カテゴリー「政治」の77件の記事

微妙な動き 

ずいぶんと急に寒くなってまいりましたね。ここのところずっと狭いけれども快適な穴蔵でぶつぶつとつぶやいておりましたが、季節も変り目ということでちょっとばかり地上に出てまいりました。なんだかまぶしい思いがいたします。透明な秋の空が目に沁みる。

サルコジ大統領に北朝鮮特使としてジャック・ラング氏が任命された際にはやや微妙な反響を引き起こしたようなのですが、メディアの関心も少し集まっているようなのでメモしておきます。

ラング氏ですが、ミッテラン政権の文化戦略で辣腕を振るったことで知られるなかなかカラフルな政治家で大統領候補にも名前があがったこともあるような大物です。この人が北朝鮮特使になった背景はよく分からないのですが、サルコジ政権の左翼の取り込みの一環として語られることが多いようです。野党の社会党の所属議員ですが、経歴を見ると分かるように文教畑の方です。

邦語ソースをググる限りは、この件はあんまり注目されていないようですね。まぁ、実際、どこまで注目すべきか微妙なんですけど。

北朝鮮特使に野党有力者を任命 フランス大統領[2009年10月2日産経]

ラング元文化相、北朝鮮訪問のためパリ出発[2009年10月3日産経]

北の核で連携、岡田外相とフランス特使が会談[2009年10月5日読売]

仏特使、11月上旬に訪朝 外交樹立を模索[2009年10月28日日経]

記事にあるように、10月1日に特使に任命された後、日本を皮切りに各国を歴訪して北朝鮮との国交樹立のために必要な「情報収集」を行ったとされますが、先月の半ば頃に11月初頭には北朝鮮訪問をする旨公表しています。この経緯については山口記者がブログ記事で興味深いエピソードとともに書かれています。

北朝鮮サッカー選手、キムチ持参でフランスで練習[イザ]

サッカーを使ったのですね。で記事にもあるように今さらなんでフランスがのこのこと出てくるわけ、という空気が流れているようです。最初から安保理常任理事国として英仏が協議の面子に入っていれば数の論理で日本の発言権もなんぼか増していたのかなぁ、などと思ったりもしますが・・・。

で英語ソースだとAPがまた微妙な味わいの記事を出しています。

"France wades into Bog of North Korean Diplomacy"[3.11.2009.AP]

ラング氏のミッションは公的には二国間の国交樹立を目指しているが、勿論狙いは6カ国協議に絡むことにあり、援助をえさに核問題の行き詰まりを打開することにあるとしています。

記事では、自分は「平和の戦士」だとか、朝鮮戦争と無関係なのでフランスは中立的な立場に立てるとか、なにかが少し動いているという直観があるだとか、ちょっと分かっているんですかねぇ、という発言が引用されています。

またなぜ元文化相なのかという点についても言及があり、氏は左翼の社会主義者だからキューバや北朝鮮を相手にするのには適しているだとか、実際に実務を担当するのは専門家たちなのだから氏でも特使は務まるだろう、といった意見が拾われています。

最後にこのフランスのアプローチは関係国の警戒を呼んだが、6カ国協議の枠組みを損なわないように動くことを約束している点について触れています。

不透明さの理由のひとつとしてラング氏は一国を代表しているのか、それともEUを代表しているつもりなのかがよく分からないという点が挙げられるでしょうか。支援云々についてもEU内で本当に議論がなされているの、フランスの独走じゃないの、と。後者でしょうけれど。

"France's envoy to North Korea"by Judah Grunstein[3.10.2009/World Politic Review]

それでこの件についてなにか分析はないかなと探してみたんですが、まだ初動の段階であまり見あたらないです。書き手は私もよく記事を目にするフランス・ウォッチャー氏ですが、ラング氏の任命に疑念を表明しています。

サルコジはオバマ就任以来ようやく外交的なsweet spotを見つけた。ブッシュ政権末期以来、サルコジは欧州でも大西洋でもフランス外交の信頼性を向上させるように努めてきた。しかし不人気な大統領の数少ないよき友であることは人気のある大統領の多くの友たちの中で舵取りすることに比べて容易い。

ラングの任命は様々なレベルにおいてよくない。米国人に説明は難しいが、ラングについてそれからフランス政界の中のラングの位置について知っている者には明らかだ。彼は人気にもかかわらず、彼の任務が必要とする威厳を欠いている。ラングのことは個人的に好きだが、平壌でもどこでも笑顔を浮かべる以外のことができるとは思えない。

これはまた国内政治のために社会党の有名人をピックアップするサルコジの努力である。しかし真剣な外交的イニシアティヴが展開する限り、これは測り難い。

といった具合にラング氏個人の適性への疑義を記しています。いかにも事情通の文章ですが、私の印象でもそんな感じですね。フランス文化の宣伝に平壌に乗り込むにはいいかもしれませんが、核問題とはなかなか結びつかない。記事は米仏関係でこの動きを理解していますが、対イラン外交とも合わせて考えないといけないのかもしれませんね。とりあえず外交ゲームの焦点を探して極東まで手を伸ばしてみましたといった感じなのかと思いましたが。

ともあれ、いったいなにをたくらんでやがるという関係国の疑いの視線を浴びながら、素敵な笑顔とともにラング氏がやって来るという話でした。

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日本元年


このたびの民主党の圧倒的勝利をめぐる英語圏の報道も紹介されているようですので仏語圏の報道でも紹介しておきましょう。いささかシニカルな論調も散見される英語圏の報道に比べると民主党の勝利を日本の民主主義の勝利として素直に称えるトーンが優勢かなという印象を受けますね。それから左派メディアではサルコジスムを自民党に見て、社会的なものを民主党に見る傾向もあるようです。人は見たいものを見るということです。以下、ル・モンドの社説「日本元年」です。

"Le Japon, an 01"[Le Monde]

日本人は変化を選んだ。8月30日の総選挙での中道左派の民主党の圧倒的勝利は歴史的なものである。ここまで自民党の保守主義者による権力の独占的な行使、そして複数の派閥間の「木刀での闘い」が半世紀以上も続いたのだった。この成功は列島における深甚な諸々の変化に表れているにちがいなかろう。

民主党の与党としての未経験は完敗後の狼狽の中にある自民党内部の分裂の可能性と結び合わさってこの安定に慣れた国に一定の政治的混乱をもたらし得るだろう。もはや投資や輸出によってでなく内需主導の成長と社会的保護を優先するというのであるから民主党は1960年代以来優勢であった「日本工場」のモデルを覆そうとしている。

8月30日の選挙は自民党に関する国民投票となった。すなわち個別のプログラムを超えて拒否されたのは権力の実践であり、経済的、社会的ロジックである。民主党は生活条件の改善を政府の基本的目的とすることで優先順位を転倒させようと求めている。敵対者から見れば、こうした「ロビンフット的」な政策は列島の産業的競争力を危険にさらすものであり、財政を不安定化するものである。

1990年代初頭の「投機バブル」の崩壊以降、日本社会は不安定化した。機会の相対的平等、給与の幅の小ささ、ほぼ完全な雇用、成長の配当の再分配による生活水準の改善が不平等の拡大、雇用の不安定性、ほぼ破綻した年金システム、多くの人々の相対的貧困化に席を譲ったのだ。こうした社会的不安定に起因する諸々の現象が選挙の背景となっていた。

民主党のプログラムは野心的なものである。社会的保護を優先することでこのプログラムはスカンジナヴィア諸国の「民主的資本主義」の列に位置することになる。しかし民主党は国民的な社会文化的遺産を考慮しつつネオリベラリスム/福祉国家の二者択一を超克することを可能にするような日本的な成長の道を見定めなければならない。換言すれば、1960年から80年の拡大の起源となったモデルを改訂しなければならない。日本人が選択した過去との断絶は救済的なカタルシス効果を持っている。後は民主党が期待の水準に達することが残されているのだ。

という訳でいかにも同じ中道左派への共感のある社説です。新自由主義か福祉国家かの二者択一を超克する日本的な道というのがどういうものかは分かりませんが、私にはここしばらく民主党からは協同主義の木霊が聞こえてきますね。超克。

ではでは。


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民主党の中道化

政権の交代が確定的になってきた中で同盟に与える影響についての予測の記事がちらほら出るようになっていますね。FEERに記事があったので紹介しておきます。

"Change the U.S. Can Belive In" by Abraham M. Denmark[Far Eastern Economic Review]

民主党が主張していることは大まかに言えば「より独立的な」外交政策であり、「より対等な」同盟関係である。これまでのリーダーたちの発言は民主党が日本の独立性を高めるために同盟にラディカルな変化を求めるのではという懸念を米国にもたらしてきた。おそらくは日米地位協定、インド洋での給油、米軍のグアムへの移転費用、米軍基地縮小といったイシューが最初の数ヶ月間を支配することになろう。しかし日米同盟の劇的な変化はありそうもなく、民主党は中道化に向かうだろうと予測しています。

これまでの発言は自民党批判の選挙戦術であり、民主党の関心は内政イシューにある。民主党支持は国民世論のイデオロギー的左傾化ではなく自民党の統治能力への不満にある。民主党はさまざまなイデオロギー的支持者の間で妥協し、中道層に訴えなければならない。こうした民主政治の鉄則に加えて、民主党自体がイデオロギー的に多様である点から党の結束をはかるために中道化は不可避であると予測しています。

書き手の意見としては民主党が日本の国際的地位にふさわしい形に同盟が更新されるよう求めるのは正しいとしています。日米同盟は冷戦時代に形成されたが、未だにこの時代に束縛されている。交渉の席で日本側は「ノーと言う」かもしれないが、米国は日本側の期待に適応しないとけない。また民主党の側も軍事費増額や集団的自衛権の支持など自国の防衛に責任を持たなければならない。最後は

Change can be painful, and this will no doubt be the case in the future of the Alliance. But change can also be transformative, and a more equal relationship with a more capable Japan will be a net positive for American interests and regional stability.

とまとめています。だいたい穏当で建設的な意見だと思われます。民主党の中道化は既に顕在化していますね。言うべきは言って欲しいと思いますが、問題は民主党のヴィジョンが今ひとつ見えてこないところにあります。なにをしたいのか見えない点では自民党も似たようなものだとも言えますが、いくらなんでも社民党まで抱き込むとはねえ。結局、自衛権の問題はどう整理するつもりなのでしょう。また軍事費の増額についてはーGDP比1.5-2%ぐらいでしょうかーこのご時世には無理でしょうねえ。ふう。当面は地味な交渉が続くことになるのでしょう。


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ブルカをめぐる熱い論争(5)

だんだん日本語圏に紹介している意味が分からなくなっているのですが(他国の社会ネタというのはそうしたものですが)、乗りかかった船ということで個人用のメモのつもりで続けておきます。

"Ce que la loi sur la burqa nous voile" par Farhad Khosrokhavar[Le Monde]

ル・モンドに掲載されたKhosrokhavar氏のオピニオン。以下、逐語的な訳ではなくかなり自由な要約です。

2004年の公立学校でのスカーフ禁止は学校に平和をもたらしたが、街頭を含む公的空間でのスカーフの非正統化を代償とした。街頭での着用は許容されているが、いまやスカーフは違法(illegal)ではないが非正統的(illegetime)なものとなった。人はそこにフランス的な近代性と両立しないものを認知したが、象徴の意味というのは可変的なものである。英米のヴェールを纏った女性たちは「共同体主義」、最悪、原理主義ではなくて宗教的象徴の個人化を体現している。公的空間でのスカーフの非正統化は、ヴェールを着用しつつ近代性を求める女性たちがフランスを捨てるという結果をもたらしている。高等教育を受けた女性たちの流出は人的、経済的リソースの損失である。こうした状況は逆説的に原理主義者やセクト主義者を利している。彼らと戦うための仲介者となるはずの女性たちもまたヴェールを着用するゆえに彼らの一部のようにみなされることになるのだから。両義的な知識人の拒絶は、共和主義的なムスリムか、それとも「原理主義者」か、のどちらかであるという結果をもたらしている。「共和主義的スカーフ」を打ち立てるのではなく、スカーフなき共和国が望まれたのだ。結果は逆になった。その後、多くの街区が「原理主義化」した。仲介的な共同体の拒否が原理主義に対して無防備にしたのだ。意味を変じた宗教的象徴を纏う者こそがセクト主義的な宗教性の防波堤になるのに、フランスはこれを拒絶している。ブルカ禁止法が施行されたならば、フランスはイスラム諸国のみならず他の西洋諸国からもイスラム嫌悪の国とみなされるだろう。新法を制定する代わりに、国内のムスリム共同体との対話の能力を強化し、セクト主義と戦うためにムスリム個人の個別性を承認しなくてはならない。

以上、ムスリムの個別性に力点をおいた意見です。私みたいな個人主義的な傾向性の強い人間には正論に聞こえるのですが、英米をやや理想化しているように感じられなくもないです。ライシテ原理主義的な行き方には憂慮する一方で、極東の一素人ブロガー的にはどこかでフランス的な道というのを勝手に期待しているところもあるのですね。

"Pourquoi les Français veulent interdire la burqa ? Entretien avec John Bowen"[Nonfiction.fr]

スカーフ問題についての米国の代表的な解説者であるジョン・ボーウェン氏のインタビューです。興味を引かれる観点になかなか出会えないと前に書きましたが、公的秩序概念になにかが生じているという直観はあって、短い記事であまり深い掘り下げはないもののその点に言及していたので紹介しておきます。

nonfiction.fr :  あなたは現在のブルカ問題の再浮上をどう説明しますか。

John Bowen :   特定の出来事と関連している訳ではないのでこの問題が今復活している理由を説明するのは難しいです。スカーフについての本の中で私はスカーフについての発言の再浮上と、例えば、アルジェリアやアフガニスタンといったムスリム世界で生じている出来事との関連を探求しました。ブルカについてはむしろ長い歴史があります。北イタリア、ベルギー、オランダで数年前から地元当局によるブルカ禁止の動きが見られます。イスラムに対するこうした欧州的な動きはフランスでは極右層ばかりでなく強い反響を呼んでいます。というのも分裂をもたらすものは許容すべきではない、ところでブルカは個人を分裂させる、という考えが身に染みているからです。討議は共通価値という理念に焦点化して左翼右翼の政治的連続体を横断しています。例えば、身分証明の管理の技術的問題に訴えているとしても、困惑させているのはむしろ仕切りや共同体を抱えているという事実なのです。

nonfiction.fr :  学校から街頭へのこの移動はなぜなのでしょう。

John Bowen : 2002年2003年の討議の間にも、ヴェールが女性の抑圧の象徴ならば、学校であろうと街頭であろうと公的空間で禁止されるべきだという声がありました。理由付けの点で非常に一貫性のあるこうした提案は聞き届けられませんでした。この時にはヴェールに関する法は施設の管理者としての教師達を悩ませていて当事者には手だてがない学校固有の問題に応答しなければならなかったからです。例えばショアーの歴史の授業への異論だとか宗教的な義務に学校生活のリズムを適応させることだとか。こうした文脈では、ヴェール問題は、法制化することの、そして法制化による問題解決の印象を与えることの適当性を提供したのです。立法に対するフランスのこの偏愛ですが、最近ではグループと覆面の着用に関する法律にも見られました・・・。

nonfiction.fr : 面白い偶然の一致ですね。この覆面とブルカの平行性は!

John Bowen : はい、意図した訳ではないですが、この二つは公的空間に関していかに法制化するのかという同じ問題に関わります。一般にフランスは公的空間というものに共通価値の場とか共生の場という風にポジティヴな考え方を持っています。そこから分裂をもたらす表徴は排除されるべきだという考えが出る訳です。これはフランス的なライシテの感覚です。しかしこの空間の境界線は流動的です。具体的には公的空間とはどこでしょう。街路でしょうか。学校でしょうか。市庁舎でしょうか。

ブルカを着用していたためにフランス市民権を拒否された女性のケースをとりあげると、政府の理由付けは市民権取得のための条件が満たされていなかったからというのではなくブルカを着用して家にいた事実からして彼女は同化していないからというものでした。ここに興味深い点があります。問題は公的秩序へのトラブルにではなく私的領域にとどまっていた事実に起因しているのです。ここには変化が見られます。現在では部屋の中にまで入るのです。妻が非処女であったがゆえの婚姻解消に関する討議でもこれは見られました。この婚姻解消は妻も判事も異議申し立てしなかった訳ですが、こうした区別が私的領域に存在する理由はないと考えた政治の声によって異議申し立てがあったのです。ブルカ問題では私的生活が公的領域における欠如ーライシテの欠如、同化の欠如等々ーの源泉足り得ると考えられています。私が関心があるのは公的秩序の観念の進化です。一方に親密空間、家族空間に対立して公的空間があり、他方に私的には嘲弄され得る公的秩序ー非常にデュルケーム的な社会秩序、道徳秩序ーがある。それでこの道徳秩序という考えから私たちはブルカ禁止に好意的な解釈へと導かれるのです。しかしポスト・ヴィシーの時代にあっては道徳秩序については語り難いのですね。

nonfiction.fr : 私的空間に関心があるということは政治的なものから離れることになるとあなたは言いたいのですか。

John Bowen : 私はここに人々の私的生活への、私的領域での自由への潜在的な攻撃を見るのですね。ブルカの件で現在は共同体主義の問題が女性の身体に関わっています。最近のことのように見えますが、この移動は実際には長い時間に刻みこまれています。個人の自由と共通価値の緊張というのはフランス革命以来不変なのですから。1789年の後に1792年があったことを忘れるべきではありません。フランスはなお一般意志の表現たる国家と個人の自由の間のこの緊張に貫かれているのです。この緊張は明瞭にルソーの思考に現れます・・・

nonfiction.fr : スカーフに関する著書の中でルソー主義的な思考がフランスの心性に深く染み込んでいることをあなたは示しました。フランスの子供たちは学校でアングロ・サクソン哲学をもっと読むべきだとあなたはお考えですか。

John Bowen : それは学校教育に関する質問です・・・、何年も前からフランスで自由主義者の思想を紹介するための努力がなされてきました。しかしフランスの教育や歴史に根付いていない他の哲学システムに訴えなくとも、ルソーの中にも個人の自由の擁護は見出せます。

他方、こうした問題は一般的に公的自由の問題を提起するばかりでなく個別的にフランスにおけるイスラムの問題を提起します。私が新著の『イスラムはフランス的になれるのか』で示そうとしたのはこういう問題です。対話の形式を発明すること、フランスのイスラムの存在を正常化できるような特権的な対話者を見つけることがなお残されているのです。

と言った具合でやや散漫なインタビューですが、公的秩序、公的空間の概念になにかが生じている、といいますか、公的なものと私的なものとの関係性に異変が起こっていると論者はみているようです。ここではそれ以上はあまり展開されないのですが、集中的に論じているらしい論者の新著には興味が引かれます。どうでもいい話ですが、私はルソーは嫌いでデュルケームが好きなのですが、ブルカをめぐるあれこれもルソーの呪いと考えるならば、私のいやな感じの説明がつきそうです。

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ブルカをめぐる熱い論争(4)

正直、興味を引くような観点というものになかなか出会えないのが今回の特徴でしょうか。えーと、ブルカの話です。これが問題になる理由というのも頭だけでなく肌感覚で分かるような部分がある一方で、なんで今こんな些末な問題を論じなくてはならないのかやはり腑に落ちない感じがつきまといます。これは「瑣末な問題」じゃない!という意見もある訳ですが、ここで問題の瑣末性を立証するようなデータが出たようです。

"La police estime marginal le port de la burqa"[Le Monde]

ブルカ着用の実態に関するル・モンド記事です。DCRIとSDIGのの二つのインテリジェンス機関からあがった情報をル・モンドが掴んだ訳ですが、DCRIの報告によればフランス全土でブルカないしニカブを着用する女性は367人(!)にとどまるそうです。着用は自発的であり、ほとんどが30才以下の若い女性で、4分の1が改宗者であり、大都市圏に集中している。おまけ情報として5才のブルカさんもいたそうです。SDIGの報告は数字はないが、同様の結論に達しているとされます。それによれば、ブルカ着用には家族への挑発的意図がある。ムスリムの大多数は全身ヴェールを拒絶しているが、この論争がイスラムをスティグマ化させるのではないかと不安に思っている云々。

"La loi et la burqa"[Le monde]

で、この新しい情報を受けたル・モンドの社説です。

DCRIがほぼ単体でー微笑させるリスクを冒してー評価を試みるほどこの現象は周縁的である。ル・モンドがつかんだ7月8日付のDCRI覚え書きによれば、フランスの367人の女性ーすなわち平均して約90000人に1人ーがブルカないしニカブ、つまりムスリム女性の身体と顔を完全に覆う黒い長衣を着用しているらしい。

これほど明確に数値化していないが、それより一週間前に作成された覚え書きの中で、SDRIは「超少数派の現象」であることを確認している。

この二つの公的な評価は、春に65人の左右の議員がこの件で調査委員会を設置することを構想した後に我が国で突然沸き起こった議論に新たな光を当てるものであった。すなわち法制化である。会期が開かれて、各議員は誰もその規模を知らないこの現象を禁止する事の適否を決定するよう促された。この点について明言を避けつつニコラ・サルコジは6月22日に議会の前での演説の際にこの問題に言及せざるを得ないと感じた。「謹んで申し上げたいのですが、ブルカはフランス共和国の領土では歓迎されない」と、これが「宗教問題」ではないと明言しつつ、国家元首はこの時に宣言したのであった。

続いて相対的に慎重な態度が優勢となった。調査委員会は7月1日にこの驚くべき服飾的実践についての書類を作成するための単なる情報収集の任務ーこれが実施されるのに6ヶ月かかるーへと変じた。これは国民議会UMPグループ代表のジャン=フランソワ・コペに応答する形でなされたが、氏は「対話の段階の後の法制化」に一挙に賛意を示したのであった。

情報機関が描く「ピクチャー」は他の点も明らかにする。全身ヴェールを着用する女性ー大部分は若者ーは基本的に都市部に暮らしている。彼女達の大部分は自発的にブルカを選んだようである。戦闘的態度から、さらには「挑発」として、と情報機関は記している。彼女達の4分の1は改宗者であるらしい。

400人足らずのために、例外のために、法制化をすべきだろうか。立法府を既に通ったその都度的に作成されたテキスト群に法律を付け加えるべきなのだろうか。諸々のリスクーひとつはブルカに誤った解放イメージを与えかねないイスラムのスティグマ化ーを考慮するならば、回答は否である。

まあ、幽霊の正体見たり枯れ尾花といいますかね。大先生レベルの瑣末な象徴をめぐる政治に見えてきました。ともあれもう少し実質的に意味のあることを人は討議すべきではないでしょうか。

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ブルカをめぐる熱い論争(3)

いや、暑いですねえ。コーラがうまい。このまま夏本番になってしまうのでしょうか。

やや一般論的に過ぎたような気もしますので今回はもう少し実態のイメージが掴めるような記事を紹介することにします。どちらも少し前の記事なので速報性はありません。右派のフィガロは基本的にライシテ支持の立場をとってきている訳ですが、今回は難易度が高い話なのでやや慎重な論調になっているような印象を受けますね。

”Qui sont les femmes qui portent la burqa en France ?”[Figaro]

まず「誰がブルカを纏っているのか」という記事です。メディアでは改宗したフランス人女性のケースに焦点が当たっているようですが、この記事でもとりあげられています。フランス国籍非保有者ばかりでなく、なんといったらいいのか、移民系や非移民系-何代か遡れば移民だったりしますが-のフランス人にもブルカ族はいる訳ですね。

頭から足まですっぽりと覆うこのヴェールを患う女性がいるが、「大部分は自発的にこの衣服を選んでいた」とイスラム専門家のベルナール・ゴダールは断言する。「多くはフランス国籍を保持している。彼女たちの間では改宗は悪くないと思われている」とかつて内務省の宗教局にいたこの人物は付け加える。「特定のセクトに入るように彼女たちはサラフィストになるのだ」と続ける。

ラディカルなイスラムを支持するサラフィストはフランスではまだ少数派にとどまっている。彼らは30000人から50000人とされる。しかし西洋の否定に麻痺してその勢力は徐々に拡大している。この原理主義はタブリーギーと同様に絶対的なものに飢える若者の心を正確に掴むが、その中には女性もいる。セクトの内部と同じようにメンバーは規則をつくり、コーランや数千のハディース-彼らが文字通りに尊重しようとしている預言者の言葉-を読み直して時を過ごしている。

フランスの多数派であるマーリク派イスラムは全身ヴェールを命じていない。このヴェールは古典的な宗教的義務にもマグレブの伝統にも属していない。しかしアルジェリアに根拠をもつパリ大モスクの指導者のみがニカブに反対の意思を示しているだけだ。他の運動は内部に原理主義的な周辺部を抱えることになるがゆえに困惑しているようだ、と国内情報局では分析されている。

宗教的高進

サラフィスムが広まるにつれてこうした女性たちのプロフィールも多様化している。多くは彼女たちの宗教的高進を家族や周囲との区別の要素となしている。ソフィアがそうであり、この成績優秀のbac持ちのパリ第七大学物理化学科の学生は学部の講堂に全身ヴェールでいつも現れては教授たちを不快にさせている。口頭試問で非常に優秀な点数をとった後に化粧品会社で働くことを夢見てシャネルの研修に参加した。

完璧に整えられたブロンド髪でやはり洗練された四人の子の母親の「デルフィヌ・アイカ」は挑発したがる。「あなたは私が脂ぎった髪だと思ったんですか。私には家に来る美容師の友だちがいるんですよ」。パリ地方の中流階級の家にカトリックとして生まれた彼女は「人生の意味」をもとめている多くの改宗者たちに加わった。「もちろんまずムスリムの男性と出会ったんです。でも信仰によってイスラムへと傾斜したのは私なんですよ」と彼女は語る。ヘッドスカーフからヒジャブ、そしてニカブへ。この推移の間に「私の服装を受け入れない」両親の支持を失ったが、彼女は新しい「姉妹たち」の「連帯」をますます大切なものとしている。

カリマはサン・ドニのシテのクルティユで育った。ぴったりしたジーンズ、イヤリング、ボーイフレンドといった平凡な若者時代の後に彼女は職業訓練に落ちて、世帯を持ったが、シテで人生が萎れ、地平が狭まっていくように感じている。イスラムに回帰した隣人を愛した彼女は夫の原理主義に従うことを受け入れている。ヘッドスカーフから全身ヴェールまで数年だった。この時代、彼女は子供を連れて歩く以外には彼と外出しなくなった。無信仰であるとみなす公的な幼稚園ではなく半ば難民的なサラフィストの託児所に通っている。家では子供の人形の顔は焼かれている。なにも表象してはならないからと・・・。二年後、アルジェリアに暮らすために出発する予定のカリマは苦悩を隠さない。夫は第二夫人をつくるだろうからと。

三人目のケースについては、みのもんた氏風に言えば、奥さん、そんな旦那なら別れちゃいなさいよ、となるのでしょうが、前の二人は自信たっぷりのようですね。パターナリスティックに関与することが正当化され得る場合もあるにせよ、一律的対応ではなくケースごとに対応を考えないとまずかろうと思うのはこうした多様な状況があるからです。なお彼女たちが自称しているのかどうかは不明ですが、サラフィストというのはスンナ派の復興主義的な厳格派を指す言葉で、そういうやばいのが今後フランスで広まるのではという不安がある訳ですね。

"À Vénissieux, terre d'expansion de la burqa"[Le Figaro]
「ブルカの広まる土地、ヴェニシューで」という記事ですが、ここは例のアンドレ・ゲラン氏が市長をやっていた町です。この町にいたブジアヌというイマームが姦通した女性への石打ち刑を肯定する発言をしたのが問題化した際にゲラン氏の名前は目にしたのですが、リヨン郊外のこの町で市長さんとしてヴェール化の波が広まるのを目撃し、この問題と取り組んできた訳ですね。前回のエントリで多少批判的な書き方もしましたが、問題に非常に近いところにいた当事者の視点という点で、高級街区で寛容を唱えるだけの人の視点よりかはなんぼか尊重しなくてはならないだろうとも思います。

「ヴェニシュー、そこはブルカの国だ!」とカップルで通り過ぎる19才のムラドは吹き出す。彼は髭をはやし、つばのない小さな帽子を被っていて彼女は真っ黒に「埋葬されている」。ミゲットのシテのマルシェの通路では今日は彼女は全身ヴェールを着用する少数派だ。彼女たちが慎み深くなるための合言葉が交わされる。信徒は火を消そうと努める。「いつもは三十人ぐらい見ますね」と野菜を売っているコリヌは語る。全体としては60000人の住民のこのリヨンの郊外には、共産党の市長のアンドレ・ゲランによれば、彼女たちが「100人以上」はいる。フランスで最も大規模な密集地帯のひとつである。「ブルカは氷山の一角に過ぎない。いくつかの地区では男女関係はすっかり監視下にある。イスラミスムは我々を真に脅かしているのだ」と議会調査委員会を求めて自らが引き起こした地震を正当化するかのようにこの議員は説明する。ひとつの舗石であり、またひとつの遺言でもある。かつてこの地域の産業周辺にできた都市の25年間の市政の後、市長は任期終了前に辞任を決定した。先週のことだ。辞めるのに先立ってこの町やフランスの他の地域を制圧する教条主義(integrisme)について彼は共和国に警告を与えようとしたのだ。

市役所窓口での日常的な事件

イスラムはおそらくヴェニシューの第一の宗教である。ゲランによれば、ここは人口の半分が外国、おそらくマグレブ出身である。そして鐘楼の下の祈祷室の大部分はサラフィストである。厳格なイスラムが毎日そこで広められる。Essalemのモスク、HLMの建物にはめ込まれたバンガローの近くで若者たちは言う。「女が男の近くにいるときはサタンがうろつくのだ」とある少年は言う。彼の兄弟は妻を「どこでも」同伴している。街路でニカブ、黒い全身ヴェールをまとう女性がほとんど誰も驚かせることなく歩き回っている。多くの者が彼女たちを知っている。彼女たちはこの街区で育ったのだ。彼女たちが共和国の規則と衝突するのは市役所の窓口である。「事件は日常茶飯です」とエレヌ・メクシスは嘆く。ヴェニシューの行政手続きの責任者である彼女は最前線にいる。身分証明書やパスポートを更新するための頭部を表に出す写真が暴力的な抗議を引き起こすのだ。「彼らは人種主義だと言って非難し、復讐すると脅すのですよ」。最後までヴェールを脱ぐのを拒否する女性たちもいる。彼女たちは身分証がないままである。しかし、所員が「しばしば発言を独占し、未来の伴侶がヴェールを脱ぐことを拒絶する男たち」と衝突するのは婚姻届の提出の際である。ところでテキストは明快である。すなわち市役所員は未来の夫婦のアイデンティティーを確認し、結婚が強制でも偽装でもないことを確かめるために顔を出して面談しなければならない。最後に祝福の式は顔を出して挙行されねばならない。

こうしたことがイスラムの規則に執着する者たち、移民たちだけでなく特にマグレブ系の若いフランス人や改宗したフランス人妻や夫を苛立たせるのだ、とエレヌ・メクシスは明言する。サン・パピエ[註:「紙なし」、非合法移民のこと]も忘れてはいけない。というのも地中海の両岸で宗教的グルを介した結婚もあるのだから。

こうしたカップルの子供たちが町の学校に就学している。教師は「ブルカ・ママ」を相手にしている。「私には2人いますね。一人は裂け目のところからのぞく目で、もう一人はシルエットで見分けられますよ」と母親担当の責任者のジャン・ムランは断言する。「私のママは娘が話題になると教室で顔を出しました」とレオ・ラグランジュ小学校の教師は思い出す。彼女は誰も排除したくないようだ。「ご承知のように飲んだくれの親というのもいます。彼らも相手にしています。大事なのは児童なんです」と彼女は付け加える。少女から執行猶予された女性性へ。校庭で「少女たちがまもなく着ることがなくなるスカートや背中を出した服」について話しているのをこの女性教師は聞くという。「彼女たちは自分たちの状況について鋭敏な意識を持っているんです」。いたるところで宗教的圧力が強まり、もっと小さな子供たちまで網に捕らえていく。シャルル・ペロー小学校の校長のパトリシア・トゥリュオンは13年前からヴェールが広まるのを見てきた。母親のほぼ半分が頭部を覆うようになっており、ジェラバがシルエットを画一化している。ブルカの女性は少ないままであり、パトリシア・トゥリュオンは子どもを預ける前にアイデンティティーを確認するためにヴェールを脱ぐよう求めている。しかし、「宗教的問題はブルカを超えています。幼稚園や小学校では非常に問題含みであることが明らかになっています」と彼女は不安だ。子供たちにその義務はないラダマンを行う児童もいる。「断食が学校活動と両立しないことを説明するために私は両親たちをみな呼んでいます」と言う。多くの児童が宗教的理由から学校の食堂に不満だ。市当局はハラールの肉を拒否したが、一週間に二日魚を出している。「その日には児童は増えますね」とジャン・ムラン小学校長のベルナール・キュルトは認める。木曜には例外的に豚肉が出ていたが、シャルル・ペロー小学校の登録者の4分の3は別の料理を注文した。また「幼稚園には人参を食べるのを拒否する子もいます。のどを掻っ切っていなかったからと言って」とパトリシア・トゥルュオンは語る。小学校では再生産に関する生物の授業がしばしば疑問視される。「反啓蒙主義が広まっている」と彼女は認める。

遅ればせの市の逆襲

1983年に「ブールの行進」が始まったのはヴェニシューからであった。失敗の後、暴力を阻止し、「完全なフランス人」となる希望を叫ぶために首都に向かった移民の師弟もいた。フランス社会と両親たちに自分たちはフランスに留まるつもりであり、統合されることを望み、平等を求めていることを告げるために10万人が到着した。権力の座についたばかりの左翼政権は移民に10年の滞在許可証を与えた。平等が期待されたが、失望が勝利した。イスラムもまた勝利した。宣教者がローヌ沿いの郊外を行き交う。1992年にムスリム青年連合(UJM)の第一回会合が開催されたのはここヴェニシューであった。ムスリムの兄弟のタリクとラマダンに影響されてリーダーたちは人種的軽蔑、イスラムの拒絶に社会的不正義を再び読みこんだ。先導者、教育者、調停者、スポーツ・インストラクターらがUJMの苗床から育ち、何年もかけてメッセージを中継した。1990年代以降、男たちはハムを追放すべく主婦のかごの中身を確かめ、女性の埋葬も拒否するようになった。市が反攻の狼煙を上げるためには2002年にサラフィストのイマームのブジアヌを追放しなければならなかった。地下室でない2つのモスクの計画が進行中である。伝統的なムスリム共同体との関係は強化された。サラフィストの拡大を阻止できていないが。

「こうした逸脱に宗教的応答をもたらすこと」

ギュイアンクール(イヴリヌ県)のイマームのアブデラリ・マムンによれば、フランスのいたるところで「忍者」女性の数が急上昇している。パリ地方で共同体が繁茂している。トラップ、ミュロ、マント、アルジャントゥイユ、ナンテール、サルトルヴィルで、またピュト、グリニー、エヴリ、さらにはロンジュモー、それからもっと農村的な地帯でも。「こうした逸脱に対して宗教的応答をもたさなければならない。たとえサラフィストがジハーディストでないにしても彼らは西洋を憎悪し、不信心者を軽蔑する一方でフランスのあらゆる社会的利益を利用する。教義が求めるようにムスリムの地に定着することなしにだ。彼らの二枚舌はムスリムの信仰告白をしたフランス人にも有害だ」と。これはヴェニシューで生まれ育った郊外選出議員国民協会長のムスタファ・グイラも共有する立場である。「こうしてブルカで挑発をしてフランスとその伝統に背を向けるべきではない」。

反ブルカ戦線は広いが、「ヴェールが、たとえ全身のヴェールでも、失業とプレカリテの禍を覆い隠す」ことを望まない者もある。ムスリムの信仰告白をしたフランス人の間でも多くが「ニカブを着用する者たちとの一種の連帯を衣服を守るためでなくアイデンティティーの内省ゆえに感じている」とローヌのムスリム信仰地域評議会長アゼディヌ・ガチは説明する。しかし若者の間にはこうした多くの頭部を再び覆うことになったヴェールを前にした相対的な無関心が存在する。「それぞれが自分の気に入るようにするさ」のイスラム版だと二ザールは要約する。「女性がブルカしたいならブルカする。したくならしないのさ!」。こうした言葉と軽いトーンは管理困難な現象を前にして議員たちが表明している増大する不安とはずれている。

以上、「忍者女性」の増大が巻き起こしているさまざまな波紋をまとめた記事です。社会面の記事は解説が必要な言葉がたくさん出るので困るのですが、まあ、細かい部分は飛ばしてください。記事中の「ブールの行進」というのは1983年の有名な最初の人種差別反対の運動のことでブールというのはマグレブ系移民二世や三世を表す言葉です。記事にあるようにフランスのムスリムの大部分が北アフリカのマグレブ地方出身で穏健なマーリク派に属していますが、なぜかアフガニスタンやパキスタンのブルカやペルシア湾岸諸国のニカブがフランスに出現して困惑をもたらしていると。この点は実際、この地域の出身者が多いイギリスとは少し違うようにも思えますが、90年代以降のテレコミュニケーション技術の発達によるところが大きいように思われますね。宗派と衣服の関連を十分に理解していないので詳しい方教えてくださいませ。マグレブでも同じような傾向がある訳ですかね。

具体的には役所や学校でのトラブルというひどく消耗するだろうけれどもちまちました話にまだとどまっているようですが、今後こうした傾向が延長される先になにが待っているのかとひどく不安にさせるようです。見慣れないものが周囲に増えていくことへの不安そのものは人情として理解可能ですし、こうした気持ちをなにかのレッテルを貼って蔑ろにするつもりはありませんが、ヴェールといういかにも関心を集めやすい可視的なものに議論が集中するのはどうなんだろうなとはやはり思います。具体的な行動につながりにくいテーマだと思うのですよね、全面禁止というのは筋悪だと思いますし。プラグマティックな観点からヴェールを脱がなければならない場面をルールとして設定するというのは意味があるかもしれませんけれども。ところで慣れるとブルカ・ママも目やシルエットで見分けられるのですねえ。それはたいしたものです。

ではでは。

追記

細かい部分の修正補足をしました(2009.7.11)

追記しておくと、これだとなにか一枚岩の勢力が拡大しているような像ですが、もっとごちゃごちゃした像だと思うのですね。そして下手な対策は逆に一枚岩の勢力を形成させてしまうリスクがあると思う訳です。こんな話は分りきっていると思うのですがね。

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ブルカをめぐる熱い論争(2)

で、ブルカの続きです。共和国の原理の護持派と文化的多様性の護持派の間で様々な意見が表明されているようですが、今のところは特に個人的には目新しい意見は目にしないかなといった感想です。ここのところやや忙しくて十分にフォローできているのかどうか分りませんけれども。ちなみにスカーフの頃に比べると後者の声が弱いような印象を受けます。それからこの大変な時期にこんな超少数派(せいぜい数千人、500万のムスリム人口比では取るに足らない数字)の問題で騒ぐのはうんざりだという感想を目にしますね。同感です。

今回の議論をざっと眺めていて気付くのはライシテの議論から女性の人権の議論に強調点が移動している点です。その点ではオランダなどの議論に近づいている印象を受けます。学校内での宗教的象徴の禁止とは違って公的空間全域でのライシテとなると、公的なものと私的なものの境界線の問題に直面し、合理的に推論するならば、例えばカトリックやユダヤ教の衣服までが問題化される可能性もなくはないでしょうから-実際、革命の際に司祭服が禁じられたことがありますが-フェミニズムの問題として提示するのが「賢い」のかもしれません。公的秩序概念とセットにして男女平等で攻めれば、法案は合憲になると考える法学者もいるようです。

それでどちらと言えば私が気になるのは具体的な政治的な動きのほうなので今回はそちらについて書いておきます。私にまだ見えないのが大統領側と例の調査委員会の距離です。学校スカーフの時にはシラク大統領は勧告を出したスタジ委員会に非常に距離が近かったのですが、サルコジ大統領が本気でブルカ禁止を法制化したいのかどうかにはまだやや疑問が残ります。大統領演説では強い言葉で批判した訳ですけれども、誰があの演説を書いたのかはだいたい想像できる。確かにサルコジ氏は内務相の時代から郊外の暴れん坊達と喧嘩してきた経歴を持つ人物ですが、本人は必ずしもごりごりの共和主義者という訳ではないと思うのですね。移民や外国人に関する問題についてむしろ彼らからはこの英米かぶれめと言われそうな見方を持っているところもあったりする。

まあ、どんな主義者なんだか少々不明な大統領は置いておいて、このたび立ち上がった超党派の32人の委員会に話を移すと、前に書いたようにこの調査委員会を主導しているのは共産党のアンドレ・ゲラン議員です。ローヌ県の議員さんですが、ずっとイスラムの過激派との戦いをしている人です。右派とも連帯して行動するせいか共産党内部では微妙な位置にあるようです。その他の経歴を見ると組合運動を指導したりといかにも立派な共産主義者です。過激な政治的イスラム主義との戦いそのものはもちろん正当化されると思いますが、私の目からは時にパライノイア的なすれすれの修辞を使っているようにも見えますね。

以下、ゲラン議員のブログにあった決議提案文の中のモチーフを説明している箇所の訳です。内容は①ライシテの来歴とその意義、②女性の人権への脅威の訴えから成っています。この提案文には89人の議員の署名がついています。かなり突貫訳なので変なところもあるかもしれません。気づいたら修正していきます。

Proposition de résolution n°1725 de André Gerin pour une commission d'enquête sur le port de la burqa

皆さん、1789年の人間と市民の権利の宣言は「何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の秩序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない」と定めています。

かくして我々の社会組織と我々の集合的歴史を構成するライシテの原理が誕生しました。

教会と国家を分離する1905年12月9日法は我々の制度にこれを根付かせました。信教の自由な実践は認められていますが、市民性と宗教的帰属の分離が確認されています。いかなる宗教といえどもその諸原則を社会の組織的規範として押し付けてはならないことになります。

1946年憲法以来、ライシテの原則は憲法的な価値を獲得しています。

第5共和国憲法第1条はこれを再びとりあげ、規定しています。

「フランスは世俗的(laique)、民主的、社会的な不可分なる共和国である。フランスは出自、人種、宗教の差別なく全市民の法の下の平等を保証する。フランスはすべての信仰を尊重する。」

この世俗的な枠組みは自閉的な、さらには互いに排除し合うような共同体のモザイクに押し込めるのではなく同じ領土の上で同じ信念を共有しない男女が共存する可能性と手段を提供するものなのです。

この意味においてライシテとはすべての者を社会へと統合するのです。ライシテは固有のアイデンティティーの権利の承認、個人の信念の尊重と社会的絆の間の均衡を創り出します。

国民的一体性、共和国の中立性、多様性の承認を強化することによって、ライシテは、伝統的な諸々の共同体を超えて、共通の価値に基づくひとつ運命共同体、共生の意志と欲望を基礎付けるものなのです。

それは共和国と市民に権利と義務をもたらすのです。ライシテが脅かされる時、フランス社会はその一体性、その共通運命を提示する能力において脅かされるのです。

歴史を通じて諸法がライシテの原理の法的確認を表明してきました。ライシテが危機にある時にこうした法律が必要であったのです。これに関して我々は明晰な証拠を示さなければなりません。

かくして児童が学校施設内で自らの宗教的帰属を誇示的に表明するための徴ないし衣服の着用を禁止する2004年3月15日の2004-228法にまでいたりました。

この法は2003年12月11日に共和国大統領ジャック・シラクによって委任されたライシテの原理の適用に関する「スタジ委員会」と呼ばれる熟慮の委員会の報告と勧告の延長上に位置付けられます。

我々は今日都市の街区においてまさに動く監獄に身体と頭部を完全に覆い、押し込めるブルカ、そして目のみを表に出すニカブを着用するムスリム女性達に直面しています。

イスラムのスカーフは宗教への帰属の明白な徴をなしていましたが、ここで我々はこうした実践の極端な段階を前にしているのです。

これは誇示的な宗教的表明のみならず女性の尊厳、女性性の表明に対する攻撃であります。

ブルカないしニカブを纏うことで女性は閉鎖、排除、屈辱の状態に置かれます。その存在すら否定されるのです。

これがイラン、アフガニスタン、サウジアラビアないし他のアラブ諸国からやって来る時、この囚われの女性達の光景は既に耐えられないものであります。こうした光景はフランス共和国の国土においては完全に受け入れられません。

さらにこうした衣服の着用に夫への、家族の男達への従属、市民性の否定が付け加わることを我々は知っています。

反白人、反フランス人種主義、反西洋観念の攻撃に基づいて姦通を犯した妻達への体罰に賛成した2004年4月のイマーム・ブジアヌの信仰表明を想起しなくてはなりません。

国務院は2008年6月27日の判決において政府が婚姻によるフランス国籍の獲得を拒否した(民法21条2、21条4)外国籍の人物のケースについて決定しなけければなりませんでした。関係者はその宗教のラディカルな実践の名においてフランス共同体、とりわけ男女平等の原則と両立しない社会行為をとったと考えらました。

国務院は申請者が民法が提示する同化の条件を満たしていないと結論づけました。

実際、彼女がイスラムの全身ヴェールを着用し、家族の男達の意志に完全に従って隠れて暮らしていたことを政府の委員が指摘しました。

他方、受入、統合契約の枠組みでANAEMが提供する言語研修の際にブルカを着用した別のムスリム女性のケースについてHALDEは決定しなければなりませんでした。

ANAEMの局長はこの研修を受ける者がブルカないしニカブを脱ぐ義務は人権と基本的自由の保護に関する欧州協定の第9条と14条の要請に合致しているかどうか知るためにHALDEに問い合わせました。

2008年9月15日の審議によってHALDEはこうした義務が上述の協定に合致していると決定しました。

かくしてHALDEは次のような結論に到達しています。
-ブルカは女性の従属の意味合いを持っており、これは宗教的射程を超えて、フランスではじめて認められた外国人に対する義務的研修の計画と統合の推進を統べる共和主義的な価値への攻撃と考えられる得る。

-ニカブないしブルカを脱ぐ義務は公安上の要請、個人を特定する必要性、さらには他者の権利と自由の保護という合法的目的によって正当化され得る。

こうした判例は有益でありますが、フランスで我々が許容できないこうした実践に直面するには十分ではあり得ません。

こうした理由から国民議会がこの件を採りあげ、調査委員会が組織されるように提案がなされているのです。


この委員会は既に2003年に個人の自由と若い女性の状況の深刻な後退にのしかかる脅威を指摘した「シュタージ委員会」の作業の継続に位置することでしょう。

この委員会は我々のライシテの原理に反する、そして我々の自由、平等、人間の尊厳の価値に反するこの共同体主義的な逸脱に終止符を打つために現状を調査し、勧告を定めることを任務とするでしょう。

こうした観察を条件として、皆さん、この決議提案文を採用することを皆さんに求めます。

ついでに書いておくと、イランではブルカは着用されていなかったと思います。原理主義=ブルカという思い込みが感じられる部分でした。今日はここまでにしておきます。またなにか動きがあったら続けます。ではでは。

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ブルカをめぐる熱い論争(1)

この奇妙な梅雨空の下、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私はぼちぼちと生き長らえております。この不況の大変な時期にフランスではブルカをめぐる象徴政治が起動しているようです。何度か書いたような気がしますが、私自身は象徴をめぐる政治というのがどうも苦手みたいで、もっと実質的な物事に政治的リソースは配分しようぜ、とひどく世俗的な感想を持ってしまうのですが、やはり大きな話には違いないのでエントリしておきます。こうした多文化的な状況から発生する面倒な問題は日本にとってもそのうち他人事ではなくなるかもしれませんので格別欧州やフランスに関心のない人にとっても当地でなにが起こっているのか知っておくことに意味があろうかと思われるからです。

まずブルカとかニカブとかヒジャブとか言ってもイメージが湧かないという方も多かろうと思いますのでフォトをコピペしておきます。今、問題になっているのはブルカとニカブの二種類です。顔の隠れる全身タイプですが、目も隠すのがブルカで目は見えるのがニカブと呼ばれるようです。

Voiles1

で、他の欧州諸国同様にブルカに対する批判はフランスにも存在していましたが、そもそもブルカ人口がひどく少ないこともあって議論の焦点が学校でのスカーフ着用に集中してきた経緯は日本でもよく報じられたのでご存知だろうと思われます。前にこの措置に批判的なアサド氏の論文を紹介したことがありますが、共和国の非宗教性-仏語でライシテlaicite-の原則に反するということで2004年に他の宗教的象徴とともに法的に禁止された訳です。それでこれは公立学校という特定された空間内の話だった訳ですが、今度は限定性を欠いた公的空間でブルカないしニカブの着用を禁止するという話にまで展開しています。

英語ソースだとEconomistとBBCの記事が短くまとまっているのでリンクしておきます。だいたいの経緯がつかめます。

"No cover up"[Economist]

"France sets up burka commission"[BBC]

"Sarkozy seaks out against burka"[BBC]

それでナポレオン以来とされる6月22日の象徴的な議会演説の場でのサルコジ大統領の発言ですが、引用しておきますと、

"Je veux le dire solennellement, elle [la burqa] ne sera pas la bienvenue sur le territoire de la République française. Nous ne pouvons pas accepter dans notre pays des femmes prisonnières derrière un grillage, coupées de toute vie sociale, privées de toute identité. Ce n’est pas l’idée que la République française se fait de la dignité de la femme."
私は以下謹んで申し上げたいと願うのですが、ブルカはフランス共和国の領土では歓迎されないでしょう。私たちは社会生活から切り離され、アイデンティティーを奪われた、格子の向こうの囚われの女性たちを我が国に受け入れることはできないのであります。これはフランス共和国が女性の尊厳について抱く理念ではないのであります。

これと連動するように超党派の議員グループが公的空間におけるブルカ禁止の可能性の検討も含む実態調査の委員会を立ち上げることになります。注目されるのはこの動きを先導しているのは共産党のアンドレ・ゲラン議員、つまり左翼である点です。委員会メンバーには社会党の議員も含まれています。全体として左派が少数派に対して共感的になるという傾向性はやはりありますが、左派とて共和主義的な原則を重視する人は多いですので、日本の左右のイメージで接近すると多少の認知上の不協和を起こすことになると思います。それほど単純な構図でもないです。

また発端になったのは米国大統領オバマ氏のカイロ演説とされます。ヴェールやスカーフを着用することを禁止する西洋の国もあるが、ムスリムの宗教的信念は守られるべきである、と発言したことが、フランスの神経をいたく刺激してしまったと。そもそも政教分離の考えというのは西洋で括られる諸国の間でも違いがあってその中でも米仏は両端に位置するといってもいいように思われます。好意的政教分離と敵対的政教分離などとも言われるようですが。さらにフランスのライシテというのは法制度的な問題ではありますが、それだけではなくて、なんといいますか、精神とか感性にまでかかわるところがあるようなのですね。自由であることの価値と世俗的であることの価値の結合がある。こうなると価値観のぶつかり合いになる他ない。文化的多様性と寛容を説く人々もけっこう多い訳ですが、この服装に違和感ないし不快感を抱く人のほうがだいぶ多いだろうと想像します。

論争は始まったばかりでいろいろな声があがっているので何度かにわけてエントリしたいと思います。まず米仏の話になりましたのでアメリカ人のフランスウォッチャーの視点を紹介しておきます。

"Burqa Politics in France"by Michelle Goldberg[The American Prospect]

立法権の独立を守るための19世紀の法を廃棄した最近の改革のおかげで月曜にニコラ・サルコジはシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト以来初めて議会に演説する最初のフランス大統領となった。この機会に、サルコジの強い言葉がフランスではほとんど着用する女性のいない衣服を非難することに向けられたのはむしろ奇妙であった。ブルカは「女性の服従、従属の象徴である」と彼は述べたのだ。それは「フランスでは受け入れられない」と彼は付け加えた。ヘッドスカーフは2004年以来フランスの学校では禁止されている。今やサルコジはさらに先に進んで、顔を隠すヴェールであるニカブとともにブルカ、すなわ女性の全身をすっぽりと包み込むゆったりとしたヴェールを公的な空間のどこであれ着用することを禁止しようとしている。.

これは部分的にカイロ演説の一部でフランス人を激怒させたオバマへの非難である。髪を隠すことを選択する女性はどういうわけか平等ではないとする西洋の一部の見方を拒絶する、とオバマが述べた際に、フランスの多くの人々はこの国の共和主義的なライシテ-信仰は私的領域に帰属されられるべきことを求める-への攻撃ととったのである。ニュージャージーのプリンストン高等研究所の歴史家で2007年の『ヴェールの政治学』の著者であるジョアン・スコットは「強い抗議の声とひどく侮辱されたという感覚が」存在したと言う。「サルコジの言葉はこれに対する応答以外には読解できないと私は思う」。

おそらく怒りそのものよりも重要なのはこれがうみだしたチャンスであり、この発言は左翼に不快感を与えることなくフランスの反移民的な右翼にリーチをのばす機会をサルコジに与えたのだ。ムスリム女性の服装は他の欧州の国々と同じくフランスでは長らく政治問題である。ヘッドスカーフ、ヴェール、ブルカをめぐる討議は大量のムスリム移民時代の文化的アイデンティティーというもっと射程が広く、不安を与える問題の提喩である。イスラムは欧州の生活を変えている。多くの欧州人を不愉快にするような仕方で。しかし人種主義や外国人嫌悪をともなうことなくこの話をすることは欧州人にとって困難である。欧州人が自文化の優位性を確信できるひとつの場所が性に関わる領域なのだ。フェミニズムと女性解放がナショナリズムの道具となるのである。

2002年の暗殺の前にはオランダの首相に手が届くところにあったカラフルな反移民政治家のピム・フィルトゥインにこれは明瞭であった。フォルトゥインは寛容で知られたオランダ文化にムスリム移民が与えるとする脅威に対して十字軍的な戦いを挑んだ。彼が語ったところでは男達は突然通りで手をつなぐことを怖れ、教師は移民の生徒に同性愛者であることを認めるのを躊躇うようになった。「私はもう一度女性と同性愛者の解放を経過したいとは思わない」と彼はリポーターに述べた。

彼の批判にはなにものかがあった。リベラリズムと多文化主義に矛盾があることを保守はずっと指摘してきたが、リベラルは長いことこれを無視してきた。右派ジャーナリストの中でたぶん最も知的なクリストファー・コールドウェルは来月『欧州における革命の省察。移民、イスラム、西洋』という新刊を出すが、その中で「イスラムは欧州のよき慣習、受け入れられた理念、国家の構造を破壊した-あるいは適応を要求し、あるいはその擁護を再び議論させた」と論じている。

こうした譲歩のいくつかはささやかなものである。例えば、公共のプールの男女別の時間とかムスリムの雇用者への刺激を避けるために仕事の後の一杯を止めるビジネスとかだ。いくつかの譲歩はより大きなものである。例えばスウェーデンではある閣僚がアフリカ系移民を狙い撃ちせずに女性の割礼と戦うために「すべての少女の性器の国民的検査を提案した」とコールドウェルは指摘している。イギリスの労働・年金機関は一夫多妻婚の妻たちに便宜を提供し始めているし、フランスのある判事は妻が処女性について嘘をついたという理由でムスリムのカップルの婚姻を解消し、それゆえ本質的に妻が夫と結んだ契約を論議した。

世俗的なマジョリティーと信仰深いマイノリティーの衝突が生み出す、この言葉として発せられないが、渦巻いている緊張を反移民の政治家は容易く利用できる。ブルカは欧州文明に対する脅威の象徴になっている。右派のオランダ人議員のヘルト・ウィルダースは2006年にブルカを「中世的な象徴、女性に敵対する象徴」と呼んで禁止しようとした(翌年、彼はコーランを「イスラムのマイン・カンプ」と呼んで禁止するよう呼びかけた)。ベルギーのいくつかの都市はブルカとニカブを禁止し、着用する女性は罰金を徴収されている。

「サルコジにとってはフランスの極右政党の国民戦線から票を獲得することがすべてである」とスコットは言う。「反移民の政治はこの大きな部分である。サルコジはフランス性のチャンピオンの立場をずっと引き受けてきた。これはフランスのナショナル・アイデンティティーの保護者と自らを称することのできるようなイシューを見つけるのに政治的にうまく使える」。

ブルカの禁止はもちろんアメリカの文脈では考えられないことである。というのも我々の政教分離の理解、表現の自由の理解はフランスで流布するそれとはかなり異なっているからだ。「アメリカでは政教分離は国家からの宗教の保護に関わる」とスコットは言う。「フランスではこの理念は宗教的な主張から個人を保護するためのものなのだ。個人が共同体によって抑圧されていると考えられるときには国家は個人のために介入できるのだ」。

しかしこうした国家介入は個々の女性に対して不利に機能してしまうこともあり得る。例えば昨年フランス人男性と結婚したモロッコ人女性は夫の求めでブルカを着用したせいでフランス市民権を拒否された。判決は「フランス共同体の基本的価値、とりわけ男女平等の原則と両立しない彼女のラディカルな宗教的実践と社会的行為」を言明した。研究者のセシル・ラボルドによれば、政党、知識人、ジャーナリストはこの判決をほとんど全員一致で賞賛した。

同じようにサルコジのブルカ禁止はフランスのムスリム・ゲットーにルーツを持つNi Putes Ni Soumisesを含むかなりのフェミニストの支持を受けている。この団体の立場は真面目に受け止める価値がある。というのもイスラム原理主義に対する闘争は彼女達にとって生死に関わる問題であり続けているからである。ソマリア系オランダ人フェミニストのアヤーン・ヒルシ・アリのように彼女達の活動は多文化的な信心のあり方[適訳見つからず。multicultural pieties]への中和として役立っている。

しかし、結局のところ、ブルカを着用するフランス人女性が自らを抑圧されているとみなしているなんの証拠もない。「誰にも強制されておらず、こうした慎みの形は世界の中で自分の望ましいあり方に適していると考えて、ブルカを着用している女性たちがいる」とスコットは言う。「彼女たちと強制されている女性たちを区別するのは困難だ」。そういう訳だから結局、女性の権利増進のために通過するとされる禁止法はその代わりに彼女たちの自由を侵害し、彼女たちが価値あるものとみなしているものを奪い取ることになり得るのだ。さらにひどい場合には、それは最も原理主義的な世帯の女性たちが家の中に閉じ込められることにもつながり得る。たとえ彼女たちの服装がフランスが正しくも聖なるものとみなす世俗主義への非難に見えたとしても解放の名の下にこうした女性たちの選択肢を制限することは残酷である。

以上、まとめると、①世俗主義とフェミニズムがナショナリズムの道具になっている、②ブルカを「自由意志」で選択している女性の自由の侵害になる危険がある、としてブルカ禁止の動きを批判じています。リベラリズムと多文化主義の両立不可能性の指摘や移民系のフェミニストの活動の評価に見られるようにムスリム側に全面的に寄り添った立場をとっている訳ではないようです。論者ですが、これまでいくつかの記事を読んだ限りではイデオロギー色の薄い分析肌の人という印象があります。簡単にコメントしておくと、

①の要素は引用されるスコット氏の見解に完全に同意しないとしても、その要素の存在は否定できないように思われます。そもそも発端がオバマ演説への反発にあったようにアングロサクソン的な多文化主義-フランスから見るとそういう言い方になります-への対抗心、オルタナティブな普遍としてのフランスというナショナルな意識が存在しているのは事実でしょうし、こういう「瑣末」な象徴への苛立ちは直接ではないにしても反移民の淀んだ空気と無縁とは言えないところもあるでしょう。だいたい女性の人権などさほど興味のなさそうな人々が吼えている光景というのもあったりする訳です。お馬鹿さんたちの例を出してそれを一般化するつもりはないですけれども。サルコジ政権については大統領選の際に移民問題で政治を展開して極右票を取り込んだのは事実だと思いますが、その後は右に左に節操なく舵を切っていて極右から見ればムスリムに甘すぎ、極左から見れば反移民的といった具合に両方から叩かれているように見えます。不況で支持率が下がってきているところで紛糾確実のネタを振ったと見ることもできるかもしれませんが、舞台裏は私には見えません。

②の論点については、強制されているので助けてほしいという声が多くあるのであれば話は別ですが、そうではないところが問題に思えます。さまざまな動機から着用を「意思」する人-フランス生まれの二世の動機はそれほど自明ではない-をどう説得するのかは個人的にはよく分りません。お前の意思は嘘の意思だとでも強弁するのでしょうか、そういうお前は誰なんだということになりそうに思えます。そもそも論的になりますが、例えば、私は毎日ネクタイをつけている訳ですが、この犬の舌みたいな物体を着用することを私は「選択」しているのだろうかと本気で自問するならば、今日は気分的にこれがいいとかこれプレゼントされたのはありがたいけれどもどうもつける気にはなれないなとかあれこれ選択しているような気もする一方で、結局のところ、慣習に従っているだけで期待がなければこんな犬ベロ首に巻くことはあるまいという気もしてくるといった具合に自由意思の有無は本人ですらよく分らないところがある訳ですね。ただなんにせよそれはこっちの問題であって、政府に私の意思と欲望の在り処を指摘し、決定して欲しいとは思えないと。

という訳で政治思想的には共和主義よりは自由主義に寄っていることもあって-多文化主義には懐疑的-かなりお節介な話に思えるのですが、かの国の国体に関わる話なのでこの問題をめぐる紛糾はまだまだ続くでしょう。回をあらためて他の論点に言及していきます。

ではでは。

追記

細かい表現の修正と補足しました(2009.7.2)。

BBCでBHLとKen Livingstonが英米英仏の対応の違いについて議論してます。BHLが訛った英語でまくしてています。http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/newsnight/8118735.stm

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主権が立ち現れるとき

宗教関連は弱いのですが、素人が素人なりに気になったことについて書いてみるという趣旨のブログですので躊躇せずに続けます。

"Trying to understand French Secularism" by Talal Asad[pdf]

コメント欄で教えていただいたタラル・アサド氏のフランスのライシテ(世俗性、非宗教性)についての論文です。50ページ以上あるので内容を要約するのはたいへんですからポイントだけかいつまんで感想を記しておきますが、主権論と規律訓練論でフランスのライシテを理解するという趣旨の論文です。スカーフをめぐる騒動は私もニュースやオピニオンを眺めていたのですが、フランス的語彙で言うと、統合主義と多文化主義、普遍主義と差異主義、共和国の世俗性と宗教的共同体主義等々の概念で盛んに論じられていました。もちろんスカーフはひとつの焦点であって他ではなくこの時にこのような形で問題化されたその背景まで考慮すれば、これはなんとも深刻な事態になっているなあと溜息が出る他なかったです。

メディア上の論調ではライシテの歴史を想起して共和国の原理としてこれを護持すべしという意見と移民の歴史を想起して文化的多様性を認めるべしという反対意見が戦わされていた記憶があります。個人的には知識人たちの神学論争よりも移民の子弟の置かれている状況やいわゆる普通のフランス人の不満の原因がどのあたりにあるのかといった具体的な話に興味があったのですが、私の記憶では論争の中で想起されていたのは戦後史、古くとも19世紀後半以降の歴史であり、この論文のように初期近代にまで遡って論じる人はあまりいなかったような気がしますね。

それでこの論文ですが、16世紀末の宗教戦争後のcuius religio eius religio(領主の宗教が領民の宗教となる)から始めています。これは宗教の核心が内面的なものであるとみなされるようなった時代に「特定の宗教問題」に「一般的な政治原理」を適応した例として重要である。政治的なものと宗教的なものとの分離そのものは中世にも認識されていたが、今日とはずいぶん違う。国家が脱キリスト教化され、非人格化され、政治的なものが宗教的なものをその領分から排除し、吸収し、といった具合にその下にさまざまな宗教を信仰する臣民が共存する抽象的かつ超越的な権力が立ち上がっていく。誰が宗教的寛容に値し、なにが宗教的寛容であるのかを決定するのはこの権力である、と。

フランスの文脈ではナントの勅令が言及されていますが、その後、革命政権により「宗教的不寛容」が弾劾され、自由、平等、友愛の名の下に教会が攻撃され、宗教の本質が個人の信仰として定義されるようになる、1世紀にわたる闘争を通じて第三共和国の下で最終的に解決されるという風に歴史を辿っていきます。人道と進歩の理念を掲げる共和国は実証主義的ヒューマニズムを涵養する公教育制度を樹立する一方で、文明化の使命の名の下に植民地を拡大する。反教権教育、教会との不平等な協定、帝国の拡大、この三つがフランス・ナショナリズムの柱であり、この上にライシテも誕生した。しかしアルジェリアのみがこの学校システムの例外で国家と教会が協働して改宗やムスリムの教育にあたった。マシニョンのようなオリエンタリストはムスリムの解放に熱狂したが、誰を解放するのか、いかに解放するのかを決定するのは共和国であった、と。

それで論者によればスカーフ事件から見えるのは今日のフランスはある意味でcuius religio eius religioのままであり、この原理の重要な点は特定の宗教へのコミットメントや禁止にあるのではなく、単一の絶対的な権力-主権国家-を立ち上げることにあるとされます。この権力は単一の源泉からその力を汲み、さまざまな信仰にかかわらず人民に対して世俗的配慮をするという単一の目的に取り組むような権力である。宗教はあの世のことに関わるのであって国家権力はこの世の福利厚生のための自らの適切な場を定義しなくてはならない。それゆえこの世の福利厚生のイメージが必要とされ、宗教のプレゼンスの記号はなにかという問題への答えも必要とされる、と。ここから特定の象徴が宗教的なものか否かを最終的に決定する権能が世俗国家に残されることになる。以下、国家の記号読解の様態をスタジ報告書から読み解いています。

論者によれば、スカーフをまとう動機は多様であり得るし、宗教的動機からだとしてもそれは「行為」であって「象徴」とはいえないかもしれない。それを宗教的シンボルと決定し-十字架とキッパとともに-禁止することを通じて世俗国家はその権力を行使する。さらに報告書はここに宗教的なシンボルを顕示する「意志」と「欲望」を読み込み、それを決定する、と。またカール・シュミットのいうように主権とは「例外」を決定する権力のことであるとして国家から補助を受けているキリスト教系とユダヤ教系の私学、国が教会財産を所有し、聖職者が給料を支払われているアルザス・モーゼル、司教区組織や様々な宗教的アソシエーション、軍隊、学校、病院付きの司祭の例などを挙げています。事実としてフランスは普遍主義的な市民のみから成り立っているわけではない、と。以下、友愛の問題やユダヤ人の問題やイスラム嫌悪の問題などについて具体的に論じていきますが、ここはよく語られる部分なので割愛します。具体的なことに興味のある方はリンク先をお読みください。

以上、ライシテの問題とは、なにが「宗教的」なのか、またなにを「例外」とするのかを決定する主権の行使の問題である、としています。そしてそこには本質的に恣意性がつきまとう点が示されていますが、特になにか政治的提言がある訳ではなくここでは「理解」が目指されています。まず、ここまで一般化するならば、フランスに限らず、政教分離が存在する近代国家であればどこでも権力の作動を記述できるのではないでしょうかね(こうした「批判的」な記述の仕方を好まない人もいるでしょうけれども)。確かに普遍的かつ世俗的な市民を育む公教育の場から宗教的記号を放逐せんとする情熱はいかにもフランス的ですが、スカーフが宗教的シンボルと認定され、これをまとうことが禁止されるにいたる経緯を見るならば、共和国の原理そのものから直接導き出される必然的な結論と言えるのかどうかは微妙なところもあるように思えます。なぜこの時期このような形でこのような措置がとられたのかはやはり具体的な政治社会状況を見ないと分からないでしょう。理念的にはライシテを「人類」の目標と普遍主義的に語る者もある一方で、ユダヤ・キリスト教文明やフランスの特異性に言及する者もあるといった混乱も問題でしょう。ただこの問題は長期的に見ないといけない問題だと思います。最後に、これは言って詮無いことかもしれませんが、私自身は象徴政治というのはやはり好きではないです。

信仰の土着化とナショナリズムの相関関係──「宗教の神学」の課題として[pdf]

こちらは小原克博氏の信仰の土着化とナショナリズムに関する論文です。日本のキリスト教の場から発せられた論文として読ませていただきました。当方、単なる歴史好きなので十分に咀嚼できているのかどうか心許ないところもありますが、問題意識は伝わってきました。世俗ナショナリズムと宗教ナショナリズムに対して寛容と多元主義を掲げるリベラリズムを掲げても問題の解決にはならない、そもそもこれらは西洋発の近代主義的ディスコースが排除した当のものなのだから、という認識が大きな枠組みになっています。

これに関連して近代国民国家における「宗教」と「迷信」の構築という論点が言及されていますが、この点は前エントリで紹介した記事などと認識を共有しているようです。近代国家は「宗教」がなんであるかを定義しつつこれを私的領域に割り当て、民俗的なものを「迷信」として排除することで世俗的な公共空間を形成していくが(近代的な「宗教」と「世俗」の関係の創出)、ナショナリズムと「宗教原理主義」は公共的な空間から排除されたものたちの復讐である。また植民地化と脱植民地化を経験した非西洋社会においては旧宗主国が押し付けた、あるいは輸入された制度たる政教分離に対して世俗的、宗教的ナショナリズムで応答する場合もある、と。

日本の文脈では天皇制イデオロギーおよび国民道徳が公的秩序原理として樹立される一方、伝統仏教の「再土着化」とキリスト教の「土着化」を通じて宗教が私的なものとして承認され、民俗的なものは迷信として排斥される日本的政教分離のプロセスを辿ったとされます。日本のキリスト教については土着化論と文脈化神学(というのがあるのですね)の観点から論じていますが、内村鑑三のようにキリストへの忠誠と日本への忠誠に引き裂かれ葛藤した人物もいたが、キリスト教のほぼ全体がナショナリズムの渦に飲み込まれてしまった。戦前にはナショナリズムは土着化の前提とされ、これが批判的に検討されることはなかった。逆に戦後は国家のみならず「日本的なもの」に接近することにまで強い警戒心を持つことになる。しかしただの反動であってナショナリズムを十分に対象化できていないといいます。

世俗的、宗教的ナショナリズムと批判的、建設的な対話をしつつ、自らを近代的価値の体現者と考えがちな西洋キリスト教の「宗教の神学」が前提とする「宗教」概念そのものを相対化する作業をすすめるために、論者は「一神教の神学」に加えてintra-contextual theology of religionsとinter-contextual theology of religionsという2つのプログラムを提唱しています。前者は郷土愛、民俗信仰や愛国心を対象とする神学、後者は国境を越えた文脈間の歴史的つながりや流動性を確認していく神学であるとされます。

シヴィック・ナショナリズム論やリベラルな多元主義論が単なる西洋の自己正当化に終わることへの警戒や宗教的ナショナリズムが近代からの逸脱ではなく近代化の産物そのものであることの認識などは私みたいな単なる国際ニュース好きにも理解可能な話ですし、ナショナリズムを単に否定するだけでは逆効果なことも実感させられてきたところですのでその問題意識は分るように思えます。「批判的・建設的」の「建設的」の部分が具体的にどういうものになるのかに興味があります。論者による近代日本の宗教概念についての論文も入手できたら読んでみたいなと思いました。ついでに「宗教」と「迷信」に加えて「科学」というのもありますね。特に我らが同盟国において宗教と科学が時に対立するだけでなく一緒になって迷信と戦ったりする光景をよく見ます。日本でも局所的にありますけれど。

"An interview with Peter Berger"[pdf]

かつて世俗化論の社会学者として知られたピーター・バーガー氏のインタビューですが、とても平易で明快です。氏の学説の放棄については仔細を知らなかったのですが、ネットで検索しただけでもずいぶん記事がありますね。このインタビューでは自ら説明しています。近代化とは世俗化ではなく多元化である、多元性と選択肢の拡大は世俗的選択につながるとは限らず、宗教的選択にもつながるのだとしています。ただ信仰がなんであるかではなく信仰がどのようになされているのかに注目するとそこには違いがあって、絶えず相対化にさらされるために確実性への信頼が毀損され易く、これが原理主義の土壌を形成しているとされます。

それから複数の世俗のあり方の可能性という話で日本が出てきます。最初に非西洋社会で近代化に成功した国として興味深いとしています。日本を世俗的な社会とみなした者もいたが、自分はそうは思わない、ただ異なる宗教性の形式を持っているのだ、西洋のようにドグマや教会を持たず、一人の人間が複数宗教のプラクティスを行っているというようにその宗教性は本質的にシンクレティズムである、ただ中国もそうであり、東アジア全体に言えることだろうとしています。西洋の一神教的な概念とは違うんだ、と。中村さん(誰?)の著書で一箇所だけ記憶に残っているところがあって、西洋のように一人の神がいてアリストテレスの排中律が支配する社会とは違うんだと言っていたと述べています。皮相といえば皮相かもしれませんが、まったくの間違いというわけでもないぐらいでしょうか。

次に米欧比較の話になりますが、宗教的アメリカと世俗的欧州という大衆的イメージは、実際には思われている以上にアメリカは世俗的で、思われてる以上に欧州は宗教的だったりもするが、有効ではあるとしています。「欧州化」した一握りの世俗的文化エリートがアメリカを牛耳り、他はまるで違う一方で、欧州では「信仰なき所属」が支配的である、と。世俗化論に従うならばアメリカは近代的でないことになるが、ベルギーのほうが近代的なのだろうか、アメリカが例外的なのか、否、欧州が例外的なのではないか、と問い、デイヴィーの世俗的欧州の考えを紹介しています。欧州といっても中東欧や正教圏では違うピクチャーになるが、と留保しつつ。一方、アメリカは振り返るならば最初から多元主義的であったし、多元主義というのは単なる事実ではなくアメリカのイズムそのものだと述べています。こうなると、結局、欧州の理論を学んだが、自国をうまく説明できないことに気付いたという話にもなりそうです。バーガー氏はこの構図はそれほど変わらないだろうとしていますが、欧州のムスリム人口の増大が与えるかもしれまない変化についても語っています。未来予測は難しいでしょうね。

その他、さまざまな質問に答えていますが、質問者の引用するエルヴュー=レジェ氏の言葉が印象に残りました。フランスは人々が教会に行かなくなった後にもカトリック文化のままであり、たとえフランス文化の中で無神論者だったとしても、その人は「カトリックの無神論者」である、と。とするならば「プロテスタント系の無神論者」というカテゴリーもあるのでしょうが実際、、彼らにはしばしば独特の宗教性を感じることがあるのですね。これだと宗教と文化の区別がなくなりそうですが、誰か無神論者の国際的比較分析でもしてくれないですかね。いや、もうあるのかもしれませんね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=lrCBNkINfr0

大島ミチル『御誦』(1984年昭和59年)

映画音楽やゲーム音楽で知られる作曲家の代表曲で読みは「おらしょ」です。長崎出身の方です。

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革命前夜?

フランス関連で最近話題になっていた記事をクリップしておきます。

"Villepin s'inquiète d'un "risque révolutionnaire" en France"[Le Monde]

前首相のド・ヴィルパン氏が「フランスには革命のリスクがある」と発言したという記事です。失業者の間の「強い怒り」と「絶望」に対して社会政策を訴える文脈にあるこの発言ですが、ずいぶんあちこちで採りあげられていますね。「予測できない社会的反応」、「コントロール不能の集合行動」に備えるべく全速力で非常措置を取らねばならぬとのこと。内閣改造の話を振られたのに対して2年の首相任期は長いが、自分は首相に返り咲く気はないと述べた模様です。

"Avant un 1er-Mai massif, le climat social se tend"[JDD]

昨今の社会的緊張を扱った記事です。メイ・デイを前にしてかの国では例によってデモやストが各地で起こっている訳ですが、学校でも工場でもラディカル化の兆しが見えているようです。ド・ヴィルパン氏の「革命のリスク」発言に加えて、記事によれば、やはり元首相のラファラン氏がフランスの「熱い血」について語っているようです。熱いですよね、本当に。ユベール・ランディエ氏によれば、「社会危機は常に予測できないものだが、確かに火種がある」と言います。大統領の失言のようなほんの一刺しが火に油を注ぐことになるだろう、と。ただ1970年代に比べたらまだまだ全然温いとしています。それから記事はCGTのような組合が現在は運動のラディカル化を抑えつつ、政治に働きかけようとしている点についても触れています。平等や自由を求める情熱は高まっているが、1968-2009はないだろうとしています。

"Who wants a new French revolution ?"[Times]

でタイムズもド・ヴィルパン氏の発言を採りあげてその可能性はないとしています。この発言については、

Revolution is being talked up by people in the Establishment with their own ambitions at heart. Villepin is the most glaring example. He is a never-elected diplomat who owed all his government appointments to his mentor President Jacques Chirac. He is to stand trial later this year on charges of trying to smear Sarkozy in the so-called Clearstream affair. Last Sunday he talked of possible revolution saying he feared that public despair would lead to "collective behaviour that we might not be able to control". On Friday, he announced that he hoped to stand against Sarkozy in the next presidential election in 2012.

といった具合に政局的な解釈をしています。またロワイヤル氏も大統領攻撃を強め、フランスのために海外に対して「謝罪」する発言をしたり、暴力的な事件のたびに労働者と連帯して革命を訴えている、中世レベルの労働条件だ!と、しかし彼女もまた大統領選挙の立候補を公言しているとし、眉に唾したほうがいいと述べています。

この観察そのものは必ずしもシニカルという訳ではないでしょう。政局絡みの発言には違いないでしょうから。結局のところ、「革命」の語でなにを想起するのかという問題だと思われますが、政権を揺るがすような規模の社会的争乱が生じる可能性という意味ならば、それはなくはないでしょうね。オーストリアの話で済むと楽観しているのか政治経済エリート層には危機感が乏しいように見えますが、東から大波がやって来たならば、今はリスク回避のために大人しくしている人々も踊り出る可能性はあるのではないでしょうかね。ちなみにロワイヤル氏の「謝罪」ですが、サルコジ氏がフランスのイメージを落としていることに対してフランスに代わって謝罪するという意味でブッシュ政権時にアメリカでソーリー・サイトみたいなものが出来ていましたが、その真似なんでしょう、こんなブログもありますね。

サルコジ仏大統領が各国首脳を酷評、仏紙報道に波紋[AFP]

かのハイパー大統領が各国首脳をこき下ろした件は国際的に波紋を呼んでいましたが、あーあ、また、やったか、と思いました。ヌーヴェルオプのブログがこの件についてエントリしていました。件のリベラシオンの記事が正しいのかどうかはよく分りませんが、この通りに語ったとしてもまったく違和感がないです。政治家はまず選ばれなくてはならない、三度も選ばれたベルルスコーニは偉い、というのは冗談なんでしょうか、本気なんでしょうか。我が邦の首相も失言でよく叩かれますが、サルコジ、ベルルスコーニのコンビはそうとうのものですね。

"After 43 Years, a French Town’s Nostalgia for Harry and Joe Lingers"[NYT]

前にNATO統合軍事機構完全復帰をめぐる論争を紹介した際に米軍基地があった時代に簡単に言及しましたが、これはシャトールーの今の様子のリポートです。基地に対する受け止めというのは概して両価的なものなのでしょう。記事は昔をなつかしむ地元の声を拾っています。アメ車乗り回して、やあ、戻ってきなよ、と言っていますね。ちなみに記事に出てくるハリーズのパンはそのへんのスーパーで売っているものですが、こういう経緯があったのですねえ。

40年以上前に米軍はこのフランス中部の町を離れたが、ハリーとジョーは居残った。

二人のアメリカ人がここに居た。というのもフランスはかつてNATOのメンバーであり、シャトールーは欧州最大の米軍基地を擁していたからだが、ここは8000人のアメリカ人と3000人のフランス人民間雇用者-料理人、お抱え運転手、床屋、会計係、大工-を抱える巨大な補給センター、航空機補修ユニットであった。

しかし1966年にドゴールがフランス-英国、カナダ、オーストリア、ニュージーランド、米国の兵士の助けで二つの世界大戦を生き延びたフランス-は軍事的に自立できると決断し、NATO軍事機構から脱退し、アメリカ人に立ち去るように命じたのだった。

ここシャトールーの年配世代の多くにとってNATO基地時代は戦後フランスの陰鬱な灰色の時代にあって古きよき日々である。基地には金払いのいいたくさんの仕事があり、カラフルに彩られ、任務を離れたアメリカ人はハワイアンシャツを見せびらかし、明るい色のシボレーや他の古い車を乗り回したものだった。市庁舎ではアメリカのサービスマンとフランス人女性の間で約450の結婚が祝われた。

勿論皆がアメリカ人を歓迎した訳ではない。共産主義者や社会主義者はいつも「US、ゴーホーム」と壁に落書きした。しかしニコラ・サルコジ大統領がNATOの懐にフランスを復帰させた今、こうした年月が戻るのではないかと希望をもって語っている者もいる。

アメリカ人が帰ってきたとして、「私は別に困らない」と政府機関で働く40代のゾフィー・バラは控えめな声で語る。「そのことを話していますよ」。

しかし今日でもアメリカ人は完全に出て行った訳ではない。ノルマンディーに上陸したメイン州オーガスタ生まれのジョセフ・ガニエは1952年1月にここに基地を建設する計画のうわさを聞きつけた。フランス人妻のジャニンと一緒に彼はルドリュ・ロラン通りにジョー・フロム・メーンJoe from Maineというハンバーガーレストランを開店した。ジョーは今月86歳で地元の病院で亡くなったが、娘のアネットが今もハンバーガー、ホット・ドッグ、テクス・メクスを週に6日間出している。

「お客さんは今はフランス人ですけど、当時基地に勤めていたGIやその子供達がやってきますよ」とアネットは言う。"Schlitz on Tap"と書かれた偽のティファニー・ランプの下で彼女はある訪問者を楽しませていた。「1952年1月に父が店を開いた時にフランス人はハンバーガーがなにか知りませんでした」とアネットは言う。「私達は自分達のケチャップをつくって、基地でスパイスを手に入れたんです」。

レストランの下には今は貯蔵庫に用いられている30平方フィートのアーチ型天井の石造りのセラーがある。そこでかつてアメリカ人は途方もない量のビールを飲み干し、チェーン・スモークをし、フランス人のガール・フレンドと踊ったものだった。アーチ天井には「ベニー、トム、フェ-ガン」と名前が刻まれている。

ハリーはこの町にもっと大きな足跡を残した。1960年代に地元の実業家のポール・ピカールはアメリカのサービスマンが食べていた奇妙な白い四角形のパンに印象付けられた。長いバゲットに慣れた他のフランス人のようにピカール氏はそんなものを見た事がなかったが、ここに可能性があると考えたのだった。

それで氏は米国のパン屋を訪れ、製造法を習い、フランスに戻ってワンダー・ブレッドをリエンジニアした。アメリカっぽさを与えようと氏はこれをハリーズ・アメリカン・ブレッドと名づけ、その包装も星条旗で飾った。ハリーが誰かは誰も言えないが、おそらくはアメリカっぽく響く名前というだけなのだろう。

ピカール氏がここでパンを売るには基地が閉鎖されたのは早過ぎたのだが、氏のパンはフランスでヒットすることになった。今ではシャトールー郊外のハリーズの巨大なパン工場で白パンその他が年間1億3千万斤も生産されている。これはフランス全土に点在する他の工場でのハリーズの生産の3分の1程度だ。フランス全土に展開する6つの工場はハリーズをこの国最大のパッケージされたパンの製造業者とした。

ピカール氏は今はこの地域のとある城に引退し、ヴィンテージのレーシングカーを収集しており、氏の会社はイタリアの多国籍食品企業が所有している。しかし400人の雇用者を抱えるこの工場ともうひとつの工場によってハリーズはこの地域で二番目の雇用主となっている。トップは自動車部品会社であるが、自動車産業のスランプで雇用を減らしている。それゆえハリーズはまもなくナンバーワンになるだろう。

「彼はヴィジョナリーだった」と42歳の工場マネージャーのジャック・ローランはピカール氏を評して言う。白いサンドウィッチ・パンは「フランスでは二義的な存在」だと彼は断じる。フランスではスライスされたサンドウィッチパンはパン市場の7%を占めるに過ぎない。「フランス人はバゲットを食べる」と彼は言う。しかしハリーズは子供向けのスナックのDoo Wopやパンの耳を食べたがらない子供向けの耳なし白パンのようなアメリカっぽい新しい商品を生産し続けている。ハリーズはクイック-フランスにおけるマクドナルドとの競争企業-のハンバーガー・ロールを生産している。自家製のパンをつくっているジョー・フロム・メインのためではない。

人口66000人のシャトールーはパリやヴェルサイユやシャルトルと並ぶような存在では決してない。町には魅力的な裏路地があるが、聳え立つカテドラルがある訳ではなく、町で最も古い教会のサン・マルシャルも予約でのみ訪問者に公開されているだけだ。町のモダンなタウン・ホールには車検場といった具合の魅力がある。作家のエディス・ワートンが1906年にシャトールーを訪れた際にこのタウン・ホールを「否定しようもなく幻滅させる」と評した。

近年フランス経済の高波はシャトールーの地位を高めていたが、今や危機がこの町を揺るがしている。町長のジャン・フランソワ・メイエはNATO基地が戻ってきたならばなにをもたらすだろうかと思い巡らしている。1951年にアメリカ人が建設した滑走路はまだ存在しているし、シャトールーの空港は、航空便、航空機補修、パイロット訓練、チャーター便などのビジネスをしたりしている。

「もうかつてと物事は同じではないが、彼らに戻ってもらえるといいです」とメイエ氏は語る。「空港が存在しているのは役に立ちますよ。アメリカ人が来る場所はありますから」。

しかし他の者にとってはアメリカ時代は今後も黄金時代のままだろう。IBMパンチカードマシーンを操作する学校を出てすぐ米軍基地で働いていた74歳のミシェル・ブランシャンダンは去年、150人ぐらいの労働者を集めてこの時代の記憶を保つためのアソシエーションを結成した。メンバーの中には今でも古いシボレー、ムスタング、キャディラックを運転している者もいる。

アメリカ人は帰ってくるのだろうか。「いや」と彼は言う。「文脈が同じじゃないね。冷戦がある訳ではない」。彼は少し考えて、付け加えた。「もし彼らがやって来るなら、歓迎するよ」。

追記

"Nationalism and Anti-Americanism in Japan-Manga Wars, Aso, Tamogami, and Progressive Alternatives"[Japan Focus]

書き手の水木しげる氏の記事には少しだけ感心したのですが、これは読んでいて溜息が出ました。基地も出ますし、反米主義の話ですので短くコメントしておきましょうか。まず「ネオナショナリスト」VS「プログレッシヴ」という架空の対立図式を設定し、前者を否定し、後者を称揚するというパターンの英語圏の一部の言説には飽きています。だいたい列挙される名前も恣意的ですし、各人それぞれに違いますし、どちらにも属さない人々が主流なのです。こうした英語圏の一部の言説における日本の言説空間の「誤表象」や「良き日本人」も存在するといった傲岸不遜な物言いは半可通ブロガーあたりにも感染していますね。なお私は戦後の左右の硬直的な思考枠組みの中では両者と絶妙に距離を置いた人や両者に叩かれた人しか信用しませんが、こうした微妙な問題意識は図式主義者には見えないようです。ところでこのところ田母神氏は英語圏の一部の人々の間ではすっかりアイドルになっているようでなによりです。こういう人々は「敵」なしではいられませんから過大評価し続けるのでしょう。最後に激しい人々を別にすれば、全体としては気分は「反米」というよりは「離米」ではないでしょうかね。それは悪いことではないと思います。

再追記

協調戦略を描けないヨーロッパ[JBpress]

FTのミュンヒャウ氏の記事の翻訳。IMFの金融安定性に関する報告を受けたものですが、内容は氏のこれまで語ってきたことの繰り返しです。不良債権額は米国よりも欧州の方が多く、また処理もちっとも進んでいない。銀行救済にせよ景気刺激にせよ協調戦略が欠如しているため、保護主義的になっている。今回の危機は欧州域内市場と単一通貨を強化するチャンスであるにもかかわらず、現実にはどうもそうはなりそうもない、と。最後に述べている全5幕の長編劇というのはどんな悲喜劇を想定しているのでしょうかね。あまり悲観シナリオばかり語るのもどうかと思われますが、氏の論説はどんどん陰鬱なトーンになってきていますね。

上で批判的に言及した記事ですが、英語圏における言説編成の中において書き手の意図を勝手に解釈すれば、その「好意的」なスタンスを指摘することもできるでしょうし、書き手の文脈化の意志には評価すべき点もあるのかもしれませんが(実際、平均的語り口よりはずっと丁寧です)、結局のところ、こういう言説スタイルだと不毛な対立を延命させることにしかならないように思えますし、正直に申し上げまして、今、文化戦争をやっている場合ではないと思うのですね。最後に、言うまでもなく、誰かを弁護するために書いているつもりはありません。

再々追記

追記でまとめて批判するような書き方をしましたが、図式主義者とか半可通ブロガー云々というところで念頭にあったのは別の人々です。この点不透明な書き方で失礼しました。この記事に絞って書きます。公正かつ細かく見ている方だとは思いますが、この記事で不満なのは、ネオナショナリスト対プログッレシブという一部でよく用いられるラベルによるまとめ方です。水木しげる氏はいわゆるプログレッシブではまったくないけれども、その戦争漫画には保守的大衆にも訴えかけるだけの力がある。こういう人々はいわゆる中道というのとは違う意味で分極化した状況の橋渡し役的な存在として貴重だと思うので私がつまらないと思うような人と一緒に囲い込んでほしくない訳です。また現実政治のヴィジョンについても日米同盟か東アジア共同体か、戦争か平和かといった二者択一の提示の仕方にはあまり感心しませんし(氏の議論ではなく日本の国内議論ですが)、「ネオナショナリスト」とされる人々の言説も「プログレッシブ」と同様にいわゆる「政府の現実主義」に対する「民間の理想主義」の位置にあることを確認しておきたいと思います。実際には三帝国の間で絶妙な位置取りをしていかなければならないのであってそうそう乱暴な舵取りはできないということは誰よりも日本国民の多くが直感的に知っているところなのではないでしょうかね。

英語圏のリベラル言説への不満やら現在の日本の論壇への幻滅やらでなんだか難癖をつけているような格好になりましたが(コメント欄で指摘されたように氏の問題というよりも現在の日本の言論の問題ですね)、記事そのものは優れていますので読んで損はないと思います。個人的には論旨に同意できない部分はありますが、リベラルな傾向の方にはお勧めしておきます。対話できる方だと思います。

再々々追記

「恣意的」と書きましたが、進歩派なら水木しげる氏にとっての戦争は受け止めるべきだという意味に理解するならば、このチョイスも正しいのかもしれないと思い直しました。小田実も現在の政治的正しさの観点から見れば過剰な人々に含まれるのでしょうし。実際、進歩派にも変わってほしいです。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=qVX29N2E0z0&feature=related

カントループ『バイレロ』(オーヴェルニュの歌より)

マリ=ジョゼフ・カントループ(1879-1957)の『オーヴェルニュの歌』は作曲家の故郷の民謡の編曲集ですが、歌詞は南仏の言語のオック語です。リンク先で歌っているのはマドレーヌ・グレイ。初録音の人です。内容は羊飼いの素朴な歌です。

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憧れの杜氏たち

まとまったことは書けそうもないので記事のクリップを続けます。

"Communist party surges as Japan's economy withers" by Eric Talmadge[WaPo]

APのタルマジ記者による日本共産党の近況報告。不況とともに、特に若年層の間で、人気がそれなりに集まりつつあること、志位氏がメディアで人気者であること、党勢は国政では弱体であるが地方では強いこと、全般に政界が保守化している中にあってチェック&バランスを果たす機能を果たしていることなどが書かれています。日本の政界をウォッチする上で特筆すべき存在なのかどうかは別にして、また資本論や蟹工船の漫画とかはネタとして微笑むだけにしておくとして、だいたいそんな感じなのでしょう。似たような趣旨のわりと好意的な記事としてはタイムのコレがあります。冷戦崩壊の影響をそれほど受けずに先進国では最大級の共産党が日本に残っているという現象はやはりなにか不思議に見えるのでしょうね。他の国ならば別のものが手当てしているような層がいて日本では「土着化した」共産党がその役割の一端を担っているということなんでしょう。党勢回復はあっても躍進とまではいかないのではないでしょうかね。

"The conservatives undaunted"[Observing Japan]

日本はミドル・パワー路線でいくべきであり、「保守」は危険であるというのがハリス氏の基本的なスタンスですが、安倍元首相のワシントンでのスピーチと中川氏の核の議論の必要性に関する発言をとりあげています。とりわけ中川氏の発言に関しては公論において感情的な反発ではなく理性的な批判が必要だとだいぶ懸念しているようです。心配せずとも、政治的ハードルが高すぎる独自核については「現状では」現実的でない選択であることはよく理解されている話だと思われます。ちなみにテレグラフがこの件で軽く煽っていました。えーと、憲法9条で禁止されている訳ではないんですよ。

引っかかるのはハリス氏の言う憲法改正と「保守」の関係です。氏の言説では憲法改正は「保守」のアジェンダとされているのですが、それは正確ではないでしょう。「保守」でない改憲論者というのもいる訳ですし、9条問題にオブセッションを抱いている人ばかりでもない。また憲法改正とミドル・パワーも別の話でしょう。憲法論と国家戦略論は別の問題であってミドル・パワーを標榜する改憲論の立場だってあり得る訳ですから。とはいえビッグとかミドルとかスモールと言っても結局、自己イメージをどう持つのかとか国外向けのブランド戦術の話でしかないようにも思えてきます。それが重要ではないとは思いませんが、漠たる話に感じられます。

"Integrity needed in journalism"[Japan Times]

"Shukan Shincho's responsibility"[Japan Times]

ジャパン・タイムズの社説二本ですが、それぞれ講談社と週刊新潮の問題を扱っています。精神科医がクライアントの個人情報を提供したとされる事件と朝日新聞襲撃に関する例の記事の話です。内容は日本語圏で報じられている通りですが、ここで述べていることを自ら実行することをジャパン・タイムズには求めます。なおこの件で擁護する気はさらさらないですが、週間新潮の話には微妙な感想を持ちます。必ずしも週刊誌の良い読者ではないですが、ろくでもない記事に塗れつつもそこにジャーナリズムの場所があるのもまた事実であってそこまで一緒に萎縮するようだと困るなという思いもするからです。ただ今の週刊誌の形式がなにかずれている感じはあります。遠くない将来に再編されるのでしょう。

"Manifesto of a Comic-Book Rebel"[NYT]

劇画の生みの親とされる辰巳ヨシヒロ氏の『劇画漂流』の英訳版の紹介記事ですが、漫画史に占める劇画の位置について基本的な説明がなされています。ふむふむと読んだのですが、最後で躓きました。村上春樹って・・・あるいはこの意外な連想になにかを読み取るべきなのかもしれません。話を戻すと、藤子不二夫の『まんが道』にも似た自伝ですが、戦後の風俗史としても面白いのでおすすめしておきます。ところでフランス語訳は知っていましたが、辰巳氏は各国語に訳されているのですね。社会派漫画みたいな受け止めなんでしょうか。漫画についてあまり偏ったイメージになるのも困りますから訳者に敬意を表しておきます。歴史的なパースペクティヴが得られるような地味な作業はひっそりと進行しているようです。

"Japanese whisky leaves traditionalists on the rocks"[Guardian]

中学生の頃には杜氏は憧れの職業でした。今も酒造りの人々には敬意を抱いています。ニッカの余市とサントリーの響が昨年のウィスキーのワールドコンテストで優勝し、英国進出を目指しているというマッカリーさんの記事です。竹鶴政孝とスコットランド人の妻リタによる日本におけるウィスキー史のはじまりにも記事の最後で簡単に触れています。竹鶴についてはこのサイトで概要がつかめます。かなりの情熱家のようですね。いい顔をしている。

"Although some Japanese people are the last to believe in the quality of their own products, their malt whiskies are as good as any in the world," said Chris Bunting, an expatriate Yorkshireman who blogs about the country's whisky at Nonjatta.

とバンティングさんも言っておられますが、ニッカのウヰスキーは美味いと思います。余市よいとこ一度は行くべし

2009年4月20日・4月21日[ムネオ日記]

先日の谷内氏の3.5島発言は不可解で理解し難いです。国内世論向けの観測気球のつもりなのかとも思ったのですが、先に手の内を明かすメリットがよく見えません。この問題で内閣と外務省は統一的に行動しているのでしょうかね。

バルチック艦隊司令長官の手紙 ロシアで発見[朝日]

もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から [著]コンスタンチン・サルキソフ[朝日]

コメント欄で教えていただいたのですが、サルキソフ氏が発見したロジェストウェンスキー中将の書簡と書籍についての一昨年前の記事です。この話見逃していました。司馬遼太郎の描いた提督像とは大きく違い、日本海海戦の敗北を冷徹に予測していた将であることが書簡からは分るといいます。「坂の上の雲」を読んだのはずいぶん前の話なのでそこで中将がどう描かれていたのか具体的な記憶に乏しいですが、愚将のイメージは確かに残っています。いつかこの本には目を通さないといけないですね。ネットソースでは子孫も加わった日露戦争百周年会議に参加された方の記した文章がありましたが、軍人さん同士の心の連帯が感じられます。日露戦争はいろいろな意味で本当にすごい戦争ですが、集合的な記憶からはだいぶ抜け落ちてしまってますね。90年代には1930年代にリアリティーを感じることが多かったのですが、今はこの時代のほうにリアリティーを感じることが多いのは不思議な話です。論壇もこっちのほうに目を向けるべきではないでしょうかね。激しくレベルは違いますが、この時代と同じことを言っているだけのような気もするんですよね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=M4O1di7fmW8&feature=related

沢田研二『時の過ぎ行くままに』(1975年昭和50年)

研二サイコ-。

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実るほど頭をたれる稲穂かな

"Prosperity's Children: Generational Change and Japan's Future Leadership"J. Patrick Boyd and Richard J. Samuels[pdf]

via Observing Japan

ボイド氏とサミュエルズ氏による日本の政治家の世代間比較と未来予測の論文です。結論そのものにさほどの意外性はなかったのですが、方法論的にふーんとなりました。マンハイムらの歴史的経験を共有する世代単位ごとに価値観の差異が生まれるという理論的仮定を基に三世代間の統計的な比較分析をしています。具体的には経済政策、安全保障政策、文化の問題について全政治家を対象にしたアンケートに基づいて分析し、今後の予測をしています。ここから浮かび上がる限定的な発見として、

(1)世代間の差は経済観に現われている。年長世代は中堅世代や若手世代よりも日本的資本主義の維持を好む傾向がある。

(2)世代間ではごく限定的な差異しか見られない。ただ若手世代は他の世代に比べてタカ派的である。

(3)右派的ナショナリズムの問題を含む文化の問題について意外なことに世代間では有意な差異は見られない。ただ中堅世代は相対的に進歩的である。

といった点を指摘しています。(1)は財政政策と公共事業、政府の市場介入、終身雇用などに対する考え方で中堅世代と若手世代は「新自由主義的」としています。もっとも英米のそれとは異なるだろうが、と留保した上で今後も経済改革は継続されるだろうと予測しています。(2)は日本の国防力の増強、日米同盟の強化、武力の使用(先制攻撃、集団的自衛権、憲法改正、イラク派兵)、国連常任理事国などについての考え方のことですが、中堅世代に比べて若手世代と年長世代がタカ派的であるが、それほど極端な分裂はないとしています。ここから米国の動機や意図への疑問が増大したとしても、日米同盟のマネージャーは東京からの支持を期待できるとしています。(3)は首相の靖国参拝、太平洋戦争の正当性、治安と市民的自由のトレードオフ、特別永住者の地方参政権などについての考え方のことで中堅世代がやや進歩的であるもののここに世代間の差異があまりないことに調査者は驚きを感じています。ここから引き続き文化戦争の問題は続くだろうと予測しています。

論文は次の15年をリードする政治家をリストして各人を個別に分析していますが、誰が選ばれているのかはお楽しみということでご確認下さい。これが出版されたのは昨年の夏ですが、そうですねえ、短期的には、経済改革は後退し、日米同盟は現状維持のままあちこちからいろんな声があがり、文化戦争については沈静化に向かうように思えます。これはただの一日本国民による願望やら失望やらの入り混じった予測に過ぎませんけれども。

それからサミュエルズ氏の安全保障に関する立場の類型化(neoautonomists、normal-nationalists、middle-power internationalists、pacifists)は全般的な傾向性をつかむにはよく出来ているとは思いますが、あくまでも類型は類型であって実際には複数の類型が個人の中に濃淡の差異とともに共存しているし、状況に応じてシフトも起こるのだろうなと思います。私は氏の言う「普通の国派」と「ミドル・パワー国際派」の間ぐらいになるのでしょうが、そこからはみだす部分もあるようです。そもそもこの類型に完全にはまるような政治家はどれほどいるんでしょうかね。だからと言って無意味だとは勿論思わないのですが、言葉だけが一人歩きしないといいなと思います。こういうラベルは便利ではありますが往々にしてなにも説明しないばかりか場合によっては誤解を生むものだからです。後は文化戦争がらみについては穏当ではありますが、最終的には米国的な視点からの分析ですね、といったところです。本当に多様で人それぞれなんですよ。

まあ、こんな風に分析されている訳です。さて日本のアメリカ学者はちゃんと分析していますかね。

検察vs政治の歴史的対立を考えれば、 小沢代表秘書逮捕は国策捜査ではなかった[ダイヤモンド・オンライン]

小沢氏の検察批判に関する上久保氏の記事。戦前の「日糖疑獄」「ジーメンス事件」「帝人事件」を想起し、いかに検察官僚出身の平沼騏一郎が政党政治の崩壊に手をかしたのか、また戦後「昭電事件」で社会党右派が凋落することで政権交代のない55年体制が完成してしまった経緯について説明し、今回の事件は政府と検察が手を握った国策捜査などではなく、政党政治対検察の対立の歴史の文脈において理解すべきだとしています。にもかかわらず、民主党が政権交代を実現するためには小沢氏はすみやかに代表を辞任すべきであるとしています。政治的観点に立つならば、たぶんそれが賢明のように思えます。なお記事の

検察は歴史的に権力の座にある(座を狙う)政治家をターゲットにする「政治的思惑」を持って行動しているのだが、検察と政治は対立関係にある。逆に言えば、検察と政治が一体となって行動する「国策」はあり得ないのだ。今回、検察は政権交代間近と見て民主党潰しに動いた。自民党がターゲットでなかったのは、「国策」だからではなく、自民党がもはや検察が相手にもしないほど衰退したということではないだろうか。

の部分はどうなんだろうなという感じがあります。実際に民主党潰しの「政治的思惑」なるものが検察にあったのでしょうか。私もご多分に漏れず古風な言い方を借りれば「検察ファッショ」のことを想起した訳ですけれども、それについて書かなかったのは、むしろ他と類比するならば80年代、90年代あたりのフランス政界の例のほうが適当なのではないか、先進国における政治の透明性と説明責任の明瞭化の流れの一齣として理解しておくのがいいのではないかという迷いがあったからです。今でもよく分らないのですが。

小沢代表が今、行うべきこと[日経ビジネスオンライン]

それでこの事件に関する言説で注目された郷原信郎氏が民主党の「政治資金問題をめぐる政治・検察・報道のあり方に関する第三者委員会(略称:政治資金第三者委員会)」に加わったようです。なんの情報もない個人の目から見るとやや大時代がかった修辞は別にして郷原氏の検察の動きの説明にはそれなりの説得性を感じましたが、その一方でこの件で民主主義を守れ!といっても理解されにくいだろうなとも思いました。というのも90年代以降に政治と金について国民側の意識がそうとうに厳しくなった点について勘定に入れないと通じないように思えたからです。とはいえ小沢氏のみならず検察側の説明責任の明確化と報道の検証はなされてしかるべきなのでしょう。政治的思惑とやらが本当にあったのかどうかはっきりさせてもらいたいものですし、報道については検察からの情報についてもガイドラインが必要なのではないかと思います。それが実現されるならば今回の騒動も我が国の自由民主主義の進歩に少しは貢献することになると思いますので、委員会のみなさんにおかれましてはしっかりと検証作業をしていただきたいものです。ただの政局ネタに終わってほしくはないです。後世になにか残しましょう。

"Barack Obama criticised for 'bowing' to King Abdullah of Saudi Arabia"[Telegraph]

G20の場でサウジ国王にオバマ大統領がおじぎ(bow)をしたことで右翼から批判されているという和み系のニュースです。大統領はおじぎではないと否定している模様ですが、この行為は王権に対して臣従の礼をしないという米国の伝統に反するのだそうです。でこれはテレグラフの記事ですが、ワシントン・タイムズが社説で攻撃しているそうです。これですね。アメリカン・デモクラシー魂が炸裂しています。米国大統領は誰に対してもおじぎをしてはいけないというプロトコルがあるんだそうです。テレグラフに戻ると1994年にクリントン大統領が天皇陛下におじぎをしたのかどうかをめぐって論争があったことに触れています。サウジの新聞はこのおじぎを国王陛下に対する敬意を表明したと評価しているようです。でクリントン氏が我らがハイ・マジェスティーにおじぎをしたとかしないとかという話は聞いたことがなかったのですが、右翼ではなくてNYTに-ふーん-批判された模様です。これですね。日本じゃ上も下も横も斜めも誰に対してもおじぎするんですからいいじゃないという気もするのですが、建国精神なんだからそうもいかないということなのでしょうかね。

北方領土:「3島と択捉一部返還でも」 前外務事務次官[毎日]

前外務事務次官の谷内正太郎政府代表が毎日のインタビューで3.5島折半論について語ったとのことです。

谷内氏は「(歯舞、色丹の)2島では全体の7%にすぎない。択捉島の面積がすごく大きく、面積を折半すると3島プラス択捉の20~25%ぐらいになる」と指摘した。政府は歯舞、色丹、択捉、国後の四島の帰属をロシア側に求める立場を崩していないが、麻生首相は先の日露首脳会談の際、記者団に「向こう(ロシア)が2島、こっち(日本)が4島では進展がない。政治家が決断する以外、方法がない」と強調。谷内氏の発言は麻生首相の意向を反映したものとみられる。

ということですが、実際、意向を反映したものなのでしょうか。これまでの主張とどう整合させるのか、あるいは予見される政治的波及効果を防ぐつもりなのでしょうかね。そう言えば、

日本の「右翼」がロシアを歴史的訪問[JBpress]

こんな記事もありました。民族派の日本青年社がロシアを訪問したという話です。セッティングをされたサルキソフ氏は冷戦時代にはソ連大使館前で罵声を浴びせていたあの右翼までが歩み寄る時代なのだなとある種の感慨を抱かれたようです。ロシアは共産主義を捨てて民主国家になったから協力できる、ロシアの民族主義に含まれる反米主義の要素には同調しない、というのは一瞬リベラルな意見に聞こえてしまいます。日本青年社のサイトをのぞいてみたのですが、これが「社稜」というんでしょうか、たいへんエコなメッセージが掲げられています。訪問記は読んでいてなんだか和んでしまいました。この訪問の「意義」について評価する能力はないですし、日本史こぼれ話ぐらいの話なんでしょうけれども、例えば日韓国交正常化の際の例を想起するならば、これも前触れのひとつぐらいに解釈すべきなのかなとも思いました。ロシアとは接近したほうがなにかといいとは思いますが、交渉する上では足元を見られないよう構えていたほうがいいような気も同時にします。今後は産経新聞あたりの論調が見所ですね。

ではでは。

追記

意味の通りにくいところを直しました(2009.4.17)

波紋呼ぶ「北方3・5島」返還発言報道 谷内政府代表[産経]

さっそく産経が反応しています。既に多数の記事あり。さすが。しかし、この展開、伝統芸の域に達しているようにも思われますね。

「真意伝わっていない」谷内代表が反論 「北方3・5島」返還発言報道[産経]

谷内代表が産経の取材に対して「捏造」であると反論した模様です。しかしその後、真意が伝わっていないとコメントを修正したとのことです。さあ、どちらが正しいのでしょう。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=qV0U-lB45RY&feature=related

バッハ『6声のリチェルカーレ』

ウェーベルン編曲版は不安な時代の魂に届いた結晶のような古典の音の像といった感じで原曲よりも惹かれます。

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美術とそうでないもの

"A Ukiyo-E Master in the Art of Subtle Protest"[NYT]

ロンドンの王立アカデミーの国芳展の記事。国芳の現代性については喧伝されるようになっていますが、なにも知らずに小学校高学年の頃に模写して遊んでました。ひどく訴えるものがあったような記憶がありますが、今は猫ものぐらいです。記事は浮世絵を「文化革命」と呼び、国芳の浮世絵の当時の政治社会の風刺的側面、それから開国前にいち早く西洋絵画に出会ってその手法を貪欲にとりこんだ点について強調しています。幕府のあいつぐ禁令とこれを逆手にとって庶民の喝采を浴びた反骨の人、鎖国下にあって海外の新奇なものへの好奇心に溢れていた人といったまとめ方のようです。前者の例として天保の改革を風刺したとされる『源頼光公館土蜘蛛妖怪図』(下)、後者の例として『縞揃女弁慶』が特筆されています。米国人コレクターの協力で開催された模様です。英国の展覧会評も読みましたが、戸惑いが表れていますね。絵画なのかカルトゥーンなのかどうカテゴライズしたらいいのか分らないと。内容の理解以前に、美術館に陳列された時点でこのメディアの性格が覆い隠されてしまうように思えますね。「鑑賞」するものではない。この記事が風刺画の説明をしています。これが時事錦絵、錦絵新聞、さらに小新聞へとつながっていくようです。英国の政治風刺版画から新聞への流れとどう同じでどう違うのでしょう。

10minamoto

「幕末・明治期の欧字新聞と外国人ジャーナリスト」鈴木雄雅

こちらはおまけに紹介しておきます。日本における英字新聞の歴史にちょっと興味があってぼちぼち調べているのですが、この記事は戦前の概略です。横浜におけるハンサードの『ヘラルド』、リッカービィの『タイムズ』、ブラックの『ガゼット』の競争が佐幕派対尊王派に対応した論調であったこと、ハウエルおよびブリンクリーの『メイル』とハウスの『トキオ・タイムス』が「親日新聞」として知られたこと、近代的経営を持ち込んだヤングの『クロニクル』とフライシャーの『アドヴァタイザー』がそれ以前の個人経営的な新聞にとって代わり、「軍国主義」への傾斜を強める日本への厳しい論調で知られたことなど基本的な事実がまとめられています。おわりにを引用すると、

 一般に日本における近代国家の成立とみなされる憲法発布(1889年=明治22)以降,社会的政治機能が,新聞界においても,一般化された欧字新聞の持つ機能--すなわち,外からの資本的侵入,内からは国家の代弁機関という要因のうち,後者を重要視したのは当然のことであろう。しかしながら,外人ジャーナリストの中には助成金を貰いつつも,そうしたことのみ目的に新聞を発行したとは考えられない者が少なくない。とりわけ,彼らがくり広げた紙上論争は,自国の利益追及にのみこだわったものではない時もあった。
 欧字新聞界ではその創生期から第二次大戦終了時まで,自由な論争が「反日」のレッテルを貼られる時代が続き,「親日」「反日」のどちらかを選ばなければならなかったのも時代の趨勢であった。欧字紙は戦後ようやく経営的に一本立ちするようになるが,今でもなお,一紙を除き親新聞の啓蒙宣伝紙といわれるぐらいだから,当時の経営面の脆弱性は推して知るべしだろう。
 顧みると,多くの批判があるにもかかわらず,幾人かの傑出した外国人ジャーナリストが評価されるのは,彼らと彼らが生みだした欧字紙が,日本の国際コミュニケーションの私的担い手としてそれなりの役割を果たしたからであり,さらにジャーナリズムのみならず日本社会の近代化に深く貢献したことに他ならないからである。

といった具合にまとめています。近代的新聞概念を日本にもたらしたこと、優れたジャーナリストを輩出した点について評価しています。国際コミュニケーションの担い手としての「それなりの役割」の「それなり」という書き手の留保になにを読み取るべきなのでしょうか。「親日」「反日」をめぐる話は今もたいして変わっていないような気がします。記事は日本側からの視点ですが、その鏡として「外人社会」における分裂抗争の歴史というものもあったりする訳ですね。「外人社会」の利害の主張や自国の主張の代弁の側面が強く出る面とあまり自己規制のない活発な議論が展開される面と二重の性格があるのは今も変わらないような気がします。別の言い方をすると、共同体主義的側面と普遍主義的側面の独特な結合といいますかね。まあ、私は正確で公正であれば「親日」でも「反日」でもなんでも構わないですし、どちらかというと、うならせるような鋭い分析や批判のほうを期待していますのでどうぞ宜しく。なお英字新聞史関連の話はそのうちもう少し書きたいと思います。現在はブログのほうが優れたものがありますね。

"Looking at history: the argument for facts over theory"[Japan Times]

厳格な実証主義史家として知られるジョージ秋田氏の著書の書評です。記事は伊藤隆氏の業績についても触れていますが、要するに日本の戦後の文脈ではマルクス主義史学と対立して厳密な史実に基づいて歴史を記述した流派のことです。理論的なものに距離を置く歴史学的実証主義というと古臭いもののように語られたりすることもある訳ですが、そんなことはなくてごく正統的な歴史学の方法です。素人目にはひどく禁欲的だなあ(小声で:退屈だなあ)ということになるのですが、面白ければいいじゃんというものではないのですから仕方ありません。それで秋田氏の著書ではジョン・ダウワー氏とハーバート・ビックス氏が槍玉にあげられているようです。ビックス氏については素人でもルール違反であることはすぐに見抜けるお粗末な本ですが、ピューリッツァー賞を受賞したこともあって英語圏の読書界では昭和天皇というと氏の本のイメージがわりと強かったりします。ですから英語でこうした仕事が現われると(もうすでに反論本は複数ありますが)コミュニケーションをする上でありがたかったりします。以下は評者の言ですが、

I think Bix is wrong if his premises include, as Akita says they do, that Hirohito possessed immense powers and, because of his kami ("someone above") status, assumed his commands or demands would be obeyed. The suggestion is that he should have been on top of the list of Japanese war criminals.

The accolades heaped upon Bix's book, including a Pulitzer Prize, remind me: Americans continue to grab at the slightest hint that Hirohito, who was equated with Hitler and Mussolini during the war, wielded powers comparable to the two dictators'. This is the impression I've had ever since David Bergamini's "Japan's Imperial Conspiracy" (William Morrow, 1971) appeared.

Yes, Bix once dismissed the Bergamini book as "imaginatively constructed." But we can do the same with Bix's own book, Akita shows.

Bix believes in the efficacy of the "voiceless order technique," among other things, as he liberally puts his imaginings and assumptions into others' heads where evidence does not exist.

都合のいい事実を集めて都合の悪い事実はないことにして史料がないところは想像で埋め合わせる、これは、結局、結論ありきの議論でしかない、そしてその結論は政治的な欲望にダイレクトに導かれているので反論に対しては論理や事実ではなくレッテル貼りでしか応答できなくなると。別に実証主義にあらずば歴史にあらずとは思いませんが、論争がもつれたときに立ち返る立場として尊重すべきだと思います。なお機関説論者から見ると「天皇の責任」論という問題設定そのものがなにかずれたものに思えるのですが、内外の親政説論者は我が邦の国体の神秘なるものを強化したくて仕方がないのでしょうかね。まあ、がんばってください、千代に八千代に。

"Japanese underworld boss quits crime to turn Buddhist"[Guardian]

悪名高かった後藤組の元組長さんが坊さんになろうとしているという心温まる話です。そう言えば、元ヤクザの神父さんの話もガーディアンで読んだような気がします。マッカリーさんは本当にヤクザが好きですね。2001年に手術のために渡米した際に入国と引き換えにFBIに提供したとされる情報ですが、ヤクザ・ファンジンにある程度の話だということです。日本のヤクザって本当に情報公開が進んでいますよね。ついでにこの病院に大きな寄付をして

The grateful don, who was suffering from liver disease, later donated $100,000 (£68,000) to the hospital, his generosity commemorated in a plaque that reads: "In grateful recognition of the Goto Research Fund established through the generosity of Mr Tadamasa Goto."

と記念されているそうです。前から疑問なんですが、日本の大物右翼とかヤクザの組長ってどうして海外に名前を残したがるのでしょうかね。ひとつの様式になっているような気がします。よく知らないのですが、このあたり魑魅魍魎の跋扈するディープな戦後史があるのでしょうね。

"Letter:The Disputed Islands"[NYT]

竹島について韓国系米人がクリーニング屋のバッグでアピールしているという記事を読んで、そのエネルギーを別の方向に使ったらどうでしょう、と溜息をついた訳ですが、それに対して韓国人も日本人も騒ぐのを止めて島の周囲の環境を保持しようとかいうあるフランス人のレターがついていました。お前さんは誰なんだ、環境とかいうとリベラルっぽいとでも思っているのか、底の浅いやつめ、と思った訳ですが、それに続いて日本情報センターの杉本氏が元記事に対してこの問題は「植民地主義の遺産」ではない、歴史的にも法的にも日本領である、国際司法裁判所に出てきたらどうだ、とマジレスしていました。『消耗』という文字が大書された掛け軸が脳裏に浮かびますが、こうやって地味に反論をしておくのはとても大切なことだと思います。政府間で今がちゃがちゃやる問題ではないと思いますけれども。

もはや国内では教科書検定の話はたいして騒がれなくなった感がありますが、英語圏でもずいぶん静かになりましたね。日中韓発のソースを除けばAFP記事とテレグラフ記事ぐらいでした。AFP記事は反対派の主張を掲載し、最後に採択率がわずかである事実を伝えています。テレグラフ記事は韓国政府側の言い分-読んでないでしょ-を伝えていますが、タイトルやリード文や本文の修辞に強い主張が入っています。なぜインディペンデントでもBBCでもなくテレグラフなんでしょう。

それはともかくこうして政治の主戦場が象徴的なものから実質的なものに移りつつあるように見える傾向そのものはいいことなのでしょう。この話に関しては、作成から検定を通じて出版にいたるプロセスで手続きが適切に守られるべきだという原則論以外にあまり語るべき言葉はありません。歴史の係争点はプロないしセミプロが公的に議論をすればいい。だいたい人は教科書の外で真に歴史的なものに触れるものです。

ではでは。

追記

佐藤氏のジョージ秋田氏の書評に不満の声が挙がっているようです。読んでもいないのに批判するなと。そりゃそうですね。佐藤さん、がんばって。でも、ビックス氏の本はレベルが低いので依拠していると頭が悪く見えますよ。これはイデオロギーの話ではなく史学的な話です。まあ、あなた方が関心あるのは政治であって歴史じゃないんでしょうけれどもね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=bSs5DVHkjqE&feature=related

江利チエミ『踊り明かそう』(1963年昭和38年)

告白しますと私はかなりのチエミ・ファンでしてこれを見ると涙が出そうになります。マイ・フェア・レディと言えばチエミ。他は知らない。

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防空ヘルメット

病院と理髪店と高層ビルには近寄りたくもない、できれば忌避したまま生涯を終えたいものだと心より願っているのですが、そうも言っていられないのが人生というものでありまして、歯医者に通っています。いい具合に古び、くたびれ、うちのめされた風情の歯科医院に飛び込んだ訳ですが、治療の後に沈んだ気持ちになったり、悪い夢を見たりしないのが不思議です。あるいはこれまでとはなにか違う局面に入りつつあるのかもしれません。

それはともかく今日は受付の年配の女性とテポドンについて話した訳ですが、その意気込んだ話ぶりに、ああ、こんな風に人々の安全意識を静かにしかし着実に揺り動かしているのだろうなと実感させられました。ちなみに発射の日に近所のあほの子がヘルメットをかぶっているのには笑わせられました。防空壕について訴えていましたが、このあたりには地下駐車場のようなものはないですねえ。やはり子供は「テポドン」の響きに反応するようです。怪獣みたいですからね。以下、意味のあることは書けそうもないのでぬるーい感想を書いておきます。

"N Korea launch sparks arms race fear"[Financial Times]

北朝鮮のロケット発射が東アジアの軍拡競争を惹起するのではないかと懸念するFT記事です。韓国の首相が議会でMTCR遵守に関して見直しの可能性を発言した模様です。記事によれば、長距離ミサイル拡散を管理するMTCRは加盟国に開発そのものを禁じている訳ではないが、米国の要請で300km以上の飛距離のミサイル開発をしないことに韓国政府は非公式に合意しているとのことです。これは中国を刺激することになるだろうと。また日本では先制攻撃能力の保有論が浮上しているとして、前財務相の中川氏の発言が引用されています。こちらもまた中国を刺激するだろうとしています。しかし、後半では、韓国側の発言は国連の安保理決議をめぐる中国へのシグナルの意味合いが強い可能性があること、保守サイドでも長距離ミサイル開発への批判が強いことに触れて記事のトーンを抑えています。

"North Korea rocket revives Japan pre-emptive strike talk"[Reuters]

こちらは日本の先制攻撃能力保有談義をめぐるロイター記事です。FT記事同様に、

"We should hold a proper debate about attacking launch bases and about shelters in case something does happen," Kyodo news agency reported former finance minister Shoichi Nakagawa as saying on Sunday.

と攻撃、防衛両面の抑止能力の保有について議論せよとの中川氏の発言が引用されています。また前回の発射の際にも同様の声が聞かれた点、それが中韓の激しい反発を呼んだ点、世論にも歓迎されなかった点について紹介しています。CSISの研究員のグロッサーマン氏は、こうした議論をオプションと考えている人も多いが、個人的にはextremely destabilizingだと思うと述べています。憲法上の制約や専守防衛論の基本的な説明の後、記事は現在の財政状況や不況から考えてこれを変更する政治的タイミングではないだろうと述べ、英語圏における日本の安全保障論の基本書となっているSecuring Japanの著者であるMITのサミュエルズ教授の発言を引いています。

"It is very hard to focus for very long and very hard, even on things as important as national security, given the economy"[...] "Since the incident proceeded without direct impact on Japan, I think we are not going to get the hard focus we got in 1998."

と。記事は、98年の実験がミサイル防衛体制の構築のきっかけとなったが、直接攻撃は正当化困難であると多くの人々に考えられており、既に6兆ドル以上を費やした[註:これ金額合ってますかね]MDの増強が受け入れられるオプションだろうとしています。ここで岡本行夫氏が登場し、北朝鮮の領空でミサイルを破壊する訳にはいかない、より戦略的な防衛システムを保有すべきであり、研究開発がなされるべきだ、と述べておられます。また林前防衛大臣は先制攻撃にはラウンチ前とブースト時の二種類があり、法的には後者のほうが厳しくないが、技術的には難しいとも発言しています。以上、先制攻撃能力保有の声もあるけれども、ミサイル防衛の増強という穏当な反応になりそうだという記事でした。

といった具合に英語圏では前回同様「日本の先制攻撃論」として報じられています。ロイター記事では林氏が記事の末尾で簡単に解説していますが、現憲法体制下における策源地攻撃論を予備知識のない外国人に説明するのはなかなか難しい話のように思えます。前回もブッシュ・ドクトリンみたいに受け取って大騒ぎしている人々がけっこういました。専門の日本の防衛の研究者を別にすれば、理解しろといってもある意味無理からぬところもありますが、この言葉だけが一人歩きする可能性があるかもしれませんね。とはいえロイター記事が英国yahooのbreaking newsになっていたのを除けば大きくは報じられてはいないようです。

ところでこの中川氏の発言ですが、前回とは異なり、日本語圏ではそれほど報じられなかったようですね。閣外だからということなんでしょうけれども、あるいは以前ほどのヒステリカルな反応がないのは世論の微妙な変化を反映しているのかもしれません。件の共同通信の記事は見あたらなかったのですが、東京新聞の記事が上記の引用部分の発言を掲載しています。さらに時事通信の記事によると、氏は前回同様に核保有の議論の必要性にまで言及したようです。むう。また自民党の部会が敵地攻撃について検討しているとされます(コレ)。もちろん議論は活発になされるべきですが、政治的インプリケーションには十分に自覚的にやってもらいたいところです。このあたり各自が持論を展開している状況のように見えますが、レベルごとに役割分担ができているようだとなおいいです。それから基本的に支持はしてきましたが、これでいっそうMDに傾斜するというのも考え物ですね。

なんだか余計な事まで報じていたような気もする今回の日本のメディアの論調としては産経の紙面にときおり浮上した対米不信の色が気になりました(コレとかコレとか)。これも一概に悪いことではないとは思いますが、このイベントにとりあえずは日米が協力して軍事的にも政治的にも対応した事実を考え合わせるとやや過敏な反応のようにも感じられます。いわゆるG2に見られるような動きや同盟を犠牲にして多国間主義に傾斜するのではといったオバマ政権に対する不安とこのイベントを利用して専守防衛論の縛りに風穴をあけたいという希求とが綯い交ぜになっているのはよく分りますけれでも。ゲイツ氏の発言に関してはなにか言っておくべきでしょうね。

Foxソースですが、これを見る限りは米国世論はだいぶ強硬に反応しているようですね。民主党員も含めて多数が軍事的対応を支持している模様です。実際、思った以上に米国メディアも報道していましたし、就任後の初の危機対応ということで大統領の発言も厳しいものでした。とはいえ国連での決議以外になにか強い措置が取られるのかどうかはあやしい印象も受けます。目に付いたものではカプラン氏のこの論説がありますが、日本に配慮しつつ放置しておけとしています。という訳で1ミリでも状況を動かすために韓国と一緒になってでも声を出しておくべきなのでしょうし、国内の「冷戦残滓」を粛々と周縁化していく機会として有効に利用すべきなのでしょう。今後どういう動きになるのかは分りませんが、とりあえず日本の世論に影響を与えたようだという点で社会的に意味のあった事件として記憶にとどめておきたいと思います。

ではでは。

追記

自民・坂本組織本部長「日本も核保有、国連脱退」[読売]

こちらはストレートな核保有の主張ですか。国連脱退も辞さずと。いや、本部長殿、足をすくわれないようにお願いします。国内外の反響を計測しながら物事が進展するような形で「議論」をなさってください。

再追記

上の件、こちらの朝日の記事のほうが詳しいです。読売記事に釣られてしまったようです。ただ議論によるプレッシャーというのも露骨だと無意味かつ有害だと思うのですがね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=CIHCI5dVzHM&feature=related

岩崎宏美『銀河伝説』(1980年昭和55年)

Unhaつながり以外は関係ないですが・・・劇場用アニメ『ヤマトよ永遠に』の劇中歌です。若いのにしっかりした歌唱です。

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日本的統合主義?

"Waiting in the Wings" by David McNeill[Newsweek]

民主党をめぐる状況を扱ったニューズウィークの記事。なんだか見知った名前が並んで脱力する感じもありますが、ウォルフレン氏も御健在のようです。特定社会を理解するのに"the System"なる単数形の仮説的実体を立てる氏の方法論の問題点-陰謀論に接近する-が発言部分でも見事に露呈しています。記事では自民党のばらまき批判がなされていますが、民主党もやる気まんまんな訳ですよね。また官僚対民主党という対立図式を強調していますが、前にも書いたように非妥協的に対決した場合、民主党は政策立案能力を失うことになるでしょうし、党の支持母体を考えても無謀な賭けではないでしょうかね。まあ修辞なら修辞でいいんですけれども。最後に小沢氏の検察批判ですが、これを日本政治において検察の果たしたネガティヴな役割の歴史を想起すれば、その意味は理解できますが、この事件でそれを弁明の論拠に持ち出すことには今のところあまり説得力を感じていません。正直、こんなタイミングで「政治と金」がテーマになりそうなことには激しく溜息が出てしまいます。ところでこの記事ですが、ところどころでなんだか臭みがあるなと思ったらマクニール氏でしたか。

裁判員制度で大わらわ 新聞各社が「自主規制」を開始[Cyzo]

(Hat tip to Adam)

裁判員制度については基本的なアイディアとしてはいいけれども細かい部分で修正は必要だろう、いろいろな波及効果はありそうだけれどもどういうネガティヴな効果がもたらされ得るのかについての想像力も保っておこうぐらいのスタンスで見ている訳ですが、これはポジティヴな効果でしょうね。新聞各社が事件報道の際にソースを明示するようガイドラインを変更した、あるいはしつつあるという話です。前に書きましたが、事件報道の際にセンセーショナリズムに頼って社会不安を必要以上に煽る傾向には困ったものだなと思っていましたのでこれはこれでひとつの進歩でしょう。日本国民の正義感の強さはそれ自体悪いことではないと思いますが、メディアが商売繁盛のためにこれを動かす構図には醜悪なものがあります。もっともこうした原則はテレビにこそ適用されるべきでしょう。こちらのほうが影響力が強い訳ですから。ドラスティックな変化とはいかないのかもしれませんが、この小さな改善については評価しておきたいと思います。といいますか、こんなの基本中の基本ですよね。

日本人同性愛者の外国での同性結婚が可能に[JanJan]

前エントリの続きで紹介しておきます。書き手は「僕の悪い癖」かもしれないと述べていますが、これといった方針もなく法務省が諸外国への配慮で動いているというのはどうやら正しいでしょう。ルース・ベネディクト流の罪と恥の文化論や阿部謹也流(?)の世間論はあまり信用しないのでちょっと一般化し過ぎに思えますが、日本の「遅れ」は「一神教圏」よりも差別やバッシングが露骨でないために問題化しにくいことによるという経験的な観察そのものはおそらくは正しいでしょう。条件はそれほど悪くないと思います。この件に関しては特に利害関係はないのですが、ポジティヴな政治闘争が展開されるのを見てみたいという気持ちがあります。ご健闘を祈ります。

"For enlightenment, step this way" by Mark Schilling[Japan Times]

"Masterpiece Maker"[Japan Times]

私とは趣味がずれているようですけれども、シリング氏の映画評にはある一貫性が感じられるので読んでいます。中村義洋監督の『フィッシュストーリー』が好評価ですね。監督のインタビューもあります。同監督の映画はなかなかいいけれども個人的にはそれほど訴えかけない-全作品を見ている訳でもないですが-ぐらいですが、面白そうなので天気のいい日にでも見に行きましょうかね。

映画ということでついでに書いておくと、今日、渥美清主演の『拝啓天皇陛下様』を見てうならされました。別に深刻ぶった戦争映画ではなく気のいいはぐれものを主人公にした喜劇映画なのですが、妙なリアリティーがありました。どうも戦争から遠ざかれば遠ざかるほどイデオロギーの声が大きくなり、悲劇が過剰に演出される傾向がある訳ですが、この字もろくに書けない朗らかな山田二等兵の泣けてくるほどの現実感の欠如に戦争のリアルの一面が描かれているように思えました。また周縁の者たちがいちばん熱心に天皇陛下万歳だったことはよく知られた話ですが、例えば、色川大吉が重視した水俣病患者の天皇陛下万歳とはまた違うのでしょうけれども、この天涯孤独者の忠君のあり方にもそれと通底するなにかを感知しました。つまらぬ機関説論者なのでこういう不透明なものに「底知れぬ日本」を感じて畏怖の念のようなものを覚えてしまいます。もっともらしい説明やら安易なレッテル貼りやらをして安心したような顔をできる人々が羨ましいです。

"Refugees, Abductees, “Returnees”: Human Rights in Japan-North Korea Relations" by Tessa Maurice Suzuki[Japan Focus]

北朝鮮の難民の扱いをどうすべきかについてのテッサ・モーリス・スズキ氏の記事。救う会や守る会や現代コリア研究所の活動を「人権ナショナリズム」とレッテル貼りをした上で「普遍主義的な人権」の観点に立って救済すべきであると説いています。確かによく調べていますし、記述に多少のニュアンスもありますが、私は右派だろうが左派だろうが実際に汗をかいて真面目に人助けをしている人には基本的には敬意を持つし、勿論意味はあるとは思いますが、論文を生産したりしているだけの人にはそれよりはだいぶ低い敬意しか持たないです。三浦小太郎氏の評価については(コレです)、政治思想的には多文化主義対統合主義の変奏なのでしょう。エマニュエル・トッド氏の「開かれた同化主義」の概念は確かにフランス的偏りがあるとは思いますが、それなりに練られた概念なので感情的に反応すべきではないと思います。コストの観点からの批判はあるでしょうけれどもね。また歴史は飛躍をなさず、日本の多文化共生派についても氏は大いなる見込み違いをしていると思います。ところでJapan's cultural uniquenessなんて言い方をしていないように思えるのですが、いつもの藁人形議論ですか。まさか英語はよくて日本語は駄目なんて言わないですよね。また「国家の保護」的発想を批判していますが、悪しきNGO主義といいますか、細部に批判はあっても現実には政府の保護なくして人権が保障されることはないと思いますけれども。この論点は氏の国家安全保障的発想批判にもつながるのかもしれませんが、極東の戦略的環境についての認識が根本的に甘過ぎると思います。夢を見ることは人間の自由に属しますが、それがあまりにも非現実的な時には、悪夢に転じるかもしれないことは肝に銘じるべきではないでしょうか。最後に氏の言説の動機に触れている部分

The problem for those who take this view, though, is that it is very difficult to promote engagement with North Korea while also publicly condemning that country’s human rights violations, and it therefore becomes all too tempting to ignore these violations or sweep them under the carpet. The task of identifying alternative responses to the North Korean human rights problem – responses not linked to a hawkish political agenda – is an urgent and difficult one. In the pages that follow, I shall use a critical analysis of some Japanese debates on North Korean human rights as a basis for considering some aspects of this problem.

抱擁政策を支持し、タカ派と自分を区別したいので、北朝鮮に対する人権侵害の批判は手控えよう、北朝鮮の人権問題を考えるオルタナティヴとして(なぜか)日本を批判しよう、というのは追い詰められた日本左翼の心情論理そのままじゃないでしょうかね。それに他人の疚しい良心を政治的に利用しようなんて下品で卑しい振る舞いだと思いますがね。ジャパン・フォーカスはそういう場所ですけれども。佐藤勝巳氏の言説を批判的に扱っていますが、私はだいぶ下ですけれどこの世代のアカの人々のことはある程度は知っているつもりなので痛いほど分かるところがあります。なぜ民社党系の人々なのかとかもですね。氏の「帰国事業」のナラティヴが見過ごしているポイントというのがあって氏は歴史に復讐されることになるのかもしれませんね。なお私は別に対北朝鮮強硬派ではありませんので。悪しからず。

ではでは。

追記

いささか攻撃的だったかなとも思いますが、鈴木氏のアプローチには批判的なところがあるのですね。人権保障のあり方について意見を言うことそのものを批判している訳では勿論ないです。氏の持ち味である名もなき実存たちに寄せる思いや微細なものへの視線は評価できても、それがわりと単純な二項対立に基づいた性急な価値判断なり友敵理論に基づいた党派的主張なりに接続するところでちょっと待ってくださいな、となる訳です。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=pE-6vwW9et8

ディック・ミネ『ダイナ』(1934年昭和9年)

戦前巻き舌界の帝王と言えば、この方です。原曲は1925年のジャズのスタンダードで昭和9年のヒット曲。

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台湾の神様

"The Costs and Benefits of Japan's Nuclearization: An insight into the 1968/70 Internal Report" by Yuri Kase[pdf]

佐藤政権で日本の核武装の可能性が政府からの依頼で有識者によって検討された話は有名ですが、その際に提出された「68/70年リポート」について分析した論文。2001年に刊行された論文なので射程に入っているのは90年代までの議論です。先日亡くなられた永野陽之助氏もメンバーだった民間人からなる委員会では検討の結果、技術的には可能だが、政治的にはコストのほうが大きいという結論が出された訳ですが、このリポートを戦後の安全保障思潮や中国の核武装にともなう安全保障環境の変化といった同時代の文脈の中に位置づけています。個人的にはそれほど目新しい記述はないかなという感想でしたが、議論は明晰で英文で書かれた意味は十分にあると思います。関心を引いたのは佐藤政権の非核三原則とこのリポートの関係の部分ですかね。国会での首相発言を引用すると、

If the other fellow has nuclear weapons, it is only common sense to have them oneself. The Japanese public is not ready for this, but would have to be educated... Nuclear weapons are less costly than is generally assumed, and the Japanese scientific and industrial level is fully up to producing them.

というように親核武装的スタンスだった点が指摘されています。また有名な核政策の4つの柱にしても、自民党のリポートでは、優先順位として(1)核の平和的利用(2)核軍縮(3)米国の核の傘への依存の順番で、最後に「日本の国防が前記の三政策によって保証されている環境の下では」という条件つきで非核三原則が記述されている、従って核武装の可能性についての委員会が準備されたのもなんら不思議はないとしています。考えてみると核政策については歴代政権はかなり慎重かつ着実に事を進めたもんだなと感心させられます。政治的にはけっこう高いハードルだった訳でしょうしね。また個々の政策担当者の努力といった話だけでなくそこになにか集合的な意志のようなもの-分かりやすいところでは『鉄腕アトム』とか『ゴジラ』といった大衆的想像力の系譜が思い浮かびますが-を感じずにはいられません。ちなみに一部で話題になっている朝日社説には心底萎えてしまったことをここに記しておきます。私には同新聞の論調を揶揄する趣味はないのですが、想像力と認識が冷戦時代のままで根本的にずれていると思いますね。

"Formosa's First Nations and the Japanese: from colonial rule to postcolonial resistance" by Scott Simon[Japan Focus]

台湾の太魯閣(Taroko)族の集団的、個人的アイデンティティーにとって日本統治時代の記憶が意味するところを扱った論考。ジャパン・フォーカスにもたまには読める記事がある訳ですが、この論考はよく調査され、よく書かれています。当地の政治的アイデンティティーに関して「本省人」「外省人」の分割線が決定的に重要であること、またその政治志向に相即的に日本統治時代の評価が分裂していることは誰もが知るところですが、ここでは「原住民」の例として太魯閣族の場合が検討されています。太魯閣の人々は現在でも日本語混じりの言語を使用しているが、それは日本語が近代的概念の運び手であったからである。日本統治時代の記憶は「本省人」のそれとも「外省人」とのそれとも違う。近代的なものをもたらした日本という肯定的イメージがある一方で、部族の風習(入れ墨にかかわる苦い記憶)を喪失した痛み、抑圧に対して果敢に蜂起した相手としての否定的イメージもある。しかし、全体としては「古きよき時代」として統治時代は喚起されることが多く、日本の悪口は言わない。靖国神社への抗議に出かけた「原住民」を代表するとする議員には冷淡である。日本への勇敢な蜂起の記憶は現在の台湾社会内部の地位向上をめざした社会運動の基盤となっている云々。といった具合に日本統治時代は太魯閣族の生活様式を後戻り不能な形で根底的に変えた、イデオロギー的な歴史からは零れ落ちる記憶の層があり、その記憶は現在でも太魯閣の人々の集団的あるいは個人的な生にとって決定的な意味を持っているといった話です。善悪二元論的な認識から離れて歴史の複雑性をその幅と厚みのままに記述しようとする姿勢-原理的にそんなことが可能かといった問題は別にして、意志と企ての問題として-を評価したいと思いました。以前テレビで女性タレントさんが村を訪れるといった趣向の番組を見た記憶があるのですが、その時は日本式の教育を受けた高齢の方々が日本語を話すのだと思った訳ですが、どうもそうではないようですね。若い人の間でも「ありがとう」とか「何歳だ」とか「何時だ」とかいった表現が使われ、教会用語や計算や時間表現で日本語が日常的に使用されるそうです。対応する語彙がなかったということのようです。しかし、クリスチャンがkamisamaって言うんですねえ。

"The Inadvertence of Benedict Anderson: Engaging Imagined Communities" by Radhika Desai[Japan Focus]

こちらはベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』の新版発行に寄せた批判記事。個々の論点については既に多くの批判があるが、目的と議論とロジックの間の齟齬が問題だと言います。まずあれほどナショナリズムの重要性を語っていたアンダーソンが1990年代以降はグローバリゼーションが国民国家やナショナリズムを弱体化するといったたぐいの平板な現状認識にいつのまにか変化したのにこの点について新版での説明がないのはおかしいとしています。その通りです。

以下、批判になりますが、おおまかに言うと(1)本書の執筆動機、(2)先行理論との関係、(3)政治効果をそれぞれ対象にしています。(1)については中印紛争の際に左翼シンパだった著者がこれを従来のマルクス主義系の理論では説明できないと感じたことがこの本が書かれた目的であるとされるが、なぜ欧州の紛争は説明できてアジアの紛争は説明できないと思ったのかが問われるし、従来の緻密な議論を無視している。(2)偶像破壊者を気取ってマルクス主義とリベラリズムの破綻を宣告しているが、これは無根拠だったし、「文化」の位相に注目することで理論的隘路を乗り越えたというのも怪しい。ナショナリズムは「文化的」であるよりも「政治経済的」なものだからだ。批判的に継承したとするTom Nairnの理解も浅薄だ。下層階級の政治参加とナショナリズムの結びつきについての興味深い議論への著者の批判も弱い。Nairnの唯物論議論においてナショナリズムの根拠は18世紀以来の政治経済的発展の不均等性そのものにある-社会内部の不均等発展が階級の、地域的不均等発展がネーションの根拠-のであってナショナリズムが「文化的構築物」であるなどといった話は木を見て森を見ずの議論に過ぎない。またナショナリズム研究の「脱欧州化」のアジェンダについても著者が行ったのは最悪の形でのアメリカ化である。西洋のモデルに他の世界が従うといった話は第三世界のナショナリストの経験を軽視するものであり、モジュール、剽窃、模倣といった概念がこのために動員されているのだ。以下、アンダーソンの有名な概念が個々に批判されていますが、ここは省略します。

(3)政治効果については新自由主義が第三世界の独立の成果を根扱ぎにしようとしている最中にナショナリズムを脱政治化する結果となった。『想像の共同体』は偽りの破産宣告によって豊かな理論伝統を無にした。一番皮肉なのは、国民的階級的ラインによる進歩的政治が新自由主義に対抗すべきまさにその歴史的瞬間に第三世界のナショナリズムを西洋の構築物とすることで脱正統化し、これまでにないほどユーロセントリックなものにしたことだ。『想像の共同体』の人気の一部は新自由主義、グローバル化、帝国の産物であり、こうしたものは市場と資本主義の悪に対抗する国民的社会的試みと対立するのだ。最後に時事的なメッセージで締めくくっています。

As these come crashing down in the world-wide economic crisis which marks the end of the century’s first decade, as it becomes clear just how national the responses to the crisis have been despite decades of neoliberal and postmodern and postcolonial anti-state discourses, one hopes that those interested in nationalisms and nation-states will turn to the traditions of scholarship which have better illuminated the dynamics of nationalist and revolutionary change than has IC.

といった具合に用語からも分かるように筋金系左翼による軟弱系文化左翼批判といったおもむきの論考です。(1)(2)の理論的、実証的な論点の部分に関して言えば、私も、正直、『想像の共同体』のどこが凄いのかよく分からない-京都学派の「世界史の哲学」や戦後史学の「民族の世界史」のほうがある意味凄いような気がします-ですし、参考文献に挙げているのを見ると、ああ、またか、とげんなりすることがあります。しかしこの論文の書かれた動機はむろん(3)の政治的批判にある訳でしょう。リベラル左翼による国民国家批判、ナショナリズム批判はグローバル化なる美名の下での帝国の支配のお飾りに過ぎない、世界資本主義の暴政に対しては進歩的、革命的ナショナリズムで対抗せよ!ということのようです。しかし、まあ、文化左翼のみなさんは無害だからいいとして今後は筋金系左翼のみなさんを本気で相手にしなくてはいけない時代になるのですかねえ。だいぶ声が大きくなっている印象を受けます。ふう。歴史が反復しないことを祈ります。

"Japan’s Leadership Deficit" by Tobias Harris[Far Eastern Economic Review]

日本の政治家は駄目だという定評があるが、その原因を考えてみるというエッセー。原因論はいろいろあるがひとつは世襲に帰責する議論だ。しかし世襲議員がそうでない議員よりも悪いのかどうかはそれほど明らかではない。指導力を発揮した小泉は世襲議員であるし、戦後もっとも不人気だった森は非世襲議員である。指導力不足に関するAurelia George Mulganの議論によれば日本が強いリーダーを欠いているのは文化でもパーソナリティーでもなく制度デザインによるものだという。日本の首相と内閣の力は他の議会制の国と違って官僚や政府外の与党議員などのライヴァルとたたかう必要があるために制限されているのだと。

こうした制約に加えて一般的な制約もある。政治的コミュニケーションの技術を身に付けた首相候補の少なさだ。この点で小泉は例外で多くの年長の政治家には現代のメディア環境でコミュニケートする技術がない。再選されるかどうかはコミュニケーション技術を通じて選挙民を動員したり、公衆にメッセージを送ったりするよりも選挙運動をファイナンスする資金を集める能力にかかっているからだ。若い政治家は違うが、首相候補にはまだ遠い。近代史を通じて日本の政治家はその密室政治や与党内部、官僚、野党との調整能力で名高い。欧米の政治家とは似ていないように見えるが、少なくとも戦後の数人の首相は有能な指導者であった。

現在、あまりに多くの危機に直面して麻痺している状態であり、仮に民主党政権ができたとしても同じようになるのではないかと懐疑的になるのは当然だ。しかし民主党政権が変えることができるのは制度的制約だ。民主党は自民党の失敗を観察し、内閣とサブ内閣ポストを増員する案を練ってきた。この案は省庁に対する内閣のコントロールを強化し、民主党内部の潜在的ライヴァル関係を政府に持ち込むだろう。民主党はこうしたプログラムの実施に失敗するかもしれない。日本の問題は退廃した政治家にあるのではなく機能不全の制度にある。民主主義においては政治家の不足というものはないが、いい制度というものを手に入れるのはもっと困難なのだ。

以上、日本の政治家に指導力がないのは個々の政治家の問題ではなく制度の問題であるという考えです。ここでいう制度は慣習も含んだ広い意味合いでしょう。基本的にはその通りだろうと思います。コンセンサス政治の伝統に加えて自民党の尋常でない長期政権が現在の疲弊をもたらしている点についてはわざわざ想起するまでもないでしょう。党組織の現代化を怠ったことも政党政治の停滞の原因として批判されるべきでしょう。ただ最後の民主党の部分ですが、反官僚を掲げて真正面から敵対しようとしている(ように見える)点についてはどうなんだろうなと前から思っています。それが上手いやり方なのか、もっと賢いやり方があるのではないかと。政権交代が定期的に起こるようになればそれだけで政官関係はずいぶん変わると思うのですけれどもね。あるいは小沢氏は熾烈な闘争をするつもりになっているのかもしれませんが、内外の情勢がそれを許すのかどうか不安になりますね。まあどうなるんだかもはやよく分かりませんけれども。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=Pbu9tpq699g

水原弘『黒い花びら』(1959年昭和34年)

昨今の昭和30年代懐古にはいささかうんざりさせられますが、おミズの歌は少しずれていて当時の世相に収まらないものあるように思います。

追記

微修正しました(2009/3/24)

ところで大先生がまたジャパン・タイムズ上で警察・司法陰謀論を展開しています。空さんが反論されていますが(ありがとうございます)、ジョンソン教授のリファーの部分には思わず笑いました。こういう自爆の仕方が先生の先生たる所以です。しかし、こんないい加減な記事を掲載する新聞ってなんなんでしょう。この新聞にはファクチュアル・チェックという概念は存在しないのでしょうかね。これだから学級新聞レベルだと嘲笑されるんです。論調についてはお好きにどうぞですが、最低限、事実だけは正確にしてください。

再追記

空さんのリンクを間違えていましたので修正しました(2009/3/26)

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NATO軍事機構への完全復帰をめぐる論争(4)

ずっとこの話題に関連するニュースを追っていた訳ですが、各人各様の反応でいろいろなものが炙り出されてなかなか面白いものがありました。サルコジ大統領が議会多数により不信任動議を否決して完全復帰を決めたようですが、メモしておきます。以前のエントリで世論は賛成反対で多分拮抗しているだろうと書いたのですが、最新の調査では賛成派の方が多数でした。58%が賛成で反対は37%、意見なしが5%ということでけっこうな差がつきましたね。ところが政界や言論界での討議は相変わらず止まないようでした。

賛成派のカトルメール氏のポストから引くと、

当時は[註:1966年]社会主義者とキリスト教民主主義者(Modemの先祖)が君主ド・ゴールの振る舞いに対して不信任動議を提出したものだが、彼らは今日では滑稽を怖れずに「フランス的例外」を護持するために「ゴーリストの遺産」を引き合いに出している。反帝国主義(オバマ効果は過ぎたようだ)で沸騰したありそうもない同盟の中には歴史的なゴーリスト、シラキアン[シラク派]、右派主権主義者、極右、社会主義者、共産主義者、ラディカル左翼、おまけにModemすら肩を並べているではないか!

ということでありそうもない同盟が成立していました。Modemのバイル氏の意見は既に紹介しましたが、社会党側からは、例えば、オブリ氏は「私たちは欧州にプライオリティーを与えたいのです。私たちは欧州防衛を重視します。米国に与するどんな理由もないのです。そのことはバラク・オバマと仲良くやっていくこと-それを望みますが-を妨げるものではありません」と述べていました。ジョスパン氏によれば、この動きは「米国の大人しい長女」-お隣さんのこと-となることを免れされた半世紀にわたる左右の「コンセンサスを破壊」するものであり、「私には自らを凡庸化する利益が分からない。私たちはもう少しオリジナルでありたい」と批判していました。ファビウス氏もコンセンサスの不在とフランスの凡庸化と欧州防衛の無意味化を嘆き、この動きを「誤り」と断じていました。最後にロワイヤル氏は、この決定は「西洋圏への退却」を意味し、フランスの独立を毀損し、冷戦思考への後退を促すものであり(ロシアとの対決をイメージしているのでしょう)、オバマのマルチラテラリズムに対しては追従ではなく独立で応じるのがよいと論じています。バイル氏もそうですが、自分たちは「西洋圏」のみに属しているのではないといった種類の普遍意識がある訳ですね。

与党UMPの中からもシラク派から反対の声が挙がっていました。イラク戦争の際の国連演説で有名になった、しかし国内政治ではけっこう優柔不断だったド・ヴィルパン氏が盛んに批判していましたが、このインタビューでは凡庸化に抗してフランスの特異性を守れと主張しています。特異性とは西と東、北と南の掛け橋の位置を占めることであり、対テロ戦争のロジックがもたらすブロック化の趨勢に反対することだ、シラク時代の試みは冷戦崩壊後の文脈の中でなされたものだが、その文脈は失効していると。また元首相のジュペ氏も批判に連なっていました。本人のブログによれば、ドグマではなく国益に従って考えなくてはならない。失敗に終わったが、シラク時代にNATOとの接近が試みられた際には米国と欧州の対等な関係を前提にしていた。その後大きな歴史的転換があった。出発点にあった条件、米国と欧州の対等性は満たされているのか。否。欧州防衛はまだ途上にある。推進派の議論は強いが、立ち止まって考えるべきだ。NATO内部の特殊性を放棄することにいかなる利点があるのか、同盟内で影響力が増大するというのは本当なのか、欧州諸国はどう反応するのか云々。ド・ヴィルパン氏やジュペ氏の活発な批判の背景に年来の主義主張ばかりでなく政局的な配慮を読むのは必ずしもシニカルという訳ではないでしょう。

一般にシラク派はゴーリストとされる訳ですが、あいつらは真のゴーリストではないというもっと理念的な人々もいます。主権主義陣営からは「立ち上がれ!共和国」のデュポン=エニャン氏の痛憤の叫びが聞こえてきました。「最も高くつく、最も破滅的な政策、それは小国であることだ」というド・ゴールの言葉を引用し、米国への従属の道の危険を訴えています。ブログで反対署名を集めたり活発です。またフランス運動のド・ヴィリエ子爵もまた熱烈に反対しています。自動的にフランス軍が参戦する可能性を防ぐこと、この原則は多極化する世界にあって死活的に重要だと。米国はよき友であるが、自分たちのイデオロギー的ヴィジョンを押し付ける傾向があり、この決定は対米追従につながる。フランスの国際的なイメージも変わってしまうだろうと。

修辞やアクセントには違いはあるのですが、反対派の論調に共通する要素として、フランスの独立と特異性(singularite)を守るべしというナショナルな理念、大西洋主義ではなく欧州の地域秩序の形成者たれという地域主義的な理念、さらには西洋主義ではなく諸文明の掛け橋となれといった普遍主義的な理念、これらの複合を見て取れることができるようです。またロシアとの「新冷戦」はなんとしても避けるべきだという地政学的な判断に共通性が見られるようですね。後者への懸念はよく分かりますが、ここまでのサルコジ政権の動きを見る限りは対ロシアでは反対者とはそれほど戦略的に違わないように思えますがね。極左や極右の意見は割愛しましたが、だいたいこんな論調のようです。

英語圏での受け止め方はおおむね好意的のようで、そこにはなにか放蕩息子の帰還を暖かい目で迎え入れる一家のようなおもむきが感じられます。またこの機会とばかり人類の教師のごとくBBCがフランスは暗黒の歴史との和解が必要だと説教しています。戦後のレジスタンス神話のことですが、マクミラン氏の言葉を引用すると

France, he said, had made peace with Germany, had forgiven Germany for the brutality of invasion and the humiliation of four years of occupation, but it could never - never - forgive the British and Americans for the liberation.

と英米への屈折した心理を指摘しています。ただ助けられたことばかりではなくてTimesの記事にあるこうした戦後の「屈辱的」な光景も背景にはある訳でしょうけれどもね。引用すると、

Younger French people may find it unimaginable but American forces were part of the landscape from 1944 to 1967, admired and envied, especially in the 29 base towns, where they cruised in exotic cars, lived luxuriously and taught local women to dance rock'n'roll. At Chateauroux 10 per cent of all marriages between 1951 and 1967 were between US servicemen and French women. The film star Gérard Depardieu has fond memories of a black American girlfriend of his teenage years.

もちろん戦略的な決定な訳ですが、NATO軍事機構離脱と米軍基地撤去にはパリをパリスと発音するような連中が我が国土を・・・という強い感情があったのでしょう。若い人たちには分からないだろうがと記事が言うようにもう歴史の中の出来事なんでしょうけれどもね、まあ和解ということでよかったんじゃないですか(棒読み)

追記

"Sarkozy's Power Play" by Judah Grunstein[Foreign Policy]

グルンスタイン氏のよくまとまった論評。批判者たちの言うのとは違ってサルコジ氏は米国に接近することそのものを目的にしている訳ではなくて親密な関係をツールのひとつとしてフランスの影響力の拡大のために利用しようとしているのだという見方ですね。パリをワシントンの衛星にしようとしているのではなくて強い欧州に増強されたフランスを追い求めているのだと。また一見行き当たりばったりの連続に見える外交に「ディールのロジック」を見出しています。

Yet if Sarkozy has been right on almost nothing, he has been prescient on almost everything, guided by the attention-seeker's instinctive flare for tomorrow's crisis today. (For instance, his decision to engage Syrian President Bashar al-Assad at the time of Lebanon's presidential impasse in January 2008 later paid off in access to crucial back channels during the Gaza war.) His logic is the logic of the deal, where both fault lines in opinion and emerging consensus create leverage points that maximize France's influence.

これは同時並行的にゲームを進行させているというゴールドハマー氏の見方に近いですね。最後は意味深に記事を締めくくっています。

France's return to the heart of NATO will certainly not spell the end of France's independence and autonomy, nor will it prove the alliance's undoing. But both will be changed, in ways that no one -- least of all Sarkozy -- can foresee. Rich in symbolism, profound in consequences, unpredictable in effect: The move is typical Sarkozy, for whom it is the deed, and not the outcome, that matters.

フランスの独立や自立を終焉させることも同盟の失敗を証明することにもならないだろう。しかしこの両者が誰も予測できない形で変化していくことになるだろうと。対米自立ということで単純に対立することが手数を増やす訳ではないということはひとつの教訓として覚えておいていいのでしょう。ド・ゴール外交も後半は行き詰まりましたし。もっとも一度対立した後だから言える話なのかもしれませんけれども。また具体論ではなくなんとか主義だ!と批判している人はなにも見ていないということでいいのでしょう。賭けの連続に付き合わされるのは不安な話でしょうがね。

ではでは。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=bMoY5rNBjwk&feature=player_embedded

クロード・フランソワ『コム・ダビチュード』(1968)

(HT to Charles Bremner)

誰もが知っているシナトラの曲のオリジナル。タイトルは「いつものように」の意。歌詞はまったく違っていて女心の歌です。

追記
微修正しました。それと女心の歌というよりも倦怠したカップルの歌ですね(2009・3・19)

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NATO軍事機構への完全復帰をめぐる論争(3)

予定通りサルコジ大統領がNATO軍事機構への完全復帰の宣言をしましたが、この決定をめぐってどんな国内の論調になっているのかを同時代的に記録することを目的にこのシリーズを続けておきます。

今回は社会党側ということでユベール・ヴェドリヌ氏の意見を紹介しておきます。ル・モンドに寄稿されたオピニオンです。氏はシラク大統領の下で外務大臣にもなった人物ですので外交安全保障関係にはもともと強い人です。実は社会党の声ということでセゴレヌ・ロワイヤル氏のル・モンド寄稿オピニオンも訳したのですが、こちらはとほほな感じでしたので見送ることにしました。理念は控え目に具体論で今回の決定に疑義を呈しています。

"Pourquoi il faut s'opposer à une France atlantiste" par Hubert Védrine[Le Monde]

サルコジ大統領はド・ゴール将軍が離脱を決定した33年[註43年の間違い]年後にフランスがNATO統合軍事機構に復帰することを望んでいる。彼はこのことを2007年夏に宣言したが、4月はじめには確認しようとしている。1966年には冷戦だったが、すべてが変わったのだとの説明がなされている。しかしこれは関係がない。疑問符がつけられるべきなのはNATOの存在そのものなのだ。

欧州の同盟諸国の声が同盟の中で聞き届けられるように、「段階的復讐」という新しい危険な核戦略を保証しないように、8年にわたってアメリカ側に実りなき要求をした後にド・ゴールはこの決定をなした。その後、右派も左派もすべての後継者たちはこの戦略的決定を尊重し、これはフランスの外交政策と国防の支柱となった。

この同盟内における特殊な立場はフランス世論の幅広いコンセンサスの対象となってきた。この立場は長い間アメリカにも認められたがゆえにフランスとNATOが協力のために実際的な調整手段を採用したり、多くの舞台において見られたように、フランスがその決定をなした際には関与することの妨げにならなかったのだ。

それではなぜこの断絶が必要なのか。この断絶が行き詰まった欧州防衛を打開し、「同盟を欧州化」することを同時に可能にし、我々はより大きな影響力を持つことになるのだ言われている。欧州防衛の具体化はフランスの下心への欧州のパートナーたちの不信と衝突しただけであり、彼らを安心させれば十分だといった話を果たして信じられるだろうか。欧州人は真の欧州防衛への希望の表明したことはなかったし、防衛により多くの信頼を与えることを望んでおらず、NATOとの重複を望んでいないのだ。

欧州人は非常にリスクのある責任を負うことを望んでいないし、「欧州防衛」のラベルの下で下請け的になされる周縁的ないし二義的な活動に自己限定している。古典的な責任の分担でいいのだと。彼らはペンタゴンを苛立たせることを望んでいない(ペンタゴンはコソヴォの際に同盟諸国間で相談する義務を嫌った)。

反フランスの不信なるものが口実でなかったとすれば、10年前にサン・マロのサミット後に[註:英仏のサン・マロ宣言]この不信は霧散し、PESD(欧州安全保障政策)を構想し、実現すべく自立的な参謀部が日の目を見ていたことだろうに・・・。我々の変化はなにも変えないと断言しよう。欧州防衛の進展は既に10ヶ月前に準備条件として提出されたが、次に並行的作業として、今や復帰の希望的結果として提出されている。明日には後悔として?それとも欺瞞として?欧州防衛は二足で-NATOとEU-進むというのは神秘のダユ[註:フランス、スイスにいるとされる伝説の生き物]を思わせる!

同様にNATOのヒエラルキーの内部でフランス人が重要なポストを獲得することで実現される同盟の欧州化が口実とされている。これはジャック・シラクが1995年から97年に試みて失敗を確認し、ジョスパン政府がこの試みを停止した。ノーフォークやリスボンでのそこそこ重要な司令権がフランスに与えらると言われる。しかし同盟内部の意思決定様式の抜本的な変化なしに-現在では望むべくもない-ペンタゴンの指示を受けたり、伝えたりする士官たちの国籍がなんだろうと重要な意味を持つだろうか。

ジョージ・ブッシュの下で構想されたこの復帰がカリスマ的なオバマの下で効力を発揮し、環大西洋的な現実が消滅するからというのではない。現在のアメリカの政権はより好ましいが、同盟についての別の概念を持っているのだろうか。それを示すものはなにもない。影響力が増大するという点については完全復帰により同盟内の一同盟国が内部から行使できたとかいう影響の事例を難なく挙げられるだろうに。この変化の最も熱烈な擁護者ですら明白な力関係を考慮して我が国の工業的利点を口実にはしていないことに注意しよう。軍人自身は作戦の利点と不都合に関して分かれるところだろう。

欧州化、同盟において欧州側の柱を創造すること、これはまた別の話となるだろう。同盟内で真の「欧州の集い」を創り出すということだ。アメリカ人と討議する前に、介入にいかなる地理的限定も定めないような同盟の拡大を継続することが理性的なのかどうか欧州内部で我々が検討すべきだろう(これは非常に深刻なテーマだ。第5条の関与は強制的なものである)。一貫性を欠いたミサイル防衛戦略の展開に弱い国々を参加させることは受け入れるべきなのだろうか。

こうしたことすべてに危険がある。これまで我々は決定においていかなる重みも持たなかった。もし欧州人がフランスの復帰によって同盟において発言権を獲得し、アフガニスタン、グルジア、ウクライナ、ミサイル防衛、戦略的軍縮、ロシア等についてワシントンとパートナーシップをもって決定できるならば、その通りだ、これは2つの柱を持つ新しい同盟となるだろう。フランスの為政者たちはこれほどの野心を持っているのだろうか。復帰した後にこうした革命のためにより多くの重みを持つのだと本気で彼らは信じているのだろうか。利点についてはそれゆえ不確実であり論争的なのだ。政治的不都合は明確だ。世界に向けてフランスの見直しのシグナルを送ることになる、これは脱落とそれに起因するリスクとともにそのように政治的に解釈されるだろう。これは象徴的なものに過ぎない、というのも実際には我々はもうほぼ完全に復帰しているのだから!と人は言う。

そう、その通り、これは象徴的なものだ、正常化の意志の象徴なのだ。一旦決定が実現されたならば、歯車効果であらゆる効果を発揮するだろう。この決定は、大西洋主義的であれ西洋主義的であれ、イデオロギー的な配慮に基づくものに思われる。西洋一家の中の「不正常」な状態に終止符を打てと。しかしフランスに別の事を望むことだってできる。まだそのことについて議論をすべき時なのだ。

以上、.NATO完全復帰による欧州防衛の進展は望むべくもない、NATOの改革なしではメリットは疑わしい、これは現実的な利害得失計算ではなく大西洋主義なり西洋主義なりのイデオロギー的な配慮に基づく決定ではないのか、よく考えてみよう、という主張です。別の可能性については具体的に提案していません。NATOと欧州防衛の兼ね合いの問題はもちろん最も重要な点ですが、フランスがNATOに完全復帰したところで進展しないだろうというのはおそらくその通りでしょうけれども、完全復帰しなくともあまり進展しそうにないとも言えますね。端的に言えば、どこまでコストを支払う気があるのかという話ですけれども、誰も喜んでは支払いたくない訳でしょうから。となると米仏で話を進めるというのも分かるような気がするのですけれどもね。まあ、正直、この問題、複雑過ぎて私には判断がつきませんです。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=mXuOo-He_-E

和田弘とマヒナスターズ&松尾和子『お座敷小唄』(1964年昭和39年)

スチール・ギターファンとしてははずせない一曲。なんとも能天気な曲調がいいです。東京オリンピックの年の大ヒット曲。

http://www.youtube.com/watch?v=NYCD-MQ-kIU&feature=related

奥村チヨ『お座敷小唄』

こちらは奥村チヨ版。こ、この艶っぽさは・・・。

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NATO軍事機構への完全復帰をめぐる論争(2)

前回はフランソワ・バイル氏の反対論のインタビューでしたが、今回は推進派のテルトレ氏のル・モンド寄稿記事です。氏は戦略研究財団のチーフ研究者ということです。反対論に対して逐一反論しつつ完全復帰のメリットを説いています。戦略系の人ということもあって論調に理念性は薄いですね。

"La France dans l'OTAN : le mauvais procès" par Bruno Tertrais[Le Monde]

NATO軍事機構への再統合によってまさにフランスがなそうとしている賭けについて自問することは不当なことではない。パリは欧州防衛の構築を通じて大西洋同盟を弱体化させようとしているのではと疑っている我々の同盟国との信頼を再建することを望んでいる。かくして我々は自らの善意を示し、NATOと補完的な欧州軍事計画を再始動するのによりよい立場に置かれるのだ。

NATOと欧州連合の一致が強くなっただけに議論は有意義である。今日では両者のメンバーは21ヶ国は下らない。しかしこれは弾が一発だけ込められた銃だ。カードは上手く使われないといけない。他方、我々の最良の士官が欧州の慎ましいポストよりもNATOの高官のほうに魅力を感じるのではないかと恐れられる可能性もある。そこでいくつかの問いを理解する必要がある。

しかし、我々は事実上アメリカの旗の下に身を置く事になるのではとか外交的駆引きの自由や独立権力としての我々のイメージを失うことになるではといった議論は根拠のあるものではない。我々はもはやアメリカの政策に反対できなくなるとかワシントンの対外的冒険への参加要請に反対できなくなるとか述べることにも意味がない。同盟内部の決定はコンセンサスによってなされるのであり、欧州の我々の同盟国は我々と同様にこの規則に従うのだ。各国は共通の作戦への軍事的貢献について主のままである。

復帰に反対する人々はしばしば本質的な点を忘れてしまう。すなわち、独自の核抑止能力をフランスが保持しているという点であり、この地位は復帰によっていかなる影響も受けないのだ。この能力によって我々は我々の生存が他者に依存しないと主張すること、それが正しい場合にはアメリカの政策を批判することができるのだ。こうしたラインの作り手は2003年のイラクへの米国の介入へのフランスの熱烈な反対には好意的ではなかった。しかし我々が抑止に与える戦略的独立性はこうした選択をすることを可能にするのだ(ドイツは作戦への参加を拒否したが、ワシントンへの活発な反対派のリーダーではなかっただろう)。

無視できないチャンス

時代を間違えるべきではない。ド・ゴール将軍は統合軍事機構からの脱退のみが我々の完全な主権の回復を可能にすると考えたが、それは1960年代にはフランスに米軍の強力なプレザンスがあったからなのだ。ところでワシントンにはフランス領土への軍隊の再配置を要求する意図も理由もないのだ。

大西洋同盟に復帰することで「西洋側」に閉じ込められるという感情を与えるリスクを冒すことになるのだといった話を聞くと当惑してしまう。この議論を進める人々は彼らのロジックの極限まで進み、NATO脱退を提案するべきだろう!しかし、とりわけ、この議論は政治的現実を勘定に入れていない。中東、アフリカ、アジア、南米で重要になるのは大西洋機構におけるフランスの地位ではなく対米政策と共通作戦への有効な参加なのだ。アフガンやパキスタンのイスラミスト運動のリーダーたちと関連してこの主題を取り上げた者は誰でもNATOの煩瑣な制度の話は彼らの理解を超えていることを知っている。彼らにとって重要なのはフランスがアフガニスタンでなにをするのか、フランスが米国の同盟国かどうか知ることだけなのだ。

それに大西洋同盟は西洋一家の排他的な代表たる野心を持たない。ワシントン条約(1949)には「西洋」にいかなる参照も含んでいない。そして同盟は西洋起源の共通価値によって互いに結ばれた諸国の一家を代表するが、例えばイスラーム世界とと対立するものではまったくない。トルコが57年間メンバーであることを想起すべきだろうか。それからNATOの3つの大規模な作戦―ボスニア、コソヴォ、アフガニスタン―が大部分ムスリムの人民に擁護され、支持されたことを想起すべきだろうか。

最後に復帰するがゆえに我々の声が小さくなると述べることは誤りに帰着する。大西洋同盟の内部で我々の声はむしろ大きくなるだろう。我々は国益を擁護するのによりよい位置に置かれることになるのだ。NATO軍事機構の中に多くのフランス人士官が入ることで防衛と安全保障に関して我々の概念がいっそう考慮されることが保証されるだろう。同盟が新たな戦略概念にまさに着手しようとしているその時にこうした作業においてフランスの重みが増大することは無視できないチャンスとなるだろう。

以上、フランスの独自性は失われないし、戦略的自立性は維持できる、西洋陣営に閉じ込められるというのは根拠のない危惧である、NATOの戦略構築への参加はフランスの声を反映させるチャンスである、という主張です。全般に合理的な意見であると思われますが、いくら言葉で否定してもNATOが西洋同盟として映るというパーセプション上の問題はあるでしょうね。それがいいことなのか悪いことなのかは別にして。

追記

「全般的に合理的」と書きましたが、「NATOと補完的な欧州防衛」のあり方がよく見えてこないので必ずしもすっきりした印象を与える訳ではないですね。

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政治的なもの、革命的なもの

"Le G20 devra être politique selon Henri Guaino"[Les Echoes]

via French Politics

サルコジ大統領のスピーチライターのアンリ・ゲノー氏については以前エントリしましたが、氏によればG20は「技術的なもの」ではなく「政治的なもの」になるだろうとのこと。氏によれば「問題は我々のいる、今日危機にある世界から別の世界、他の規則をもつ組織された別のモードへと抜け出すべく心性、精神を発展させることである。心性、思考様式に断絶がなければならない」とのことです。むう、精神革命ですか。また「問題はG20が本質的に政治的なものなのか技術的なものなのかを知ることである。政治を行うこと、それは全世界に理解可能で、すべてを変革し、責任をとれるような強力な決定を下すことである」と言います。技術的な決定は現状のシステムの微調整に過ぎず、現状の規則や理念を侵犯する能力は本質的に危機にある世界に属している技術屋どもにはないのだ、政治家にのみこの神聖なる侵犯能力があるのだ!と、いかにも「政治的なもの」の復興を掲げるゲノー氏らしい発言ですが、なにを決定するかが問題な訳ですよね、決定することそれ自体よりも、違いますかね。すでに波乱の気配の漂うG20ですが、席上でサルコジ氏は、はあ?みたいな演説をまたしそうで少し楽しみです。

"Pierre Lellouche nommé «Monsieur Afghanistan et Pakistan»"[Liberation]

少し前のニュースですが、UMPの議員で議会のNATO委員会委員長のピエール・ルルーシュ氏がアフガニスタン、パキスタンの特命大使に指名されたとのことです。2008年末にアフガニスタンへのフランス軍の関与とNATO戦略について評価する仕事をしたことがある安全保障の専門家で「アフガニスタンにおけるNATOの戦略は失敗しつつある。NATOはアフガニスタンで勝利できない」と述べたとのことです。記事は「我々はNATOの納税者の血税にファイナンスされた地上で初めてのアヘン国家をつくりあげることに成功した」という発言も引用しています。大西洋主義者で親米派とされるけっこう有名な人ですね。ホルブルック氏の相手としてはこの人以外いないような気がしますが、さて、どうなるんだか。

"La "gauche de la gauche" part en ordre dispersé aux élections européennes"[Le Monde]

先日「左翼党」を立ち上げたジャン・リュック・メランション氏とフランス共産党のマリ・ジョルジュ・ビュッフェ氏による3月8日の「左翼戦線」結成に関する記事。「市民的蜂起」を呼びかけたメランション氏ですが、「我々は6月7日の選挙をリスボン条約とサルコジの自由主義政策への二重の国民投票とする。人民は声を上げるだろう」とのこと。CGTシュミノのディディエ氏、映画監督のロベール・ゲディギアン氏、作家のジェラール・モルディヤ氏の演説に続いて最も成功を博したのが反資本主義新党青年部のリーダーのクリスティアン・ピケ氏であったということです。同党の同盟の拒絶の決定にもかかわらず一部が左翼戦線に合流したようです。数ヶ月前にオリヴィエ・ブザンスノ氏が同盟を拒んだ訳ですが、この会合の数時間前に同党の政治評議会が左翼戦線との「不一致」を表明し、「欧州の条約を拒絶するという根拠のみで結集することはラディカルな要請に満たない」と宣言したとのことです。ブザンスノ氏は候補に立つことを望んでいないが、党の選挙人リストを提出する予定であるとのこと。IFOP調査によれば極左の支持率は16%に達すると言われ、今後、極左政党間の競争は激しくなると予想されます。現在、反資本主義新党が9%、左翼戦線が4%、労働者の闘争党が3%の支持を受けているとされます。というわけで極左の通弊に違わず、いわゆる大同的見地に立った同盟はなく、互いに敵視し合っているようです。それはいいことなのでしょう。

"Le « Nouveau parti anticapitaliste » ou le retour vers un passé qui ne passe pas"[Coulisses de Bruxelles ]

極右が落ち着いたと思ったら今度は極左かよというのが正直なところですが、反資本主新党が10%近い支持率を獲得した事態を前にしてカトルメール氏が真面目に警告を発しています。大衆的人気ではサルコジ氏のライヴァルにまで祭り上げられているとっても感じのいい革命的郵便配達夫オリヴィエ・ブザンスノ氏ですが、彼がどれほど感じがよくとも反資本主義新党はレーニン主義的な革命政党であり、エコロジーやフェミニズムといった今風なアジェンダはこの点を覆い隠すものだ。ソ連や中国とは無関係だと言い張ったとしてもこれは1917年への回帰である。以下、同党の綱領を検討しています。

(1)欧州憲法、欧州中央銀行、OECD、IMF、世界銀行、WTO、NATOの否定。フランスの革命の後、全世界に反資本主義の波が及ぶとされる。

(2)民主主義の否定。左翼戦線を否定したようにいかなる妥協的連合もしない。「階級支配は改革の道によっては根絶できない」。暴力による革命も否定していないことになる。

(3)全体主義。生産手段の私的所有の否定、金融システム、サービス業に対する人民の支配。人民とは実際には国家でしかない。人民の善のための文化の革命。明瞭に語っていないが現在の政治的、法的秩序の打倒は論理必然的であり、反対意見に対して不寛容な体制になるだろう。

反資本主義新党に投票するとは社会党への抗議や社会党を左傾化させることを意味しない。反民主主義的、反欧州的な革命政党に投票すること、前世紀の亡霊たる共産主義に投票することを意味するのだ。といった具合に同党の危険性を警告しています。今時まさかと思われるかもしれませんが、綱領その他を読む限り、これまでの動きを見ている限りは、この人々は本気ですね。左翼戦線が成立しなかったことやブザンスノ氏個人の人気が必ずしも同党への人気につながらないという話を考えても、社会党不満層やエコな人々や極右支持層の一部も取り込んで今度の欧州議会選で躍進し、国際メディア的にも注目されることになるのかもしれません。もっともフランスおよび欧州政治の不安定の象徴となったとしても彼らの革命とやらが成就することはないでしょうが、日本でも勘違いした人々が騒いだりするのでしょうかねえ。

[本日の一曲]

佐藤千夜子『ゴンドラの唄』(1915年大正4年)

http://www.youtube.com/watch?v=hQp1RTjfiVU&feature=related

革命前のまだ浪漫的なロシア幻想ということで、ツルゲーネフ『その前夜』の劇中歌。この人の時に投げやりにも聞こえる歌い方はわりと壷です。

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連合って不便ですよね

あちらもこちらも騒々しいですが、おかげさまでごく平穏な日々です。そう言えば、この間、金銭を代償にして他人に髪を切らせました。少し寒いです。以下、欧州関連記事のクリップです。

"L'Union pour la Méditerranée subit un coup d'arrêt depuis la guerre de Gaza"[Le Monde]

地中海連合が「制度的に機能停止」している件についてのル・モンド記事。サルコジ大統領の肝いりでアラブと地中海の43カ国を集めるこの広域連合組織が華々しくスタートした件については以前エントリしましたが、半ば予想通りイスラエルのガザ侵攻を受けて頓挫している模様です。イスラエルと同席することをアラブ諸国が拒否しているために4月以降開催される予定だった会合の見通しが立っていないとのことです。例えば、エジプト政府が地中海連合の停止を公的に求めているとされます。エジプト人はアラブ諸国の中で複雑な位置に置かれている、地中海連合で重要な役割を果たすエジプトを守らないといけない、というフランス側のコメントが引用されています。またアルジェリアは「我々は連合のメンバーだが、連合は進捗しないだろう」という冷ややかな見解を示している模様、リビアは「地中海連合はイスラエルの爆弾によって殺された」と発言、シリアも停止の方向に動いているとされます。他方、欧州との関係を強化したいモロッコは連合の進展を望んでいるといいます。理事会のポストをめぐる角逐もあるようで、43カ国も集めれば、そりゃなかなかうまくいかないですよ。さっそく企画倒れの匂いが濃厚に漂ってきていますが、まあ長い目で観察することにします。

"France to send envoy to Iran for nuclear talks"[Haaretz]

フランス政府がジェラール・アルノー氏をイランに派遣したとハアレツが報じています。それでこのアルノー氏ですが、

The French official to be tapped by President Nicolas Sarkozy to meet with the Iranians is Gerard Araud, who holds the title of political and security director-general of the French foreign ministry. Araud has been France's point man in the six-power talks - which include the five permanent members of the Security Council plus Germany - with Iran. Two years ago, he concluded a stint as Paris' ambassador to Israel. Two weeks ago, Araud called on the U.S. to expedite the formulation of its policy of dialogue with Iran. Washington ought to take a "one-time shot" at talks with Iran, Araud said.[....]"The French do not anticipate any extraordinary results from this visit," the diplomatic source said. "But they want to take part in preparing the groundwork for dialogue between the West and Iran."

といった人物です。フランスの対イラン戦略についてオバマ政権との間で齟齬が見られることは前からハアレツが報じていました。さすがに敏感ですね。修辞のレベルでは時に挑発的に振舞ったりしていますが、基本路線にそれほど大きな変更はないように見えます。こうした動きそのものはごく合理的だと思いますが、勿論イスラエルからすれば不満でしょう。

"Sarozy's talent for reinvention"[BBC]

BBCの記者によるサルコジ大統領の印象論。私は内務大臣になる前から眺めてきましたが、あのキャラクター-今日の俺は昨日の俺と違うんだぜとでも言いたげな-は変わってないですね。ともかく由来の知れない異様なエネルギーはありますし、政治玄人の爺さん大統領に飽きた国民の多くがそうした徳を欲していたし、こうした劇的な展開を前にして今も欲しているということなんでしょう。記者さんの言う予測不能性に関しては、大統領本人よりも取り巻き達の方を見たほうがいいんじゃないでしょうかね。

"EU consensus to tackle crisis"[BBC]

日曜のブリュッセルの緊急EUサミットに関してフランスの保護主義的な動きに対する牽制と東欧救援要請の拒絶の二点についてまとめたBBCの記事。前者については、連合内に動揺をもたらしたサルコジ氏の自国の自動車産業保護の訴えが却下され、自由で公正な共通市場の維持が確認されたとのことです。発言を否定するサルコジ氏ですが、アメリカが保護主義に走ったら欧州もそうするだろうと嘯いているようです、それで後者が問題です。ハンガリーによる東欧経済救済要請が拒絶された訳ですが、メルケル首相の各国で事情が違うからという発言が引用されています。他方、バローゾ委員長は不良債権処理の枠組みに関する協定が結ばれた点や中東欧への資金援助がなされている点を強調したとのことです。具体的には以下、

He said 7bn euros of structural funds would go to the new member states his year, including 2.5bn for Poland. Another 8.5bn euros from the European Investment Bank would help small and medium-sized firms in the region this year, he said.

"EU Rejects a Rescue of Flatering East Europe"[WSJ]

こちらは東欧の救援要請拒否に関するWSJの記事です。概括的ですが、こちらのほうが少し情報量が多いです。今回のサミットを象徴するかのように引用されているハンガリー首相の「新しい鉄のカーテン」発言やユーロ圏の拡大の要請についても触れています。ポイントは中東欧と言っても一枚岩ではなく状況がましな国は救援を受けることでイメージが悪くなることを恐れているという点でしょうか。ポーランド首相の発言は以下、

"Our position is that we must differentiate between countries that are in difficulties and those that are not," Polish Finance Minister Jacek Rostowski said. Poland, which benefited from years of healthy economic growth, is in better shape that some of its more-indebted neighbors. But it has seen a substantial fall in the value of its currency as investors scramble out of the region.

これに対して西欧諸国は他のどこかから借りたらといった冷ややかな態度であったとしています。こちらも深刻な景況悪化に直面して新たに東欧救済の件で国民を説得するのは困難だと。動こうとしない欧州連合に代わってIMFや他の国際機関の役割が重要になるだろうとしています。おーい。以下、各国の状況について概観しています。ポイントはやはりドイツですが、記事では、

Most critical was the cold shoulder from Germany, which, as Europe's largest economy and the one with most access to borrowing, would play the largest role in financing any aid. Germany, the EU's strongest economy, is unwilling to unwind its own fiscal discipline to pay for the spending excesses of others. Admitting countries with weaker finances could hurt the strength of the euro or push up inflation across the euro zone.

と書かれています。あの頑固な財務大臣がちゃんと役割を果たすと述べたという報を読んだ記憶があるのですが、ぎりぎりまで踏みとどまるようです。まあ気持ちは判りますけれどもねえ。ともかく欧州の東と西の間の心理的距離はモーゼの海割りの跡のごとく広がっているようです。

南無南無。ではでは。

追記

半ばボケて書きましたが、景況も財政状況もばらつきがありますし、中東欧と言っても一枚岩ではない訳で必ずしもハンガリー案が正しいアプローチとは限らないように思えます。東と西の二元図式よりも状況はもう少し複雑なようです。メルケル氏を支持する訳ではないですが。

再追記

"Emergency eurozone aid signalled"[FT]

こちらはメディアの反響の大きさを見て火消しのために書かれたような記事ですね。アルムニア氏がユーロ圏で困難に陥った国には支援がある点を強調しています。またこのたびのハンガリー案却下については

At an EU summit on Sunday called to discuss the crisis, it was not the bloc’s western European countries but several central and eastern states that had spoken most loudly against a Hungarian proposal for a €180bn ($226bn, £161bn) financial aid plan for the region, Mr Almunia said. “When someone says, ‘Give me a plan for the region’, I say, ‘It’s not a question of a plan, but of analysis, of monitoring, case by case, problem by problem’.”

といった具合に西欧諸国でなく中東欧諸国のほうがハンガリー案に反対だったのだと主張しています。また先日のシュタインブリュック財務大臣のユーロ圏支援の発言も想起し、ドイツのエゴイズム批判に反論しています。欧州連合の外交官によれば救済の法的根拠は第100条の

This states that “where a member state is in difficulties or is seriously threatened with severe difficulties caused by natural disasters or exceptional occurrences beyond its control”, EU governments “may grant, under certain conditions, community financial assistance to the member state concerned”.

に基づくとされます。金融危機、経済危機はexceptional occurrences beyond its controlの文言に関わる訳ですね。最後に氏はユーロ圏の崩壊はあり得ないと断言されています。まあ、その確率そのものは低いだろうと思いますけれども・・・、当面は戦力の逐次投入を続ける他ないのでしょうかね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=7SwC-S2aR3M&NR=1

灰田勝彦『アルプスの牧場』(1951年/昭和26年)

この年齢でこの声はすごいと思います。

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政治的オーラ

"Commercial Appetite and Human Need: The Accidental and Fated Revival of Kobayashi Takiji's Cannery Ship" by Norma Field[JF]

小林多喜二の新書を刊行したばかりのフィールド氏が蟹工船ブームと昨今の反貧困運動について書いています。ブームを支える商業主義の論理を指摘しつつこれを求める社会的需要が現在の日本にはあるとしています。自分が研究した時にはなんでそんなこと調べているのといった白々しい空気だったのにねえという風に時代の変化への感慨を表明されています。この記事を読んでいて、個人的には日本の左翼やリベラルにはもっとしゃんとしてほしいものだとは思うのですけれども、世直しや人助けは彼らの占有物ではないのですよと言いたい気持ちにもなりました。ひとつだけ言うと、

If Japanese activists today, often securely middle-class, well educated, and middle-aged and older, who are dedicated to problems of historical consciousness, the former military comfort women or Article 9,have not seemed engaged by the antipoverty movement of the young, then the latter have not taken up the antiwar cause.  Given the limitations of time and resources, this is altogether understandable.  But in order to catch up with the consciousness of Takiji and his comrades of the late 1920s and early 30s, in order, therefore, to be adequate to the demands of the present, it is necessary to join the antipoverty and antiwar struggles. That entails overcoming the sectarian residues from the 1960s and 70s as well as generational divides.

この点はどうなのかなと思いました。個人的には昔の戦争の話や護憲の話はどうぞご自由にといった程度ですが、飯食わせろとか住むところくれの切実さには共感的になれるかもしれないといった感じですかね。別にシニカルになっている訳ではないですが、運動のやり方や目標の掲げ方や言葉の使い方があんまり上手じゃないように見えます。一般論として民主主義の活性化にとっても必要だとは思うのですが、私はどうにも日本の社会運動のノリが苦手なんですよね。いえ、有意義なことをしている人達も感じのいい人達もいるとは思うのですけれどもね。

""La Puissance ou l'influence ?", de Maurice Vaïsse : cinquante ans de diplomatie française"[Le Monde]

フランスの高名な外交史家のモーリス・ヴァイス氏の新著の紹介記事。ここ50年のフランス外交を扱った大著のようです。現在ではド・ゴール時代には考えられなかったようなアフガニスタンへの派兵やNATO統合軍事機構への完全復帰といった新しい展開を迎えている。無論フランスが並のミドル・パワーといった地位に満足できるはずもなく、絶えず世界的な影響力の拡大を目指している。本書はこれは今に始まった話ではないということを権力に関する派手な言説と現実の受け入れの間の逡巡を軸に辿っているようです。またこの紹介によれば本書は個々の外交官へのオマージュであるといいます。いつか読むかもしれません。ちなみに「戦後フランス外交」という時、「将軍」のこの隠し立てのない言葉を想起することがあります。

「私は劇場にいるのと同じである。私は信じるふりをしてきた。フランスが大国であるということを信じるふりをしてきたのである。それは永遠の幻想である」

それはたぶん幻想かもしれないのですが、それが事実ではないかもしれないことを痛苦とともに自覚し、それを信じているかのごとく振舞えない者は指導者たり得ないといった種類の国家を支える幻想になってきた訳です。多分、21世紀のフランス外交もまた簡単にこの幻想を諦めないでしょうね。

"Defending Kantorowicz"[The NewYork Review of Books]

"Kantorowicz. Juif et nazi?"[paris4philo]

カントロヴィチの「王の二つの身体」を再読してやはり傑作なんだろうなと思ったのですが、ついでに90年代初頭のカントロヴィチはナチなのか論争に関する記事をネットソースで読み直しました。簡単に説明しておくと、カントロヴィチはナチス政権ができた後に米国に亡命した20世紀を代表するユダヤ系ドイツ人中世史家で政治神学研究という副題を持つ「王の二つの身体」は近代国家の誕生を王権の観念や儀礼を通じて分析した代表作です。王には二つの身体がある、自然的身体と政治的身体である、前者はもろく束の間のものに過ぎないが、後者は永遠のものであり、王国の政治的秩序の永続性を表象する、王の政治的身体の観念の発達が近代的で公権的な観念を生み出すことになるのだ、といった内容です。日本語訳は文庫化もされてますのでおすすめしておきます。

でこの人は亡命ユダヤ人であるにもかかわらず、ナチ的だと糾弾されたのですね。いわゆる同化ユダヤ人で戦間期にはドイツの保守革命に近い位置にいて「フリードリヒ2世」という問題作を発表し、ヒトラー登場の際には一時的に共感したという「判断ミス」をした、またシュラムというこちらはナチべったりになった中世史家がいてこの人の王権儀礼研究と重なる部分が大きい点でナチ的だと。この論争、判断ミスぐらい人間なんだからするでしょう、それを認めないならば知的誠実性の観点から批判されても当然でしょうけれども、かなり早い時点で危険を見抜いた訳ですよね、政治的に責任ある立場に置かれていた訳でもないしょうし、なにか生産性のある論争なんですか、ぐらいの感想をもつ「甘い」人間なせいかピンとこない部分もあるのですが、ワイマール時代のあのなんだか判らない狂乱じみた空気には気になるところがあってあれこれ読みふけってしまいました。で、これはドイツに限った話ではないです。知らん顔をしていますけれども、欧州は程度の差はあれどこも似たような空気が存在していた訳ですから。

"A Sacred Aura"[The New Republic]

ちなみにBHL氏がサルコジ大統領は世俗的過ぎて聖なる政治的身体が欠けているという批判だかなんだか判らない論評をしていますね。私にはあの大統領にボナパルティズムの伝統がちらほら見えるのですけれども、違いますかね。といいますか、こういう「教訓」を引き出すべき本なんでしょうかね、揶揄のつもりでしょうけれども、けっこう危険なことを語っているような気もしますね(笑

追記

"Japan's Beleaguered Leader to see Obama"by Blaine Harden[WaPo]

ニュースでHarden氏のこの記事がよく引用されてましたね。就任の際のNYTの狂気じみた社説に騒がずにこれで騒ぐのですか。うーん、どうってことない記事だと思うのですがね。Harden氏の記事ではまともな部類だと思いますけれども。「国家元首」とした誤りは修正されましたが、それ以外に大きな間違いや誇張もないように見えます。といいますか、全部日本のメディアの政治的waiwaiではないですか。みのさんがなぜかお怒りのようですが、朝ズバで今日のけしからん日本記事でもやったらどうですか。おそろしいことになりそうですね。

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グアドループのゼネスト

カリブ海のグアドループでゼネスト暴徒化、死傷者も[AFP]

不満の海外県支援に700億円=仏大統領、暴動沈静化狙う[時事通信]

しばらく前からフランス海外県のストの話が報じられていたのですが、ここ連日「海外危機」などという見出しでずいぶん騒がれていました。特にグアドループのゼネストが暴徒化し、治安部隊を投入したあたりはずいぶん緊迫した空気でした。死傷者も出てしまったようです。それでサルコジ大統領が沈静化を狙って海外県に援助を約束したというのがここまでの流れです。これで収束に向かうのかどうかは予断を許さない、ということになるのでしょうか。

報道によればこのたびのゼネストは物価上昇による生活の厳しさが原因とされますが、理由がいまひとつよく判りません。一般に観光や農業が主産業でパリからの補助に頼っている経済面での弱さが今回の危機で露呈したといったイメージで語られているのですが、少し前まで海外県で最高水準の成長率を達成していた記憶があるのですね。これは90年代のグアドループ経済に関するInseeのリポートですが、メディアの報じる援助頼りのイメージは修正すべきだとしています。ただ経済の近代化の進行の楽観的な記述とともに失業率の高さ、公的セクターの比重の高さ、生活コストの高さ、輸出の弱さ、観光の脆弱性といった問題点も指摘されています。またこちらは海外省のページの2007年の概観ですが、やはり楽観的な記述になっています。ユーロ使用にともなう問題があり、成長にともなうインフレ気味の経済で賃金水準が追いついていない状態にあって火がついたということなんでしょうかね。今回の危機の影響がどう及んでいるのかがよく見えないです。石油の供給がストップしたという話もありますが。政治的理由が大きいのかもしれません。

で個人的にはRue89のクレオール語に注目する記事が目に止まりました。それほどレベルの高い記事ではないですが、ニュースを見ていてなにを語っているのかさっぱり判らなかったので。以下要約です。ストを組織したLKPのメンバーはクレオール語で語っているが、演説の重要な側面が非クレオール語話者には理解できないように思える。それは演説者と公衆との言葉のやりとりだ。これはマーティン・ルーサー・キングの演説の例のように黒人文化の重要な側面だ。LKPのメンバーの演説はキングを参照している。聴衆は演説者を応援し、言葉を提供し、演説者は聴衆を挑発し、冗談を言い、叱り付ける。特に女性達がこうしたやり取りを行う。これは住民に根を下ろした運動である証拠だ。クレオール語は構造化された思考の担い手となったのだ。長い禁止の後にこの言語は感情のみを表現し、フランス語が思考を伝えると言われたが、徐々に政治表現の道具として鍛えられていたのであった。ニュアンスが重要だ。演説者は「組織される」ということを言うのに"poté métod"を好むが、この表現は団結や絆を意味する"lyannaj"を強調する。この"lyannaj"は敵を"fouté lyann"する、困難に陥れるという表現と結びつく。 "Nou an lyannaj" とは闘いでそして日常でもみな一緒だという意味になるが、この言葉は10日間の当地の滞在で感じられた感情だ。運動に敵対する側からは「クレオールで話し続けて彼はもうフランス語を話せないのだ」といった非難の言葉が聞かれた。ここに断層が走っているのだ。言語選択は断層の存在を示すもののひとつだ、ということです。この記事で書き手が言っている断層の意味が今ひとつ不明瞭なのですが、パリ寄りの島民とそうでもない島民との間で使用言語の選択に差があると言いたいのでしょうかね。フランス語も話すけれどストで日常語を使用するというのは特に驚くべきことでもないような気がしますが、LKPが独立志向のスローガンを叫んだこともあって過敏になっているのかもしれませんね。

ワールド・ファンではないですが、島嶼音楽が好きみたいで当地の音楽はわりと聴いてます。伝統的なものではグウォ・カが有名です。街のダンサーがいいです。

http://www.youtube.com/watch?v=y6h1MJNchoQ

http://www.youtube.com/watch?v=P4pp0mYmKFs

http://www.youtube.com/watch?v=2sFqXviSEng&feature=related

ビギンとかズークとかいろいろあるのですが、最近ではレゲイのadmiral-Tが人気者みたいです。グウォ・カの伝統が入っていると言われます。

http://www.youtube.com/watch?v=lepyxp_0kwQ

http://www.youtube.com/watch?v=KWdUzaT2D6I&feature=related

ではでは。

追記

よく調べずに適当に書きましたが、経済成長にもかかわらず物価指数は弱インフレ程度で推移しているようです。直接の原因(のひとつ)とされる燃料費の高騰はどうも供給側の問題のようですね。最近の食料品の高騰についてはデータや分析が見当たりませんが、もともと高いと言われていますね。ユーロに加えて輸出入の構造にもなにか問題があるのでしょうか。植民地時代の白人子孫の地主層との人種対立に触れたガーディアンの社説はひとつの模範的な解釈です。確かにこの要素が不満の根源にあると思います。ただこのゼネストにおいて人種対立の要素の大きさをどこまで評価すべきなのかは正直判らないです。

再追記

これを人種対立と理解すべきか否かに関連してRue89に記事が掲載されましたので簡単に紹介しておきます。面倒な論点ですが、この解釈ゲームそのものが既に政治を構成してしまっているらしいので。以下忠実な訳ではありません。これは社会危機なのか人種危機なのかというリード文が内容を集約しています。

"Guadeloupe : Paris dit "statut", le LKP crie "faux débat""[Rue89]

LKPと政府とが交渉している案件は賃金を200ユーロ上げろといった具合に社会的な領域に属しており、この紛争の社会経済的根源は明瞭である。物価高、失業率、特に若者の失業率の高さ、中小企業の多さなどである。しかし別の側面が見え隠れしている。この危機は人種あるいは独立に関する危機なのだろうか。 "La Gwadloup sé tan nou, la Gwadloup a pa ta yo"(「グアドループはわれらのものだ。グアドループはあんたらのものじゃない」)というスローガンは、ベケ(beke 註:17世紀の白人奴隷主の子孫)に向けられているにせよ、メトロ(metro 註:メトロポリテーヌの略、帝国の中心の住民)に向けられているにせよ、社会的な断層と折り重なるアイデンティティー上の断層線を露呈している。ベケもメトロも白い肌の所有者である。LKPのリーダーのエリ・デモタは「奴隷制社会について語ることは肌の色とはなんの関係もない」と述べているのだけれども。しかし現地ではこの問題が存在しないなどはとうてい言えない。4月30日のCanal+のドキュメンタリーで放映された島でもっとも強力な産業家のあるベケが「人種の純粋」を求める一方で、デモタ自身が「黒人とインド系のグアドループ島民は借地人に過ぎないと感じている」と述べているのだ。

パトリック・ロゼスによれば、マルティニクに比べてグアドループでは混血の度合いが低いことが緊張の原因であり、グアドループ島民はアフリカへのルーツ意識がより強いとされる。歴史家のフランソワ・ドュルペールはもっと慎重だ。氏によれば、グアドループ人が特にracistな訳ではなく、小アンティル諸島は遠くにあるブルターニュという訳ではない。彼らは7000キロメートル離れたところに住むアメリカ人なのであり、ブルトン人やアルザス人の地域的要求とは異なるのだ、と言う。公的にはこの紛争は独立主義的な痕跡をとどめないが、ロゼスは厳格な社会的な解釈、あまりにも政治的に正し過ぎる解釈に疑問を呈する。LKP内部で低い声で表明されているのだが、独立主義的な主張が聞き取れると。そこにはフランス人との連帯の喪失があり、メトロポルもまたこの島の運命への関心を失っている。現地の役人は白人メトロで占められ、黒人の役人はC級の役職に追いやられている。

エリ・デモタは怒っている。LKPの代表の誰も独立を語っていないのに、運動の反対者達はわれわれを不安定にするために古い件を再び持ち出している。不満の真の大義を簒奪するための偽りの議論だ。じらして疲弊させるためにLKPが主張したことがない事柄で応答しようとしているのだ、と。.デモタの苛立ちはこの点でLKP内部の深い意見の不一致と関連している。独立の議論をもちだすことは40の運動の連合体であるこの運動の凝集性を弱めることになることを知っているのだ。デモタが昨年そのリーダーだった組合であるUGTGは1973年の創設以来「自決」を訴えている。ギアナの議員のクリスティアヌ・トビラは独立派がリーダーだとしてもLKPを独立運動とするのは誤りだと述べている。フランソワ・ドュルペールにとって意図の勘ぐりはまったくの「時代遅れ」だ。「彼らが市民性と手を切りたいのは彼らがグアドループの国や人民について語っているからではない。われわれはもう19世紀にいるのではない!アイデンティティーの問題を抱えているのはフランス全体なのだ。」

ということです。つまりフランス政府だけでなくLKPのほうもこれを人種の問題や独立の問題にしたくない一方、誰も単なる社会経済的問題だとは思っていないのでかくも運動の意図に敏感になっている、という状況のようです。これはこれで奇妙な状況のような気もするのですがね。市民性ってなんだろとか。

再々追記

"Le mouvement social en Guadeloupe justifié pour 78% des Français"[20minutes]

今回の社会運動に対する世論調査結果が出たようです。BVA pour Orange、レクスプレス、フランス・アンテルの共同調査によれば、78%のフランス国民がこの運動を正当とみなし、17%が正当ではないと考え、5%が意見なしとのこと。また右派の67%、左派の89%、どちらでもないの68%が共感的だとされます。BVAのアナリストによれば、この数値はさまざまな社会運動に関する調査の開始以来最も高い、またアンティルに固有の問題ばかりでなく一般的に社会的抗議に対するメトロポルの受容の高さを示しているとのことです。どうやら危惧し、深読みしているのは一部のインテリだけでこの件は分断を深めずに一定の収束の方向に向かうのかもしれません。

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テマルですか

フランス領ポリネシアでまたしても政権交代があり、オスカー・テマル氏が大統領に返り咲いたようです。なんだか訳が判らない展開ですが、個人的に目が離せないのでメモしておきます。

"French Polynesia elects president"[BBC]

パリの肝いりの中華系のガストン・トン・サン大統領が不信任決議の動きを受けて辞任し、選挙の結果、オスカー・テマル氏が大統領に選出されたということです。テマル氏は独立派の英雄的な人物ですが、ここ5年ほどで4度目の大統領就任とされます。簡単に振り返ると自治派のガストン・フロス氏の政権が20年ほど続いた後に、2004年にこれが破られ、その後、7回も政権交代が起こり、非常に不安定な状況が続いています。なお慣例に従ってpresidentを「大統領」と訳してますが、独立国家ではありません。それでパリとの距離をめぐって自治派と独立派の角逐があった訳ですね。ちなみにこれは2004年のテマル氏が大統領に就任した際のビデオです。http://www.youtube.com/watch?v=xEe-KMbPQZM

"Oscar Temaru élu à une large majorité président de la Polynésie"[Le Point]

それで今回の選挙では自治派がテマル氏の支持に回ったことが勝因であったとされます。この30年来の宿敵であるテマル氏とフロス氏の同盟は両者によれば「ポリネシア人がもはやパリから操作されることを望まず、自分達の運命を自分達の手に掴むことを決めた印」であるといいます。ポリネシア経済も世界的な危機の影響を受けて観光業が低迷している模様で、テマル氏は演説で一致団結して経済危機を乗り越える必要性を訴えたとのことです。これから議会の議長の選出と組閣、副大統領の選出がなされる予定になっているようです。

独立派と自治派と言いますが、両者の距離は徐々に縮まってきているとされます。テマル氏も性急に独立宣言をしないことを誓い、漸進主義的な独立路線に転換し、フロス氏もより高度な自治を目指す方向に転じているとされます。両者は政治的には宿敵ですが、私的には親友でもあるといわれていて、今回の選挙で両者が同盟し、テマル氏が2004以来初めて絶対多数を握ったのは大きな流れから見るとそれほど不自然にも思えません。前回の大統領選挙でトン・サン氏に対して両者が手を握った際には「不自然な同盟」などと言われていましたけれども。

"Une élection sans enthousiasme : réactions"[Tahitipresse]

地元紙の報道を見ると、今回の選挙は盛り上がりに欠けていたとされますが、インタビューなどを見ると、とりあえず絶対多数の安定政権が誕生したことを進歩と見たいと考えている人が多いのかなという印象を受けました。熱狂の欠如がなにに起因するのかの解説はありませんが、普通に考えて政権交代の頻繁さへの飽きと経済の低迷が最大の原因と考えてよさそうに思えます。

さて、親仏派のトン・サン氏の政権が倒れたことでパリとの関係が今後の焦点になってきそうです。フロス氏にせよテマル氏にせよ中央政府からはあまり好かれてはいない人物ですので。差し迫った経済の問題もあるのであまり激しく対立もできないでしょうねえ。ともかくこの政権で安定した統治が実現されるといいです。政情の不安定が経済に打撃を与えてきたと言われますから、まずそこからでしょうね。

それでは。

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滞っているようで

うーむ、国会はなにをやっているのでしょうねえ。前からそうですが、テレビのニュースを見るのがひどく苦痛なのですが・・・

パキスタン支援国会合、日米外相会談で提案へ[朝日]

数日前から報じられていたパキスタン支援国会合の件ですが、日米外相会談で提案される見通しのようです。パキスタンの支援策を主導するというのはよさそうな話ですが、ただ最近のパキスタン関連のニュースを見ているとかなり暗澹たる気持ちになりますね。震源地にならないことを願うばかりです。

それからクリントン国務長官が最初の外遊先に日本を選んだ件ですが、ジャパン・ハンズがいろいろ憶測していましたね。しばらく前から吹っ切れてある意味清々しくなりつつあるObserving Japanはこれを端的に誤りだとしていますが、残念でしたねえ。一言だけコメントすると確かに池田信夫氏は面白いですが、独自路線の方なので毒に当たらないように読まないといけないと思います。ともかくオバマ政権では当面東アジア政策に大きな変更はなさそうです。米中が経済対話で喧喧諤諤やっているこの凪を利用していろいろ手を打つべきだと思うのですが、相変わらず腰が重いです。ふう。

集団的自衛権行使 日米同盟堅持の証し[岡崎研究所]

岡崎氏が集団的自衛権行使に関する憲法解釈の変更を求めています。氏の従来からの主張ですが、手続き論の部分が気になりました。特命委員会の答申を受けて政府が新たな解釈を闡明して、政府答弁を修正、それから関係法令を改正していくという手続きを想定していた。しかし、

最近村田良平元外務次官の論を読んでハタと感じるところがあった。「委員会を設けたこと自体不要であり、不見識とすら感じた。(中略)総理大臣として責任において、日本は集団的自衛権は保有している、しかしその行使は慎重であるべきであり、最終的には総理大臣たる自分が判断すると述べ、もし法制局長官が異議を唱えれば、辞任を求めるべきだ。憲法上日本の総理はその権限を持っている」と。

ということです。そもそも内閣法制局に憲法を解釈する最終的な権限はない訳です。それがこれほどまで権威が与えられたのは55年体制下で安保に関して社会党対策を法制局に任せてきた政府与党の無責任-勿論野党やメディアのほうがはるかに無責任だった訳ですが-によると理解しているのですが、それでいいのでしょうかね。違憲審査に持ち込まれた場合にも最高裁は合憲と判断するだろうと氏は予測しています。要するに首相の決断次第な訳ですね。その際、個別的と集団的の区別をしない自衛権を主張する民主党はどのように反応するのでしょう。「自立性を高めるために」も必要なことだと思うので早いところ決着をつけてバトンタッチしてもらいたいのですが、そんな様子もないですね。

"North Korea may test-fire missile toward Japan: reports"[Reuters]

結局、テポドン祭りにでも便乗するしかないのでしょうかね。交渉に前向きとの報もありましたが、将軍様におかれましては日本の世論対策のために国威発揚の方面しっかりお願い申し上げます。いえ、つまらぬ冗談です。この問題に入り込まない形で同盟国としてできることをやっていくということなんでしょう。ふう。

首相、領土問題最終解決へ交渉 改めて表明[産経]

18日に予定されているサハリンでの首脳会談に向けて北方領土返還要求全国大会で麻生首相が挨拶をした模様です。そう言えば、テレビでも公共広告を流してましたね。記事によれば、エネルギー価格の下落を受けてロシアが擦り寄ってきているように見えるこの間に最終解決に向けて交渉を進めたいと考えているとのことです。関連してガズプロムのLNG供給に関するもありました。ただそういう雰囲気でもないような気もするのですがね。キルギスの基地閉鎖のもあったばかりですし。長いことロシアとの関係は強化したほうがいいと思っているのですが、進展はあるのでしょうか。

政府紙幣 悪循環からの脱出に期待[産経]

しばらく前から日銀批判を始めていた産経新聞の経済論調の変化に注目していましたが、これはおおっとなりました。この辺の発想の柔軟性が産経のいいところです。右翼新聞などと英語圏ではいつも揶揄されてますが、こういう顔もあるんですよー、どういう背景になっているのかは知りませんけれどもね。日銀が十分な緩和をする気がないならば、政府紙幣も考慮せねばなるまいと主張しています。日銀が素直にうんと言う場面を想像しがたい以上、こういう案が出てくるのは特に不思議ではないと思うのですが、「対案なしで」無下に否定する声が大きいようなのにむしろ違和感を覚えます。個人的には積極的に政府紙幣を支持しませんが、牽制球になるのでしょうからその方面におきましては大声で議論を続けるべきだと思います。ただ、そうですね、万が一発行されるとしたら、私自身は「ウラシロ」是清紙幣を是非見たいです。いえ、つまらぬ冗談です。現行と同じデザインでしょうね。

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[B号五十円http://chigasakioows.cool.ne.jp/syouwa04.shtml より転載]

追記

JFが農水省を揶揄していますね。私もあまり農水省ファンではないんですけれどもね、ここってブログでしたっけ?クリティカルでありたいなら本気でやったらどうですか。ごく稀に読ませる記事がありますけれど、常連さんに本当の意味でクリティカルな知性はいないようですね。自らの根拠を揺さぶらないクリティックなんてその名に値しないです。気楽なもんですね。個人的には日本のいわゆる「良心的」な人々が利用されている光景ほどうんざりさせられるものはないんですよね。

再追記

言わずもがなのことですが、これはいわゆる「裏切り者」をめぐる問題系の話ではありません。私は不安な民族主義者ではないですし、政治的すれかっらしを別にすればいわゆる「良心的」な人々に対してさほど悪感情はないんですね。私には彼らは懐かしい人々です。英語圏に彼らの発言の場があることそのものは悪いことではないでしょう。私の嫌悪はそれが公平な第三者のような顔をした、その実、自らのアジェンダを抱えた人々に利用されるような構造にあります。つまりくだらない叩きと真率な自己批判のブレンドぶりが不快なんです。また特定イシューについて意見の多様性を誤表象しないように編集するのが公平な態度というものではないですか。公平なんて知るかというならばそう宣言すべきです。Alternative JapanとかLeftist Journal of Japanとでも名乗ったらどうです。ともかく今の状態は中途半端でミスリーディングです(←文意不明でしたので修正しました)。

ロシア関連の報道がどうも変だ[極東ブログ]

うーむ。なにかぎくしゃくした感じがあるのは確かですが、特定の勢力による横槍というのもありそうな話ですねえ。まあ、私にはとうてい判りませんけれども。

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アルジェリアのユダヤ人

極東におけるラテン歌謡の一愛好者にして国際ニュースオタクとしてはこのニュースをスルーする訳にはいかないような気がするのでクリップしておきます。

”Concert by pro-Israel singer scrapped in Mauritius”[AFP]

”Enrico Macias défile pour Israël, l'Ile Maurice le boycotte”[Liberation]

モーリシャスでのエンリコ・マシアスのコンサートがキャンセルされたというニュースです。先日のパリの親イスラエル・デモにマシアス氏が参加していたことが理由のようです。モーリシャス政府がガザでの「不均衡な戦力行使」ゆえに首都ポートルイスにおける氏の音楽活動にストップをかけることを告げたとのことですが、やや意外でした。というのも政治家やムスリムのグループが反対の声を挙げたようですが、外交的には親英仏的で宗教的にはヒンズー教が優勢な国というイメージがあったものですから。インド系が多数派の国ですよね、この島。また著名人とはいえ歌手の活動に政治家が口出しするのはよくないことだと思うのですけれども。主催者側は当日予想される混乱を避けるためとしています。当地においてそんなに物騒な空気が瀰漫しているのでしょうかね。

このアルジェリア生まれのユダヤ系フランス人歌手が、1960年代、70年代のフランス歌謡界に新鮮な異国情緒の息吹をもたらしたこと、日本でもけっこうヒットしたことはご記憶の方も多いでしょう。シャンソン好きなら知らぬ者はないという人です。エンリコの名に甘酸っぱい記憶を喚起される世代ではないのですが、私はこの人のいかにもオリエンタルな哀愁を帯びた歌や砂糖菓子みたいに甘ったるい歌詞の歌はわりと好きです。しかし日本では氏が「平和の歌手」と呼ばれ、国連大使として平和の唱導者の役割を積極的に果たしてきたことで国際的に著名である一方、熱心なイスラエル擁護者の顔を持つこと、ツァハル(イスラエル国軍)の勲章持ちである(レジオン・ドヌール持ちでもある)ことなどはあまり知られていないのかもしれません。第三次中東戦争、第四次中東戦争では応援歌を歌っています。批判者達からは「シオニスト」とラベルされることになるのでしょう。

エンリコ・マシアスというのは芸名で本名ガストン・グレナシア氏と言いますが、グレナシアというのはアラビア語起源の名前のようです。氏のルーツはスペインにあります。そういうタイトルの歌も歌っていますが、スペイン系ユダヤ人というのが氏のエスニック・アイデンティティーのようです。あの乾きと湿りけの独特な結合が魅力的なアンダルシアのアラブ(・ユダヤ)音楽という混交的音楽文化のルーツを持つ氏がイスラエルへの愛ゆえに郷愁と憧憬の母なる国アルジェリアへの帰還を果たせずにいることは、自らの政治的選択の結果であるとはいえ、悲劇と言っていいのでしょうね。マルフの音楽一家に生まれた氏にとってアラブ文化は自らの身体そのものである訳です。仏語にピエ・ノワール(黒い足)という言葉がありますが、彼らアルジェリアにおける欧州系の植民者とその師弟達の屈折を孕んだ望郷の念が氏の初期の歌には響いています。コンサートを熱望しているようですが、アルジェリア政府からイスラエル支持者であることを理由に入国を拒否されているようです。

政治的には左翼であり、少数派と異邦人の友であり、ユダヤとアラブの共生を訴える平和の使徒である氏のイスラエルへの入れ込みを政治的に批判するのは容易い訳ですが、こういう矛盾に引き裂かれた人に惹かれてしまう個人的な傾向性がどうもあるようです。善男善女の若い頃の苦く甘い記憶を召喚させる事のほうが人々の生活の実質への応援となるのであって、もうその年になってあまり政治に翻弄される姿は見たくないような気がすると言いたいような気持ちもありますが、尊敬される懐メロ歌手というポジションには収まれない星の下に生まれたと自身思い決めているということなのでしょう。以下のリンクは若い頃の氏ですが、アルジェリアの生まれた町のことを忘れてないと熱唱していますね。

http://jp.youtube.com/watch?v=54P8VPUwT38

なおこのエントリに特に結論はありません。それでは皆様もお元気で。

追記

自分で書いておいてなんですが、「砂糖菓子のように甘ったるい」という形容はお前はいつの時代の人間なんだという気がしてきますね。まあ、私は問答無用のあんこ至上主義者なんですけれども。

ついでにBHLがまたオピニオンを書いていますね。

”Les douteux « amis » du peuple palestinien”[Le Point]

今回の「パレスティナ人民の疑わしい友人達」という記事では欧州の反イスラエル・デモの批判をしています。第一に現実のパレスティナ人達のほうが穏健で、共生への意志を持ち、物事が白か黒かではないことを知り、ハマスのやり過ぎも自覚しているのに、想像上のパレスティナ人達を駆動する憎悪はなんだ。第二に和解と平和を考えなければならない時に憎悪を煽っている遠隔にいる者達の思考停止ぶりはなんだ。平和は二つの国家の並立と土地の共有によって実現されるのであり、極端主義と徹底主義の放棄が求められるのだ。イスラエルがヨルダン川西岸地区とガザ地区から撤退する際にパレスティナ人側がこれを利用してロケット弾の基地にしないようにしないといけない。これは無辜の民の犠牲者を出してしまった戦闘の停止によって、そしてハマスの政治的排除によって成し遂げられるのだ。第三にこの「ホロコースト」に反対して街頭に踊り出た者達はダルフールの時にチェチェンの時にボスニアの時に同じようにしたのか。イスラエルに対する時のみムスリムに加勢する人間達がいるではないか、とある種の人々のダブルスタンダードを批判しています。

前回のイスラエル政府のスポークスマンみたいな記事に比べると生彩がありますかね。この紛争で勧善懲悪的に一方のみを支持することが和解につながらないという点も、また二国家並立の形をつくるために極端主義者を排除しないといけないというのも正しいでしょう。長く険しい道のりですが、これしか現実的な解決の道はないように私にも思えます。ただレバノン戦争や今回の侵攻がこうした未来図の実現に資するものなのかどうかの判断は分かれるでしょう。また遠隔の地において極右や極左や宗教的極端派が煽動したり、動員をかけているのも事実のようですし、こうした恥知らずで有害な連中が批判されるべきなのは言うまでもないでしょう。ただ事態のどうにもならなさを理解した上でやはり人道的観点から批判される他ないと考える人間がいてそれで批判されている訳ですから、批判者の内の最低の部分を捉えてこれに代表させるというのはあまり公正ではないと思います。最後に、BHL氏自身ずいぶんダブスタを犯している点は指摘しておきます。ダブスタのまったくない人間なんてほとんどいないでしょうし、いても無害なだけでつまらないかもしれませんけれども、氏の場合、けっこう致命的なダブスタと現実認識の誤りがあったと思います。それとこの発達したメディア環境においては「私は見た」はもう通じないです。

再追記

”Le juif, coupable universel” par Pierre Jourde[Le Monde]

文芸評論家で作家のピエール・ジュルド氏のイスラエル批判への批判記事。この方は文芸業界や大学業界の内幕を暴露するような批評活動で知られる人ですが、ここで参戦するのはやや意外でした。ググってみたら郊外の反ユダヤ主義をテーマにした文章がありますね。ふーん。内容は上のレヴィ氏の記事とダブっていますが、こちらのほうがストレートですね。熱い調子でフランスにおけるイスラエル批判の偽善性を難じています。メディアに駆動された選択的共感、ダブルスタンダード、中東紛争の国内への持ち込みの奇妙さ、反ユダヤ主義的空気等々を指摘し、独裁国家に囲まれた自由民主主義国家イスラエルへの共感を表明しています。まあ、このたびもまたフランス社会の暗部を見せつけられたような感じでうんざりさせられていたのでこうした批判そのものはよく理解できます。ちなみになぜマグレブ系の移民子弟がダルフールではなくパレスチナに憤怒するのかというのは私にも興味深い問題です。人種も民族も違うのでいわゆる遠隔ナショナリズムの定義に収まらないですし、私の印象ではこの現象は宗教対立とも呼べないような気がします。誰か説明してください。で、この記事ですが、まあ趣旨は理解できます、でも、タイトルにあるようにユダヤ人を「普遍的な罪人」として聖化してしまうのはどうなんですかね、と思います。歴史の重みや問題の根深さは分かりますが、いつまでもこうした罪悪感を媒介とした関係に固執するのはあまり健全ではないですし、逆にいささか「均衡を欠いた」激しい憤怒を生み出す心理的土壌になっているとも思うのですがね。まあこうした歴史とは無関係な人間がどうこう言うのもなんですのでここは声のトーンを下げておきます。

”Israel a atteint l'essentiel de ses objectifs militaires"[Liberation]

こちらは軍事史家でツァハルを専門とするピエール・ラズー氏のインタビュー。まずこのたびの侵攻でイスラエルは軍事目標の重要な部分を攻撃することに成功したと評価しています。ハマスは保有するロケット弾の3分の2を失い、軍事的には大打撃を受けて停戦を受け入れざるを得なかった。またイスラエルはエジプトからのトンネルのおそらく80%を破壊し、停戦条件として国境ラインのコントロールの保証もアメリカ、欧州、エジプトから獲得した。最後にハマスの戦闘員500名、他のジハーディスト100名ほどを殺害し、130名の戦闘員を捕虜とした。最終的に1300名の死者が出たが、大部分は民間人であった。

次にイスラエル側の損失としては10名の兵士と3名の民間人、80名が負傷している。レバノン戦争とは異なり、今回はまったく戦車、戦闘機を失わなかった点が興味深い。洗練された対戦車、対空ミサイルをハマスが保有していない証拠だとのこと。次にこれは古典的な戦争への回帰であり、スターリングラード流のロード・ローラー戦略であるとしています。戦闘員が隠れている、あるは占拠されていると思しき建造物は組織的に破壊された。レバノン戦争とは異なって新たな戦闘能力、作戦能力を示すことができてツァハルは自信を回復しただろう。しかし無論ハマスはヒズボラではないので慢心はできない。最後にハマスは政治的に強化されることになったとしています。パレスティナ人の間に混乱はあるが、確かなのはファタハの信頼の失墜である。今後ハマスは西岸地区への浸透を進めるだろう。もし開かれた選挙を行ったならば、ハマスの勝利の可能性が高いと。

軍事の素人が言うのは躊躇われるのですが、ロケット発射能力を奪うことが目的にしては大規模に過ぎ、ハマスの解体を目指したにしては-軍事的にそれが可能なのかどうかは別にして-中途半端に見えてしまいます。どうも戦略目標が明確でないままに国内事情から始まったように見えるのも、またあまり意味のない仕方で大量の死傷者を出してしまったんじゃないかといった後味の悪さが残ってしまうのも目的手段関係のちぐはくな印象のせいなんでしょう。さらに記事の最後にあるように今回の侵攻が穏健派の凋落をもたらしてしまうのだとすれば、政治的観点からはどう理解すべきなのかよく判らなくなります。これは本当に望んだ事態なのでしょうかね。他の理解もあり得るのかもしれませんので特に固執するつもりはないのですが、とりあえずの印象を述べておくとこんな感じになります。

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重い空気

イスラエルによるガザ侵攻については日本語圏でも多くのブロガ-諸氏が精力的に記事翻訳をしたり意見表明をしているようですね。それほど情報をつぶさに追っている訳ではないのですが、今回の攻撃に関してイスラエル政府は国際世論の非難を避けられないでしょう。さすがにあの画像を見せられては無反応でいることは難しいという人は多いでしょう。また長期的にはこのたびの侵攻が同国の安全に資するとも思えない。とはいえこの地域の悲劇的状況を前にして現実解が見えない現状では無辜の民の死を悼む他には私に語るべき言葉はあまりないという思いもやってきます。なおイスラエルのことを考えると自動的に満州国をめぐる状況を連想してしまうのですが、この点に関連して岡崎氏の記事がありました。絶望的に厳しい地政学的条件という他ないのですが、こう言ったからといってイスラエルに対してより深い共感を抱いているという訳ではないです。どうもこの件についてはシビア過ぎて直接書く気が沸かないので、芸もなくフランスの反応について書いておきます。

外交に関して現サルコジ政権は伝統的な親アラブから親イスラエル的な方向に転換しているなどと批判派から叩かれていましたが、それは相対的な話であって本気で泥をかぶる覚悟はさらさらないでしょう。日本語圏でも大きく報じられたようにさっそく停戦に向けた交渉を行っていますし、今後も仲介役として欧州代表みたいな顔で登場するでしょうけれども、結局のところ、米国が動かないことにはどうにもならないでしょうし、米国としてもそこまでの本気度と余裕があるようには今のところは見えないですね。フランスは米国の出方を見ながら、これを補完するような役割を果たすことになるのでしょう。それで今は同国が関与しているレバノン情勢への波及をなによりも恐れているのではないでしょうか。シリアとの交渉もどうなるんだかあやしくなってきましたが、地中海連合の枠組みは果たして機能するのでしょうかね、といった感じです。以上、新聞をぼんやり眺めているだけの印象です。そのうちもう少しなにか書くかもしれません。

フランスが欧州随一のユダヤ人共同体とムスリム共同体を抱える国であることはご存知の方も多いでしょう。このことは中東情勢の不安定化がダイレクトに国内での社会不安を惹起することを意味します。インティファーダの頃からあちらでなにか起こるとこちらで事件が起こるといった具合に連動してしまう傾向です。またフランスと両共同体との関係にはそれぞれ歴史的経緯から複雑な感情的な要素があって、90年代を通じて高進した政治的正しさの風潮もあり、外部の目からするとなにか奇妙に感じられるような屈曲が公論に与えられることになりがちです。つまり偏っているとみなされるとあっちからこっちから叩かれる訳ですね。不用意な修辞を理由に訴訟沙汰になってしまったりする。あっちよりもこっちの方がメディアへの政治力があるとかいった話もありますけれども、だからと言ってメディアが親イスラエル的かというとそうではないです。このあたりは本当に複雑なので図式的な理解を避けるために言っておくとユダヤ系だからと言って皆がイスラエルの政策をそのまま支持している訳ではないですし、ムスリムが反ユダヤで凝り固まっているという訳でもないです。そうなったらいよいよ救いようがない話なのですが、そこまではいっていない。協同の可能性の領域は残されている。とはいえ例のごとく国内は緊張が高まっているようです。

”Actes antisémites : Nicolas Sarkozy condamne des "violences inadmissibles"”[Le Monde]

12日月曜にサルコジ大統領が国内での反ユダヤ主義的な行為を「許されざる暴力」として非難したという記事です。「わが国に相応しくない、そして21世紀に相応しくないこうした振る舞いの直接、間接の犠牲者に対して心よりの連帯」を表明し、その場に集まった「フランスの偉大なる諸宗教の代表者達に感謝し、祝福した」とのことですが、ユダヤ教とイスラームの指導者がフランスの一体性の護持を訴えかけた模様です。そう、こういう時は単一にして不可分なる共和国の国体を確認しなくてはなりません。これは日曜に9発のカクテル・モロトフがユダヤ人共同体センターやシナゴーグに投じられ、十数件の人種主義的な落書きが発見されたのを受けてなされた声明です。

”Deux lycéens agressés par des militants extrémistes pro-Israël”[Le Monde]

こちらは反対にマグレブ系の2人の高校生が親イスラエル的な極端派から暴力を振るわれた事件に関する記事です。1月8日の木曜にリセの前でLDJ(ユダヤ防衛連盟)という米国でもイスラエルでも活動を禁じられている組織の闘士によってビラの受け取りを拒否したマグレブ系の高校生が暴力行為を受けたということですが、反人種主義団体はLDJの活動を禁止することを求めているようです。なお大統領が反ユダヤ主義的行為の批判のみをすることに不満を抱いている層が一定数いるようです。今回に限ったことではなくてアンチ・セミティスムには極度に敏感なのにイスラモフォビアには甘過ぎるという印象を持つ人がいる訳ですね。そしてそれは無根拠だとは言えないと個人的には思いますが、これ以上はコメントしにくい領域になります。私はかの国に愛着を抱いている者ですが、このあたりになると結局他者だよなという感じになります。余計なコミットをする気にあんまりなれない。まあアジア系はそういう意味では心理的に気楽なポジションだったりします。

”Les synagogues de Lille et de Mulhouse dégradées”[Le Monde]

こちらは14日付けの記事ですが、上述のセーヌ・サン・ドニのシナゴーグへの攻撃に続いて、リールとミュルハウスのシナゴーグの壁面に反ユダヤ主義的な落書きが発見されたという記事です。また投石もなされた模様です。以上、ル・モンドから関連記事を拾いましたが、ガザへの作戦開始以来50件以上の類似行為がなされたとユダヤ系団体が公表しているようです(件数はソースによって違いがあるようです)。昨年は年間で270件ほどのようですから激増と言っていいのでしょう。なお今のところ犯人は捕まっていないようです。確認されていない以上は余計なスペキュレーションはすべきでないでしょう。

それからいつもは良くも悪くもあらゆる問題に関して口を挟む知識人達が妙に静かに感じられるのは別に驚くべきことではないでしょう。空気読みというのはなにも極東の島国の知識人達の専売特許ではないのです。それと反比例するかのごとくネットで一般人(といっても一部ですが)が大騒ぎしている光景もそうですね。露骨なヘイトスピーチを避けるぐらいのマナーというのか狡猾というのかは多くが維持しているようですが、それでもけっこう陰惨なことになっていますね。重苦しい空気に支配されているようですが、それでも声を挙げている勇気ある(?)人々もいますので紹介しておきますかね。

”Gaza, une riposte excessive ?, par André Glucksmann”[Le Monde]

グリュックスマン氏のこの寄稿ですが、ガザへの攻撃は均衡を欠いている(disproportionnée)という批判に反批判しようとしています。ファタハがハマスを批判するなど当事者の間でこれまでの徹底主義(jusqu'au-boutisme)から離れるという進歩が見られるのに、均衡を欠いている、っていったいハマスとどう均衡させよというのかと。中東和平は徹底主義と天使主義を捨てない限りは実現しないだろうとパスカルを引用して論じています。イスラエル側から見ればたとえ「均衡のとれた反撃」だとしても両者の非対称性ゆえに国際世論からの批判を受けるといった道義的泥沼状況だろうと思いますし、部外者が勧善懲悪的に一方に加担をすることが事態を改善しないばかりか悪化させる場合が往々にしてあるというのはあらゆる紛争に通じる真理を含んでいるとは思いますが、グリュックスマンさん、それをあなたが言うのですかという批判はあるでしょうね。あれだけチェチェン問題にコミットしていたあなたが、と。いえ、なんでもかんでも一緒くたにするつもりはないですが、そういう批判はできるでしょうという話です。個人的にはサルコジ政権への心酔と落胆を繰り返す近年の躁鬱的な言動を眺めてきて私はもはやこの方のことは半ば哀れむような心情になっているのですけれどもね。

"Libérer les Palestiniens du Hamas"[Le Point]

こちらは盟友のBHLの「ハマスからパレスティナ人を解放せよ」という記事。ガザの子供らのイメージに私自身衝撃を受けたが、いくつかの事実を確認しておきたい。第一にどんな政府であろうとも自国の都市へのロケット弾の攻撃を容赦しないだろう。驚くべきは「イスラエルの残酷」ではなく自制である。第二にハマスのロケット弾による死傷者はそれほど多くなくとも、イスラエルでは悪夢のような生活を強いられている。第三に多くの犠牲者が出ているが、これは意図的な「虐殺」ではない。逆にハマスが自分達の人民を攻撃にさらしているのだ。古典的な「人間の盾」戦術だ。第四にパレスティナ側は都市を、民間人を標的にしているが、イスラエル側は軍事施設を標的にしている。第五にイスラエル軍は民間人が避難できるように標的を通告し続けている。第六に封鎖によって前例なき人道危機が生じているというのは正確ではない。地上戦が始まるまで人道援助物資は通過できたし、今これを執筆している時点でイスラエルの病院はパレスティナ人の負傷者の介護をしている。ともかく戦闘終結を望む。コメンテーター達はイスラエルの誤りをまた発見するのだろうが、パレスティナ人の最大の敵はハマスである。ハマスの暗い支配から解放されなくてはならないのはイスラエルだけでなくパレスティナ人達である。といった具合にイスラエルを擁護していますが、だいたい予想の範囲の発言です。こちらはグルジアの時のあの嘘リポートで正体見たりですので(まあそのずっと前から信用していないのですけれど)、いや「祖国」を思う気持ちはいいですけれど、もう世界の紛争地に駆けつけて人道について語っても説得力はないのではないですかねと言いたくなります。言わなくとも判ると思いますが、グリュックスマン氏もレヴィ氏もユダヤ系の哲学者です。

"Librér les Palestiniens des mensonges de Bernard-Henri Lévy"[Le Monde dipomatique]

上の二つの文章を受けたアラン・グレシュ氏のディプロの批判記事。「ベルナール・アンリ・レヴィの嘘からパレスティナ人を解放せよ」というタイトルです。まだ議論するには声が足りないが、グリュックスマンとBHLの記事は典型的だ。そう、あらゆる嘘、誤った信念の典型だ。イスラエルの政策が野蛮人に対して自己防衛するためのものだという信念だ。以下BHLの記事に逐条的に反論する。第一点。イスラエルの「自制」については両者の死者数を比較すればいい。停戦合意の後にも空爆をしていたのはイスラエルだ。また40年の長い「自制」をしているのもパレスティナ人だ。第二点。BHLはガザに行ったことがあるのか。何十年もパレスティナ人がどういう状況を生きているのかを知らないのか。ハマスの前から空爆はなされていたのだ。第三点。憎むべきはマイケル・ウォルツァ-的な意味での戦力の不均衡だ。またBHLはイスラエルのプロパガンダを真に受けているが、中立的な観察者はこれが嘘であることを知っている。それからガザは人口の密集する狭隘な地区であり、戦闘員と民間人と標的の区別はできない。第四点。ここには戦略的非対称性がある。また道徳的非対称性もある。これは人道に対する罪だ。第五点。通告したかどうかでなく避難ができない状態が問題なのだ。民間人が避難を禁じられた紛争なのだ。第六点。哲学者は抽象の天上から具体の地上へと降りて来れないようだが、人道援助物資を運ぶには現状ではまったく不十分なのだ。一日500台のトラックの通過が必要なのだが、封鎖後には23台だけだった。今はもっとひどい。最後に11月4日に停戦を破ったのはイスラエルであること、ガザへの通行に関する合意条項を尊重していないのもイスラエルであることを確認しておく。また平和条約の調印を拒んでいるのもイスラエルだ。アラファトにせアッバスにせよ合意への意志はあったのに時間を無駄にしたのはイスラエルが拒否したせいなのだ。またハマスは民主主義的に選出されたのだ。人々が誤った投票をしたのだからそれを変えよう、あるいはよき独裁を押し付けよう、文明化すべく占領しよう、これはアフガンに侵攻したソ連の論理であり、植民地主義の論理だ。以上、多くの具体的な情報を挙げてBHLを批判しています。批判としてはおおむね正当なものだと思いますが、それではどうすればいいのかの展望が見える訳ではないのがやりきれないところです。またイスラエル批判が正しくとも、それがハマスの正しさを証明する訳ではない。実際、あの戦術は正統化すべきではない。たとえ民意の支持があったとしても。

"La rue, la mosquée et la télévision"[Le Figaro]

哲学者のレデケル氏が先日の大規模なデモについて論評しています。まず、平和主義を装っているが連中は平和を願っているのではなくハマスの勝利を願っているのだと断定されております。これは冷戦時代の平和主義が反米、反帝で、ソ連批判をしなかったのと同じ左翼的偏向だということです。さらに「ホロコースト」「ジェノサイド」という文句やダビデの星と鍵十字まで見えるではないか!と。しかしこれは昔からの話だが、氏によれば新しい要素があったと言います。それはテレビとモスクの出会いだといいます。テレビは思考停止をもたらすイメージのメディアであり、感情的動員力をもつ。今回のデモの特徴はテレビのイメージに同一化した者達のイスラム色にあって68年に叫ばれた自由からはなんと遠いのだ、と。しかしこんなに「政治的に正しくない」記事がフィガロによく掲載されましたね。なおレデケル氏はかつてコーランを罵倒する記事を寄稿して通称「フィガロ事件」を引き起こした張本人です。まあなんと言いますか、「この正直者め!」というのは日本にもありますけれど、世論の一部はこれで溜飲が下がると、そういう論調ですね。

という訳でまだ本格的な論戦はないのですけれども、強い非難を含んだ事実報道が主体で後は社説でもコメンテーターでも停戦を求めつつともかくフランス国内への紛争の輸入を防がなくてはならないという内向きな論調になっています。イスラエル支持派には反イスラエル的に感じられ、パレスティナ支持派には親イスラエル的に感じられるという中途半端な報道ですね。そういう訳で両者がネット上でメディア批判をしています。思想的には寒々しい限りの光景ですけれども、今後それなりに力のこもった意見も出始めることを期待したいところです。言葉が出て来ないという感じなのは判りますけれどもね。なんの利害関係もない私ですらそうですから。

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予審判事廃止?

サルコジ氏が予審判事(juge d'instruction)制度を廃止する意向を表明したのを受けて活発な議論が行われているようです。予審判事というのは調査権限を有する司法官のことですが(判決は下さない)、政治権力や検察から独立した存在とされます。主として重罪裁判において警察と協力して証拠を収集したり被疑者を尋問したりして訴追するか否かを予審する[註 コメントでご指摘いただきましたが、訴追するか否かの予審ではなく、訴追された事件について,証拠を収集し,公判に付するか否かを決定する手続である予審を行うのが正しいとのことです]活動を行う訳ですが、あちらのミステリーやドラマなどではこの人達がよく登場します。「フランスで最も権力のある人々」と呼んだのはナポレオンとされますが(バルザック説もあるようです)、ともかくフランスの刑事司法のある種象徴的な存在としてよく語られる存在です。以下、素人のメモですので誤りが多数含まれているかもしれませんので、お気づきになりましたら遠慮なくご指摘ください。

予審判事が最近話題になったのはウトロー事件という大冤罪事件の時でした。当時、私もずっとニュースを追いかけていたのですが、この田舎町を舞台にした集団的小児性愛者事件は子供らの告白ごっこで大量の人々が被疑者とされるというまるでセーラムの魔女裁判を思い起こさせるような悪夢的な展開を辿りました。ここでビュルゴなる新任予審判事が独走したことが、悲劇を生みます。結局、被告全員無罪となるのですが、拘置所内で自殺する被疑者まで生み出す結果となりました。野心に燃えたこの予審判事によって自白の強要もあったとされます。その後、このスキャンダルを受けて合議制の導入など制度の見直しがなされました。クロード・シャブロル監督の女性予審判事を扱った「権力への陶酔」という映画がつくられたのもこの騒ぎの頃ですが、「大統領より強い」と形容される予審判事の大衆的なイメージを理解するにはいい素材だと思います。もっとも映画は映画だと思ったほうがいいと思いますけれども。

”M. Sarkozy envisage de supprimer le juge d'instruction”[Le Monde]

それでこのたびの予審判事制度廃止の提案ですが、ル・モンドのこの記事によれば、サルコジ氏は予審判事(juge d'instruction)制度を廃止してjuge de l'instructionという名の司法官の下で検察に調査権限を移すプランを持っているようです。職名に定冠詞を付加するというこの言葉遊びのセンスはともかく、これはかなり思い切った刑事司法改革を意味します。フィリップ・レジェ氏率いる刑事訴訟改革担当委員会の多数が予審判事制度の廃止に賛成のようです。この改革案ではまた調査開始前に弁護士にアクセス権を認めるなど弁護側の強化が目指されているようです。これまでの予審判事制度批判を耳にしていると、これは改善なのではないだろうかとも思われそうなこの話ですが、記事は最後の一文で懸念を表明しています。

C'est ce qui fait craindre un renforcement de la mainmise du pouvoir sur les enquêtes les plus sensibles, qui ne seraient plus confiées à un juge du siège indépendant, mais à un magistrat du parquet dépendant du ministère de la justice.

独立した裁判官ではなく司法省管轄の検察官が担当するのは権力の支配強化になるのではないかという懸念です。実際、これは司法権の独立を脅かす企てであるという批判の合唱が沸き起こっているようです。

”Supprimer le juge d'instruction ? "Une régression démocratique"”[Rue89]

Rue89のこの記事がこの件を扱っています。USMという司法官の組合による「民主主義の後退」という糾弾の声を紹介したり、政治はこれを道具化する誘惑を捨てがたいだろうという批判的な発言を拾っています。それから通念とは異なり、予審判事は単独行動する訳ではなく、検察や弁護側によって行動が制約されている点について啓蒙的な解説をしています。またウトロー事件の際の委員会の場でのパスカル・クレマン氏の発言を引用しています。問題となっていた予防拘禁については状況は改善されていると。予審判事の人数が少ないせいで予防拘禁期間の長期化を招いている批判がこの頃に盛んになされていました。最後に我々のシステムは実際には最も平等なものであり、収入や社会的地位とかかわらず同じ質と中立性をもった審理を保証しているのだ、と英米システムに心酔する改革派への牽制的発言を紹介しています。

Le juge enfin pendu, dansez Messires![Journal d'un avocat]

こちらはよくリンクされている弁護士ブログの批判記事です。1980年代、90年代に政治経済エリートの腐敗を追及したのは権力から独立した予審判事であったとしてその価値を訴えています。賛成派にとっては、これが唯一の権力から独立した機関であり、特権的な人物達への法の適用を保証する存在であり、司法権の独立、権力分立の柱であるが、反対派は予審判事を審理と起訴を同時に扱う知的に逸脱した存在として捉えるとしています。しかし反対派と言えども、予審判事の独立性に代えて検察の独立性を保証しなければならないと訴えていた、しかしこのたびの改革では検察の改革が伴っていない、従ってこれは司法の弱体化であり、共和国にとっての後退であり、オートクラシーにとっての進歩であり、腐敗した人間達の保護策であると難じています。

"Premières réflexions sur la suppression annoncée du juge d'instruction"[Journal d'un avocat]

同ブログに掲載された別の論者の論考。やや長いですが、啓蒙的で優れたポストです。まず、司法官は裁判官と検察官に二分されること、後者が95%の案件を扱うが、残りの特に複雑な5%の案件を扱うのがこの両者の性格を併せ持つ予審判事であることを説明しています。またフランスで最も強力な人々という世評は神話であり、もはや彼らがそれほどの権限を持たないことを説いています。むしろ新たに導入されようとしているjuge de l'instructionがかつての予審判事のような強力な存在になってしまうだろうと警戒しています。それから度重なるスキャンダルで現在では予審判事は司法の誤りと失敗の象徴になってしまったけれども、メディアの報道にも問題があり、政治にとって都合のよいスケープゴートにされている点を指摘し、予審判事の孤立の問題は合議制の導入によって解決されるとしています。最後に比較法制的観点から時代遅れのフランスに固有の制度のように言われるが、それは事実ではなく他国にも存在している点を強調しています。

以上のように予審判事をめぐる言説は政治権力vs司法権、さらにフランス法vs英米法という枠組み(分かりやすいので20minutesの図を下に貼っておきます)の中でこの制度の孕む実際的、具体的な問題点が論じられるといった形式で編成されています。前者の論点についてはサルコジ政権がとりわけ対メディアで政治権力の強化を企てている(とされる)事実に鑑みると必ずしも杞憂と断じることはできないように思われます。慎重な論調があって然るべきなのでしょう。後者の論点については確かにフランス固有の文脈もありますが、かの国のいつもの愛国心の発現として他人事的に捉えるのではなく、司法の迅速化の名の下に進められる改革において我々はなにを獲得し、なにを失うのかという大陸法圏に共通する問題の一局面として捉える視点があってもいいのではないかと思います。ちなみにナポレオン法典を継受した戦前日本では[註 コメント欄で指摘されましたが確かにここおかしいですね。ドイツ法の方でした]予審判事が存在していたという歴史的事実も忘却すべきではないでしょうし(小説に出てきますね)、戦後は糾問主義の権化のごとく批判されているようですが、確かに問題があったにしても性急な価値判断によらない認識があってもいいのではないのかなと思いました(勿論復活せよとは言いませんが)。私が単に絶望的に無知なだけで、専門家の間ではレベルの高い議論がなされているのでしょう。

Article_france1フランス・モデル対アメリカ・モデルの図

http://www.20minutes.fr/article/286645/France-Suppression-du-juge-d-instruction-Les-avocats-manifestent.php より転載

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偏りについて

気づいたらこのブログを始めて一年経ったみたいなのですけれども、変わりなく淡々と更新していくことにします。なお自宅のマックが死亡しているためしばらく更新頻度は落ちると思います。ご了承くださいませ。以下最近読んだ日本関連記事をクリップしておきます。

”Celebrating ’Multicultural Japan’ Writings on 'Minorities' and the Discourse on 'Difference” by Cris Burges[ejcjs]

最近の英語圏の日本に関するアカデミックな言説に警鐘を鳴らす記事。以前Japan Focusに掲載されたこの論文と類似した内容の記事を読んでからバージェス氏には注目してきました。とりわけ90年代以降は日本人論批判と文化的多様性称揚がトレンドな訳ですが、それが奇妙な政治的効果を果たしている点については私もここで度々書いてきました。社会的現実から遊離したまま英語圏の論調と日本語圏の論調との間で変な悪循環現象を起こしている点、また英語圏における日本人論批判が、おそらくたいがいの人がそんな議論とはほとんど無関係に生きているという事実にも関わらず、すべての日本人を日本人論の盲目的な信奉者であるかのように表象することでもうひとつの日本人論に成り下がっている点については誰もが気付く問題点だと思いますし、またこののっぺりとした集団として表象される「多数派日本人」という名の想像的な存在に対比されるところのマイノリティー達に関する言説にしても、いわゆるマイノリティー自身の声を本当に反映しているのだろうかとか、個々人をエンパワーするどころかむしろ抑圧的に機能する側面もあるのではないかとか、こうした言説そのものが社会的範疇の創造を行う政治効果(囲い込み効果)を持つことについてやや鈍感なのではないかといった問いもおそらく多くの人が抱くだろうと思います。このあたりの機微について記事は様々な事実を挙げて丁寧に論じています。

まずmulticultural Japanを強調する言説には二重の性格がある点について指摘しています。ひとつは現在もかつても存在した日本社会における多様性を確認する記述的側面と1970年代以降の英語圏における多文化主義的実践が日本において採用されるべきだとする規範的主張の側面が未分離である点です。

Thus, in contrast to the use of 'multicultural Japan' as used to describe social variation, these works have a predictive and prescriptive slant, showing what Japan inevitably will and indeed should become.

それからなにを「差異」の焦点とするのかという点で極端にエスニシティニ-に偏りすぎている点が指摘されます。しかし例えば在日にとってはエスニシティーよりもクラスの問題のほうが大きいという金氏の指摘が引用されているように差異のラインというのは部外者が勝手に引けるものではない訳です。また多様性を強調すべくあらゆるサブカルチャー集団を同等にあげつらう傾向に対してもそれぞれの歴史的経験が無視されているという批判を引用しています。より深刻な問題としては自分たちの言説を日本人論に対抗させることによってこれをむしろ正統化し、強化する結果に陥っているという指摘が重要でしょう。クラマー氏によれば、

[Mouer and Sugimoto] still choose to frame their argument in terms of a debate with the Nihonjinron even though it is the (false) assumptions of this that they are supposed to be attacking…so the Nihonjinron is kept in the foreground of academic debate, especially internationally, by those who deny its legitimacy…Paradoxically the concentration by scholars on the Nihonjinron…has actually succeeded in strengthening rather than undermining the view of Japan as a culturally and sociologically monolithic entity

ということになります。実際、こうした議論の形式は半可通のブロガ-あたりにも伝染しているのですが、ただの藁人形議論になっているのですね。またマイノリティーへの過剰な関心の集中がマジョリティーを捉える視点をおかしくする点についても警告しています。ヘンシャル氏によれば、

[T]he pendulum has now swung too far. Decontructionist literature, while valuable as a counter-balance, has come to occupy a disproportionate role in recent studies in Japan. You cannot properly understand English society by concentrating on French-speakers in the Channel Islands, or on recently arrived Chinese immigrants running fish-and-chip shops in the East End of London. The equivalent is true of Japan and its minorities. This does not mean that such people, minorities, can be ignored….And yet, in any society the vast majority of people generally conform to a range of accepted norms, however much they might differ in gender, age, occupation, and personality profile

それから一枚岩で画一的な国家が抵抗するマイノリティーを抑圧、排除しているといった「陰謀論」に注意しなくてはならないと述べています。実際、「闘争」や「抵抗」がロマン化され過ぎてすべてがヘゲモニーと対抗ヘゲモニーの二項的な関係で解釈されることになっているが、こうした「排除」する国家の像とは異なって、実際には日本でもどこでも「同化」がネーション形成における特徴なのだと。ここで戦前における議論を想起しています。アスキュー氏によれば、

One of the ironies of modern Japanese history is that assimilation was advocated by the egalitarian members of the Japanese enlightenment, thus providing a justification for a wholesale assault on local traditions and customs, while it was the racist social evolutionists who argued in favour of a low-cost form of colonial rule which entailed local autonomy and respect for local customs

といった具合に啓蒙的な平等主義者が同化を主張し、差別主義者が植民地における自治や慣習の尊重を主張していた点に注意を向けています。以下そもそもマイノリティーとは何ぞやという議論になりますが、社会において「差異」がそれとして認知されるプロセスにおける恣意性と流動性が強調され、誰が「エスニック・マイノリティー」なのかも必ずしも自明ではないことを在日やアイヌや沖縄のアイデンティティーの複雑性や内部の多様性やリーダーや活動家の代表性をめぐる問題に言及しつつ論じています。こういうデリケートな問題については特別の利害関係がある訳でもないのに妙に鼻息の荒い英語圏のある種の人々はどうしても理解したくないようですが、現状からさらに一歩でも物事が進むことを本気で期待するならばやはり立ち止まって考えるべき局面にあるように思えるのは私が楽観主義的に過ぎるからでしょうか。

以下論文は産経新聞の記事検索結果から英語圏のアカデミックな言説と日本語圏のジャーナリスティックな言説との間のずれを指摘し、人口データから外国人労働者の存在の限定性を確認しています。以上、英語圏のアカデミックな言説は日本の社会的現実から遊離した観念図式を振り回して誰のためだかよく判らない説教をしているだけではないかという論者の誠実な反省には謙虚に耳を傾けてほしいものだと思います。残念ながらかなり真実だと思いますから。いえ、なんでもかんでもオリエンタリズムの一言で片付けたりはしません。違和感をまったく抱かせない研究者だっていらっしゃる一方で、全体としてどうやら日本に似ているがどこか別の惑星の話に聞こえることがあるのですね。別に日本人に違和感を抱かせないことが日本研究の使命だなどとは思わないですが、ここまでずれてしまうのはやはり致命的ではありませんかね。パースペクティブの違いでは済まないと思います。なおいわゆるマイノリティー・グループに研究が集中しているのは英語圏の日本研究ばかりでなく日本語圏のアメリカ研究などもそうみたいなのですが、これはいったいなにを意味しているのでしょう。日本語圏のアメリカ研究が米国の動向に影響を与えることなどなさそうですけれども、同じような誤りを犯していないという保証もなさそうですね。それから最後になにか言うとすれば、外国人労働者なり移民なりの人口が今後増大したとしても北米的な多文化主義は部分的には取り入れても未来の日本のモデルにはならないだろうと個人的には思います。歴史は飛躍をなさずということで好むと好まざるとに関わらず訛りのきつい翻訳概念で飾られた新しい装いの下に「民族協和的」な理念に近づいていくのではないでしょうかね(「多文化共生」にその響きが聞こえます)。で、たぶん実質的には統合主義的な欧州のどこかの国に似るのではないでしょうかね。まあ未来は誰にも分かりませんけれども。

”The Era of Bullying: Japan under Neoliberalism” by Shoko Yoneyama[Japan Focus]

でこちらは相変わらずのJF的ないじめに関する記事です。データの紹介と類型論あたりはともかく社会評論家風の新自由主義批判は首を傾げざるを得ないです。統制経済下におけるいじめと自由主義経済下におけるいじめについての実証的比較研究なんてものがあるのならば説得力もあるのかもしれませんけれども(たぶん私は説得されなさそうですけれども)、どう考えても学校のいじめとは関係ないネタばかり取り上げてイメージ操作をされてもなあという感想しか出てこないです。いかにいじめを減らすのかとかいかにケアするのかといった実践的関心ではなくて単にいじめをネタに世界に否をつきつけたいのでしょうか。それとも地道な実践をされているのだけれども、書くものはこうなってしまうのでしょうか。ところで謝辞を捧げている方々の中に個人的に許し難いと思っている御仁達が含まれているのですが、この記事の書き手を日本人コラボと認識してもいいのでしょうか。そういう見方は政治主義的に過ぎますかね。ただこの不毛かつ狭隘な言説政治の舞台において自らの声がいかなる機能を担わされるのかに自覚的になって欲しいです。この御仁達の「これは私の意見ではない、ほら、日本人自身が言っているじゃないか」戦略は見え透いていますから。これは日本を別の国に入れ替えても成り立ちます。なお言うまでもなく私は反西洋主義者でも反アングロサクソン主義者でもなくてただ単にアジアやアフリカに張り付いている欧米系左翼の中の「特定の傾きを有する人々」に没落していだくことを祈念しているだけなのですね。

という訳でどうも新年早々筆が走ってやや攻撃的になっているような気もしますが、不機嫌になっている訳ではなくて実に爽快な気分です。わっはっは、どーんと来い、という感じですね。それでは笑って不況の一年を乗り切りましょう。死ななきゃたぶんなんとかなりますさ。

追記

少し修正しました(1・8・2009)。アカデミシャンにはそれでも自制や事実尊重的な態度があるのですけれども、ジャパン・タイムスあたりの論調がこの戯画化になっている訳です。この辺りの機微に敏感な方も少数ながらいるようですけれども、ベタな人はベタですからね。本当を言えば一番困った存在なのは利用しているんだかされているんだか本人もよく理解していないような島国左翼の方々です。なんといいますかね、切なくなります。

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シヴィックとエスニックの二項対立について

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書) Book 民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)

著者:塩川 伸明
販売元:岩波書店
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本書は我が国を代表するソ連・ロシア研究者の一人によるエスニズム・ナショナリズム論です。90年代以降はこの問題を扱う研究の洪水状態になっておりますが、正直に言いまして類似図式の反復に個人的にはもう飽きていました。塩川氏の著作ならそれほどはずれはないだろうということで手にとりましたが、紙幅の制約にもかかわらず論点も整理され、事例もきわめて豊富でよく書かれていると思いますので同じような思いを抱いている方におすすめいたします。いたるところに散見される慎重な留保があるいはまどろっこしく感じられるかもしれませんが、そこが大切な部分だと思いますのでそうした部分にこそ注目して読まれるといいかと存じます。ナショナリズムというこの変幻自在な現象はお手軽な図式ではとうてい把握し切れない訳ですから。

第1章で理論的な問題を扱っていますが、氏はエスニシティー、民族、国民の三つの概念でこの現象にアプローチすることを提唱しています。言語なり宗教なり文化なりを共有している意識が広まっている集団をエスニシティーと呼び、この集団が国ないし政治的単位を持つべきだという意識が広まった時にこれを民族と呼び、国家樹立後の正統な構成員の総体を国民と呼ぶという風にゆるやかに定義されていますが、ここで可変性と流動性がきわめて大きいエスニシティーと民族の具体的な確定の困難と確定作業じたいがきわめて政治的な行為である点について注意を促しています。また三者を峻別すべきだとする規範的主張に理解を示しつつも三概念が入り組んだ関係をなしている現実の複雑性を対置しています。それから原初主義対近代主義、本質主義対構築主義、表出主義対道具主義という図式に対しても近代主義=構築主義=道具主義という暗に想定される等式が必ずしも成立しないことに注意を喚起しています。といった具合にこの章では理論家にありがちな抽象的原理からの現実の裁断の傾向に対して事実性の重視からニュアンスを含んだ分析概念の構成が目指されています。私みたいな人間には非常に好ましい態度でありますが、ここは意見が分かれるところなのでしょう。

第2章以降は具体的な歴史編になります。「国民国家の登場」と題される2章では欧州における国民国家の誕生、帝国(ロシア帝国、オスマン帝国、ハプスブルク帝国)の再編、新大陸における新しいネーションの誕生、東アジア(中国、日本、朝鮮)への衝撃が豊富な事例とともに記述されます。私個人はこの章では帝国の再編の節と新大陸の節、とりわけ南米の部分に興味を引かれました。ロシアのいわゆる「公定ナショナリズム」の中途半端性と南米におけるエスニシティーと国民国家の無関連性の部分です。アンダーソンのフィールドが東南アジアと南米である事実が氏の古典的な国民国家論におけるエスニシティーの軽視をもたらしているという指摘は多分正しいのでしょうし、逆に塩川氏がエスニシティーを重視せざるを得ないのはソ連・ロシア研究者である事実とも切り離せないのでしょう。

第3章では世界戦争の時代における自決論に基づく国際秩序の再編が記述されます。まずウィルソンの提唱したself-determinationの語が想定していたのはネーション、つまり米語における「国民」の自決である訳ですが、第一次世界大戦後における国際秩序の再編の焦点たるドイツ・中東欧・ロシア地域においては「民族自決」としてこの言葉がシンボル化されて激越な政治闘争の根拠として受け取られた経緯について言及され、第二次世界大戦後の植民地の独立を受けた国際秩序再編(インドネシア、インド、トルコ、アラブ諸国、イスラエル)や自立型社会主義の実験(ユーゴ、中国、ヴェトナム)が論じられています。この章は私の知識の空白部分が多いので非常に興味深かったのですが、なかでも「アファーマティブ・アクション帝国」ソ連の節がやはり力がこもっています。この論点については氏が以前から語られていたことですが、ソ連における積極的な「民族形成」政策と中心民族たるロシア人の被害者意識は昨今のこの地域のニュースを見る際の前提的知識として共有されるべきだろうと思います。

第4章は冷戦以降の現代世界の章で「帝国」アメリカ、欧州の東方拡大とエスニシティーの問題、新たなる民族自決の動き(ユーゴスラヴィア、旧ソ連およびその周辺地域など)、各地で起こっている歴史認識論争などが論じられています。まずグローバル化とボーダーレス化の進行とともに先進国においてエスニシティーをめぐる問題が激化していること、また現在の民族問題が第一次、第二次世界大戦の後の国際秩序の再編と同様に冷戦という「戦争」の戦後処理の性格を持つことが大づかみに開示されます。さらに冷戦終焉にともなって誕生した多くの国家に共通する性格として連邦制を採用していた多民族国家の旧共和国の枠組みに依拠している点が指摘されますが、ドイツ統一のように複数国家にまたがる「同一民族」が統一する場合もあれば、またモルドヴァとルーマニアのように「同一民族」にかかわらず統一がなされない場合もあるといった具合に一様ではないとされます。そして全体としては「民族自決」のスローガンがかつてのような輝きを失い、条件次第で認められるやっかいな主張のような受け止め方が広まっているとされます。あらゆる民族に自決を与える訳にはいかないという現実的な理由による訳ですが、あの民族に自決を認めてこの民族に認めない理由はなにか、その恣意性が不満を呼ぶことは不可避であると(コソヴォ独立の波及効果の懸念)。歴史問題ではトルコのアルメニア人虐殺、ナチスのホロコースト、第二次世界大戦中のセルビア人とクロアチア人の相互虐殺の記憶が政治的に利用される例やドイツとチェコの間の「追放」をめぐる問題、中東欧におけるユダヤ人虐殺への加担の歴史、ウクライナとロシア、エストニアとロシアの歴史認識論争などが挙げられていますが、犠牲者の人数をめぐる論争の泥沼化といった日本をめぐる歴史論争とも似たような構造があることが指摘され、アルメニア系トルコ人作家フラント・ディンクらの発言に歴史問題の乗り越えの可能性を見ています。加害と被害の重層性や相互入れ換え性についての冷静な指摘の部分は過熱しがちなこの問題について考えるのに頭を冷やす効果があるだろうと思います。

終章ではナショナリズムをどう評価すべきかという問題に踏み込んでいます。19世紀を通じて、それから第一次世界大戦後の民族自決の時代、また第二次世界大戦後の植民地独立の時代に至るまで国民国家形成やナショナリズムには基本的には肯定的な評価がともなっていたが、1990年代にユーゴスラヴィア内戦をはじめとした暴力的衝突が世界中で頻発したこと、また先進国においては移民排斥を訴える極右ナショナリズムが高まったことなどから肯定的評価が後退し、その克服が叫ばれるようになる傾向がある、とはいえその評価は論争的なままであると全体的な論調を要約し、「よいナショナリズム」と「悪いナショナリズム」の区別論を検討していきます。素朴なものでは「抑圧民族」のナショナリズムは悪いが「被抑圧民族」のナショナリズムはよいとする人々の感情に訴える議論があるが、現実には強者・弱者関係には逆転現象や重層関係があること、また国際秩序が流動化した際に誰が強者で誰が弱者か、誰が進歩的で誰が反動的なのかの裁定は中立的ではありえず、それ自体が極度に政治的行為となるとしています。またナショナリズムをリベラルなものと非リベラルなものに区別して前者をよいもの、後者は悪しきものとみなす議論(ミラー、キムリッカなど)、あるいは自由や公共性を目指すパトリオティズムをよきナショナリズムとみなす議論(ヴィローリ、ハバーマス)に対しては現実には両者は往々にして相互移行しがちであり、境界も流動的であると評しています。

さらにこうした区別論の中でも特に影響力のある図式としてシヴィック・ナショナリズムvsエスニック・ナショナリズムの二項対立が検討されています。ネーションの基礎にエスニックな共通性があるという考えが優位な国では合理主義や自由主義が排斥され、権威主義に傾き、自民族中心主義や排外主義が優位になりやすいのに対して、ネーションの基礎にエスニックな共通性を求めない国ではエスニックな多様性や個人の自由が尊重され、自由主義や民主主義と親和性が高いという例の噺です。こうした議論に対して著者は二点から疑義を呈しています。まず多くの論者において「西」ではシヴィック・ナショナリズムが優勢であり、エスニックな差異に対して寛容であるのに対して「東」ではエスニック・ナショナリズムが優位であり、偏狭で排他的であるというイメージが想定されているが、ここにはオリエンタリズム的発想が潜んでいる。そもそも「東」とされる諸国には均一性はなく、歴史的にも「東」の諸国のナショナリズムは「西」の諸国への対抗のための模倣であり、「西」と無縁なものではないと。

もうひとつの問題点としてこの二項対立が普遍主義vs特殊主義と結び付けられている点を指摘しています。実際には大半のナショナリズムは普遍主義の論理に立ちながら、特殊主義的な色彩を帯びるという二面性を持っているのであり、両者を分離することはできない。「我が国こそが普遍的な価値の担い手だ」という意識は「その価値の卓越した、先駆的担い手が自分達だ」というナショナリズムを正当化することになるが、これは「自由、平等、友愛」を掲げるフランス、「アメリカ的自由」を掲げるアメリカ合衆国、「社会主義インターナショナリズム」を掲げたソ連のナショナリズムに典型的に見られる。またドイツ、ロシア、日本もまた特殊性のみに依拠した訳ではなく普遍主義的論理を振りかざしていた。そもそも他者に対する自己の卓越性を主張する以上は物差しとしての普遍と自己を上位におく特殊との並存は論理必然的である。以上のようにこの二項対立はよいナショナリズムに分類される「西」の国々の危険な要素を覆い隠し、悪いナショナリズムに分類される「東」の国々を宿命的に劣った存在として決め付ける危険があるとして批判されています。

要するに、ナショナリズムは善とも悪ともなり得るが、予めなにが善なるナショナリズムでなにが悪なるナショナリズムかは原理的に決定できないし、また外部の観察者は誰が寛容な善玉で誰が不寛容な悪玉かを決定すべきではないし、こうした加担的態度は事態を悪化させるだけだ(アルメニア・アゼルバイジャン紛争でのデリダ、ハバーマス、ローティーらの思想的介入が糾弾されています)という禁欲的な要請がなされます。また紛争の原因論についても図式的な一般論は無意味であるとしていますが、エスニシティー、民族を要因とする紛争が軍事的衝突にいたる事例においては政治指導者達の役割が大きいとし、彼らが軍事的選択が「合理的選択」に見えるような条件とは既存の国家秩序が解体するような特別の状況が現出するケースに限定されるといい、小規模紛争の段階で悪循環的拡大を防ぐための初期対応の重要性が説かれています。「魔法使いの弟子」にならないようにと。

以上、アフリカを除くほぼ世界全体を対象としてナショナリズム現象を概観する本書は限られた紙幅の中でこの問題の複雑性を提示することに成功しているように思われました。善悪の価値評価を留保し、「寛容」や「相互理解」といった美名それ自体が政治的に機能してしまう現実まで記述する著者の禁欲的姿勢にはなにかしら畏敬の念に近いものすら感じました。ここから元気の出る当為を引き出すのはなかなか難しい訳ですけれども、よくある反ナショナリズム論やその逆の論にはないこうした歯切れの悪さを積極的に評価したいと思います。またここで何度か書きましたが、シヴィックとエスニックの二分法のはらむ問題には私自身意識的になっていることもあって最終章では考えさせられました。西洋志向の強い研究者からはなかなか出てこない論点ですが、ユーゴの時もグルジアの時もあるいは北東アジアに関しても西側メディアの論調のイデオロギー性にはいささかうんざりさせられていましたので。最後に要約困難なので歴史編は軽い紹介にとどめましたが、ここの部分が一番面白いことは言うまでもありません。民族問題やナショナリズムについては一般論はあんまり役に立たない訳で徹底的に個別的アプローチをしつつ同時に比較の視点を失わないようにするという本当に言うは易く行なうは難しの作業をここまで積み上げられた氏の仕事に対して敬意を表したいと思います。

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仏露の接近

"Pourquoi Paris et Berlin ne s’entendent pas sur la relance" by Philip Ward[Telos]
独仏両国の歴史的経験と経済思想の差異に関してフランス人読者に解説する記事。ドイツにおいてトラウマとなっているのは1930年代の大恐慌よりも1920年代のハイパーインフレであること、また現在、英米でルーズベルトが想起されているが、ドイツでは大規模な公共投資がナチスの記憶と分ち難く結びついてしまっていること、それで現在想起されるのがケインズではなくて戦後の奇跡の復興の象徴たるエアハルトであることなどを説明しています。メルケルの演説でも「オルドリベラリズム」や「社会的市場経済」といった戦後ドイツ的な概念が参照されていると。米国的な「無秩序な」規制緩和主義への反発や不況時のケインズ主義的な国家介入への懐疑にこうした歴史的経験があるというのはいかにもそうなんだろうなという気がしますが、なにぶんにもドイツ事情には疎いので正確な解説になっているのかどうかはよく判りません。ともかくドイツ人の思考を理解せずには説得できないぞとのことです。

"Bruno Le Maire, loyal avec Sarkozy mais fidèle à Villepin"[Le Monde]
関連する話ですが、ジャン=ピエール・ジュイエ氏の辞任を受けてブリュノ・ル・メール氏が欧州担当閣外大臣に就任するとこのことです。この記事もそうですが、サルコジ氏のライバルであったド・ヴィルパン派の人物であるという点にメディアのフォーカスがあたっていますが、氏がドイツ語話者であるという点が重要だと思われます。この点については以前エントリに書きましたが、最近冷え込んでいる両国関係を調整するためにぜひともドイツ語能力が必要であるという点は識者によって指摘されていました。外務にも携わっている経歴がありますが、説得役ということで語学能力を買われたという面があるような印象を受けますね。

"Cold War takes gloss off Nicolas Sarkozy's presidency"[Times]
フランスの欧州およびロシア外交に関する記事。独仏関係の冷却化についても触れていますが、ジャン=ダヴィッド・レヴィット氏の発言の部分が重要でしょう。サルコジ氏はギリシアのような第二ランクのメンバーを使って欧州のバランス・オブ・パワーを揺るがしたいと考えていると。随分率直な物言いですね。またEUの議長国の任期切れに合わせてユーロゾーンのチェアマンに就任する事で事実上の欧州大統領への道を目指した試みはメルケル氏の反対で頓挫したが、EU地中海連合のチェアマンの任期はまだ18ヶ月残されていると。最後にロシアについては、

His next plan, not yet announced, is a new “economic and security space” with Russia, Mr Levitte disclosed. Given anger in the West towards Russia's occupation of northern Georgia, European leaders will be surprised to learn that Mr Sarkozy aims to offer a new security pact to Russia and hopes to bring in Ukraine and Turkey.

といった具合に新たなる「経済・安全保障空間」をロシアとの間に設定するプランを提出するつもりのようです。やはり先日のミサイル・ディフェンス批判はレヴィット氏の入れ知恵だったのでしょうかねえ。徐々にパズルの完成形が見えてきました。これではアメリカとの齟齬がだんだん大きくなりそうな予感がしますね。上手く立ち回る自信があるのでしょうけれども。しかし地中海連合にせよ親ロシア外交にせよやはりゴーリスムの伝統は永久に不滅でありますねえ。極東の見物人としてはそうこなくちゃという感じですけれどもね。

以下日本関連記事です。
"Fallout from Pentagon's gaffe spreads" by Kosuke Takahashi[Asia Times]
高橋浩祐氏のペンタゴン報告書をめぐる記事。同報告において北朝鮮を核保有国と記述した点について韓国では騒がれているようです。記事は志方俊之、権鎬淵、李英和各氏や外務省関係者の取材に基づいています。専門家の各氏は核実験は失敗だったのであり、核保有国とは言えないとし、senior officialは

"As the only nation in the world to be bombed with atomic weapons on Hiroshima and Nagasaki [in 1945], Japan can never accept such a policy stance," a high-ranking Japanese diplomat told Asia Times Online on the condition of anonymity. "In addition, Japan upholds the NPT. Also, admitting North Korea as a nuclear state is not a good negotiation tactic. It only benefits Pyongyang. "

と述べたとのことです。日本のメディアがスルーしている理由はよく判りませんが、こうやって英語記事にすることは十分に意味があるでしょう。ところでいつになったら日本のページからAsian Sex Gazetteのリンクバナーを撤去してくれるのでしょうねえ。非常に目障りなんですけど。

"Japan's premiers doomed to failure" by Yasuhiro Tase[Asia Times]
何故日本の首相の任期が短いかについての考察。これは首相個人の資質の問題ではない。アメリカ大統領の資質だって似たりよったりだ。問題は大統領を支えるようなシステムが日本にないこと、また公衆に訴えかけるには専門のスピーチライターが必要だが、日本の首相は生の言葉で語らされている。最後に各メディアが毎月支持率調査をしては騒ぎ立てるが、これは政策ではなく個人のパーソナリティーの投票に過ぎず、これを乗り切れる人間などそういない。それゆえ

As a result, the PM's approval rating falls day by day. The market is sensitive to this figure, leading to drops in the Nikkei Stock Average, which in turn pulls down the PM's approval rating. Japanese politics is caught in a vicious circle. A Japanese prime minister is expected to do an impossible job of implementing policies welcomed by the public, maintain a lovable character and exercise strong leadership on the world stage at the same time. This results in prime ministers with an annual income of approximately 30 million yen (US$325,000) being criticized by TV presenters earning hundreds of millions yen in income as "thoughtless of the public". The day might come soon when no one wishes to become prime minister in Japan.

ということです。元日経の方のようですが、メディアの政局報道への苛立ちが表明されています。日本の首相の任期の短さをメディアにのみ帰責する訳にはいかないと思いますが(明治以来の首相任期を想起しましょう)、ここで言う「悪循環」現象が現在存在しているのは確かだと思います。どうでもいい情報ばかりで本質的な議論を喚起するための素材提供の使命を十分に果たしていないどころか邪魔ばかりしているという印象を受ける人はかなりの数に達するでしょうし、供給サイドでもそう思っている人はかなりの数に達するでしょう。どうしましょうかね。少なくとも一流紙ぐらいは矜持を保って欲しいのですけれども、率先して政局を動かそうと仕掛けますからね。ふう。

"Norms of citizenship law"[Mutantfrog Travelog]
国籍法についてかつて大先生が盛んに流していたデマをとりあげている記事。なかなか考えさせられるコメントもありますね。血統主義と生地主義の歴史的展開の話は本当に複雑なんですよね。お手軽日本人論と結びつけて批判する人は大先生ならずともけっこういますが、そんな単純な話ではないです。ドイツと対比されてよく例に出されるフランスの国籍法についてもそもそも父系血統主義の元祖はナポレオン法典だという重要な事実をスルーしていはいけませんし、フィヒテとルナンの国民概念の対比を国籍法に重ね合わせるのは単なる歴史の無視でしょう。新哲学派の面々は歴史などお構いなしなのだということも忘れてはいけませんし、ルナンという人が悪名高い人種主義者で政治的にも反動派だという事実も省略すべきではないでしょうね。明治日本の国籍法でも血統主義と民族主義とはもともと別物ですし、帝国というものを無視しては国籍法は議論できないでしょうね。この点については私も勉強しないといけませんが、要はイメージで語ってはならないということですね。

おまけ
"Corporate Japan's War Stories" by William Underwood and Mindy Kotler[Far Eastern Economic Review]
Underwood氏とKotler氏の黄金コンビのご登場です。これまでのまとめといった感じで内容はpoorとしか言いようがないものでありますが、彼らの私的な正義の法廷の被告人をCorporate Japanとしているところがポイントです。クリントン時代に見られたような目立った動きはないだろうと予測しますが、まあこの二人の動きはモニターしておいたほうがいいです。Underwood氏は長年麻生氏を付け狙っている自称研究者ですね。またKotler氏の活躍はReconciliation between China and Japanという麗しい名の一方的な日本糾弾サイトで見られます。中国ではなく慰安婦ネタばかり書いているんですけれどもね。善意の人なんでしょう。でもこの人の東アジア史の絶望的な無知には溜息がでますし、ダブルスタンダードが非常に香ばしいです。中でもトルコのアルメニア人虐殺非難決議の際にこの人が見せたダブスタのことは決して忘れないでしょう。日本語読めなさそうですからここに日本語で書いても無意味かもしれませんが、米国の例の決議はあなたが思っている以上に深く持続性のある心理的インパクトを及ぼしていると思いますね。なぜかって。他ならぬ米国だからですよ。普段はなんとも思っていなくとも抑圧された記憶が回帰するという人々もけっこういる訳ですね。自己満足と引き換えになんだか困った人々を増やしてしまったようですね。ふう。文脈をわきまえない善意の介入主義は悲惨な結果をもたらし得るのだぐらいのことは学んで欲しいです。謝罪だの和解儀礼だので平和が実現すると思うほど私はナイーブではないのですけれども、そうですね、ジェニファー・リンド氏ぐらいのリアルな認識も持っていただきたいです。公正と正義を愛するならばマルチラテラリズムでやるというのもあると思いますよ。それがこの地域の大いなる和解につながるとは思えませんが、救われる人も個々にはいるのでしょうから。とっても判りやすいダブスタぶりから見てアメリカン・ナショナリズムを超えることは期待していませんけれどもね。

"Young 'Zainichi' Koreans look beyond Chongryon ideology"[Japan Times]
このブログでは批判的に言及することがありますが、別に私は根っからのJT嫌いという訳ではないです。あまりにも懐かしい論調の記事は別にして日本語のメディアではあまり読めないような記事が掲載されることがあるのは事実ですから。この記事は北朝鮮系の在日の若者の最近の動向を扱ったものです。話には聞いていましたが、イデオロギー離れの傾向は加速しているようです。拉致事件というのは戦後的なタブーを本当に破ってしまった事件だったのだなとしみじみと思ってしまいました。葛藤の中におられるようですが、みなさんに幸いがあらんことをお祈り申し上げます。私にはべき論を語る資格はなさそうですが、一つだけ言えるのは、イデオロギーなんてつまらんもんですよ、本当に、ということです。

追記
少し修正しました。タイトル変更しました(2008/12/16)。

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デジャヴュな日々

"Après la démocratie", d'Emmanuel Todd : la société française en crise[Le Monde]
"Europe urged to protect and survive"[FT]
以前「保護主義の声」というエントリで歴史家にして人口学者にして社会学者のエマニュエル・トッドの経済自由主義批判と保護主義の訴えについて少し紹介しましたが、新刊の「民主主義以後」の書評が出始めています。現物は読んでいません。多分そのうち邦訳も出るでしょう。なぜか日本にはファンが一定数いるようですから。私自身は人口学的、家族論的な著作には刺激を受けた記憶はあるのですが、その大仰な口吻の時事的な評論はどうも好みに合わないようです(ちなみに日本には核武装を勧めています)。今度の著作ですが、反グローバリズムの書のようです。それでル・モンドとFTに書評が出ているのですが、奇妙なことにル・モンドがこき下ろし、FTがわりと好意的な評になっています。前者は、こいつは冗談を言っているのかといった冷たい反応ですが、後者は自由貿易主義の議論について問題提起をしている書だというあまりらしくない評です。なにがあったのでしょう。紹介を見ている限りでは、要は、今の世界というのは先進国が中国とインドを経済的に搾取することによって成立しているが、先進国の生活水準の低下と民主主義の機能不全がその巨大な対価である、欧州は英米型の自由貿易主義を袂を分って断固として保護主義政策を採用して中国の労働者との競争から自らの労働者を守らなければならないということのようです。それでフランス政治についてはサルコジはもはや沈める船に過ぎぬアメリカに追従する愚か者で、ロワイヤルの空疎な人気ぶりを見ると社会党ももう駄目だということのようです。またエリート層はもはや革命前の貴族層のごとく傲慢で選挙民の声など無視している。ポピュリズム現象の背景にあるのはイデオロギーと宗教の空洞化であり、反民主主義的なエリート勢力が成長し、イスラム移民を標的にした排外主義を煽って選挙民の不満を逸らしていると。タイトルの「民主主義以後」というのはグローバル・エリート専制みたいなイメージなんでしょうかね。ともかく保護主義によって民主主義が復活し、賃金水準が上昇し、社会的連帯も強化されるということのようです。なんだかひどい論理の飛躍があるような気もしますが、こういう論調そのものは実はフランスではけっこうありふれたものですから、別にいまさら驚きはしません。ただトッドはそれなりに有名な人ですから、それがここまでストレートに保護主義を主張するというのは兆候的な現象に見えます。こうした保護主義の声の高まりを予期し牽制するかのようにVoxEUも反保護主義のE-bookを新たに公表していますね。

"Rencontre historique entre Sarkozy et le dalaï-lama"[Le Figaro]
北京のあいかわらずの強烈な恫喝にもかかわらず、土曜日にグダンスクでサルコジ氏がダライラマ猊下と会談した模様です。猊下は独立を望んでいる訳ではないと述べ、大統領は中国の主権を侵害する意図はないと述べるといった具合にこの会談そのものを過剰にドラマタイズしないように配慮しているようです。かならずしもそうなることを意図していなかったにもかかわらず、行きがかり上すっかり強硬派のような立場に置かれてしまった仏国ですが、ここで会談という展開はなかなか悪くない人権カードの切り方だったのではないでしょうかね。これで両者の仲介役としての役割を果たす資格を得たということなのかもしれませんから、やはり時には根性を見せることも大切なのですね。もっとも中国はあいかわらず恫喝しているようですし、チベット問題についてのフランスの国家戦略はまだよく見えてきませんけれども。

"Devedjian et l'avenir de son ministère"[Le Figaro]
"Hortefeux appelé à devenir le nouvel homme fort de l'UMP"[Le Figaro]
サルコジ氏の盟友にして失言野郎のドゥヴェジャン氏がこのたびUMP幹事長から経済回復大臣に就任したようです。このたびの危機に対応して新設された特命大臣職です。ドゥヴェジャン氏が入閣できずにこぼしていたのは知っていましたが、それほど経済に強いようにも思えませんのでやや意外でした。もっと重視されているポストかと思ったのですがねえ。党務はどうやら移民・国家アイデンティティー相のオルトフー氏が担当することになるようです。あまり我の強くなさそうな氏のことですからこちらはたぶん適任のような気がします。

"Le plan de relance de Sarkozy, toujours très critiqué"[Le Monde]
サルコジ氏が公表した260億ユーロの景気刺激策に対する社会党とモデムの批判の記事です。社会党第一書記のオブリ氏によれば、400億ユーロが銀行に注入されたのにこの景気刺激策は危機のレベルに対応していないとのこと。中道派のモデムのバイル氏もまたドゥヴェジャン氏が担当するこの刺激策は危機のレベルに対応しておらず、この規模では経済機構を再起動させるのには不十分であるとしています。他方、OpinionWayの調査によれば、国民の61%が賛成している模様です。OFCEのグザビエ・タンボー氏はこのプランは不十分なものであり、需要を喚起するにはほど遠いため、第二次の景気刺激策を待たねばなるまいとし、バークレーズのロランス・ボヌ氏はこのプランは「必要」なものであるが、景気後退のレベルに対応しているかどうかは疑問だとしています。この措置そのものは悪くないが、その効果は短期に限定され、家計に信頼を回復させ、投資を再活性化させるかどうかは確かではないと。

"Les économistes pronostiquent déjà un deuxième plan de relance"[Le Monde]
こちらはエコノミストのフィトゥシ氏とアギオン氏の意見を紹介する記事。サルコジ氏の260億ユーロの財政刺激策はケインズ主義の最も純粋な伝統に即したものであり、純粋主義者はこれに拍手を送っていると。OFCEのネオ・ケインジアンのジャン=ポール・フィトゥシ氏はこれは数ヶ月前から考慮していた理想的な刺激策であると激賞しています。これは「1981年以来最も重要な措置」であり、ミッテランが夢見たものをサルコジが実現したと。大部分のエコノミストはこの刺激策の二つの柱—銀行の萎縮により悪化した企業の支援と公共投資の推進—を支持している模様です。しかし別のエコノミスト達は消費と購買力の回復に関して疑問符を付けている模様です。ハーバードで教鞭をとるフィリップ・アギオン氏はアメリカやスペインのような家計に向けた消費と需用の真の刺激策が必要であるとしています。氏によればこの危機は需要サイドの危機であり、典型的なケインズ的状況である、したがって需要を直接に支える対応をなすべきであると。「供給サイドを対象とするフランスのプランは間接的な影響しか持たず、時間もかかるだろう」と。ジャン・ピザニ・フェリー氏は付加価値税の全欧州レベルでの減税を訴えている模様です。なんだか聞いたことのある議論ですねえ(遠い目)。

それから国家公務員の削減計画はアギオン氏によれば狂気の沙汰であるということです。むしろ公共セクターの雇用をつくる必要があると。また自動車産業支援についてはベルナール・マリス氏は必要ではあるが、これが優先的かつ戦略的なセクターであるとは思えないとしています。その他のエコノミストの意見も掲載されていますが、まず必要なことをやってはいるが、これだけでは不十分であり、追加的な経済対策が望まれるというのがコンセンサスのようですね。とはいっても供給サイド重視派と需要サイド重視派で意見が割れているようなのは日本の経済論戦と似ています。マルクスの亡霊がちらちらしているところも含めて。財政均衡主義者の悲鳴も聞こえてきます。

おまけ
"Conservatives, Clientelists, and Koizumians"[Observing Japan]
小泉政権以後の自民党の党内政治の動向をまとめています。第一次近似としては判りやすく悪くない説明なのではないでしょうか。ただ問題は各グループの内部構成と境界線ですね。英語圏の議論でいつも感じるのですが、コイズミアンへの期待から逆算的に勢力地図が表象構築されているという側面はないでしょうかね。コンサバとかクライエンタリストといってもいろいろあると思うのですよ。「保守」の語に込める意味合いもそれぞれなわけでしてね。やはりルネ・レモンばりに明治以来の政治諸潮流に関する総合的歴史の決定版を日本の歴史家が書かないといけないのかもしれませんね。慣用的なラベリングを徹底的に相対化して。そこには目くるめく多様性とともに驚くべき連続性もあると思うのです。いわゆる改革派も含めてです。それはともかく麻生政権がいわゆる上げ潮派を完全排除してしまったのはやはり上手くなかったように思えます。ある程度とりこんでおいて管理しておけばここのところ目立ち始めた離反の動きを最小化できたようにも思うのですがねえ。まあ政局についてはコメントしないでおきます。だいたい政局読みで当たったためしがないですので(笑)。

"Tamp down the old ways" by Hanai Kiroku[Japan Times]
以前靖国問題でアメリカ様に介入を願って泣きついた恥知らずな(別に参拝批判はいいですよ、でも自分の足で立ちなさいということです)元東京新聞のHanai Kirokuさんが、タモガミ・アフェアでまた煽っています。ブログにも書いたように例の論文は問題外であり、また幕僚長の職務にはこの人物は不適当であり更迭されてしかるべきというのが私の立場でありますが、かといってこういう論調にも与するつもりもないのです。

If no action is taken, Japan could start moving back to the age of military dictatorship.

といった個人的妄想を在日外国人に向けて垂れ流すのは止めていただけませんかね。客観的にそういう状況は存在していませんよ。見たでしょう、あのヒステリカルな反応を。それから軍事独裁ってなんなんですか。もしかして東条英機を「独裁者」かなにかと考えているのでしょうか。独裁であったらあるいは日米戦の開戦は回避できたのかもしれませんねえ。本質的に今とさっぱり変わらないですよ。弱い指導者が立っては引き摺り降ろされてとね。キツいかもしれませんが、ピアニストを撃つなというのは個人的にもう止めようかなという気分になっているのですね。まあそれほどの政治的すれっからしさんには見えませんけれども、記者さんのようですからピアニストということはないのでしょうね・・・Baaang!・・・ お元気で。

"Understanding Pearl Harbor"[Guardian]
ガーディアンのEri Hotta氏の記事。米国はパール・ハーバーから熱狂的愛国心ばかりでなく外交の重要性も学ぶべきではないのかという内容です。他者の屈辱感に対して鈍感過ぎるのではないかと。開戦に至る経緯について我々にはごく当たり前の話ですが、英語圏の記事ではあまり見ることはない解説がなされています。要はいまだに頭のおかしな連中が攻めてきたというナラティブですから。Hotta氏はアジア主義と先の大戦の研究をされている方のようです。著書は読んでおりませんが、英語でこうして意見を表明できる日本史研究者が増えることそのものはいいことなのでしょう。ただ本質的に違うがとはことわっていますが、イスラーム・テロリストと重ね合わせるような修辞は危ういのではないでしょうかね。実際、そこからカミカゼ=聖戦士みたいな奇妙なステレオタイプが生じている訳ですから。なおこの論調はフランス語圏の左翼層なら多分それなりに通じると思いますが、英語圏でもガーディアンの読者ならばあるいは通じるのでしょうか。いささか懐疑的なところがあります。

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やはりロワイヤルなんですかね

今日は久しぶりに新鮮な魚介類をいただいて満たされた感じはあるのですが、やや疲労しているせいかどうもあまりやる気が出ないのでフランスの国内ニュースでもクリップしてお茶を濁すことにします。

"Dalaï-lama : Pékin met en garde la France"[Le Figaro]
北京オリンピックを前にしてダライ・ラマ猊下とのパリでの会談が流れた際には、「この根性なしめ!」コールが沸き起こったわけですが(大統領夫人、外相、人権担当大臣のみが会談)、サルコジ氏と猊下との会談が実現する運びのようです。12月6日のポーランドでの会談についての発表が金曜になされると、やはり予想通り北京政府からの圧力がかかった模様です。両国関係にネガティブな影響を与えることになるぞと。サルコジ氏はこの会談の重要性を強調せず、既に20回も猊下と会っているとされるクシュネル外相も「特に問題はない」と述べているそうです。大統領は適切に扱うだろうと。といった具合に適度に人権カードを使ったりもするわけですね。

"Jean-Pierre Jouyet va quitter le gouvernement"[Le Figaro]
先日紹介したジャン・ピエール・ジュイエ欧州問題担当大臣が12月15日に辞職する予定とのことです。EU絡みの司令塔的地位にあった氏が辞職となるのは議長国の席がチェコに代わるからです。10月の時点では議長国交代とともに政府に残らない旨述べていたのですが、今後は金融市場庁長官に就任する予定のようです。金融問題での欧州的協調が叫ばれる中でのこの配置はなかなか考えられたものに見えますね。欧州問題担当大臣としてのキャリアを生かせそうです。またあちこちでその名を見ることになるのでしょう。

"Copé est "très réticent" au vote des non Européens"[NouvelObs]
UMPの下院議員団長ジャン・フランソワ・コペ氏が最近またなにか発言していますね。今度は外国人の地方参政権問題のようです。共同体メンバーとして欧州系には認められているのですが、非欧州系の外国人に地方参政権を認めるべきか否かという問題がありまして、大統領の息子のジャン・サルコジ氏がル・ポワンのインタビューでこれに賛成の立場を示したのに対するリアクションのようです。ちなみに父サルコジ氏も賛成派で知られているのですが、与党UMPは反対の立場を崩していません。理由はコペ氏が述べるように「選挙権は国籍と不可分」だからということですね。この問題で特に現実に動きがあるようには思えませんが、コペ氏としては右派向けのアピールの機会とみなしたのでしょうかね。日本でも話題になっていますが、この問題は外交関係や地政学的配慮とも関連するのでなかなか一般論はしにくいところがありますね。

"Cinq enjeux pour un congrès"[Le Monde]
ランスで始まった社会党党大会のニュースが盛んに報じられていますが、特に社会党第一書記に誰が選ばれるのかが注目されています。セゴレヌ・ロワイヤル、ベルトラン・ドラノエ、マルティヌ・オブリ、ブノワ・アモンといった人々の名前が出ていますが、今のところはロワイヤルが優勢のようです。大統領選で顔が世界的にも知られたロワイヤルですが、社会党の伝統からはだいぶずれているとみなされていることもあって、今回の党大会でも反ロワイヤル派の結集といった話も聞こえてきます。社会党内部の内紛は正直飽きているのですけれども、便利な図がありましたのでリンクしておきます。こんな具合に激しく党派抗争をしておりまして、外から見るとなにやっているんだ感が漂っています。サルコジとともに刷新されたUMPに対して古くさい政党という一般に広がったパーセプションをどう変えていくのかが社会党にとって課題なわけですが、記事によれば、この点でロワイヤルとドラノエが革新的なのに対してオーブリーはより慎重な立場とされています。また同記事によれば、理念的には社会的不平等に対抗すべくEtat preventif(「予防国家」でいいんですかね)という北欧社民主義から借りた概念が採用されているようですね。ともかく極左に食われないように不況をどこまで有効利用できるかの勝負だと思います。平衡の原則から個人的には刷新された社会党の登場を待ち望んでいるのですが、むー、どうなることやらです。内政はともかく外交が出来そうなのはこの中では誰なんでしょうかねえ。

ところでいつの間にかRue89Japonというサイトが出来ていたのですね。私はRue89がわりと好きなので足繁く通っているのですが、し、知らなかったです。社会党がらみの記事をリンクしておきますかね。やや古いですが、コレコレなどですかね。

こんな感じでしょうかね。それでは皆様御機嫌よう。

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閉ざされた言語空間

"The ghost of wartimes past"[Economist]
"Japan's revisionist problem"[Observing Japan]
エコノミストの幕僚長氏の更迭に関する記事です。内容はObserving Japanのいくつかのエントリの内容のほぼ引き写しです。ここしばらくのエコノミストの政治ネタのハリス氏のブログへの依存ぶりは普通の参照の度合いを超えていると思いますが、こんなんでいいんですか。まあ経済ネタ以外ははじめから期待していないですけれども。内容については特に言う事はないです。まあこう書かれるよねという見本です。以前のエントリで書いたように例の「論文」の稚拙過ぎる内容を支持できるというのは知的にさらには道徳的にどうかしている人しかいないでしょう。これは右だの左だのとは無関係です。また政治的次元から言えばこの幕僚長氏の自爆行為はこれまで自衛隊が揶揄されつつも必死に築いてきたソフトイメージを壊してしまうものであり、国益侵害的なものであることも忘れてはならないでしょう。自衛隊関係者=右翼みたいなステレオタイプを強化してしまうことは我が国の自縄自縛的な安全保障の枠組みを動かしていく上で障害にしかなりません。先鋭的な人々にはどうしても理解できないようですが、中道層にまでアピールできないようでは自由民主主義国家においてはなにもできないのです。

それとこの記事やハリス氏のエントリにもある日教組批判ですが、元文科相にせよ大阪府知事にせよ結局のところイデオロギー的観点からの批判のようですから拍手をおくる気にはなれないです。現在の学校現場からはひどくかけ離れた存在になってしまっている点で批判されるべきだと思いますがね。またその教育メソッドも意見の多様性を尊ぶ自由民主主義の原則から言って批判されるべきです。ところで英語圏の論調の一部を見ていると多分日教組というのがどういう組織なのかご存じないのでしょう。平和主義の社会主義者ぐらいの認識なんでしょう。で、それが批判されているから平和が危ないみたいな。一言だけ述べますと、戦後の国民的平和志向と平和主義イデオロギーは「別物」です。前者は評価するが、後者はさほど評価しないというのが私の立場です。平穏な日常を愛するという意味での平和志向はやはり日本のよさなんでしょう。後者についてもう少し言えば、死者の記憶が生々しかった時代にはそこにはある迫力があったわけですが、遅くとも1970年代以降は形骸化してしまったと思います。形骸化とイデオロギー化は同じことです。

なぜ「歴史修正主義」が90年代からごく一部の世論ではありますが、大きな声になっているのかですが、彼らは焦っているのでしょう。冷戦終了以降、国際政治がこれほど大変動しているのに、大きな政治にまったく興味を示さない国民と念仏を唱えるばかりで現実を見ようともしない昔ながらの知識人に。勿論彼らの主観的な世界にそう映っているという話であって日教組だの朝日的論調だのは現在のメインストリームなどではないのですけれども。かつて左翼全盛の頃に日陰者としていじめられたルサンチマンがあるんでしょう。また左派やリベラルが安全保障について現実的なことを語れないのが問題なわけです。ここは英語圏であまり理解されていないようですが、戦後民主主義者とか戦後平和主義者とかいうのはニューディラーとは「全然関係なく」てですね、日露戦以降の平和主義思潮の流れを受けていて、ともかくなぜあの戦争を防げなかったのかという反省意識がその起点にあったわけです。あまりにも理想主義的過ぎておまけに冷戦構造の中でアカい風味がついたりして結局奇妙なものになってしまったわけですが。現実政治とメディア、教育界がねじれた状態だったことも英語圏の方々には知っておいていただきたいです。1980年代ぐらいまで「保守」というとひどくやばいイメージが流布されていたんですね。なにしろ「反動勢力」ですから。もっとも国民は社会党には投票しないんですけれどもね(笑)。そこは非常に賢明なんです。なぜこんな昭和の光景を想起しているかと言うと「歴史修正主義」の主導者達は今でもこの時代の世代的記憶に生きているみたいだからです。ある世代以下は判らないでしょう。私はぎりぎり昭和末期の記憶がありますけれども。元号によって時代が変わるという感覚はやはり日本独特ですから英語圏の人には判り難いかもしれませんが、江藤淳の言う「閉ざされた言語空間」が確かにそこにあったのです(彼みたいに占領軍のせいだみたいなことは「プライド」にかけて言いませんが)。平成の世の中になってもなかなかそこから出られなくてもがいているという状況なんだと思います。明治初期の言語空間が江戸後期の言語空間の内部で悪戦苦闘していたようにです。結局、それを終わらせたのは無用の観念論を排したプラグマティズムでしたというのは我々にとってとてもいい話なのでやはり日本の保守派は明治に根拠イメージを持つべきです。「東京裁判史観」とやらと戦っているうちは戦後の内部です。だいたい東条英機なんてあんなつまらぬ人間よりも維新の志士や明治の元勲のほうが格好いいじゃないですか。明るいですしね。

それからハリス氏のいう社会ダーウィニズム云々ですが、帝国主義の時代ではないというのはその通りでしょうが、中国にせよロシアにせよ「19世紀的」な安全保障観の国であることは自明だと思いますし、理想主義的な戦略家はこの点について幻想を持つべきでないと思います。これは単なるゲームの与件であって別に私は反露派でも反中派でもありません。6カ国協議から北東アジアの地域的安全保障の枠組みというアイディアそのものは理解できなくもないですが、ワシントン体制の失敗みたいなことにならないようにそこでは徹底的にリアリズムを貫く必要があるのではないでしょうか。四カ国条約で日英同盟を失った後の日本帝国の漂流の歴史は教訓に満ちていると思います。右派の論壇人みたいにアメリカのせいだなどとは「プライド」にかけて言いませんが、やはり当時の米国の対日政策にはなにか問題があったように思えます。もし地域的な安全保障の枠組みづくりを推進したいならば、各国の世界観について主観的なアプローチもしないといけないと思います。東アジア諸国は伝統的に欧州諸国のような戦略文化、外交文化ではないですからあちらのイメージでやると必ず間違えます。何人かの民主党系の戦略家の意見を読んでいるとなにか途方もない錯誤をしているのではないかと思わされることがあるのです。日本もそうですし中国のことも基本的な事柄すら判っていないのではないかと。

空さんとハリス氏の間の忘却と修正は違うという議論に関して言いますと、単なる忘却ではないでしょうと意地悪なつっこみを入れておきましょうか。誰もが知っているように英米には問題化を防ぐための巧妙な戦術があります。例えばフランスはこの辺のハンドリングはあまり上手ではないようです。もう少し正直みたいです。私はこの賢明さといいますか狡猾さを、不道徳でありますが、たいしたもんだなと思っているのですね。例えば、メディアのレベルでも、日本がアジアのaggressorだという時には(ええ、勿論堂々たるaggressorだと思います)、against Asian countriesまでであって、colonized by Western Powersをさりげなくオミットするとかです。こうすることで自分達を第三者であるかのように切り離すわけです。いえ、お前らも・・・みたいな下品なことは言いません。ただ忘却はdeliberateなものであることだけ指摘しておきます。これは例が悪かったかもしれませんが、英語圏のアジア報道全般にネタの取捨選択のレベルから記述の仕方のレベルまで問題化を防ぐための言説戦術は見て取れます。BBCだろうがインディペンデントだろうがNYTだろうがです。たいしたものです。

だらだらとなにを書いているのかよく判らなくりましたが、もう眠いので投稿しておきます。

追記
「全然関係ない」というのはさすがに言い過ぎでしたね。そこには互いに利用し合うような関係があったわけですから。ただ基本的には彼らも日本思想史の中にいるんだという点を強調しておきます。また論壇がなんでこんなに歴史の議論ばかりしているのかという点については中韓の歴史カードの乱用や右派内部の親米と自立をめぐるジレンマなどについても言及しないといけなかったですね。ただこういう議論は国民の大多数からはかなり遊離したところの空中戦だと思います。そうした努力を無益だなどとは勿論言いませんが、全体として閉ざされた空間の中での白熱に感じられてしまいます。で状況はさっぱり動いていないと。こういうメタに立ったような物言いは偉そうですが(私もその内部にいることは自覚しています)、やはり現実を動かすことのほうが先に思えます。それからこのエントリはエコノミストの記事ではなくてハリス氏のポストに対するコメントです。空さんのエントリも参照しています。誰に向けてどういう文脈で語っているのかここだけ見ても意味不明な文章で失礼しました。

再追記
>例の「論文」の稚拙過ぎる内容を支持できるというのは知的にさらには道徳的にどうかしている人しかいないでしょう。

あちこちのブログを読んでいるうちにやはり少しキツ過ぎる表現かなと思いました。別に一般の人が嫌みたらしいセミプロ歴史家気取りになる必要もないわけですから。「この論文は知的にさらには審美的にかなり深刻な問題を含んでいる」に修正しておきます。制服組トップクラスの人にはもっと戦史や国際法について重厚な知識を期待したくなるのでこんなもんなのかという拍子抜け感があるのです。種々の情報から察するにたぶんいささか風変わりなところはあっても根は国を愛する「いい方」なんでしょう。この職務にふさわしい方だとは思えませんが。政権にダメージを与えることを想像していなかったんですね。ふう。

"Tamogami's World: Japan's Top Soldier Reignites Conflict Over the Past"[Japan Focus]
「昭和天皇」における史料の扱いの杜撰さと解釈の恣意性によってかつて春先の午後の公園のベンチで激しくわなわなとさせられたビックス氏がここで介入ですか、軍国主義の復活ですかと身構えて読んだら随分ぬるくて拍子抜けしました。幕僚長の認識に軽蔑の入り混じった微笑みを見せつつ現状の日本の平和に安堵し、アメリカ帝国主義に敵愾心を燃やす内容です。また米国の後押しで進む平和憲法の骨抜き化を憂いています。天皇裁判がなかったことを悔やむ一方で、米国による都市無差別爆撃と原爆投下を非難し、パール判事と呼応するかのように西洋列強の帝国主義、植民地主義も糾弾しています。まあ左翼としてある意味一貫している人ではあります。確かに一見したところダブスタはない。一貫していればそれでいいのかという話もありますが。ただもしビックス氏が述べるように1945年に皇室制度を廃止して共和政にした場合には戦後日本は第二のワイマール共和国になったかもしれませんね。敗戦後、先帝陛下が強力な統合象徴機能を果たされたことはやはり日本にとって僥倖だったのでしょう。

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変われば変わるほど

「狡(こす)いぞ日銀」[産経]
一般紙はまたスルーかと思ったのですが、産経が今回の利下げについて批判的な記事を掲載しています。産経の経済論調ってこんな感じでしたかね。一言、「狡いぞ」と。中央銀行の政策について一般の人が関心がない(さらに日銀がなにをしているのかも知らない)というのはどうかと思いますのでこうやって記事が出ること自体は多分いいことなのでしょう。でも普通に考えてこういうイベントの時にはエコノミスト達が各紙に論評を寄稿するものだと思うのですが。ところで産経サイトの「小新聞化」傾向は世の中的にはどのように受け止められているのでしょうか。世相への敏感さとある種のアナーキーさが持ち味だったのは以前からそうだったような気もするのですがどこまでいくのかやや心配になります。

“パラオの父”死去 日本軍玉砕のペリリュー島で遺骨収集や慰霊に尽力[産経]
産経らしい記事ということなのかもしれませんが、遺骨収集事業に関しては個人的に思うところがあるので感慨深く読みました。こういう方への感謝を忘れるべきではないですし、また個人で執念深くやっている方にも関心が払われるべきです。本当は政府が動くべきなのであって、こういう部分を怠るから祟られるのだと思います。

"Probing the real Japan"[JT]
国際交流基金賞受賞記念のケネス・パイル氏のインタビュー記事。著名な近代日本外交史家で最近話題になったJapan Risingの著者です。積読ですが、明治期の欧化と国粋のせめぎあいを扱った著書もあります。このインタビューでも著者の基本的な考え方が示されています。長期的な視座からいわゆる政治文化の連続性を強調する議論ですから文句のある人もあるでしょうが、そうした視座にはそうした視座なりの認識利得があるのだろうとは思います。それですべて説明されると困りますがね。

まず日本はその生存のために外的環境の変化にきわめて敏感でなければならないという条件を背負っている国であるという点。長期的なスパンでの外部環境への適応の話です。インタビューにはありませんが、著者によれば、ここから日本の驚嘆すべき「機会主義」の伝統が生まれると。外部からの無原則的な文化の摂取の貪欲さもこの外部環境への敏感さと関わっているわけです。島国は多かれ少なかれそういう傾向があるような気がしますが、これはまあその通りでしょうね。

それから日本の保守的伝統とはなにかという点。日本の保守的伝統は全歴史を通じて一貫している。アメリカは占領時代に日本を民主化し、保守主義を根絶やしにしたと考えたが、彼らは生き残り、今でも権力を握っている、今の内閣のメンバーを見てご覧なさいなと。それで日本の保守とはなにかという点ですが、

And Japanese conservatism is very different from conservatism in, say, Europe, where you have a set of deep-seated conservative principles. Japanese conservatism is pragmatic. It goes with the flow.

欧州の保守のようなプリンシプルズを持たないプラグマティストだ、流れのままに行くと。go with the flowというとなんだか禅みたいです。なんだかんだ言っても私はこういうプラグマティズムの伝統については基本的には尊重していますので、ドグマチックな保守には違和感を抱くのかもしれません。非イデオロギー的な実際家といえどもやはり言葉は欲しいわけでそれを供給する言論の質の悪さに困惑させられてしまうようです。ついでに言っておくとパイル氏によれば日本の保守的エリートは国粋主義だろうが亜細亜主義だろうが自由民主主義だろうが西洋的な意味において「信じている」わけではないということになるのですが、そこまでクールなマキャベリスト集団とまで言えるかなという気もしてきますね。「情」の成分の濃さというのもありますね。

最後に外部から見るとなにをしたくてどこに行こうとしているのかさっぱり判らないが、そこには感知し難いdeliberateな戦略というものがある。インタビューでは、最初に日本に来た頃には戦後の世界情勢への非関与は平和主義や戦争のトラウマによって説明されていたが、そこには戦略の存在が感じられた、永井陽之助教授が「吉田ドクトリン」と名付けたものだが、日本が戦略をもっているということを見つけ出すことが一番エキサイティングだったと語っています。また日本で変化が起こる時にしばしばその急激さで外国人を驚かせるが、それは部分的には我々がレーダーの下で進行している事態について研究していないからだと言います。

The things that are changing — they're there, and when the tipping point comes, whether it's through North Korea deciding to fire a missile over Japan again, or Chinese provocation, or something, or a consensus reached through a political realignment at home — Japan can change very rapidly because those things are there.

those things are thereのフレーズを繰り返しているのですが、お前さんには見えないのかと言いたいのかもしれません。そういうわけで著者はJapan Risingでやはり微細な兆候的な事象から今後は日本が外交的にassertiveになると予測しています。インタビューでは軍国主義云々ではないよと釘を刺していますね。前からそう思っていましたが、このインタビューを読んでいて日本研究というのは暗号解読に近いものがあるんだなとあらためて感じました。また日本研究者の第一世代と第二世代の差について述べているところも興味深かったです。ライシャワー世代に比べるとsympatheticでないということはないのだが、アカデミックなのでもう少しdispassionateだと。個人的にはこのぐらいの距離感がいいようです。それと小沢一郎の高評価がこの人の特徴でしょうね。そこからアーミテージ・ナイ・リポートを批判したわけです。日本がイギリスみたいになるはずがないと。ところでJapan Risingの邦訳がなくて韓国語訳があるという状況はどうなのよと思います。あちらでは日本の野望云々の文脈で受け取られているようですね。とほほ。

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反論では弱過ぎる

"Rudd angered by Gallipoli remarks"[BBC]
日本にとって第一次世界大戦はやはりどこか対岸の火事のように—それが誤りの始めだったわけですが—記憶されている歴史事象でありますが、ガリポリ上陸作戦は後のトルコ共和国初代大統領ケマル・アタチュルクが当時零落の一途をたどっていたオスマン・トルコ側の「反乱将軍」として獅子奮迅の激闘をしたことで有名な戦いです。オーストラリア史には最近まで興味がなかったので恥ずかしながらこの戦いで敗北した側へのインパクトについて知ったのはごく最近のことでした。そういうわけで個人的にとてもタイムリーな記事でした。オーストラリアとニュージーランドのネーション意識形成にとって重要な意味を持つとされるこの戦いの評価をめぐって元首相と現首相の間でちょっとした諍いが生じているようです。記事によると、労働党の元首相のポール・キーティング氏の発言は以下。

Without seeking to simplify the then bonds of empire and the implicit sense of obligation, or to diminish the bravery of our own men, we still go on as though the nation was born again or even was redeemed there - an utter and complete nonsense.

これに対してラッド首相がガリポリはオースラリアのナショナル・アイデンティティーの一部であり、この戦いの犠牲となった兵達はプライドの源泉であり続けると批判しているとのことです。「ナショナリスト」ラッドの一面が出ていますね。記事にもあるように、この戦いで勇敢なアンザス軍兵士が無能な英軍に裏切られたという「伝説」(ママ)が旧宗主国からの独立意識の高揚に大きな役割を果たしたとされているようですね。オーストラリアのナショナル・アンデンティティー・ポリティックスもなかなかに複雑なようでそれが時に不透明に見える動きとなって現れることもあるようです。最近少し勉強し始めたばかりの素人ですのでここではあまり踏み込まないことにします。なお今日はオージー・ビーフをいただきました。牧畜業のポールさん(かどうか知りませんが)には感謝を捧げます。

"U.S. candidates vow to 're-engage' Japan"[Japan Times]
アメリカの両大統領候補の対日政策についてのJTの記事。小泉ブッシュの蜜月時代—首脳同士の個人的関係に依存する—から徐々に齟齬が大きくなっている中で日米関係をどう再定義していくのかは勿論我が国にとって死活的な問題なわけですが、関係者を除くとどうもそういう問題意識が広く共有されているようにあまり感じられないのが困ったものです。それほど濃い内容ではありませんが、ジャパン・ハンズや研究者の声が拾われているので便利な記事かもしれません。個人的にはマケイン氏よりもオバマ氏のほうが日本の国益にとってはいいのではないかと思い始めていますが、これには賛成しない方も多そうな気がします。ただ嬉しいことを言ってくれる相手が必ずしもいいパートナーとは限らないわけで、一部にある民主党アレルギーにはあまり根拠がないように思います。それもある種の対米依存心の現れだといったら叱られるのでしょうか。記事の最後にあるように問題は日本側で政権交代があった場合にどうなるかですね。やはりやらかしてしまうのかもしれません。それが致命的なものにならないことを願うばかりですが、いくらなんでもそこまで愚かではないだろうと信じたいものです。

白川日銀総裁記者会見の一問一答[朝日]

 ──与謝野馨経済財政担当相が利下げに肯定的な発言をして以降、日銀の考えが変わった印象があるが。総裁は政治的な圧力を感じたか。

 「結論から言うと、政治的なプレッシャーを感じたことは全くない。どの委員もそうだが、国会の同意を得て内閣が任命して政策委員メンバーが選ばれるが、いったんこの仕事に就くと、何を一番大事にするかと言うと、自分に託されている仕事をしっかり果たしていくという責任だ。責任は、その瞬間で評価されるのではなく、ある程度の時間を経て経済や金融の姿によって評価される。それだけに、何年何月にこういうことがあったというのは、ほとんどの人は覚えていない。自分が、ここでどういう決断をするかが、将来の金融・経済にどのような影響を与えるか、その一点で判断をしている。例えば、これだけ経済情勢が厳しい中で、政策金利を引き下げてもどれほどの効果があるのか、ということもあると思う。確かに、今、経済の大きな調整を考えると、金利だけで変化するわけではない。一方で、日本銀行は金利政策を委ねられている。自分達自身がアクションに責任を持っている立場であり、そうした立場で何をやるべきかということをギリギリ考えているということだと思う。ほかの委員の頭のなか、感情の動きをわたしが云々する話ではないが、自分の経験からして政治的なプレッシャーがあって、この際、金利を下げようと判断した人は1人もいないと断言できる」

へえ、そうなんですか(棒読み)。しかし金利の上げ下げのたびにこうも方々からノイズが発生するのは本当に困ったものです。日経も・・・。日銀がまるで高い見識をもって政策決定しているがごとく見せることが大切だと思うのですけれどもね。

"So much for the Japanese system of lifetime employment"[Coming Anarchy]
またですね。これほどの責任ある公的地位にある人間がなぜこうも不用意な個人的見解を公表したがるのか理解を絶しています。繰り返しますが、歴史は歴史家に任せろです。この「論文」は読んでいませんが、報じられている限りでは「正論」あたりのサークルの論議とさほど変わらないように見えます。仲間内の談義の臭いがします。この方はまったく存じ上げておりませんが、幕僚長がこの程度の見識では困ります。個々の論点についてコメントしませんが、この手の論調の問題を指摘するならば、それが「反論」でしかない点です。「東京裁判史観」とやらへの反論形式をとっている限りは永遠に脆弱な立場にとどまり続けるでしょう。たとえそこに実証的になにほどかの貢献があったとしてもです。戦後の支配的言説に不満があったとして事実を淡々と積み上げて単純なナラティブに複雑な現実を対置するか、より洗練された複数のパースペクティブを提示していくかのどちらか以外にはなんら生産性はないのであって粗雑な「反論」の形をとった時点で敗北してしまいます。不条理に思えてもそれが現実であることを認識してください。ともかくこういう自爆は百害あって一利無しです。拍手をおくっているむきには暗澹たるものしか感じません。あなた方はすっきりすればそれでいいのですか。政権の動きは迅速で評価に値すると思います。やはり麻生氏は外交に関してはなかなか手堅いようですね。

ではでは〜。

追記
後で読んで舌足らずに感じられましたので追記します。「歴史は歴史家に・・・」というのは単に放っておけという意味ではなくて歴史問題については国際的に通用する学者を養成することが大切だという積極的な意味合いもあります。また不用意な発言に対して批判的なのであって、一切語るべきではないという意見でもありません。ただ余程戦略的に振る舞わないとやられます。メディアも日本語圏以上に英語圏のメディアを意識したほうがいいと思います。もはや主戦場はそちらになってしまっているようですから。次に幕僚長の主張ですが、論点のすべてを全面否定するつもりはないですが、単純な誤謬に溢れていますし、自衛隊のトップクラスの主張としては幼稚過ぎると思います。こんなチープな陰謀論つかまされるなんて。最後に「正論的」論調(ひとくくりにはしませんが)については「東京裁判史観」へのアンチをやっている限り、そこから抜け出せなくなると思うのですね。東京裁判そのものはいくつかの優れた仕事によって既に「歴史化」されているわけですからもはや議論の参照点にしないほうが賢明だろうと思います。またここにこだわりだすと反米主義しか出てこないような気がするのですが。また一部の論者はその悪魔化の修辞の乱用により視点が極度に狭隘化してしまっていて対立する当の相手のイメージもそうとうに奇妙なものになっていると思います。もはやマルクス主義者全盛の時代ではないのです。アンチが強くなり過ぎると対立する当の相手をちょうど裏返したようにしてドグマ化、イデオロギー化してしまうなどとよく言われますが、その見本のような話に思えます。こういう人々に関しては、率直に申し上げまして、左翼イデオローグもろともに没落することを祈っています。

再追記
雪斎氏の軍人勅諭による批判にシビれてしまいました。まあここで226を想起するのはいささか行き過ぎかもしれないとは思いますが。今回の事件には人をして脱力させるなにかが漂っています。なおこの件についてはいろいろ読んでみていくつかの軍事ブログが一番説得的でした。

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声が小さい

東欧の経済状況の悪化ぶりについて書こうかと思ったのですが、もう少し調べてからにしようと思い直して以下最近の英語圏のJapanネタをクリップしておきます。

"Will Japan Go Nuclear?" by Robyn Lim[Far Eastern Economic Review]
ねえ、最低限ググって調べてから投稿したほうがいいんじゃないという他のまともなメンバーの無言の抗議と冷ややかな視線を全く気にしないその傍若無人ぶりで名高いNBR常連のロビン・リム氏の記事。関係ないですが、NBRって無知で傲慢な人間達を少数のエキスパートが教え諭す場なんでしょうか。この記事は地政学の奥村さんのところのその著書についてのコメント(ふーん)つきのエントリから。このたびのテロ支援国家指定解除が日本の核武装への道を開くだろうと警鐘を鳴らす内容です。どうもまったく思わぬところから援護射撃(?)が来たようで、まあ、危機を煽っておいてくださいな。誰かに対する牽制になればいいんじゃないですかぐらいですね。

"Japan as Spoiler in the Six-Party Talks: Single-Issue Politics and Economic Diplomacy Towards North Korea" by Maaike Okano-Heijmans[Japan Focus]
Japan Focusということでどうせまたアレな記事だろうなと思っていたらなかなか精密な分析で感心しました。そう言えばこの論者は前にどこかで読んだことがありましたねえ。日本の対北朝鮮外交についてこの記事はよくまとまっていますのでこの問題についてなにか言いたいJapan論者は最低限この程度の知識と認識をもってからなにか言うようにして下さいね。勿論すべての文脈をひとつの記事に網羅することなどできませんから、他の文脈もあるだろうぐらいの想像力ももっていただきたいですが。別に日本が積極的にエンゲージメントすべき理由がなかっただけの話で特定条件下においてはごく合理的な行動でしょう、そして条件がどのように変化したのかの算術が今必死になされているのでしょう。それだけのことです。アメリカへの信頼性については別に平気なのではないでしょうかね。単純な反米屋さんには本当に困ったものですけれども、我が国には戦略的親米派がいればいいのであって奇妙な種類の親米屋さんが減少していることそのものはよい傾向だと思いますね。なお私は戦前の「親米派」自由主義者達に深い敬意と愛着を抱いている人間です。

"Managing the Japan-US alliance" by Koji Murata[East Asia Forum]
East Asia Forumは全般に「東アジア共同体」的な発想をする英語圏のリベラル系論者が集うところという印象のあるブログですが(いろいろいますが)、日本や中国においてその名が口にされる時の響きやイメージと英語圏のリベラル系論者のそれとの落差を味わうにはなかなかいいところかもしれません。Siro Armstrong氏の政局ネタにも飽きていたので村田教授が寄稿しているのを見ておやと思ったので紹介しておきます。ここしばらくの日米関係の不協和音に対する警鐘といった内容で日本国民からするとなんということもないことが書かれているわけですが、英語でこういう場所に寄稿すればそれだけで十分に意味があります。なぜならば英語圏においては日本国民のヴォイスが圧倒的に不足しているのですから。

"New US leaders need a Japanese 'jolt'" by Yukio Okamoto[Asia Times]
ウィリアム・スパロー氏の植民地主義的欲望に塗れた記事によって信頼性を著しく損なっているアジア・タイムズですが、この微妙過ぎる新聞にも日本国民の寄稿者が増えているようでなりよりです。岡本行夫氏による日米の安全保障関係についてのこの記事ですが、民主党によるインド洋での給油活動への妨害を批判し、在留邦人の保護や海洋の安全における自衛隊の役割の強化を訴えています。これも日本国民からすれば特になんということもない話でありますが、英語で発信することに意味があるわけです。なぜならば英語圏において日本国民のヴォイスは徹底的に不足しているのですから(何度でも反復します)。

"The LDP's Long Goodbye" by Tobias Harris[Far Eastern Economic Review]
ハリス氏の自民党における派閥の機能についての記事。近年の総裁選挙や閣僚人事から派閥の無意味化の傾向を指摘しています。派閥はどうやら多数の勉強会や議員リーグやイデオロギー的なクラブや伝統的な族議員に席を譲ったように見えるといい、近年の自民党は派閥や政策集団というよりも漠然としたイデオロギー的な「傾向性」で分裂しているようだと述べています。中川昭一氏の「真の保守」、中川秀直氏の「上げ潮派」、与謝野馨氏の「財政再建派」、伝統的な族議員、加藤紘一氏の「リベラル」、それから多数派たるリスク回避派(the risk averse)と。それで麻生内閣で表舞台から去った小泉構造改革派の後継者達の去就、彼らが自民党にとどまるのかあるいは党を離脱するのかが問題になるとしています。そしてこのイデオロギー的傾向性へのシフトによって自民党はかつてのような一貫性—権力の座につき続けるという目的の下で—を喪失した。かつてもイデオロギーは存在したが、派閥が無意味化するにつれて、政権の維持と並んで政策的目標がイデオローグ達にとって重要になっている。最後は問いかけで終わっています。

Can the LDP last as a party pursuing several distinct and contradictory policy agendas? Will Mr. Aso or a future party leader be able to impose a uniform policy agenda on the party? Or will the next general election prove a catalyst for a party realignment that breaks up the LDP as it exists today?

なるほど。これならばさほどの異論はないですね。私はハリス氏の「イデオロギー」や「イデオローグ」の用法を取り違えていたのかもしれません。別の言葉に置き換えて読めばいいわけですね。ただ日本政治思想史と日本政治史の常識が英語圏で十分に共有されていない以上、ハリス氏の記事を読んでも読者には自民党の「保守」とか「リベラル」とかの意味は判らないでしょうね。また実際には仔細に各グループの面子を観察してみるとその乱雑さに軽く目眩がしたりするわけですね。一枚岩の思想集団などではないわけです。このあたりはどうも海外ウォッチャーには見えないようです。それと私自身は一国民として我が国の政党政治の成熟を待望しておりますし、特定の政治家さん達を応援したりはしているのですけれどもね、消音ボタンを押して眺めると、私の目には日本政治はある運命の作用の