« シヴィックとエスニックの二項対立について | トップページ | 予審判事廃止? »

偏りについて

気づいたらこのブログを始めて一年経ったみたいなのですけれども、変わりなく淡々と更新していくことにします。なお自宅のマックが死亡しているためしばらく更新頻度は落ちると思います。ご了承くださいませ。以下最近読んだ日本関連記事をクリップしておきます。

”Celebrating ’Multicultural Japan’ Writings on 'Minorities' and the Discourse on 'Difference” by Cris Burges[ejcjs]

最近の英語圏の日本に関するアカデミックな言説に警鐘を鳴らす記事。以前Japan Focusに掲載されたこの論文と類似した内容の記事を読んでからバージェス氏には注目してきました。とりわけ90年代以降は日本人論批判と文化的多様性称揚がトレンドな訳ですが、それが奇妙な政治的効果を果たしている点については私もここで度々書いてきました。社会的現実から遊離したまま英語圏の論調と日本語圏の論調との間で変な悪循環現象を起こしている点、また英語圏における日本人論批判が、おそらくたいがいの人がそんな議論とはほとんど無関係に生きているという事実にも関わらず、すべての日本人を日本人論の盲目的な信奉者であるかのように表象することでもうひとつの日本人論に成り下がっている点については誰もが気付く問題点だと思いますし、またこののっぺりとした集団として表象される「多数派日本人」という名の想像的な存在に対比されるところのマイノリティー達に関する言説にしても、いわゆるマイノリティー自身の声を本当に反映しているのだろうかとか、個々人をエンパワーするどころかむしろ抑圧的に機能する側面もあるのではないかとか、こうした言説そのものが社会的範疇の創造を行う政治効果(囲い込み効果)を持つことについてやや鈍感なのではないかといった問いもおそらく多くの人が抱くだろうと思います。このあたりの機微について記事は様々な事実を挙げて丁寧に論じています。

まずmulticultural Japanを強調する言説には二重の性格がある点について指摘しています。ひとつは現在もかつても存在した日本社会における多様性を確認する記述的側面と1970年代以降の英語圏における多文化主義的実践が日本において採用されるべきだとする規範的主張の側面が未分離である点です。

Thus, in contrast to the use of 'multicultural Japan' as used to describe social variation, these works have a predictive and prescriptive slant, showing what Japan inevitably will and indeed should become.

それからなにを「差異」の焦点とするのかという点で極端にエスニシティニ-に偏りすぎている点が指摘されます。しかし例えば在日にとってはエスニシティーよりもクラスの問題のほうが大きいという金氏の指摘が引用されているように差異のラインというのは部外者が勝手に引けるものではない訳です。また多様性を強調すべくあらゆるサブカルチャー集団を同等にあげつらう傾向に対してもそれぞれの歴史的経験が無視されているという批判を引用しています。より深刻な問題としては自分たちの言説を日本人論に対抗させることによってこれをむしろ正統化し、強化する結果に陥っているという指摘が重要でしょう。クラマー氏によれば、

[Mouer and Sugimoto] still choose to frame their argument in terms of a debate with the Nihonjinron even though it is the (false) assumptions of this that they are supposed to be attacking…so the Nihonjinron is kept in the foreground of academic debate, especially internationally, by those who deny its legitimacy…Paradoxically the concentration by scholars on the Nihonjinron…has actually succeeded in strengthening rather than undermining the view of Japan as a culturally and sociologically monolithic entity

ということになります。実際、こうした議論の形式は半可通のブロガ-あたりにも伝染しているのですが、ただの藁人形議論になっているのですね。またマイノリティーへの過剰な関心の集中がマジョリティーを捉える視点をおかしくする点についても警告しています。ヘンシャル氏によれば、

[T]he pendulum has now swung too far. Decontructionist literature, while valuable as a counter-balance, has come to occupy a disproportionate role in recent studies in Japan. You cannot properly understand English society by concentrating on French-speakers in the Channel Islands, or on recently arrived Chinese immigrants running fish-and-chip shops in the East End of London. The equivalent is true of Japan and its minorities. This does not mean that such people, minorities, can be ignored….And yet, in any society the vast majority of people generally conform to a range of accepted norms, however much they might differ in gender, age, occupation, and personality profile

それから一枚岩で画一的な国家が抵抗するマイノリティーを抑圧、排除しているといった「陰謀論」に注意しなくてはならないと述べています。実際、「闘争」や「抵抗」がロマン化され過ぎてすべてがヘゲモニーと対抗ヘゲモニーの二項的な関係で解釈されることになっているが、こうした「排除」する国家の像とは異なって、実際には日本でもどこでも「同化」がネーション形成における特徴なのだと。ここで戦前における議論を想起しています。アスキュー氏によれば、

One of the ironies of modern Japanese history is that assimilation was advocated by the egalitarian members of the Japanese enlightenment, thus providing a justification for a wholesale assault on local traditions and customs, while it was the racist social evolutionists who argued in favour of a low-cost form of colonial rule which entailed local autonomy and respect for local customs

といった具合に啓蒙的な平等主義者が同化を主張し、差別主義者が植民地における自治や慣習の尊重を主張していた点に注意を向けています。以下そもそもマイノリティーとは何ぞやという議論になりますが、社会において「差異」がそれとして認知されるプロセスにおける恣意性と流動性が強調され、誰が「エスニック・マイノリティー」なのかも必ずしも自明ではないことを在日やアイヌや沖縄のアイデンティティーの複雑性や内部の多様性やリーダーや活動家の代表性をめぐる問題に言及しつつ論じています。こういうデリケートな問題については特別の利害関係がある訳でもないのに妙に鼻息の荒い英語圏のある種の人々はどうしても理解したくないようですが、現状からさらに一歩でも物事が進むことを本気で期待するならばやはり立ち止まって考えるべき局面にあるように思えるのは私が楽観主義的に過ぎるからでしょうか。

以下論文は産経新聞の記事検索結果から英語圏のアカデミックな言説と日本語圏のジャーナリスティックな言説との間のずれを指摘し、人口データから外国人労働者の存在の限定性を確認しています。以上、英語圏のアカデミックな言説は日本の社会的現実から遊離した観念図式を振り回して誰のためだかよく判らない説教をしているだけではないかという論者の誠実な反省には謙虚に耳を傾けてほしいものだと思います。残念ながらかなり真実だと思いますから。いえ、なんでもかんでもオリエンタリズムの一言で片付けたりはしません。違和感をまったく抱かせない研究者だっていらっしゃる一方で、全体としてどうやら日本に似ているがどこか別の惑星の話に聞こえることがあるのですね。別に日本人に違和感を抱かせないことが日本研究の使命だなどとは思わないですが、ここまでずれてしまうのはやはり致命的ではありませんかね。パースペクティブの違いでは済まないと思います。なおいわゆるマイノリティー・グループに研究が集中しているのは英語圏の日本研究ばかりでなく日本語圏のアメリカ研究などもそうみたいなのですが、これはいったいなにを意味しているのでしょう。日本語圏のアメリカ研究が米国の動向に影響を与えることなどなさそうですけれども、同じような誤りを犯していないという保証もなさそうですね。それから最後になにか言うとすれば、外国人労働者なり移民なりの人口が今後増大したとしても北米的な多文化主義は部分的には取り入れても未来の日本のモデルにはならないだろうと個人的には思います。歴史は飛躍をなさずということで好むと好まざるとに関わらず訛りのきつい翻訳概念で飾られた新しい装いの下に「民族協和的」な理念に近づいていくのではないでしょうかね(「多文化共生」にその響きが聞こえます)。で、たぶん実質的には統合主義的な欧州のどこかの国に似るのではないでしょうかね。まあ未来は誰にも分かりませんけれども。

”The Era of Bullying: Japan under Neoliberalism” by Shoko Yoneyama[Japan Focus]

でこちらは相変わらずのJF的ないじめに関する記事です。データの紹介と類型論あたりはともかく社会評論家風の新自由主義批判は首を傾げざるを得ないです。統制経済下におけるいじめと自由主義経済下におけるいじめについての実証的比較研究なんてものがあるのならば説得力もあるのかもしれませんけれども(たぶん私は説得されなさそうですけれども)、どう考えても学校のいじめとは関係ないネタばかり取り上げてイメージ操作をされてもなあという感想しか出てこないです。いかにいじめを減らすのかとかいかにケアするのかといった実践的関心ではなくて単にいじめをネタに世界に否をつきつけたいのでしょうか。それとも地道な実践をされているのだけれども、書くものはこうなってしまうのでしょうか。ところで謝辞を捧げている方々の中に個人的に許し難いと思っている御仁達が含まれているのですが、この記事の書き手を日本人コラボと認識してもいいのでしょうか。そういう見方は政治主義的に過ぎますかね。ただこの不毛かつ狭隘な言説政治の舞台において自らの声がいかなる機能を担わされるのかに自覚的になって欲しいです。この御仁達の「これは私の意見ではない、ほら、日本人自身が言っているじゃないか」戦略は見え透いていますから。これは日本を別の国に入れ替えても成り立ちます。なお言うまでもなく私は反西洋主義者でも反アングロサクソン主義者でもなくてただ単にアジアやアフリカに張り付いている欧米系左翼の中の「特定の傾きを有する人々」に没落していだくことを祈念しているだけなのですね。

という訳でどうも新年早々筆が走ってやや攻撃的になっているような気もしますが、不機嫌になっている訳ではなくて実に爽快な気分です。わっはっは、どーんと来い、という感じですね。それでは笑って不況の一年を乗り切りましょう。死ななきゃたぶんなんとかなりますさ。

追記

少し修正しました(1・8・2009)。アカデミシャンにはそれでも自制や事実尊重的な態度があるのですけれども、ジャパン・タイムスあたりの論調がこの戯画化になっている訳です。この辺りの機微に敏感な方も少数ながらいるようですけれども、ベタな人はベタですからね。本当を言えば一番困った存在なのは利用しているんだかされているんだか本人もよく理解していないような島国左翼の方々です。なんといいますかね、切なくなります。

|

« シヴィックとエスニックの二項対立について | トップページ | 予審判事廃止? »

我が国」カテゴリの記事

政治」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/507226/26878207

この記事へのトラックバック一覧です: 偏りについて:

« シヴィックとエスニックの二項対立について | トップページ | 予審判事廃止? »