« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月

政治的オーラ

"Commercial Appetite and Human Need: The Accidental and Fated Revival of Kobayashi Takiji's Cannery Ship" by Norma Field[JF]

小林多喜二の新書を刊行したばかりのフィールド氏が蟹工船ブームと昨今の反貧困運動について書いています。ブームを支える商業主義の論理を指摘しつつこれを求める社会的需要が現在の日本にはあるとしています。自分が研究した時にはなんでそんなこと調べているのといった白々しい空気だったのにねえという風に時代の変化への感慨を表明されています。この記事を読んでいて、個人的には日本の左翼やリベラルにはもっとしゃんとしてほしいものだとは思うのですけれども、世直しや人助けは彼らの占有物ではないのですよと言いたい気持ちにもなりました。ひとつだけ言うと、

If Japanese activists today, often securely middle-class, well educated, and middle-aged and older, who are dedicated to problems of historical consciousness, the former military comfort women or Article 9,have not seemed engaged by the antipoverty movement of the young, then the latter have not taken up the antiwar cause.  Given the limitations of time and resources, this is altogether understandable.  But in order to catch up with the consciousness of Takiji and his comrades of the late 1920s and early 30s, in order, therefore, to be adequate to the demands of the present, it is necessary to join the antipoverty and antiwar struggles. That entails overcoming the sectarian residues from the 1960s and 70s as well as generational divides.

この点はどうなのかなと思いました。個人的には昔の戦争の話や護憲の話はどうぞご自由にといった程度ですが、飯食わせろとか住むところくれの切実さには共感的になれるかもしれないといった感じですかね。別にシニカルになっている訳ではないですが、運動のやり方や目標の掲げ方や言葉の使い方があんまり上手じゃないように見えます。一般論として民主主義の活性化にとっても必要だとは思うのですが、私はどうにも日本の社会運動のノリが苦手なんですよね。いえ、有意義なことをしている人達も感じのいい人達もいるとは思うのですけれどもね。

""La Puissance ou l'influence ?", de Maurice Vaïsse : cinquante ans de diplomatie française"[Le Monde]

フランスの高名な外交史家のモーリス・ヴァイス氏の新著の紹介記事。ここ50年のフランス外交を扱った大著のようです。現在ではド・ゴール時代には考えられなかったようなアフガニスタンへの派兵やNATO統合軍事機構への完全復帰といった新しい展開を迎えている。無論フランスが並のミドル・パワーといった地位に満足できるはずもなく、絶えず世界的な影響力の拡大を目指している。本書はこれは今に始まった話ではないということを権力に関する派手な言説と現実の受け入れの間の逡巡を軸に辿っているようです。またこの紹介によれば本書は個々の外交官へのオマージュであるといいます。いつか読むかもしれません。ちなみに「戦後フランス外交」という時、「将軍」のこの隠し立てのない言葉を想起することがあります。

「私は劇場にいるのと同じである。私は信じるふりをしてきた。フランスが大国であるということを信じるふりをしてきたのである。それは永遠の幻想である」

それはたぶん幻想かもしれないのですが、それが事実ではないかもしれないことを痛苦とともに自覚し、それを信じているかのごとく振舞えない者は指導者たり得ないといった種類の国家を支える幻想になってきた訳です。多分、21世紀のフランス外交もまた簡単にこの幻想を諦めないでしょうね。

"Defending Kantorowicz"[The NewYork Review of Books]

"Kantorowicz. Juif et nazi?"[paris4philo]

カントロヴィチの「王の二つの身体」を再読してやはり傑作なんだろうなと思ったのですが、ついでに90年代初頭のカントロヴィチはナチなのか論争に関する記事をネットソースで読み直しました。簡単に説明しておくと、カントロヴィチはナチス政権ができた後に米国に亡命した20世紀を代表するユダヤ系ドイツ人中世史家で政治神学研究という副題を持つ「王の二つの身体」は近代国家の誕生を王権の観念や儀礼を通じて分析した代表作です。王には二つの身体がある、自然的身体と政治的身体である、前者はもろく束の間のものに過ぎないが、後者は永遠のものであり、王国の政治的秩序の永続性を表象する、王の政治的身体の観念の発達が近代的で公権的な観念を生み出すことになるのだ、といった内容です。日本語訳は文庫化もされてますのでおすすめしておきます。

でこの人は亡命ユダヤ人であるにもかかわらず、ナチ的だと糾弾されたのですね。いわゆる同化ユダヤ人で戦間期にはドイツの保守革命に近い位置にいて「フリードリヒ2世」という問題作を発表し、ヒトラー登場の際には一時的に共感したという「判断ミス」をした、またシュラムというこちらはナチべったりになった中世史家がいてこの人の王権儀礼研究と重なる部分が大きい点でナチ的だと。この論争、判断ミスぐらい人間なんだからするでしょう、それを認めないならば知的誠実性の観点から批判されても当然でしょうけれども、かなり早い時点で危険を見抜いた訳ですよね、政治的に責任ある立場に置かれていた訳でもないしょうし、なにか生産性のある論争なんですか、ぐらいの感想をもつ「甘い」人間なせいかピンとこない部分もあるのですが、ワイマール時代のあのなんだか判らない狂乱じみた空気には気になるところがあってあれこれ読みふけってしまいました。で、これはドイツに限った話ではないです。知らん顔をしていますけれども、欧州は程度の差はあれどこも似たような空気が存在していた訳ですから。

"A Sacred Aura"[The New Republic]

ちなみにBHL氏がサルコジ大統領は世俗的過ぎて聖なる政治的身体が欠けているという批判だかなんだか判らない論評をしていますね。私にはあの大統領にボナパルティズムの伝統がちらほら見えるのですけれども、違いますかね。といいますか、こういう「教訓」を引き出すべき本なんでしょうかね、揶揄のつもりでしょうけれども、けっこう危険なことを語っているような気もしますね(笑

追記

"Japan's Beleaguered Leader to see Obama"by Blaine Harden[WaPo]

ニュースでHarden氏のこの記事がよく引用されてましたね。就任の際のNYTの狂気じみた社説に騒がずにこれで騒ぐのですか。うーん、どうってことない記事だと思うのですがね。Harden氏の記事ではまともな部類だと思いますけれども。「国家元首」とした誤りは修正されましたが、それ以外に大きな間違いや誇張もないように見えます。といいますか、全部日本のメディアの政治的waiwaiではないですか。みのさんがなぜかお怒りのようですが、朝ズバで今日のけしからん日本記事でもやったらどうですか。おそろしいことになりそうですね。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

東から西へ

深刻さ増す欧州の金融・経済[日経]

欧州経済が一段と悪化してきた。中・東欧諸国の景気減速で欧州全体の銀行の貸し付けが焦げ付き、巨大な不良債権を抱え込む可能性が高まっている。

[,,,]ハンガリーやポーランド、チェコの金融市場の混乱は著しい。3カ国の株価は2月半ばから下落が加速し金融危機前に比べて約半分の水準となった。債券も売られ、通貨も下がっており、最悪の状態といえるトリプル安の様相を見せ始めている。

3カ国は欧州連合(EU)の新規加盟国の中でも経済規模が大きく、これまでは投資先として安定性が高いとみられてきた。トリプル安が起きるのは、国外の投資家の信頼が揺らぎ、投資マネーが一斉に流出しているためである。

問題は中・東欧にとどまらない。この地域で事業展開する企業などに資金を融資しているのは主に西欧各国の金融機関だからだ。特にオーストリア、ドイツ、イタリアの銀行の債権額が大きく、主要行の財務への影響は深刻だとみられている。

[...]ここで中・東欧発の信用収縮に歯止めをかけなければならない。EU内にとどまらず日米を含め国際的で大規模な政策協調を考えるときだ。国際通貨基金(IMF)や世界銀行の支援も視野に置くべきである[,,,]

日経の社説が簡明な見取り図を描いています。中東欧発の信用収縮と景気減速が顕在化し始め、西欧への波及が危ぶまれていると。多くが早くから予想し、危惧していた展開ですが、いよいよ黄色信号が点灯し始めているようです。で西欧諸国の対応は相変わらず足並みが揃っていない、と。ふう。

"Argentina on the Danube? "[Eonomist]

こちらはエコノミストの東欧経済の記事。2009年の東欧は1997年の東アジアと2001年の南米のミックスかと問うています。西側からの資金に頼る当地の金融システムの脆弱性が露呈している。地元の銀行の多くが失敗し、外資系銀行も親会社の好意に依存している状態で、親会社のほうも尻に火がついていると。ギリシア政府は銀行にバルカンへの投資から撤退するように勧告し、オーストリアはGDPの80%を東欧諸国に貸している。また金融だけではなくグローバルな沈滞がさまざまな問題を引き起こしている。西欧諸国への工業製品の輸出は激減し、移民の送金は落ち込み、ウクライナもラトヴィアも先行きが暗い。1997年の東アジア諸国並の落ち込みだが、輸出主導の回復も見込めない。政府ができることと言っても、多くの国で政策手段はわずかだ。利下げをしたポーランドやチェコでは通貨が暴落し、スイス・フランやユーロで抵当付きのローンをしている家計に苦痛を与えている。ハンガリーのようないくつかの国では巨大な赤字の問題が加わる。政策的に余裕のある国ですら緊縮財政をとっている。バルト三国とブルガリアではペッグしている関係で強いユーロが問題となっている。2001年のアルゼンチンの再来を恐れる者もいる。IMFは個々の国の援助は出来るが、地域全体はできないし、ECBは外部の国に貸し付けることを鼻であしらっている。ひどい景気後退は不可避だが、地域のカタストロフは不可避ではない。まず「東欧」というくくりは不正確だ。カザフやウクライナとより小さく豊かでよく統治された国とは無関係だ。10年前のアジアに比べて外貨準備があり、「ホットマネー」も少ない。新加盟国は西欧からの援助を期待できる。銀行システムはかつてのアジアよりも錯綜し、外資系銀行の撤退もなさそうだ。欧州連合やECBは大型の救済に関与したくないだろうが、しなくてはならなくなるだろう。近視眼的な政治家でも隣国を政治的、経済的アナーキーに突き落とすわけにはいかないからだ。ソヴィエト連邦崩壊以降最大の危機であるが、これを大惨事にするには意図的な破滅的保護主義と欧州連合の主要組織の解体の時期が必要になるだろう。が、そんなことはしないはずだ、といった具合に惨憺たる現状を記述する一方で地域全体のカタストロフは避けられるはずだとしています。

"L'Europe dans la crise : de la dénégation à la dissolution ?"[La Tribune]

こちらはラ・トリビュヌのオピニオンに掲載されたエロワ・ローラン氏の記事です。「危機の中の欧州。否認から解体へ?」というタイトルの通り、欧州は迫りくる危機の存在を必死に否認しているが、協働して対応しなきゃ解体しちゃいますぜ、と警鐘を鳴らしています。

グローバルな危機の中で自滅的な無気力から欧州連合を脱するためにはなにが必要なのか。欧州全体での2桁の失業率?ユーロ圏の分裂?東欧諸国の集団的破産?この三つの同時襲来?なにものも欧州の責任者達を動かすことはないようだ。彼らは万が一の際の共同行動の可能性を検討するために、危機の暴力的加速から6ヶ月も経った3月1日にサミットをなおいやいや召集したばかりである。もう少し現実的な議題を提案しよう。いかに欧州プロジェクトが粉砕するのを避けるべきか?行き過ぎだろうか?警鐘家みたいだろうか?次の三つの事実を考えよう。欧州連合とユーロ圏は-ほとんど信じられないことに-今日では米国以上に深刻な景気後退に落ち込んでいる。単一通貨は崩壊を迫られている。欧州拡大は断絶に接している。

第一に大西洋の両岸の景況の信じがたい交代ぶりだ。2008年第4四半期は世界中の経済にとっての殺し屋みたいだった。米国が年率で3,8%の成長の低下を記録したことに欧州ではひどく心を動かされたのだったが、欧州連合とユーロ圏は30%も悪くすることに成功した。米国が-1%に対して-1,5%である。

2008年の傾向の反転は仰天すべきものだ。第1四半期には欧州連合とユーロ圏よりも低いところから出発した米国は年末には1%の累積の成長の超過を記録したのである。このの開きの半分は最後の3ヶ月に広がった。

いかにこの破滅的なパフォーマンスとここ10年の欧州の経済政策の2つの傷とを関連づけるべきなのか?ちっぽけな輸出国のように自らをみなし、内需を無視して対外貿易に全幅の信頼をおいたドイツが実践した社会的ディスインフレーションは高くつく失敗だ。2008年の第4四半期にドイツの国内総生産は米国の2倍以上も後退した。それから果敢、頑固、かつ絶望的に盲目的な欧州中央銀行は2008年7月に金利を上げるという許しがたい誤りを犯して欧州の成長を犠牲にしたのだった。

IMFと欧州評議会の2009年の見通しはこの傾向を延長している。燃料をフル稼働した米国は破裂し、痙攣する欧州よりもダイナミックになるだろう。

しかし景況を超えて現在動揺しているのは欧州の基礎そのものである。グローバルな危機は実際に高い犠牲を払って得た2つの夢を損ないつつあるのだ。単一通貨と東方拡大だ。

公債の金利の開きはユーロ圏の一体性を脅かし、1990年代末の南北の断絶を再活性化している。ところで、悪の重力を信じないようにするためにこの危険な分裂に対する救済策が存在している。イタリア政府の提案にしたがって「ユーロの責務」といったものが創り出されることになるだろう。欧州中央銀行は金融市場をブロックすべく直接にギリシア、スペイン、アイルランドの公債を買収できるだろう。こうした解決に反対するものは日和見主義とエゴイズム-現在の文脈ではどちらも受け入れ不可能だが-を除けばないのだ。

第二の断絶は-長い間縮まると信じられたが-より深刻だ。欧州の西と東が新たに脱線しつつある。新しい加盟国は類稀なる暴力に起因する為替レートと貿易収支の危機の餌食になっている。ところでハンガリーやリトアニアを救うためにぐらつく欧州の連帯の枕もとに呼び出されているのはIMFである。いかに欧州連合はその統合が問題になっている時に二義的な役割に満足できるというのか。

1930年の危機と我々が目にしている危機の間の大きな違いは統合された強力な経済的欧州の存在である。これが国際協力の実験場となるはずなのだ。ところが反対に混乱、さらには対決の震央となってしまっている。グローバルな危機はこの解体に帰着するのだろうか。ひとつのことは確かである。もし欧州が危機を否定し続けるならば、危機は欧州を否定する結果となるだろう。

以上、個人的にはやや見飽きた観のある悲観シナリオですが、ローラン氏もこうした論調に加わったのかというある種の感慨があります。欧州連合の無気力への苛立ちが感じられる記事でした。ともかくオーストリアからはしばらく目が離せないですね。

追記

"Eastern crisis that could wreck the eurozone"[FT]

同じ問題についてのミュンヒャウ氏のFT記事。危機を嘆くだけでなく、一応具体策も記しています。

In my view, the smartest answer to the prospect of meltdown is the adoption of the euro as quickly as possible. There is no need to switch over tomorrow. All we need tomorrow is a credible and firm accession strategy – one for each country – which would include a firm membership date and a conversion rate, backed up by credible policies.

といった具合にユーロ圏の拡大を訴えています。そのために加盟条件を緩和せよと。ユーロ採用については政治的理由もあったりしてそう簡単に進まないような気がしますが、どうにもならなくなったらばあるいは雪崩を打ったようにユーロ・シールドの保護下に逃げ込む事態になり得るのかもしれません。

再追記

"Collapse in Eastern Europe? The rationale for a European Financial Stability" by Daniel Gros[VoxEU]

こちらは同様の問題を扱っていますが、金融危機を救うために欧州レベルのファンドを立ち上げろという提言をしています。

In this environment of continuing systemic stress on the banking system, the case-by-case approach at the national level must be abandoned in favour of an ambitious EU-wide approach. The EU should set up a massive European Financial Stability Fund (EFSF). Given the scale of the problem facing European banks, the fund would probably have to be of substantial scale, involving about 5% of EU GDP or around €500–700 billion.

で誰がファイナンスするのかという問題ですが、かわいそうなドイツ、ということになるのでしょうか。上の記事でローラン氏は批判してますが、そんな風に追い込んだのは誰なんですかねえと言いたくもなります。積極的に経済統合とユーロ推進の旗振りしていたのはドイツ自身だったりするのですけれどもね。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

グアドループのゼネスト

カリブ海のグアドループでゼネスト暴徒化、死傷者も[AFP]

不満の海外県支援に700億円=仏大統領、暴動沈静化狙う[時事通信]

しばらく前からフランス海外県のストの話が報じられていたのですが、ここ連日「海外危機」などという見出しでずいぶん騒がれていました。特にグアドループのゼネストが暴徒化し、治安部隊を投入したあたりはずいぶん緊迫した空気でした。死傷者も出てしまったようです。それでサルコジ大統領が沈静化を狙って海外県に援助を約束したというのがここまでの流れです。これで収束に向かうのかどうかは予断を許さない、ということになるのでしょうか。

報道によればこのたびのゼネストは物価上昇による生活の厳しさが原因とされますが、理由がいまひとつよく判りません。一般に観光や農業が主産業でパリからの補助に頼っている経済面での弱さが今回の危機で露呈したといったイメージで語られているのですが、少し前まで海外県で最高水準の成長率を達成していた記憶があるのですね。これは90年代のグアドループ経済に関するInseeのリポートですが、メディアの報じる援助頼りのイメージは修正すべきだとしています。ただ経済の近代化の進行の楽観的な記述とともに失業率の高さ、公的セクターの比重の高さ、生活コストの高さ、輸出の弱さ、観光の脆弱性といった問題点も指摘されています。またこちらは海外省のページの2007年の概観ですが、やはり楽観的な記述になっています。ユーロ使用にともなう問題があり、成長にともなうインフレ気味の経済で賃金水準が追いついていない状態にあって火がついたということなんでしょうかね。今回の危機の影響がどう及んでいるのかがよく見えないです。石油の供給がストップしたという話もありますが。政治的理由が大きいのかもしれません。

で個人的にはRue89のクレオール語に注目する記事が目に止まりました。それほどレベルの高い記事ではないですが、ニュースを見ていてなにを語っているのかさっぱり判らなかったので。以下要約です。ストを組織したLKPのメンバーはクレオール語で語っているが、演説の重要な側面が非クレオール語話者には理解できないように思える。それは演説者と公衆との言葉のやりとりだ。これはマーティン・ルーサー・キングの演説の例のように黒人文化の重要な側面だ。LKPのメンバーの演説はキングを参照している。聴衆は演説者を応援し、言葉を提供し、演説者は聴衆を挑発し、冗談を言い、叱り付ける。特に女性達がこうしたやり取りを行う。これは住民に根を下ろした運動である証拠だ。クレオール語は構造化された思考の担い手となったのだ。長い禁止の後にこの言語は感情のみを表現し、フランス語が思考を伝えると言われたが、徐々に政治表現の道具として鍛えられていたのであった。ニュアンスが重要だ。演説者は「組織される」ということを言うのに"poté métod"を好むが、この表現は団結や絆を意味する"lyannaj"を強調する。この"lyannaj"は敵を"fouté lyann"する、困難に陥れるという表現と結びつく。 "Nou an lyannaj" とは闘いでそして日常でもみな一緒だという意味になるが、この言葉は10日間の当地の滞在で感じられた感情だ。運動に敵対する側からは「クレオールで話し続けて彼はもうフランス語を話せないのだ」といった非難の言葉が聞かれた。ここに断層が走っているのだ。言語選択は断層の存在を示すもののひとつだ、ということです。この記事で書き手が言っている断層の意味が今ひとつ不明瞭なのですが、パリ寄りの島民とそうでもない島民との間で使用言語の選択に差があると言いたいのでしょうかね。フランス語も話すけれどストで日常語を使用するというのは特に驚くべきことでもないような気がしますが、LKPが独立志向のスローガンを叫んだこともあって過敏になっているのかもしれませんね。

ワールド・ファンではないですが、島嶼音楽が好きみたいで当地の音楽はわりと聴いてます。伝統的なものではグウォ・カが有名です。街のダンサーがいいです。

http://www.youtube.com/watch?v=y6h1MJNchoQ

http://www.youtube.com/watch?v=P4pp0mYmKFs

http://www.youtube.com/watch?v=2sFqXviSEng&feature=related

ビギンとかズークとかいろいろあるのですが、最近ではレゲイのadmiral-Tが人気者みたいです。グウォ・カの伝統が入っていると言われます。

http://www.youtube.com/watch?v=lepyxp_0kwQ

http://www.youtube.com/watch?v=KWdUzaT2D6I&feature=related

ではでは。

追記

よく調べずに適当に書きましたが、経済成長にもかかわらず物価指数は弱インフレ程度で推移しているようです。直接の原因(のひとつ)とされる燃料費の高騰はどうも供給側の問題のようですね。最近の食料品の高騰についてはデータや分析が見当たりませんが、もともと高いと言われていますね。ユーロに加えて輸出入の構造にもなにか問題があるのでしょうか。植民地時代の白人子孫の地主層との人種対立に触れたガーディアンの社説はひとつの模範的な解釈です。確かにこの要素が不満の根源にあると思います。ただこのゼネストにおいて人種対立の要素の大きさをどこまで評価すべきなのかは正直判らないです。

再追記

これを人種対立と理解すべきか否かに関連してRue89に記事が掲載されましたので簡単に紹介しておきます。面倒な論点ですが、この解釈ゲームそのものが既に政治を構成してしまっているらしいので。以下忠実な訳ではありません。これは社会危機なのか人種危機なのかというリード文が内容を集約しています。

"Guadeloupe : Paris dit "statut", le LKP crie "faux débat""[Rue89]

LKPと政府とが交渉している案件は賃金を200ユーロ上げろといった具合に社会的な領域に属しており、この紛争の社会経済的根源は明瞭である。物価高、失業率、特に若者の失業率の高さ、中小企業の多さなどである。しかし別の側面が見え隠れしている。この危機は人種あるいは独立に関する危機なのだろうか。 "La Gwadloup sé tan nou, la Gwadloup a pa ta yo"(「グアドループはわれらのものだ。グアドループはあんたらのものじゃない」)というスローガンは、ベケ(beke 註:17世紀の白人奴隷主の子孫)に向けられているにせよ、メトロ(metro 註:メトロポリテーヌの略、帝国の中心の住民)に向けられているにせよ、社会的な断層と折り重なるアイデンティティー上の断層線を露呈している。ベケもメトロも白い肌の所有者である。LKPのリーダーのエリ・デモタは「奴隷制社会について語ることは肌の色とはなんの関係もない」と述べているのだけれども。しかし現地ではこの問題が存在しないなどはとうてい言えない。4月30日のCanal+のドキュメンタリーで放映された島でもっとも強力な産業家のあるベケが「人種の純粋」を求める一方で、デモタ自身が「黒人とインド系のグアドループ島民は借地人に過ぎないと感じている」と述べているのだ。

パトリック・ロゼスによれば、マルティニクに比べてグアドループでは混血の度合いが低いことが緊張の原因であり、グアドループ島民はアフリカへのルーツ意識がより強いとされる。歴史家のフランソワ・ドュルペールはもっと慎重だ。氏によれば、グアドループ人が特にracistな訳ではなく、小アンティル諸島は遠くにあるブルターニュという訳ではない。彼らは7000キロメートル離れたところに住むアメリカ人なのであり、ブルトン人やアルザス人の地域的要求とは異なるのだ、と言う。公的にはこの紛争は独立主義的な痕跡をとどめないが、ロゼスは厳格な社会的な解釈、あまりにも政治的に正し過ぎる解釈に疑問を呈する。LKP内部で低い声で表明されているのだが、独立主義的な主張が聞き取れると。そこにはフランス人との連帯の喪失があり、メトロポルもまたこの島の運命への関心を失っている。現地の役人は白人メトロで占められ、黒人の役人はC級の役職に追いやられている。

エリ・デモタは怒っている。LKPの代表の誰も独立を語っていないのに、運動の反対者達はわれわれを不安定にするために古い件を再び持ち出している。不満の真の大義を簒奪するための偽りの議論だ。じらして疲弊させるためにLKPが主張したことがない事柄で応答しようとしているのだ、と。.デモタの苛立ちはこの点でLKP内部の深い意見の不一致と関連している。独立の議論をもちだすことは40の運動の連合体であるこの運動の凝集性を弱めることになることを知っているのだ。デモタが昨年そのリーダーだった組合であるUGTGは1973年の創設以来「自決」を訴えている。ギアナの議員のクリスティアヌ・トビラは独立派がリーダーだとしてもLKPを独立運動とするのは誤りだと述べている。フランソワ・ドュルペールにとって意図の勘ぐりはまったくの「時代遅れ」だ。「彼らが市民性と手を切りたいのは彼らがグアドループの国や人民について語っているからではない。われわれはもう19世紀にいるのではない!アイデンティティーの問題を抱えているのはフランス全体なのだ。」

ということです。つまりフランス政府だけでなくLKPのほうもこれを人種の問題や独立の問題にしたくない一方、誰も単なる社会経済的問題だとは思っていないのでかくも運動の意図に敏感になっている、という状況のようです。これはこれで奇妙な状況のような気もするのですがね。市民性ってなんだろとか。

再々追記

"Le mouvement social en Guadeloupe justifié pour 78% des Français"[20minutes]

今回の社会運動に対する世論調査結果が出たようです。BVA pour Orange、レクスプレス、フランス・アンテルの共同調査によれば、78%のフランス国民がこの運動を正当とみなし、17%が正当ではないと考え、5%が意見なしとのこと。また右派の67%、左派の89%、どちらでもないの68%が共感的だとされます。BVAのアナリストによれば、この数値はさまざまな社会運動に関する調査の開始以来最も高い、またアンティルに固有の問題ばかりでなく一般的に社会的抗議に対するメトロポルの受容の高さを示しているとのことです。どうやら危惧し、深読みしているのは一部のインテリだけでこの件は分断を深めずに一定の収束の方向に向かうのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ストからデモへ

中川氏辞任「ご本人が熟慮した上での決断」17日の首相[朝日新聞]

与謝野氏頼みの非常事態 苦肉の策の3大臣兼務[朝日新聞]

酩酊の理由については存じませんし、果たして現在の景況やスケジュールを考えてそれが辞任に値する理由だったのかどうかも判りませんが(一般的に言って日本の政治家のみなさん簡単に辞め過ぎませんかね、あるいは簡単に辞めさせ過ぎではないですかね、酩酊大統領や酩酊大臣なんてこれまで国際ニュースで何人も見たような気がするんですけれども)、財務省およびその族議員の抑えとして中川氏の存在に期待している部分があったので-あんまり抑えが効いていなかったという話もありますが-ここで与謝野氏が3大臣兼務という状況にいささか不穏なものを感じてしまいます。景況の悪化とともにスタンスを変更するのかと思いきやここまでの発言と動きを見る限りちょっとヤバいんでないのと危惧してしまいます。大丈夫なんでしょうかね。

"Murakami defies protests to accept Jerusalem prize"[Guardian]

村上春樹氏が親パレスチナの抗議団体の反対にもかかわらずエルサレム文学賞を受賞した件に関するガーディアンの記事。エルサレムまで出かけていってガザ攻撃を批判してイスラエルの読者に感謝するというのは単に辞退するよりはそれはそれで作家のある種の一貫性が感じられて立派な態度なんじゃないのと思いました。またイスラエルは中産階級がいる成熟した民主主義国なんですから氏のメッセージだって通じる層というのは十分にいて、こういう層を絶望させないというのは長期的に見た場合には中東和平にとっても重要なことだと思うのですね。こうした層が国内的に周縁化され、国際報道的にもかき消されてしまうような状況はあまりよろしくないだろうと。

しかし彼らに卵のままでいて欲しくはなくて、みながみなとは思いませんが、その中の賢明で勇気ある人々には是非とも狡猾な蛇となって高い壁を攀じ登って欲しいなとも思うのです。例えば、マイケル・ウォルツァーが今回のガザ侵攻について「均衡を欠いた攻撃」論に反論したことで批判されたり、ウォルツァー・サイード論争が想起されたりしているようなのですが、個人的にはサイードに共感する部分もあったり、また氏の正戦論は一見人道的なようでいて「非道徳的」な現実主義よりもかなり危険なんじゃないのと思ったりするのですけれども、それにもかかわらずそう簡単には氏の言論を否定できないかなと思うのは、例えば、イスラエルのリベラル派や左派への氏のメッセージはこれはこれで判る感じがあったりするからなのですね。ここにあるのはとてもやっかいな問題なんだと思うのですけれども。

"Un nouveau mouvement social ?" by Guy Groux[Telos]

ギ・グルー氏の近年の社会運動についての考察。以下、忠実な訳ではなく要約です。4月29日の強力な社会動員は矛盾した性格を持っていた。一方でここ20年ほどで顕著になってきた特徴があり、他方では真の断絶、新しい要素がある。近年の社会運動はストからデモへの比重の移動があった。1968年には何百万人もの参加するストライキが工場や会社を覆い、CGTが組織する大規模デモが街頭に溢れた。1995年にはストライキはなお公的セクターでは強力だったが、運動はとりわけ大規模なデモによって特徴づけられていた。2003年と2006年にはこの状況は加速し、ストが減り、デモが増えていった。こうした傾向は今回もまた強化された。ストの比率は各セクターで減少し、デモが大規模化している。1968年にはストとデモの間に深い繋がりが存在したが、最近では両者の解離が進行している。かくして今回の運動はここ数十年の傾向に合致するものである。しかし、別の面では今回の運動には1990年代以降の運動とは異なる固有な性格も存在した。まず今回の動員はかつてとは異なり、金融危機、経済危機の文脈で展開した。確かにここしばらくの運動は失業の文脈でなされたものだが、緩慢な経済成長の中で展開したのだった。今回はそうではない。1995年から2006年の運動は特定のテーマについて政府の改革に抵抗すべく組織されたのだが、今回のはもっと包括的なテーマ、すなわち購買力と雇用に関するものであった。要求の特定性と限定性ゆえに直接に交渉することが可能だったのだが、今回は特定の地域やセクターの水準でしか交渉ができない。もうひとつ別の特徴がある。確かにここ30年ほどは失業が慢性的な問題であったし、これを私的セクターにおけるストの後退の理由と考える者がいる。それゆえ私的セクターの雇用者から公的セクターの雇用者に委ねられる「代理スト」という方式が成功を収めたのだった。しかし特定テーマの要求-社会保障のような-については代理ストのような運動もあり得るが、代理の失業というものは存在しない。今回の危機によってまさにこの問題、失業の問題がこれまでとは比較にならない深刻さで提出されているのだ。こうした文脈において組合は大規模な挑戦にさらされるだろう。経済危機と予見される多くの雇用の破壊に対して「私的なもの」の動員が掛け金となった。今日においてもっとも脅かされ、そしてもっとも代弁され、擁護され、動員される必要があるのは「社会の領分」なのだ。代理によってではなく直接に擁護されなくてはならない。4月29日に我々が見たもの、それは1977年のエットーレ・スコラの美しい映画タイトルを用いれば、「特別な一日」だったのだ。

以上、ここ数十年の傾向である「ストからデモへ」は加速している。しかし、今回の動員にはこれまでの個別的かつ具体的な交渉可能性をもつ動員とは異なる面がある。それは雇用および購買力という包括的なテーマに関わるものである。ここしばらくの私的セクターから公的セクターへの代理のような手段でなされた動員とは違うのだ。今回の動員で掛けられたのは「私的なもの」(このpriveは「奪われたるもの」のニュアンスもあるんでしょうね)の非代理的かつ直接的な擁護である、ということです。この記事ですが、大きな見取り図として判り易いのではないでしょうかね。まあ、ストとデモのないパリなんて火事と喧嘩のない江戸みたいなもんですし、大規模デモは今後もどんどん組織されることでしょう。願わくばそこに悲壮な怒りばかりでなく高揚の笑みもまた見られんことを。

追記

微修正しました(2009.2.18)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

抑止が効かなくなる時

"Impairing the European Union, Gibe by Gibe"[NYT]

欧州の内輪もめについてのNYTの記事。記事はフランス対チェコの図式を中心に描いています。「高校生の喧嘩」と評しています(笑 理念的な対立に加えて名誉感情上のぶつかり合いもあるようです。チェコはプライドの高い国として有名だったりしますからねえ。大国と小国、自由主義的経済と国家主義的経済、ユーロ圏と非ユーロ圏、西欧と中欧といった具合に複数の分割線が走っているが、経済危機がこれを悪化させている、保護主義と国家主義の声が強くなり、グローバル・プレイヤーとしての欧州というのも冗談みたいだと。フランスとチェコの最近の確執としてガザ侵攻の和平案をめぐる交渉でのサルコジ氏の独走の話や自動車産業への救済案を提出した際のチェコみたいな国から雇用を取り戻すのだ発言が挙げられています。また財政規律をめぐってフランスやイタリアとドイツやチェコが対立している点も書かれています。チェコの外相の発言が関心を惹きます。

“In a time of economic crisis, we see atavistic instincts emerging,” said the Czech foreign minister, Karel Schwarzenberg, describing the way that individual nations are responding to popular distress by patriotic and protectionist measures and statements and by playing down the unity of Europe.”

“I’m most afraid of the slogans of the 1930s” about the primacy of the nation, he said. “With these problems, people forget about European thinking, and it’s understandable but it’s damaging, very damaging to ignore Europe in a crisis, especially as the crisis grows.”

1930年代みたいに危機に直面した各国が愛国主義と保護主義に訴えて欧州の一致を犠牲にしていると。「隔世遺伝的な本能atavistic instincts」というのは面白い表現です。またフランスみたいに欧州の中央集権化を求める国が愛国主義に走るのは奇妙だとも語っています。記事はチェコの欧州担当大臣の発言を引用して小国の感情にも触れています。

France, Germany and Britain still dominate the European Union and want to continue to do so, said Alexandr Vondra, the Czech deputy prime minister for European affairs. “Occasionally they consult others,” he said, “but of course the people of small countries know this, and that’s why there is hesitation about the Lisbon Treaty,” which would create a permanent European president and foreign minister, and which the Irish have rejected and the Czechs have not yet ratified. “People fear more of this power management.”

優越的な地位を維持しようとする英仏独への反感がリスボン条約への躊躇の理由であると。まあ感情的には判るような気がしますが、こうやってぐずぐずしている場合ではないと思うのですけれどもね。フランスの欧州主義と愛国主義の矛盾は確かにその通りですが、この種の論理矛盾を意志と実用主義で乗り越えるのが政治家というものではないかとも思うのですね。必ずしもサルコ・ファンという訳でもないですし、保護主義は困ると本気で思うのですが、とりあえず提案と挑発を続けるよう期待しているところもあります。

"Japan's Decision for War in 1941: Some Enduring Lessons" by Dr. Jeffrey Record

地政学の奥山さんが紹介していた記事ですが、こうした認識が出てくるのはイラク戦への反省が背景にあるようです。論者のことはなにも知りませんが、戦略論の世界の人なんでしょう、道徳的、イデオロギー問題関心があまり前面に出て来ないためある種の清々しさを覚えます。正義や道義に関心のある人には物足りないかもしれません。要は日米戦争はどちらもやる気がなかったのに双方の判断ミスによって生じたという考えですね。歴史的観点から言って特に目新しい知見があるという訳ではありませんが、アメリカからこういう議論も出てくる時代なんだというある種の感慨はあります。それは必ずしも弱さではなく経験からのフィードバックが効きやすいアメリカという国の強さの証だとも思います。各論部分の分析は紹介し切れないのでパスして、6つの教訓の部分だけメモします。

(1)fear and honor, "rational" or not, can motivate as much as interest.

リアリストは利益計算による権力闘争として国際政治を説明するが、恐怖、イデオロギー、プライドといった要素を無視している。ツキディデスの言う「恐怖、名誉、利害」の前二者だ。石油禁輸措置の断行と代替的選択肢の不在が太平洋戦争を「不可避」にした。恐怖に怯える国家指導者は無軌道に行動する。911テロの後のブッシュ政権のように。名誉は日本の例だけでなく、英国のダンケルク後の開戦決定、フランスのインドシナとアルジェリア、南北戦争時の南軍の例もある。持たざる者はリソースを超えた行動をする。ヴェトナムのように。

(2)there is no substitute for knowledge of a potential adversary's history and culture

互いの文化に無知であったことは開戦にとって重要な要素であった。グルー駐日大使のような例外を別すれば日本については知っている者は米国にいなかった。日本には山本五十六のような知米派が存在したが、多くの指導者、とりわけ陸軍指導者は米国について無知であった。人種的偏見も両国に存在した。日系人を含めて人種差別の歴史を持つ米国では黄色い小さな人々に過ぎなかったし、人種的卓越性を信じる日本人は米国人は長期戦を戦うには物質主義的かつ個人主義に過ぎると考えた。日本はパールハーバーが米国世論に与える影響を理解していなかった。文化への無知は米国の外交政策を蝕み続けている。ヴェトナムとイラクへの無知は日本同様だった。ここで米国の自己過信が他の文化の尊重を妨げているというコリン・グレー氏の言葉を引用しています。

(3)deterrence lies in the mind of deterree, not the deterror

日本の南進に対してローズヴェルトはハワイへの艦隊の派遣、度重なる経済制裁、フィリピンでの軍備増強によって抑止しようとした。米国への勝利はあり得なかったためにこれが抑止になると考えられたのだ。東京が恥ずべき平和よりも負け戦を望んだことを知った時には遅すぎた。石油禁輸は日本には耐えられなかったのであり、従属よりも戦争を選択した。彼らは抑止されたのではなく挑発されたのだ。米国の軍事的卓越が戦争を急がせた。ミリタリーバランスが後戻り不能なまでに不利にシフトする前にできるだけ早く開戦しなければならなかったのだ。

(4)strategy must always inform and guide operations

日本には中国および東南アジアにおいて目標を達成する一貫した戦略がなかった。この戦略の不在は部分的に東アジアにおける野心と軍事的リソースの間のギャップに帰せられるし、また部分的には日本軍の戦争の戦術レベルへのフォーカスに帰せられる。日本は対米戦の戦略を持っていなかったし、いかに戦争を終結するのかの絵柄も描けなかった。初期の戦術的勝利が究極的な戦略的成功をもたらすということを信じていた、あるいは希望していただけだった。2003年のイラク侵攻、とりわけその戦後の計画の不在や兵力とイラク再建のミスマッチを想起させる。いかに古い体制を解体するかの軍事作戦しか考えておらず、後はイラク人は解放を喜ぶだろうといった希望的観測があったばかりだ。

(5)economic sanctioning can be tantamount to an act of war

1941年の石油禁輸は破滅的なものであり開戦を決定づけた。経済制裁が及ぼすダメージは国際貿易に依存する日本のような国にとっては軍事攻撃に匹敵し得る。戦争の代替策としての経済制裁という一般の見方は再検討が必要だ。

(6)the presumption of moral or spiritual superiority can fatally discount the consequences of an enemy's material superiority

卓越した意思が火力や技術で優位の米国を打ち負かすという考えは日本に限った話ではない。毛沢東は人民解放軍の士気が米国を朝鮮から追放すると信じたし、フセインやビン・ラディンはヴェトナム敗戦やレバノンの屈辱を見ていた。より強い敵に直面すると人種や戦略や戦術の卓越性への信仰が強いられることになる。非正規戦のみが強い敵に勝てるチャンスを与えるが、通常は正規戦を戦える能力を得る前に失敗に終わる。毛沢東は非正規戦を正規戦への移行と捉え、正規軍の卓越性を評価した。ヴェトナム共産軍がフランスに勝利したのは正規戦だった。

(7)"inevitable" war easily becomes a self-fulfilling prophecy

戦争は少なくとも一方がそう信じれば不可避のものとなる。日本は東南アジアの欧州の植民地のみを攻撃することで米国との戦争を回避できたが、そのチャンスをつぶした。パールハーバーとフィリピンへの攻撃がなければ、ローズヴェルトがアメリカの選挙民を戦争に賛成させるのは極めて困難、おそらく不可能であったろう。しかし1941年の夏の終わりには日本の指導者のほとんどが米国との戦争は不可避だと考えた。そして最も有利な戦術的な環境下でこれを開始すべく動き出すにつれてそれは不可避となった。不可避であるという仮定が先制攻撃を促し、これを命じすらする。予防戦争というものは不可避性と不利な戦略トレンドという仮定に基づく。ブッシュ政権はフセインとの戦争が不可避であり、核兵器を取得する前に開戦しなければならないと論じた。日本は抑止可能だと誤って考えたローズヴェルトと異なり、ブッシュは核を保有したフセインは抑止不能だと主張した。本当にそう考えていたのかどうかの証拠はないが、明白なのはこの予防戦争のコストが利益に比べて巨大であったことだ。この経験は対イラン戦略に生かされねばならない。

南部仏印進駐が決定的だった点については誰もが認めるところでしょうけれども、ローズヴェルトが日本の南進を経済制裁で抑止できると考えたのは誤りだった、むしろ戦争の引き金を引いてしまったという考えですね。勿論日本を戦争に引き込んだ式の謀略論はとっていません。もっとも論者が述べるようにそのまま南進したとしてもパールハーバーがなければ米国の介入がなかった可能性が高い訳ですから対米戦は「不可避」ではなかったということになるでしょうし、また経済制裁をくらっても実際にはいくらでも抜け道はあったでしょうからやはり「不可避」ではなかったということになるのでしょうね。あの思いつめ方はやはり「恐怖」と「名誉」の要素を無視しては理解不能ということになるのでしょう。

ひとつの論文にすべての論点を網羅することを期待する訳ではないですが、なにか言うとすれば、日本の意思決定プロセスでトップの部分のみに注目していて、海軍内部の派閥抗争や陸軍と陸軍との敵対関係やメディアに煽られて強硬になった世論の要素の分析が薄いところでしょうか。特に世論の動きはアメリカの方はあまり信じたくないかもしれませんが、民主主義国だった訳ですから重要でしょう。それから海洋での戦争の理解はともかく大陸の戦争の理解は怪しい感じがしました。こちらは道義性の問題が前面に出てしまってなかなか正確な像が描けていないのですから現状では仕方がない面があるのかもしれませんが、多分こちらのほうが中東政策にとっては教訓に満ちているように思いますがね。最後に二番目の教訓での主張に反して日本の文化と歴史の理解の届いていない部分があろうかとも思いました。実際にそういう戦時プロパガンダがあったのは事実ですから誤解されるのも無理からぬところがあると思うのですが、違和感のある部分がありましたね。前後から見てdetourと考えているようなので本質主義的な理解をしている訳ではないのでしょうけれども。まあ日本の論者のうちの理性的な部分とは対話可能な人ではないでしょうかね、といった感想を持ちました。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

ヤンキ-と私

少し前に飲みの席で茨城のヤンキ-事情についていろいろと聞きました。隣に居たもう一人は栃木者でしてそのやりとりがとても楽しかったです。この種の地域的な権力関係みたいな話はわりと好きです。茨城者の対抗意識を微苦笑でやり過ごす余裕の栃木者もまたその横で火花を散らす千葉者と埼玉者には頭が上がらないようだ、みたいなミクロな権力関係のことです。とりあえず福島には勝っているということで二人は落ち着いたようですが、そんな結論でいいのでしょうか。不在の福島者は福島者で俺達は東北ではなく関東に近いのだといった卓越主義的な県民意識を有するのかもしれません。東京を中心にしたこのいがみ合いとやっかみ合いの構造はヤンキ-という極めて土着的な存在を通じてくっきりと浮かび上がるようです。

笑いながら話を聞いていて思い出しだしたのですが、私の中学時代もまたヤンキ-にまみれていました。どちらかと言えばいわゆる優等生でヤンキ-ではなかった訳ですが、なんとなく周囲から浮いたもの同士でリーダーと仲がよかったこともあって彼らとはわりと近くにいたような記憶があります。校内権力闘争や学区間境界紛争にも関与していました。今思うにあの戦国的なノリはなんなんだったんだろうという気がしてきます(笑 なんの具体的利益がある訳でもないのに領域支配圏の争奪を繰り広げていましたね。

フランス大統領サルコジ氏の問題発言で一躍脚光を浴びたラカイユという仏語があります。くずとかワルとか貧民とかいった意味の侮蔑語ですが、言葉そのものの歴史は古いようです。私にはカミュの「ペスト」で使われるラカイユがひどく印象に残っています。郊外の悪がきを意味するようになったのは90年代以降にラッパー達がこれを自称として用いるようになってからとされます。サルコジ氏のラカイユ発言はこの文脈にあります。ちなみに郊外のラップは残念ながら私のフランス語能力では聞いただけでは意味が判らないところが多いです。英語のラップよりはまだましですけれども。ラカイユと言えば、レユニオン生まれのレゲエ歌手にトントン・ダヴィッドという人がいますが、その人の「ラカイユの歌」というアルバムも思い出します。

「ろくでなしブルース」というヤンキ-漫画が日本にありますが、これは「ラカイユ・ブルーズ」といいます。ろくでなし=ラカイユではないような気がしますが、不良少年を指す点で採用されたのでしょう。この仏訳版を読むと悪がきフレンチに親しむことができます。ワル語は日本語よりもフランス語のほうが生彩に富んでいるように見えます。

ともかくフランスの郊外の悪がき達にもヤンキ-漫画は読まれているようです。実際、読んでいるところを目撃したことがあります。悪がき、特に男のほう、があまり熱心なネットワーカーでないのは万国共通のように思えますし、ブログで取り上げているのもどちらかと言えばオタク的な層や普通の層が主体のようですが、それでもあんまり頭のよさそうじゃないブログ-ブログっぽくないですが-に感想なんかもあったりして読んでみるとなんとなく心和むものがあります。ある種の普遍性があるようです。

ヤンキ-漫画の範疇には入らないのでしょうが、松本大洋の「青い春」は私にはけっこう来るものがあります。そこに描かれる不良達の生態は私の周りにいた連中とはずいぶんと違うのですけれども(中学と高校じゃ違って当たり前ですが、時代もずれていますし)、作者の立ち位置がかつての私と少し似ているような気がするので。作者とは資質的にはあまり似ていないような気もしますが、とりあえずヤンキ-の中の異分子という立場は似ている訳です。陸這記さんに関連するエントリがあったのですが、そこで引用されている「あとがき」の

学生時代、私は俗に「不良」と呼ばれるタイプの人間では有りませんでしたが、その類の友人は多く、放課後の校庭で・屋上で「夜露死苦」だの「喧嘩上等」などの文字をバックに凄んでみせる彼らの写真をよく撮らされました。(中略)

 今にして思えば、現在をすでに過去として捉えていた彼らにとって、カメラというアイテムがとても重要であることも理解出来るのですが、当時はそうした間抜けた行動を奇天烈に感じた私にとって彼らの一挙手一投足は常に興味の対象でした。

は少し判る感じがあります。私には彼らの粗暴と感傷の振幅の大きさが謎でした。他校にスクーター特攻をかける恐れ知らずな面と自動車に轢かれた猫の葬式を川べりで嗚咽しながら執り行う面が同一人格内に共存することの不思議ですね。なおこのエントリで語られているイギリスですが、フランスと比べると逸脱行動のあり方が日本に似ているところがあるようにも見えますね。不良の消滅という話についてはどうなんでしょうね、「反抗する若者」みたいなイメージに収まらなくなっても不良的なものは存在し続けるように思いますけれども。と書いてきて、東アジア圏の不良文化に興味が湧いてきたのですが、韓国ぐらいしかイメージが湧きません。わりと似ているように感じられます。中国はどうなっているんでしょうね。武侠小説的な世界なんでしょうか。適当なことを書いていますが、それはそれでイメージとして楽しそうですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

テマルですか

フランス領ポリネシアでまたしても政権交代があり、オスカー・テマル氏が大統領に返り咲いたようです。なんだか訳が判らない展開ですが、個人的に目が離せないのでメモしておきます。

"French Polynesia elects president"[BBC]

パリの肝いりの中華系のガストン・トン・サン大統領が不信任決議の動きを受けて辞任し、選挙の結果、オスカー・テマル氏が大統領に選出されたということです。テマル氏は独立派の英雄的な人物ですが、ここ5年ほどで4度目の大統領就任とされます。簡単に振り返ると自治派のガストン・フロス氏の政権が20年ほど続いた後に、2004年にこれが破られ、その後、7回も政権交代が起こり、非常に不安定な状況が続いています。なお慣例に従ってpresidentを「大統領」と訳してますが、独立国家ではありません。それでパリとの距離をめぐって自治派と独立派の角逐があった訳ですね。ちなみにこれは2004年のテマル氏が大統領に就任した際のビデオです。http://www.youtube.com/watch?v=xEe-KMbPQZM

"Oscar Temaru élu à une large majorité président de la Polynésie"[Le Point]

それで今回の選挙では自治派がテマル氏の支持に回ったことが勝因であったとされます。この30年来の宿敵であるテマル氏とフロス氏の同盟は両者によれば「ポリネシア人がもはやパリから操作されることを望まず、自分達の運命を自分達の手に掴むことを決めた印」であるといいます。ポリネシア経済も世界的な危機の影響を受けて観光業が低迷している模様で、テマル氏は演説で一致団結して経済危機を乗り越える必要性を訴えたとのことです。これから議会の議長の選出と組閣、副大統領の選出がなされる予定になっているようです。

独立派と自治派と言いますが、両者の距離は徐々に縮まってきているとされます。テマル氏も性急に独立宣言をしないことを誓い、漸進主義的な独立路線に転換し、フロス氏もより高度な自治を目指す方向に転じているとされます。両者は政治的には宿敵ですが、私的には親友でもあるといわれていて、今回の選挙で両者が同盟し、テマル氏が2004以来初めて絶対多数を握ったのは大きな流れから見るとそれほど不自然にも思えません。前回の大統領選挙でトン・サン氏に対して両者が手を握った際には「不自然な同盟」などと言われていましたけれども。

"Une élection sans enthousiasme : réactions"[Tahitipresse]

地元紙の報道を見ると、今回の選挙は盛り上がりに欠けていたとされますが、インタビューなどを見ると、とりあえず絶対多数の安定政権が誕生したことを進歩と見たいと考えている人が多いのかなという印象を受けました。熱狂の欠如がなにに起因するのかの解説はありませんが、普通に考えて政権交代の頻繁さへの飽きと経済の低迷が最大の原因と考えてよさそうに思えます。

さて、親仏派のトン・サン氏の政権が倒れたことでパリとの関係が今後の焦点になってきそうです。フロス氏にせよテマル氏にせよ中央政府からはあまり好かれてはいない人物ですので。差し迫った経済の問題もあるのであまり激しく対立もできないでしょうねえ。ともかくこの政権で安定した統治が実現されるといいです。政情の不安定が経済に打撃を与えてきたと言われますから、まずそこからでしょうね。

それでは。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

日本の反ユダヤ主義?

”The 'Jewish conspiracy' in Asia” by Ian Buruma[Guardian]

ガーディアンへのイアン・ブルマ氏の寄稿。この方については日本について論じる左派の中ではわりあい評価しているほうなのですが、率直に申し上げて、このタイミングでこのネタ投じるのかといささか困惑しました。この記事で言うアジアというのは東アジアのことです。またJewsはユダヤ人で通します。以下、翻訳ではなく内容紹介です。

中国のベストセラーはいかにユダヤ人が国際金融システムを操作することで世界支配を計画しているかを描いている。この本は政府高官の間で読まれていると伝えられる。もしそうならばこれは国際金融システムにとってよくないことだ。こうした陰謀論はアジアでは稀ではない。日本の読者もこの手の本に食指を動かしてきた。こうした本は1903年にロシアで刊行されたシオンの議定書のヴァリエーションであるが、日本が出会ったのは1905年にツァーの軍隊を打ち破った後のことである。中国は多くの近代的なアイディアを日本人から受け入れたが、おそらくユダヤ陰謀論もそうだろう。しかし東南アジア人がこの種のナンセンスを免れている訳ではない。マレーシアのマハティール前首相は「ユダヤ人は代理を立てて世界を支配している。彼らは他人を戦わせて自分達のために死なせるのだ」と発言した。フィリピンのビジネス雑誌の最近の記事はいかにユダヤ人がアメリカを含めて自らが居住する国をコントロールしてきたのかを説明する。マハティールの場合には歪んだ種類のムスリムの連帯の観念がおそらくは働いている。しかし欧州やロシアの反ユダヤ主義とは異なり、アジアのヴァラエティーは宗教的ルーツを持たない。中国人も日本人も聖なる人物を殺害したことを非難しないし、実際に中国人や日本人やマレーシア人やフィリピン人のほとんどはユダヤ人を見たことすらない。

それではアジアにおけるユダヤ陰謀論の顕著なアピールをいかに説明するのか。答えは部分的には政治的なものに違いない。陰謀論はニュースへの自由なアクセスが限定され、自由な研究が制限された相対的に閉じられた社会で生き延びるものだ。日本はもはやそうした閉じられた社会ではないが、民主主義の短い歴史を持つ人々ですら見えない力の犠牲者であると信じがちなものである。ユダヤ人は相対的に知られていないが故に神秘的なのだ。そして西洋となんらかの仕方で結びついて反西洋パラノイアの備品となるのだ。どの国も数百年間西洋列強の犠牲となったアジアではこうしたパラノイアが広まっている。日本は正式には植民地化されたことはないが、アメリカの砲丸外交で開国した1850年代以降、西洋の支配を感じていた。

アメリカとユダヤ人を一つにみなすのは19世紀末に遡るが、欧州の反動主義者達は金融の貪欲にのみ依拠する根無し草の社会であるとアメリカを難じた。これは「根無し草のコスモポリタン」の金融屋というステレオタイプと完全にマッチした。それゆえユダヤ人がアメリカを動かしているという考えが生まれたのだ。植民地の歴史の大いなる皮肉のひとつは植民地化された人々が植民地統治を正統化する当の偏見を採用したことにある。反ユダヤ主義は欧州の人種理論とともに到来し、西洋では流行らなくなった後にもアジアで生き延びた。ある意味、東南アジアの中国系の少数派は西洋でユダヤ人が苦しんだ敵対感情を共有してきた。多くの職業から排除されて一族主義と貿易で生き延び、「大地の子」ではないという理由で迫害されてきた。そして彼らもまた金を生むことに関して超人的な力を有すると考えられた。物事がうまくいかないと中国系は貪欲な資本主義者としてばかりでなくユダヤ人同様に共産主義者として非難された。というのも資本主義も共産主義も根無し草性とコスモポリタニズムに結び付けられているからだ。恐れられるのと同時に中国人は誰よりも賢いと賛嘆されている。恐れと畏怖はアメリカ、そしてユダヤ人に対する人々の見方にもしばしば明らかになる。

日本の反ユダヤ主義はとりわけ興味深い事例だ。ニューヨークのユダヤ人銀行家のジェイコブ・シフの支援を受けて日本は1905年にロシアを打ち負かすことができた。したがってシオンの議定書は日本人が疑った事柄を確認したのだ。しかし彼らを攻撃する代わりにプラクティカルな国民である日本人はこうした賢く、強力なユダヤ人を友人にするほうがいいと決めたのであった。その結果、第二次世界大戦の間にドイツ人が同盟国日本にユダヤ人を引き渡すよう求めたにも関わらず、満州国では日ユ友好を祝うべく夕食会がもたれたのだった。上海のユダヤ人難民は決して快適ではなかったが少なくとも日本の保護下で生き長らえた。これは上海のユダヤ人にとってはいいことだった。しかし彼らを生き延びさせたアイディアそのものは今では彼らのことをもっとよく知るべき人々の思考を混濁させ続けているのだ。

以上、アジアではユダヤ陰謀論が受け入れられている、それは宗教的なものではなく無知に基づくものだが、それを支える政治的理由というものがあるという内容です。中国については知りませんので、日本についてのみコメントしておきます。

第一に「反ユダヤ主義」anti-semitismと呼ぶべきなのかどうかがまず疑問です。全体として日本国民にユダヤ人への憎悪があるかと言えばない訳ですし、遠くの話で興味もない訳ですね。にもかかわらず、聞いたことのないような人々の言説を取り上げて書かれたかなりバイアスの強い「日本の反ユダヤ主義」についての本なんてのがある訳ですね。かつてこれで日本批判もありました。しかし、例えば、「フランスの反日主義」についての本だってその辺の素材をランダムにサンプリングして書こうと思えば私でも書けますが、それがミスリーディングなことは言うまでもありません。日本には歴史的にユダヤ人差別は存在しないし、反ユダヤ主義が広汎に存在しているかのように表象することは投影と不当な一般化であるという点はしつこく繰り返さないといけないポイントだと思います。陰謀論マーケットは熱烈な人々の間のごく限定されたものであり、日本でもUFOやオカルトと同じ扱いでまともな議論としては相手にされていないし、三文ライターやネットの陰謀論好きに「日本人」を代表させるのは誤表象でしょうと。勿論こう言ったからといってこの種の言説を是認している訳ではなく有害であり、現状以上に周縁化されるべきだと思います。ちなみにブルマ氏はフルフォード氏をどう理解するのですかね。私には意味不明なんですけれども。

それからユダヤ人に学ぶ金儲けとかユダヤ人に学ぶジョークみたいな本が偏見に基づいているのは事実でしょうが、読者にとっては華僑に学ぶ金儲けやイギリス人に学ぶ資産運用やフランス人に学ぶ恋愛術との間に質的な差異があるとも思えません。読んだことがないので判りませんがね。こういう偏見なり無知なりと憎悪はやはり違うと思うのですね。ついでに無知や偏見ということで言えば、ここで悪意はないけれども偏見のある日本本-残念ながら多くがそうですが-に対して反日主義だ!と糾弾してまわる奇妙さを想像してみればいいと思います。私はこのブログでいろいろケチをつけたりしますが、それはクオリティティーを保つべき責務のある人々だと思うからであってそれ以外に対してはかなり寛容というのか期待水準が低いです。勿論ユダヤ人について正しい知識が日本で広まることは私も願っていますし、まともな本や論文は日本語でもいくらもありますので多くに読まれることを望んでいます。

第二に戦前日本におけるユダヤ人観についていささか単調な記述に見えます。シオンの議定書的な陰謀論を真に受けた人々がいたのも事実ですが、日ユ同祖論に見られるような同一視の(脱)論理もまた存在していたことも興味深い現象として記述すべきではないでしょうかね。西洋列強への恐怖とユダヤ人への共感さらには同一視といういささか倒錯した理路もあった訳ですね。これもいわゆるあやかりの心理ですから、プラグマティックという評価は正しいと思います。ただユダヤ人をめぐる問題は帝国臣民全体の共通の問題関心になったこともない訳ですし、論じていたのは事情通を気取る人々や政策担当者ぐらいなんですからから「日本人」を主語にして語って欲しくないのですね。日本から中国への陰謀論の伝播については面白い論点ですが、どうなんでしょうね。欧州からの直輸入経路もあると思いますが。

第三に明治デモクラシーも大正デモクラシーも昭和デモクラシーも無視して戦後デモクラシーではじめて日本にデモクラシーが開花したかのごとき記述もまたありがちなナラティブでしょうし、また閉じられた社会云々にしても戦前欧州で反ユダヤ主義が吹き荒れたのは欧州が閉じられた社会だったからなのか、黄禍論が吹き荒れたのはアメリカが閉じられた社会だったからなのかという疑問が浮かびます。あるいはブルマ氏はベビーブーマー世代らしく第二次世界大戦以前と以後で歴史を区分し、欧米も閉じられた社会だったと考えているのかもしれません。

では反ユダヤ主義の言説形式でユダヤ人の部分を日本人に置き換えたような言説が1980年代から90年代にかけての欧米の主流メディアを浮上し(今でもネットに残存し)、中国人に置き換えたような言説が2000年代に主流メディアにまで浮上した事実をどう考えればいいのかとか、また現在のアメリカのネットで陰謀論が盛んになっているのはどういうことなのかという問いも浮かびます。私にはむしろ情報技術の発達が新たなる人種主義の可能性をも押し広げているようにも見えるのですが、杞憂でしょうかね。情報の量と多様性が固定観念の解除に貢献するという一般論には同意しますが、その点は過度に楽観的にならないほうがいいと思いますがね。情報量の拡大に対応できずに単純な物語に固着するということもあるでしょうから。

この記事の特にリード文で「西洋」と「アジア」の対比が想定されているのが、あるいはそういう言説を誘発させるリスクがあるのが問題だと思うのですね。つまり西洋は反ユダヤ主義を克服したが(事実ではないでしょう)アジアはまだ克服していない(差別問題そのものが存在しないのに)といった珍妙な責任転嫁の言説として受け止められないかという危惧があるのですね。実際、既にそういう反響をいくつか見たので。愚かな読者の責任を書き手は負うべきだとは思いませんけれども、オリエンタリズムとオクシデンタリズムのリスクに敏感なはずの論者にしては少し脇が甘いように見えました。

誤解を避けるためにいうまでもなく陰謀論のたぐいは有害だと考えていることを繰り返しておきます。ガザに関して騒いでいる極左や極右で暗黒面に落ちているのもいるようですね。軽蔑の眼差しを捧げておきます。我々はそんなものを輸入すべきではない。またあまり真面目に見ていないのですが、主流メディアに対してもやや不満があります。基本的に日本国民はこの問題については他者であり、当事者とは別の認識とアプローチが可能であるはずなのにあちらのメディアのフォーカスの吟味なしにその上で踊るのはどこか滑稽な話だと思います。勿論イスラエルの批判をするなと言っているのではなく、批判的でももっと引いた視線が必要だと思うのです。

ちなみにこの記事のコメント欄がひどいことになっていてかたっぱしから削除要請しておきました。大先生のブログのコメント欄に登場する人も湧いていました(笑 この人達が忠実に反ユダヤ主義の「論理」を踏襲しているのもまた滑稽きわまりない話です。ねえ、友達つくったらどうですか、と忠告しておきますかね。

追記

コメント欄で指摘がありましたが、ガザ侵攻以降の世界の世論動向に関心があってこういう記事を掲載したのでしょうね。特に今、欧州で不穏な空気が漂っているので。それで私にはこの論調に他者への不安の投影を感じるのですね。

エントリを読み直してちょっと過敏に反応しているところがあるのかなという気もしてきました。ただこの話は間歇的にぶり返す傾向があるので困ったもんだなと前々から思っていたのですね。細かい部分での不同意を別にすれば、記事そのものはそれほどおかしな内容という訳でもないです。ただ日本人も、たぶん中国人も大多数にとっては?だと思うんですよね。そしてそういう反応そのものは差別文脈を欠いた地域が世界に存在している証拠でもあるのですから必ずしも悪いことではないと思うのですけれどもね。

細かい表現、誤字等修正しました(2009.2.12)

| | コメント (9) | トラックバック (3)

ムスリム・ファンガールズ

なにに心和まされるのかというのは人によって違うのでしょうが、私の場合、柿の種だったり、ちくわだったり、万葉集だったり、今昔物語だったり、ムネオ日記だったり、近所の阿呆なガキどもだったり、職場のやや奇矯で善良な先輩だったり、と書き連ねるとどこまでもいきそうなのですが、最近遭遇したのがムスリム・ファンガールズです。

ムスリム・ファンガールズについて極東に住まう一成人男性が書くというのはひどく無作法な振る舞いに思えますが、西洋世界のメディアを中心に政治イデオロギーに塗れた記号としての「ムスリム女性」像が日々流布される中にあってあまり日本のファンガールズ達と変わらない姿を見て心和んだということは否定できない歴史的な事実です。まあそんなに大げさな話じゃないんですけれどもね。

我が邦において嵐という名のアイドル・グループがたいそうな人気を博し、興奮と喚声の渦を巻き起こしているという事実はビリーズブートキャンプをこれから始めようと思っているような流行と波長の合ったためしのない人間にすら知られた話です。テレビはけっこう見るほうかと思うのですが、実は眺めているだけでなにも見ていなかったりします。だからずいぶん前から嵐なるグループを見た記憶が存在しているのですが、それが今、その人気の絶頂にあるジャニーズ・タレントであるということを知ったのは家の人がファンになっていろいろと教えられるようになったわりと最近の話です。

かつて日本関連情報について英語圏と仏語圏と西語圏についてリサーチした際に、美少年的なもののアピールが欧州および南北アメリカの一部に及んでいることについては確認したのですが、伝統的にこうした両性具有的な美学文化を保有する東アジア圏での受け止め方はやはり違うような印象を受けます。あまりエキゾチズムなしに近しいものとしてするっと受け入れられている感じがあります。

マレーシアやインドネシアのようなイスラーム圏の国でもこうした伝統というのは存在しているとされます。一般にシャーマニズムやヒンズーの文化的レガシーとされるようですが、植民地化による西洋文明との接触以前は同性愛「的」行為を含めて咎められるでもなく存在していたようですね。このあたりは昔論文をいくつか読んだ記憶があるのですが、インドネシアというのはトランスジェンダーやトランスセクシャリティー方面でもけっこう論じらてきた国のようです。イスラーム圏というイメージしかないと意外に感じられるかもしれませんが、かの地の文化の多層性と混交性はなかなか面白いです。まあ歴史の話は別にして、ざっと現在の両国のアイドルを見ていると日本ほどではないにしても両性具有的な要素というのは確かに認められますから、共振する文化コードというのは存在しているようですね。

それでマレーシアやインドネシアには嵐ファンのグループが多数存在しているようなんですね。マレーシアのあるファンガールのブログに遭遇し、コーランの一節のいささか自己流の解釈の記述と嵐の大野君への熱烈な思いを綴った記述の混交に軽い認知の不協和を起こしたのですが、でるはでるはという感じでブログやファンサイトがあります。日本語勉強中というのも多いですね。で、ムスリム・ファンガールズというのは私が勝手に名づけた訳ではなく、彼女達の多くが自称に用いているようです。ムスリムのファンであるというこの自己規定のあり方とそこに置かれたアクセントの意味は私にはよく判らないし、あるいはあまり勝手に解釈したくはないのですが、まあそういう意識がある人にはあるんですね。国内の中華系を意識しているのかもしれないし、盛んに英語発信しているところにはステレオタイプに抗したいというモチーフもあるのかもしれないし、同好の友達を探しているだけで特にそんな意識はないのかもしれない。まあ判らない。それと連れ合いに示唆されてユーチューブを見てみるとファンガールズ達のアップしたビデオがずいぶんありまして、メンバーのお誕生日会などを愉しそうにやったりしている訳です。上海のコンサートに行ったの巻のビデオなんかもありますから、中産階級の行動力のあるお嬢さん達もいるんでしょう。クラスの中でどういった位置を占める人々なのかは私にはよく見えません。なんとなく躊躇われるのでリンクはしないでおきます。

私は何度か旅行に行っているので当地の雰囲気というのは表層的ではあれ知ってはいるのですが、当地ではスカーフには宗教的民族的意味合いとファッション的意味合いが混じっているぐらいの印象を受けます。デパートなんかでオサレなスカーフが売られている訳ですね。消費の記号になっている側面がある。トルコほどではないにしてもイスラーム圏の中では緩めの国という印象を受けましたし、ニュースを眺めている限りでは最近はいろいろな動きがあるようなのですが、一般にそのようにみなされています。勿論スカーフについては人によってその意味合いは違うでしょうし、あるいは特段そこに意味合いを与えていない人もいるのでしょうし、年齢でも違うのでしょうし、都市と地方でも違うのでしょう。ファンガールズ達のスカーフの意味合いを勝手にあまり解釈したくはないのですが、そこにはある幅と揺れがあるような印象を受けます。そしてその揺れは別にムスリムの少女達に限ったものではなくてもう少し普遍的ななにかに感じられます。

まあそんな愉しげなサークルの外野による印象などはどうでもいいのですが、どこも一緒やねえ、とひどく心和んだという話でした。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

滞っているようで

うーむ、国会はなにをやっているのでしょうねえ。前からそうですが、テレビのニュースを見るのがひどく苦痛なのですが・・・

パキスタン支援国会合、日米外相会談で提案へ[朝日]

数日前から報じられていたパキスタン支援国会合の件ですが、日米外相会談で提案される見通しのようです。パキスタンの支援策を主導するというのはよさそうな話ですが、ただ最近のパキスタン関連のニュースを見ているとかなり暗澹たる気持ちになりますね。震源地にならないことを願うばかりです。

それからクリントン国務長官が最初の外遊先に日本を選んだ件ですが、ジャパン・ハンズがいろいろ憶測していましたね。しばらく前から吹っ切れてある意味清々しくなりつつあるObserving Japanはこれを端的に誤りだとしていますが、残念でしたねえ。一言だけコメントすると確かに池田信夫氏は面白いですが、独自路線の方なので毒に当たらないように読まないといけないと思います。ともかくオバマ政権では当面東アジア政策に大きな変更はなさそうです。米中が経済対話で喧喧諤諤やっているこの凪を利用していろいろ手を打つべきだと思うのですが、相変わらず腰が重いです。ふう。

集団的自衛権行使 日米同盟堅持の証し[岡崎研究所]

岡崎氏が集団的自衛権行使に関する憲法解釈の変更を求めています。氏の従来からの主張ですが、手続き論の部分が気になりました。特命委員会の答申を受けて政府が新たな解釈を闡明して、政府答弁を修正、それから関係法令を改正していくという手続きを想定していた。しかし、

最近村田良平元外務次官の論を読んでハタと感じるところがあった。「委員会を設けたこと自体不要であり、不見識とすら感じた。(中略)総理大臣として責任において、日本は集団的自衛権は保有している、しかしその行使は慎重であるべきであり、最終的には総理大臣たる自分が判断すると述べ、もし法制局長官が異議を唱えれば、辞任を求めるべきだ。憲法上日本の総理はその権限を持っている」と。

ということです。そもそも内閣法制局に憲法を解釈する最終的な権限はない訳です。それがこれほどまで権威が与えられたのは55年体制下で安保に関して社会党対策を法制局に任せてきた政府与党の無責任-勿論野党やメディアのほうがはるかに無責任だった訳ですが-によると理解しているのですが、それでいいのでしょうかね。違憲審査に持ち込まれた場合にも最高裁は合憲と判断するだろうと氏は予測しています。要するに首相の決断次第な訳ですね。その際、個別的と集団的の区別をしない自衛権を主張する民主党はどのように反応するのでしょう。「自立性を高めるために」も必要なことだと思うので早いところ決着をつけてバトンタッチしてもらいたいのですが、そんな様子もないですね。

"North Korea may test-fire missile toward Japan: reports"[Reuters]

結局、テポドン祭りにでも便乗するしかないのでしょうかね。交渉に前向きとの報もありましたが、将軍様におかれましては日本の世論対策のために国威発揚の方面しっかりお願い申し上げます。いえ、つまらぬ冗談です。この問題に入り込まない形で同盟国としてできることをやっていくということなんでしょう。ふう。

首相、領土問題最終解決へ交渉 改めて表明[産経]

18日に予定されているサハリンでの首脳会談に向けて北方領土返還要求全国大会で麻生首相が挨拶をした模様です。そう言えば、テレビでも公共広告を流してましたね。記事によれば、エネルギー価格の下落を受けてロシアが擦り寄ってきているように見えるこの間に最終解決に向けて交渉を進めたいと考えているとのことです。関連してガズプロムのLNG供給に関するもありました。ただそういう雰囲気でもないような気もするのですがね。キルギスの基地閉鎖のもあったばかりですし。長いことロシアとの関係は強化したほうがいいと思っているのですが、進展はあるのでしょうか。

政府紙幣 悪循環からの脱出に期待[産経]

しばらく前から日銀批判を始めていた産経新聞の経済論調の変化に注目していましたが、これはおおっとなりました。この辺の発想の柔軟性が産経のいいところです。右翼新聞などと英語圏ではいつも揶揄されてますが、こういう顔もあるんですよー、どういう背景になっているのかは知りませんけれどもね。日銀が十分な緩和をする気がないならば、政府紙幣も考慮せねばなるまいと主張しています。日銀が素直にうんと言う場面を想像しがたい以上、こういう案が出てくるのは特に不思議ではないと思うのですが、「対案なしで」無下に否定する声が大きいようなのにむしろ違和感を覚えます。個人的には積極的に政府紙幣を支持しませんが、牽制球になるのでしょうからその方面におきましては大声で議論を続けるべきだと思います。ただ、そうですね、万が一発行されるとしたら、私自身は「ウラシロ」是清紙幣を是非見たいです。いえ、つまらぬ冗談です。現行と同じデザインでしょうね。

B50yen_2

[B号五十円http://chigasakioows.cool.ne.jp/syouwa04.shtml より転載]

追記

JFが農水省を揶揄していますね。私もあまり農水省ファンではないんですけれどもね、ここってブログでしたっけ?クリティカルでありたいなら本気でやったらどうですか。ごく稀に読ませる記事がありますけれど、常連さんに本当の意味でクリティカルな知性はいないようですね。自らの根拠を揺さぶらないクリティックなんてその名に値しないです。気楽なもんですね。個人的には日本のいわゆる「良心的」な人々が利用されている光景ほどうんざりさせられるものはないんですよね。

再追記

言わずもがなのことですが、これはいわゆる「裏切り者」をめぐる問題系の話ではありません。私は不安な民族主義者ではないですし、政治的すれかっらしを別にすればいわゆる「良心的」な人々に対してさほど悪感情はないんですね。私には彼らは懐かしい人々です。英語圏に彼らの発言の場があることそのものは悪いことではないでしょう。私の嫌悪はそれが公平な第三者のような顔をした、その実、自らのアジェンダを抱えた人々に利用されるような構造にあります。つまりくだらない叩きと真率な自己批判のブレンドぶりが不快なんです。また特定イシューについて意見の多様性を誤表象しないように編集するのが公平な態度というものではないですか。公平なんて知るかというならばそう宣言すべきです。Alternative JapanとかLeftist Journal of Japanとでも名乗ったらどうです。ともかく今の状態は中途半端でミスリーディングです(←文意不明でしたので修正しました)。

ロシア関連の報道がどうも変だ[極東ブログ]

うーむ。なにかぎくしゃくした感じがあるのは確かですが、特定の勢力による横槍というのもありそうな話ですねえ。まあ、私にはとうてい判りませんけれども。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リベルテールという語について

きみはアナーキストか、それともリバタリアンか?[ル・モンド・ディプロマティック]

ここでリバタリアンとカタカナ英語化されているのは仏語ではリベルテール(libertaire)です。日本語圏では今リバタリアンというとアメリカのそれをイメージするかもしれませんが、別物ですね。この記事、もともとはアナルシスト(anarchiste)とこのリベルテールは不可分な言葉だったのが、最近では分離し、意味が変わってきているという話ですが、イメージとしてはよく判ります。論者は筋金系左翼の方なんでしょう、今時の格好だけのリベルテールは資本主義の同伴者でプチ・ブル的な保守主義者に過ぎない!と否定的評価を下しています。まあ私は左翼ではないですし、反動主義者でもないですけれども、いい気なもんだな、大将、みたいな感じはありますね。ああ、分かった、分かった、どうぞご自由に、と。私もかなり個人主義的な人間のような気もしますが、他人に自己のライフスタイルを誇示したいという欲望は特にないので。

浮世を楽しむ陽気なリベルテール族は別にして、今でも戦闘的なアナーキスト団体のほとんどがこのリベルテールの語を使用しています。一番有名なのはル・モンド・リベテール(le monde libertaire)とアルテルナティヴ・リベルテール(Alternative libertaire)ですけれども、他にもうじゃうじゃとリベルテールないしアナルシストの名を冠した団体が存在しています。記事にもあるように、こちらのリベルテール族は公安からひどく危険視されています。負け組リベルテールといいますか、私には政治的には評価できない人々ではありますが、負け戦に果敢に挑む根性が時に好もしかったりします。そこに浪人道的なものが見えます。実際、サムライ好きがいたりするみたいです。ちなみに極右にもサムライ好きがいたりします。なぜだ。日本の文化的リベルテール達のアナーキーな侍映画の影響なんでしょうかね。

話があっちこっちにいっていますが、要はもともと社会主義系の用語だったのが、アメリカでリバタリアン党ができて以来この語はむしろ右側の思想というイメージになっている訳ですね。アナーキストからすれば俺達がリバタリアンであってお前らは古典的リベラルだろということになります。まあ、私から見ると、古典的リベラルといいますか、アメリカのリバタリアンはかの地の風土を反映してか、かなり勇敢な人々に見えます。アナルコ・キャピタリズムって言うんですか。あそこまで徹底的なのはすごいもんだと思います。記事にあるように、現代フランスのリベルテールが社会主義的伝統から切れつつあるのは確かなのですが、アメリカのリバタリアンとはやはり全然雰囲気が違います。共通しているのは個人の自由を最優先するという部分ぐらいですかね。

”Joseph Déjacque et la création du néologisme "libertaire" (1857)” par Valentin Pelosse

それでこの語の初出ですが、リンク先の論文によれば、社会主義者のジョセフ・デジャック氏とされます。論者によれば、1875年(?)に反権威主義インターナショナルのアナーキストがこの語を採用したのがこの語が広まった契機となったが、最初にこの語を使った人物であるジョセフ・デジャック(1822-1864)についてはあまり知られていない。1857年にニューオーリンズで出版された11ページのパンフレット『男と女という人間存在についてP・プルードンへの書簡』(De l'Etre Humain mâle et femelle - Lettre à P. J. Proudhon)が初出でこのパンフレットの内容はプルードンの保守主義に対して女性の解放と欲望の自由を訴えたものということです。実際、19世紀にはフェミニスト的なアジェンダとリベルテールは結びつきは強いですね。ブルジョワ道徳を粉砕せよ!ということで。ちなみに、これ、なかなか精密な論文ですね。パンフレットの電子テキストもありますので仏語読みはどうぞ。

それでリベルテールの反対語は何かと言いますと、もともとはリベラルということになります。要は伝統的にフランスでは左にリバタリアン、右にリベラルがいて、それがアメリカでは逆になっている訳ですね。語の関係で言うと、リベルテールが英訳されてリバタリアンになったのですが、それが仏訳されて逆輸入されてリベルタリアンという語もあります。これはアメリカのリバタリアンのみを指すようです。ウルトラ・リベラルとも言いますね。なおディプロの記事にもありますが、最近の親資本主義的なフランスのリベルテールのことをリベラル・リベルテールと呼んだりするのですが、これはもともとの語義からすると矛盾していることになります。反対語をつないでいる訳ですから。アメリカでもリベラル・リバタリアンといったらちょっと変ですよね。

なにを書いているのか判らなくなってきているのですが、要は自由をめぐる立場というのはひどく複雑で流動的だということを言いたいのかもしれません。しれませんって無責任ですが(笑 

それでさらに脱線すると、アメリカにリベラルと呼ばれる人々がいて、私の中にもリベラル的感性はあると思うにもかかわらずなぜ自分をリベラルとは呼びたくないし、呼ばれたくもないという気持ちが強くあるのかが個人的にはよく判らないです。リベラルが概して日本につらくあたるからとかそういう話ではない。そうでない人もたくさんいますし、もしかすると最後の最後に日本国民の味方になってくれる人達なのかもしれないと思うこともある。ただ私が連なっていると思う日本にある自由の伝統の感覚とどこかで衝突するようなんですね。自由とはなにかみたいな一般論にあまり興味はないのですが、私の属する歴史的文脈があって、そこにはいろいろな人々の面影や光景の連なりと堆積があって、自分はその流れにコミットしているという感覚があります。別に思想家がどうとかなんとか理論がどうしたというような宙に浮いたような話ではなくてですね。こういう歴史の感覚を往々にして欠いているからなんでしょうかね、アメリカのリベラルなみなさんに違和感を抱きがちなのは。この点はネオコンなみなさんが与える違和感と大差ない。まあ、不当な一般化をしているような気もしますし、日本も似てきているところもありますし、例外だらけの大雑把な話だとは思うのですがね。

なにか意味不明なことを書いているような気もするのですが、まあ、いいでしょう、そういう一日でしたということで。

追記

少しだけ直しましたが、酔って書いたせいか文意不明ですね。注記しておくと、別に私はリベラル嫌いではなくて尊敬する人もいますし、別に偉い人じゃなくてよくいそうな人でああこの人生粋のリベラルだなあと好もしく感じることもあるのですが、それでもなにか違和感が残る訳ですね。とりあえず歴史の感覚と書きましたが、言い尽くせていないような気がしますし、はずしているような気もします。なんなんでしょうね。つくづくアメリカ知らずです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

投影について

ニュース斜め読みということで以下ただの記事のクリップです。

"M. Mélenchon veut fédérer un "front de gauche" unitaire"[Le Monde]

社会党を脱党し、「左翼党」を旗揚げしたばかりのジャン・リュック・メランション氏が「統一左翼戦線」を訴えかけているようです。反自由主義、反リスボン条約の左翼の結集ということですが、メランション氏によれば、支持層は14%ぐらいもある、ここが統一できれば社会党にも対抗できるということです。欧州議会選挙に向けてフランス共産党と選挙協力しつつブザンスノ氏の反資本主義新党にラブコールを送っているようですが、さて左翼戦線は出来るのでしょうか。反欧州連合を旗印に議会選挙を戦うのですかね。

"French government fears rise of left"[BBC]

左の左の台頭についてはこのブログでも何度か書いてきましたが、フランス政府がこの動きを警戒しているというBBCの記事です。現状では資本主義の失敗を宣告し、不平等の拡大に反対する、郊外の移民と左翼の連帯を訴えるといった主張内容で活動も平和的なものにとどまっているとされますが、この一部が暴力的な極左活動に転じる可能性が憂慮されているようです。その可能性はあるに5コペイカ賭けておきます。ネットを眺めていてもだいぶ不穏な空気になっていますね。

"Les Irlandais seraient prêt à dire "oui" au traité de Lisbonne"[Le Monde]

今アイルランドでリスボン条約の国民投票をしたならば、3分の2が賛成票を投じるだろうという調査結果が出たそうです。サンデー・ビジネス・ポスト紙の調査によると2009年に第二回の国民投票をしたならばどうするかという質問に対して、58%が賛成、28%が反対、14%がわからないとの回答結果になったということです。経済危機を受けて欧州連合に頼りたいという心理が高まっているようです。欧州統合にとってはピンチであると同時にチャンスな訳ですけれども、この危機を活かせるかどうかですね。

"Crise : la présidence tchèque de l’Union et la Commission aux abonnés absents"[Coulisses de Bruxelles]

欧州連合新議長国に関するカトルメール氏の辛い論評。この危機にあたってチェコはまったく欧州的なアジェンダを追求する気がなく、政治空白が生まれている。またバローゾ委員長にも頼れない。このリーダーシップの不在が自分のことは自分でやれ主義への回帰をもたらしている。昨年秋にフランス国家元首の主意主義によって採用された第一の銀行プランは不十分であることが明らかになったのに、あの時、「金融共産主義」を非難していたプラハは欧州的な行動を推し進める気がない。ジャン・クロード・ユンカーも大規模な第二の銀行プランは不必要だと言って行動を拒否しているし、欧州委員会もこの意見に同調している。フランスは欧州の自動車産業の保護プランを提出したが、市場への介入を嫌う欧州委員会もチェコもこれに続かない。エアバス救済に関しても同じだ。ニコラ・サルコジが主導した欧州の再生がいかに脆弱なものであったのかが判る。欧州懐疑派に交代した途端にまたこれだ。欧州委員会も機能しないし、欧州議会も9月まで声を出せない。2009年は欧州の白紙の年となる危険がある。以上、欧州連合の動きの鈍さにだいぶ苛立っています。

"Holocaust row cleric apologises"[BBC]

この間、このネタでエントリを書きかけて止めたのですが、カトリック教会のルフェーブリストとの和解に絡んだごたごたの続報です。ルフェーブリストというのは第二次ヴァチカン公会議以降の教会の現代化路線に反発して破門された保守派のルフェーブル大司教と彼が叙任した司教達のグループのことですが、現教皇がこの派の破門を解除して教会合同を目指したところ英国生まれのウィリアムソン司教がガス室はなかった発言をしてユダヤ教会を憤激させて大騒動になっているという話です。それでこの司教が教皇に対して謝罪した模様です。ただ不用意な発言で大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ないという謝罪で、ガス室についての言及はなかったということです。狙った訳ではないのでしょうけれども、ここぞというタイミングでこの発言ですから。ガザとガスをめぐる騒ぎは今後も間歇的に続くのでしょうかね。

中国の(隠れた)足腰[王侯将相いずくんぞ種あらんや]

これには同感しました。実は私も新華社フランス語版はよく読んでいるのですが、どうして日本のメディアにはこれが出来ないのかと溜め息がでることあります。まあ新華社だからなというのはあるのですが、政治体制がどうこういう話ではなくて、情報というものに対する認識と感度が違うのでしょう、海外に情報発信だと意気込んでは自爆しがちな国との差を感じてしまいます。別にアラビア語版やスペイン語版や中国語版をつくれとは言いませんが、日本の新聞や通信社も英語版ぐらいもっと力を入れて欲しいです。日本だけでちまちまやっていても縮小するだけじゃないですか。

"Jun on Onishi"[Mutantfrog Travelogue]

Global Talk21の奥村さんによるNYTの大西記事の批判を受けてバーマン氏がポストしています。記事への批判は正確なものだとしつつも一般に大西氏に対する批判は少し過剰ではないかという疑問を呈しています。多くの批判は正確だが、「反日」というラベルは侮辱的だし不正確だ。特派員にバイアスがあるのもそれほど珍しいことでもないし、悪いばかりでもない。よくあるWackyJapanニュースよりはシリアスなテーマを扱っている。間違いがあったので批判された。それはいいことだ。しかし批判がどこまで公平なのか疑問は残る。タイムズのアフリカ特派員はアフリカ・ハンズからこれだけ批判されるだろうか。BBCのアメリカの文化や政治のニュースは正確なものもあるが、大西的な奇妙なものもある。間違いは訂正されるべきだし、批判も必要だ。ただ特定のリポーターの問題なのか制度全体の問題なのか考えてみよう、と。ごくまっとうな疑問だと思います。批判的であることと「反日」的であることとは違うというのは当然の話ですね。私自身の好みを言えば、クリストフ氏よりは大西氏のほうがまだましかなと思います。前者の無知と偽善と不誠実に満ちた記事には率直に言って吐き気がすることがあります。日本が好きかどうかとかそんなことはどうでもいい。中国報道でもけっこうひどいものがあります。大西氏のunderdogシリーズは主流社会へのルサンチマンが出ない限りはいい出来になる傾向があります。政治ネタはどうにもならないレベルだと思いますけれども。

多分大西氏に感情的に反発する日本人が多いのは日本の極左とあまり変わらない論調であることや間違いや誇張が多いということに加えて、時にひやりとするような「悪意」を感じることがある、また日本を肴に英語圏の読者に諂う「卑屈さ」みたいなものが時に感じられるからではないでしょうかね。なんとなく右サイドのヒルシ・アリ現象と似ているところもないではないですが、もっと屈折が著しいですね。韓国系の記者と比較してみてもより屈折の度合いは大きいと思います。以前書いたような気がしますが、北米の日系の一部に見られるアイデンティティー危機には私はわりと共感的なんですが、コメント欄でAcefaceさんが指摘されているように大西氏にはかの地のアイデンティティー・ポリティックスを東アジアおよび日本に投影している面があるようです。アジア系とか日系とか言ってもいろんな方がいるのでごく一部の話でしょうし、この方の経歴はよく知りませんし、興味もないのですが、記事から透けて見えます。リベラル対保守みたいな政治イデオロギーの話ではない。まあ私はこういうぐずぐずの転移の関係に入りたくないので報道の正確性と公正性の観点でしか評価したくないです。で、評価しないと。

それからBBCのアメリカ報道云々は世界の権力構造の非対称性に帰せられる話のように思えます。ブラジルやメキシコやトルコの日本報道に対してそこに居住する日本人コミュニティーを除けば日本で騒いだり抗議をしたりする人がいないのは権力が行使され得る文脈がそもそも欠如しているからという理由で説明できると思います。一般に旧植民地諸国は旧宗主国での報道に目を光らせる傾向があるように思いますが、そうでなくとも中国の反CNNのような過剰な反応があるのは端的に英語圏が情報の点で影響力が強いからでしょう。なお「日本人は人の目を気にする」みたいなステレオタイプは関係なくて要は英語圏だからだと思います。英米への憧憬と不信の歴史も背景にあるのでしょう。もっとも騒いでいるのは一部で日常に追われる日本国民のほとんどはこうした話にはさほど興味がないと思いますけれどもね。他人事みたいに書きましたが、こうした歴史的文脈の中に私も置かれているらしい事実にややうんざりすることもあると付け加えておきます。

ではでは。

追記

少し加筆しました。私には大西氏よりもクリストフ氏をめぐる諸問題のほうがアメリカにおける真のリベラルとは何かをめぐっては兆候的に思えます。まあ私はアメリカ流のリベラルじゃないので-日本と欧州の自由主義の伝統のほうがしっくりきます-個人的にはリベラルとはなにかみたいな話はどうでもいいのですが、アメリカ以外の世界にとってもけっこう重要な問題でしょうね。

再追記

氏のことを知らない人が読んで誤解するといけないのでフォローしておきます。別にクリストフ氏の活動を否定している訳ではないのです。有意義な仕事もなさっていると思いますし、意見が一致することもわりとあります。ただシニカルになっている訳ではないのですが、それでもどうにも気に入らない部分があるのですね。日本報道だけの話ではないです。難しいのでこの問題は私ももう少し考えてみたいと思います。

「破門を撤回」を「破門を解除」に直しました。日本語ソースにつられましたが、両者は違いますね。ついでにカトリックにもこのグループにもなんの義理もないのですが、「超保守派」というのは教義や典礼に関わる問題での立場で政治的な意味での極右とは一応別物だと注記しておきます。実際には近い御仁もいたりしてやっかいなようですし、左派メディアでは極右みたいな扱われ方をされていますが。

再々追記

”Holocaust Denier Is Ordered To Recant”[WaPo]

カトリック教会としてウィリアムソン司教の発言を支持しない旨公表した訳ですが、それでもおさまらず、とりわけドイツ政府の強い抗議を受けて司教が発言を明確に撤回するよう命令されたようです。この司教は同様の発言を繰り返してきた過去があるようです。教皇聖下のヒットラー・ユーゲントの件も蒸し返されたりとなんだかこのところカトリック教会はさんざんな展開です。私は個人的にはカトリックや正教はわりと好きなんですけれどもね。「わりと好き」という受け止め方が正しいのかどうかは判りませんが。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

アマテラスの誕生

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書) Book アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

著者:溝口 睦子
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

神々の居す国に生まれたわりには日本神話の世界への接触が遅れたのはあるいは私がアカの家の出であることと無関係ではないような気もしますが、おそらくは戦後生まれの日本国民の多数にとっても神社参拝の際にへえと思ったりする以外にはこの世界は日常生活からやや遠いのではないだろうかと推察します。大学の同級生でその名すら知らない人にやや衝撃を受けつつも請われてアマテラスとは何かについて説明させられた時に、いや、私もさっぱり知らないぞ、これはちょっとまずいのではないか(汗)、と思ったことからアマテラス関連の文献に目を通すようにはしていました。また或るフランス人とこの神について話したこともありますが、日本好きのブログなどを見ていても、どうも日本に関心のある外国人の日本文化のイメージにとって彼女はひどく魅力的な存在のようですね。日本文化に占めるフェミナンなものの位相がひどくエキゾチックに見えるという話は今に始まったことではないですが、そうしたものを象徴し、要約し、凝縮する記号として映じるようです。まあそういう見方もどうなんだろとは思いますが。岩波新書で新刊が出ていたので紹介しておきます。

本書はアマテラス論であると同時にタカミムスヒ論でもあります。アマテラスはともかくタカミムスヒについては一般的な認知はかなり薄いだろうと推察しますが、日本神話研究に多少の興味を持ったことのある方ならば上古においてはアマテラスではなくタカミムスヒ(高皇産霊)こそ天の最高神、皇祖神に他ならなかったという説が有力であることは御承知かと存じます。天孫降臨神話においてアマテラスとともにあるいは単独で出現するこの影の薄い神の由来について著者は大胆な仮説を提出しています。著者によればタカミムスヒが登場するのは4世紀末から5世紀初頭のことであり、これは高句麗を最大の仮想敵国として国造りを進めるヤマト政権が新しい王権思想を朝鮮半島から輸入した際に創られた神であるということになります。天孫降臨型の神話が朝鮮半島に存在していること、さらには北方ユーラシア世界に起源を有することは以前から指摘されてきた事実でありますが、著者は4、5世紀の東アジア世界の国際情勢の中でこの神の由来を説明していきます。五胡十六国の分裂時代に活発化する周辺地域の国家建設の動きの中で中華世界と北方ユーラシア世界の二重の性格を持つ統一国家として高句麗が立ち現れるが、広開土王の碑に記されたようにこの高句麗との戦争で手痛い敗北を喫したことが倭国に王権の強化への志向を抱かせることになった、この際、強力な統一王権を正統化するのに適当な北方系の天孫降臨神話の骨格が導入されのだ、と。

この競争的模倣説とも呼ぶべき著者の仮説ですが、国内情勢に目を転じるならば、やはりこの時期に倭国に大きな変動が生じているとされます。それは倭国の独自色の強い文化から朝鮮半島の影響の強い文化への古墳文化の劇的な転換、応神王朝論や河内政権論が想定するような政権の動揺のことですが、この変動を対高句麗戦の敗北と関連づけるべきだと言うのが著者の主張です。かくして敗戦ショックで戦勝国を意識しながらの国造りというその後何度か見られたパターンを著者は5世紀前半に見ています。豪族連合的な社会から統一王権体制への転換にはそれを正統化する政治思想が必要であり、それが天孫降臨神話であるという訳です。

タカミムスヒそのものについては、まず記紀神話における天孫降臨の場面の分析からタカミムスヒが主神であるのが古形であり、両神が併記されるのが過渡期であり、アマテラスが主神となるのが最終形であるといいます。また祭祀の面に注目して「月次祭」(つきなみのまつり)が紹介されますが、「月次祭祝詞」によれば「八神殿」においてタカミムスヒを筆頭とする「宮中八神」が皇祖神として祭られていたこと、またこの祝詞にアマテラスの名が挿入されるのが後の時代であることが指摘されます。この天の最高神、皇祖神であるという論点に加えて、神名分析からこの神が太陽神であること、日祀部(ひまつりべ)において太陽神祭祀がなされていたこと、朝鮮半島の神話の神名分析(「解」の語義解釈)から王祖神の名前がタカミムスヒと同型であること、この「孤立した神」にまつわる伝承がきわめて異質であることから外来神であると考えられること等が主張され、支配者は天から降りてきた天の主宰神の子であるという神話を当時の先進思想として導入したという論点を確認しています。

5世紀に怒涛のごとく北方系文化が導入される以前の弥生時代に由来する古層の文化がいかなるものであったのか、著者は手がかりを神話に求めていくのですが、この点について戦後の歴史学の禁忌について触れています。しかし神話は無文字時代の思想や文化、社会や歴史に接近するのに貴重な情報源であり、不可知論はとるべきではないとしています。ここで著者が提示するのは記紀神話の二元構造です。著者によればイザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノヲ~オオクニヌシと続くイザナキ・イザナミ系と天孫降臨神話を中心とするムスヒ系の二つの神話体系が存在し、両者は「国譲り神話」で結合されているとしています。著者によれば、まずムスヒ系建国神話が大王家と王権中枢の伴造氏族により作成され、次にイザナキ・イザナミ系神話が地方豪族によって作成され、第三に後者の主神たるオオクニヌシがタカミムスヒに国の支配権を譲るという神話を挿入して両系統が接合され、最後に海幸・山幸神話、日向神話が後から付け加えられて完成されたといいます。この説によれば豪族を中心に作成されたイザナキ・イザナミ系神話は4世紀以前の記憶の痕跡をとどめているということになります。

この系統の特徴として著者が挙げるのが、中国江南から東南アジア、東インド、インドネシア、ニューギニアに広がる南方的性格、「海洋的」性格、さらに「多神教的」性格です。海に関わる話に溢れていることは一読すれば判ることですが、本書では太平洋の彼方に存在するとされる「トコヨの国」とオオクニヌシとの関係などに触れています。多神教的というのは至高神のいない神々の戯れる世界のことで、4世紀以前の土着の神話世界における神々の王はアマテラスではなくオオクニヌシであったこと、圧倒的な量の伝承を誇るこの「国造りの神」に初期王権の性格が表れていること、天つ神と国つ神の二元構造は5世紀の作為であり、建国神話と分離してこの神を理解すべきことなどが論じられます。各種伝承から倭王が豪族連合の盟主に過ぎなかった時代の王権の姿が、有力神の頭領的存在であるオオクニヌシのイメージに透視されるとしています。

ではこの時代のアマテラスがどのような存在だったのかという点に関しては著者は伊勢地方の有力な地方神であったという直木孝次郎氏の有名な伊勢神宮論に同意しています。また日本書紀の伝承の分析から伊勢と沖ノ島が東国および半島への交通の要衝にあり、沖ノ島の宗像三女神とアマテラスとが神話上親子関係にあること、神功皇后伝説において政治的な役割を担った地方神として登場することなど皇祖神ではないアマテラスについて論じていきます。さらに著者の述べる神話の二元構造に対応して外来の北方系の神々が「連」系の氏グループ、在来の神々が「君」系の氏グループに担われるという分担体制が出来ていたとされます。この分担は「連」の下位の「伴造」系の氏が外来神、「君」系の下位の氏が土着神という具合に中・下の豪族層にも見られること、さらに地方豪族の系譜にイザナキ・イザナミ系の神話が記されていることなどから列島の豪族ネットワークにおいて神話の共有がなされていた事実に注意を促しています。

最後にこの地方の太陽神であったアマテラスが皇祖神、国家神の地位に格上げされるようになったのは律令国家の成立に向けて改革を推進する天武天皇の時代であったといいます。国際的な面から見るとこの動きは中国の文字文化という新しい外来文化を取り入れるにあたって古い外来文化である北方ユーラシアの支配者文化を脱ぎ捨てるという側面、それから圧倒的な中国文明に対して土着の文化で対抗するという側面があったのでないか、あるいは「蕃国」「朝貢国」として遇そうとする新羅への対抗意識の表れなのではないかと一般的に述べていますが、国内的には律令国家化の中での神話の一元化と姓制度の改革という政治課題に答える動きとしてアマテラスの皇祖神化を捉えています。天武による古事記編纂事業において日本書紀とは別のやり方で系統の異なる神話体系が統合され、一元化され、アマテラスが皇祖神の地位に置かれたが、これは一君万民的な世界観を必要とした天武の意向を受けたものであったといいます。また古事記において土着神系の臣、君の尊重と外来神系の連の軽視が見られるが、現実の姓の改革においても旧臣、旧君の尊重と旧連の軽視という古い伝統重視の志向が見られるといいます。かくして現実政治の場面では連系の重要性は疑えないにもかかわらず、文化的に古い層を担う集団に栄誉が与えられた点に著者は天武の政治的深慮を見ています。タカミムヒトのような政権中枢の王族や氏族にのみ奉じられた親しみのない神ではなく信仰の裾野の広いイザナギ・イザナミ系の土着の神のほうが求心力があると判断したのではないかと。古事記については激しい議論がある訳ですが、氏族対策という論点は朝鮮半島と対比させて国内情勢を考える上で極めて重要な論点かと思われます。

以上のように本書は5世紀から7世紀のヤマト政権=タカミムスヒ、7世紀末以降の律令国家=アマテラスと内外の情勢変化に対応して交代する王権を支える神々の系譜を描き出していきます。この枠組みそのものは他の研究者の著作からぼんやりと思い描いていたのですが、本書は壮大な展望の下に極めて詳細にこの交代劇を描き出しています。本書の特徴は神話学的分析と歴史学的知見とを接合する手つきにあります。私は後者の世界にはそれなりに親しんでいるのですが、前者は遠いところから望見している身ということもあって刺激的であると同時にその意見の妥当性について判断する術がないというある種のもどかしさも感じました。著者の説く神話の二元構造を真に理解するには著者の専門書のほうを読まないといけないのでしょう。読んだとしても私の能力を超えているのでしょうけれども。著者も述べているように皇国史観アレルギーに由来する神話を歴史へ持ち込むことへの極度の禁忌も問題だとは思うのですが、一方でやはり神話伝承を歴史的に評価するのは推論と解釈論の巧みさの勝負になりそうでなかなか難しそうだなという印象も受けました。この点で氏族系譜の議論が祭祀の担い手集団という地上に繋ぎ止められた現実の存在を持つだけに興味深く思われました。

文化の多層的、混交的な成り立ちという点に関して言えば、朝鮮半島からの流入を先として中国からの流入を後という風にくっきりと対照的に描いている点は、エクスキューズもあるのですが、やはり問題があろうかと思われました。時期的に影響の濃淡はあったにせよやはり常に既に交渉のあった世界なのでしょうから。個人的に中国南部との関係に興味があるせいかもしれません。それから北方ユーラシア世界や南方的世界や中華世界といった具合に外部世界がいくぶん抽象化され過ぎているような印象も受けました。もう少し特定された名称で論じないとイメージが先行してしまうような危惧があります。それから文化の混交性や多層性を論じるには外来/土着の二分法がやや強く出過ぎているような印象も受けなくもなかったです。同時代人がどう外来的なものと土着的なものを区別、認識していたのかに迫れたらこの枠組みもより生きてくるのかなとも思いました。よく判りませんが、当時にあってはそれもかなり流動的なものに思えます。最後に主権神や唯一絶対の至高神といった用語にいささか違和感を覚えました。主権概念を持ち込むとけこうややこしい議論を誘発しそうであることと神々の階層秩序が成立したとしても多神教には違いないだろうということです。日本語の語感の問題なのかもしれませんけれども、私の耳にはいささか西洋的に聞こえますね。

最後は素人にもかかわらず生意気にも注文じみたことも書いてしまいましたが、本書は明快、平易な文体で読みやすく、異論に対しても公平な姿勢が好もしく、なによりも伊勢神宮の外宮の森にほど近いところで幼少期を過ごされたという著者のアマテラスへの愛が静かに伝わってきますのでこのテーマに興味をもたれた方にはおすすめしておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »