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アマテラスの誕生

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書) Book アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

著者:溝口 睦子
販売元:岩波書店
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神々の居す国に生まれたわりには日本神話の世界への接触が遅れたのはあるいは私がアカの家の出であることと無関係ではないような気もしますが、おそらくは戦後生まれの日本国民の多数にとっても神社参拝の際にへえと思ったりする以外にはこの世界は日常生活からやや遠いのではないだろうかと推察します。大学の同級生でその名すら知らない人にやや衝撃を受けつつも請われてアマテラスとは何かについて説明させられた時に、いや、私もさっぱり知らないぞ、これはちょっとまずいのではないか(汗)、と思ったことからアマテラス関連の文献に目を通すようにはしていました。また或るフランス人とこの神について話したこともありますが、日本好きのブログなどを見ていても、どうも日本に関心のある外国人の日本文化のイメージにとって彼女はひどく魅力的な存在のようですね。日本文化に占めるフェミナンなものの位相がひどくエキゾチックに見えるという話は今に始まったことではないですが、そうしたものを象徴し、要約し、凝縮する記号として映じるようです。まあそういう見方もどうなんだろとは思いますが。岩波新書で新刊が出ていたので紹介しておきます。

本書はアマテラス論であると同時にタカミムスヒ論でもあります。アマテラスはともかくタカミムスヒについては一般的な認知はかなり薄いだろうと推察しますが、日本神話研究に多少の興味を持ったことのある方ならば上古においてはアマテラスではなくタカミムスヒ(高皇産霊)こそ天の最高神、皇祖神に他ならなかったという説が有力であることは御承知かと存じます。天孫降臨神話においてアマテラスとともにあるいは単独で出現するこの影の薄い神の由来について著者は大胆な仮説を提出しています。著者によればタカミムスヒが登場するのは4世紀末から5世紀初頭のことであり、これは高句麗を最大の仮想敵国として国造りを進めるヤマト政権が新しい王権思想を朝鮮半島から輸入した際に創られた神であるということになります。天孫降臨型の神話が朝鮮半島に存在していること、さらには北方ユーラシア世界に起源を有することは以前から指摘されてきた事実でありますが、著者は4、5世紀の東アジア世界の国際情勢の中でこの神の由来を説明していきます。五胡十六国の分裂時代に活発化する周辺地域の国家建設の動きの中で中華世界と北方ユーラシア世界の二重の性格を持つ統一国家として高句麗が立ち現れるが、広開土王の碑に記されたようにこの高句麗との戦争で手痛い敗北を喫したことが倭国に王権の強化への志向を抱かせることになった、この際、強力な統一王権を正統化するのに適当な北方系の天孫降臨神話の骨格が導入されのだ、と。

この競争的模倣説とも呼ぶべき著者の仮説ですが、国内情勢に目を転じるならば、やはりこの時期に倭国に大きな変動が生じているとされます。それは倭国の独自色の強い文化から朝鮮半島の影響の強い文化への古墳文化の劇的な転換、応神王朝論や河内政権論が想定するような政権の動揺のことですが、この変動を対高句麗戦の敗北と関連づけるべきだと言うのが著者の主張です。かくして敗戦ショックで戦勝国を意識しながらの国造りというその後何度か見られたパターンを著者は5世紀前半に見ています。豪族連合的な社会から統一王権体制への転換にはそれを正統化する政治思想が必要であり、それが天孫降臨神話であるという訳です。

タカミムスヒそのものについては、まず記紀神話における天孫降臨の場面の分析からタカミムスヒが主神であるのが古形であり、両神が併記されるのが過渡期であり、アマテラスが主神となるのが最終形であるといいます。また祭祀の面に注目して「月次祭」(つきなみのまつり)が紹介されますが、「月次祭祝詞」によれば「八神殿」においてタカミムスヒを筆頭とする「宮中八神」が皇祖神として祭られていたこと、またこの祝詞にアマテラスの名が挿入されるのが後の時代であることが指摘されます。この天の最高神、皇祖神であるという論点に加えて、神名分析からこの神が太陽神であること、日祀部(ひまつりべ)において太陽神祭祀がなされていたこと、朝鮮半島の神話の神名分析(「解」の語義解釈)から王祖神の名前がタカミムスヒと同型であること、この「孤立した神」にまつわる伝承がきわめて異質であることから外来神であると考えられること等が主張され、支配者は天から降りてきた天の主宰神の子であるという神話を当時の先進思想として導入したという論点を確認しています。

5世紀に怒涛のごとく北方系文化が導入される以前の弥生時代に由来する古層の文化がいかなるものであったのか、著者は手がかりを神話に求めていくのですが、この点について戦後の歴史学の禁忌について触れています。しかし神話は無文字時代の思想や文化、社会や歴史に接近するのに貴重な情報源であり、不可知論はとるべきではないとしています。ここで著者が提示するのは記紀神話の二元構造です。著者によればイザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノヲ~オオクニヌシと続くイザナキ・イザナミ系と天孫降臨神話を中心とするムスヒ系の二つの神話体系が存在し、両者は「国譲り神話」で結合されているとしています。著者によれば、まずムスヒ系建国神話が大王家と王権中枢の伴造氏族により作成され、次にイザナキ・イザナミ系神話が地方豪族によって作成され、第三に後者の主神たるオオクニヌシがタカミムスヒに国の支配権を譲るという神話を挿入して両系統が接合され、最後に海幸・山幸神話、日向神話が後から付け加えられて完成されたといいます。この説によれば豪族を中心に作成されたイザナキ・イザナミ系神話は4世紀以前の記憶の痕跡をとどめているということになります。

この系統の特徴として著者が挙げるのが、中国江南から東南アジア、東インド、インドネシア、ニューギニアに広がる南方的性格、「海洋的」性格、さらに「多神教的」性格です。海に関わる話に溢れていることは一読すれば判ることですが、本書では太平洋の彼方に存在するとされる「トコヨの国」とオオクニヌシとの関係などに触れています。多神教的というのは至高神のいない神々の戯れる世界のことで、4世紀以前の土着の神話世界における神々の王はアマテラスではなくオオクニヌシであったこと、圧倒的な量の伝承を誇るこの「国造りの神」に初期王権の性格が表れていること、天つ神と国つ神の二元構造は5世紀の作為であり、建国神話と分離してこの神を理解すべきことなどが論じられます。各種伝承から倭王が豪族連合の盟主に過ぎなかった時代の王権の姿が、有力神の頭領的存在であるオオクニヌシのイメージに透視されるとしています。

ではこの時代のアマテラスがどのような存在だったのかという点に関しては著者は伊勢地方の有力な地方神であったという直木孝次郎氏の有名な伊勢神宮論に同意しています。また日本書紀の伝承の分析から伊勢と沖ノ島が東国および半島への交通の要衝にあり、沖ノ島の宗像三女神とアマテラスとが神話上親子関係にあること、神功皇后伝説において政治的な役割を担った地方神として登場することなど皇祖神ではないアマテラスについて論じていきます。さらに著者の述べる神話の二元構造に対応して外来の北方系の神々が「連」系の氏グループ、在来の神々が「君」系の氏グループに担われるという分担体制が出来ていたとされます。この分担は「連」の下位の「伴造」系の氏が外来神、「君」系の下位の氏が土着神という具合に中・下の豪族層にも見られること、さらに地方豪族の系譜にイザナキ・イザナミ系の神話が記されていることなどから列島の豪族ネットワークにおいて神話の共有がなされていた事実に注意を促しています。

最後にこの地方の太陽神であったアマテラスが皇祖神、国家神の地位に格上げされるようになったのは律令国家の成立に向けて改革を推進する天武天皇の時代であったといいます。国際的な面から見るとこの動きは中国の文字文化という新しい外来文化を取り入れるにあたって古い外来文化である北方ユーラシアの支配者文化を脱ぎ捨てるという側面、それから圧倒的な中国文明に対して土着の文化で対抗するという側面があったのでないか、あるいは「蕃国」「朝貢国」として遇そうとする新羅への対抗意識の表れなのではないかと一般的に述べていますが、国内的には律令国家化の中での神話の一元化と姓制度の改革という政治課題に答える動きとしてアマテラスの皇祖神化を捉えています。天武による古事記編纂事業において日本書紀とは別のやり方で系統の異なる神話体系が統合され、一元化され、アマテラスが皇祖神の地位に置かれたが、これは一君万民的な世界観を必要とした天武の意向を受けたものであったといいます。また古事記において土着神系の臣、君の尊重と外来神系の連の軽視が見られるが、現実の姓の改革においても旧臣、旧君の尊重と旧連の軽視という古い伝統重視の志向が見られるといいます。かくして現実政治の場面では連系の重要性は疑えないにもかかわらず、文化的に古い層を担う集団に栄誉が与えられた点に著者は天武の政治的深慮を見ています。タカミムヒトのような政権中枢の王族や氏族にのみ奉じられた親しみのない神ではなく信仰の裾野の広いイザナギ・イザナミ系の土着の神のほうが求心力があると判断したのではないかと。古事記については激しい議論がある訳ですが、氏族対策という論点は朝鮮半島と対比させて国内情勢を考える上で極めて重要な論点かと思われます。

以上のように本書は5世紀から7世紀のヤマト政権=タカミムスヒ、7世紀末以降の律令国家=アマテラスと内外の情勢変化に対応して交代する王権を支える神々の系譜を描き出していきます。この枠組みそのものは他の研究者の著作からぼんやりと思い描いていたのですが、本書は壮大な展望の下に極めて詳細にこの交代劇を描き出しています。本書の特徴は神話学的分析と歴史学的知見とを接合する手つきにあります。私は後者の世界にはそれなりに親しんでいるのですが、前者は遠いところから望見している身ということもあって刺激的であると同時にその意見の妥当性について判断する術がないというある種のもどかしさも感じました。著者の説く神話の二元構造を真に理解するには著者の専門書のほうを読まないといけないのでしょう。読んだとしても私の能力を超えているのでしょうけれども。著者も述べているように皇国史観アレルギーに由来する神話を歴史へ持ち込むことへの極度の禁忌も問題だとは思うのですが、一方でやはり神話伝承を歴史的に評価するのは推論と解釈論の巧みさの勝負になりそうでなかなか難しそうだなという印象も受けました。この点で氏族系譜の議論が祭祀の担い手集団という地上に繋ぎ止められた現実の存在を持つだけに興味深く思われました。

文化の多層的、混交的な成り立ちという点に関して言えば、朝鮮半島からの流入を先として中国からの流入を後という風にくっきりと対照的に描いている点は、エクスキューズもあるのですが、やはり問題があろうかと思われました。時期的に影響の濃淡はあったにせよやはり常に既に交渉のあった世界なのでしょうから。個人的に中国南部との関係に興味があるせいかもしれません。それから北方ユーラシア世界や南方的世界や中華世界といった具合に外部世界がいくぶん抽象化され過ぎているような印象も受けました。もう少し特定された名称で論じないとイメージが先行してしまうような危惧があります。それから文化の混交性や多層性を論じるには外来/土着の二分法がやや強く出過ぎているような印象も受けなくもなかったです。同時代人がどう外来的なものと土着的なものを区別、認識していたのかに迫れたらこの枠組みもより生きてくるのかなとも思いました。よく判りませんが、当時にあってはそれもかなり流動的なものに思えます。最後に主権神や唯一絶対の至高神といった用語にいささか違和感を覚えました。主権概念を持ち込むとけこうややこしい議論を誘発しそうであることと神々の階層秩序が成立したとしても多神教には違いないだろうということです。日本語の語感の問題なのかもしれませんけれども、私の耳にはいささか西洋的に聞こえますね。

最後は素人にもかかわらず生意気にも注文じみたことも書いてしまいましたが、本書は明快、平易な文体で読みやすく、異論に対しても公平な姿勢が好もしく、なによりも伊勢神宮の外宮の森にほど近いところで幼少期を過ごされたという著者のアマテラスへの愛が静かに伝わってきますのでこのテーマに興味をもたれた方にはおすすめしておきます。

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