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リベルテールという語について

きみはアナーキストか、それともリバタリアンか?[ル・モンド・ディプロマティック]

ここでリバタリアンとカタカナ英語化されているのは仏語ではリベルテール(libertaire)です。日本語圏では今リバタリアンというとアメリカのそれをイメージするかもしれませんが、別物ですね。この記事、もともとはアナルシスト(anarchiste)とこのリベルテールは不可分な言葉だったのが、最近では分離し、意味が変わってきているという話ですが、イメージとしてはよく判ります。論者は筋金系左翼の方なんでしょう、今時の格好だけのリベルテールは資本主義の同伴者でプチ・ブル的な保守主義者に過ぎない!と否定的評価を下しています。まあ私は左翼ではないですし、反動主義者でもないですけれども、いい気なもんだな、大将、みたいな感じはありますね。ああ、分かった、分かった、どうぞご自由に、と。私もかなり個人主義的な人間のような気もしますが、他人に自己のライフスタイルを誇示したいという欲望は特にないので。

浮世を楽しむ陽気なリベルテール族は別にして、今でも戦闘的なアナーキスト団体のほとんどがこのリベルテールの語を使用しています。一番有名なのはル・モンド・リベテール(le monde libertaire)とアルテルナティヴ・リベルテール(Alternative libertaire)ですけれども、他にもうじゃうじゃとリベルテールないしアナルシストの名を冠した団体が存在しています。記事にもあるように、こちらのリベルテール族は公安からひどく危険視されています。負け組リベルテールといいますか、私には政治的には評価できない人々ではありますが、負け戦に果敢に挑む根性が時に好もしかったりします。そこに浪人道的なものが見えます。実際、サムライ好きがいたりするみたいです。ちなみに極右にもサムライ好きがいたりします。なぜだ。日本の文化的リベルテール達のアナーキーな侍映画の影響なんでしょうかね。

話があっちこっちにいっていますが、要はもともと社会主義系の用語だったのが、アメリカでリバタリアン党ができて以来この語はむしろ右側の思想というイメージになっている訳ですね。アナーキストからすれば俺達がリバタリアンであってお前らは古典的リベラルだろということになります。まあ、私から見ると、古典的リベラルといいますか、アメリカのリバタリアンはかの地の風土を反映してか、かなり勇敢な人々に見えます。アナルコ・キャピタリズムって言うんですか。あそこまで徹底的なのはすごいもんだと思います。記事にあるように、現代フランスのリベルテールが社会主義的伝統から切れつつあるのは確かなのですが、アメリカのリバタリアンとはやはり全然雰囲気が違います。共通しているのは個人の自由を最優先するという部分ぐらいですかね。

”Joseph Déjacque et la création du néologisme "libertaire" (1857)” par Valentin Pelosse

それでこの語の初出ですが、リンク先の論文によれば、社会主義者のジョセフ・デジャック氏とされます。論者によれば、1875年(?)に反権威主義インターナショナルのアナーキストがこの語を採用したのがこの語が広まった契機となったが、最初にこの語を使った人物であるジョセフ・デジャック(1822-1864)についてはあまり知られていない。1857年にニューオーリンズで出版された11ページのパンフレット『男と女という人間存在についてP・プルードンへの書簡』(De l'Etre Humain mâle et femelle - Lettre à P. J. Proudhon)が初出でこのパンフレットの内容はプルードンの保守主義に対して女性の解放と欲望の自由を訴えたものということです。実際、19世紀にはフェミニスト的なアジェンダとリベルテールは結びつきは強いですね。ブルジョワ道徳を粉砕せよ!ということで。ちなみに、これ、なかなか精密な論文ですね。パンフレットの電子テキストもありますので仏語読みはどうぞ。

それでリベルテールの反対語は何かと言いますと、もともとはリベラルということになります。要は伝統的にフランスでは左にリバタリアン、右にリベラルがいて、それがアメリカでは逆になっている訳ですね。語の関係で言うと、リベルテールが英訳されてリバタリアンになったのですが、それが仏訳されて逆輸入されてリベルタリアンという語もあります。これはアメリカのリバタリアンのみを指すようです。ウルトラ・リベラルとも言いますね。なおディプロの記事にもありますが、最近の親資本主義的なフランスのリベルテールのことをリベラル・リベルテールと呼んだりするのですが、これはもともとの語義からすると矛盾していることになります。反対語をつないでいる訳ですから。アメリカでもリベラル・リバタリアンといったらちょっと変ですよね。

なにを書いているのか判らなくなってきているのですが、要は自由をめぐる立場というのはひどく複雑で流動的だということを言いたいのかもしれません。しれませんって無責任ですが(笑 

それでさらに脱線すると、アメリカにリベラルと呼ばれる人々がいて、私の中にもリベラル的感性はあると思うにもかかわらずなぜ自分をリベラルとは呼びたくないし、呼ばれたくもないという気持ちが強くあるのかが個人的にはよく判らないです。リベラルが概して日本につらくあたるからとかそういう話ではない。そうでない人もたくさんいますし、もしかすると最後の最後に日本国民の味方になってくれる人達なのかもしれないと思うこともある。ただ私が連なっていると思う日本にある自由の伝統の感覚とどこかで衝突するようなんですね。自由とはなにかみたいな一般論にあまり興味はないのですが、私の属する歴史的文脈があって、そこにはいろいろな人々の面影や光景の連なりと堆積があって、自分はその流れにコミットしているという感覚があります。別に思想家がどうとかなんとか理論がどうしたというような宙に浮いたような話ではなくてですね。こういう歴史の感覚を往々にして欠いているからなんでしょうかね、アメリカのリベラルなみなさんに違和感を抱きがちなのは。この点はネオコンなみなさんが与える違和感と大差ない。まあ、不当な一般化をしているような気もしますし、日本も似てきているところもありますし、例外だらけの大雑把な話だとは思うのですがね。

なにか意味不明なことを書いているような気もするのですが、まあ、いいでしょう、そういう一日でしたということで。

追記

少しだけ直しましたが、酔って書いたせいか文意不明ですね。注記しておくと、別に私はリベラル嫌いではなくて尊敬する人もいますし、別に偉い人じゃなくてよくいそうな人でああこの人生粋のリベラルだなあと好もしく感じることもあるのですが、それでもなにか違和感が残る訳ですね。とりあえず歴史の感覚と書きましたが、言い尽くせていないような気がしますし、はずしているような気もします。なんなんでしょうね。つくづくアメリカ知らずです。

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コメント

なかなかフランスのレベテールってのはとらえにくいですね。
個人の自由や政府の役割ということからすると、
自由 大→小
政府 0→大
アナーキズム→リベタリアン→リベラル
というイメージがあるのですが・・・リベルテールってどんな感じなんでしょうかね?

アメリカのリバタリアンといってもかなり幅があるような気もする。というのは、例えば、http://royhalliday.home.mindspring.com/MYBOOK.HTM#toc
の人の一文を以前自分の投稿で引用したんですが、読んでみると、リバタリアンと言っているがかなりアナーキストに近い。


アメリカのリベラルの思想潮流についてですが、やはり、あそこは懐が深いような気もします。いろんなのがいる、ってのが私の印象です。
買わなかったのですが、紀伊国屋で立ち読みしていた本で、政治の教授だかの本だった思いますけど、ロールスやノチックを批判している。ああした抽象的原理から結論を引っ張り出すのは駄目だ、もっと歴史的な状況、その地域的問題が先にあり、それに即して思考をしていかなくては、なんていうたぶんギリシャかどっかでの講義録を本にしたものだと思いますけど。立ち読みなので、あいまいですけど・・・
文脈から遊離した抽象論でも困るけれども、文脈に埋没して距離を置けないのも困る。その距離をおくのに宙に浮いた部分も重要なこともある。宙に浮いた部分を配視しながら、歴史的文脈に応じてというバランスが大事なのかもしれませんね。

投稿: | 2009年2月 7日 (土) 17時26分

リベルテール社会主義とかリベルテール共産主義という言葉があるようにもともとは左右で言えば、最左翼です。サン・シモン主義やマルクス主義に敵対してあらゆる権力や権威と戦えという立場です。国家はいらない自立的な管理によって運営される社会があればいいということでアナキズムそのものですが、特に道徳に関する問題での自由にアクセントがあるようです。勿論人によってラディカルさには差はありますし、格好だけのリベルテールみたいのは昔からいますね(笑。

アメリカのリバタリアンでもアナキズムに近い過激な人たちもいるんですね。リンク先、まだちゃんと読んでいませんが、確かにアナキズムですね。ただJusticeの強調ぶりがアメリカ的(?)かもしれません。フランスのはもっと人間臭い印象を受けます。

最近のリベラルについて文脈重視の傾向があるという点はそうなんだろうなと思います。左翼から叩かれていろんな視点を取り込んでいるのでしょうしね。ただ理論の世界というよりも現実の政治の場面、それもロー・ポリティックスではなくハイ・ポリティックスの部分を見ているとリベラルの伝統というのは健在のように見えます。伝統といっても時代によって変化しているし、勿論現実と妥協しながらやっている訳でしょうけれども。

>文脈から遊離した抽象論でも困るけれども、文脈に埋没して距離を置けないのも困る。その距離をおくのに宙に浮いた部分も重要なこともある。宙に浮いた部分を配視しながら、歴史的文脈に応じてというバランスが大事なのかもしれませんね。

そうですね。私は文脈に埋没するリスクがあるほうでしょうね。自戒の言葉にします。コメントありがとうございました。

投稿: mozu | 2009年2月 7日 (土) 20時34分

いや、ぼくも政治思想って全然詳しくないんですけど、印象です。。
>左翼から叩かれていろんな視点を取り込んでいるのでしょうしね。


そう言えば、論者は左翼の人だったかもしれません。
因みに、裏表紙にマッキンタイヤってafter virtueの著者がわりに評価していました、のを憶えています。

投稿: | 2009年2月 7日 (土) 21時08分

最近の左翼はコミュニタリアン的になっているらしいのでマッキンタイアが評価するのも判る様な気がしますね。リベラルが両方から叩かれているのは微妙な気持ちになります。このエントリでは違和感を表明しましたが、私自身、公的なものと私的なものの区別とか正義とか公正とかいった価値についてはある程度は受け止めているように思うので。ロールズみたいな厳格さは苦手なんですけれども、だからといって無益な議論だと思っている訳でもないです。

私から見ると、リベラルは国内に関してはまあいいのですけれども、外交や安全保障の面で危なっかしいのが困るんですね。民主党=リベラルではない訳ですけれども、伝統的にアジア外交が得意ではないですよね。よく言われることですが、あれは世界観から来る部分があると思うんですね。こういう部分が改善されるならば安心して見られるのですけれども。最近は共和党のほうがずっとイデオロジカルになってきていたので民主党のほうがいいかもとも思うようになってきているのですが。

投稿: mozu | 2009年2月 7日 (土) 22時06分

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