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ストからデモへ

中川氏辞任「ご本人が熟慮した上での決断」17日の首相[朝日新聞]

与謝野氏頼みの非常事態 苦肉の策の3大臣兼務[朝日新聞]

酩酊の理由については存じませんし、果たして現在の景況やスケジュールを考えてそれが辞任に値する理由だったのかどうかも判りませんが(一般的に言って日本の政治家のみなさん簡単に辞め過ぎませんかね、あるいは簡単に辞めさせ過ぎではないですかね、酩酊大統領や酩酊大臣なんてこれまで国際ニュースで何人も見たような気がするんですけれども)、財務省およびその族議員の抑えとして中川氏の存在に期待している部分があったので-あんまり抑えが効いていなかったという話もありますが-ここで与謝野氏が3大臣兼務という状況にいささか不穏なものを感じてしまいます。景況の悪化とともにスタンスを変更するのかと思いきやここまでの発言と動きを見る限りちょっとヤバいんでないのと危惧してしまいます。大丈夫なんでしょうかね。

"Murakami defies protests to accept Jerusalem prize"[Guardian]

村上春樹氏が親パレスチナの抗議団体の反対にもかかわらずエルサレム文学賞を受賞した件に関するガーディアンの記事。エルサレムまで出かけていってガザ攻撃を批判してイスラエルの読者に感謝するというのは単に辞退するよりはそれはそれで作家のある種の一貫性が感じられて立派な態度なんじゃないのと思いました。またイスラエルは中産階級がいる成熟した民主主義国なんですから氏のメッセージだって通じる層というのは十分にいて、こういう層を絶望させないというのは長期的に見た場合には中東和平にとっても重要なことだと思うのですね。こうした層が国内的に周縁化され、国際報道的にもかき消されてしまうような状況はあまりよろしくないだろうと。

しかし彼らに卵のままでいて欲しくはなくて、みながみなとは思いませんが、その中の賢明で勇気ある人々には是非とも狡猾な蛇となって高い壁を攀じ登って欲しいなとも思うのです。例えば、マイケル・ウォルツァーが今回のガザ侵攻について「均衡を欠いた攻撃」論に反論したことで批判されたり、ウォルツァー・サイード論争が想起されたりしているようなのですが、個人的にはサイードに共感する部分もあったり、また氏の正戦論は一見人道的なようでいて「非道徳的」な現実主義よりもかなり危険なんじゃないのと思ったりするのですけれども、それにもかかわらずそう簡単には氏の言論を否定できないかなと思うのは、例えば、イスラエルのリベラル派や左派への氏のメッセージはこれはこれで判る感じがあったりするからなのですね。ここにあるのはとてもやっかいな問題なんだと思うのですけれども。

"Un nouveau mouvement social ?" by Guy Groux[Telos]

ギ・グルー氏の近年の社会運動についての考察。以下、忠実な訳ではなく要約です。4月29日の強力な社会動員は矛盾した性格を持っていた。一方でここ20年ほどで顕著になってきた特徴があり、他方では真の断絶、新しい要素がある。近年の社会運動はストからデモへの比重の移動があった。1968年には何百万人もの参加するストライキが工場や会社を覆い、CGTが組織する大規模デモが街頭に溢れた。1995年にはストライキはなお公的セクターでは強力だったが、運動はとりわけ大規模なデモによって特徴づけられていた。2003年と2006年にはこの状況は加速し、ストが減り、デモが増えていった。こうした傾向は今回もまた強化された。ストの比率は各セクターで減少し、デモが大規模化している。1968年にはストとデモの間に深い繋がりが存在したが、最近では両者の解離が進行している。かくして今回の運動はここ数十年の傾向に合致するものである。しかし、別の面では今回の運動には1990年代以降の運動とは異なる固有な性格も存在した。まず今回の動員はかつてとは異なり、金融危機、経済危機の文脈で展開した。確かにここしばらくの運動は失業の文脈でなされたものだが、緩慢な経済成長の中で展開したのだった。今回はそうではない。1995年から2006年の運動は特定のテーマについて政府の改革に抵抗すべく組織されたのだが、今回のはもっと包括的なテーマ、すなわち購買力と雇用に関するものであった。要求の特定性と限定性ゆえに直接に交渉することが可能だったのだが、今回は特定の地域やセクターの水準でしか交渉ができない。もうひとつ別の特徴がある。確かにここ30年ほどは失業が慢性的な問題であったし、これを私的セクターにおけるストの後退の理由と考える者がいる。それゆえ私的セクターの雇用者から公的セクターの雇用者に委ねられる「代理スト」という方式が成功を収めたのだった。しかし特定テーマの要求-社会保障のような-については代理ストのような運動もあり得るが、代理の失業というものは存在しない。今回の危機によってまさにこの問題、失業の問題がこれまでとは比較にならない深刻さで提出されているのだ。こうした文脈において組合は大規模な挑戦にさらされるだろう。経済危機と予見される多くの雇用の破壊に対して「私的なもの」の動員が掛け金となった。今日においてもっとも脅かされ、そしてもっとも代弁され、擁護され、動員される必要があるのは「社会の領分」なのだ。代理によってではなく直接に擁護されなくてはならない。4月29日に我々が見たもの、それは1977年のエットーレ・スコラの美しい映画タイトルを用いれば、「特別な一日」だったのだ。

以上、ここ数十年の傾向である「ストからデモへ」は加速している。しかし、今回の動員にはこれまでの個別的かつ具体的な交渉可能性をもつ動員とは異なる面がある。それは雇用および購買力という包括的なテーマに関わるものである。ここしばらくの私的セクターから公的セクターへの代理のような手段でなされた動員とは違うのだ。今回の動員で掛けられたのは「私的なもの」(このpriveは「奪われたるもの」のニュアンスもあるんでしょうね)の非代理的かつ直接的な擁護である、ということです。この記事ですが、大きな見取り図として判り易いのではないでしょうかね。まあ、ストとデモのないパリなんて火事と喧嘩のない江戸みたいなもんですし、大規模デモは今後もどんどん組織されることでしょう。願わくばそこに悲壮な怒りばかりでなく高揚の笑みもまた見られんことを。

追記

微修正しました(2009.2.18)

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コメント

中川氏の記者会見について、日本のメディアは世界に醜態を晒したと報道し、野党も騒ぎましたが、醜態を晒し、日本の政治を貶めているのは、低次元の出来事を大げさに騒ぎたて、報じている大衆芸能化した政治家やマスメディアではないのか、と思うのですが、ご本人たちは高級なことをしている意識なのでしょうか。
与謝野氏に付いてはmozuさんと同様の懸念を抱いています。
村上春樹氏の受賞挨拶は、新聞記事でざっと眺めただけですが、イスラエルの攻撃を一方的に批難しており(そのような姿勢なのでしょうが)、どうかなという感じです。平和を訴えたいなら別の言い方があるだろうに、という感想を持ちました。
ハマスとイスラエルとは、相変わらず散発的に交戦しているようですが、イスラエルが照準をイランに向けてきた、シリアが大規模化学兵器工場の建設に入っているなどの情報もあり、中東情勢はまだ沈静化する様子が見えません。

投稿: chengguang | 2009年2月18日 (水) 19時23分

政治家の使い捨てをして一番困るのは国民なんですがねえ。

予算は通すでしょうし、増税の声はさすがに控えるだろうとは思いますが、かなり消極的な姿勢になりそうな予感がします。IMF拠出の件も中川氏に続けて欲しかったんですがね。

村上氏はリベラルな方ですが、政治には微妙な距離をとっている人ですね。寓意を用いてイスラエルにいる自分の読者を応援したいのだと理解しました。たぶんどこでも同じようなことを語るように思います。私は氏のファンではないのですが、そこには作家としての一貫性のようなものがあるかなと感じました。

シリアの話は知りませんでした。情報ありがとうございます。

投稿: mozu | 2009年2月18日 (水) 22時12分

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