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2009年12月

微妙な動き(2)

前にエントリを書いたラング氏訪朝について情報が出てきているようです。

邦語では産経の記事をクリップしておきます。

仏、北朝鮮に常設事務所の解説を提案[2009.12.17/産経]

仏外相、北朝鮮との対話は時期尚早 政府内に温度差
[2009.12.22/産経]

対北国交なぜ急ぐのか[2009.12.23/産経]

一番下の山口記者の記事が懸念を含めて状況が見えやすいので一読をおすすめしておきます。

以下はル・モンドの記事です。記事中のミッテランの言及はラング氏が同政権の文化相でミッテラン派であるところから来ています。大急ぎなので変なところもありそうです。気がつき次第直していきます。

"Lang, mitterrandiste jusqu'en Corée" par Natalie Nougayrède[17.12.2009/Le Monde]

1981年2月だった。大統領選挙候補者のフランソワ・ミッテランは独裁者金日成の招きで北朝鮮を訪問した。中でもリオネル・ジョスパンとガストン・デフェールを伴って。北京発で平壌に到着した一行は2日間の滞在で、クロード・エスティエが語るところでは、「『偉大なる首領』金日成の信じがたい個人崇拝」を見たのだった。

一行は金本人に迎えられたが、この人物は自身の全著作を収めたケースを各々に手渡した。金日成は「多くの良識とリアリズム」を備えた人物であるとミッテラン氏は後に語るだろう。5月10日の選挙の晩に彼に宛てられた祝辞の最初の電報のひとつは平壌から発された。

北朝鮮は餓死者を出している労働収容所(20万の囚人がそこに収容される)、蔓延する洗脳、三世代に適用される「人民の敵」概念を備えた全体主義国家である。1990年には100万から200万が餓死したが、これは人民の中で「忠実」とみなされた特定層(とりわけ軍事カースト)に食糧をまわした体制によって部分的には引き起こされたものである。今日でも深刻な栄養失調の問題は存在するが、体制は膨大なリソースを核とミサイル計画に捧げている。国際舞台では北朝鮮はその妨害能力を金に変える術の達人で通っている。今日ではミャンマーと並んで惑星で最後の頑な独裁国家のひとつである。

「別の時代だったのだ」と12月16日水曜フランソワ・ミッテランの旅について問われたジャック・ラングはコメントした。「社会党は当時様々な国の共産党と対話の関係を維持していたのだ」と。ジャック・ラングは10月にニコラ・サルコジに委任された北朝鮮での「情報ミッション」の結果を国民議会外交委員会に提出したところである。

11月に彼は北朝鮮で5日間を過ごした。5日間になったのは中国側が保証した北京-平壌間の2つの航空連絡路を隔てる期間[?意味不明]のためである。ジャック・ラングは多数のフランス外交官を引き連れたが、その中にはサルコジ氏のアジア顧問のベルトラン・ロルトラリもいた。ジャック・ラングは体制のナンバー・ワンの金日成の息子である「首領」金正日ではなく(公的な説明では「首都に不在」だった)ナンバー・ツーに迎えられた。

この滞在の間には「慣習を尊重する」ためにラング氏が応じたほぼ義務的な教練があった。「偉大なる首領」の巨大な像の前での瞑想と1994年に亡くなった金日成の防腐処理を施された遺体を擁する霊廟の訪問だ。そこで訪問者は4度もミイラに御辞儀をするのだ。

平壌では晩は長い。中産階級の開花の象徴である個人経営のレストランはやや物事を明るくしており、役人達との会話には酒がともなう。フランス代表団ははちきれそうなほど人で一杯のコンサートホールの一等席に着座するという思いがけない贈物を受けるが、そこでは明らかに特別に選ばれた公衆が完全に凍りつき、沈黙を守っている。他の場所と同じく「許可されない」者とは誰であれ会話を禁じられている。

北朝鮮の内情についてジャック・ラングは意見を表明し過ぎないようにしている。ショーケースたる首都の外では農村で「生活の困難を知っていると思われる人々」を彼は見た。しかし彼は北朝鮮で「ラインは動いている」という印象とともに帰国したのだ。今年のビル・クリントンの訪問と最近のバラク・オバマの使節派遣をその証拠だといって張り切っている。また北朝鮮が彼に示した「厳粛な態度」も。つまりフランスとの「人権に関する意見交換」の提唱と核、ミサイル技術輸出を止めたという約束のことだ。「真面目に受け止めるべきだ」とラング氏は言う。

彼によればフランスは開放的な精神をもたらす手段を見つけなければならない。たとえパリが「近々に」外交関係を樹立することが「想像できない」としても。「段階に応じて」物事を進めるのが重要であり、その間にフランスは平壌に「人道的、文化的、言語的協力の常設事務所」を開くことを提案するのだ。

フランスは朝鮮戦争(1950-53)以来北朝鮮と外交関係を持たない。この時にはフランスは国連の委任下で米軍の側で戦うべく一大隊を派遣した。平壌での滞在にもかかわらず、フランソワ・ミッテランは一旦大統領に選出されるとこの一歩を越えることを、ユベール・ヴェドリーヌが回想するところでは「北朝鮮が彼を攻め立てた」としても、拒絶した。

ジャック・シラクもまた、イギリスとドイツとは異なって、2000年に南北の緊張緩和の局面を利用することを拒絶した。「不拡散と人権」についての進展を条件として挙げて「こうした関係を回復するには最低限の態度が必要だ」とジャック・シラクは説明した。

フランス外交はこの政策に関して転回したのだろうか。ニコラ・サルコジは「ならず者」体制との対話を試みるバラク・オバマ外交を先取りしようとしているのだと言う者もいる。他の夢、特にユネスコ事務局長の夢を抱くジャック・ラングはそのために「リクルート」されたのかもしれない。春に彼はキューバでのミッションを既に実行した。水曜にジャック・ラングは平壌で米国のミッションに先鞭をつけて満足していると述べた。フランスのイニシアティブは―安心させなければならなかった―日本の高官達を苛立たせただろう。中国は中国でここに利益を見ただろう。こうしてエリゼは北京の歓心を得ようとしているのだろうか。

以上、最後の中国を利する云々は現状ではよく分かりませんが、やはりなんとも微妙な動きに見えます。まだ米国の動きを見ながらなにができるのか様子見しているといった感じに見えますが、一応イランとの整合性はどうするつもりなんだとかつっこみの練習はしておいてもいいのかもしれませんね。

ではでは。

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複雑な関係

波乱含みで日米関係と日中関係が焦点化されている日々ですが、ル・モンドに後者について記事が出ていましたので紹介しておきます。

「北京と東京、複雑な関係」
“Pékin-Tokyo, une relation complexe” par Philippe Pons[l19.12.2009, Le Monde]

中国の副主席でおそらくは未来の「ナンバーワン」である習近平は好意的な扱いを受けた。政府の要請で、天皇との会見には一ヶ月前の事前申請を求めるプロトコルにもかかわらず、君主によって迎えられたのだ。その一方で彼が成田空港で篭城している同胞の馮正虎を目にすることはなかった。中国はこの問題には無関心なようであり、日本にとってはこうしたケースが提起されるのは初めてのことである。

人権は日本外交の「十八番」であったことはない。民主的価値の擁護者たる日本はこの件について激昂を示していない。

過去の拡張主義-とそれに伴う残虐行為-は日本をなかなか「教えを垂れる」位置には置かない。政治的現実主義もまた妥協的に振舞うことを強いている。1945年の敗北以降、日本は経済的観点を除けばアジアに無関心であるかのようであった。日本は明治時代(19世紀後半)の改革主義者達の思考の延長にあったが、彼らにとって、列島の近代化は「アジアの根を絶つこと」そして西洋、この場合、欧州の方法を採用することを要請するのであった。たとえ自由と権利の擁護者たる日本の思想家達が西洋の諸価値とその帝国主義の間の落差を非難したとしてもだ。

中間の道

列島は20世紀初頭に汎亜細亜主義のスローガン―間もなく帝国的イデオロギーとなった―の下にアジアを再発見した。

西洋との接触以来、日本は近代性の参照モデルとみなすものとの関係性において自らを定義づけようと止むことなく努めてきた。こうした思考は列島では極めて意味深長なものであり、1990年代には日本とアジアの同一化の支持者達は「アジアへの回帰」を告げることで明治時代の表現を転倒した。鳩山政権は中間の道に位置している。つまり一方の足を西洋に、もう一方の足をアジアに置いている。

民主党は前任者たる、半世紀にもわたって政治生活を支配した自由民主党よりも、「開かれた地域主義」の立役者となるべく、右翼のなかった主義(negationisme)とは断絶して戦前の負債を引き受ける用意があるようだ。中国の台頭は日本をして地域に再焦点化することだけなく、不快なテーマを避けて北京との良好な関係を築くことを余儀なくさせている。

以上、この地域に特に知識のない人々に向けて歴史的パースペクティブを与えようといった趣きの短い記事です。汎亜細亜主義の問題性についてはもう少し書いてもらいたいところもありますが、同記者は確か戦前の亜細亜主義者や親中派についての記事も書いていた記憶があります。個人的には「脱亜」とか「入亜」とかというのはどうも苦手なところがあるのですけれども(そもそも西洋とはなにか、アジアとはなにかの段階でつまづく)、この言説系譜で言えば、民主党は「中間の道」を歩んでいるとみているようです。

ついでに。特例会見で戦後的な立憲象徴君主制の根幹に無造作に触れた点には困惑させられました。これは親中とか反中とかいう問題ではないし、政治的なものと官僚的なものとの対立の問題でもない。国際政治の荒波に天皇陛下を巻き込むことは望ましいことなのかどうか、大げさに言えば、戦後的な「国体」概念に関わる要素を含んでいるだけに政府にはそれなりの理論武装が必要であるように思えます。また冒頭で国際的には大きく報じられているにもかかわらず日本国民にはあまり知られていない成田の馮正虎氏の問題に触れていますが、「教えを垂れる」ような高圧的な態度でなくとも政府はしっかりとした対応をしたほうがいいと思います。日中友好も結構な話でありますが、原則論的な部分については確固とした態度をとっていただきたいわけです。

追記

背景や経緯が十分に報じられていないところで少し大げさだったかもしれません。でもこういう不透明なやり方は個人的にとても望ましくないです。

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