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主権が立ち現れるとき

宗教関連は弱いのですが、素人が素人なりに気になったことについて書いてみるという趣旨のブログですので躊躇せずに続けます。

"Trying to understand French Secularism" by Talal Asad[pdf]

コメント欄で教えていただいたタラル・アサド氏のフランスのライシテ(世俗性、非宗教性)についての論文です。50ページ以上あるので内容を要約するのはたいへんですからポイントだけかいつまんで感想を記しておきますが、主権論と規律訓練論でフランスのライシテを理解するという趣旨の論文です。スカーフをめぐる騒動は私もニュースやオピニオンを眺めていたのですが、フランス的語彙で言うと、統合主義と多文化主義、普遍主義と差異主義、共和国の世俗性と宗教的共同体主義等々の概念で盛んに論じられていました。もちろんスカーフはひとつの焦点であって他ではなくこの時にこのような形で問題化されたその背景まで考慮すれば、これはなんとも深刻な事態になっているなあと溜息が出る他なかったです。

メディア上の論調ではライシテの歴史を想起して共和国の原理としてこれを護持すべしという意見と移民の歴史を想起して文化的多様性を認めるべしという反対意見が戦わされていた記憶があります。個人的には知識人たちの神学論争よりも移民の子弟の置かれている状況やいわゆる普通のフランス人の不満の原因がどのあたりにあるのかといった具体的な話に興味があったのですが、私の記憶では論争の中で想起されていたのは戦後史、古くとも19世紀後半以降の歴史であり、この論文のように初期近代にまで遡って論じる人はあまりいなかったような気がしますね。

それでこの論文ですが、16世紀末の宗教戦争後のcuius religio eius religio(領主の宗教が領民の宗教となる)から始めています。これは宗教の核心が内面的なものであるとみなされるようなった時代に「特定の宗教問題」に「一般的な政治原理」を適応した例として重要である。政治的なものと宗教的なものとの分離そのものは中世にも認識されていたが、今日とはずいぶん違う。国家が脱キリスト教化され、非人格化され、政治的なものが宗教的なものをその領分から排除し、吸収し、といった具合にその下にさまざまな宗教を信仰する臣民が共存する抽象的かつ超越的な権力が立ち上がっていく。誰が宗教的寛容に値し、なにが宗教的寛容であるのかを決定するのはこの権力である、と。

フランスの文脈ではナントの勅令が言及されていますが、その後、革命政権により「宗教的不寛容」が弾劾され、自由、平等、友愛の名の下に教会が攻撃され、宗教の本質が個人の信仰として定義されるようになる、1世紀にわたる闘争を通じて第三共和国の下で最終的に解決されるという風に歴史を辿っていきます。人道と進歩の理念を掲げる共和国は実証主義的ヒューマニズムを涵養する公教育制度を樹立する一方で、文明化の使命の名の下に植民地を拡大する。反教権教育、教会との不平等な協定、帝国の拡大、この三つがフランス・ナショナリズムの柱であり、この上にライシテも誕生した。しかしアルジェリアのみがこの学校システムの例外で国家と教会が協働して改宗やムスリムの教育にあたった。マシニョンのようなオリエンタリストはムスリムの解放に熱狂したが、誰を解放するのか、いかに解放するのかを決定するのは共和国であった、と。

それで論者によればスカーフ事件から見えるのは今日のフランスはある意味でcuius religio eius religioのままであり、この原理の重要な点は特定の宗教へのコミットメントや禁止にあるのではなく、単一の絶対的な権力-主権国家-を立ち上げることにあるとされます。この権力は単一の源泉からその力を汲み、さまざまな信仰にかかわらず人民に対して世俗的配慮をするという単一の目的に取り組むような権力である。宗教はあの世のことに関わるのであって国家権力はこの世の福利厚生のための自らの適切な場を定義しなくてはならない。それゆえこの世の福利厚生のイメージが必要とされ、宗教のプレゼンスの記号はなにかという問題への答えも必要とされる、と。ここから特定の象徴が宗教的なものか否かを最終的に決定する権能が世俗国家に残されることになる。以下、国家の記号読解の様態をスタジ報告書から読み解いています。

論者によれば、スカーフをまとう動機は多様であり得るし、宗教的動機からだとしてもそれは「行為」であって「象徴」とはいえないかもしれない。それを宗教的シンボルと決定し-十字架とキッパとともに-禁止することを通じて世俗国家はその権力を行使する。さらに報告書はここに宗教的なシンボルを顕示する「意志」と「欲望」を読み込み、それを決定する、と。またカール・シュミットのいうように主権とは「例外」を決定する権力のことであるとして国家から補助を受けているキリスト教系とユダヤ教系の私学、国が教会財産を所有し、聖職者が給料を支払われているアルザス・モーゼル、司教区組織や様々な宗教的アソシエーション、軍隊、学校、病院付きの司祭の例などを挙げています。事実としてフランスは普遍主義的な市民のみから成り立っているわけではない、と。以下、友愛の問題やユダヤ人の問題やイスラム嫌悪の問題などについて具体的に論じていきますが、ここはよく語られる部分なので割愛します。具体的なことに興味のある方はリンク先をお読みください。

以上、ライシテの問題とは、なにが「宗教的」なのか、またなにを「例外」とするのかを決定する主権の行使の問題である、としています。そしてそこには本質的に恣意性がつきまとう点が示されていますが、特になにか政治的提言がある訳ではなくここでは「理解」が目指されています。まず、ここまで一般化するならば、フランスに限らず、政教分離が存在する近代国家であればどこでも権力の作動を記述できるのではないでしょうかね(こうした「批判的」な記述の仕方を好まない人もいるでしょうけれども)。確かに普遍的かつ世俗的な市民を育む公教育の場から宗教的記号を放逐せんとする情熱はいかにもフランス的ですが、スカーフが宗教的シンボルと認定され、これをまとうことが禁止されるにいたる経緯を見るならば、共和国の原理そのものから直接導き出される必然的な結論と言えるのかどうかは微妙なところもあるように思えます。なぜこの時期このような形でこのような措置がとられたのかはやはり具体的な政治社会状況を見ないと分からないでしょう。理念的にはライシテを「人類」の目標と普遍主義的に語る者もある一方で、ユダヤ・キリスト教文明やフランスの特異性に言及する者もあるといった混乱も問題でしょう。ただこの問題は長期的に見ないといけない問題だと思います。最後に、これは言って詮無いことかもしれませんが、私自身は象徴政治というのはやはり好きではないです。

信仰の土着化とナショナリズムの相関関係──「宗教の神学」の課題として[pdf]

こちらは小原克博氏の信仰の土着化とナショナリズムに関する論文です。日本のキリスト教の場から発せられた論文として読ませていただきました。当方、単なる歴史好きなので十分に咀嚼できているのかどうか心許ないところもありますが、問題意識は伝わってきました。世俗ナショナリズムと宗教ナショナリズムに対して寛容と多元主義を掲げるリベラリズムを掲げても問題の解決にはならない、そもそもこれらは西洋発の近代主義的ディスコースが排除した当のものなのだから、という認識が大きな枠組みになっています。

これに関連して近代国民国家における「宗教」と「迷信」の構築という論点が言及されていますが、この点は前エントリで紹介した記事などと認識を共有しているようです。近代国家は「宗教」がなんであるかを定義しつつこれを私的領域に割り当て、民俗的なものを「迷信」として排除することで世俗的な公共空間を形成していくが(近代的な「宗教」と「世俗」の関係の創出)、ナショナリズムと「宗教原理主義」は公共的な空間から排除されたものたちの復讐である。また植民地化と脱植民地化を経験した非西洋社会においては旧宗主国が押し付けた、あるいは輸入された制度たる政教分離に対して世俗的、宗教的ナショナリズムで応答する場合もある、と。

日本の文脈では天皇制イデオロギーおよび国民道徳が公的秩序原理として樹立される一方、伝統仏教の「再土着化」とキリスト教の「土着化」を通じて宗教が私的なものとして承認され、民俗的なものは迷信として排斥される日本的政教分離のプロセスを辿ったとされます。日本のキリスト教については土着化論と文脈化神学(というのがあるのですね)の観点から論じていますが、内村鑑三のようにキリストへの忠誠と日本への忠誠に引き裂かれ葛藤した人物もいたが、キリスト教のほぼ全体がナショナリズムの渦に飲み込まれてしまった。戦前にはナショナリズムは土着化の前提とされ、これが批判的に検討されることはなかった。逆に戦後は国家のみならず「日本的なもの」に接近することにまで強い警戒心を持つことになる。しかしただの反動であってナショナリズムを十分に対象化できていないといいます。

世俗的、宗教的ナショナリズムと批判的、建設的な対話をしつつ、自らを近代的価値の体現者と考えがちな西洋キリスト教の「宗教の神学」が前提とする「宗教」概念そのものを相対化する作業をすすめるために、論者は「一神教の神学」に加えてintra-contextual theology of religionsとinter-contextual theology of religionsという2つのプログラムを提唱しています。前者は郷土愛、民俗信仰や愛国心を対象とする神学、後者は国境を越えた文脈間の歴史的つながりや流動性を確認していく神学であるとされます。

シヴィック・ナショナリズム論やリベラルな多元主義論が単なる西洋の自己正当化に終わることへの警戒や宗教的ナショナリズムが近代からの逸脱ではなく近代化の産物そのものであることの認識などは私みたいな単なる国際ニュース好きにも理解可能な話ですし、ナショナリズムを単に否定するだけでは逆効果なことも実感させられてきたところですのでその問題意識は分るように思えます。「批判的・建設的」の「建設的」の部分が具体的にどういうものになるのかに興味があります。論者による近代日本の宗教概念についての論文も入手できたら読んでみたいなと思いました。ついでに「宗教」と「迷信」に加えて「科学」というのもありますね。特に我らが同盟国において宗教と科学が時に対立するだけでなく一緒になって迷信と戦ったりする光景をよく見ます。日本でも局所的にありますけれど。

"An interview with Peter Berger"[pdf]

かつて世俗化論の社会学者として知られたピーター・バーガー氏のインタビューですが、とても平易で明快です。氏の学説の放棄については仔細を知らなかったのですが、ネットで検索しただけでもずいぶん記事がありますね。このインタビューでは自ら説明しています。近代化とは世俗化ではなく多元化である、多元性と選択肢の拡大は世俗的選択につながるとは限らず、宗教的選択にもつながるのだとしています。ただ信仰がなんであるかではなく信仰がどのようになされているのかに注目するとそこには違いがあって、絶えず相対化にさらされるために確実性への信頼が毀損され易く、これが原理主義の土壌を形成しているとされます。

それから複数の世俗のあり方の可能性という話で日本が出てきます。最初に非西洋社会で近代化に成功した国として興味深いとしています。日本を世俗的な社会とみなした者もいたが、自分はそうは思わない、ただ異なる宗教性の形式を持っているのだ、西洋のようにドグマや教会を持たず、一人の人間が複数宗教のプラクティスを行っているというようにその宗教性は本質的にシンクレティズムである、ただ中国もそうであり、東アジア全体に言えることだろうとしています。西洋の一神教的な概念とは違うんだ、と。中村さん(誰?)の著書で一箇所だけ記憶に残っているところがあって、西洋のように一人の神がいてアリストテレスの排中律が支配する社会とは違うんだと言っていたと述べています。皮相といえば皮相かもしれませんが、まったくの間違いというわけでもないぐらいでしょうか。

次に米欧比較の話になりますが、宗教的アメリカと世俗的欧州という大衆的イメージは、実際には思われている以上にアメリカは世俗的で、思われてる以上に欧州は宗教的だったりもするが、有効ではあるとしています。「欧州化」した一握りの世俗的文化エリートがアメリカを牛耳り、他はまるで違う一方で、欧州では「信仰なき所属」が支配的である、と。世俗化論に従うならばアメリカは近代的でないことになるが、ベルギーのほうが近代的なのだろうか、アメリカが例外的なのか、否、欧州が例外的なのではないか、と問い、デイヴィーの世俗的欧州の考えを紹介しています。欧州といっても中東欧や正教圏では違うピクチャーになるが、と留保しつつ。一方、アメリカは振り返るならば最初から多元主義的であったし、多元主義というのは単なる事実ではなくアメリカのイズムそのものだと述べています。こうなると、結局、欧州の理論を学んだが、自国をうまく説明できないことに気付いたという話にもなりそうです。バーガー氏はこの構図はそれほど変わらないだろうとしていますが、欧州のムスリム人口の増大が与えるかもしれまない変化についても語っています。未来予測は難しいでしょうね。

その他、さまざまな質問に答えていますが、質問者の引用するエルヴュー=レジェ氏の言葉が印象に残りました。フランスは人々が教会に行かなくなった後にもカトリック文化のままであり、たとえフランス文化の中で無神論者だったとしても、その人は「カトリックの無神論者」である、と。とするならば「プロテスタント系の無神論者」というカテゴリーもあるのでしょうが実際、、彼らにはしばしば独特の宗教性を感じることがあるのですね。これだと宗教と文化の区別がなくなりそうですが、誰か無神論者の国際的比較分析でもしてくれないですかね。いや、もうあるのかもしれませんね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=lrCBNkINfr0

大島ミチル『御誦』(1984年昭和59年)

映画音楽やゲーム音楽で知られる作曲家の代表曲で読みは「おらしょ」です。長崎出身の方です。

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