カテゴリー「閑話」の13件の記事

MANGA LATINA

同人漫画の世界というのは私からは遠いのでこれがどの程度のレベルにあるのかとかそういうことはよく分からないのですが、これがラテン語国際ニュース新聞エフェメリスに掲載されているという事実にはなにかこんなところにまでという思いがするのですね。おそらくはここで35人ぐらいの日本国民が頷くのではなかろうかと想像します。同人もラテン語化されるご時世ということなんでしょうが、この新聞けっこうお堅いと思うので今後の展開が気になるところです。現在Pars1Pars2が掲載されていますが、既に微妙な雰囲気を醸しています。作者はポーランド人のサラさんだそうです。

ではでは。

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実るほど頭をたれる稲穂かな

"Prosperity's Children: Generational Change and Japan's Future Leadership"J. Patrick Boyd and Richard J. Samuels[pdf]

via Observing Japan

ボイド氏とサミュエルズ氏による日本の政治家の世代間比較と未来予測の論文です。結論そのものにさほどの意外性はなかったのですが、方法論的にふーんとなりました。マンハイムらの歴史的経験を共有する世代単位ごとに価値観の差異が生まれるという理論的仮定を基に三世代間の統計的な比較分析をしています。具体的には経済政策、安全保障政策、文化の問題について全政治家を対象にしたアンケートに基づいて分析し、今後の予測をしています。ここから浮かび上がる限定的な発見として、

(1)世代間の差は経済観に現われている。年長世代は中堅世代や若手世代よりも日本的資本主義の維持を好む傾向がある。

(2)世代間ではごく限定的な差異しか見られない。ただ若手世代は他の世代に比べてタカ派的である。

(3)右派的ナショナリズムの問題を含む文化の問題について意外なことに世代間では有意な差異は見られない。ただ中堅世代は相対的に進歩的である。

といった点を指摘しています。(1)は財政政策と公共事業、政府の市場介入、終身雇用などに対する考え方で中堅世代と若手世代は「新自由主義的」としています。もっとも英米のそれとは異なるだろうが、と留保した上で今後も経済改革は継続されるだろうと予測しています。(2)は日本の国防力の増強、日米同盟の強化、武力の使用(先制攻撃、集団的自衛権、憲法改正、イラク派兵)、国連常任理事国などについての考え方のことですが、中堅世代に比べて若手世代と年長世代がタカ派的であるが、それほど極端な分裂はないとしています。ここから米国の動機や意図への疑問が増大したとしても、日米同盟のマネージャーは東京からの支持を期待できるとしています。(3)は首相の靖国参拝、太平洋戦争の正当性、治安と市民的自由のトレードオフ、特別永住者の地方参政権などについての考え方のことで中堅世代がやや進歩的であるもののここに世代間の差異があまりないことに調査者は驚きを感じています。ここから引き続き文化戦争の問題は続くだろうと予測しています。

論文は次の15年をリードする政治家をリストして各人を個別に分析していますが、誰が選ばれているのかはお楽しみということでご確認下さい。これが出版されたのは昨年の夏ですが、そうですねえ、短期的には、経済改革は後退し、日米同盟は現状維持のままあちこちからいろんな声があがり、文化戦争については沈静化に向かうように思えます。これはただの一日本国民による願望やら失望やらの入り混じった予測に過ぎませんけれども。

それからサミュエルズ氏の安全保障に関する立場の類型化(neoautonomists、normal-nationalists、middle-power internationalists、pacifists)は全般的な傾向性をつかむにはよく出来ているとは思いますが、あくまでも類型は類型であって実際には複数の類型が個人の中に濃淡の差異とともに共存しているし、状況に応じてシフトも起こるのだろうなと思います。私は氏の言う「普通の国派」と「ミドル・パワー国際派」の間ぐらいになるのでしょうが、そこからはみだす部分もあるようです。そもそもこの類型に完全にはまるような政治家はどれほどいるんでしょうかね。だからと言って無意味だとは勿論思わないのですが、言葉だけが一人歩きしないといいなと思います。こういうラベルは便利ではありますが往々にしてなにも説明しないばかりか場合によっては誤解を生むものだからです。後は文化戦争がらみについては穏当ではありますが、最終的には米国的な視点からの分析ですね、といったところです。本当に多様で人それぞれなんですよ。

まあ、こんな風に分析されている訳です。さて日本のアメリカ学者はちゃんと分析していますかね。

検察vs政治の歴史的対立を考えれば、 小沢代表秘書逮捕は国策捜査ではなかった[ダイヤモンド・オンライン]

小沢氏の検察批判に関する上久保氏の記事。戦前の「日糖疑獄」「ジーメンス事件」「帝人事件」を想起し、いかに検察官僚出身の平沼騏一郎が政党政治の崩壊に手をかしたのか、また戦後「昭電事件」で社会党右派が凋落することで政権交代のない55年体制が完成してしまった経緯について説明し、今回の事件は政府と検察が手を握った国策捜査などではなく、政党政治対検察の対立の歴史の文脈において理解すべきだとしています。にもかかわらず、民主党が政権交代を実現するためには小沢氏はすみやかに代表を辞任すべきであるとしています。政治的観点に立つならば、たぶんそれが賢明のように思えます。なお記事の

検察は歴史的に権力の座にある(座を狙う)政治家をターゲットにする「政治的思惑」を持って行動しているのだが、検察と政治は対立関係にある。逆に言えば、検察と政治が一体となって行動する「国策」はあり得ないのだ。今回、検察は政権交代間近と見て民主党潰しに動いた。自民党がターゲットでなかったのは、「国策」だからではなく、自民党がもはや検察が相手にもしないほど衰退したということではないだろうか。

の部分はどうなんだろうなという感じがあります。実際に民主党潰しの「政治的思惑」なるものが検察にあったのでしょうか。私もご多分に漏れず古風な言い方を借りれば「検察ファッショ」のことを想起した訳ですけれども、それについて書かなかったのは、むしろ他と類比するならば80年代、90年代あたりのフランス政界の例のほうが適当なのではないか、先進国における政治の透明性と説明責任の明瞭化の流れの一齣として理解しておくのがいいのではないかという迷いがあったからです。今でもよく分らないのですが。

小沢代表が今、行うべきこと[日経ビジネスオンライン]

それでこの事件に関する言説で注目された郷原信郎氏が民主党の「政治資金問題をめぐる政治・検察・報道のあり方に関する第三者委員会(略称:政治資金第三者委員会)」に加わったようです。なんの情報もない個人の目から見るとやや大時代がかった修辞は別にして郷原氏の検察の動きの説明にはそれなりの説得性を感じましたが、その一方でこの件で民主主義を守れ!といっても理解されにくいだろうなとも思いました。というのも90年代以降に政治と金について国民側の意識がそうとうに厳しくなった点について勘定に入れないと通じないように思えたからです。とはいえ小沢氏のみならず検察側の説明責任の明確化と報道の検証はなされてしかるべきなのでしょう。政治的思惑とやらが本当にあったのかどうかはっきりさせてもらいたいものですし、報道については検察からの情報についてもガイドラインが必要なのではないかと思います。それが実現されるならば今回の騒動も我が国の自由民主主義の進歩に少しは貢献することになると思いますので、委員会のみなさんにおかれましてはしっかりと検証作業をしていただきたいものです。ただの政局ネタに終わってほしくはないです。後世になにか残しましょう。

"Barack Obama criticised for 'bowing' to King Abdullah of Saudi Arabia"[Telegraph]

G20の場でサウジ国王にオバマ大統領がおじぎ(bow)をしたことで右翼から批判されているという和み系のニュースです。大統領はおじぎではないと否定している模様ですが、この行為は王権に対して臣従の礼をしないという米国の伝統に反するのだそうです。でこれはテレグラフの記事ですが、ワシントン・タイムズが社説で攻撃しているそうです。これですね。アメリカン・デモクラシー魂が炸裂しています。米国大統領は誰に対してもおじぎをしてはいけないというプロトコルがあるんだそうです。テレグラフに戻ると1994年にクリントン大統領が天皇陛下におじぎをしたのかどうかをめぐって論争があったことに触れています。サウジの新聞はこのおじぎを国王陛下に対する敬意を表明したと評価しているようです。でクリントン氏が我らがハイ・マジェスティーにおじぎをしたとかしないとかという話は聞いたことがなかったのですが、右翼ではなくてNYTに-ふーん-批判された模様です。これですね。日本じゃ上も下も横も斜めも誰に対してもおじぎするんですからいいじゃないという気もするのですが、建国精神なんだからそうもいかないということなのでしょうかね。

北方領土:「3島と択捉一部返還でも」 前外務事務次官[毎日]

前外務事務次官の谷内正太郎政府代表が毎日のインタビューで3.5島折半論について語ったとのことです。

谷内氏は「(歯舞、色丹の)2島では全体の7%にすぎない。択捉島の面積がすごく大きく、面積を折半すると3島プラス択捉の20~25%ぐらいになる」と指摘した。政府は歯舞、色丹、択捉、国後の四島の帰属をロシア側に求める立場を崩していないが、麻生首相は先の日露首脳会談の際、記者団に「向こう(ロシア)が2島、こっち(日本)が4島では進展がない。政治家が決断する以外、方法がない」と強調。谷内氏の発言は麻生首相の意向を反映したものとみられる。

ということですが、実際、意向を反映したものなのでしょうか。これまでの主張とどう整合させるのか、あるいは予見される政治的波及効果を防ぐつもりなのでしょうかね。そう言えば、

日本の「右翼」がロシアを歴史的訪問[JBpress]

こんな記事もありました。民族派の日本青年社がロシアを訪問したという話です。セッティングをされたサルキソフ氏は冷戦時代にはソ連大使館前で罵声を浴びせていたあの右翼までが歩み寄る時代なのだなとある種の感慨を抱かれたようです。ロシアは共産主義を捨てて民主国家になったから協力できる、ロシアの民族主義に含まれる反米主義の要素には同調しない、というのは一瞬リベラルな意見に聞こえてしまいます。日本青年社のサイトをのぞいてみたのですが、これが「社稜」というんでしょうか、たいへんエコなメッセージが掲げられています。訪問記は読んでいてなんだか和んでしまいました。この訪問の「意義」について評価する能力はないですし、日本史こぼれ話ぐらいの話なんでしょうけれども、例えば日韓国交正常化の際の例を想起するならば、これも前触れのひとつぐらいに解釈すべきなのかなとも思いました。ロシアとは接近したほうがなにかといいとは思いますが、交渉する上では足元を見られないよう構えていたほうがいいような気も同時にします。今後は産経新聞あたりの論調が見所ですね。

ではでは。

追記

意味の通りにくいところを直しました(2009.4.17)

波紋呼ぶ「北方3・5島」返還発言報道 谷内政府代表[産経]

さっそく産経が反応しています。既に多数の記事あり。さすが。しかし、この展開、伝統芸の域に達しているようにも思われますね。

「真意伝わっていない」谷内代表が反論 「北方3・5島」返還発言報道[産経]

谷内代表が産経の取材に対して「捏造」であると反論した模様です。しかしその後、真意が伝わっていないとコメントを修正したとのことです。さあ、どちらが正しいのでしょう。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=qV0U-lB45RY&feature=related

バッハ『6声のリチェルカーレ』

ウェーベルン編曲版は不安な時代の魂に届いた結晶のような古典の音の像といった感じで原曲よりも惹かれます。

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4月ですか

"Catholic bishops in US ban Japanese reiki"[Guardian]

米国のカトリックの司教がreikiを「迷信」として禁止したということです。米国カトリック司教評議会が出したガイドラインにこのセラピーは「科学的信憑性」を欠き、信徒を「邪悪な力」に晒す危険があるという警告が含まれたそうです。reikiのセラピーはカトリック信仰や科学とは相容れないものであり、ヘルスケア施設のようなカトリックの施設には不適切であり、教会を代表する人物たちはこれを支持したり、広めてはならないということです。これに対してキリスト教徒でマスターのジュディス・ホワイトさんはネットにはreikiが反キリスト教的だといった情報が溢れているが、これは誤解であり、リフレクソロジーと同じで有害なものではないと反論しています。どうやら「霊spiritsとの交感」というアイディアがお気に召さないようです。カトリックの聖霊spiritus概念とはそもそも違うと思うのですけれどもね。

で世界各地でそれなりに浸透しているというreikiについてはご存知の方もいらっしゃると思いますが、戦前戦中の日本で流行った「霊気」のことです。臼井甕男氏が創始したこの療法は戦後は我が国では廃れたとされますが、ハワイの日系人高田ハワヨ氏を通じて米国へ上陸、東洋の神秘としてニューウェーブの波に乗って徐々に浸透、80年代ぐらいからカタカナ化されて「レイキ」として日本に逆輸入されるようになる-日本霊気と区別して西洋レイキとも呼ばれるようです-というのが大まかな歴史的経緯になるようです。最近の日本のヨガ・ブームがインドではなくマドンナもやっているということでアメリカから来ていたりするのとなにか似たような話ですね。もともと日本発だという点になにかアイロニーを感じますが。どこかで読んだ記憶はありましたが、なぜか連れ合いが詳しいのでいろいろ話を聞きました。

このマイナーと言えばマイナーな話題について真剣に考察する時間も余裕もないのですが、考え出すと多くの論点が含まれているように思われます。戦前戦中の新興宗教ブームの中で霊気とはどのような位置に置かれるのか、霊気史においては単なる中継点のごとく語られているハワイという場所の持つ意味はなんなのか、霊気からreikiに至るアメリカ化のプロセスにおいてこの術はいかに変容したのか、カトリック神学のreligio(「宗教」)対superstitio(「迷信」)という-しばしばきわめて巨大な政治的意味を持った-二項対立の概念史においてこの事例はどのように位置付けられるべきなのか、あるいは米国のカトリック教徒の置かれた状況に肉薄すべきなのか、それともカトリックから離れて米国における科学と宗教と迷信をめぐる論争における「東洋的なもの」「アジア的なもの」の位相を考察すべきなのか、こうした問題の立て方そのものを曖昧な笑みとともに拒絶してきたようにも思える風土にこうした問題関心をそのまま持ち込もうとする人々との間にいかなる対話の可能性が開かれるべきか、あるいはいかにはぐらかすべきなのか、といった問題群です。本エントリはこうした困難な問いに答えることをそもそも目的としてはいませんので、問いを放ったまま通り過ぎることにします。失礼しました。

"Searching for a sense of 'home'" by Stephen Mansfield[Japan Times]

イアン・ブルマ氏の『チャイナ・ラヴァー』という新刊の書評ですが、李香蘭こと山口淑子のフィクショナルな伝記ということです。満州国、日中戦争、パレスチナ紛争を背景として、血生臭い20世紀の政治史に巻き込まれた「心の故郷」を求めて止まないある真摯で無垢な魂の彷徨の物語といった趣向のようです。戦前に関しては王道楽土と亜細亜解放の悠久の大義に燃える理想主義的青年佐藤、占領統治期については過去の過ちゆえに故郷に帰ることができず、異国の地で再生を求める日本文化を溺愛するアメリカ人シドニーといった具合に複数の語り手の視点から山口淑子の生涯が辿られているようです。書評によれば、金日成に祝辞を述べる姿やパレスチナで日本赤軍の物語と交錯するといった具合に同時代の歴史的事象をふんだんに織り込んで「極端な御世」であった昭和の歴史が語られている模様です。評者は「今となっては信じがたいが」といっていますが、勿論中国への敬愛と満州の夢に燃えて敗れた理想主義者というのはたくさんいた訳ですし(私の親族にもいます)、占領統治期の描写は話題になった英国人作家ディヴィッド・ピース氏の『東京零年』を髣髴とさせるといいます。なかなか面白そうですね。

本来であれば小津安二郎や溝口健二と並び称されておかしくない存在であるにもかかわらず、戦後忘れ去られた巨匠とされる清水宏監督による李香蘭主演映画『サヨンの鐘』を見たばかりなのでこの本を読みたくなっているのかもしれません。ゴージャス過ぎるお方ですが、この映画の李香蘭は個人的にひどく訴えかけるものがあります。台湾の高砂族の愛国乙女の悲劇を扱ったこの戦中の空前の大ヒット映画については台湾で論争があったといいますが、この論争に関してネットソースで読みふけってしまいました。ここでも様々なエージェントによって歌と鐘をめぐって記憶の政治が展開しているようです。まあ、こうした歴史的文脈を捨象して聴いてもごくいい曲だと思いますし、だから歌い継がれたという側面は無視できないでしょう。

"Piracy and the Constitution" by Craig Martin[Japan Times]

ソマリア沖の海賊対策の国会審議に関する論評ですが、憲法9条と関連する国際法の諸原則が基本的に理解されていないと批判しています。海賊討伐のための海自の派兵は国際法的には憲法9条とは無関係であるのに国会での議論は集団的自衛権の行使の禁止という憲法の政府解釈に枠づけられて展開している。国際紛争の武力による解決を放棄するというのは主権国家とその国民に対して武力行使をしないという意味である。国際法における「海賊」とは私人による不法行為のことであり、各国家はこれを取り締まる義務を負っている。つまり公海上の海賊討伐はそもそも国際紛争の武力解決ではない。憲法違反の疑いのある派兵に批判的な勢力が憲法を楯にしてこれに反対するのは理解可能であるが、この戦術はかえって危険である。政治権力が道具的に憲法を利用して、その権威を毀損してしまう結果になる恐れがあるからだ。

There may be room for debate over the wisdom of deploying naval forces to defend against pirates on the high seas. The Constitution should not be part of that debate. One of the key defenses against government infringement of the actual constitutional principles is to ensure that the scope and meaning of the principles remain clearly understood and widely shared. And the government ought to ensure the integrity of the Constitution by applying its provisions consistently, and in accordance with that understanding, in the shaping of national policy.

以上のように憲法を持ち出すのは論理的ではないし、政治的にも危ういとしています。マーティン氏は憲法解釈は行政ではなく司法が行うべきだという観点から安倍政権の解釈改憲の動きやいわゆる柳井報告を厳しく批判している方ですが、海賊に関しては以上のようなクリアな議論をしています。そうですね、ともかく自衛権については国際法からあまりにかけ離れた解釈をして国際的に話が通じにくい状況というのはそれ自体危ういのではないでしょうかね。

以上、ジャパン・タイムズから記事を紹介しましたが、悪質な嘘と邪推に塗れた記事を事実チェックせずに無責任に掲載し続ける限りは信頼性を得られないでしょう。外国人の裁判が公平になされているのかどうか注目しよう、バイアスがかかりやすい条件をできるだけ排除して裁判の質を向上させていこう、という点には同意しますが、そのためにデマを流すことは報道の倫理とルールに反しています。アクセス稼ぎのためのパンダのつもりかもしれませんが、洒落になっていません。記事についても事実に関わる部分はチェックすべきではないですかね。あるいはもう手を切る時期なのかもしれませんね。

"Spy agencies believe NKorea has nuke warheads"[AFP]

北朝鮮:核小型化に成功、「ノドン」搭載…国際調査機関[毎日]

国際シンクタンクの「国際危機グループ」がノドンに搭載可能な核の小型化に既に北朝鮮は成功している可能性があるという報告書を提出するようです。この情報の真偽そのものは不明ですが、こうした情報が流れることで抑止は高まることになるのかもしれません。さて、どうしたものでしょうかね。前に出た策源地攻撃能力の保有あたりでしょうか。ただあの時とは政権も交代して状況も変わっていますから、米国の猜疑心を呼ばないようにかなり注意しないといけないのかもしれませんね。

"Gov't to enable Japanese to marry foreign gay partners overseas"[AP]

法務省が外国人との同性結婚を認める方向で動いているようです。日本語ソースが少ないですね。APの英語記事はずいぶん参照されていますが。国内での同性結婚を認めるつもりはないようで同性結婚が認められた国の人との結婚ということのようです。記事ではこれは第一歩だとアクティヴィストの方が法務省を賞賛していますが、国外と国内とで同性愛者の権利状態に差があることになる訳でなんだか奇妙な話ではあります。どういうロジックなんでしょうか。これに対して熱烈な大規模反対運動が起こったり・・・はなさそうな気がします。ちょうど三橋順子氏の『女装と日本人』という新書を読んでいて積年の謎のいくつかが解けた感じがあってとても面白かったところでしたので個人的にはちょっとタイムリーなニュースでした。この新書ですが、歴史が好きだからうならされたということもありますが、こういうトーンで語れる方が前に出られるならばかなり広い層にまで声は届くだろうなと思えました。

ではでは。

追記

同性結婚の話はいろいろ読んでみましたが、なにをどうしたいのかよく分らないですね。法務省が勝手にやっているといった印象を受けます。

近づく「テポドン2」打ち上げ[日経BP]

松浦信也氏の技術的なインタヴュー記事ですが、分りやすいのでおすすめしておきます。推測だが、とことわっていますが、情報収集体制が整っていない点から見て、技術者たちは追い詰められているようだとしています。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=w8ilpWgTYTk

渡辺はま子『サヨンの鐘』(1941年昭和16年)

http://www.youtube.com/watch?v=WK1lGpVxNgM&feature=related

紫薇『月光小夜曲』

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ヤンキ-と私

少し前に飲みの席で茨城のヤンキ-事情についていろいろと聞きました。隣に居たもう一人は栃木者でしてそのやりとりがとても楽しかったです。この種の地域的な権力関係みたいな話はわりと好きです。茨城者の対抗意識を微苦笑でやり過ごす余裕の栃木者もまたその横で火花を散らす千葉者と埼玉者には頭が上がらないようだ、みたいなミクロな権力関係のことです。とりあえず福島には勝っているということで二人は落ち着いたようですが、そんな結論でいいのでしょうか。不在の福島者は福島者で俺達は東北ではなく関東に近いのだといった卓越主義的な県民意識を有するのかもしれません。東京を中心にしたこのいがみ合いとやっかみ合いの構造はヤンキ-という極めて土着的な存在を通じてくっきりと浮かび上がるようです。

笑いながら話を聞いていて思い出しだしたのですが、私の中学時代もまたヤンキ-にまみれていました。どちらかと言えばいわゆる優等生でヤンキ-ではなかった訳ですが、なんとなく周囲から浮いたもの同士でリーダーと仲がよかったこともあって彼らとはわりと近くにいたような記憶があります。校内権力闘争や学区間境界紛争にも関与していました。今思うにあの戦国的なノリはなんなんだったんだろうという気がしてきます(笑 なんの具体的利益がある訳でもないのに領域支配圏の争奪を繰り広げていましたね。

フランス大統領サルコジ氏の問題発言で一躍脚光を浴びたラカイユという仏語があります。くずとかワルとか貧民とかいった意味の侮蔑語ですが、言葉そのものの歴史は古いようです。私にはカミュの「ペスト」で使われるラカイユがひどく印象に残っています。郊外の悪がきを意味するようになったのは90年代以降にラッパー達がこれを自称として用いるようになってからとされます。サルコジ氏のラカイユ発言はこの文脈にあります。ちなみに郊外のラップは残念ながら私のフランス語能力では聞いただけでは意味が判らないところが多いです。英語のラップよりはまだましですけれども。ラカイユと言えば、レユニオン生まれのレゲエ歌手にトントン・ダヴィッドという人がいますが、その人の「ラカイユの歌」というアルバムも思い出します。

「ろくでなしブルース」というヤンキ-漫画が日本にありますが、これは「ラカイユ・ブルーズ」といいます。ろくでなし=ラカイユではないような気がしますが、不良少年を指す点で採用されたのでしょう。この仏訳版を読むと悪がきフレンチに親しむことができます。ワル語は日本語よりもフランス語のほうが生彩に富んでいるように見えます。

ともかくフランスの郊外の悪がき達にもヤンキ-漫画は読まれているようです。実際、読んでいるところを目撃したことがあります。悪がき、特に男のほう、があまり熱心なネットワーカーでないのは万国共通のように思えますし、ブログで取り上げているのもどちらかと言えばオタク的な層や普通の層が主体のようですが、それでもあんまり頭のよさそうじゃないブログ-ブログっぽくないですが-に感想なんかもあったりして読んでみるとなんとなく心和むものがあります。ある種の普遍性があるようです。

ヤンキ-漫画の範疇には入らないのでしょうが、松本大洋の「青い春」は私にはけっこう来るものがあります。そこに描かれる不良達の生態は私の周りにいた連中とはずいぶんと違うのですけれども(中学と高校じゃ違って当たり前ですが、時代もずれていますし)、作者の立ち位置がかつての私と少し似ているような気がするので。作者とは資質的にはあまり似ていないような気もしますが、とりあえずヤンキ-の中の異分子という立場は似ている訳です。陸這記さんに関連するエントリがあったのですが、そこで引用されている「あとがき」の

学生時代、私は俗に「不良」と呼ばれるタイプの人間では有りませんでしたが、その類の友人は多く、放課後の校庭で・屋上で「夜露死苦」だの「喧嘩上等」などの文字をバックに凄んでみせる彼らの写真をよく撮らされました。(中略)

 今にして思えば、現在をすでに過去として捉えていた彼らにとって、カメラというアイテムがとても重要であることも理解出来るのですが、当時はそうした間抜けた行動を奇天烈に感じた私にとって彼らの一挙手一投足は常に興味の対象でした。

は少し判る感じがあります。私には彼らの粗暴と感傷の振幅の大きさが謎でした。他校にスクーター特攻をかける恐れ知らずな面と自動車に轢かれた猫の葬式を川べりで嗚咽しながら執り行う面が同一人格内に共存することの不思議ですね。なおこのエントリで語られているイギリスですが、フランスと比べると逸脱行動のあり方が日本に似ているところがあるようにも見えますね。不良の消滅という話についてはどうなんでしょうね、「反抗する若者」みたいなイメージに収まらなくなっても不良的なものは存在し続けるように思いますけれども。と書いてきて、東アジア圏の不良文化に興味が湧いてきたのですが、韓国ぐらいしかイメージが湧きません。わりと似ているように感じられます。中国はどうなっているんでしょうね。武侠小説的な世界なんでしょうか。適当なことを書いていますが、それはそれでイメージとして楽しそうですね。

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ムスリム・ファンガールズ

なにに心和まされるのかというのは人によって違うのでしょうが、私の場合、柿の種だったり、ちくわだったり、万葉集だったり、今昔物語だったり、ムネオ日記だったり、近所の阿呆なガキどもだったり、職場のやや奇矯で善良な先輩だったり、と書き連ねるとどこまでもいきそうなのですが、最近遭遇したのがムスリム・ファンガールズです。

ムスリム・ファンガールズについて極東に住まう一成人男性が書くというのはひどく無作法な振る舞いに思えますが、西洋世界のメディアを中心に政治イデオロギーに塗れた記号としての「ムスリム女性」像が日々流布される中にあってあまり日本のファンガールズ達と変わらない姿を見て心和んだということは否定できない歴史的な事実です。まあそんなに大げさな話じゃないんですけれどもね。

我が邦において嵐という名のアイドル・グループがたいそうな人気を博し、興奮と喚声の渦を巻き起こしているという事実はビリーズブートキャンプをこれから始めようと思っているような流行と波長の合ったためしのない人間にすら知られた話です。テレビはけっこう見るほうかと思うのですが、実は眺めているだけでなにも見ていなかったりします。だからずいぶん前から嵐なるグループを見た記憶が存在しているのですが、それが今、その人気の絶頂にあるジャニーズ・タレントであるということを知ったのは家の人がファンになっていろいろと教えられるようになったわりと最近の話です。

かつて日本関連情報について英語圏と仏語圏と西語圏についてリサーチした際に、美少年的なもののアピールが欧州および南北アメリカの一部に及んでいることについては確認したのですが、伝統的にこうした両性具有的な美学文化を保有する東アジア圏での受け止め方はやはり違うような印象を受けます。あまりエキゾチズムなしに近しいものとしてするっと受け入れられている感じがあります。

マレーシアやインドネシアのようなイスラーム圏の国でもこうした伝統というのは存在しているとされます。一般にシャーマニズムやヒンズーの文化的レガシーとされるようですが、植民地化による西洋文明との接触以前は同性愛「的」行為を含めて咎められるでもなく存在していたようですね。このあたりは昔論文をいくつか読んだ記憶があるのですが、インドネシアというのはトランスジェンダーやトランスセクシャリティー方面でもけっこう論じらてきた国のようです。イスラーム圏というイメージしかないと意外に感じられるかもしれませんが、かの地の文化の多層性と混交性はなかなか面白いです。まあ歴史の話は別にして、ざっと現在の両国のアイドルを見ていると日本ほどではないにしても両性具有的な要素というのは確かに認められますから、共振する文化コードというのは存在しているようですね。

それでマレーシアやインドネシアには嵐ファンのグループが多数存在しているようなんですね。マレーシアのあるファンガールのブログに遭遇し、コーランの一節のいささか自己流の解釈の記述と嵐の大野君への熱烈な思いを綴った記述の混交に軽い認知の不協和を起こしたのですが、でるはでるはという感じでブログやファンサイトがあります。日本語勉強中というのも多いですね。で、ムスリム・ファンガールズというのは私が勝手に名づけた訳ではなく、彼女達の多くが自称に用いているようです。ムスリムのファンであるというこの自己規定のあり方とそこに置かれたアクセントの意味は私にはよく判らないし、あるいはあまり勝手に解釈したくはないのですが、まあそういう意識がある人にはあるんですね。国内の中華系を意識しているのかもしれないし、盛んに英語発信しているところにはステレオタイプに抗したいというモチーフもあるのかもしれないし、同好の友達を探しているだけで特にそんな意識はないのかもしれない。まあ判らない。それと連れ合いに示唆されてユーチューブを見てみるとファンガールズ達のアップしたビデオがずいぶんありまして、メンバーのお誕生日会などを愉しそうにやったりしている訳です。上海のコンサートに行ったの巻のビデオなんかもありますから、中産階級の行動力のあるお嬢さん達もいるんでしょう。クラスの中でどういった位置を占める人々なのかは私にはよく見えません。なんとなく躊躇われるのでリンクはしないでおきます。

私は何度か旅行に行っているので当地の雰囲気というのは表層的ではあれ知ってはいるのですが、当地ではスカーフには宗教的民族的意味合いとファッション的意味合いが混じっているぐらいの印象を受けます。デパートなんかでオサレなスカーフが売られている訳ですね。消費の記号になっている側面がある。トルコほどではないにしてもイスラーム圏の中では緩めの国という印象を受けましたし、ニュースを眺めている限りでは最近はいろいろな動きがあるようなのですが、一般にそのようにみなされています。勿論スカーフについては人によってその意味合いは違うでしょうし、あるいは特段そこに意味合いを与えていない人もいるのでしょうし、年齢でも違うのでしょうし、都市と地方でも違うのでしょう。ファンガールズ達のスカーフの意味合いを勝手にあまり解釈したくはないのですが、そこにはある幅と揺れがあるような印象を受けます。そしてその揺れは別にムスリムの少女達に限ったものではなくてもう少し普遍的ななにかに感じられます。

まあそんな愉しげなサークルの外野による印象などはどうでもいいのですが、どこも一緒やねえ、とひどく心和んだという話でした。

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リベルテールという語について

きみはアナーキストか、それともリバタリアンか?[ル・モンド・ディプロマティック]

ここでリバタリアンとカタカナ英語化されているのは仏語ではリベルテール(libertaire)です。日本語圏では今リバタリアンというとアメリカのそれをイメージするかもしれませんが、別物ですね。この記事、もともとはアナルシスト(anarchiste)とこのリベルテールは不可分な言葉だったのが、最近では分離し、意味が変わってきているという話ですが、イメージとしてはよく判ります。論者は筋金系左翼の方なんでしょう、今時の格好だけのリベルテールは資本主義の同伴者でプチ・ブル的な保守主義者に過ぎない!と否定的評価を下しています。まあ私は左翼ではないですし、反動主義者でもないですけれども、いい気なもんだな、大将、みたいな感じはありますね。ああ、分かった、分かった、どうぞご自由に、と。私もかなり個人主義的な人間のような気もしますが、他人に自己のライフスタイルを誇示したいという欲望は特にないので。

浮世を楽しむ陽気なリベルテール族は別にして、今でも戦闘的なアナーキスト団体のほとんどがこのリベルテールの語を使用しています。一番有名なのはル・モンド・リベテール(le monde libertaire)とアルテルナティヴ・リベルテール(Alternative libertaire)ですけれども、他にもうじゃうじゃとリベルテールないしアナルシストの名を冠した団体が存在しています。記事にもあるように、こちらのリベルテール族は公安からひどく危険視されています。負け組リベルテールといいますか、私には政治的には評価できない人々ではありますが、負け戦に果敢に挑む根性が時に好もしかったりします。そこに浪人道的なものが見えます。実際、サムライ好きがいたりするみたいです。ちなみに極右にもサムライ好きがいたりします。なぜだ。日本の文化的リベルテール達のアナーキーな侍映画の影響なんでしょうかね。

話があっちこっちにいっていますが、要はもともと社会主義系の用語だったのが、アメリカでリバタリアン党ができて以来この語はむしろ右側の思想というイメージになっている訳ですね。アナーキストからすれば俺達がリバタリアンであってお前らは古典的リベラルだろということになります。まあ、私から見ると、古典的リベラルといいますか、アメリカのリバタリアンはかの地の風土を反映してか、かなり勇敢な人々に見えます。アナルコ・キャピタリズムって言うんですか。あそこまで徹底的なのはすごいもんだと思います。記事にあるように、現代フランスのリベルテールが社会主義的伝統から切れつつあるのは確かなのですが、アメリカのリバタリアンとはやはり全然雰囲気が違います。共通しているのは個人の自由を最優先するという部分ぐらいですかね。

”Joseph Déjacque et la création du néologisme "libertaire" (1857)” par Valentin Pelosse

それでこの語の初出ですが、リンク先の論文によれば、社会主義者のジョセフ・デジャック氏とされます。論者によれば、1875年(?)に反権威主義インターナショナルのアナーキストがこの語を採用したのがこの語が広まった契機となったが、最初にこの語を使った人物であるジョセフ・デジャック(1822-1864)についてはあまり知られていない。1857年にニューオーリンズで出版された11ページのパンフレット『男と女という人間存在についてP・プルードンへの書簡』(De l'Etre Humain mâle et femelle - Lettre à P. J. Proudhon)が初出でこのパンフレットの内容はプルードンの保守主義に対して女性の解放と欲望の自由を訴えたものということです。実際、19世紀にはフェミニスト的なアジェンダとリベルテールは結びつきは強いですね。ブルジョワ道徳を粉砕せよ!ということで。ちなみに、これ、なかなか精密な論文ですね。パンフレットの電子テキストもありますので仏語読みはどうぞ。

それでリベルテールの反対語は何かと言いますと、もともとはリベラルということになります。要は伝統的にフランスでは左にリバタリアン、右にリベラルがいて、それがアメリカでは逆になっている訳ですね。語の関係で言うと、リベルテールが英訳されてリバタリアンになったのですが、それが仏訳されて逆輸入されてリベルタリアンという語もあります。これはアメリカのリバタリアンのみを指すようです。ウルトラ・リベラルとも言いますね。なおディプロの記事にもありますが、最近の親資本主義的なフランスのリベルテールのことをリベラル・リベルテールと呼んだりするのですが、これはもともとの語義からすると矛盾していることになります。反対語をつないでいる訳ですから。アメリカでもリベラル・リバタリアンといったらちょっと変ですよね。

なにを書いているのか判らなくなってきているのですが、要は自由をめぐる立場というのはひどく複雑で流動的だということを言いたいのかもしれません。しれませんって無責任ですが(笑 

それでさらに脱線すると、アメリカにリベラルと呼ばれる人々がいて、私の中にもリベラル的感性はあると思うにもかかわらずなぜ自分をリベラルとは呼びたくないし、呼ばれたくもないという気持ちが強くあるのかが個人的にはよく判らないです。リベラルが概して日本につらくあたるからとかそういう話ではない。そうでない人もたくさんいますし、もしかすると最後の最後に日本国民の味方になってくれる人達なのかもしれないと思うこともある。ただ私が連なっていると思う日本にある自由の伝統の感覚とどこかで衝突するようなんですね。自由とはなにかみたいな一般論にあまり興味はないのですが、私の属する歴史的文脈があって、そこにはいろいろな人々の面影や光景の連なりと堆積があって、自分はその流れにコミットしているという感覚があります。別に思想家がどうとかなんとか理論がどうしたというような宙に浮いたような話ではなくてですね。こういう歴史の感覚を往々にして欠いているからなんでしょうかね、アメリカのリベラルなみなさんに違和感を抱きがちなのは。この点はネオコンなみなさんが与える違和感と大差ない。まあ、不当な一般化をしているような気もしますし、日本も似てきているところもありますし、例外だらけの大雑把な話だとは思うのですがね。

なにか意味不明なことを書いているような気もするのですが、まあ、いいでしょう、そういう一日でしたということで。

追記

少しだけ直しましたが、酔って書いたせいか文意不明ですね。注記しておくと、別に私はリベラル嫌いではなくて尊敬する人もいますし、別に偉い人じゃなくてよくいそうな人でああこの人生粋のリベラルだなあと好もしく感じることもあるのですが、それでもなにか違和感が残る訳ですね。とりあえず歴史の感覚と書きましたが、言い尽くせていないような気がしますし、はずしているような気もします。なんなんでしょうね。つくづくアメリカ知らずです。

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アルノルドゥス・モンタヌス「日本誌」の挿絵が楽しい件

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BibliOdysseyで他の挿絵が見られます。17世紀オランダ人にとっての日本。これはなんなんでしょう。仏教なんでしょうけれども、異教の国ですねえ。

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テレグラフもなあ

"Japan’s Historical Memory: Reconciliation with Asia" by Kazuhiko Togo[Japan Focus]
東郷和彦氏の歴史問題についての論考。先の大戦の認識に関する左派と右派の飽く事なき言論闘争がもたらした国論の分裂を克服すべく中道派は結集し、功罪含めたバランスのとれた認識を打ち出すべく自らの立場を強化せよとのこと。前にリンクしたジェニファー・リンド氏の提言に呼応しつつ「アジアとの和解」の道筋を描いています。後者の論点について言えば、国内でゆるいコンセンサスが生まれるまでは下手な動きはすべきでないでしょうね。リンド氏も言う通りこじらせるだけでしょう。国論の分裂状態を克服すべきだという点については誰のためでもなく我が国のためにそうした方向に向けた動きがあってしかるべきでしょうねとは思います。もっとも自由民主主義国においては意見の多様性がある以上は難しい話ですが、言論の世界のあまりに極端な分極化とそこに飽きたマジョリティーの無関心といった事態が進行することは望ましくはないでしょう。新刊は未読ですが、氏の言動の背後に東郷家のパーソナルな歴史をぼんやりと思い描いていたのであるいはそこに触れているのかもしれません。それとこれは如何ともし難い話ですが、私はやはり東郷氏の言うmy generationに属していないので温度差があるような気がします。いや、これは世代とは関係ないのかもしれませんが、できるだけ距離をとって「理解」したいという感じですね。なお英語圏においては左右の極論ばかり紹介される傾向がありますので中道派の声を英語にすることはそれだけで意義があると思います。ともかくこの実務に長けた分厚い層が大人し過ぎるのが日本の言論の世界の最大の問題だといつも思いますね。

"So Now the US is Trying to Emulate Japan's Lost Decade?" by Yves Smith[Japan Focus]
まあこの記事そのものはどうということはないのですが、いつも見ているnaked capitalismのスミス氏の記事がJFに掲載されていたので。アメリカは日本の90年代と同じ運命を辿るのだろうかという疑いを表明しています。いろいろ懸念もありますし、後遺症に苦しむことになるのかもしれませんが、多分アメリカはそうはならないだろうと今でも思っています。なぜこの記事がJFに掲載されたのか考えたのですが、今ひとつよく判りません。ともかくJFはもっと論調を多様化すべきです。読める記事もありますが、少な過ぎます。

"Japan concerned over US relations with China"[Telegraph]
中国海軍のソマリア沖派遣は国内外ともに大々的に報じられていますが、日本の懸念については英語圏ではこの記事が扱っていました。日本はオバマ政権の日本軽視と中国への接近を怖れている、海自の派遣には公明党と憲法の制約といった障害があるといった基本的な事柄が書かれています。ソマリア沖については前からけっこう騒がれていましたし、安全保障関係者は提言もしていたのにあいかわらず日本の動きは鈍いですね。この件に関してインド側のリアクションが知りたいところです。それはともかくテレグラフの日本ページがけっこう無惨なことになっていますね。コリン・ジョイス氏以降はどうにもならないようです。ジョイス氏の告白に書かれたように新米記者がデスクの注文仕事をさせられているだけなんでしょうけれども。そうですねえ、日本にはイエスの子孫もいますけれども、唯一神そのものが存在していますよ、こちらのほうが凄いと思うのですが、取材したらどうですかね、どうなっても知りませんけれどもね。

"Koons reste à Versailles, n'en déplaise à l'héritier de Louis XIV"[Rue89]
ヴェルサイユでジェフ・クーンズの展覧会を開催しているらしいのですが、そこに展示されている「ピンク・パンサー」という作品がフランス王家の子孫の気にえらく障ったらしく訴訟沙汰になっています。この子孫氏はルイ14世とマリ・アントワネットの直系の子孫にあたる人物だそうでその名もドつきのシャルル・エマニュエル・ド・ブルボン・パルム氏というなんとも高貴なお名前です。この獣と熱情的に対話をする女性の表象はご先祖様への敬意を欠いていると上品な口調で憤慨しています。獣姦は古代からそしてアンシャン・レジーム下でも禁止されていた、っていったいいつの時代の話ですか(笑)。ことごとく王家に物事を関連づけないと気が済まないようで、なるほど由緒の世界の住人の方のようですね。ヴェルサイユ城は国有財産だということで訴えは退けられたそうです。

追記
国連総会に同性愛の非犯罪化求める宣言案提出、66か国が賛同[AFP]
「性的指向や性同一性がいかなる状況でも極刑や逮捕、拘束を含む刑罰の根拠とならないよう法的および行政的を含めたあらゆる必要措置を取ることを求める」と謳われた宣言が国連で出されたようですが、日本はアジアで唯一の支持国だったようですね。この宣言に関連した教皇猊下の発言は西洋諸国ではずいぶんと波紋を呼んでいるようです。

"Gay scene: Tolerance, legal limbo"[JT]
同性愛をめぐる日本の状況についての解説と各氏のインタビューの記事。確かに同性愛に対して寛容なのか不寛容なのかよく判らない国ですね。世界に冠たる同性愛文化の歴史を誇り、宗教的原理勢力もほぼ存在せず、ホモフォーブによるヘイト・クライムのニュ−スなども聞こえない訳ですが(多分イメージと違ってフランスでもこういうニュースはあります)、寛容というよりはあまり関心がないといったほうがいいような気がしますね。アイデンティティー・ポリティックスに疲れて日本に来て「解放」されている欧米系の方はけっこういらっしゃるようですけれども。

"It took more than three decades for sexual minorities to begin obtaining rights in the U.S., but Japan does not have any religious restraint," he said. "We just need one small start, which will hopefully trigger a larger movement for the rights of LGBTs."

と記事は締めくくられていますが、法的権利運動となるとどうなるのでしょうか。不必要な敵対的修辞や上から目線の啓蒙的修辞を避けて「まごころ」的アプローチをとれば案外するっといきそうな感じは確かにありますね。これまでの運動が辿った悪いパターンを踏まなければ。

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shikata ga nai

「仕方がない」あるいは「しょうがない」というフレーズを日本人の心性を凝縮したようなものとみなし、市民性の観点からこの心性を批判するのが啓蒙派の紋切り型になっていることはご存知の方も多いでしょう。怒れ、日本の市民よ、といった具合に。それは日本の市民派ばかりでなく日本人に説教したい外国人がよく言っていますね。さすがに極東の地において樹立さるべき近代的社会規範とは相容れない「封建遺制」みたいなものとしてこれを激しく糾弾する一種の文化革命派みたいなのは稀少になってしまいましたがね。あるいは、しょうがないではない、それでは敗北主義だ、日本人も戦わなくてはならないのだ、といった勇ましい用法もあり得ますかね。外国からの理不尽な要求に諾々と従うことはない、時には毅然とノーと言わねばならないのだ、みたいに。それから仏教的起源をもつ「仕方がない」の精神は西洋的なセルフとは別のセルフの可能性をもつものであり、キリスト教起源のセルフ概念を至上のものとみなすのは文化的傲慢と偏見に過ぎないといった反批判だってあり得るでしょう。

それで私はと言えば、shikata ga naiだのmottai naiだのkatajike nai(それはない)だのといったワン・フレーズでもって日本社会や日本文化全体を理解した気になるような知的怠惰に対しては日本人だろうが非日本人だろうが批判的なわけですね。こういう問題設定では議論はしたくない。といっても通俗的な日本論に飽き飽きしているだけなので日本文化などはないとか日本は存在しないとか無茶な主張をするような観念論的な立場をとるつもりはないです。ただ日本をそう簡単に語るなよということです。実際、「仕方がない」というフレーズがこの島国において日々発され、また私自身もよく口にしている事実を認めるにやぶさかではありません。例えば、またくだらない日本人論かよ、しょうがないな、いや、しょうがないじゃない、真の国際交流のためには他者の誤れる認識を正すことも必要なことなんだろう、ああ、面倒くさい、あのね、あなた、それちょっと違うんじゃないですか・・・といった具合にね(私も嫌みですね)。

私が関心あるのは私が日頃用いるだらしのない「仕方がない」ではなくて、深刻な受苦の経験において口にされる用法です。自然災害戦災において発される「仕方がない」、あるいは日系人達が異国の地において口にしたshikata ga naiです。前者についてはそのポジティブな側面について心理学者に解説されたりもしていますが(そうつぶやきつつ戦後復興を遂げたわけですからね)、後者については英語圏では文学作品化されたり、研究がなされたりしているようです。一世達がいつもいっていたあの言葉はなんなんだろうと二世、三世達が回顧するわけですね。ある意味では英語化した日本語のひとつなのかもしれません。キング・クリムゾンにもそういう曲がありましたね。

先の大戦でかのインターンメント・キャンプにおいてshikata ga naiがつぶやかれていたことはそれなりに有名な話なのでご存知の方もあるかもしれません。 ジャンヌ・ワカツキ・ヒューストンの小説Farewell to Manzanarではこのフレーズが呪文のようにたびたび繰り返されて作品のトーンを決定しています。残念ながら私はテレビ版は見ていないのですが、カリフォルニア州では学校の教材にもされているようですね。このインターンメント・キャンプにおけるgamanとshikata ga naiがいかに収容者達の精神を支えたのかについては日系人社会のアイデンティティーを規定するほどの意味を持っているみたいです。またカナダのインターンメント・キャンプにおいても事情はまったく同様であってshikata ga naiの精神によって日系人はある種の尊厳を維持したとされています。Joy Kogawa氏のObasanというやはりインターンメントの経験を扱った有名な小説がありますが、舞台は異なるものの二つの作品は非常に似ていますね。どちらも一世の苦難の物語です。私は北米の(南米も)日系人のブログもよく巡回しているのですが、そこでshikata ga naiがなにか崇高な響きとともに用いられることがあるのですね。wikipediaの説明の一部はたぶん一世の経験から来ているのでしょう。曰く、

The phrase has been used by many western writers to describe the ability of the Japanese people to maintain dignity in the face of an unavoidable tragedy or injustice, particularly when the circumstances are beyond their control.

と、これは私が用いるだらしない用法とはだいぶ違うわけです。いろいろ読んだり聞いたりしてみるに、日系人社会においてはshikata ga naiとgamanの二つは一世そのもの、「古い価値」そのものを象徴する言葉とみなされるまで意味づけがなされているようなんですね。そこに二世や三世が畏敬の念をもったり反発したりすると。沈黙し耐える一世、怒れる三世、その間で揺れ動く二世といったステレオタイプがあるようですね。日系アメリカ人はshikata ga naiとgamanのステレオタイプを脱してアメリカ社会の不正義に立ち向かわなければならないといったようなアジも見ることがあります。勿論世代論というのも神話的なものですから実際にはずっと多様なわけでしょうし、それほど政治意識の強くない人のほうがたぶん多いんでしょう。またこうした世代間対立に対して一世をshikata ga naiとgamanのナラティブに閉じ込めるのに抵抗するような試みというのも目にします。例えば、コレなどもそうですね。母は母なりにagencyを持っていたのだと。おしんのしんは辛抱のしんみたいな話でありますけれども、北米におけるshikata ga naiは日本のそれとは少々違うコノテーションがあるようですね。いえ、一世の方々がつぶやいたそれは多分日本のそれと変わらないのでしょうが、状況の相違から意味付けの仕方が違うのでしょう。そこにはなにかと偏見をもたれがちなアジア系の少数派という立場から来る葛藤だったり、また強制収容のトラウマ的な記憶とも結びついていたりといった具合になかなか複雑な背景があるわけですね。そういうわけで日系人社会におけるshikata ga naiは日本とは異なる文脈にあるフレーズと認識しておいたほうがいいような気もします。そういう意味では多分もう日本語ではないのかもしれません。

で、なんでこんなことを書いているのかというと、何年か前に三世に随分からまれたことがあっていったいこの人はなにを私に投影しているのだろうと疑問に思っていろいろ調べた記憶が蘇ったからです。それでなにが判ったということもないのですがね、あちらはあちらの文脈があってなかなか大変なんだなぐらいで。その時のことを想起させるような出来事があったのですね。今日はそういう日でした。はい。

追記
変な文章を修正しました。私の愛着のある国はデモ好きな国が多いこともあって日本国民もそれぐらいやってもいいんじゃないのぐらいのことは思わなくもないのですよ。でも政治的な意思の表現としてどういうスタイルをとるかはいろいろあってもいいんじゃないでしょうかね。短くコメントしておくと、私は別に人々は政治的アパシーだとは思いません、また日本国民はだいぶおかんむりですよ、ロジャーさん。それから私はWesternerではないですし、westernizedされた日本人みたいに呼ばれることは微笑みとともに拒否するぐらいには政治的な人間なんですが(ええ、あなたのthe Westが釣りであることは知っていますよ、え、マジですか)、匿名的であることと政治的であることは必ずしも矛盾しないと思うんですよ、マークスさん。the Westだのthe Eastだのの政治文化(ってなんだか判りませんが)の話でなくて一般的に言ってですね。そもそも大衆とは匿名的権力の別名ではなかったですか。また政治の定義如何でしょうけれども、ある意味これほど政治的な国民もそうはいないんじゃないですかね。そう思いますよ。まあお気持ちは判らないでもありませんがね。

追記

マルクスさん→マークスさん。マルクスの文化理論に興味があるらしいというと連想からか間違えました。失礼しました。

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ラテン語メディアの世界

この広大なる世界にはラテン語をなお生きた言語として使用する、また死んだ言語にすまいと努力する人々が存在しています。残念ながら私はラテン語話者ではないのでありますが(読むと聴くだけ)、これらラテン語人口の地味ながら精力的な活動は興味深く観察しております。世の中いろんな人がいるもんだねと(なぜか地味ながら精力的な活動をしている人々にどうしようもなく惹かれる傾向性があるような気がします。欲望の希薄を補完したいのでしょうかね)。それはともかく彼らのおかげでこの世の中にはラテン語の新聞やラジオといったメディアが存在しております。

私も習慣的に聴取しているラジオ・ブレーメンとフィンランドのYLEのラジオ1はこの世界においては有名なインターネット・ラジオ・サイトです。テキストと音声と両方ありますのでディクテーションの教材にいいです。またエフェメリスという新聞サイトは世界中の短信ニュースをラテン語で伝えてくれます。我が国においてこの古めかしい言語をやろうなどという層はかなり限定的でありましょうし、ラテン語学習者の間では知らぬ者はないサイトでしょうから、いったい誰に向けて紹介しているんだかよく判らないのですが、まあそんな世界もありますよという話です。一人ぐらいこの世界に誘うきっかけになったらば私もなにごとかを成し遂げたことになるのでしょうしね。

一般的に古典作品を読むのがラテン語学習者の夢でしょうけれども、海外ニュース・マニアでもある私にはこうしたニュース・サイトは非常に嬉しい存在です。ラテン語で報じられる世界はなにかしら古代風の響きが添えられるのが楽しいところですね。ハイデゲリアンではないですが、やはり言語によって世界の現れ方はまるで違うようです。アメリカのニュースなんてまさにローマ帝国の現存といった印象を与えますね。よくたとえとして言われることではありますが、ラテン語で記述されるアメリカ合衆国は本当にローマ帝国を彷彿とさせます。

どんな雰囲気なのか伝えるべく、ラジオ・ブレーメンの7月のニュースを翻訳しておきます。音声ファイルがありますのでよろしければ聴いてみて下さい。ドイツ語訛りのあまりないきれいな発音です。Nuntii Latini mensis Iunii 2008, [4'47]の左側のスピーカー・アイコンです。

Manus pedifollica Hispaniae campionatum Europaeum anni bis millesimi octavi assecuta est;
in decertatione finali in urbe Vienna habita pedilusores Germaniae folle semel portae eorum illato vicit. Hispani non solum in hoc ludo, sed etiam in toto certamine longe superiores et invictos se praestiterunt. Homines totius Hispaniae hac victoria maximo gaudio affecti sunt. Etiam pedilusores Germaniae in patriam reversi magno iubilo Berolini accepti sunt.
ヒスパニアのフットボール団が2008年欧州選手権を制覇した。ウィーンで開催されたる最終戦でゲルマニアの選手団に1-0で勝利した。ヒスパニア人達はこの試合ばかりでなく全試合で卓越し無敵であることを誇示したのだ。全ヒスパニア人はこの勝利の歓喜に酔いしれた。祖国に帰るゲルマニアの選手団は喧噪の中ベルリンに迎えられたのであった。

Ab Hibernis pactum Olisiponense, quo Unio Europaea transformaretur, plebis scito abrogatum est. Quo facto iterum conatus Europae in meliorem statum redigendae irritus factus est. Hoc pacto id efficeretur, ut Unioni Europaeae institutiones democraticae inducerentur moderatioque habilior institueretur.
ヒベルヌス人によって国民投票で欧州連合を変貌させるリスボン条約が否決された。これにより改善されるべき欧州の試みは再び未決とされた。欧州連合に民主的制度が導入され、より相応しき節度[moderatio 訳が見つからない]が制度化されるといった事態がこの条約により実現されるはずであった。

Petitores praesidentiae Unitarum Civitatum Americae senatores Barak Obama democrata et John McCain republicanus supersunt, de quibus mense Novembri decernatur. Obama primus candidatus origine Africana est, qui ab altera factione magna Domui Albae destinatus est.
アメリカ合衆国大統領候補の民主党のバラク・オバマと共和党のジョン・マケインが残っているが、11月に両者のどちらかから(大統領が)選出される予定だ。第一の候補のオバマはアフリカに起源をもち、野党[民主党]によりホワイトハウスに指名される。

Tribunal Supremum Civitatum Unitarum Americae decrevit captivis in campo Guantanamo in Cuba insula sito inclusis ius esse in iudicio civili adversus captivitatem lege agere. Quo decreto moderatores Americani clade acerba affecti sunt; complures captivi enim per octo iam annos sine ullo iudicio in illo campo militari in custodia tenentur.
アメリカ合衆国最高裁判所はキューバ島にあるグアンタナモ基地に拘禁される捕虜達には民間の法廷で人身保護の請求を行う権利があると判決を下した。この判決によりアメリカの指導者達は苦い敗北を味わうことになった。多数の捕虜達は8年間裁判なしでこの軍事基地に拘禁されている。

Procuratores cursus publici Germaniae se cunctas tabernas suas clausuros esse decreverunt. In posterum hominibus solum in pantopoliis, stationibus autocinetorum, ephemeridum tabernulis facultas dabitur, ut opera cursus publici utantur. Quae res apud homines totius Germaniae magnam indignationem movit.
ゲルマニアの郵便の経営陣が多数の急便局を閉鎖することを宣言した。郵便業務を利用する便宜は今後食料品店やガソリン・スタンドや新聞スタンドでのみ提供される。こうした措置は全ゲルマニアの住人の間に憤怒をひき起した。

In Brasilia nonnullae gentes indigenae inventae sunt, quae adhuc cultu atque humanitate occidentali non contactae vitas agunt. Igne utuntur, habitant vicos senarum casarum. Venatores peritissimi esse, olera colere videntur. Brasiliae moderatores hos indigenas ab ullo homine adiri vetant.
ブラジリアで原住民が発見されたが、彼等はこれまで西洋の文化や文明に接触することなく生活を営んできた。彼等は火を使用し、6件の家屋の集落に居住している。熟達した狩人であり、野菜を栽培しているようだ。ブラジリアの指導者達はこの原住民達の下に接近することを禁じている。

In Graecia Argo navis fabulosa denuo est constructa eodem modo, quo antiquis temporibus fabricatam esse homines docti arbitrantur. Tali in nave triginta metrorum vecti Argonautae primum Bosporum periculosum inter Europam et Asiam situm transisse dicuntur. Quem cursum iterare moderatores Turciae vetuerunt suspicantes ita imperium quoddam Graecorum in regione Pontica renovari.
グラエキアで識者達が古代に建造されたと考えるのと同様の仕方で伝説のアルゴー船が再現された。30メートルの船で運ばれたアルゴーの船員達はエウローパとアシアの間にあるボスポルス海峡を越えたと言われる。トゥルキアの指導者達はグラエキア人の帝国がポンティカ地方で復活することを恐れてこのコースをとることを禁じていた。

Carla Bruni-Sarkozy, antequam praesidenti Francogalliae nupsit, cum monstratrix vestimentorum tum cantatrix processit. In ultima collectione canticorum, quam edidit, singulis triginta viris, a quibus amata est, unum canticum dedicavit laudans, quas quisque haberet virtutes. Etiam maritum, cui nunc nupta est, versibus "Tua sum" celebrat.
フランコガリア大統領と結婚する前にはカーラ・ブルーニ・サルコジはある時はスーパーモデルまたある時はスター歌手だった。彼女がプロデュースした最新の歌のコレクションの中で、かつて彼女が愛された、それぞれの美点をもった30人の男達を称賛する一曲を捧げた。さらに「あなたのもの」という歌で現在結婚している夫を祝福している。

15分ぐらいで大急ぎで訳したので変なところもありそうですが、地方名、国家名はラテン語の響きを尊重して古代風のままにしておきました。アメリカ合衆国はCivitates Foederatae AmericaeとかUnitas Civitatum Americaeとかいろいろな言い方があるようですね。どれが正式なんでしょう。このニュースではオバマもマケインも英語のままですが、ラテン語化するとさらにそれっぽくなります。ただラテン語といってもニュースのラテン語は近代語ベースなので古代のラテン語に比べるとおどろくほど読みやすいです。古いラテン文はもっとぐにゃぐにゃしているので一文の意味について一日中考え込んでしまったりすることもよくあります(仕事の合間合間にですね)。でも語学話というのは始めるときりがないのでこのへんで止めておきます。

最近ではインテリの間でもラテン語はできなくなりつつあると言われますが、それでもこんな風にしてこの由緒ある古代語を愛好する人々は絶えないようです。それでこのラテン語人口の活動を観察していて感じるのはこの人達の情熱には欧州統合の意思のなかにひそかに混じっている成分と同質のものがあるようだということですね。中世の普遍帝国への郷愁のようなものです。ラテン語以外禁止の掲示板などではそういう声がたまに露出していたりもします。欧州のキリスト教アイデンティティーが時に強調されたりするのと通底するものを感じるわけですが、これは政治的にはけっこうセンシティブな話だったりします。まああんまり政治にもっていくのも窮屈な話ですからこれぐらいにしておきますが、ともかくラテン語は死語ではなく現代に生きている言語なんだ、この言語にはなお現代政治や現代社会を記述する能力があるんだ、ということをご理解していただけましたらこの文に多少の意味があったことになります。

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