カテゴリー「本」の15件の記事

日露戦なかりせば

もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から (朝日選書) Book もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から (朝日選書)

著者:コンスタンチン・サルキソフ
販売元:朝日新聞出版
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ここしばらくまとまった時間がとれなくてTwitter(右側にリンクあり)でのつぶやきにとどめていましたが、三日坊主の性格を矯正すべく軽めの内容で更新しておきます。

以前コメント欄で勧められたサルキソフ氏の『もうひとつの日露戦争』を読みました。この戦争に関しては最近では、文化史的、メディア史的な研究の他、「最初の総力戦」とか「第零次世界戦争」とかいったやや大仰なキャッチフレーズの下にグローバルな視座から新たな照明を当てようとする試みがなされているようですが、本書はあまりけれん味なくバルチック艦隊提督の私信を中心に当時のロシア側の事情を明らかにしています。私はこういう着実な仕事が好きです。戦争の語りというのは一般にそういうものですが、日露戦争の語りも日本側の視点ばかりになっていますので本書は新鮮な視点を提供してくれるでしょう。

本書は著者が独自に発掘したロジェストヴェンスキー総督の妻子にあてたプライベートな書簡史料の紹介が目玉になっている点で「発見」の書です。書簡から浮かび上がる総督の人柄や錯綜する人間関係はなかなか興味深いものがあり、単なる「愚将」のイメージからは遠い人物であったことが分ります。このイメージは日本だけでなくロシアでも強いそうですが、著者によれば、帝政末期の無責任体制において無謀な作戦の責を全面的に負わされた格好になったということです。精鋭たる旅順艦隊(太平洋第一艦隊)に比べてバルチック艦隊は俄かづくりの混成部隊に過ぎず、欧米列強の中立維持によって燃料補給や食糧補給もままならず、本国との連絡もきわめて困難な状況に置かれ、戦闘開始以前に勝負がついていたことが総督の嘆きの書簡からよく分ります。歴史の肌合いの感じられるところですが、だらだら引用を続けるのもなんなんで簡単に済ませると、例えば、日本海海戦前の書簡から。

 お前にはもう伝わっていると思うが、昨日、われわれは南シナ海に到達した。われわれは今、日本艦隊がわれわれを打ち負かすためにいつ攻撃を開始するのか、また、日本艦隊がいつ、そしてどこで、ニェボガートフを捕捉することができるか、と判断することで大忙しだ。

[...]私は疲れた。熱帯の暑さの中でもう六ヶ月目だ。お前も覚えている通り、ペテルブルクの夏でさえ、私にはつらい。航海を続行してからあと二日ですでに一ヶ月になる。四十五隻体制の艦隊だ。航海再開からすべての船で故障や異常が起こっている。中には、十二回も故障や異常を起こした船もある。

[...]たとえ惨めなものであろうとも、幕を閉じることは必要だ。今、艦隊の誰もが締め付けられるような思いになっている。

[...]われわれはうぬぼれて、全部門にわたってロシア独自の学問を発展させようとし、時期尚早のうちにわれわれの教師だったドイツ人を追い出してしまった。すべてはここに起因する。彼らのもとに戻るべきである。ドイツに学ぶためロシア国民を派遣すべきである。我々の秩序のため、ドイツ人を呼ばなければならない。

といった具合に敗北を完全に予期しているにもかかわらず、軍人として死地に赴く悲愴な覚悟が記されています。個人の進退のみならず、敗北の後にロシアはどういう運命を辿るのか、ロシアにはなにが欠けているのかについて考察しているあたりには「戦艦大和の最期」を彷彿とさせるものがありました。

また本書の特徴としては「日露戦争は避けられたかもしれない・・・」という歴史のifをめぐって考察がなされている点でしょう。著者によれば日露戦争は日英同盟締結後でも十分に回避可能なものであったとされています。大津事件によるニコライ2世の怨恨説を退け、皇帝側に戦争の意思が必ずしもなかったこと、当時の極東政策が中央の手を離れて極東総督一派の推進派に握られていたこと、皇帝の曖昧な性格から責任体制が不透明になっていた状況-どこかで聞いたような話ですが-などが明らかにされていきます。

例えば1903年の日本側の均衡提案をロシア側が受け入れ、ロシアが満州、日本が朝鮮というように影響圏を分割できていたならば、日露戦争は回避できただろう、第一次政界大戦後の日露秘密協約に結実したように英米の中国進出に対して日露には共通利害があったのだとしています。ここで引用される日露をぶつけて両国の国力を消耗させ、フィリピンを安堵するというルーズベルトの発言にはやはりなと思わせられるものがあります。日露戦争というのは代理戦争ですからね。ついでにこの敗戦がなければロシアの共産革命も回避できたかもしれないという思いも-著者のソ連に対するスタンスは承知しておりませんが-伝わってきました。

当時の国際政治的、地政学的状況についての思考を非常に促される議論なのですが、ロシアのみならず日本にとっても都合のいいシナリオのように思えてくるのは著者一流の説得力なのでしょう。実際、回避シナリオが実現した場合には朝鮮統治と満蒙特殊権益をめぐる深刻な問題は発生しなかった訳でしょうから。勿論こういうのは「後知恵」に過ぎないですし、ロシア側の膨張主義的傾向を甘く見積もっているのではという批判もできるでしょう。ちなみに日露戦争の批判といっても日本側の「侵略」の糾弾ではなくてロシア側の自己批判、そして著者の日露の友好への思いが伝わってくる趣きの議論になっています。

以上、予備知識なしでも読める一般向けの内容ですが、発見と洞察に満ちた本ですのでおすすめしておきます。

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アマテラスの誕生

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書) Book アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

著者:溝口 睦子
販売元:岩波書店
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神々の居す国に生まれたわりには日本神話の世界への接触が遅れたのはあるいは私がアカの家の出であることと無関係ではないような気もしますが、おそらくは戦後生まれの日本国民の多数にとっても神社参拝の際にへえと思ったりする以外にはこの世界は日常生活からやや遠いのではないだろうかと推察します。大学の同級生でその名すら知らない人にやや衝撃を受けつつも請われてアマテラスとは何かについて説明させられた時に、いや、私もさっぱり知らないぞ、これはちょっとまずいのではないか(汗)、と思ったことからアマテラス関連の文献に目を通すようにはしていました。また或るフランス人とこの神について話したこともありますが、日本好きのブログなどを見ていても、どうも日本に関心のある外国人の日本文化のイメージにとって彼女はひどく魅力的な存在のようですね。日本文化に占めるフェミナンなものの位相がひどくエキゾチックに見えるという話は今に始まったことではないですが、そうしたものを象徴し、要約し、凝縮する記号として映じるようです。まあそういう見方もどうなんだろとは思いますが。岩波新書で新刊が出ていたので紹介しておきます。

本書はアマテラス論であると同時にタカミムスヒ論でもあります。アマテラスはともかくタカミムスヒについては一般的な認知はかなり薄いだろうと推察しますが、日本神話研究に多少の興味を持ったことのある方ならば上古においてはアマテラスではなくタカミムスヒ(高皇産霊)こそ天の最高神、皇祖神に他ならなかったという説が有力であることは御承知かと存じます。天孫降臨神話においてアマテラスとともにあるいは単独で出現するこの影の薄い神の由来について著者は大胆な仮説を提出しています。著者によればタカミムスヒが登場するのは4世紀末から5世紀初頭のことであり、これは高句麗を最大の仮想敵国として国造りを進めるヤマト政権が新しい王権思想を朝鮮半島から輸入した際に創られた神であるということになります。天孫降臨型の神話が朝鮮半島に存在していること、さらには北方ユーラシア世界に起源を有することは以前から指摘されてきた事実でありますが、著者は4、5世紀の東アジア世界の国際情勢の中でこの神の由来を説明していきます。五胡十六国の分裂時代に活発化する周辺地域の国家建設の動きの中で中華世界と北方ユーラシア世界の二重の性格を持つ統一国家として高句麗が立ち現れるが、広開土王の碑に記されたようにこの高句麗との戦争で手痛い敗北を喫したことが倭国に王権の強化への志向を抱かせることになった、この際、強力な統一王権を正統化するのに適当な北方系の天孫降臨神話の骨格が導入されのだ、と。

この競争的模倣説とも呼ぶべき著者の仮説ですが、国内情勢に目を転じるならば、やはりこの時期に倭国に大きな変動が生じているとされます。それは倭国の独自色の強い文化から朝鮮半島の影響の強い文化への古墳文化の劇的な転換、応神王朝論や河内政権論が想定するような政権の動揺のことですが、この変動を対高句麗戦の敗北と関連づけるべきだと言うのが著者の主張です。かくして敗戦ショックで戦勝国を意識しながらの国造りというその後何度か見られたパターンを著者は5世紀前半に見ています。豪族連合的な社会から統一王権体制への転換にはそれを正統化する政治思想が必要であり、それが天孫降臨神話であるという訳です。

タカミムスヒそのものについては、まず記紀神話における天孫降臨の場面の分析からタカミムスヒが主神であるのが古形であり、両神が併記されるのが過渡期であり、アマテラスが主神となるのが最終形であるといいます。また祭祀の面に注目して「月次祭」(つきなみのまつり)が紹介されますが、「月次祭祝詞」によれば「八神殿」においてタカミムスヒを筆頭とする「宮中八神」が皇祖神として祭られていたこと、またこの祝詞にアマテラスの名が挿入されるのが後の時代であることが指摘されます。この天の最高神、皇祖神であるという論点に加えて、神名分析からこの神が太陽神であること、日祀部(ひまつりべ)において太陽神祭祀がなされていたこと、朝鮮半島の神話の神名分析(「解」の語義解釈)から王祖神の名前がタカミムスヒと同型であること、この「孤立した神」にまつわる伝承がきわめて異質であることから外来神であると考えられること等が主張され、支配者は天から降りてきた天の主宰神の子であるという神話を当時の先進思想として導入したという論点を確認しています。

5世紀に怒涛のごとく北方系文化が導入される以前の弥生時代に由来する古層の文化がいかなるものであったのか、著者は手がかりを神話に求めていくのですが、この点について戦後の歴史学の禁忌について触れています。しかし神話は無文字時代の思想や文化、社会や歴史に接近するのに貴重な情報源であり、不可知論はとるべきではないとしています。ここで著者が提示するのは記紀神話の二元構造です。著者によればイザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノヲ~オオクニヌシと続くイザナキ・イザナミ系と天孫降臨神話を中心とするムスヒ系の二つの神話体系が存在し、両者は「国譲り神話」で結合されているとしています。著者によれば、まずムスヒ系建国神話が大王家と王権中枢の伴造氏族により作成され、次にイザナキ・イザナミ系神話が地方豪族によって作成され、第三に後者の主神たるオオクニヌシがタカミムスヒに国の支配権を譲るという神話を挿入して両系統が接合され、最後に海幸・山幸神話、日向神話が後から付け加えられて完成されたといいます。この説によれば豪族を中心に作成されたイザナキ・イザナミ系神話は4世紀以前の記憶の痕跡をとどめているということになります。

この系統の特徴として著者が挙げるのが、中国江南から東南アジア、東インド、インドネシア、ニューギニアに広がる南方的性格、「海洋的」性格、さらに「多神教的」性格です。海に関わる話に溢れていることは一読すれば判ることですが、本書では太平洋の彼方に存在するとされる「トコヨの国」とオオクニヌシとの関係などに触れています。多神教的というのは至高神のいない神々の戯れる世界のことで、4世紀以前の土着の神話世界における神々の王はアマテラスではなくオオクニヌシであったこと、圧倒的な量の伝承を誇るこの「国造りの神」に初期王権の性格が表れていること、天つ神と国つ神の二元構造は5世紀の作為であり、建国神話と分離してこの神を理解すべきことなどが論じられます。各種伝承から倭王が豪族連合の盟主に過ぎなかった時代の王権の姿が、有力神の頭領的存在であるオオクニヌシのイメージに透視されるとしています。

ではこの時代のアマテラスがどのような存在だったのかという点に関しては著者は伊勢地方の有力な地方神であったという直木孝次郎氏の有名な伊勢神宮論に同意しています。また日本書紀の伝承の分析から伊勢と沖ノ島が東国および半島への交通の要衝にあり、沖ノ島の宗像三女神とアマテラスとが神話上親子関係にあること、神功皇后伝説において政治的な役割を担った地方神として登場することなど皇祖神ではないアマテラスについて論じていきます。さらに著者の述べる神話の二元構造に対応して外来の北方系の神々が「連」系の氏グループ、在来の神々が「君」系の氏グループに担われるという分担体制が出来ていたとされます。この分担は「連」の下位の「伴造」系の氏が外来神、「君」系の下位の氏が土着神という具合に中・下の豪族層にも見られること、さらに地方豪族の系譜にイザナキ・イザナミ系の神話が記されていることなどから列島の豪族ネットワークにおいて神話の共有がなされていた事実に注意を促しています。

最後にこの地方の太陽神であったアマテラスが皇祖神、国家神の地位に格上げされるようになったのは律令国家の成立に向けて改革を推進する天武天皇の時代であったといいます。国際的な面から見るとこの動きは中国の文字文化という新しい外来文化を取り入れるにあたって古い外来文化である北方ユーラシアの支配者文化を脱ぎ捨てるという側面、それから圧倒的な中国文明に対して土着の文化で対抗するという側面があったのでないか、あるいは「蕃国」「朝貢国」として遇そうとする新羅への対抗意識の表れなのではないかと一般的に述べていますが、国内的には律令国家化の中での神話の一元化と姓制度の改革という政治課題に答える動きとしてアマテラスの皇祖神化を捉えています。天武による古事記編纂事業において日本書紀とは別のやり方で系統の異なる神話体系が統合され、一元化され、アマテラスが皇祖神の地位に置かれたが、これは一君万民的な世界観を必要とした天武の意向を受けたものであったといいます。また古事記において土着神系の臣、君の尊重と外来神系の連の軽視が見られるが、現実の姓の改革においても旧臣、旧君の尊重と旧連の軽視という古い伝統重視の志向が見られるといいます。かくして現実政治の場面では連系の重要性は疑えないにもかかわらず、文化的に古い層を担う集団に栄誉が与えられた点に著者は天武の政治的深慮を見ています。タカミムヒトのような政権中枢の王族や氏族にのみ奉じられた親しみのない神ではなく信仰の裾野の広いイザナギ・イザナミ系の土着の神のほうが求心力があると判断したのではないかと。古事記については激しい議論がある訳ですが、氏族対策という論点は朝鮮半島と対比させて国内情勢を考える上で極めて重要な論点かと思われます。

以上のように本書は5世紀から7世紀のヤマト政権=タカミムスヒ、7世紀末以降の律令国家=アマテラスと内外の情勢変化に対応して交代する王権を支える神々の系譜を描き出していきます。この枠組みそのものは他の研究者の著作からぼんやりと思い描いていたのですが、本書は壮大な展望の下に極めて詳細にこの交代劇を描き出しています。本書の特徴は神話学的分析と歴史学的知見とを接合する手つきにあります。私は後者の世界にはそれなりに親しんでいるのですが、前者は遠いところから望見している身ということもあって刺激的であると同時にその意見の妥当性について判断する術がないというある種のもどかしさも感じました。著者の説く神話の二元構造を真に理解するには著者の専門書のほうを読まないといけないのでしょう。読んだとしても私の能力を超えているのでしょうけれども。著者も述べているように皇国史観アレルギーに由来する神話を歴史へ持ち込むことへの極度の禁忌も問題だとは思うのですが、一方でやはり神話伝承を歴史的に評価するのは推論と解釈論の巧みさの勝負になりそうでなかなか難しそうだなという印象も受けました。この点で氏族系譜の議論が祭祀の担い手集団という地上に繋ぎ止められた現実の存在を持つだけに興味深く思われました。

文化の多層的、混交的な成り立ちという点に関して言えば、朝鮮半島からの流入を先として中国からの流入を後という風にくっきりと対照的に描いている点は、エクスキューズもあるのですが、やはり問題があろうかと思われました。時期的に影響の濃淡はあったにせよやはり常に既に交渉のあった世界なのでしょうから。個人的に中国南部との関係に興味があるせいかもしれません。それから北方ユーラシア世界や南方的世界や中華世界といった具合に外部世界がいくぶん抽象化され過ぎているような印象も受けました。もう少し特定された名称で論じないとイメージが先行してしまうような危惧があります。それから文化の混交性や多層性を論じるには外来/土着の二分法がやや強く出過ぎているような印象も受けなくもなかったです。同時代人がどう外来的なものと土着的なものを区別、認識していたのかに迫れたらこの枠組みもより生きてくるのかなとも思いました。よく判りませんが、当時にあってはそれもかなり流動的なものに思えます。最後に主権神や唯一絶対の至高神といった用語にいささか違和感を覚えました。主権概念を持ち込むとけこうややこしい議論を誘発しそうであることと神々の階層秩序が成立したとしても多神教には違いないだろうということです。日本語の語感の問題なのかもしれませんけれども、私の耳にはいささか西洋的に聞こえますね。

最後は素人にもかかわらず生意気にも注文じみたことも書いてしまいましたが、本書は明快、平易な文体で読みやすく、異論に対しても公平な姿勢が好もしく、なによりも伊勢神宮の外宮の森にほど近いところで幼少期を過ごされたという著者のアマテラスへの愛が静かに伝わってきますのでこのテーマに興味をもたれた方にはおすすめしておきます。

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シヴィックとエスニックの二項対立について

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書) Book 民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)

著者:塩川 伸明
販売元:岩波書店
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本書は我が国を代表するソ連・ロシア研究者の一人によるエスニズム・ナショナリズム論です。90年代以降はこの問題を扱う研究の洪水状態になっておりますが、正直に言いまして類似図式の反復に個人的にはもう飽きていました。塩川氏の著作ならそれほどはずれはないだろうということで手にとりましたが、紙幅の制約にもかかわらず論点も整理され、事例もきわめて豊富でよく書かれていると思いますので同じような思いを抱いている方におすすめいたします。いたるところに散見される慎重な留保があるいはまどろっこしく感じられるかもしれませんが、そこが大切な部分だと思いますのでそうした部分にこそ注目して読まれるといいかと存じます。ナショナリズムというこの変幻自在な現象はお手軽な図式ではとうてい把握し切れない訳ですから。

第1章で理論的な問題を扱っていますが、氏はエスニシティー、民族、国民の三つの概念でこの現象にアプローチすることを提唱しています。言語なり宗教なり文化なりを共有している意識が広まっている集団をエスニシティーと呼び、この集団が国ないし政治的単位を持つべきだという意識が広まった時にこれを民族と呼び、国家樹立後の正統な構成員の総体を国民と呼ぶという風にゆるやかに定義されていますが、ここで可変性と流動性がきわめて大きいエスニシティーと民族の具体的な確定の困難と確定作業じたいがきわめて政治的な行為である点について注意を促しています。また三者を峻別すべきだとする規範的主張に理解を示しつつも三概念が入り組んだ関係をなしている現実の複雑性を対置しています。それから原初主義対近代主義、本質主義対構築主義、表出主義対道具主義という図式に対しても近代主義=構築主義=道具主義という暗に想定される等式が必ずしも成立しないことに注意を喚起しています。といった具合にこの章では理論家にありがちな抽象的原理からの現実の裁断の傾向に対して事実性の重視からニュアンスを含んだ分析概念の構成が目指されています。私みたいな人間には非常に好ましい態度でありますが、ここは意見が分かれるところなのでしょう。

第2章以降は具体的な歴史編になります。「国民国家の登場」と題される2章では欧州における国民国家の誕生、帝国(ロシア帝国、オスマン帝国、ハプスブルク帝国)の再編、新大陸における新しいネーションの誕生、東アジア(中国、日本、朝鮮)への衝撃が豊富な事例とともに記述されます。私個人はこの章では帝国の再編の節と新大陸の節、とりわけ南米の部分に興味を引かれました。ロシアのいわゆる「公定ナショナリズム」の中途半端性と南米におけるエスニシティーと国民国家の無関連性の部分です。アンダーソンのフィールドが東南アジアと南米である事実が氏の古典的な国民国家論におけるエスニシティーの軽視をもたらしているという指摘は多分正しいのでしょうし、逆に塩川氏がエスニシティーを重視せざるを得ないのはソ連・ロシア研究者である事実とも切り離せないのでしょう。

第3章では世界戦争の時代における自決論に基づく国際秩序の再編が記述されます。まずウィルソンの提唱したself-determinationの語が想定していたのはネーション、つまり米語における「国民」の自決である訳ですが、第一次世界大戦後における国際秩序の再編の焦点たるドイツ・中東欧・ロシア地域においては「民族自決」としてこの言葉がシンボル化されて激越な政治闘争の根拠として受け取られた経緯について言及され、第二次世界大戦後の植民地の独立を受けた国際秩序再編(インドネシア、インド、トルコ、アラブ諸国、イスラエル)や自立型社会主義の実験(ユーゴ、中国、ヴェトナム)が論じられています。この章は私の知識の空白部分が多いので非常に興味深かったのですが、なかでも「アファーマティブ・アクション帝国」ソ連の節がやはり力がこもっています。この論点については氏が以前から語られていたことですが、ソ連における積極的な「民族形成」政策と中心民族たるロシア人の被害者意識は昨今のこの地域のニュースを見る際の前提的知識として共有されるべきだろうと思います。

第4章は冷戦以降の現代世界の章で「帝国」アメリカ、欧州の東方拡大とエスニシティーの問題、新たなる民族自決の動き(ユーゴスラヴィア、旧ソ連およびその周辺地域など)、各地で起こっている歴史認識論争などが論じられています。まずグローバル化とボーダーレス化の進行とともに先進国においてエスニシティーをめぐる問題が激化していること、また現在の民族問題が第一次、第二次世界大戦の後の国際秩序の再編と同様に冷戦という「戦争」の戦後処理の性格を持つことが大づかみに開示されます。さらに冷戦終焉にともなって誕生した多くの国家に共通する性格として連邦制を採用していた多民族国家の旧共和国の枠組みに依拠している点が指摘されますが、ドイツ統一のように複数国家にまたがる「同一民族」が統一する場合もあれば、またモルドヴァとルーマニアのように「同一民族」にかかわらず統一がなされない場合もあるといった具合に一様ではないとされます。そして全体としては「民族自決」のスローガンがかつてのような輝きを失い、条件次第で認められるやっかいな主張のような受け止め方が広まっているとされます。あらゆる民族に自決を与える訳にはいかないという現実的な理由による訳ですが、あの民族に自決を認めてこの民族に認めない理由はなにか、その恣意性が不満を呼ぶことは不可避であると(コソヴォ独立の波及効果の懸念)。歴史問題ではトルコのアルメニア人虐殺、ナチスのホロコースト、第二次世界大戦中のセルビア人とクロアチア人の相互虐殺の記憶が政治的に利用される例やドイツとチェコの間の「追放」をめぐる問題、中東欧におけるユダヤ人虐殺への加担の歴史、ウクライナとロシア、エストニアとロシアの歴史認識論争などが挙げられていますが、犠牲者の人数をめぐる論争の泥沼化といった日本をめぐる歴史論争とも似たような構造があることが指摘され、アルメニア系トルコ人作家フラント・ディンクらの発言に歴史問題の乗り越えの可能性を見ています。加害と被害の重層性や相互入れ換え性についての冷静な指摘の部分は過熱しがちなこの問題について考えるのに頭を冷やす効果があるだろうと思います。

終章ではナショナリズムをどう評価すべきかという問題に踏み込んでいます。19世紀を通じて、それから第一次世界大戦後の民族自決の時代、また第二次世界大戦後の植民地独立の時代に至るまで国民国家形成やナショナリズムには基本的には肯定的な評価がともなっていたが、1990年代にユーゴスラヴィア内戦をはじめとした暴力的衝突が世界中で頻発したこと、また先進国においては移民排斥を訴える極右ナショナリズムが高まったことなどから肯定的評価が後退し、その克服が叫ばれるようになる傾向がある、とはいえその評価は論争的なままであると全体的な論調を要約し、「よいナショナリズム」と「悪いナショナリズム」の区別論を検討していきます。素朴なものでは「抑圧民族」のナショナリズムは悪いが「被抑圧民族」のナショナリズムはよいとする人々の感情に訴える議論があるが、現実には強者・弱者関係には逆転現象や重層関係があること、また国際秩序が流動化した際に誰が強者で誰が弱者か、誰が進歩的で誰が反動的なのかの裁定は中立的ではありえず、それ自体が極度に政治的行為となるとしています。またナショナリズムをリベラルなものと非リベラルなものに区別して前者をよいもの、後者は悪しきものとみなす議論(ミラー、キムリッカなど)、あるいは自由や公共性を目指すパトリオティズムをよきナショナリズムとみなす議論(ヴィローリ、ハバーマス)に対しては現実には両者は往々にして相互移行しがちであり、境界も流動的であると評しています。

さらにこうした区別論の中でも特に影響力のある図式としてシヴィック・ナショナリズムvsエスニック・ナショナリズムの二項対立が検討されています。ネーションの基礎にエスニックな共通性があるという考えが優位な国では合理主義や自由主義が排斥され、権威主義に傾き、自民族中心主義や排外主義が優位になりやすいのに対して、ネーションの基礎にエスニックな共通性を求めない国ではエスニックな多様性や個人の自由が尊重され、自由主義や民主主義と親和性が高いという例の噺です。こうした議論に対して著者は二点から疑義を呈しています。まず多くの論者において「西」ではシヴィック・ナショナリズムが優勢であり、エスニックな差異に対して寛容であるのに対して「東」ではエスニック・ナショナリズムが優位であり、偏狭で排他的であるというイメージが想定されているが、ここにはオリエンタリズム的発想が潜んでいる。そもそも「東」とされる諸国には均一性はなく、歴史的にも「東」の諸国のナショナリズムは「西」の諸国への対抗のための模倣であり、「西」と無縁なものではないと。

もうひとつの問題点としてこの二項対立が普遍主義vs特殊主義と結び付けられている点を指摘しています。実際には大半のナショナリズムは普遍主義の論理に立ちながら、特殊主義的な色彩を帯びるという二面性を持っているのであり、両者を分離することはできない。「我が国こそが普遍的な価値の担い手だ」という意識は「その価値の卓越した、先駆的担い手が自分達だ」というナショナリズムを正当化することになるが、これは「自由、平等、友愛」を掲げるフランス、「アメリカ的自由」を掲げるアメリカ合衆国、「社会主義インターナショナリズム」を掲げたソ連のナショナリズムに典型的に見られる。またドイツ、ロシア、日本もまた特殊性のみに依拠した訳ではなく普遍主義的論理を振りかざしていた。そもそも他者に対する自己の卓越性を主張する以上は物差しとしての普遍と自己を上位におく特殊との並存は論理必然的である。以上のようにこの二項対立はよいナショナリズムに分類される「西」の国々の危険な要素を覆い隠し、悪いナショナリズムに分類される「東」の国々を宿命的に劣った存在として決め付ける危険があるとして批判されています。

要するに、ナショナリズムは善とも悪ともなり得るが、予めなにが善なるナショナリズムでなにが悪なるナショナリズムかは原理的に決定できないし、また外部の観察者は誰が寛容な善玉で誰が不寛容な悪玉かを決定すべきではないし、こうした加担的態度は事態を悪化させるだけだ(アルメニア・アゼルバイジャン紛争でのデリダ、ハバーマス、ローティーらの思想的介入が糾弾されています)という禁欲的な要請がなされます。また紛争の原因論についても図式的な一般論は無意味であるとしていますが、エスニシティー、民族を要因とする紛争が軍事的衝突にいたる事例においては政治指導者達の役割が大きいとし、彼らが軍事的選択が「合理的選択」に見えるような条件とは既存の国家秩序が解体するような特別の状況が現出するケースに限定されるといい、小規模紛争の段階で悪循環的拡大を防ぐための初期対応の重要性が説かれています。「魔法使いの弟子」にならないようにと。

以上、アフリカを除くほぼ世界全体を対象としてナショナリズム現象を概観する本書は限られた紙幅の中でこの問題の複雑性を提示することに成功しているように思われました。善悪の価値評価を留保し、「寛容」や「相互理解」といった美名それ自体が政治的に機能してしまう現実まで記述する著者の禁欲的姿勢にはなにかしら畏敬の念に近いものすら感じました。ここから元気の出る当為を引き出すのはなかなか難しい訳ですけれども、よくある反ナショナリズム論やその逆の論にはないこうした歯切れの悪さを積極的に評価したいと思います。またここで何度か書きましたが、シヴィックとエスニックの二分法のはらむ問題には私自身意識的になっていることもあって最終章では考えさせられました。西洋志向の強い研究者からはなかなか出てこない論点ですが、ユーゴの時もグルジアの時もあるいは北東アジアに関しても西側メディアの論調のイデオロギー性にはいささかうんざりさせられていましたので。最後に要約困難なので歴史編は軽い紹介にとどめましたが、ここの部分が一番面白いことは言うまでもありません。民族問題やナショナリズムについては一般論はあんまり役に立たない訳で徹底的に個別的アプローチをしつつ同時に比較の視点を失わないようにするという本当に言うは易く行なうは難しの作業をここまで積み上げられた氏の仕事に対して敬意を表したいと思います。

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今さらですが

戦後史のなかの日本社会党?その理想主義とは何であったのか (中公新書) Book 戦後史のなかの日本社会党?その理想主義とは何であったのか (中公新書)

著者:原 彬久

販売元:中央公論新社
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2008年の師走のこの忙しい時期に日本社会党の歴史を個人的に回顧することほど無益なことはまたとあるまいという気もしてきますが、やはり戦後政治史を回顧するにはこの政党を無視することはできません。社会党関係の書籍も折にふれてそれなりに目は通しているのでありますけれども、率直に言って少数を除くと現在の目から見て面白く思えるものはほとんどありません。本書は社会党の通史ですが、戦後政治とはなんであったのかという問題意識に貫かれているため社会党そのものに興味のない人にでも読める内容になっています。明晰かつバランスのとれた記述スタイルで非常に読みやすいですので政治に多少とも関心のある人ならば読んでおいて損はないでしょう。たぶん途中から気が滅入ってくると思いますが。一部だけ紹介します。

現在の目から見るならば、どうしてもあり得たかもしれない戦後史の視点、条件法過去の視点において回顧する他ないのですが、そうした視点から見るならば、やはり敗戦直後から片山政権時代に特に興味を惹かれます。社会党の思想的、運動的水脈は言うまでもなく戦前の無産運動に遡ります。農民労働党転じて労働農民党が分裂した結果生まれた代表的な三つの潮流たる日無系、日労系、社民系、この三派がそれぞれ後の社会党左派、中間派、右派を形作ることになった事実は著者も強調するようにこの党を理解する上で最も基本的な事実として想起されなければなりません。この三派が戦後になっても党内の路線対立や派閥対立の軸をなすことになるからです。日無系は共産党の支配を嫌った労農派マルクス主義者を中心としますが、最終的に社会主義革命を理想としている点では共産主義からさほどの距離はないイデオロギー集団です。次に日労系ですが、総力戦体制と深い結びつきを持っていた集団で岸新党いわゆる護国同志会のメンバーが多数含まれていたことでも知られています。以前紹介した雨宮氏の分類では「高度国防派」と「社会国民主義派」ですね。最後に後に民社党へと分裂することになる右派の社民系ですが、マルクス主義の影響の薄いこの集団のリーダーたる西尾末広が社会党結成の立役者であったこと、当初は社民系と日労系が中心で左派の日無系は少数派であったことが重要かと思われます。

また社会党党首として当初は徳川義親侯爵、さらには有馬頼寧伯爵を党首に担ごうとした点も興味深いです。前者は徳川19代当主にして戦前の軍部右翼の「国家改造計画」への関与で有名であり、後者は大政翼賛会事務局長で鳴らした人物といった具合に初期の社会党は総力戦体制の香りの濃厚な政党であった訳です。かくして結党大会において社会主義者達によって天皇陛下万歳や国体護持の称揚が堂々となされたこともなんら不思議ではありません。最後に党名論争においてマルクス主義階級闘争論に立つ日無系が「社会党」を望み、反共かつ議会制民主主義を重視する社民系が「社会民主党」を望んだこと、階級政党なのか国民政党なのかという問題が既に党名で争われた点が重要でしょう。日本名「日本社会党」英語名「ソーシャル・デモクラティック・パーティー・オブ・ジャパン」という意味不明な—考えてみれば意味深長な—妥協に終わった訳ですが。

戦後初の衆参総選挙で第一党に躍進した結果、社会党、民主党、国民協同党の連立による日本で最初の社会主義政権たる片山哲内閣が成立した訳ですが、著者によれば、戦後的な意味における「革新」を呼号するこの政権が社会党右派主導政権であった点が重要とされます。固定化してしまった社会党のイメージとは大分違っているのですね。第二に経済安定本部、いわゆる「安本」長官に企画院事件に連座した革新官僚たる和田博雄が就任したことは「安本内閣」と呼ばれるほどにこの政権にとって大きな比重をもつ事実であったとされます。個人的に企画院→経済安定本部→経済審議庁→経済企画庁の流れに関心を持っているのですが、安本に集った統制主義の革新官僚や社会主義者の面々にはある種の感慨を抱かされます。最後にここまでGHQの対日占領政策への応答が外交のすべてであったステージを脱して「日米共同防衛」構想を提出した点が戦後史における重要な転換点と評価されています。冷戦の高進にともない芦田外交が始動し始める訳ですが、本書ではガスコイン英代表との会談の内容について芦田メモから紹介されています。ここから伺えるのは後の日米安全保障体制の下絵が社会党右派と保守派の協同によって描かれたという事実です。少なくともこの時期の右派優位の社会党は欧州的社民主義を志向して資本主義陣営との連携を模索していたという点が重要でしょう。

私個人としては社会党の歴史で興味深いのはどうやらこの55年体制完成以前に限定されているようです。ある意味で社会党が最も輝いていた安保騒動については華麗にスルーすることにします。ま、その非現実的な目標は別にして社会運動史的文脈において全否定はしませんけれども。批判はしても全否定はしない主義ですので。また1960年代の構造改革派の江田三郎ブームをうまく利用すれば、欧州的社民主義ないし市民主義政党に脱皮してあるいは党勢を回復することもできたかもしれませんが、原則論において議会制民主主義を否定し、国民の代表たることを拒否している左派優位が決定的になって以降は勝利などあり得なかったという話です。自己改革能力を失って以降の路線対立も派閥争いもその哀れとしか言いようのない外交政策からも学ぶべきものはないでしょう。社会進歩的提言を時にはなしたこと、容共勢力を内部に抱えたことで日米関係強化に逆説的に貢献したことなどを取り分として認めることもできるかもしれませんが、後者は望んだものではないですからねえ。自由党と民主党の二大政党で戦後再出発していたら・・・とか岸信介が右派社会党に入党してあの恐るべき権謀術数で左派社会党を壊滅してくれていたら少なくとも欧州的な保守と社民主義の対立構図にもっていけただろうに・・・とか歴史にifを持ち込んではいろいろ考えてしまいます。

終章の「日本社会党の理想主義」で著者の社会党の評価が端的に示されています。通常の議会制民主主義において当たり前の権力移動システムが機能しなかった理由として社会党の「理想主義」を著者は重視しています。ここで著者は現実主義-シニシズムと理想主義-ドリーミズムの対概念で説明しようとしていますが、要は後者は前者の頽落形態であり、現実との接点を失って主観主義の牢獄に落ち込んだ社会党は心地よいドリーミズムに微睡み続けていた。また議会制民主主義が機能するためには「体制」へのコンセンサスが前提となるが、戦後日本の議会制民主主義はこの点で極めて脆弱であった。米ソ冷戦構造下にあって一方に自由主義、民主主義、資本主義を価値とする日米同盟にコミットする保守陣営がいて、他方に労働者中心の社会主義を標榜して中ソ北朝鮮に憧憬をよせる左派優位の社会主義陣営がいる。ここにおいては政権選択は「体制選択」そのものを意味してしまう。かくして政党Aに国民が不満を抱いているにもかかわらず、政党Bを選択することができない時政治不信は不可避のものとなる・・・

要するに戦後の政治エリートは国民に選択肢を提示することに失敗したということですね。私は別に戦後日本に対して自虐的ではなく胸を張って誇るべきだと思っていますが(「同時に」戦前を否定すべきだとも思いませんが)、やはり政党政治の成熟が遅延してしまったこと、安全保障体制の整備が中途半端に終わったこと、この二つの負の遺産が克服されるべき課題として残されていることは、カオス的な様相を呈している現在の政局を眺めるに日々実感されるところであります。もっともここ20年ぐらいずっと実感されるところな訳でありますが。とほほ。民主党内の元社会党のみなさんも「結党三人男」の精神を思い起こしていただきたいものです。彼らはそこまで愚かではなかったです。

おまけ
"Facing the Past: War and Historical Memory in Japan and Korea" by Gavan McCormack[Japan Focus]
エマニュエル・トッド氏言うところの「構造的反米主義者」—冷戦時代の亡霊—たるマコーマック氏がなにかまた呟いています。この記事そのものは特にコメントに値しないのでスルーします。日本に過去との直面を要求するのもいいですが、その前にあなた自身が自身の過去と向き合って自己批判することを私は待っています。Japan Focusの編集委員のみなさんはなぜこの道義的に疑わしい御仁を批判しないんですか。まあ似たり寄ったりの亡霊がメンバーに含まれていることは承知しておりますから最後のは修辞疑問です。人間ですから間違えることはあると思うのですよ、でもまずその事実を認めるところからすべては始まるのではないですか。それがないからいつまでも変われないんです。Yes, you can! 

"Back to the baths: Otaru revisited"[Japan Times]
ポール・ド.ヴリ氏による大先生の批判。読者欄でも呼応する声あり。ポール氏の「連帯責任」の説明には同意しませんが(アジアでなくとも起こりえる話です)、大先生のダーティーなやり口はもはや周知のところであり、今後も批判の声は高まるばかりでしょう。こんなやり方ではバックラッシュしか呼ばないなんてことは少しでも自国の移民をめぐる状況に真剣に思い悩んでいる人であればすぐに判る事柄です。最近はオバマ政権の誕生が自分の活動の正統性につながるなどといった甘い夢想を抱いているようですが、言うまでもなくそんなことはあり得ません。残念ながら公的に謝罪しない限りはあなたの汚名は消えません。あなたも変わらないといけない。Yes, you can!

追記
一部加筆しました(2008/12/12)。ちなみに社会党右派の指導者にして民社党初代委員長の西尾末広の自伝、それから革新官僚転じて社会党政審会長、国際局長の和田博雄の伝記はいろいろ考えさせられてなかなか面白かったです。特におすすめはしませんが。

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封建制をめぐって

封建制の文明史観 (PHP新書)Book封建制の文明史観 (PHP新書)

著者:今谷 明

販売元:PHP研究所
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室町政治史論や天皇論で高名な今谷明氏の新書です。ビザンツに関する著書で最近は比較封建制論に関心をお持ちであることは承知しておりましたが、本書からは著者の新しい関心の在処とともに著者のよって立つ基盤のようなものが伺えます。非常に大きな史学上のテーマを扱っていますが、同時に非常にパーソナルな印象を与える不思議な書です。特定のテーマについての新書としての完成度という意味ではそれはあるいは欠点なのかもしれませんが、私のような読者はある種の感慨を与えられました。封建制についての本というのも最近はあまり見かけませんし、このテーマに関心のない方にも近代日本が過去をいかに捉えたのか、あるいは西洋人が日本の過去をいかに捉えたのかといった事柄について予備知識なしで平易な文体で読めますのでおすすめしておきます。

多岐にわたる話題を同時に扱っているので率直に申しましてやや見通しがよくないのですが、本書は文明論としての封建制と日本の封建制をめぐる言説史のふたつのテーマを同時に扱っています。実際、前者に関しては本書ではそれほど明瞭な像が与えられるわけではないのですが、我が国の近代化にとって封建制の時代は不可欠であった、それなくして日本の近代はなかったという著者の確信が本書を通じて強く伝わってきます。そのヒントとして、モンゴル帝国の進撃を食い止められたのは封建制の確立していた西欧とエジプトと日本のみであった事実(著者は単なる神風原因論を否定しています)、また「東洋的専制主義」のウィットフォーゲルと「文明の生態史観」の梅棹忠夫の説を紹介してユーラシア大陸の内陸ではなくその辺境地域たる封建制を通過した西欧と日本において近代化が展開された事実を重視しています。実際、西欧と日本の歴史の奇妙な平行性について語られることが多いわけですが、著者はこれをグローバルな枠組みの中に位置づけることを志向しているようです。

こうした壮大な文明論の展望が語られる一方で、本書のコアになっているのは封建制の言説史です。日本においては「封建」「封建的」「封建制」等の言葉が概念規定の曖昧なままに多用されたこと、またその言葉に込められた思いや評価が激しく揺れ動いたことが叙述されます。まず概念規定の曖昧さには二重の原因があって、一つは中国の「封建」と西欧のfeudalismの両者の意味の間で混乱が生じたこと、もう一つは西洋の法制史的概念としてのfeudalismと経済史的な発展段階論(ドイツ歴史学派、マルクス主義)の概念としてのfeudalismの混同があったことを上原専禄の所論を紹介して指摘しています。さらにこうした混乱に加えて単なる旧弊や固陋を意味する非難のための言葉として明治および戦後にこの語が使用されたことがこの言葉の意味の過剰を生んだ大きな原因であったとされます。

まず近代以前における封建ですが、勿論これは群県に対するところの封建という中国的意味です。周の時代に王の一族や功臣を地方に分封し、その子孫が世襲をして各地を治めたという古典の記述に倣ったもので、この王の一族による分封は中国的ないし儒教的封建観と呼ばれています。「愚管抄」にせよ「神皇正統記」にせよ「武士の世」という言葉あっても「封建」の語はなく中世で同時代を封建時代と考えたものはいないとされます。しかし江戸時代になると本居宣長を含めた国学者達が大化以前の古代を封建の時代とみなす考えが生まれたといいます。国造が世襲して地方を統治する制度を「封建」とみなすと。さらに日本の中世を「封建」と捉えた最初の例は幕末の頼山陽の「日本外史」で、鎌倉、室町の開幕を「封建の勢」と呼んでいるそうです。

西洋のfeudalismを最初に封建と訳したのは他ならぬ「文明論之概略」の福沢諭吉で明治8年(1875年)のこととされます。福沢は門閥制度=封建制ということで啓蒙家として封建制批判の急先鋒に立つわけですが、著者はここで福沢の封建制攻撃は「為にする議論」であって本音ではないというニュアンスのある解釈をしています。またアカデミックな用法でもないと。なおこの訳語はまだ定着しておらず、法学者の間では「籍土の制」とされていたのが、国会開設の頃までに徐々に「封建制」にとって代わられたそうです。しかし文明開化の反対物としての封建といった民間の議論は別にして、伝説を次々と放逐したことで通称「抹殺博士」と呼ばれた実証史学の重鎮たる重野安繹の見解たる「日本に封建の制なし」が学会の公式見解であったとされます。これが変わるのは20世紀に入ってからで福田徳三、中田薫、三浦周行の三人の巨匠によって日本に封建制が存在したことが主張され、日本中世は封建時代であることになったといいます。ここで言う封建は勿論西洋的なfeodalismの意味の封建で日本と西欧の歴史展開が類似したコースを辿ったという認識が学会で広まったとされます。ここでの封建制は全く中立的な学問的用法であったとされますが、著者はここで開国時には圧倒的に思われた落差が日清日露戦争を通じて急速に接近したという意識が日欧を類似の存在としてみなす風潮として存在したのではないかと推測しています。

ここで学会から目を転じて島崎藤村の文明論が分析されます。西洋熱に浮かされて洋行し、一時はパリの日本人コロニーの主的な存在になるのですが、英国植民地でのコロノストの横暴を目の当たりにするにつれて祖国の運命に思いを巡らせる文明批評家藤村が誕生したとされます。西洋の植民地化に抗することを可能にしたなにか強力な「組織的なもの」はなんだったのかという問いに対して日本に中世があったこと、封建時代があったことを発見するプロセスは平田篤胤の熱烈な信奉者で最後は狂死した父(「夜明け前」の主人公)とのある種の和解を伴ったようです。藤村によれば日本文明とは江戸封建制の遺産の近代化である。こうした見方は明治世代とは異なって断絶ではなく江戸と近代の連続性を重視する立場であったといいます。少し引用します。

幸いにして我が長崎は新嘉堡たることを免れたのだ。それを私は天佑の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力にのみ帰したくない。その理由を辿ってみると様々なことがあろうけれども、私はその主なるものとしてわが国が封建制度の下にあったことを考えてみたい。実際わが国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。(中略)印度でもなく支那でもないのは彼様いう時代を所有したからではないか。今日の日本文明とは、要するにわが国の封建制度が遺して置いて行ってくれたものの近代化ではないか。

こうした封建制の肯定的評価が出現する一方で大正後半にマルクス主義が導入されると再び福沢諭吉同様の封建制害悪説が復活することになります。有名な講座派と労農派の対立(「封建論争」)についても言及されていますが(明治をブルジョワ革命後とみなすのか絶対王政とみなすのかという不毛なアレ)、こうした政治的議論とは別に朝河貫一や上原専禄の学問的業績が生み出されています。

戦後は再び「封建制バッシング」の時代となるわけですが、これは敗戦原因が日本の前近代性の克服の不十分性に求められたからで学会と論壇の両者で「封建」をめぐる言説がインフレーションを起こします。しかしここでも学問的な用語ではなく旧弊や固陋と同意味で「錦の旗のように」使用されたのは明治と同じであり、戦後啓蒙派の丸山真男、大塚久雄、川島武宜等も史的唯物論の影響下にあった戦後史学の言説も同様であったとされます。上原専禄による概念整理の提言が要請されたのは、講座派的な「封建遺制」の克服が社会運動の文脈でも政治課題として取り沙汰されたような沸騰的状況であったとされます。こうした高揚した状況の中にあって駐日大使となったライシャワーは封建主義的なものを経過したことが日本の近代化を促す要因となったと説きます。専制制度に比べて法律的な権利と義務が重視され、商人と製造業者は大幅な活動範囲と保障を得られ、政治権力の外部にあっては身分志向的な倫理観よりも目的合理的な倫理観が重視される傾向があると。これは西洋史ではごく標準的な見方ですが、史的唯物論の支配下にあった当時の学会ではタブーとなる考え方だったといいます。またライシャワーを擁護した西洋中世史学者の堀米庸三は封建制を先行統一国家の崩壊の後に治安秩序を維持するために自然発生的に生まれた不可避の制度であるが、同時に先行的統一への寄生をも要請するとして天皇制度が持続した原因を説明したとされます。こうした冷静な議論が可能になり、1970年代以降は封建制の用語の使用に人々が慎重になる一方でこの語のもつ「イデオロギー性」ゆえに歴史学会でも封建制を語るのを忌避する傾向が徐々に広まるといいます。2004年には保立道久氏が封建制は西欧に固有の制度で日本中世史理解から封建制概念を放棄すべきとする本を出版するにいたって「日本に封建の制なし」に再び戻ったかのようだと述べています。大谷瑞郎氏の批判を引用しておくと、

問題の所在については(中略)きょくたんな言いかたが許されるならば、第二次世界大戦後の日本における歴史学は、「封建」というまじない文句に振廻されてきたとも言えるのではなかろうか。「封建」ということばの安易な用法が、日本についても外国についても、また、近代からさかのぼって古代にいたるまで、歴史の見かたをゆがめてきたと言っても、おそらく言いすぎにはならないであろう。そして、その背景にはいわゆる「単系的発展段階説」が伏在し、それが大きな影響を及ぼしてきたのである。

かくして「日本に封建の制なし」から「日本に封建の制あり」へ、一方では「日本の近代化の原因」、他方では「日本の近代化を阻害する要因」と日本近代史を通じて学会、論壇を巻き込んだ論争を引き起こし続けた封建制ですが、現在は鳴りを潜めている状態のようです。またこれが開国と敗戦の二度にわたる日本の自信喪失の局面で否定的に使用され、そこから自信回復する局面で肯定的に使用されるというパターンを辿った点も興味深く思われます。つまり封建制をめぐる言説史は近代日本が自身の過去にいかに対するのかという態度の動揺をきれいに反映しているわけですね。なお本書ではザビエル以来の西洋人の見た日本と封建制についての言説も日本人の言説の鏡として叙述されているのですが、興味のある方はそちらのほうは購入してご確認下さい。初めて知ったことも多かったですし、個人的に勉強になりました。最後に本書の随所からまた上原専禄氏のobituaryのエピローグあたりからはなにか個人的に伝わってしまったものがあるような気がしますが、一読者として著者が今後もスケールの大きな比較封建制論的視座から新鮮な歴史像を提示され続けますことを期待しております。

追記
大谷氏の批判ですが、状況は例えばフランスも似たようなところがありますね。あちらもマルクス主義が強かったわけで1980年代以降に封建制について語るのになにかしら白けた空気が漂うようになる点も含めて。ただなにが違うのかと言えば、日本の戦後の学会が一色に染まってしまった点ではないでしょうかね。敗戦の心理的ショックに加えて学会におけるネポティズムの問題等いろいろあるのでしょうが、あまりにも支配的論調が硬直的だったせいで、それが倒壊した後にアカデミズムの信頼そのものを一時的に失わせる結果を招いてしまったという点は今後に生かされるべき教訓に思えます。90年代以降の「歴史認識論争」があれほど熾烈かつ不毛なものになってしまった原因はやはりアカデミズムの世界の側にもあったと思います。今のドグマ的な特定論壇の論調を擁護する気はさらさらないですし、先行世代の負の遺産を苦々しく思う現役世代の方々を批判する意図もないのですが(ええと、ゾンビ除く)、戦後のアカデミズムがもう少し健全だったならばたぶんここまでひどい状況にならなかったのでしょうねえ。ふう。

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協同主義の地下水脈

占領と改革 (岩波新書 新赤版 1048 シリーズ日本近現代史 7)Book占領と改革 (岩波新書 新赤版 1048 シリーズ日本近現代史 7)

著者:雨宮 昭一

販売元:岩波書店
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岩波新書のシリーズ日本近現代史は発刊とともに現在の左派ないしリベラル派史学者の動向をつかむべく目を通したのですが、その中で異彩を放っていたのがこの「占領と改革」である点には多くの方が同意されるのではないでしょうか。想定される岩波新書の読者層の困惑した表情を想像してしまいますが、たぶん想定されていない読者であろう私にも、うーむ、これは、とかなり微妙な読後感が残りました。ただ著者とモチーフを共有しない人間の目にも本書が荒削りな印象を与えるもののひとつのパースペクティブを示しているという点で無視できないように思えましたのでメモしておきます。

帯のいささか扇情的な「占領がなくても戦後改革は行われた その原典は総戦力体制にある」が示しているように本書は冒頭でジョン・ダウワー的な「サクセス・ストーリー」としての占領統治史に抗うことを宣言しています。反米色の強い右派論壇人の異議申し立てとは異質な理路を辿る本書が、現在もなお世界各地で強迫反復される「占領改革モデル」の相対化を目指すという動機に発していること、また同時にグローバル化の名の下に世界を席巻する「市場全体主義」に抗して「協同主義」の思想水脈の可能性を提示するという現在的な問題意識からなる戦略的読み直し作業であること、こうした点について著者は隠し立てなく正直に打ち明けています。ここで読者を選んでしまうわけですが、まあ先に進みます。

本書を理解する上でキーになるのが1980年代ぐらいから話題になった「総力戦体制論」の枠組みです。簡単に言うと、戦前と戦後を連続的なものと捉え、現代社会のシステムが戦時体制に端を発しているという見方のことです。これは日本に限った話ではなくて、一般に総力戦体制において政治、経済、社会の合理化、国民の平準化と平等化等等が進行し、こうした動きは戦後の福祉国家体制へと接続したとされます。例えばいわゆる構造改革主義のバイブルのように世間を賑わせた「1940年体制論」という本がありましたが、同じような認識に依拠して戦時に由来するとされるシステムの改革を説く書物でした。本書が違うのは市場主義に対して総力戦体制下に端を発する「協同主義」で対抗せよという真逆のモチーフになっている点です。来るべき社民主義的なものの可能性をここに見るということですね。そしてこうした著者のモチーフがよくあるナラティブを転倒させるような暴力的な読み直し作業を導くことになっています。

著者の用語系では「高度国防派」「社会国民主義派」「自由主義派」「反動派」の4種類に戦前の政治潮流が分類されています。高度国防派は上からの軍需工業化と国民負担の平等化を強行する政策を推進した陸軍統制派や革新官僚のことです。東条英機、岸信介、加賀興宣、和田博雄といった具体名が代表するところの勢力です。社会国民主義派は下からの社会の平等化、所有と経営の分離、労働条件の改善、女性の社会的地位の向上を目指した勢力で近衛内閣周辺の人脈や昭和研究会のメンバー達のことです。本書のキーワードの「協同主義」や亜細亜共同体はこの人脈に由来しますが、風見章、麻生久、有馬頼寧、亀井貫一郎、千石興太郎といった人物がこの派に分類されています。自由主義派は産業合理化、財政整理、軍縮、自由主義経済政策を追求する20年代以来の政財界の主流勢力で、田中義一、浜口雄幸、鳩山一郎、吉田茂などの名が挙げられています。最後の反動派は明治体制への復帰を唱える勢力で観念右翼、地主、陸軍皇道派、海軍艦隊派がここに分類されています。真崎甚三郎、末次信正、三井甲之などの名前が挙げられています。

勿論この分類については異論もあるでしょうけれども、そもそも多様性を切り分ける作業たる分類とは本質的に暴力的なものでありますし、この大ざっぱな分け方にもそれなりの認識利得があるように思えます。左右とか保革といった枠組みに依拠しなくてもいいところ、また右翼と軍部の台頭により・・・といった通俗的なナラティブを無効化させてしまうところがあるからです。 著者によれば、総力戦体制を構築したのが前二者であり、これに抗ったのが後二者であるということになります。これがはっきりするのは戦争末期において自由主義派と反動派が反東条派、反翼賛派を形成して倒閣運動を起こした例の動きです。実際、反動派の領袖たる平沼騏一郎のきわめて両義的な動きは私も以前から気になっていました。本書で引用される近衛文麿の言葉を引用すると、

軍閥と極端なる国家主義者が世界の平和を破り日本を今日の破局に陥れたことに付いては一点の疑いもない、問題は皇室を中心とする封建的勢力と財閥とが演じた役割及び其の功罪である、此の点米国に於いては相当観察の誤りがあるのではないかと思ふ。即ち、米国では彼等は軍国主義者と結託して今日の事態を齎したと見て居るのではないかと思う、然るに事実は其の正反対であって彼等は常に軍閥勢力の向上を抑制する「ブレーキ」の役割を努めたのである。(中略)日本を今日の破局に陥れしものは軍閥勢力と左翼勢力の結合であった、今日の破局は軍閥としては確か大なる失望であるが、左翼勢力としては正に彼等の思う壷なのである。

というように戦争の原因を軍閥勢力(高度国防派)と左翼勢力(社会国民主義派)に求め、封建的勢力(反動派)と財閥(自由主義派)がこれに抗ったのである、米国はこのことを理解していないと近衛公は述べています。今でもアンクルサム氏は理解していないようですね。いまだに政治勢力としてはどうということもない人々に過剰にぴりぴりしているわけですから。

なお社会国民主義派ですが、著者は本書においてその戦争責任を糾弾しているわけではなく総力戦体制下における現代化勢力としてむしろ「肯定的に」捉えています。そしてニューディーラーと協同主義はきわめて近い政治潮流であったにもかかわらず、占領軍はこのことを認識できずに彼等を超国家主義者と見誤ってしまった点を指摘しています。また改革とされるものもすべて高度国防派と社会国家主義者のタッグが用意していたものであり、占領統治がなかったとしても戦後改革はなされたであろうとし、リベラリズム対封建主義という素朴な対立図式で理解しようとした占領軍の不見識を嘲笑しています。彼らが改革したと錯覚した日本は総力戦を通じて既に現代化した社会だったのであり、この致命的な錯誤は現在もなお米国の世界戦略を狂わせていると。なおググってみた限りはどうみても左派である著者はこの章で右派と見まがうほどの「愛国」ぶりを発揮しています。また翼賛体制の「肯定的側面」(そう言う言葉は使っていませんが)を説く著者は戦後左派の認識の縛りを軽々と突破しているようです。

戦後この協同主義がどうなったのかですが、翼賛政治会、大日本政治会、日本進歩党、民主党の流れ、また日本協同党、協同民主党、国民協同党の流れに受け継がれ、国民民主党で両者が合流して改進党、日本民主党、最後には保守合同により自民党の中に協同主義の潮流が流入したプロセスを描いています。また社会党にも協同主義の潮流は流れ込んでおり、イデオロギー的には左から共産主義、社会主義、協同主義、自由主義の中央の位置を占め、左右の両者に関わっていたとされます。そして協同主義的な政権として著者は片山政権と芦田政権を挙げています。さらに55年体制が完成して以降も自民党、社会党の内部で協同主義の思想水脈は命脈が保たれ、戦後日本の中道的なスタンスを可能にした要素と著者はみなしているようです。著者には岸信介と社会保険についての論考もあるようですからこの高度国防派の領袖の一人も協同主義者として評価しているのでしょう。最後に現在世界規模で自由主義派が席巻する中にあって協同主義派の復活に著者は期待を寄せているのは当然のことですね。戦後的な保守と革新の対立の時代は終焉し、自由主義対協同主義の対立の時代に回帰したとしています。

淡々とした筆致で書き進められるのですが、以上のような著者の認識はきわめてラディカルなものに見えます。社民主義的なものの価値を説く人はたくさんいますし、亜細亜主義の可能性を説く人もそれなりにいますが、総力戦体制的なものに自己の政治思想的根拠を求める人はあまり知らないからです。いえ、そういう潮流を知らないでもないのですが、ここまでストレートに語った例はあまり知りません。政治的にはどちらかといえば穏健と賢明を求める一方で、認識におけるラディカルさにはわりと寛容な質ですので居心地の悪さとともに著者にはもっと走っていただいて左派やリベラル派を撹乱して欲しいものだなという感想を抱きました。もっとも現実において高度国防派と社会国民主義派が今後台頭するようなことになったならば、自由主義派としては反動派とタッグを組んで(笑)打倒する側にまわりたいものだとここに書き記しておきます。自由主義派と穏健な社会国民主義派の連携というのは場合によってはあり得ましょうけれどもね。といった具合にこれは歴史の書というよりは政治の書です。歴史好きとしては協同主義に関するもっと緻密で実証的な研究がなされることを期待します。このテーマはいろいろなものが見えてきそうで面白そうですね。

追記
最後のほうは半ば冗談みたいに書きましたが、景気後退が長引くと「協同主義的」な声も大きくなる可能性がありそうです。それがアジア主義的感情と接続して奇妙なイデオロギーにならないことを祈っています。また左派論壇には素朴な反米主義的感情をうまく処理することを願います。戦後的な思考の縛りから解放されることそのものはいいと思うのですが、歴史の探求はともかくこの論調では政治的にはやや危うい印象を受けます。興味深い事実や認識を提示しているとは思いますけれども。

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佐賀藩の位置

幕末維新と佐賀藩?日本西洋化の原点 (中公新書 1958)Book幕末維新と佐賀藩?日本西洋化の原点 (中公新書 1958)

著者:毛利 敏彦

販売元:中央公論新社
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本書は論争の書である「明治六年政変」(同新書)で知られる日本近代史家の手になる幕末維新期の佐賀藩の位置づけを問い直すという主旨の新書です。私はいわゆる幕末マニアではないのですが、歴史好きですのでこの時期にもそれなりに関心はあります。薩長土肥と言われるわりには影の薄い佐賀藩ですが、地域史家の杉谷昭氏の著作からこの渋い藩には以前から惹かれるものがありましたので手にとりました。感想を一言で言えば佐賀藩史としてはやや物足りないが、この藩の重要性を一般に訴える意味において価値のある新書といったところです。この時期に関心のある方にはおすすめしておきます。全体は「徳川国際秩序」(「鎖国」の言い換え)における長崎御番という特異な位置、幕末における藩主鍋島閑叟(かんそう)の藩政改革、司法卿江藤新平の司法、教育改革、最後に佐賀の乱を論じるという構成になっています。

著者によれば、日本社会を後戻り不可能なまでに根底から変貌させた明治維新の引き金を引いたのは「西洋の衝撃」であるが、この「衝撃」とは具体的には黒船に象徴される鉄製大砲と蒸気機関であった。この技術的優位が西洋諸国をして非西洋諸国の植民地化と資本主義世界市場の形成を可能せしめたものであり、日本の開明的な指導者は「夷の術を以て夷を制す」という当時可能なる唯一の戦略をとることで日本の近代史は幕を開くことになった。したがって鉄製大砲の製造、運用技術の体系的な導入は明治維新史において主軸となる事業であるはずだ。その意味において鍋島閑叟の果たした役割はもっと注目されなくてはならないと。

「徳川国際秩序」において唯一の国際色豊かな都市長崎の御番をあずかる「百日大名」(参勤交代が百日に制限)の誉れを得ていた佐賀藩は江戸時代を通じて外国に対して開かれた土地であり続けた訳ですから、幕末の国際情勢の急変に最も敏感に反応したのがこの藩であったことも当然のことでしょう。鍋島閑叟は藩主に就任するや否や長崎視察とオランダ船乗り込みを実施し、以後これを恒例化するという破天荒な人物であったこと、医学寮を西洋医学のセンターとしたこと、いち早く高島流砲術(洋流と和流の折衷)を導入したことなどが言及されますが、これはすべて天保年間の微睡みの時期になされたことに著者は注意を喚起しています。アヘン戦争の衝撃にもっとも敏感に反応したのも閑叟で、青銅製大砲から鉄製大砲への転換を押し進め、「火術方」を設置し、開発研究、製造や砲術、銃隊訓練センターにし、オランダ国書を携えた使節の開国要求に対しては長崎防衛構想を練り上げ、幕府とは別に単独で長崎沖合砲台を神ノ島、伊王島に設置します。かくして当時の技術の総決算とも言うべき沖合砲台が完成したのはペリー来航の前年のことで、以後、アームストロング砲、蒸気機関、蒸気船の開発に成功した先進的科学技術を保持する藩として名を馳せることになります。

その火力において特異な地位を占めつつも「肥前の妖怪」と呼ばれた閑叟が主要な政治勢力から距離を保ち続けた老獪な政治家であったことが維新史における佐賀藩の存在感の希薄さの原因となった訳ですが、この洋学の伝統の強い藩は明治の国づくりにあたっても技術者のみならず優秀な人材を輩出し続けます。その代表者として著者が本書でとりあげているのが江藤新平です。江藤の業績については著者は「江藤新平」(同新書)で既に論じていますので、この新書では藩主鍋島閑叟とのつながりが強調されています。上の新書と同じく江藤は日本の「人権の父」として描かれていますが、司法と教育の近代化、さらには日本という国民国家の形成においてこの鋭利な知性が果たした役割が絶賛調で論じられていきます。私自身の感想を差し挟んでおきますと、著者の江藤新平評についてはいささか陰影が乏しいかなあといったところです。その輝かしい業績に疑問を抱く者ではありませんが、もう少し幅のある人のような印象も受けるからです。

江藤を論じるところで本書の論述は佐賀藩を離れてしまうのですが、佐賀の乱と江藤の悲劇的最期のところでまたこの土地に議論が戻ります。この経緯は著者の「明治6年政変」の枠組みが踏襲されています。すなわちこの政変を「征韓論政変」とはみなすべきではないという議論です。この議論の入り組んだ論争史についてはここではパスしますが、いずれにせよ、この薩長勢力の再結集と土肥勢力の駆逐をねらった政変によって江藤新平は貧乏クジを引くことになります。いわゆる「佐賀の乱」については著者は江藤には反乱の意図はなかったとしています。下野の後に民選議員設立建白書の提出に加わった江藤は直ぐに佐賀に戻りますが、この土地で自由民権運動を組織化しようとしたものと著者は推測しています。この時期征韓論をめぐって一部士族が騒ぐ程度で佐賀の治安はごく安定しており、江藤自身この士族達と距離をとり、長崎に静養していたにもかかわらず、東京では武力討伐論が優勢を占めた訳ですが、著者はこの原因を大久保利通の嫉妬という個人心理に帰しています。この点はかなり弱い議論に思われますが、いずれにせよ政治的抹殺には違いないのでしょう。

かくして著者によれば近代日本の形成において果たした役割において鍋島閑叟や江藤新平に比べるならば人気の坂本龍馬、高杉晋作、新撰組や白虎隊などは派手だが「歴史の端役」に過ぎない。そしてこの不当な軽視は佐賀の乱(本書では「佐賀戦争」)の後遺症によるものであり、彼らを軸にして維新史は見直されるべきであると結論づけています。私はまずまず面白かったのですが、江藤を論じるあたりから佐賀藩からフォーカスが外れてしまうところが物足りなさの原因なのかもしれません。軍事史的な観点をもっと導入したならば藩としての存在感をもっと説得的に描けたのだろうかとも思います。いずれにせよ維新史において正当な評価がなされていない人物達は他にもいるはずで今後も問題関心の変化に応じて読み直しの作業は続くのでしょうね。

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普遍史から世界史へ

聖書vs.世界史?キリスト教的歴史観とは何か (講談社現代新書)Book聖書vs.世界史?キリスト教的歴史観とは何か (講談社現代新書)

著者:岡崎 勝世

販売元:講談社
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ドイツ啓蒙主義の歴史研究の研究で知られる著者による新書です。歴史研究の研究ですから著者の専門はいわゆる「歴史の歴史」と呼ばれる分野に属することになるのでしょう。つまり過去がなんであったのかの研究ではなく、過去において過去(大過去)はいかに理解されていたのかの研究ということになります。この新書の扱う対象は巨大でありまして数千年スパンでキリスト教的歴史観(普遍史)から近代の科学的歴史観(世界史)への変化を跡づけています。明確な枠組みの下にケレン味のない実直な文体で細部にまでよく目の行き届いた記述がなされています。西洋文化一般に関心のある人には必須の(さほど関心のない人にも有益な)知識を新書で手軽に得られるのでありますからこれは買いだと思います。以下内容の簡単な紹介です。

「普遍史universal history」なる聞き慣れない言葉でありますが、18世紀ぐらいまで西洋世界を支配し続けた聖書に依拠した歴史観のことを意味します。旧約聖書の記述に基づいたこの世界史は「古代的普遍史」「中世的普遍史」さらにルネサンス、宗教改革、大航海時代、科学革命の時代と時代ごとにその姿を変じていくのでありますが、18世紀に啓蒙主義によってついに息の根を止められたとされるものです。これ以降、近代歴史学の発達にともなって登場し、我々の存在をもまたその内部に巻き込んでいるのがかの「世界史world history」と呼ばれる歴史観であります。

著者に倣って旧約聖書に歴史の枠組みを求めるならば、天地創造に始まりノアの洪水にいたる第一期、セム、ハム、ヤペテを始祖とする諸民族の興亡を経てアッシリアの時代までの第二期、「ダニエル書」が描く四世界帝国(カルデア、メディア、ペルシア、ギリシア)が興亡する第三期、そして「ヨハネの黙示録」に描かれるローマ帝国の支配下で迫害に苦しむ第四期から構成されることになります。次に歴史の典拠となる旧約聖書に関しては、ヘブライ語聖書、ギリシア語訳聖書(七十人訳聖書)、サマリタン版聖書、ラテン語訳聖書(ウルガータ)と複数あり、その記述や数字の齟齬が後の論争の火種を提供することになったとされます。さらにこれを素材にして歴史を構成するその作法(聖書年代学)の起源となったのが例のユダヤ人歴史家のヨセフスであり、キリスト教徒も彼に倣うことになりますが、後の時代に決定的な意味をもったのがエウセビオス=ヒエロニムスの年代学とアウグスティヌスの救済史とされます。

エウセビオス=ヒエロニムスの年代学ですが、例えば、ノアの大洪水が2242年、イエス生誕が5199年です。言うまでもなくこれはキリスト紀元ではなく創世紀元ですが、エウセビオスはこうした旧約聖書の年代学の中に他の世界をいかに組み込むかに腐心します。バビロニア、エジプト、ギリシア、ローマの各地の歴史や伝説を旧約聖書の世界観へ強引に組み込んでいくのですが、アッシリアやエジプトの処理には多くの矛盾を残すことになったとされます。これは後述のように大問題となります。次にアウグスティヌスですが、この古代最大の教父の「神の国」と「地上の国」の交錯からなる救済史においては人類史は8つに時代区分されています。また人間の成長に類比して「幼年期」(第1期)「少年期」(第2期)「成年期」(第3〜5期)「老年期」(第6期〜)とも呼ばれますが、イエス生誕以降人類史は老年時代に入る訳です。例えば、独自の計算によって大洪水は2262年、イエス生誕は5349年と修正されますが、この救済史にエウセビオス的な年代学が組み込まれ、大きな筋立てとして四世界帝国論(アッシリア、ペルシア、マケドニア、ローマ)も継承されたといいます。

かくして古代的普遍史が完成されるのですが、これはローマ世界に対するキリスト教の護教活動と結びついていたとされます。うさんくさい新興宗教との疑念を前に旧約聖書との連続性を強調することで古さと正統性を主張し、聖書の歴史に世界の全民族の歴史を包括することでキリスト教的世界観の優越性を示し、もってギリシア人やローマ人に改宗を説得することを目的としたと。また第四帝国たるローマ時代にイエスが出現したことをもって「神の国」の担い手がユダヤ人からキリスト教会へと移行したと説明することでユダヤ教との差異化もはかったとされます。いずれにせよ普遍史は天地創造から神の国の実現までと始まりと終わりの明確に区切られた独特の時間感覚をもった歴史として、当時正典視されたという「バルナバの手紙」によれば6000年という明確な時間幅(あと何年残っているのか!問題)の歴史として構成されることになります。

この古代的普遍史を中世に引き継ぐ役割を果たしたのが7世紀のイングランドの修道士ベーダです。彼の「時間論」および「時間計算論」の内容はほとんどエウセビオスとアウグスティヌスの枠組みそのままですが、ベーダ経由でこの古代知は中世に受け継がれたそうです。しかし真に中世を代表する普遍史を書いたのは12世紀のフライジングのオットーであるといいます。彼の「年代記」のローマ帝国までの内容はアウグスティヌスの丸写しですが、オットーの独創はその後の時代の処理にあるとされます。西ローマ帝国が滅んでしまった後の歴史をどのように普遍史枠組みに組み込むのかという問題です。古代のキリスト教徒にとっては第四帝国たるローマ帝国の崩壊とともに世界は終末を迎えるはずであった訳ですが、この歴史の存続の事実をオットーは東ローマ帝国、カール大帝の西ローマ帝国、神聖ローマ帝国と継承されていく帝権の存続に求めます。つまりローマ帝国は滅んでおらず、第四帝国たるローマ帝国は現存しているという立場です。さらに彼は異教的ローマとキリスト教的ローマを区別し、後者に皇帝と教皇が、あるいは国家と教会が役割分担をする形での地上の国と神の国の「混合状態」を認め、この二つの権力を焦点とした楕円的な世界として中世ヨーロッパ世界を記述します。クローヴィスまでにこの楕円的ヨーロッパが形成され、以後、グレゴリウス7世の時代までが国家と教会とが協調する「混合状態の教会」が完成した時代と位置づけられます。彼にとってはハインリヒ3世の時代がこの頂点であり、この協調体制を崩すグレゴリウス7世のいわゆる叙任権闘争によって世界は急速に終末に向かっていくことになるとされます。実際には世界は終末を迎えない訳ですが、このオットーの普遍史は皇帝権、教皇権の両者によって自己の支配権の思想的支柱として長く利用され続けられることになったといいます。

こうしてなんとか生き延びた普遍史ですが、中世以降は度重なる危機に見舞われることになります。まずルネサンスの一撃としてマキャベリによる政治的世界の発見が挙げられています。「君主論」で宗教的論理から決別した政治論の可能性を開いたと言われるマキャベリは「フィレンツェ史」においても徹頭徹尾「力量」の保持者たる人間が織りなす対立と抗争の歴史的世界を描いたとされます。またルネサンスの古典研究がエジプト史問題を再燃させることになります。エウセビオスにおいてもエジプト史の古さの処理(大洪水の年代より前に存在していたことになる)が重大な矛盾を残していたのですが、中世には忘却されていたこの問題がヘロドトスのエジプト史(11340年!)とディオドールスのエジプト史(5000年)の「発見」によって無視できなくなります。

また伝統的普遍史に危機をもたらした要因として宗教改革が論じられます。まず著者が挙げているのがプロテスタント的普遍史の白眉として知られる「四世界帝国論」を著わした16世紀のドイツの人ヨハネス・スレイダネスです。この歴史の枠組みそのものは古代、中世の普遍史の伝統を踏襲したものでありますが、スレダネスの独自性としてまず第一帝国をバビロニア帝国としている点が挙げられています。古代、中世の普遍史においては第一帝国はアッシリアとされていたのですが、ダニエル書の記述に忠実であるスレイダネスはこれを排除します。また第四帝国たるローマ帝国に関してはフライジングのオットー同様に古代ローマ帝国と中世ローマ帝国を統合して当時のカール5世にいたる歴代のローマ皇帝の事蹟が記述されます。最後に特徴的なのはその苛烈なローマ教皇、カトリック教会批判、また聖書中心主義的にヘブライ語聖書年代学に依拠している点であるとされます(カトリックは70人訳聖書)。この信仰心溢るるプロテスタントによる聖書の批判的研究が普遍史の内部崩壊を招くことになるのは歴史の皮肉としか言いようがないのですが、17世紀ぐらいになるとホッブズ、スピノザのような知識人もモーセ5書の著者がモーセでないことを公的に論じるようになり、さらにカトリックの司祭リシャール・シモンがプロテスタントの「聖書中心主義を批判するために」聖書の権威そのものの根拠を相対化する聖書の批判的研究(預言者=書記説)を敢行するという倒錯的な展開を辿ったことも歴史の皮肉と言えましょう。

こうした内部からの崩壊に加えて大航海時代には新大陸と中国という他者の発見によって外部からも動揺が加えられます。新大陸の「発見」はヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸からなる伝統的世界像に衝撃を与えた訳ですが、ここでインディアンをいかに普遍史に組み込むのかという問題が発生します。インディアンが「人間」なのかをめぐって今から見れば破廉恥極まる議論が大真面目に展開されたことは有名ですが、多種多様な起源説がこの時期大量に生産されます。「古イスパニア説」「カルタゴ人説」「東インド起源説」「アトランティス起源説」「ギリシア人起源説」「イスラエル人起源説」などなど既知の「民族表」に関連づけようとする種々の試みがなされたといいます。移住したアジア人という聖書の枠組みに編入可能な存在であることが判明したことで普遍史は今しばらく持ちこたえる結果になった訳ですが。

マルコ・ポーロ、マンデヴィルという中世における前史がある訳ですが、本格的な中国との接触がイエズス会士によってなされたことは高校世界史レベルでも既知の事項なので詳述は控えますが、とりわけインパクトを与えたのがマルティニの「中国古代史」であったとされます。三皇五帝からイエスの時代(漢代)までを扱う本書で中国史は紀元前2952年に始まるとされますが、これは計算されたノアの洪水以前の出来事であるという(普遍史側から見た)矛盾を提出するものでした。これに対するリアクションはある意味滑稽を極めるのですが、フォシウスなる中国狂はノアの大洪水が全世界を襲ったものでなく局地的な現象に過ぎなかったと論じる一方で、ゲオルグ・ホルンは伏羲=アダム、神農=カイン、黄帝=エノクと聖書と中国の史書が同一の事実を語っているとし、またウェッブは堯=ノア説を採用し、ノアは中国に住み、方舟も中国で建造したという説を提出します。他にも伏羲=ゾロアスター説、漢字=ヒエログリフ説に基づく中国人=エジプト人説などなど「民族表」との関連づけのゲームが18世紀ぐらいまで続いたといいます。

さらに普遍史と科学革命の関係を論じるにあたって本書ではニュートンの普遍史の試みが紹介されています。ギリシア、エジプト、アッシリア、ペルシアの年代学である「改訂古代王国年代学」ではアルゴナウテース遠征が天文学的に前937年と確定され、この絶対年代を基準にその他の年代が確定されるというようにニュートンらしい方法論が駆使されているといいます。最大の問題であるエジプトの古さの問題は天文学と歴代ファラオの「虐殺」によって解決されます。ニュートンによればエジプト人はヘブライ人よりも新しい民族だそうです。ニュートン自身は絶対時間と絶対空間という意味を剥奪された時空概念を提出する一方で真面目に普遍史的な時間を擁護をすることに矛盾を感じていなかったといいますが、この点でも最後の魔術師にして最初の近代科学者的であったと評されています。

以上のような危機を受けて激しい論争が起こるのですが、著者はこれを「年代学論争」と名付けています。中世以降の年代学の枠組みをつくったのが16世紀のカルヴァン派のヨハネス・スカリゲルなる人物です。「時間修正論」においてその恐るべき語学力と博識で古代バビロニア人、エジプト人、ペルシア人、エチオピア人、ゲルマン人、ギリシア人、ローマ人の暦、イスラム暦やインド暦など当時知られたすべての暦を参照し、「ユリウス周期」と呼ばれる尺度を基準にこれらすべての暦の対応関係を確定したといいます。彼によればノアの洪水が1656年、イエス生誕が3948年、彼のいた時代が5500年となりますが、この間に起きた出来事を包括する大年表を作成します。スカリゲルを悩ますのがエジプトの古さの問題で、「仮定のユリウス周期」を置いてエジプト史の起点を置くという数学的処理を行うのですが、天地創造に先立ってしまうという矛盾を抱えてしまいます。以下、ペタヴィウス、アッシャー、ボシュエ、ペズロンと新旧両教徒の年代学者の論争が紹介されますが、この年代学論争は上述の危機に対して普遍史の枠組みを擁護する試みであると同時にカトリックとプロテスタントの時間をめぐる宗教闘争でもあったと位置づけられています。エジプト史と中国史の古さにいかに立ち向かうか、ヘブライ語聖書と70人訳聖書のどちらかに依拠すべきか、聖書の批判研究や「自由思想家」達にいかに立ち向かうかなどこの論争の賭け金は甚大なものでした。

しかしこの種の試みが空しく瓦解するのは18世紀の啓蒙主義時代のことです。「歴史のコペルニクス的展開」をもたらしたヴォルテールが「ルイ14世紀の世紀」で示すのは古代ギリシア、古代ローマ、ルネサンス、ルイ14世時代を高い峰とする文化史ないし精神史の枠組みです。聖書的世界が放逐され、世俗的世界における理性的存在たる人間の「理知」の進歩の歴史が記述されるのですが、著者はこの進歩史観(人類の自己啓蒙の発展史)がキリスト教的進歩観(神による人間教育の発展史)の世俗化である事実を注記するのを忘れてはいません。またこのニュートン主義者は「歴史哲学」において6000年という普遍史の時間を放棄し、人類史はアダムとイブではなく地球上の変化から開始されます。また歴史の空間的広がりは地球規模に拡大し、アラビア人、インド人、アメリカ人、中国人の文化と社会も記述対象となり、文明の多元的発生論が主張され、旧約聖書はもっとも新しい民族のひとつたるヘブライ人の偏狭な世界観に過ぎないと批判されます。なお中国の古さは普遍史の否定の根拠として利用される一方で彼の進歩史観において中国は「停滞」した文明という診断が下され、長らく消えない中国停滞論の端緒も開かれます。

一方歴史学の発展もまた普遍史にとどめを刺すことになるのですが、まず17世紀末のケラーによる古代、中世、近代の古典的三区分法の提唱があります。ケラー自身は普遍史の枠組み内にいたとされますが、この三区分法は聖書的時代区分論に風穴をあける事になります。また著者が重視しているゲッティンゲン学派の祖たるヨハン・クリストフ・ガッテラーは普遍史から世界史への変化を体現する存在です。ガッテラーの初期の普遍史では四世界帝国論が放逐され、三区分法が導入され、中国や日本などのアジア諸国の歴史が記述されるなどの革新が見られ、また後には世界史の名称が採用され、旧約聖書が「伝説」の地位に引き下げられ、年号体系が変更され、文化史的観点から6つの時代に時期区分され、モーセと並んで孔子が記述されるなど地球大の規模の歴史に拡大されたといいます。最後の世界史になると創世紀元の使用以外には普遍史的要素は皆無となり、全地球規模の文化史、社会史に変貌しているとされます。こうしてフランス啓蒙主義者の外からの攻撃ばかりでなく誠実なるプロテスタント歴史学者による自己否定によって普遍史は打撃を受けることになったといいます。

これに続くシュレーツァーは自覚的に普遍史と世界史を区別します。普遍史は聖書文献学と世俗的文献学の補助科学にすぎなかったが、世界史(Welt Geschichte)は諸事実の系統的集成であるとともにそれを通じて大地や人類の現状を理解するものであると。内容的には啓蒙主義的な地球大の文化史、社会史であり、人類史は古代、中世、近代の三区分(とそれに先立つ始原世界、無明世界、前世界の三区分)で記述されています。創世紀元も放棄され、「キリスト前(B.C.)」年号が採用され、科学的知見から6日間での天地創造も否定されます。この「キリスト前」年号はいくらでも過去に向かって延長可能な非宗教的な時間であり、キリスト教的な時間たる創世紀元とは本質的に異なることを著者は強調しています。

このようにして時間をかけて普遍史から世界史へというプロセスが進行した訳ですが、最後に著者は19世紀末において普遍史が学校教育の場で教授された稀少な事例として明治日本を採り上げています。そう、我が国においてなぜかアダムとイブから始まる世界史教育がなされていたのです。この翻訳教科書の底本はアメリカで出版されたグードリッチの「パーレー萬國史」なのですが、著者によるとアメリカでは普遍史的な歴史記述は長く残っていたそうです。福沢諭吉が持ち込み、新渡戸稲造が激賞したこの万国史は諸国民の興亡からなる19世紀的な普遍史ですが、帝国主義時代にあって世界情勢の理解に飢えていた明治知識人の欲求にかなうものであったといいます。また神話記述からスタートするこのスタイルは日本史の教科書でも踏襲されていたため違和感なく受け入れられたのだろうと「共通の精神構造」を指摘しています。

以上、本書はハンディーな新書ながら(このブログでは専門書は基本的にとりあげない方針です)古代から近代までの西洋世界の歴史意識を知るのに大変貴重な情報に満ちています。ここでは紹介しなかった論点や事例も多数ありますが、それぞれたいそう興味深いものがあります。こんな風に聖書年代学やら民族起源論の類いは現在ではオカルトの領域に押し込められている訳ですが、かつては正統的な知的伝統であった訳です。なお普遍史的伝統は世界史の中にも残存しているし、完全に死んだものとは見なせないのではないかといった印象も抱いています。著者も指摘するように啓蒙主義的な進歩史観の中にもヘーゲル=マルクス的な歴史の目的論やらその他様々なバリエーションの中にもその尻尾は残っているでしょう。またアメリカではこの伝統は長く残ったということですが、どなたかアメリカにおける普遍史の歴史を研究されていないでしょうかね。私の不確かな記憶でも確か第四帝国としてのアメリカとか誰かが言っていたような気がするんですよね。なお最後の帝国としてのローマというのはたびたび浮上するたいそうディープなテーマで個人的には興味があったりします。なぜああもローマ帝国を存続、復活させたがるのかという点はこういう歴史観の理解がないと意味不明になるんですよね。オクシデンタリズムの罠には嵌るまいと思うのではありますが、いわゆる「西洋」というのはやはり他者だなあと感じさせられるのはこういう部分です。面白いですけどね。

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ある保守政治家の肖像

評伝斎藤隆夫 孤高のパトリオット  /松本健一/著 [本]評伝斎藤隆夫 孤高のパトリオット /松本健一/著 [本]
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記念碑的な北一輝研究で名高い著者による斉藤隆夫論です。戦後の硬直したイデオロギー枠組みの中では右翼思想研究者であるという事実のみをもって時には両翼より不当なる非難を受けることもあったと言われるこの近代思想史家の手によって斎藤隆夫が論じられるという時点で決して平凡な聖人伝にはなるまいという期待を持って本書を手に取りましたが(初読は数年前で今回は再読)、著者独特の深い情感と歴史の襞から襞を辿る繊細な視線は本書でも十分に発揮され、本書は立体的な斎藤隆夫像を描き出すことに成功していると思われます。名高い「粛軍演説」と「反軍演説」によって軍部独裁に反対した民主主義者といった平板なイメージとともに今でこそその名がたびたび想起されるようになりましたが、解説によれば我が国が誇るべきこの保守政治家が注目されるようになったのは実は1980年代以降の話だと言われます。つまり戦後日本の言説状況となじまないなにかがこの人物にはあった訳であります。本書で強調されているのは政治思想家(天皇機関説論者)としての斎藤隆夫、政治的現実主義者(帝国主義的権力政治の冷徹な認識者)としての斎藤隆夫という二つの側面であります。それほど堅い文体でも晦渋な内容でもありませんし、予備知識も要求されませんので(背景説明部分が懇切丁寧、あるいはそこが読むのがしんどいかもしれませんが)、政治に関心があるという人々、特に若い衆─まだ私もその一部かもしれませんが─の間で本書が広く読まれることを希望します。以下書評ではなく内容の紹介です。

斎藤隆夫は明治3年(1870年)8月18日に兵庫県出石(いずし)郡(現出石町)中村という山陰の村の貧しい自作農の6男として誕生します。この出石は「弘道館」を中心とする教育熱心で名高い小藩であったそうで後に論敵となる東大初代総理の加藤弘之もまたこの佐久間象山とも因縁深い出石出身だそうであります。この土地の空気を吸って育った貧乏にもかかわらず向学心と立身出世の意思に燃えた少年だったことが数々のエピソードから描かれます。郷党の先輩の元に寄宿する苦学生として東京専門学校(現早稲田大学)の行政科に学び、弁護士試験に合格した後には、同校の校長たる鳩山和夫の弁護士事務所に入りますが、この事務所の廃業とともに自分の弁護士事務所を開きます。とはいえ私学出身の弁護士では食えない時代であったためアメリカ留学を目指し英語の勉強に熱心に取り組んだといいます。32歳でエール大学に公法や政治学を学びに留学しますが、この留学は弁護士仕事に飽き足らず「天下国家の為に何事をか為さん」すなわち後の政治家への道を漠然と企図したものであったと著者によって推察されています。

このアメリカ体験は後の斎藤隆夫の精神を形作る上でとりわけ重要なものであったようであります。留学中に左肋膜炎を患い、1年間入院生活をおくることになるのですが、斉藤は手術に失敗したグレース病院に対して法的な闘争を挑んだといいます。これは黄色人種への偏見と差別が当然視されていた当時の白人社会に対する「理屈」による闘争という意味合いを持っていたことを著者は明らかにします。とはいえ斉藤の批判の対象は白人社会そのものよりも当地の「卑屈な日本人」達に向けられていたといいます。「亜米利加乞食」「亜米利加ゴロツキ」という強い言葉で批判しているのは、アメリカに10年いるなどと鼻にかけては白人に対しては媚びへつらい、あまつさえ日本に戻ると「洋行帰り」「ハイカラ」として権威ぶる連中でありました。この「洋行帰り」嫌悪は後の「講壇派社会主義」の源流に位置する同郷の帝大教授和田垣謙三批判として展開されることになります。桜を尊ぶ日本人は西洋人に比べてしょうもないという議論(?)への彼らしい徹底的に「理詰め」の反論です。

このように西洋風を吹かす軽薄才子を心底軽蔑するパトリオットである一方で、斉藤が国粋的惑溺(いわゆる「暗黒面」)からほど遠い人間であったことは「立憲政治の完美」を目指したその政治活動からも─それゆえ著者はナショナリストではなくパトリオットと彼を呼ぶ─また彼の政治思想からも明らかであると著者は診断します。帰国後自費出版された彼の著書「比較国会論」に伺われるのは天賦人権説(自然権論)に依拠し、「輿論政治」としての国会政治の漸進的な成熟を訴える立憲政治の啓蒙家の姿であります。具体的には天皇の条約締結大権や緊急勅令大権をいずれ超克されるべき「初期におけるやむを得ざる事態」とみなし、国会を「主権機関」のひとつとみなす国家主権説(天皇機関説)であります。

余は、天皇は単独主権機関にあらず、換言せば、我国の国会は天皇と共同して主権機関を組成す、更に政治上の語を以て云えば、我国の主権は英国其他の立憲君主国と同じく君主のみに属せずして、君主と議会との共同団体に属す、と断言せんとす。
以上のように個人的には皇室崇拝者であったにも関わらず、同時代の北一輝と類似した「ラディカルな」天皇機関説の立場に斎藤隆夫は立ったとされます。この立場から同郷の先輩にして帝国学士院長の加藤弘之に論戦を仕掛けます。「族父統治の天皇機関説・加藤博士の所論に就て」において、天皇機関説論者を「共和主義を説くもの」として排撃し、天皇と国民の間の関係を「父子」関係に類比される「族父統治patriarchie」(つまり通常の君主統治monarchieではない)とする加藤を政治論および法理論の立場から批判しますが、「国体新論絶版事件」以降「転向した」かつての明治啓蒙主義者加藤弘之はこれを頑迷に拒むばかりであったといいます。


明治末年に改進党系の野党立憲国民党所属の衆議院議員として立候補し、これに最下位当選するところから斉藤の政党政治家としてのキャリアは始まりますが、その活動は長い間それほど華々しいものではありません。その後立憲同志会、憲政会、民政党と政党をスライドしていきますが、その政治行動および発言の公準となっているのは我が国における政党政治、立憲政治の確立と成熟という揺るぎない政治的信念であった点は言うまでもありません。斉藤が目撃したのは藩閥政治から政党政治への転換、大正デモクラシー運動の高揚、普通選挙法の確立、党利党略にまみれた政党政治の退廃、そして終焉という光景でありました。この中で著者が特筆しているのは普通選挙法の推進活動と昭和6年の演説であります。前者ですが、「普通選挙法心得」という彼が書いたパンフレットの中で彼の普通選挙法に関する考えが判ります。斉藤は普通選挙を「日本建国以来の大革新」と呼ぶ一方で、

即ち普通選挙は国民平等の原則に立脚して居るから、政治の前に於ては貧富の原則を認めない。日本一の大金持も其日稼ぎの労働者も参政権の前に立てば絶対平等である。故に、今後吾々は政治上に於て有産階級の特権を認めざると共に、無産階級の特権をも認めない。有産階級の跋扈を許さざると共に、無産階級の横暴をも許さない。国内に於ける有ゆる階級は互いに一致調和して、国家の進運と国民の幸福に向って最大の義務を果すと云うのが、普通選挙の精神である

というようにこの時代に台頭しつつある社会主義運動をおそらくは意識して保守政治家の立場から「国家の進運と国民の幸福」を目指すのが普通選挙の精神であるとしています。また後者ですが、普通選挙によって成立した田中内閣批判演説「正しき者に勝利あり」は政党政治の退廃の予兆を鋭く指摘したものと評価されています。田中内閣と軍閥との距離の近さの批判、また公共事業の空約束による集票活動に見られるように国益を語って党益を第一とする党略政治の批判であります。政党の利益のための政治ではなく国家民衆の利益のための政治を行わない限り、政党内閣否認の声がいずれ挙がることになるだろうと。またこの演説の予言的性格でありますが、

さなきだに近時国民思想の流れ行く有様を見ると、一方には極端なる左傾思想があると共に、他の一方には極端なる右傾思想があり、而して是等の思想は悉く其向かう所は違っているけれども、何れも政党政治とは相容れない思想であって、彼らは大なる眼光を張って、政党内閣の行動を眺めて居る。 若し一朝、政党内閣が国民の期待を裏切り、国民の攻撃に遭うて挫折するが如き事があるならば、其時こそ彼等は決河の勢を以て我政治界に侵入して政治界を撹乱し、彼等の理想を一部でも行おうと待設けて居るのである。故に、今日は政党内閣の試験時代であると共に、政治界に取っては最も大切なる時である。

というように党利党略に走った場合には立憲政治の基盤を破壊する「極端なる左傾思想」と「極端なる右傾思想」の攻撃を受けることになるだろうと─後に的中することになった─予言をしています。

さて226事件を受けてなされた高名ないわゆる「粛軍演説」でありますが、これが保守的現実主義者の立場からなされたものであることを著者は強調しています。まず「革新」という語のインフレ批判。

まず第一は革新政治の内容に関することでありまするが、一体近頃の日本は革新論及び革新運動の流行時代であります。革新を唱えない者は経世家ではない、思想家ではない、愛国者でもなければ憂国者でもないように思われているのでありまするが、しからば何を革新せんとするのであるか、どういう革新を行わんとするのであるかといえば、ほとんど茫漠として捕捉することは出来ない。 [...] 彼らの中において、真に世界の大勢を達観し、国家内外の実情を認識して、たとえ一つたりとも理論あり、根底あり、実効性あるところの革新案を提出したる者あるかというと、私は今日に至るまでこれを見出すことが出来ないのである。

というように「革新」なるものは内実を欠いた空疎なスローガンに過ぎず、「世界の大勢」の認識も「国家内外の実情」の認識もともなっていないという現実家の立場からの批判。それから軍人の政治活動の危険性についての言及となりますが、これは青年将校によるテロやクーデターが純真な─すなわち単純にして危険な─「愛国の至情」に由来するものであるとの認識に基づくものです。軍人が政治運動をすることは明治大帝の「軍人勅諭」に反している。軍人は陛下の統帥権の下に服して国防に専心すべし。「無責任にして誇張的な」ジャーナリズムやマスコミに煽られた純真な青年将校達は軍人内閣を樹立することで一切の腐敗や悪が消滅すると思い込んでいるがなんの具体的な展望もありはしないと。この「直情怪行の青年」とカリスマ的な「一部の不平家、一部の陰謀家」の言論の結託によるテロという認識は著者も述べる通り正確なものであります。さらにこうした事態の萌芽的な段階で刈り取らなかった軍当局の責任の追求へと演説は進みます。三月事件、十月事件、515事件でもし徹底的な追及がなされたならばこのクーデター未遂は生じなかったに相違ないとし、苛烈な軍法会議批判を行い、さらに226事件において事態の真相解明は十分になされておらず、「裏面に於て糸を引いて居る」軍首脳(つまり真崎教育総監)の存在も暗示しているといいます。さらに反軍思想という悪罵に対して、

元来我国民中には動もすれば外国思想の影響を受けやすい分子があるのであります。欧羅巴戦争の後に於て、「デモクラシー」の思想が旺盛になりますると云うと、我も我もと「デモクラシー」に趨る。其後欧州の一角に於て赤化思想が起こりますると云うと、又之に趨る者がある。或は「ナチス」「ファッショ」の如き思想が起ると云うと、又之に趨る者がある。 [...] 今日極端なる所の左傾思想が有害であるのと同じく、極端なる所の右傾思想も亦有害であるのあります。左傾と云い、右傾と称しまするが、進みいく道は違いまするけれども、帰する所は今日の国家組織、政治組織を破壊せんとするものである。 [...] 我が日本の国家組織は、建国以来三千年牢固として動くものではない、終始一貫して何ら変わりはない。又、政治組織は、明治大帝の偉業に依って建設せられたる所の立憲君主政、是より他に吾々国民として進むべき道は絶対にないのであります。故に軍首脳部が宜しく此精神を体して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間に於て怪しむべき不穏の思想が起こる訳は、断じてないのである。

というように不変の国体と明治以来の立憲君主政体を擁護する者という立場からの外国の最新流行かぶれの「極端なる所の左傾思想、右傾思想」批判である旨自らの依って立つ場所を明示しています。かくして国民の代表者たるべき政党政治家が党利のために軍と結託し、政党政治の基盤を自ら破壊せんとする事態を前にして孤軍奮闘する一人の保守政治家の姿が立ち現れる訳であります。この「粛軍演説」はマスコミからも国民からも圧倒的な支持を得たという話でありますから、決して雄弁家ではない彼の説得の言葉は広く国民大衆の心を掴むだけの威力を持つものであったようであります。

その後の展開が斉藤の望むものでなかったことは誰もが知るところではありますが、斉藤の批判の舌鋒はますます鋭くなっていきます。近衛内閣における国家総動員法をナチスの授権法と類似したものとみなす批判演説、そして名高い「支那事変処理に関する質問演説」であります。この米内光政内閣に向けられた「反軍演説」として知られる演説でありますが、これはいわゆる平和主義の立場からではなく徹頭徹尾リアリズムの立場からなされている点が特徴であります。「国民」の名において日華事変の処理がいかになされるのかストレートに問い質しているのでありますが、批判の射程は米内内閣ではなく近衛内閣にまで向けられていきます。ここで近衛第三次声明を想起し、これを5本の柱に要約します。すなわち、1、支那の独立主権の尊重、2、領土要求、賠償金要求をしない、3、経済上の独占を行わない、4、第三国の権益の制限をすることを支那政府に要求しない、5、内モンゴルを除く地域からの日本軍の撤兵。しかしながら中国からの撤兵はいまだなされていない。これは汪兆銘政権を欺くものではないかと。さらに昭和14年12月の「東亜新秩序答申案」を事挙げし、かつて「革新政治」の無内容を衝いたように、その言語不明瞭を揶揄します。曰く

之を見ますると云うと、吾々には中々難かしくて分からない文句が大分並べてあります。即ち皇道的至上命令、「ウシハク」に非ずして「シラス」ことを以て本義とすることは我が皇道の根本原則、支那王道の理想、八紘一宇の皇謨、中々是は難しくて精神講話のように聞えるのでありまして、私共実際政治に頭を突込んで居る者には中々理解し難いのであります。

という具合に泥沼化した戦局をいかに処理するのかという実際的問題を離れ、国民の犠牲も忘れて観念の遊戯に没頭している愚を問い詰めていきます。ここではもはや事変でなく「戦争」と明瞭に言い表していますが、なぜ1年半の後になって慌てて戦争目的を設定しようとしているのかと。また近衛声明にある「聖戦」観に対しては、

斯様な考えを持つて居らるるか分らない、現に近衛声明の中には確に此の意味が現われ居るのであります、其の言は洵に壮大である、その理想は高遠であります、併しながら斯くの如き高遠なる理想が、過去現在及び将来国家競争の実際と一致するものであるか否やと云うことに付ては、延いて考えねばならぬのであります。苟も国家の運命を担うて立つ所の実際政治家たる者は、唯徒に理想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国家の将来を誤ることがあるのであります。

というように「実際政治家」の立場から戦争目的の空想性、観念性を批判した上で帝国主義的な権力政治の現実をこれに対置します。曰く世に平和論や平和運動は蔓延るがこれが実現したことなど歴史上一度もない。人類の歴史は戦争の歴史だ。戦争が一度起こったならば、最早正邪曲直の争いではない、是非善悪の争いではない、徹頭徹尾力の争いだ。強者が弱者を征服する、これが戦争である、正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味ではない。この現実を否認する者は偽善だ。国家競争の真髄を掴まなければ生き残れない。国家競争の真髄とは生存競争、優勝劣敗、適者生存だ。これ以外の歴史など存在しなかったし、今後も存在しない。と空しい正義論に対して「力こそが正義」の現実を対置し、国策はここに依拠せねばならないと訴えます。さらに曰く

此の現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。

というように政治家の責任を追求していくのでありますが、この「唯徒に聖戦の美名に隠れて」の部分が軍を激しく刺激することとなり演説の削除問題に発展し、最終的に斉藤は議会からの除名処分の憂き目に遭います。以上のように斉藤の批判は十分な説明のない状態で国民に膨大な犠牲を強いることへのパトリオットとしての、さらに空想的な聖戦論を嘲笑する政治的現実主義者としての批判であったとされます。

除名処分後に翼賛選挙で無所属議員としてトップ当選しますが、もはや政治家としての有意義な活動は出来ず、近衛批判、大政翼賛会批判、東条の憲兵政治批判、大東亜会議批判をただ家で書き継ぐ日々を過ごしていたといいます。彼にとっては日本の敗戦は当然の結末であり、米軍の占領も極めて冷静に受け止め、戦後は老体に鞭打って日本進歩党の結成に奔走し、新日本の建設に力を尽くすことになります。我々は戦争に敗けた。しかし国家が亡ぶるものではない。人間の生命は短いが、国家の生命は長い。国家の盛衰はあるが衰えたからといって失望落胆することはない。失望落胆して気力を失った時こそ国家が滅びる時だ。日本国民は勇気を取り戻して旧日本に別れを告げて新日本の建設に邁進せねばならない、と国民を叱咤激励して。

以上のように斎藤隆夫はまさに「孤高のパトリオット」として孤軍奮闘した保守政治家でありました。米英の亜細亜侵略もまた強者の権利と言わんばかりの冷徹な国際政治認識は、戦後の思想地図にあっては大東亜戦争の大義を捨てきれないロマン主義的な右派にも、また軍国主義への抵抗者として彼を英雄視する動機を持つはずのロマン主義的な左派にも受け入れらない「毒」であったため彼は長らく水で薄めた形で時折言及される政治家にとどまったと著者は喝破しております。いずれにせよこうした保守政治家というのはどこの国にもいて緊急時において最もその威力と高貴を示すものであるという点は忘れないようにしたいものだとあらためて思った次第です。なおお節介に聞こえるでしょうが、特に自分を右派だと思っている若い人にはこういう認識を分け持っていただきないなと個人的には思っています。保守と右翼は似ているようでいて全然違います。大人と子供ぐらい違います。ここで右翼というのは勿論あの奇矯なパフォーマー集団のことではなく、認識の問題です。

追記
斎藤隆夫の演説はこのサイトで電子テキスト化しています。その労苦に感謝と称賛を送り、リンクを張らせていただきます。

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自己責任の原風景

「決闘裁判 ヨーロッパ法精神の原風景」山内進著
本書は西洋法思想史を専門とする著者による「決闘裁判」を扱った新書です。決闘といった時に思い浮かべるのは貴族の子弟が御夫人方との色恋をめぐって対決するイメージとかでしょうか。ところが決闘裁判はその名の通り、私闘ではなく、公的な裁判制度の内部にある裁判手法のことです。現在の目から見ると「愚かなこと」をしているなあということになるわけですが、イングランドでは19世紀になるまで認められていた制度であります。著者はこの決闘裁判に西洋社会における「当事者主義」の原風景を見ています。話は現代アメリカの裁判制度にまで及びますが、時に我々に激しいなあと感じさせるあの攻撃性の根源は、著者によれば中世社会の自力救済主義の伝統の中にあるとされます。非常に高揚感のある文体で読後、なにかそわそわしてしまったことを付け加えておきます。

まずローマ法の影響の弱い初期中世ヨーロッパにおいては裁判とは「神判」であったわけですが、具体的には熱湯裁判、熱鉄裁判、冷水裁判、決闘裁判といったやり方で神の意思が露にされ正義が実現されたといいます。熱湯に手を入れて火傷するかどうか、灼熱の鉄を持たせて火傷するかどうか、水に入れて浮かべば有罪、沈めば無罪とかいった具合です。日本の古代のクガタチと同じですね。決闘裁判は法廷で当事者に武器を持って戦わせ、その勝者を正しい者とする方法でありますが、これも神の関与のせいと理解されていたのでれっきとした神判でありました。ただ偶然に左右されにくいこと、一対一の主体的な戦いであり、神の関与なのか本人の力量なのかよく分からないという点で前三者とは異質であり、それが長続きした理由でもあるとしています。

決闘裁判がどのように行われたかについては豊富な事例で解説がしてありますが、三類型に分けられるとしています。ひとつは当事者同士の決闘、次に判決人に対する決闘、最後に一方の側を助ける宣誓補助者および証人に対する決闘、または証人同士の決闘です。決闘をする資格があると考えられていたのは基本的に「武装権」を有していた騎士階級でありましたが、実際には農民、市民、女性や老人も決闘に加わっていました。しかし老人や女性や子供などハンデが大きい人は自分に代わって戦ってもらうケースが多かったそうです。これを代闘士(チャンピオン)と呼びますが、親族から出る場合もあれば、プロフェッショナルもいました。著者は後者を区別して決闘士と訳し分けていますが、彼らは非差別者でありました。ローマ法の復活以降には剣闘士と同一視され法的無能力者の地位に甘んじていたといいます。決闘の具体的なやり方はコード化され、フェア・プレイの精神が尊重され、降参するか殺害されるまで続いたといいます。

このように決闘裁判は暴力的ではありますが、紛争を解決するための公的な裁判手続きでありました。これは暴力と武力が跋扈し、紛争がフェーデ(私戦)によって解決されがちで、これを抑えきる公権力がなお生成途上であったような社会において、これをなんとかを公的枠組みの中に組み込み、飼いならす手段として発達したとされます。13世紀ぐらいになると神判が教会から批判され(第四ラテラノ公会議)、禁止令が多数出されるようになり、世俗権力や都市もこれに倣い、先ほどの三類型は徐々に消滅していくのですが、決闘裁判だけはしぶとく生き残ります。それでも16世紀半ばぐらいまでに世俗的で公権的な裁判制度が樹立されるに従ってきわめて自力救済的な要素の強かった決闘裁判は終焉をむかえたといいます。ただ「名誉」を重んじる気風はかわらず私闘そのものは続くことになります。

ところが決闘裁判はイングランドにおいては19世紀までしぶとく残ります。イングランドでも先ほどのラテラノ公会議を受けて神判を禁止したわけですが、この時にこれに代わるものとして生まれたのが例の陪審制度(判決陪審)であります。しかし陪審制度というのは現在のイメージと異なり、王権によって上から押し付けられた制度ととらえられたため、これを拒否する権利感情は強く、決闘裁判が自由の証とみなされたといいます。したがって陪審と私訴との選択肢はこの後も維持されることになります。私訴の手段としての決闘裁判への批判は続きますが、多くの自由主義的な論客達がこれを自由の証として正当化しました。しかし1818年に「アシフォード対ソーントン事件」を最後にイングランドでも決闘裁判が廃止されることになります。

なぜ決闘裁判が続いたのかについて著者は自由と名誉の精神を強調します。中世ヨーロッパ社会においては権力の分散によって多数の独立した自由人や中小の権力者が存在し、それが相互援助的なネットワークを結んだこと、さらにそこでは権力に頼らない自力救済の精神、自立と結びついた名誉を重んじる気風、自己責任に裏打ちされた自由主義が成立、発展したことが、多くの批判にもかかわらず、この制度を長続きさせた根拠であるとしています。また中世において名誉と権利とは不可分の概念であり、自身と親族の権利は自力で防衛しなければならないし、それが名誉であり、正義であったといいます。キリスト教的な観念で粉飾されているが、それはキリスト教に先立つものであり、また教会の批判にもかかわらず存続した事実に表れているように、決闘裁判の本質は戦士的資質をもつ者達による自力救済であるとします。

最後に著者はアメリカをこの中世ヨーロッパの伝統の後継者と見なしています。絶対王政を知らない民であるアメリカは、市民の自由と自力救済のシステムを直線的に発展させ、可能な限り公権力に頼らず、それを制御する制度と精神を築き上げていった。アメリカの「市民の武装権」も「個人の権利」も近代的というよりも中世における自力救済の思想に根ざしているといいます。大陸ヨーロッパが公権力優位の「糾問訴訟」を発達させていたころ、イングランドでは当事者を訴訟の中心に立つ方式を維持したわけですが、それがアメリカにいってさらに拡大深化したと。特にアメリカの裁判を特徴づける「当事者主義」にそれが見られるといい、形式的にも精神的にも中世ヨーロッパの裁判、特に決闘裁判との類似性を指摘しています。

当事者主義についてはジェフリー・ハザードの言葉。
「アメリカの当事者主義は、当事者間の対立に重点が置かれ、弁護士が訴訟における依頼者のための戦士としてあらゆる手段を尽くし、全力をあげて相手方と闘うことを強調する概念である」
「当事者主義は、イングランド・アメリカ的法伝統に深い根を持っている。その先行者はノルマン人の決闘裁判だとしばしば言われる。この決闘裁判のもとで、疑わしい争点が決闘の結果によって解決された」
またジェローム・フランクの言葉。
「訴訟とは法廷で行われる合法的戦闘である。それは歴史的には(そして現代においても)拳銃や剣による私的な戦いの代用品である。ナイフや拳銃を使って相手にこちらの望むことをさせるかわりに、いまでは相手を殺さない武器、つまり説得という道具を用いて・・・裁判所で戦うのである」

以上のようにフェーデの代用としての当事者主義の裁判というものの原風景をなしているのが中世の決闘裁判であるといいます。最後に結論的な部分を引用しておきます。著者によれば欧米社会における権利意識の強さはその近代性に求めるべきでなく、中世的な伝統がそのコアにあるということになります。

「日本の法律家たちの多くは、権利や自由を重視する考えは、近代の啓蒙主義やフランス革命、あるいは人権宣言によってはじめて登場した、とこれまで考えてきた。その考えによると、権利と自由こそ近代社会の指標にほかならない。日本人が権利意識に乏しく、裁判を嫌うのは、後進的で、近代化が十分でないからである。近代化を推進するために、われわれは、権利意識を高め、裁判に訴える機会を増やさなければならない、と。
しかし、決闘裁判の考察から明らかなように、「権利のための闘争」はヨーロッパの土壌に深く根ざしており、歴史的かつ文化的なものである。われわれが「権利のための闘争」に違和感を覚えるのは当然であろう。権利主張が義務であるかのように語られることそれ自体が矛盾であり、その違和感の存在を証明している。
しかし、その戦いは、実はそれほど颯爽としているわけではなく、凄惨で暴力的だった。戦いには流血はつきものである。決闘裁判がもっとも具象的に示しているように、欧米世界で発達した裁判においては、血と暴力という陰と、権利と自由という光が交錯している。裁判だけではない。法も同様である。この光と陰の交錯が欧米の法文化を彩っているといってもよいだろう。おそらく、現代の国際社会においても、欧米諸国によって法と正義が語られるとき、このような光と陰の交錯は避けられない。」

新書ということもあって飛躍が多いような印象も受けましたが、著者の雄弁にはなかなかうならされました。もちろん欧米近代というのは中世ヨーロッパの伝統の普遍化として存在しているわけですから、その法意識を理解するためには過去に遡るという作業は必須でありましょう。決闘裁判という個別の制度にどこまで多くのものを読み込めるのかわたしには判断がつきませんが、英米法における当事者主義というものが(もちろん大陸にもそういう要素はありますが)、自身の起源として決闘裁判のイメージを抱いている点は非常に勉強になりました。最後にアメリカってなんだか中世っぽいなあという印象はやはりそれなりに正しいのですね。

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