。こういうデリケートな問題については特別の利害関係がある訳でもないのに妙に鼻息の荒い英語圏のある種の人々はどうしても理解したくないようですが、現状からさらに一歩でも物事が進むことを本気で期待するならばやはり立ち止まって考えるべき局面にあるように思えるのは私が楽観主義的に過ぎるからでしょうか。

以下論文は産経新聞の記事検索結果から英語圏のアカデミックな言説と日本語圏のジャーナリスティックな言説との間のずれを指摘し、人口データから外国人労働者の存在の限定性を確認しています。以上、英語圏のアカデミックな言説は日本の社会的現実から遊離した観念図式を振り回して誰のためだかよく判らない説教をしているだけではないかという論者の誠実な反省には謙虚に耳を傾けてほしいものだと思います。残念ながらかなり真実だと思いますから。いえ、なんでもかんでもオリエンタリズムの一言で片付けたりはしません。違和感をまったく抱かせない研究者だっていらっしゃる一方で、全体としてどうやら日本に似ているがどこか別の惑星の話に聞こえることがあるのですね。別に日本人に違和感を抱かせないことが日本研究の使命だなどとは思わないですが、ここまでずれてしまうのはやはり致命的ではありませんかね。パースペクティブの違いでは済まないと思います。なおいわゆるマイノリティー・グループに研究が集中しているのは英語圏の日本研究ばかりでなく日本語圏のアメリカ研究などもそうみたいなのですが、これはいったいなにを意味しているのでしょう。日本語圏のアメリカ研究が米国の動向に影響を与えることなどなさそうですけれども、同じような誤りを犯していないという保証もなさそうですね。それから最後になにか言うとすれば、外国人労働者なり移民なりの人口が今後増大したとしても北米的な多文化主義は部分的には取り入れても未来の日本のモデルにはならないだろうと個人的には思います。歴史は飛躍をなさずということで好むと好まざるとに関わらず訛りのきつい翻訳概念で飾られた新しい装いの下に「民族協和的」な理念に近づいていくのではないでしょうかね(「多文化共生」にその響きが聞こえます)。で、たぶん実質的には統合主義的な欧州のどこかの国に似るのではないでしょうかね。まあ未来は誰にも分かりませんけれども。

”The Era of Bullying: Japan under Neoliberalism” by Shoko Yoneyama[Japan Focus]

でこちらは相変わらずのJF的ないじめに関する記事です。データの紹介と類型論あたりはともかく社会評論家風の新自由主義批判は首を傾げざるを得ないです。統制経済下におけるいじめと自由主義経済下におけるいじめについての実証的比較研究なんてものがあるのならば説得力もあるのかもしれませんけれども(たぶん私は説得されなさそうですけれども)、どう考えても学校のいじめとは関係ないネタばかり取り上げてイメージ操作をされてもなあという感想しか出てこないです。いかにいじめを減らすのかとかいかにケアするのかといった実践的関心ではなくて単にいじめをネタに世界に否をつきつけたいのでしょうか。それとも地道な実践をされているのだけれども、書くものはこうなってしまうのでしょうか。ところで謝辞を捧げている方々の中に個人的に許し難いと思っている御仁達が含まれているのですが、この記事の書き手を日本人コラボと認識してもいいのでしょうか。そういう見方は政治主義的に過ぎますかね。ただこの不毛かつ狭隘な言説政治の舞台において自らの声がいかなる機能を担わされるのかに自覚的になって欲しいです。この御仁達の「これは私の意見ではない、ほら、日本人自身が言っているじゃないか」戦略は見え透いていますから。これは日本を別の国に入れ替えても成り立ちます。なお言うまでもなく私は反西洋主義者でも反アングロサクソン主義者でもなくてただ単にアジアやアフリカに張り付いている欧米系左翼の中の「特定の傾きを有する人々」に没落していだくことを祈念しているだけなのですね。

という訳でどうも新年早々筆が走ってやや攻撃的になっているような気もしますが、不機嫌になっている訳ではなくて実に爽快な気分です。わっはっは、どーんと来い、という感じですね。それでは笑って不況の一年を乗り切りましょう。死ななきゃたぶんなんとかなりますさ。

追記

少し修正しました(1・8・2009)。アカデミシャンにはそれでも自制や事実尊重的な態度があるのですけれども、ジャパン・タイムスあたりの論調がこの戯画化になっている訳です。この辺りの機微に敏感な方も少数ながらいるようですけれども、ベタな人はベタですからね。本当を言えば一番困った存在なのは利用しているんだかされているんだか本人もよく理解していないような島国左翼の方々です。なんといいますかね、切なくなります。

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