カテゴリー「我が国」の53件の記事

日本元年


このたびの民主党の圧倒的勝利をめぐる英語圏の報道も紹介されているようですので仏語圏の報道でも紹介しておきましょう。いささかシニカルな論調も散見される英語圏の報道に比べると民主党の勝利を日本の民主主義の勝利として素直に称えるトーンが優勢かなという印象を受けますね。それから左派メディアではサルコジスムを自民党に見て、社会的なものを民主党に見る傾向もあるようです。人は見たいものを見るということです。以下、ル・モンドの社説「日本元年」です。

"Le Japon, an 01"[Le Monde]

日本人は変化を選んだ。8月30日の総選挙での中道左派の民主党の圧倒的勝利は歴史的なものである。ここまで自民党の保守主義者による権力の独占的な行使、そして複数の派閥間の「木刀での闘い」が半世紀以上も続いたのだった。この成功は列島における深甚な諸々の変化に表れているにちがいなかろう。

民主党の与党としての未経験は完敗後の狼狽の中にある自民党内部の分裂の可能性と結び合わさってこの安定に慣れた国に一定の政治的混乱をもたらし得るだろう。もはや投資や輸出によってでなく内需主導の成長と社会的保護を優先するというのであるから民主党は1960年代以来優勢であった「日本工場」のモデルを覆そうとしている。

8月30日の選挙は自民党に関する国民投票となった。すなわち個別のプログラムを超えて拒否されたのは権力の実践であり、経済的、社会的ロジックである。民主党は生活条件の改善を政府の基本的目的とすることで優先順位を転倒させようと求めている。敵対者から見れば、こうした「ロビンフット的」な政策は列島の産業的競争力を危険にさらすものであり、財政を不安定化するものである。

1990年代初頭の「投機バブル」の崩壊以降、日本社会は不安定化した。機会の相対的平等、給与の幅の小ささ、ほぼ完全な雇用、成長の配当の再分配による生活水準の改善が不平等の拡大、雇用の不安定性、ほぼ破綻した年金システム、多くの人々の相対的貧困化に席を譲ったのだ。こうした社会的不安定に起因する諸々の現象が選挙の背景となっていた。

民主党のプログラムは野心的なものである。社会的保護を優先することでこのプログラムはスカンジナヴィア諸国の「民主的資本主義」の列に位置することになる。しかし民主党は国民的な社会文化的遺産を考慮しつつネオリベラリスム/福祉国家の二者択一を超克することを可能にするような日本的な成長の道を見定めなければならない。換言すれば、1960年から80年の拡大の起源となったモデルを改訂しなければならない。日本人が選択した過去との断絶は救済的なカタルシス効果を持っている。後は民主党が期待の水準に達することが残されているのだ。

という訳でいかにも同じ中道左派への共感のある社説です。新自由主義か福祉国家かの二者択一を超克する日本的な道というのがどういうものかは分かりませんが、私にはここしばらく民主党からは協同主義の木霊が聞こえてきますね。超克。

ではでは。


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民主党の中道化

政権の交代が確定的になってきた中で同盟に与える影響についての予測の記事がちらほら出るようになっていますね。FEERに記事があったので紹介しておきます。

"Change the U.S. Can Belive In" by Abraham M. Denmark[Far Eastern Economic Review]

民主党が主張していることは大まかに言えば「より独立的な」外交政策であり、「より対等な」同盟関係である。これまでのリーダーたちの発言は民主党が日本の独立性を高めるために同盟にラディカルな変化を求めるのではという懸念を米国にもたらしてきた。おそらくは日米地位協定、インド洋での給油、米軍のグアムへの移転費用、米軍基地縮小といったイシューが最初の数ヶ月間を支配することになろう。しかし日米同盟の劇的な変化はありそうもなく、民主党は中道化に向かうだろうと予測しています。

これまでの発言は自民党批判の選挙戦術であり、民主党の関心は内政イシューにある。民主党支持は国民世論のイデオロギー的左傾化ではなく自民党の統治能力への不満にある。民主党はさまざまなイデオロギー的支持者の間で妥協し、中道層に訴えなければならない。こうした民主政治の鉄則に加えて、民主党自体がイデオロギー的に多様である点から党の結束をはかるために中道化は不可避であると予測しています。

書き手の意見としては民主党が日本の国際的地位にふさわしい形に同盟が更新されるよう求めるのは正しいとしています。日米同盟は冷戦時代に形成されたが、未だにこの時代に束縛されている。交渉の席で日本側は「ノーと言う」かもしれないが、米国は日本側の期待に適応しないとけない。また民主党の側も軍事費増額や集団的自衛権の支持など自国の防衛に責任を持たなければならない。最後は

Change can be painful, and this will no doubt be the case in the future of the Alliance. But change can also be transformative, and a more equal relationship with a more capable Japan will be a net positive for American interests and regional stability.

とまとめています。だいたい穏当で建設的な意見だと思われます。民主党の中道化は既に顕在化していますね。言うべきは言って欲しいと思いますが、問題は民主党のヴィジョンが今ひとつ見えてこないところにあります。なにをしたいのか見えない点では自民党も似たようなものだとも言えますが、いくらなんでも社民党まで抱き込むとはねえ。結局、自衛権の問題はどう整理するつもりなのでしょう。また軍事費の増額についてはーGDP比1.5-2%ぐらいでしょうかーこのご時世には無理でしょうねえ。ふう。当面は地味な交渉が続くことになるのでしょう。


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日露戦なかりせば

もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から (朝日選書) Book もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から (朝日選書)

著者:コンスタンチン・サルキソフ
販売元:朝日新聞出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ここしばらくまとまった時間がとれなくてTwitter(右側にリンクあり)でのつぶやきにとどめていましたが、三日坊主の性格を矯正すべく軽めの内容で更新しておきます。

以前コメント欄で勧められたサルキソフ氏の『もうひとつの日露戦争』を読みました。この戦争に関しては最近では、文化史的、メディア史的な研究の他、「最初の総力戦」とか「第零次世界戦争」とかいったやや大仰なキャッチフレーズの下にグローバルな視座から新たな照明を当てようとする試みがなされているようですが、本書はあまりけれん味なくバルチック艦隊提督の私信を中心に当時のロシア側の事情を明らかにしています。私はこういう着実な仕事が好きです。戦争の語りというのは一般にそういうものですが、日露戦争の語りも日本側の視点ばかりになっていますので本書は新鮮な視点を提供してくれるでしょう。

本書は著者が独自に発掘したロジェストヴェンスキー総督の妻子にあてたプライベートな書簡史料の紹介が目玉になっている点で「発見」の書です。書簡から浮かび上がる総督の人柄や錯綜する人間関係はなかなか興味深いものがあり、単なる「愚将」のイメージからは遠い人物であったことが分ります。このイメージは日本だけでなくロシアでも強いそうですが、著者によれば、帝政末期の無責任体制において無謀な作戦の責を全面的に負わされた格好になったということです。精鋭たる旅順艦隊(太平洋第一艦隊)に比べてバルチック艦隊は俄かづくりの混成部隊に過ぎず、欧米列強の中立維持によって燃料補給や食糧補給もままならず、本国との連絡もきわめて困難な状況に置かれ、戦闘開始以前に勝負がついていたことが総督の嘆きの書簡からよく分ります。歴史の肌合いの感じられるところですが、だらだら引用を続けるのもなんなんで簡単に済ませると、例えば、日本海海戦前の書簡から。

 お前にはもう伝わっていると思うが、昨日、われわれは南シナ海に到達した。われわれは今、日本艦隊がわれわれを打ち負かすためにいつ攻撃を開始するのか、また、日本艦隊がいつ、そしてどこで、ニェボガートフを捕捉することができるか、と判断することで大忙しだ。

[...]私は疲れた。熱帯の暑さの中でもう六ヶ月目だ。お前も覚えている通り、ペテルブルクの夏でさえ、私にはつらい。航海を続行してからあと二日ですでに一ヶ月になる。四十五隻体制の艦隊だ。航海再開からすべての船で故障や異常が起こっている。中には、十二回も故障や異常を起こした船もある。

[...]たとえ惨めなものであろうとも、幕を閉じることは必要だ。今、艦隊の誰もが締め付けられるような思いになっている。

[...]われわれはうぬぼれて、全部門にわたってロシア独自の学問を発展させようとし、時期尚早のうちにわれわれの教師だったドイツ人を追い出してしまった。すべてはここに起因する。彼らのもとに戻るべきである。ドイツに学ぶためロシア国民を派遣すべきである。我々の秩序のため、ドイツ人を呼ばなければならない。

といった具合に敗北を完全に予期しているにもかかわらず、軍人として死地に赴く悲愴な覚悟が記されています。個人の進退のみならず、敗北の後にロシアはどういう運命を辿るのか、ロシアにはなにが欠けているのかについて考察しているあたりには「戦艦大和の最期」を彷彿とさせるものがありました。

また本書の特徴としては「日露戦争は避けられたかもしれない・・・」という歴史のifをめぐって考察がなされている点でしょう。著者によれば日露戦争は日英同盟締結後でも十分に回避可能なものであったとされています。大津事件によるニコライ2世の怨恨説を退け、皇帝側に戦争の意思が必ずしもなかったこと、当時の極東政策が中央の手を離れて極東総督一派の推進派に握られていたこと、皇帝の曖昧な性格から責任体制が不透明になっていた状況-どこかで聞いたような話ですが-などが明らかにされていきます。

例えば1903年の日本側の均衡提案をロシア側が受け入れ、ロシアが満州、日本が朝鮮というように影響圏を分割できていたならば、日露戦争は回避できただろう、第一次政界大戦後の日露秘密協約に結実したように英米の中国進出に対して日露には共通利害があったのだとしています。ここで引用される日露をぶつけて両国の国力を消耗させ、フィリピンを安堵するというルーズベルトの発言にはやはりなと思わせられるものがあります。日露戦争というのは代理戦争ですからね。ついでにこの敗戦がなければロシアの共産革命も回避できたかもしれないという思いも-著者のソ連に対するスタンスは承知しておりませんが-伝わってきました。

当時の国際政治的、地政学的状況についての思考を非常に促される議論なのですが、ロシアのみならず日本にとっても都合のいいシナリオのように思えてくるのは著者一流の説得力なのでしょう。実際、回避シナリオが実現した場合には朝鮮統治と満蒙特殊権益をめぐる深刻な問題は発生しなかった訳でしょうから。勿論こういうのは「後知恵」に過ぎないですし、ロシア側の膨張主義的傾向を甘く見積もっているのではという批判もできるでしょう。ちなみに日露戦争の批判といっても日本側の「侵略」の糾弾ではなくてロシア側の自己批判、そして著者の日露の友好への思いが伝わってくる趣きの議論になっています。

以上、予備知識なしでも読める一般向けの内容ですが、発見と洞察に満ちた本ですのでおすすめしておきます。

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優雅な報復攻撃能力の保有について

"The Homecoming of Japanese Hostages from Iraq: Culturalism or Japan in America’s Embrace?" by Marie Thorsten[Japan Focus]

イラク人質事件について英語圏でも論じられているのを何度か見ましたが、どちらかと言えばフェアなほうの批判記事でしょうね。「日本人のお上意識」を熱っぽく語る大西氏のNYT記事には軽く苛立った記憶がありますが、記事では日本の批判派もまたこの件をいつもの日本人論の枠内で理解しようとしていたと論じ、確かに日本的文脈はあるとしつつも、やはりアメリカでも同様のバッシングが存在した点から「犠牲者非難」の反応の共通性を指摘しています。only in Japanな話ではない、と。

異論がない訳でもないですが、日本の批判派や海外ウォッチャーが頼りがちな平板な文化主義的な解釈-十分に文脈化された解釈とは違う-に距離を置こうとしている論者の姿勢そのものは評価したいと思いました。勿論批判的な視座というものは必要なものですが、伝統芸能化した内外の批判の様式が気に入らないという話です。それはどこにも人を連れていかないし、なんの変化ももたらさない。

でこの事件そのものに戻ると、個人的に重要だったかなと思うのは、これがきわめてメディア的な出来事であったように思える点です。小泉政権下において右派からは共感とともに真実の民の声として、左派からは警戒とともに危険なポピュリズムとして、ネットの声という未知の存在が注目され始めたタイミングで生じたためにハレーションを起こす結果となった、そうした事件として個人的には記憶しています。その後、両メディア間での増幅効果が限定的なものにとどまっているように見えるのは、マスメディア側が考えたところもあるのでしょうし、ネットが一般社会に接近してかつての先鋭性と危険さを喪失して平常化しつつあるのもあるのでしょう。単に危険そうな領域に近づかなくなったからそう見えるだけなのかもしれませんが。

防衛大綱・自民素案「北策源地攻撃に海上発射の巡航ミサイル」[産経]

敵基地攻撃能力の保有を盛り込んだ自民党国防部会の出した防衛大綱素案が話題になっているようです。メモしておきます。

政府は敵基地攻撃は、敵のミサイル攻撃が確実な場合は憲法上許されるとするが、北朝鮮まで往復可能な戦闘機や長射程巡航ミサイルがない。素案は弾道ミサイル対処で、ミサイル防衛(MD)システムに加え「策源地攻撃が必要」と明記。保有していない海上発射型巡航ミサイル導入を整備すべき防衛力とした。

ということなんですが、もう少し具体的な情報が欲しいところです。ところで前から思っているのですが、「策源地」と「敵基地」はどちらも英語だとbaseだと思うのですが、日本語では前者のほうが非限定的で、後者は限定的に感じられます。どうなんでしょう。用法を見ていると、策源地のほうが融通性がきく、遊びのある概念のように見えなくもないのですが(違っていたらすみません)。

敵基地攻撃能力だけでは弾道ミサイルを防ぐ事は出来ない[週間オブイェクト]

弾道ミサイルへの対策としてはMDが主軸であり、敵基地攻撃はあくまでも従である、イラクの「スカッド狩り」も穴だらけであった、実際、北朝鮮の弾道ミサイルに対抗するのに都合のいい兵器があるなら教えて欲しいと述べています。この件は政治的な意味合いが強いと思っているのですが、そこには軍事的リアリズムの裏打ちがなければいけない訳でふむふむとなりました。象徴的には大きな変化のように見えますが(この能力の保有のアイディアそのものは当然の自衛権の範囲だと思います)、コスト的、技術的な問題から現実化されたとしても半島有事の際に補助的に機能するかもしれない能力程度のものになるといったところでしょうか。

Separated by a common enemy[Observing Japan]

なんだか粘着しているような気もするのですが、基本的には優れたブログだと思っているので。敵基地攻撃能力が地域の状況に与えるかもしれない影響について考察しています。日本の北朝鮮へのアプローチと米国とのそれには違いがある。日本は自国の安全の観点であるが、米国の関心はより広い。世界的な核拡散の問題への懸念に加えて米国には日本との関係ばかりでなく韓国との関係もあるからだ。米韓同盟と日米同盟の相反する要請は日米同盟にやっかいな影響を与える。米国の言動は韓国のことを考えなくてはならず、抑制的なものとなるが、これは日本側に不安を与える。米国側が日本の自立的な先制攻撃能力の保有を懸念するとしたら、それは日本が自国の安全保障上の理由で動くことで他の国にダメージを与える可能性があるからだ。実際にはこれはありそうもないシナリオではあるが、もし日本がこの能力を保有するならば、他の諸国に与える影響について責任をもって考慮しないとけない。地域の安全と安定は日本の国益であり、この点を自覚することで日本の指導者は米国の努力をより評価できることになるだろう云々。

原則論的な反対という訳でもないようですが、どういうベネフィットがあるのか不透明である、また敵基地攻撃能力を保有するとして実際にそれを行使するにあたって自国の安全のみならず地域の安定に貢献するよう思考しなければならないという考えのようです。日米に限らずあらゆる同盟には同床異夢の側面があると思いますが、パースペクティヴの差そのものについては埋まらないところがありますね。現状では調整可能な範囲だと思いますが、今後日本側のいらいらが募ることになるでしょう。

"Japan Debates Preparing for Future Preemptive Strikes against North Korea"[pdf]

2006年に書かれたこの論文では法的、技術的、財政的問題から言ってこの構想はincredibleであり、これは国内向けの政治的な議論であるとしています。本気ではない、と。実際、国内向けの要素もなくはないとは思いますが、本気ではないとまでは思いません。技術的な問題についてはいざとなったら金一族を広義の策源概念に含めるとか誤爆だと言い張って政府機関にでも打ち込めばそれでいいんじゃないかという気もしますが(冗談です)、素案の段階で賛成だ反対だと騒ぐのもどうかと思いますのでしばらく眺めることにします。

こと安全保障関係については細心に物事を進めていくしかない訳であまり力瘤を入れた議論-賛成論も反対論も-は現実から遊離してしまうようにも思えます。対米不信や独立願望がここに強く投射されると米国側の猜疑や誤った解釈を呼んでおかしなことになるのかもしれませんからこのあたり主導する人々には修辞の研究が少し必要な気もします。実際のところ、あの決定的な敗戦の心理的後遺症が残っている中、また日本の置かれたなかなかに険しい戦略環境の中、さらに国内のリソースの制約の中にあっては、日米同盟を堅固なものにする一方で地道で粘り強い調整を通じて中長期的に相対的な自律性を高めていくしかないように思われるのですね。まあ、そんなに悠長なことを言っていられない可能性もありそうですが。

“After death cometh judgment” - Why are there so many Christian signs in provincial Japan?[MTG]

いたるところで不吉なメッセージを伝える「キリスト看板」についての良ポストです。目的と手段の関連の見えないところがいっそう不穏さを醸している訳ですが、この協会の堅忍不抜の恫喝的宣教活動にはなにかしら心を打たれるものもあります。これはこれでアートなのかもしれません。高校生の頃、学校帰りにフレンドリーなモルモンのお兄さん方に話しかけられてなにをやっているんだと思いつつもユタの事情に詳しくなっていたことを思い出しました。

【パリの屋根の下で】山口昌子 カンヌに登場した“蔑視”映画

「国辱」映画といいますかwaiwai映画のようですね。このイメージはけっこう強力にあると思います。リベラルなみなさんも「ナショナリズムに絡めとられるのはちょっと・・・症候群」を脱してこの手の破廉恥幻想については少しは批判すべきではないでしょうかね。また型通りのオリエンタリズム批判ではなく創作によるわさびのきいた文化的報復というのもあると思うんですよね。個人的には優雅なやり方のほうが望ましいです。とはいえこの種の幻想の悪循環に加担するコラボばかりが出現するのには困ったものです。ふう。

追記

細かい表現を直しました(2009.6.4)。一応書いておきますが、タイトルは遊びです。蔑視だ!とか偏見だ!といった糾弾調の言説よりも文化領域での余裕のあるやり合いが望ましいと思うのですね。

再追記

民間で多様な意見が戦わされることはいいことだと思うので頭ごなしに否定はしないですが、本当を言えば、政治のレベルでは難易度の高そうな話よりも集団的自衛権や通常戦力の問題に議論を集中して欲しかったりします。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=8lcDJhq1sDQ&feature=related

エミー・ジャクソン『涙の太陽』(1965昭和40年)

極東のシルヴィー・ヴァルタンこと(今勝手にそう呼んでみた)エミー・ジャクソンの40年のヒット曲。和製ポップス一号とも言われる曲ですね。涙のシリーズはどれもいいです。

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負けじの心

"A New Look For Japan’s Musicians"[Newsweek]

日本の音楽シーンが多民族的、多人種的になっているという話なんですが、そのことを強調するために日本の純血主義とやらを誇大に唱えることで-伝統的に血統幻想がそんなに強い社会だったとも思えないのですが-神話の強化に貢献してしまうというよくあるパターンの記事です。大衆はそんな話にさほどの関心がないことの証拠として捉えることだってできるかもしれないと思うのですがね。この奇妙な言説効果については何度も言及しましたのでもういいです。

それ以前にビルボード関係者とされる書き手には日本芸能史や歌謡史の基礎教養がないみたいです。確かに最近はいわゆるハーフの歌手や外国籍の歌手が増えている印象を受けますけれども、昔から日本の芸能の世界はそんなもんだったように思います。なお日本の歌謡についてなにか論じるには「芸能」が「芸術」(欧)や「エンターテイメント」(米)と取り結んできた入り組んだ関係への視座や東アジア諸国の芸能者たちの愛憎半ばする交流の歴史に関する認識も必要な気がするのですが、indigenousな日本にしておきたいのでしょう。こういう粗雑な地理-文化的なヴィジョンでは東アジアのマーケットには食い込めないんじゃないですかね。

ルイズ・ルピカールさん 「お百度参り」の日本訪問[毎日]

"French woman raised in Japan during war makes annual nostalgic pilgrimage"[The Mainichi Daily]

フランス人の父と日本人の母をもつ「トゥールーズの大和撫子」ルピカールさんが日本の訪問をしたという記事です。軍国少女時代の自伝『ルイズが正子であった頃』にはつくづくいろんな戦争体験があるんだなと思わされましたが、記事では「なにくそ」の「負けじ魂」について語っておられます。日仏の架け橋として活躍されていらっしゃるそうですが、本当に凛とした方のようですね。

週刊誌記者の取材に心が汚れた[Cnet]

別にメディア人が総じてすれっからしだとも思いませんし、それほどネットに大きな幻想を持っている訳でもないのですが(小さな幻想はありますが)、この記事にはなんだかしみじみとさせられました。「心が汚れた」という表現はいささか可憐に響きますが、氏には負けじの心でやってもらいたいものです。

"How do you solve a problem like Korea?"[Guardian]

どうということもない記事ですが、典型的に思えましたので。北朝鮮問題を解くには中国の協力が必要だ。しかし体制崩壊にともなう難民の発生を怖れる中国はこれまで非協力的であった。ところで北朝鮮の暴走は中国にとってコストになりつつある。なぜならば北朝鮮の挑発行動は中国が難民以上に怖れる日本の軍事化を促すからだ。この点で中国には状況を管理できる状態にするインセンティヴがあり、米中には共同の利害がある、と。もっとストレートに日本を後押しして中国に圧力をかけろ式の意見もちらほら見ますが、日本の現状を見ていないその幻想性においては軍国主義の復活だ!組と五十歩百歩なのかもしれません。

"On North Korea's nuclear and missile tests"[FP]

ウォルト氏に米国のリアリストの意見を代表させるのがいいのかどうか分かりませんが、同盟国は戦争を望んでいない、米国にはほとんど打つ手はない、この問題は中国に主導させろ、と述べています。あまり関心はなさそうですが、誰かが聞けば、日本については拡大抑止の有効性を確認して安心させとけ云々が続くのでしょう。

自国を棚にあげて言えば、米国の対北朝鮮外交はやはり稚拙なところがあったように思いますけれども、同盟国の足並みが乱れ、戦争オプションがとれないとなると他にどうしたらいいのだという気持ちにもなるでしょう。とりあえず今回韓国がPSIに参加したことは言祝ぐべきなのでしょう。当面は国連外交を進めたり同盟の空洞化を防いだり安全保障に関する縛りを緩めたり外交的手数を増やしたりすることぐらいですかね。ふう。否、負けじ。

追記

"A nuclear Japan is not an option"[Observing Japan]

クラウトハマー氏の日本核武装論に対して上のウォルト氏の記事を引用してオバマ政権は過敏に反応せずに同盟国に拡大抑止の口約束をせよと述べています。反対の理由としては日本の国内世論を挙げる一方で、地域の安定にとってワイルド・カード過ぎるからと述べていますが、後者は曖昧な言い方ですね。氏の見方には総じてそれなりの(米国から見た)合理性と現実性があると思いますが、現在の同盟関係が日本側にもたらす心理的側面についていささか楽観的に思えます。別に「保守」の頭がとりたてておかしい訳ではないと思いますよ(おかしい人もいますけど)。

ついでに、たとえ米国がゴー・サインを出したとしても(この仮定の現実性は度外視します)、核の目的をめぐって日米で齟齬が広がるように想像します。対中国の最前線の位置付けは御免蒙りたいと考える人が多いでしょうし、日本の日本による日本のための核戦略に賛成するほどアンクル・サム氏も親切ではなさそうですしね。なにかコンセプトが欲しいところです。ただ核であれなんであれ思考の縛りは無用だと思いますが、国民の合意がまったく存在しない現在は通常戦力の強化の問題に議論は集中すべきだと思います。

再追記

細かい部分の修正をしました。MTGで白熱した議論になっています。一応注記しておくと私はゴーリストではないですね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=2Y8I8xD46wU&feature=related

バートン・クレーン『酒がのみたい』(1931年昭和6年)

日本初の欧米系外国人歌手と言えば、このジャーナリストさんですね。お世辞にも上手いとは言いがたい歌唱ですが、この曲は耳に残ってよく口ずさみます。

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村と帝国の戦いでは村を支援せよ

(タイトルに特に意味はありません)

コメント欄でリクエストがあったのでグーグル・アース事件に関するル・モンド記事の訳をアップしておきます。話題になったAP記事に比べるとだいぶ短いですが、この問題について非常に詳しい記者の記事なので意味があるかもしれません。また部落解放同盟の古地図に対するスタンスがあまり世の中に伝わっていないようなのでその点で価値があるかもしれませんね。地名削除は歴史の抹消を意味してしまう、というのが同盟の見解のようです。基本的スタンスはココにありますね。文脈を無視して複製をアップしたのも、問題化すると泡を食って地名削除に及んだのも不満である、と。そうですね、個人的には古地図から地名の削除というのは薄気味悪いです。

「日本でグーグルが禁じられた地区に侵入する」ル・モンド5月20日フィリップ・ポンス

その性質から言って古地図より無害なものはあるだろうか。徳川将軍時代(1606-1868)の東京と大阪の歴史地図を公開した時、グーグル・アースは自らがタブーに抵触することになるとは知らなかった。かつて差別の対象となった社会の周縁の者たちが居住していた-現在もその子孫の一部の者たちが暮らしている-地区を地図上で位置決定することが引き起こすかもしれない偏見を理由に、この検索エンジンは数週間前から法務省の調査対象となっている。

1871年に差別は廃止されたが、この社会カテゴリーの者たち-生まれた場所ないし居住地以外には他の日本人といかなる違いもない-への偏見は人々の心性に深く根を下ろしている。グーグルのおかげで今後は”burakumin”(「小集落の住民」の意)地区を位置づけることは容易くなる。公式には彼らは150万人とされるが、その倍いるかもしれない。その一部は列島各地の4000ヶ所で暮らしている。その土地の名はしばしば変更されたが、微妙な差異をとどめている。

”eta”(穢れた者の意)は彼らの職(皮革、屠殺、解体の従事者)ゆえに仏教から非難され、下層階級のいかがわしい周辺の者たち(娼婦、物乞い、落伍者、軽業師)である"hinin"(非-人間の意)は特別の地区に押し込められた。差別が廃止された後も彼らはそこにとどまり、やがて農村から都市へ移住した大勢の困窮者たちがそこに合流した。先祖に関わる偏見は区別を欠いたこの貧困層へと押し広められることになった。

家族の秘密

生まれた場所でこの「部落の民」を「同定」することはできない。かつての「ゲットー」の場所のリストが内密に企業の人材サーヴィスを流通している事実は根強い偏見を証言している。今後はこうした地区がかつてはゲットーであったことを知るのにワンクリックで十分になるし、ゲットーを特定するには古地図と新しい地図を重ね合わせるだけで十分になる。

古地図の複製は日本では禁止されていないが、一般に歴史的説明の補足がつく。カリフォルニアのコレクター所蔵の地図をオンライン化するにあたってグーグルは用心を欠いた。最も重要な反差別団体である部落解放同盟は反応した。二週間後、グーグルは”eta”のような差別的言及を地図から削除した。しかし解放同盟は満足していない。というのも「それはそこに暮らした人々を世界から抹消することに帰着する」からだ。かつてのカースト外の人々をめぐるやっかいな問題はここでは慎重に取り扱われているのだ。グーグルが頓着しない「家族の秘密」の問題は。

といった具合にグーグルの慎重さの欠如にやや批判的なトーンです。ついでに書いておくと、成長の壁にぶつかりつつあるかに見えるこの企業をめぐって近年日本で起きている諸事件は兆候的に思えます。ストリート・ヴュー事件の際にも英語圏論者には日本の文化ナショナリズムの主張のように受け止めるむきが多かった印象がありますが、日本的近代における公私区分編成の問題なのか公共的なものと世間的なものとの争いなのかシステムに対する生活世界の側の抵抗なのかあるいはこうした説明は嘘っぱちなのかよく知りませんが、日本だけでなく世界中でこうした問題は起こり得るのではないでしょうかね。グローバル化の概念と関わってくるのでしょうけれども、私がこの言葉から連想するのはマクドナルド化する世界のような平板化のイメージでも文明の対立のようなシンプルな闘争のイメージでもなく、どこが内でどこが外なのか不分明な入り組んだ文脈間の絶えざる折衝のイメージです。

追記

で、この件についてどういう要望の下に折衝がなされるべきかがそもそもよく見えてこないのが困ったところですね。

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マスクな一日

"Despite Political Uncertainty, Japan Can Still Show the Flag"[CSIS]

グリーン氏とセーチェニ氏の論評です。日米同盟に関して悲観的な声が広まっている。政局の混迷がこれに拍車をかけている。しかし日本の戦略的信頼性や重要性は過小評価されるべきではない、現在の混迷は55年体制の最終局面なのである、といい、先日の飛翔体発射への対応やインド洋への海自派遣、シンクタンクの戦略提案、憲法改正の支持率等の例を挙げ、両国とも同盟の未来について野心的になるべきだとしています。民主党に関する言及部分が気になるところですが、基地問題について鳩山はプラグマティストだが、党内左派や社民党のマネージをしないといけないのだ、とか、「よりバランスのとれた」同盟というのがアジアでの積極外交を意味するならば米国にとってもいいことだとかいった具合にフォローが入っています。悲観論への牽制ということなんでしょうが、それはもともと性急な期待をするから悲観的になるのであって・・・、まあ、当面はぐずぐずしつつ身動きができる範囲を少しずつ広げるしかないのでしょう。アフガンもどうなるのかよく分りませんしね。

たぶんイメージだけなんでしょうけれども、米国側の日本への信頼度はずいぶん高いですね(HT to Curzon)。価値観の離れた大国の台頭を前にした漠たる不安が米国市民にあって伝統的な同盟国の存在に安堵するという部分があるのかもしれません。ついでにこれも不安の投影なんでしょうけれども、ごく一部には日本国民の漠たる対米不信をイデオロギー的な反米と取り違える過敏な反応も見られますね。

"Call: Economic recovery but political gridlock in Japan"[FP]

経済的にはどうやら日本は底を打っているようだが、政治的な混迷が気がかりだというブレマー氏の記事です。自民党と民主党の不満層が中道的な第三党を結成するだろうという情報を個人的に得たと書いています。中国が台頭し、オバマ政権が新たな関係を結ぼうとし、回復が構造改革のチャンスを提供しようとしているときに政治的麻痺状態が続くようだとこれは日米にとって悪いニュースだと述べています。ところで民主党のrising starって誰でしょう。なんとなく想像はつきますけれども、この情報は意味があるのですかね。

Face à la grippe, "les Japonais restent calmes"[Le Monde]

こちらのル・モンド記事は在日フランス人たちによる列島リポートです。学校が閉鎖されたとか会社で注意喚起があったとかマスクが売れているとかあるが、一部のジャーナリストが主張するようなパニックはないと口を揃えて述べています。不安感は漂っているが、市民はごく落ち着いていて普段と変わらない、と。そうですね、私の見る限りでも、のほほんとした空気に見えますね。マスクの着用についてはどうすんべと思っていたのですが、職場で支給されて着用を要求されました。暑苦しかったです。

"Au Japon, Google s'aventure en zone interdite"[Le Monde]

フランス語圏の日本記事にはほとんど言及していませんが、一応読んでいます。言及しないのは日仏関係に関心のある人以外にはそれほど意味がないように思われるからです。これはグーグル・マップの古地図に被差別部落名が記載されていた例の話です。この問題の歴史や現状についての要領のいい説明があり、グーグルは「家族の秘密」には顧慮しないといったまとめ方をしています。グーグル的なものの受け止め方にはいろいろある訳でしょうが、書き手のポンス氏には微妙な留保があるのかもしれません。私は検索以外は使わないのでどういうサービスがあるのかもよく理解していませんが。

ちなみに同記者が一時期「反日」と呼ばれているのを見たことがありますが、基本的に日本の歴史と文化に対する敬意と日本国民への共感がある方ですのでそう思ったことはありません。もっとも政治レベルでの氏の進歩派への共感と保守派への反感はあまり買いませんが。しつこいようですが、それは私が概して保守派に共感し、進歩派に反感を抱いているからではなく(保守にも進歩にも共感できる人も反感を抱く人もいます)、社会的現実から遊離した現在の言論の対立構造に不満だからです。また対立の存在そのものに批判的なのではなく現在の日本が直面している問題に合わせて対立軸をずらして欲しい訳です。実際には言論と関係なく事態は進行している訳ですが、それはいいことではないでしょう。

最後に地図の話については確かに現実的な不都合があるところにはあるのかもしれませんが、これだとタブーを強化するような気もするのでこれでいいのかなという感じがどこかに残ります。コメント欄ではフランスの郊外のいわゆる敏感な地区の問題が言及されていますが、この話ではやはりカゴの話が想起されるべきでしょうね。

"Wakamatsu voit rouge"[Liberation]

"Ce film est adressé aux jeunes Japonais"[Liberation]

連合赤軍映画のフランス公開に合わせた若松監督の紹介記事とインタビューです。日本の伝説の怪物といった具合に60年代70年代の文化的カミカゼぶりを紹介しています。「教訓。怖れるな!」という結論です。インタビューでは監督が戦後史における学生運動について説明し(あれは父達の失敗を繰り返さないための闘争だったのだ・・・)、これは日本の若者たちへの映画なのだと語っています。いかに彼らが失敗したのかを記録として伝えたいのだ、と。連合赤軍には肯定的にも否定的にも思い入れはないのですが、この武勲詩・聖女伝にはなんだかなと思わされました。歴史的落とし前をつけたいという孤独なモチーフそのものはいいとして監督が語る世代論の枠組みを借りるならば、氏の敗戦映画は甘過ぎて例えば父世代の岡本喜八の敗戦映画の足元にも及ばないように思えます。それとやはり女性闘士の問題は氏には扱えないようです。それから実際、世相に大きな影響を与えた以上仕方ないのかもしれませんが、あり得べき日本の社会運動というものを想像する時、これがピリオドだと言わんばかりの事件の神話化は好ましくないでしょう。前にも書きましたが、実際には歴史は続いている訳ですから。

なんのまとまりもないエントリですが、ただの日記ということで。

追記

"Spread of Swine Flu Puts Japan in Crisis Mode"[NYT]

「一部のジャーナリスト」って田淵さんですかね。ほぼ予想通りの展開でオチがついたようでなによりです。もはや伝統芸ですね。

"Random gaijin mail magazine dude nails it on Japan's media-fueled swine flu panic"[MTG]

あるいは私や私の周囲が暢気すぎるだけで世の中的にはパニックになっているのでしょうかね。うーむ。

「リスク」というのは大げさだったかもしれませんが、言語共同体に安住して日本国民とコミュニケーションをとろうとしない在日外国人が多いようですので日本語で書く方が増えるといいなと願っているのですね。批判的な内容でも同じ目線の高さから発せられた誠実な声ならば大概の人は真面目に聞くと思いますよ。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=NeVdlNZ4yMQ

テレサ・テン『つぐない』(1984年昭和59年)

三木たかし先生の訃報は残念でした。平和のうちにお休みください。

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疫学的想像力

"Misreading the Map: The Road to Jerualem Does Not Lead Through Teheran"[Foreign Affairs]

リアリストの声が大きくなるにつれ、特に先日のガザ侵攻以降、米国でのイスラエルに関する論調のトーンに変化が生じている点については多くの人々が気づくところでしょうけれども、このフォーリン・アフェアーズの記事はごく冷静な筆致でオバマ政権はネタニヤフの言うことを聞かずにイランに対抗することよりもパレスチナ問題の解決に焦点をあてたほうがいいと進言しています。イランの台頭を前にしてスンナ派諸国とイスラエルの間に利害の一致が出来つつあるように見えるが、イランへの強攻策は各国の国内世論を反米、反イスラエルに傾かせることになる。こんな言い方をしていますね。

But the fact that they share certain U.S. or Israeli strategic concerns will not create the foundation for long-term strategic alliances (as opposed to ad-hoc tactical arrangements). In the Middle East, as elsewhere, one-night stands do not necessarily lead to marriage.

それでイランの核開発を遅延化させるべく交渉しつつ、その日が来た後に備えて抑止の枠組みをつくらなくてはならない。一方で中東の不安定化の根源にはパスレチナ問題があり、オバマ政権はこの解決に向けて力を注がなければならない、と。

"The good, the bad, and the unknown"[Foreign Policy]

でこちらはスティーブンのほうのウォルト氏のブログの記事ですが、基本的な認識で上の記事と一致しているようです。イラン問題とパレスチナ問題のリンケージははずすべきであり、後者についてオバマ政権は具体的に動きべきだ、と。リアリストのイスラエルに対する見方は長期的には必ずしもイスラエルにとってマイナスばかりだとは思わないのですが、イスラエル側-といっても多様な訳ですが-に想像的に内在してみるとかなりきつく見えるでしょうねえ。

アメリカ知らずのくせに余計なことを書いておくと米国のリアリストにも微妙な印象を抱くことがあります。悪いという意味ではないですが、彼らもまたアメリカ的に感じられます。欧州系のリアリズムとはなにか違う。もちろん我が邦のそれとも。今は亡き永井陽之助氏が冷戦期の封じ込め(containment)や隔離(quarantine)言説に関して指摘した「疫学的戦略観」-イノセントな国土の健康を守るために遠隔からの病原菌の進入を防ぐべく伝統的な勢力圏を無視して防疫ライン・道義的ラインを引こうとする-に彼らもまた多かれ少なかれ規定されているように見えるからなんでしょうか。そこに葛藤と苦悩があり、そこから特有の悲劇的トーンが出てくるのでしょうけれども、そこに米国的なものを感知する訳ですね。

日米同盟に関するNYTのオピニオン記事。日本の政局の混迷の中で日米同盟は漂流しつつある、変化するアジア情勢に応じて更新が必要であるという意見です。ごく穏当な内容ですが、注目すべきは北方領土問題を含めた日露関係の改善と日米韓の三カ国の関係強化の言及でしょうか。歴史を遡るならば領土をめぐる日露交渉の難航の責任の一端は米国にもあると思われるのですが(別に責める気もないですが)、米国が日露関係についてどう考えているのかは今ひとつよく分らないです。米国の戦略と両立する形で日本が中露のバランサーをつとめるというのはgeopolitically correctな選択のようにも思えるのですが、日本側にはそんな意志はなさそうですね。日韓については互いにhistorical antagonistsとみなし合っているのではなくて片方が一方的に・・・まあ、いいです。基地問題については語るも憂鬱なのでパスしたいところですが、国土防衛の役割分担についての小幅な-象徴的には大幅な-変更があってしかるべき時期かもしれませんし、それに応じた再編の構想案が民間からも出てきてもいいように思えます。ちなみにリアリストから見ても、

Moreover, mounting voter frustration in Japan with an unresponsive political system leaves the door ajar for nationalist politicians and policies, which undermine Tokyo’s ability to cooperate on pressing issues.

という風に見えていると思われます。ナショナリストのみなさんは、たとえそんなものを信じていなくとも、交渉とか協力とか妥協とかの重要性を語る芝居の稽古をしたほうがよろしいかと存じます。曇りなき赤心に加えて蛇のごとき狡猾なくして祖国の生き残りははかれませんです。

"The concept of quarantine in history"[pdf]

豚インフルエンザをめぐって検疫が話題になっていますが、この語は英語だとquarantineといいますね。語源はイタリア語の40を意味するquarantaとされます。ヴェネチア共和国とビザンツ帝国の間にあって東地中海商業の覇権を握ったラグ-ザ(現ドゥブロクニク)において黒死病到来に対応して1377年に敷かれた制度が現在の検疫体制の起源とされることは西洋史好きならばご存知でしょう。これは検疫概念の歴史についての概略的な記事ですが、ラグ-ザの検疫体制について特筆しています。旅人を40日間隔離したのですね。というわけでquarantineという語は黒死病と隔離の暗い歴史を想起させ、また日本と同様に人権に敏感な人々に懸念を呼び起こす語であるようです。中国の検疫についてのNYTの第一報における日本の不正確な言及およびその修正についてはGlobal Talk21さんがエントリされておりましたが、政府にはきちんとbecauseを内外に説明できるよう準備することを願います。

またマスクの着用をめぐってなんだかあちこちで小競り合いがあるようですが、MTGのアダムさんが日本語でエントリされていました。「日本語で書く」というリスクをとっている人々の意見は賛成するにせよ反対するにせよ尊重するのが礼節というものかと存じます。公衆衛生の知識が乏しいのでなんとも言えないところがありますが、個人的には我が邦のマスク文化には国土地理的、都市構造的な観点から言って一定の合理性があるように思われるのですけれども、どうなんでしょうね。

ではでは。

追記

政府の対策に批判的に言及している笹山氏が記事で日本の「清浄国神話」に触れています。米国の疫学的想像力とはなにか違う感じがありますが、孤立主義の伝統から来るものというのはあるのかもしれませんね。なんだかあやしい日本論やアメリカ論になってしまいそうなのでこれ以上は止めておきますが、この点に関連してアメリカ人の日本言説に自己の投影を感じることがあります。

などと呑気なことを書いているうちに国内での感染が始まってしまったようですね。ふう。気をつけましょう。

一部簡単な説明を追加しました。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=vHt1t-GxNWw

ジノ・ヴァネリ『Brother to Brother』(1978年)

北米のラテン男ヴァネリの代表曲。ヴァネリの歌唱にはいつも圧倒されます。胸毛もナイスです。

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市民宗教ねえ

最近読んだ宗教がらみの記事をクリップしておきます。

"'Etiquette guide' for Thai monks"[BBC]

タイのお坊さんのよいマナーのガイドラインが出されたという和み系の話です。不良坊主問題が発生しているので-昔からといいますが-指導ということのようですが、その中でトランスとゲイの坊さんの話もあって、

He was especially concerned, he said, by the flamboyant behaviour of gay and transgender monks, who can often be seen wearing revealingly tight robes, carrying pink purses and having effeminately-shaped eyebrows.

とのこと。同性愛はオーケーだが、目立ち過ぎるなということのようです。かつては華やいでいた日本の仏教界ですが、現在はそういうのってどこかに残っているのでしょうか。ちなみにBBCはどうやらタイモンク・ネタが好きみたいですね。

"God is back: How Ned Flanders won the evangelical crusade"[Times]

タイムズのエヴァンジェリカルについての記事。アメリカのクリスチャンのカリカチュアとしてシンプソンズの信心深い隣人ネッド・フランダースに言及しています。これまでハリウッドではエヴァンジェリカルの説教師は偽善の代名詞のような扱われ方をしてきたし、フランダースも愚か者の象徴として描かれている、しかしフランダースは負け犬なのだろうかと記事は問います。実際にはフランダース主義は世界中で勝利しつつあるのではないか、と。啓蒙の時代以来、欧州の知識人は宗教が近代性によって没落することを予言してきたが、アメリカは当初から違っていた。確かにアメリカの知識人も合理主義の下での宗教の弱体化を予言し、弱者や貧者や愚者の間でのみ宗教は生き残ると考えてきたが、このピクチャーは変化しつつあるとしています。ピーター・バーガー氏によれば社会学者は近代性を世俗化と捉えたが、これは誤りであり、近代性とは多元性のことである。アメリカではどの宗教を選ぶことも選ばないことも自由である、と。またフランダースは世界展開しており、今ではクリスチャンの60%は途上国にいるといいます。ロシアや中国のような国家による強制的世俗化を蒙った国でも宗教リヴァイヴァルが顕著であり、欧州ですら世俗化の放棄の兆候が見られる、と。宗教紛争の原因ともなっているとしつつも、記事はグローバル化する世界において宗教のプラスの側面についても触れています。いかにも欧州的な戸惑いが感じられる記事ですが、後半ではわりと好意的な解釈もしています。仲間と一緒でヘルシーでハッピーだ、と。まあ、そうなんでしょう。

ただ日本でもその傾向がありますが、欧州ではアメリカの「エヴァンジェリカル」はだいぶ記号化されているような気がします。よく知らないのですが、そんなに単純なイメージでいいのかなと思われます。世俗化や多元主義は難しい話ですが、イスラームも含めて中世的なものの浮上ではなく近代性-曖昧な概念ですが-の内部の宗教の再編現象が生じているのでしょう。以下、多少関連した記事になっています。

"'Religon' and 'the Secular' in Japan. Problems in history, social anthropology, and the study of religion" by T. Fitzgerald[ejcjs]

日本における「宗教」と「世俗」概念の用法が「我々西洋」とはなにかずれているということを指摘する記事です。多くの人が無宗教を自称しつつ宗教的プラクティスを怠らないのはなぜなのかといった問題には様々な答え方があり得るのでしょうが、それは西洋から輸入した概念が社会的現実からずれているからうまく自己記述できないからだというのもひとつの回答になるのでしょう。比較宗教学的方法論にキリスト教的前提が多数忍び込んでいることもまたつとに指摘されるところですが、記事は非西洋圏の宗教現象を把握するためには歴史的コンテクストを踏まえつつ、基本的な概念の語用論的な分析をする必要があると主張しています。ここでなにか具体的な対象の分析をしている訳ではなく、多くの英語圏の日本の宗教に関する言説をとりあげて方法論的反省をしています。他者性を強調するあまりに不可知論みたいになるとそれはそれでひどく困るのですが、ずれているのは事実でしょう。ただ「我々西洋」ってそれほど一枚岩でしょうか。政教分離や社会における宗教のあり方にはずいぶん多様性があると思われます。

ちなみにこの調査では世界二位の無神論者の国ということになっているのはおそらく「宗教」概念の混乱ゆえなのでしょう。戦後日本人は宗教を失ったみたいな嘆きを聞くこともありますが、おそらく戦前でも同じ方法で調査したならば「無神論者」率は高くなるのではないかと想像します。そもそも無神論(atheism)というのは一神教空間内の概念だと思いますので意味が違っていると思うのですがね。

Religiones

法外なるものの影で 近代日本における宗教/世俗[pdf]

こちらは近代日本の宗教と世俗の概念の文節化を扱った現代思想系の論文ですが、上の論文に対するひとつの変化球的な応答になっているように思われます。日本の批判的知識人の間でとりわけ靖国とイスラームに関して政教分離をめぐる問題が近年では取りざたされているが、このふたつの問題に対して彼らは正反対の対応をしている。イスラームに関しては政教分離は西洋近代の生んだ局所的な理念に過ぎず、その普遍性妥当性を疑う一方で、靖国に関しては政教分離を金科玉条のごとく唱えている。政教分離の問題は非西洋社会が西洋の宗教概念および関連制度に包摂される中で浮上する問題であり、日本において政教分離を貫徹すべきか否かの二者択一的な議論をする前に、近代日本がこうした理念をいかに受け入れたのかを歴史具体的に論じる必要がある。戦後日本では普遍主義的な理念として政教分離が謳われるが、現実には西洋においてもこれが貫徹されることは稀であり、宗教の占める位置には多様性がある。実際、明治エリートはこのことを見抜いており、プロイセン型の「宗教の寛容」理念を採用したが、敗戦とともにアメリカ的な政教分離を受け入れることになる、と。

次に「国家神道」をめぐるこれまでの議論をまとめていますが、論者によって定義が異なるためにこの語でなにを指すのかは自明ではなく、例えば島園氏によれば現在でも広義の国家神道は存在するという話になっているとされます。ただし国家神道という語はGHQの「神道指令」で用いられる以前は行政や学術の世界で用いられることはなかったために、これを遡及的に使用することの問題性も指摘しています。後代の呼称である以上は、国家神道なるものがいつ存在したのか、あるいはまったく存在しなかったものなのかは言葉の定義によって決まってしまう、と。論者はここでは一貫した政策的意図を欠いた偶発的で紆余曲折の政策過程を捉えるための分析概念として用いるとしてます。

よく知られるように「国教」を定めず、諸宗教に「宗教の自由」を認める一方で神社神道を臣民の公的義務たる「祭祀」に割り当てるという戦略が採られる訳ですが、論者は「宗教」と「祭祀」は明確な二分法とは言えず、国家と癒着した祭祀が私的領域の宗教を覆うという曖昧模糊とした分割であったと評しています。以下、島地黙雷の政教分離論や美濃部達吉の説を引用して論文は帝国が「政治と宗教」、「宗教と道徳」といったニ分法では明確に括れない社会体勢であった点を指摘しています。またGHQによる国家神道の解体は一般には「敵対型政教分離」とみなされがちだが、そうではなく政治による「好意的無関心」に基づく政教分離を目したとされます。GHQの考える政教分離はフランス型ではなく法制度としてはともかく社会としては宗教に好意的なアメリカ的な政教分離である。これは日本側にとっても望ましいことで、結果、天皇制と神道との曖昧な関係を戦後に残すことになった、と。

次に現在まで混乱の続く「宗教」概念について論じています。戦前の日本では神社が宗教なのか祭祀なのか、宗教と祭祀をどのように定義するのかは法的に未規定のままであり、この区分はあくまでも「官私の別」という政治的配慮によるものであったため、神社政策や信教の自由との兼ね合いから激しい議論を呼ぶことになった。明治10年代には日本でreligionの訳語としての「宗教」が輸入され、20年代以降には宗教学が誕生するが、宗教の定義としては2系統が存在した。そのひとつはプロテスタント系の定義であり、姉崎正治の心理主義的、体験主義的、ビリーフ中心主義的な宗教の定義、それから加藤玄智による「国民的宗教」「神人同格教」としての神道理解が代表的である。ビリーフを重視する立場に対して柳田國男の共同体のプラクティスとしての宗教概念がもうひとつあり、宗教民俗学、宗教人類学によって洗練されていくことになる。現在にまで残るこの宗教の意味のゆらぎは宗教に対立するところの祭祀という言葉にも存在した。また神社祭祀が国民道徳論と結びついたために神社非宗教論は宗教と対立するところの道徳という世俗領域にまで浸透することになり、宗教と祭祀、宗教と道徳の二分論は無効化されることになる。このように二分法の境界はきわめて流動的であり、神社非宗教論も宗教の定義によって多様な解釈が主張される状態であったとされます。

最後に天皇制の問題を論じています。上述のような議論は穏やかな宗教の自由の下に許容されていたものの天皇の権威に及ぶところで弾圧の対象とされることになった。しかし、これは政府ではなく社会の側からの声による制裁としてなされた。様々な二分法に重層的に規定された天皇は宗教や国家神道といった概念では理解できない。そもそも幕末開国以降、西洋世界に包摂される中でこれに対抗する形で社会の中に本来的な伝統を見出す運動が起こり、日本という国民国家を根拠づける究極の権威として想像された以上、天皇は歴史的状況の内部に文節化された文化的一要素であってはならず、歴史的変化を超えて輝き続ける決定不能な外部でなくてはならなかった。また西洋的立憲君主であると同時に伝統的な祭祀王である天皇は「西洋/日本」という対立項を超え出た、宗教と世俗というニ分法を生み出すような根源である。以下、宗教/世俗、宗教/道徳の二分法を前提とする歴史学や宗教学の言説の不能を説き、天皇制のような外部に屹立するような存在がいかに歴史的文脈の内部に顕現してきたのか、そのプロセスを発生論的に対象化していく必要があるとしています。一見、超歴史的な存在に見えても非西洋が西洋に包摂する中で内部で夢見られた余白なのだから、と。

冒頭のバルトの引用からいかにもな香りが漂う論文ですが、「国家神道」や「天皇制」を実体的に考えるべきではないという点についてはその通りだろうと思います。だいたいこうした用語は「」に入れるか、個人的には使わないことにしています。宗教と世俗のゆらぎの論点も重要でしょう。ただ「決定不能な外部」とか「法外なもの」とか「余白」といった形で天皇制を過剰に神秘化することには同意したくありません。戦後神話というのもあって、メディアが空疎なプロパガンダを喚いていたとしても、実際、そんなにファナティックな人間ばかりだったはずはないでしょう。憲法の規定通りに象徴君主として遇すること、あまり深読みしないことが「社会に封じ込める」最良の戦略に思えますが、どうなんでしょうかね。

戦前期日本の日蓮仏教に見る戦争観[pdf]

大谷氏は近代日本の「日蓮主義」についての研究で知られる方ですが、これは田中智学、石原莞爾、妹尾義郎の三者の戦争観についての講演です。今日において日蓮仏教の公共的展開の可能性を考えるというテーマのようです。日蓮主義運動は「仏教的な政教一致による、国教の樹立を目指した宗教運動である」と定義されていますが、ご承知の方も多いように、大正から昭和初期にかけて流行したナショナリズムとの関連性の強い運動のことです。

まず問題意識を説明していますが、宗教と公共性に関して、現在、社会参加仏教(engaged buddhism)研究と公共宗教研究への注目があるとしています。前者に関してはムコパディヤーヤ氏の「国家化」「社会化」「大衆化」「国際化」の4類型を紹介し、これが戦前、戦後の日蓮主義の活動を分析するのに役立つとします。また後者についてはアメリカの研究動向で、公共宗教とは社会統合や資源動員に資する、あるいはこれに対抗する「公共領域で機能する宗教」のこととされます。最近では「国家神道」を市民宗教ないし公共宗教として断罪調ではなくニュートラルに捉え直す動向もあるようですが、その点についても触れています。いわゆる「宗教」は公的領域から排除され、そこに「国家の祭祀」たる「国家神道」がおさまり、近代仏教は私的領域に配分されることになる。しかし内面の信仰には留まらずに社会参加、教育や福祉を通じて国家や社会に関わろうとした。公的領域で仏教教団の果たす役割の可能性と不可能性に関心がある、と。

次に田村芳郎氏の日蓮主義ないし日蓮仏教の類型論を紹介しています。第一に国家主義や日本主義の高まりに伴って現われた日蓮信奉のあり方で、田中智学、本多多生の日蓮主義、第二に普遍的な個にたっての信仰、あるいは宇宙実相の信仰で高山樗牛、宮沢賢治、尾崎穂積、妹尾義郎の名前を挙げています。最後がいわゆる新宗教で本門佛立講、霊友会、創価学会であると。講演者は第一の日蓮主義は後の二者にも多かれ少なかれ影響しているとします。

以下、田中智学、石原莞爾、妹尾義郎の戦争観が論じられます。田中智学については国立戒壇論と「世界の大戦争」の教えが採りあげられていますが、日蓮仏教の国教化(国立戒壇の建立)にあたっては「二法冥合」「事壇成就」「閻浮統一」のプロセスがあるといいます。まず国体の自覚を促し(国体概念が重視されている点が特徴とされます)、日蓮仏教の教えを広め、憲法改正により国教化、国内で政教一致が実現した後に世界の統一へと進むと。しかし世界は日本に敵対するために「賢王」の指揮の下で「世界の大戦争」が起こる云々と。次に石原莞爾はこの日本国体論と世界の大戦争論と世界統一のヴィジョンを切迫した終末観の下にさらに先鋭化させたと。最後にこれとは対極的な例として妹尾が紹介されています。小作争議に関わる中で日蓮主義を捨て新興仏教青年同盟を結成し、社会主義的な宗教運動を展開したが、1936年には治安維持法違反で弾圧、戦後は仏教社会主義同盟や全国仏教革新連盟を結成し、平和運動や日中交流や日朝交流にも関わったという人です。要するに平和主義者ですが、テクストの中には血盟団事件で有名になった「一殺多生」の考えがある点に注目しています。

多様に展開した運動の中において「国家化」の過去の側面を踏まえていかに「民の公共」に関われるのかが日蓮仏教の課題であるとしていますが、まあ、そうなのでしょう。何系でもいいですから、日本仏教界からはもう少し活発な社会活動があってもいいと思われます。メディアが報じないだけでいろいろとなされていることはそれとなく見てはいますが。ちなみに昔よく読んでいた人々の名前がずらりと並んでいるのですが、この系統の資質があるのでしょうか。思いつきを言えば、戦後の平和主義も市民宗教みたいなものなのかもしれませんね。

ではでは。南無南無。

追記

Ideology, Academic Inventions and Mystical Anthropology: Responding to Fitzgerald's Errors and Misguided Polemics

The Religion-Secular Dichotomy: A Response to Responses

Dichotomies, Contested Terms and Contemporary Issues in the Study of Religion

上で紹介したフィッツジェラルド氏の記事をめぐってリーダー氏との間で論争があったことをtomojiroさんに教えていただきました。ざっと読んだところですが、同型の議論はあちこちで見たことがあるような気がします。確かに問題提起そのものは分りますが、やや性急な政治性が感じられてそれが生産的な意味をどこまで持ち得るのかどうかというところで、うーむ、という印象も受けますね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=qvKJCb1h0to&feature=related

HIS『夜空の誓い』(1991年平成3年)

この曲は好きでした。ピース。

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憧れの杜氏たち

まとまったことは書けそうもないので記事のクリップを続けます。

"Communist party surges as Japan's economy withers" by Eric Talmadge[WaPo]

APのタルマジ記者による日本共産党の近況報告。不況とともに、特に若年層の間で、人気がそれなりに集まりつつあること、志位氏がメディアで人気者であること、党勢は国政では弱体であるが地方では強いこと、全般に政界が保守化している中にあってチェック&バランスを果たす機能を果たしていることなどが書かれています。日本の政界をウォッチする上で特筆すべき存在なのかどうかは別にして、また資本論や蟹工船の漫画とかはネタとして微笑むだけにしておくとして、だいたいそんな感じなのでしょう。似たような趣旨のわりと好意的な記事としてはタイムのコレがあります。冷戦崩壊の影響をそれほど受けずに先進国では最大級の共産党が日本に残っているという現象はやはりなにか不思議に見えるのでしょうね。他の国ならば別のものが手当てしているような層がいて日本では「土着化した」共産党がその役割の一端を担っているということなんでしょう。党勢回復はあっても躍進とまではいかないのではないでしょうかね。

"The conservatives undaunted"[Observing Japan]

日本はミドル・パワー路線でいくべきであり、「保守」は危険であるというのがハリス氏の基本的なスタンスですが、安倍元首相のワシントンでのスピーチと中川氏の核の議論の必要性に関する発言をとりあげています。とりわけ中川氏の発言に関しては公論において感情的な反発ではなく理性的な批判が必要だとだいぶ懸念しているようです。心配せずとも、政治的ハードルが高すぎる独自核については「現状では」現実的でない選択であることはよく理解されている話だと思われます。ちなみにテレグラフがこの件で軽く煽っていました。えーと、憲法9条で禁止されている訳ではないんですよ。

引っかかるのはハリス氏の言う憲法改正と「保守」の関係です。氏の言説では憲法改正は「保守」のアジェンダとされているのですが、それは正確ではないでしょう。「保守」でない改憲論者というのもいる訳ですし、9条問題にオブセッションを抱いている人ばかりでもない。また憲法改正とミドル・パワーも別の話でしょう。憲法論と国家戦略論は別の問題であってミドル・パワーを標榜する改憲論の立場だってあり得る訳ですから。とはいえビッグとかミドルとかスモールと言っても結局、自己イメージをどう持つのかとか国外向けのブランド戦術の話でしかないようにも思えてきます。それが重要ではないとは思いませんが、漠たる話に感じられます。

"Integrity needed in journalism"[Japan Times]

"Shukan Shincho's responsibility"[Japan Times]

ジャパン・タイムズの社説二本ですが、それぞれ講談社と週刊新潮の問題を扱っています。精神科医がクライアントの個人情報を提供したとされる事件と朝日新聞襲撃に関する例の記事の話です。内容は日本語圏で報じられている通りですが、ここで述べていることを自ら実行することをジャパン・タイムズには求めます。なおこの件で擁護する気はさらさらないですが、週間新潮の話には微妙な感想を持ちます。必ずしも週刊誌の良い読者ではないですが、ろくでもない記事に塗れつつもそこにジャーナリズムの場所があるのもまた事実であってそこまで一緒に萎縮するようだと困るなという思いもするからです。ただ今の週刊誌の形式がなにかずれている感じはあります。遠くない将来に再編されるのでしょう。

"Manifesto of a Comic-Book Rebel"[NYT]

劇画の生みの親とされる辰巳ヨシヒロ氏の『劇画漂流』の英訳版の紹介記事ですが、漫画史に占める劇画の位置について基本的な説明がなされています。ふむふむと読んだのですが、最後で躓きました。村上春樹って・・・あるいはこの意外な連想になにかを読み取るべきなのかもしれません。話を戻すと、藤子不二夫の『まんが道』にも似た自伝ですが、戦後の風俗史としても面白いのでおすすめしておきます。ところでフランス語訳は知っていましたが、辰巳氏は各国語に訳されているのですね。社会派漫画みたいな受け止めなんでしょうか。漫画についてあまり偏ったイメージになるのも困りますから訳者に敬意を表しておきます。歴史的なパースペクティヴが得られるような地味な作業はひっそりと進行しているようです。

"Japanese whisky leaves traditionalists on the rocks"[Guardian]

中学生の頃には杜氏は憧れの職業でした。今も酒造りの人々には敬意を抱いています。ニッカの余市とサントリーの響が昨年のウィスキーのワールドコンテストで優勝し、英国進出を目指しているというマッカリーさんの記事です。竹鶴政孝とスコットランド人の妻リタによる日本におけるウィスキー史のはじまりにも記事の最後で簡単に触れています。竹鶴についてはこのサイトで概要がつかめます。かなりの情熱家のようですね。いい顔をしている。

"Although some Japanese people are the last to believe in the quality of their own products, their malt whiskies are as good as any in the world," said Chris Bunting, an expatriate Yorkshireman who blogs about the country's whisky at Nonjatta.

とバンティングさんも言っておられますが、ニッカのウヰスキーは美味いと思います。余市よいとこ一度は行くべし

2009年4月20日・4月21日[ムネオ日記]

先日の谷内氏の3.5島発言は不可解で理解し難いです。国内世論向けの観測気球のつもりなのかとも思ったのですが、先に手の内を明かすメリットがよく見えません。この問題で内閣と外務省は統一的に行動しているのでしょうかね。

バルチック艦隊司令長官の手紙 ロシアで発見[朝日]

もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から [著]コンスタンチン・サルキソフ[朝日]

コメント欄で教えていただいたのですが、サルキソフ氏が発見したロジェストウェンスキー中将の書簡と書籍についての一昨年前の記事です。この話見逃していました。司馬遼太郎の描いた提督像とは大きく違い、日本海海戦の敗北を冷徹に予測していた将であることが書簡からは分るといいます。「坂の上の雲」を読んだのはずいぶん前の話なのでそこで中将がどう描かれていたのか具体的な記憶に乏しいですが、愚将のイメージは確かに残っています。いつかこの本には目を通さないといけないですね。ネットソースでは子孫も加わった日露戦争百周年会議に参加された方の記した文章がありましたが、軍人さん同士の心の連帯が感じられます。日露戦争はいろいろな意味で本当にすごい戦争ですが、集合的な記憶からはだいぶ抜け落ちてしまってますね。90年代には1930年代にリアリティーを感じることが多かったのですが、今はこの時代のほうにリアリティーを感じることが多いのは不思議な話です。論壇もこっちのほうに目を向けるべきではないでしょうかね。激しくレベルは違いますが、この時代と同じことを言っているだけのような気もするんですよね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=M4O1di7fmW8&feature=related

沢田研二『時の過ぎ行くままに』(1975年昭和50年)

研二サイコ-。

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実るほど頭をたれる稲穂かな

"Prosperity's Children: Generational Change and Japan's Future Leadership"J. Patrick Boyd and Richard J. Samuels[pdf]

via Observing Japan

ボイド氏とサミュエルズ氏による日本の政治家の世代間比較と未来予測の論文です。結論そのものにさほどの意外性はなかったのですが、方法論的にふーんとなりました。マンハイムらの歴史的経験を共有する世代単位ごとに価値観の差異が生まれるという理論的仮定を基に三世代間の統計的な比較分析をしています。具体的には経済政策、安全保障政策、文化の問題について全政治家を対象にしたアンケートに基づいて分析し、今後の予測をしています。ここから浮かび上がる限定的な発見として、

(1)世代間の差は経済観に現われている。年長世代は中堅世代や若手世代よりも日本的資本主義の維持を好む傾向がある。

(2)世代間ではごく限定的な差異しか見られない。ただ若手世代は他の世代に比べてタカ派的である。

(3)右派的ナショナリズムの問題を含む文化の問題について意外なことに世代間では有意な差異は見られない。ただ中堅世代は相対的に進歩的である。

といった点を指摘しています。(1)は財政政策と公共事業、政府の市場介入、終身雇用などに対する考え方で中堅世代と若手世代は「新自由主義的」としています。もっとも英米のそれとは異なるだろうが、と留保した上で今後も経済改革は継続されるだろうと予測しています。(2)は日本の国防力の増強、日米同盟の強化、武力の使用(先制攻撃、集団的自衛権、憲法改正、イラク派兵)、国連常任理事国などについての考え方のことですが、中堅世代に比べて若手世代と年長世代がタカ派的であるが、それほど極端な分裂はないとしています。ここから米国の動機や意図への疑問が増大したとしても、日米同盟のマネージャーは東京からの支持を期待できるとしています。(3)は首相の靖国参拝、太平洋戦争の正当性、治安と市民的自由のトレードオフ、特別永住者の地方参政権などについての考え方のことで中堅世代がやや進歩的であるもののここに世代間の差異があまりないことに調査者は驚きを感じています。ここから引き続き文化戦争の問題は続くだろうと予測しています。

論文は次の15年をリードする政治家をリストして各人を個別に分析していますが、誰が選ばれているのかはお楽しみということでご確認下さい。これが出版されたのは昨年の夏ですが、そうですねえ、短期的には、経済改革は後退し、日米同盟は現状維持のままあちこちからいろんな声があがり、文化戦争については沈静化に向かうように思えます。これはただの一日本国民による願望やら失望やらの入り混じった予測に過ぎませんけれども。

それからサミュエルズ氏の安全保障に関する立場の類型化(neoautonomists、normal-nationalists、middle-power internationalists、pacifists)は全般的な傾向性をつかむにはよく出来ているとは思いますが、あくまでも類型は類型であって実際には複数の類型が個人の中に濃淡の差異とともに共存しているし、状況に応じてシフトも起こるのだろうなと思います。私は氏の言う「普通の国派」と「ミドル・パワー国際派」の間ぐらいになるのでしょうが、そこからはみだす部分もあるようです。そもそもこの類型に完全にはまるような政治家はどれほどいるんでしょうかね。だからと言って無意味だとは勿論思わないのですが、言葉だけが一人歩きしないといいなと思います。こういうラベルは便利ではありますが往々にしてなにも説明しないばかりか場合によっては誤解を生むものだからです。後は文化戦争がらみについては穏当ではありますが、最終的には米国的な視点からの分析ですね、といったところです。本当に多様で人それぞれなんですよ。

まあ、こんな風に分析されている訳です。さて日本のアメリカ学者はちゃんと分析していますかね。

検察vs政治の歴史的対立を考えれば、 小沢代表秘書逮捕は国策捜査ではなかった[ダイヤモンド・オンライン]

小沢氏の検察批判に関する上久保氏の記事。戦前の「日糖疑獄」「ジーメンス事件」「帝人事件」を想起し、いかに検察官僚出身の平沼騏一郎が政党政治の崩壊に手をかしたのか、また戦後「昭電事件」で社会党右派が凋落することで政権交代のない55年体制が完成してしまった経緯について説明し、今回の事件は政府と検察が手を握った国策捜査などではなく、政党政治対検察の対立の歴史の文脈において理解すべきだとしています。にもかかわらず、民主党が政権交代を実現するためには小沢氏はすみやかに代表を辞任すべきであるとしています。政治的観点に立つならば、たぶんそれが賢明のように思えます。なお記事の

検察は歴史的に権力の座にある(座を狙う)政治家をターゲットにする「政治的思惑」を持って行動しているのだが、検察と政治は対立関係にある。逆に言えば、検察と政治が一体となって行動する「国策」はあり得ないのだ。今回、検察は政権交代間近と見て民主党潰しに動いた。自民党がターゲットでなかったのは、「国策」だからではなく、自民党がもはや検察が相手にもしないほど衰退したということではないだろうか。

の部分はどうなんだろうなという感じがあります。実際に民主党潰しの「政治的思惑」なるものが検察にあったのでしょうか。私もご多分に漏れず古風な言い方を借りれば「検察ファッショ」のことを想起した訳ですけれども、それについて書かなかったのは、むしろ他と類比するならば80年代、90年代あたりのフランス政界の例のほうが適当なのではないか、先進国における政治の透明性と説明責任の明瞭化の流れの一齣として理解しておくのがいいのではないかという迷いがあったからです。今でもよく分らないのですが。

小沢代表が今、行うべきこと[日経ビジネスオンライン]

それでこの事件に関する言説で注目された郷原信郎氏が民主党の「政治資金問題をめぐる政治・検察・報道のあり方に関する第三者委員会(略称:政治資金第三者委員会)」に加わったようです。なんの情報もない個人の目から見るとやや大時代がかった修辞は別にして郷原氏の検察の動きの説明にはそれなりの説得性を感じましたが、その一方でこの件で民主主義を守れ!といっても理解されにくいだろうなとも思いました。というのも90年代以降に政治と金について国民側の意識がそうとうに厳しくなった点について勘定に入れないと通じないように思えたからです。とはいえ小沢氏のみならず検察側の説明責任の明確化と報道の検証はなされてしかるべきなのでしょう。政治的思惑とやらが本当にあったのかどうかはっきりさせてもらいたいものですし、報道については検察からの情報についてもガイドラインが必要なのではないかと思います。それが実現されるならば今回の騒動も我が国の自由民主主義の進歩に少しは貢献することになると思いますので、委員会のみなさんにおかれましてはしっかりと検証作業をしていただきたいものです。ただの政局ネタに終わってほしくはないです。後世になにか残しましょう。

"Barack Obama criticised for 'bowing' to King Abdullah of Saudi Arabia"[Telegraph]

G20の場でサウジ国王にオバマ大統領がおじぎ(bow)をしたことで右翼から批判されているという和み系のニュースです。大統領はおじぎではないと否定している模様ですが、この行為は王権に対して臣従の礼をしないという米国の伝統に反するのだそうです。でこれはテレグラフの記事ですが、ワシントン・タイムズが社説で攻撃しているそうです。これですね。アメリカン・デモクラシー魂が炸裂しています。米国大統領は誰に対してもおじぎをしてはいけないというプロトコルがあるんだそうです。テレグラフに戻ると1994年にクリントン大統領が天皇陛下におじぎをしたのかどうかをめぐって論争があったことに触れています。サウジの新聞はこのおじぎを国王陛下に対する敬意を表明したと評価しているようです。でクリントン氏が我らがハイ・マジェスティーにおじぎをしたとかしないとかという話は聞いたことがなかったのですが、右翼ではなくてNYTに-ふーん-批判された模様です。これですね。日本じゃ上も下も横も斜めも誰に対してもおじぎするんですからいいじゃないという気もするのですが、建国精神なんだからそうもいかないということなのでしょうかね。

北方領土:「3島と択捉一部返還でも」 前外務事務次官[毎日]

前外務事務次官の谷内正太郎政府代表が毎日のインタビューで3.5島折半論について語ったとのことです。

谷内氏は「(歯舞、色丹の)2島では全体の7%にすぎない。択捉島の面積がすごく大きく、面積を折半すると3島プラス択捉の20~25%ぐらいになる」と指摘した。政府は歯舞、色丹、択捉、国後の四島の帰属をロシア側に求める立場を崩していないが、麻生首相は先の日露首脳会談の際、記者団に「向こう(ロシア)が2島、こっち(日本)が4島では進展がない。政治家が決断する以外、方法がない」と強調。谷内氏の発言は麻生首相の意向を反映したものとみられる。

ということですが、実際、意向を反映したものなのでしょうか。これまでの主張とどう整合させるのか、あるいは予見される政治的波及効果を防ぐつもりなのでしょうかね。そう言えば、

日本の「右翼」がロシアを歴史的訪問[JBpress]

こんな記事もありました。民族派の日本青年社がロシアを訪問したという話です。セッティングをされたサルキソフ氏は冷戦時代にはソ連大使館前で罵声を浴びせていたあの右翼までが歩み寄る時代なのだなとある種の感慨を抱かれたようです。ロシアは共産主義を捨てて民主国家になったから協力できる、ロシアの民族主義に含まれる反米主義の要素には同調しない、というのは一瞬リベラルな意見に聞こえてしまいます。日本青年社のサイトをのぞいてみたのですが、これが「社稜」というんでしょうか、たいへんエコなメッセージが掲げられています。訪問記は読んでいてなんだか和んでしまいました。この訪問の「意義」について評価する能力はないですし、日本史こぼれ話ぐらいの話なんでしょうけれども、例えば日韓国交正常化の際の例を想起するならば、これも前触れのひとつぐらいに解釈すべきなのかなとも思いました。ロシアとは接近したほうがなにかといいとは思いますが、交渉する上では足元を見られないよう構えていたほうがいいような気も同時にします。今後は産経新聞あたりの論調が見所ですね。

ではでは。

追記

意味の通りにくいところを直しました(2009.4.17)

波紋呼ぶ「北方3・5島」返還発言報道 谷内政府代表[産経]

さっそく産経が反応しています。既に多数の記事あり。さすが。しかし、この展開、伝統芸の域に達しているようにも思われますね。

「真意伝わっていない」谷内代表が反論 「北方3・5島」返還発言報道[産経]

谷内代表が産経の取材に対して「捏造」であると反論した模様です。しかしその後、真意が伝わっていないとコメントを修正したとのことです。さあ、どちらが正しいのでしょう。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=qV0U-lB45RY&feature=related

バッハ『6声のリチェルカーレ』

ウェーベルン編曲版は不安な時代の魂に届いた結晶のような古典の音の像といった感じで原曲よりも惹かれます。

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美術とそうでないもの

"A Ukiyo-E Master in the Art of Subtle Protest"[NYT]

ロンドンの王立アカデミーの国芳展の記事。国芳の現代性については喧伝されるようになっていますが、なにも知らずに小学校高学年の頃に模写して遊んでました。ひどく訴えるものがあったような記憶がありますが、今は猫ものぐらいです。記事は浮世絵を「文化革命」と呼び、国芳の浮世絵の当時の政治社会の風刺的側面、それから開国前にいち早く西洋絵画に出会ってその手法を貪欲にとりこんだ点について強調しています。幕府のあいつぐ禁令とこれを逆手にとって庶民の喝采を浴びた反骨の人、鎖国下にあって海外の新奇なものへの好奇心に溢れていた人といったまとめ方のようです。前者の例として天保の改革を風刺したとされる『源頼光公館土蜘蛛妖怪図』(下)、後者の例として『縞揃女弁慶』が特筆されています。米国人コレクターの協力で開催された模様です。英国の展覧会評も読みましたが、戸惑いが表れていますね。絵画なのかカルトゥーンなのかどうカテゴライズしたらいいのか分らないと。内容の理解以前に、美術館に陳列された時点でこのメディアの性格が覆い隠されてしまうように思えますね。「鑑賞」するものではない。この記事が風刺画の説明をしています。これが時事錦絵、錦絵新聞、さらに小新聞へとつながっていくようです。英国の政治風刺版画から新聞への流れとどう同じでどう違うのでしょう。

10minamoto

「幕末・明治期の欧字新聞と外国人ジャーナリスト」鈴木雄雅

こちらはおまけに紹介しておきます。日本における英字新聞の歴史にちょっと興味があってぼちぼち調べているのですが、この記事は戦前の概略です。横浜におけるハンサードの『ヘラルド』、リッカービィの『タイムズ』、ブラックの『ガゼット』の競争が佐幕派対尊王派に対応した論調であったこと、ハウエルおよびブリンクリーの『メイル』とハウスの『トキオ・タイムス』が「親日新聞」として知られたこと、近代的経営を持ち込んだヤングの『クロニクル』とフライシャーの『アドヴァタイザー』がそれ以前の個人経営的な新聞にとって代わり、「軍国主義」への傾斜を強める日本への厳しい論調で知られたことなど基本的な事実がまとめられています。おわりにを引用すると、

 一般に日本における近代国家の成立とみなされる憲法発布(1889年=明治22)以降,社会的政治機能が,新聞界においても,一般化された欧字新聞の持つ機能--すなわち,外からの資本的侵入,内からは国家の代弁機関という要因のうち,後者を重要視したのは当然のことであろう。しかしながら,外人ジャーナリストの中には助成金を貰いつつも,そうしたことのみ目的に新聞を発行したとは考えられない者が少なくない。とりわけ,彼らがくり広げた紙上論争は,自国の利益追及にのみこだわったものではない時もあった。
 欧字新聞界ではその創生期から第二次大戦終了時まで,自由な論争が「反日」のレッテルを貼られる時代が続き,「親日」「反日」のどちらかを選ばなければならなかったのも時代の趨勢であった。欧字紙は戦後ようやく経営的に一本立ちするようになるが,今でもなお,一紙を除き親新聞の啓蒙宣伝紙といわれるぐらいだから,当時の経営面の脆弱性は推して知るべしだろう。
 顧みると,多くの批判があるにもかかわらず,幾人かの傑出した外国人ジャーナリストが評価されるのは,彼らと彼らが生みだした欧字紙が,日本の国際コミュニケーションの私的担い手としてそれなりの役割を果たしたからであり,さらにジャーナリズムのみならず日本社会の近代化に深く貢献したことに他ならないからである。

といった具合にまとめています。近代的新聞概念を日本にもたらしたこと、優れたジャーナリストを輩出した点について評価しています。国際コミュニケーションの担い手としての「それなりの役割」の「それなり」という書き手の留保になにを読み取るべきなのでしょうか。「親日」「反日」をめぐる話は今もたいして変わっていないような気がします。記事は日本側からの視点ですが、その鏡として「外人社会」における分裂抗争の歴史というものもあったりする訳ですね。「外人社会」の利害の主張や自国の主張の代弁の側面が強く出る面とあまり自己規制のない活発な議論が展開される面と二重の性格があるのは今も変わらないような気がします。別の言い方をすると、共同体主義的側面と普遍主義的側面の独特な結合といいますかね。まあ、私は正確で公正であれば「親日」でも「反日」でもなんでも構わないですし、どちらかというと、うならせるような鋭い分析や批判のほうを期待していますのでどうぞ宜しく。なお英字新聞史関連の話はそのうちもう少し書きたいと思います。現在はブログのほうが優れたものがありますね。

"Looking at history: the argument for facts over theory"[Japan Times]

厳格な実証主義史家として知られるジョージ秋田氏の著書の書評です。記事は伊藤隆氏の業績についても触れていますが、要するに日本の戦後の文脈ではマルクス主義史学と対立して厳密な史実に基づいて歴史を記述した流派のことです。理論的なものに距離を置く歴史学的実証主義というと古臭いもののように語られたりすることもある訳ですが、そんなことはなくてごく正統的な歴史学の方法です。素人目にはひどく禁欲的だなあ(小声で:退屈だなあ)ということになるのですが、面白ければいいじゃんというものではないのですから仕方ありません。それで秋田氏の著書ではジョン・ダウワー氏とハーバート・ビックス氏が槍玉にあげられているようです。ビックス氏については素人でもルール違反であることはすぐに見抜けるお粗末な本ですが、ピューリッツァー賞を受賞したこともあって英語圏の読書界では昭和天皇というと氏の本のイメージがわりと強かったりします。ですから英語でこうした仕事が現われると(もうすでに反論本は複数ありますが)コミュニケーションをする上でありがたかったりします。以下は評者の言ですが、

I think Bix is wrong if his premises include, as Akita says they do, that Hirohito possessed immense powers and, because of his kami ("someone above") status, assumed his commands or demands would be obeyed. The suggestion is that he should have been on top of the list of Japanese war criminals.

The accolades heaped upon Bix's book, including a Pulitzer Prize, remind me: Americans continue to grab at the slightest hint that Hirohito, who was equated with Hitler and Mussolini during the war, wielded powers comparable to the two dictators'. This is the impression I've had ever since David Bergamini's "Japan's Imperial Conspiracy" (William Morrow, 1971) appeared.

Yes, Bix once dismissed the Bergamini book as "imaginatively constructed." But we can do the same with Bix's own book, Akita shows.

Bix believes in the efficacy of the "voiceless order technique," among other things, as he liberally puts his imaginings and assumptions into others' heads where evidence does not exist.

都合のいい事実を集めて都合の悪い事実はないことにして史料がないところは想像で埋め合わせる、これは、結局、結論ありきの議論でしかない、そしてその結論は政治的な欲望にダイレクトに導かれているので反論に対しては論理や事実ではなくレッテル貼りでしか応答できなくなると。別に実証主義にあらずば歴史にあらずとは思いませんが、論争がもつれたときに立ち返る立場として尊重すべきだと思います。なお機関説論者から見ると「天皇の責任」論という問題設定そのものがなにかずれたものに思えるのですが、内外の親政説論者は我が邦の国体の神秘なるものを強化したくて仕方がないのでしょうかね。まあ、がんばってください、千代に八千代に。

"Japanese underworld boss quits crime to turn Buddhist"[Guardian]

悪名高かった後藤組の元組長さんが坊さんになろうとしているという心温まる話です。そう言えば、元ヤクザの神父さんの話もガーディアンで読んだような気がします。マッカリーさんは本当にヤクザが好きですね。2001年に手術のために渡米した際に入国と引き換えにFBIに提供したとされる情報ですが、ヤクザ・ファンジンにある程度の話だということです。日本のヤクザって本当に情報公開が進んでいますよね。ついでにこの病院に大きな寄付をして

The grateful don, who was suffering from liver disease, later donated $100,000 (£68,000) to the hospital, his generosity commemorated in a plaque that reads: "In grateful recognition of the Goto Research Fund established through the generosity of Mr Tadamasa Goto."

と記念されているそうです。前から疑問なんですが、日本の大物右翼とかヤクザの組長ってどうして海外に名前を残したがるのでしょうかね。ひとつの様式になっているような気がします。よく知らないのですが、このあたり魑魅魍魎の跋扈するディープな戦後史があるのでしょうね。

"Letter:The Disputed Islands"[NYT]

竹島について韓国系米人がクリーニング屋のバッグでアピールしているという記事を読んで、そのエネルギーを別の方向に使ったらどうでしょう、と溜息をついた訳ですが、それに対して韓国人も日本人も騒ぐのを止めて島の周囲の環境を保持しようとかいうあるフランス人のレターがついていました。お前さんは誰なんだ、環境とかいうとリベラルっぽいとでも思っているのか、底の浅いやつめ、と思った訳ですが、それに続いて日本情報センターの杉本氏が元記事に対してこの問題は「植民地主義の遺産」ではない、歴史的にも法的にも日本領である、国際司法裁判所に出てきたらどうだ、とマジレスしていました。『消耗』という文字が大書された掛け軸が脳裏に浮かびますが、こうやって地味に反論をしておくのはとても大切なことだと思います。政府間で今がちゃがちゃやる問題ではないと思いますけれども。

もはや国内では教科書検定の話はたいして騒がれなくなった感がありますが、英語圏でもずいぶん静かになりましたね。日中韓発のソースを除けばAFP記事とテレグラフ記事ぐらいでした。AFP記事は反対派の主張を掲載し、最後に採択率がわずかである事実を伝えています。テレグラフ記事は韓国政府側の言い分-読んでないでしょ-を伝えていますが、タイトルやリード文や本文の修辞に強い主張が入っています。なぜインディペンデントでもBBCでもなくテレグラフなんでしょう。

それはともかくこうして政治の主戦場が象徴的なものから実質的なものに移りつつあるように見える傾向そのものはいいことなのでしょう。この話に関しては、作成から検定を通じて出版にいたるプロセスで手続きが適切に守られるべきだという原則論以外にあまり語るべき言葉はありません。歴史の係争点はプロないしセミプロが公的に議論をすればいい。だいたい人は教科書の外で真に歴史的なものに触れるものです。

ではでは。

追記

佐藤氏のジョージ秋田氏の書評に不満の声が挙がっているようです。読んでもいないのに批判するなと。そりゃそうですね。佐藤さん、がんばって。でも、ビックス氏の本はレベルが低いので依拠していると頭が悪く見えますよ。これはイデオロギーの話ではなく史学的な話です。まあ、あなた方が関心あるのは政治であって歴史じゃないんでしょうけれどもね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=bSs5DVHkjqE&feature=related

江利チエミ『踊り明かそう』(1963年昭和38年)

告白しますと私はかなりのチエミ・ファンでしてこれを見ると涙が出そうになります。マイ・フェア・レディと言えばチエミ。他は知らない。

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防空ヘルメット

病院と理髪店と高層ビルには近寄りたくもない、できれば忌避したまま生涯を終えたいものだと心より願っているのですが、そうも言っていられないのが人生というものでありまして、歯医者に通っています。いい具合に古び、くたびれ、うちのめされた風情の歯科医院に飛び込んだ訳ですが、治療の後に沈んだ気持ちになったり、悪い夢を見たりしないのが不思議です。あるいはこれまでとはなにか違う局面に入りつつあるのかもしれません。

それはともかく今日は受付の年配の女性とテポドンについて話した訳ですが、その意気込んだ話ぶりに、ああ、こんな風に人々の安全意識を静かにしかし着実に揺り動かしているのだろうなと実感させられました。ちなみに発射の日に近所のあほの子がヘルメットをかぶっているのには笑わせられました。防空壕について訴えていましたが、このあたりには地下駐車場のようなものはないですねえ。やはり子供は「テポドン」の響きに反応するようです。怪獣みたいですからね。以下、意味のあることは書けそうもないのでぬるーい感想を書いておきます。

"N Korea launch sparks arms race fear"[Financial Times]

北朝鮮のロケット発射が東アジアの軍拡競争を惹起するのではないかと懸念するFT記事です。韓国の首相が議会でMTCR遵守に関して見直しの可能性を発言した模様です。記事によれば、長距離ミサイル拡散を管理するMTCRは加盟国に開発そのものを禁じている訳ではないが、米国の要請で300km以上の飛距離のミサイル開発をしないことに韓国政府は非公式に合意しているとのことです。これは中国を刺激することになるだろうと。また日本では先制攻撃能力の保有論が浮上しているとして、前財務相の中川氏の発言が引用されています。こちらもまた中国を刺激するだろうとしています。しかし、後半では、韓国側の発言は国連の安保理決議をめぐる中国へのシグナルの意味合いが強い可能性があること、保守サイドでも長距離ミサイル開発への批判が強いことに触れて記事のトーンを抑えています。

"North Korea rocket revives Japan pre-emptive strike talk"[Reuters]

こちらは日本の先制攻撃能力保有談義をめぐるロイター記事です。FT記事同様に、

"We should hold a proper debate about attacking launch bases and about shelters in case something does happen," Kyodo news agency reported former finance minister Shoichi Nakagawa as saying on Sunday.

と攻撃、防衛両面の抑止能力の保有について議論せよとの中川氏の発言が引用されています。また前回の発射の際にも同様の声が聞かれた点、それが中韓の激しい反発を呼んだ点、世論にも歓迎されなかった点について紹介しています。CSISの研究員のグロッサーマン氏は、こうした議論をオプションと考えている人も多いが、個人的にはextremely destabilizingだと思うと述べています。憲法上の制約や専守防衛論の基本的な説明の後、記事は現在の財政状況や不況から考えてこれを変更する政治的タイミングではないだろうと述べ、英語圏における日本の安全保障論の基本書となっているSecuring Japanの著者であるMITのサミュエルズ教授の発言を引いています。

"It is very hard to focus for very long and very hard, even on things as important as national security, given the economy"[...] "Since the incident proceeded without direct impact on Japan, I think we are not going to get the hard focus we got in 1998."

と。記事は、98年の実験がミサイル防衛体制の構築のきっかけとなったが、直接攻撃は正当化困難であると多くの人々に考えられており、既に6兆ドル以上を費やした[註:これ金額合ってますかね]MDの増強が受け入れられるオプションだろうとしています。ここで岡本行夫氏が登場し、北朝鮮の領空でミサイルを破壊する訳にはいかない、より戦略的な防衛システムを保有すべきであり、研究開発がなされるべきだ、と述べておられます。また林前防衛大臣は先制攻撃にはラウンチ前とブースト時の二種類があり、法的には後者のほうが厳しくないが、技術的には難しいとも発言しています。以上、先制攻撃能力保有の声もあるけれども、ミサイル防衛の増強という穏当な反応になりそうだという記事でした。

といった具合に英語圏では前回同様「日本の先制攻撃論」として報じられています。ロイター記事では林氏が記事の末尾で簡単に解説していますが、現憲法体制下における策源地攻撃論を予備知識のない外国人に説明するのはなかなか難しい話のように思えます。前回もブッシュ・ドクトリンみたいに受け取って大騒ぎしている人々がけっこういました。専門の日本の防衛の研究者を別にすれば、理解しろといってもある意味無理からぬところもありますが、この言葉だけが一人歩きする可能性があるかもしれませんね。とはいえロイター記事が英国yahooのbreaking newsになっていたのを除けば大きくは報じられてはいないようです。

ところでこの中川氏の発言ですが、前回とは異なり、日本語圏ではそれほど報じられなかったようですね。閣外だからということなんでしょうけれども、あるいは以前ほどのヒステリカルな反応がないのは世論の微妙な変化を反映しているのかもしれません。件の共同通信の記事は見あたらなかったのですが、東京新聞の記事が上記の引用部分の発言を掲載しています。さらに時事通信の記事によると、氏は前回同様に核保有の議論の必要性にまで言及したようです。むう。また自民党の部会が敵地攻撃について検討しているとされます(コレ)。もちろん議論は活発になされるべきですが、政治的インプリケーションには十分に自覚的にやってもらいたいところです。このあたり各自が持論を展開している状況のように見えますが、レベルごとに役割分担ができているようだとなおいいです。それから基本的に支持はしてきましたが、これでいっそうMDに傾斜するというのも考え物ですね。

なんだか余計な事まで報じていたような気もする今回の日本のメディアの論調としては産経の紙面にときおり浮上した対米不信の色が気になりました(コレとかコレとか)。これも一概に悪いことではないとは思いますが、このイベントにとりあえずは日米が協力して軍事的にも政治的にも対応した事実を考え合わせるとやや過敏な反応のようにも感じられます。いわゆるG2に見られるような動きや同盟を犠牲にして多国間主義に傾斜するのではといったオバマ政権に対する不安とこのイベントを利用して専守防衛論の縛りに風穴をあけたいという希求とが綯い交ぜになっているのはよく分りますけれでも。ゲイツ氏の発言に関してはなにか言っておくべきでしょうね。

Foxソースですが、これを見る限りは米国世論はだいぶ強硬に反応しているようですね。民主党員も含めて多数が軍事的対応を支持している模様です。実際、思った以上に米国メディアも報道していましたし、就任後の初の危機対応ということで大統領の発言も厳しいものでした。とはいえ国連での決議以外になにか強い措置が取られるのかどうかはあやしい印象も受けます。目に付いたものではカプラン氏のこの論説がありますが、日本に配慮しつつ放置しておけとしています。という訳で1ミリでも状況を動かすために韓国と一緒になってでも声を出しておくべきなのでしょうし、国内の「冷戦残滓」を粛々と周縁化していく機会として有効に利用すべきなのでしょう。今後どういう動きになるのかは分りませんが、とりあえず日本の世論に影響を与えたようだという点で社会的に意味のあった事件として記憶にとどめておきたいと思います。

ではでは。

追記

自民・坂本組織本部長「日本も核保有、国連脱退」[読売]

こちらはストレートな核保有の主張ですか。国連脱退も辞さずと。いや、本部長殿、足をすくわれないようにお願いします。国内外の反響を計測しながら物事が進展するような形で「議論」をなさってください。

再追記

上の件、こちらの朝日の記事のほうが詳しいです。読売記事に釣られてしまったようです。ただ議論によるプレッシャーというのも露骨だと無意味かつ有害だと思うのですがね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=CIHCI5dVzHM&feature=related

岩崎宏美『銀河伝説』(1980年昭和55年)

Unhaつながり以外は関係ないですが・・・劇場用アニメ『ヤマトよ永遠に』の劇中歌です。若いのにしっかりした歌唱です。

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日本的統合主義?

"Waiting in the Wings" by David McNeill[Newsweek]

民主党をめぐる状況を扱ったニューズウィークの記事。なんだか見知った名前が並んで脱力する感じもありますが、ウォルフレン氏も御健在のようです。特定社会を理解するのに"the System"なる単数形の仮説的実体を立てる氏の方法論の問題点-陰謀論に接近する-が発言部分でも見事に露呈しています。記事では自民党のばらまき批判がなされていますが、民主党もやる気まんまんな訳ですよね。また官僚対民主党という対立図式を強調していますが、前にも書いたように非妥協的に対決した場合、民主党は政策立案能力を失うことになるでしょうし、党の支持母体を考えても無謀な賭けではないでしょうかね。まあ修辞なら修辞でいいんですけれども。最後に小沢氏の検察批判ですが、これを日本政治において検察の果たしたネガティヴな役割の歴史を想起すれば、その意味は理解できますが、この事件でそれを弁明の論拠に持ち出すことには今のところあまり説得力を感じていません。正直、こんなタイミングで「政治と金」がテーマになりそうなことには激しく溜息が出てしまいます。ところでこの記事ですが、ところどころでなんだか臭みがあるなと思ったらマクニール氏でしたか。

裁判員制度で大わらわ 新聞各社が「自主規制」を開始[Cyzo]

(Hat tip to Adam)

裁判員制度については基本的なアイディアとしてはいいけれども細かい部分で修正は必要だろう、いろいろな波及効果はありそうだけれどもどういうネガティヴな効果がもたらされ得るのかについての想像力も保っておこうぐらいのスタンスで見ている訳ですが、これはポジティヴな効果でしょうね。新聞各社が事件報道の際にソースを明示するようガイドラインを変更した、あるいはしつつあるという話です。前に書きましたが、事件報道の際にセンセーショナリズムに頼って社会不安を必要以上に煽る傾向には困ったものだなと思っていましたのでこれはこれでひとつの進歩でしょう。日本国民の正義感の強さはそれ自体悪いことではないと思いますが、メディアが商売繁盛のためにこれを動かす構図には醜悪なものがあります。もっともこうした原則はテレビにこそ適用されるべきでしょう。こちらのほうが影響力が強い訳ですから。ドラスティックな変化とはいかないのかもしれませんが、この小さな改善については評価しておきたいと思います。といいますか、こんなの基本中の基本ですよね。

日本人同性愛者の外国での同性結婚が可能に[JanJan]

前エントリの続きで紹介しておきます。書き手は「僕の悪い癖」かもしれないと述べていますが、これといった方針もなく法務省が諸外国への配慮で動いているというのはどうやら正しいでしょう。ルース・ベネディクト流の罪と恥の文化論や阿部謹也流(?)の世間論はあまり信用しないのでちょっと一般化し過ぎに思えますが、日本の「遅れ」は「一神教圏」よりも差別やバッシングが露骨でないために問題化しにくいことによるという経験的な観察そのものはおそらくは正しいでしょう。条件はそれほど悪くないと思います。この件に関しては特に利害関係はないのですが、ポジティヴな政治闘争が展開されるのを見てみたいという気持ちがあります。ご健闘を祈ります。

"For enlightenment, step this way" by Mark Schilling[Japan Times]

"Masterpiece Maker"[Japan Times]

私とは趣味がずれているようですけれども、シリング氏の映画評にはある一貫性が感じられるので読んでいます。中村義洋監督の『フィッシュストーリー』が好評価ですね。監督のインタビューもあります。同監督の映画はなかなかいいけれども個人的にはそれほど訴えかけない-全作品を見ている訳でもないですが-ぐらいですが、面白そうなので天気のいい日にでも見に行きましょうかね。

映画ということでついでに書いておくと、今日、渥美清主演の『拝啓天皇陛下様』を見てうならされました。別に深刻ぶった戦争映画ではなく気のいいはぐれものを主人公にした喜劇映画なのですが、妙なリアリティーがありました。どうも戦争から遠ざかれば遠ざかるほどイデオロギーの声が大きくなり、悲劇が過剰に演出される傾向がある訳ですが、この字もろくに書けない朗らかな山田二等兵の泣けてくるほどの現実感の欠如に戦争のリアルの一面が描かれているように思えました。また周縁の者たちがいちばん熱心に天皇陛下万歳だったことはよく知られた話ですが、例えば、色川大吉が重視した水俣病患者の天皇陛下万歳とはまた違うのでしょうけれども、この天涯孤独者の忠君のあり方にもそれと通底するなにかを感知しました。つまらぬ機関説論者なのでこういう不透明なものに「底知れぬ日本」を感じて畏怖の念のようなものを覚えてしまいます。もっともらしい説明やら安易なレッテル貼りやらをして安心したような顔をできる人々が羨ましいです。

"Refugees, Abductees, “Returnees”: Human Rights in Japan-North Korea Relations" by Tessa Maurice Suzuki[Japan Focus]

北朝鮮の難民の扱いをどうすべきかについてのテッサ・モーリス・スズキ氏の記事。救う会や守る会や現代コリア研究所の活動を「人権ナショナリズム」とレッテル貼りをした上で「普遍主義的な人権」の観点に立って救済すべきであると説いています。確かによく調べていますし、記述に多少のニュアンスもありますが、私は右派だろうが左派だろうが実際に汗をかいて真面目に人助けをしている人には基本的には敬意を持つし、勿論意味はあるとは思いますが、論文を生産したりしているだけの人にはそれよりはだいぶ低い敬意しか持たないです。三浦小太郎氏の評価については(コレです)、政治思想的には多文化主義対統合主義の変奏なのでしょう。エマニュエル・トッド氏の「開かれた同化主義」の概念は確かにフランス的偏りがあるとは思いますが、それなりに練られた概念なので感情的に反応すべきではないと思います。コストの観点からの批判はあるでしょうけれどもね。また歴史は飛躍をなさず、日本の多文化共生派についても氏は大いなる見込み違いをしていると思います。ところでJapan's cultural uniquenessなんて言い方をしていないように思えるのですが、いつもの藁人形議論ですか。まさか英語はよくて日本語は駄目なんて言わないですよね。また「国家の保護」的発想を批判していますが、悪しきNGO主義といいますか、細部に批判はあっても現実には政府の保護なくして人権が保障されることはないと思いますけれども。この論点は氏の国家安全保障的発想批判にもつながるのかもしれませんが、極東の戦略的環境についての認識が根本的に甘過ぎると思います。夢を見ることは人間の自由に属しますが、それがあまりにも非現実的な時には、悪夢に転じるかもしれないことは肝に銘じるべきではないでしょうか。最後に氏の言説の動機に触れている部分

The problem for those who take this view, though, is that it is very difficult to promote engagement with North Korea while also publicly condemning that country’s human rights violations, and it therefore becomes all too tempting to ignore these violations or sweep them under the carpet. The task of identifying alternative responses to the North Korean human rights problem – responses not linked to a hawkish political agenda – is an urgent and difficult one. In the pages that follow, I shall use a critical analysis of some Japanese debates on North Korean human rights as a basis for considering some aspects of this problem.

抱擁政策を支持し、タカ派と自分を区別したいので、北朝鮮に対する人権侵害の批判は手控えよう、北朝鮮の人権問題を考えるオルタナティヴとして(なぜか)日本を批判しよう、というのは追い詰められた日本左翼の心情論理そのままじゃないでしょうかね。それに他人の疚しい良心を政治的に利用しようなんて下品で卑しい振る舞いだと思いますがね。ジャパン・フォーカスはそういう場所ですけれども。佐藤勝巳氏の言説を批判的に扱っていますが、私はだいぶ下ですけれどこの世代のアカの人々のことはある程度は知っているつもりなので痛いほど分かるところがあります。なぜ民社党系の人々なのかとかもですね。氏の「帰国事業」のナラティヴが見過ごしているポイントというのがあって氏は歴史に復讐されることになるのかもしれませんね。なお私は別に対北朝鮮強硬派ではありませんので。悪しからず。

ではでは。

追記

いささか攻撃的だったかなとも思いますが、鈴木氏のアプローチには批判的なところがあるのですね。人権保障のあり方について意見を言うことそのものを批判している訳では勿論ないです。氏の持ち味である名もなき実存たちに寄せる思いや微細なものへの視線は評価できても、それがわりと単純な二項対立に基づいた性急な価値判断なり友敵理論に基づいた党派的主張なりに接続するところでちょっと待ってくださいな、となる訳です。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=pE-6vwW9et8

ディック・ミネ『ダイナ』(1934年昭和9年)

戦前巻き舌界の帝王と言えば、この方です。原曲は1925年のジャズのスタンダードで昭和9年のヒット曲。

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4月ですか

"Catholic bishops in US ban Japanese reiki"[Guardian]

米国のカトリックの司教がreikiを「迷信」として禁止したということです。米国カトリック司教評議会が出したガイドラインにこのセラピーは「科学的信憑性」を欠き、信徒を「邪悪な力」に晒す危険があるという警告が含まれたそうです。reikiのセラピーはカトリック信仰や科学とは相容れないものであり、ヘルスケア施設のようなカトリックの施設には不適切であり、教会を代表する人物たちはこれを支持したり、広めてはならないということです。これに対してキリスト教徒でマスターのジュディス・ホワイトさんはネットにはreikiが反キリスト教的だといった情報が溢れているが、これは誤解であり、リフレクソロジーと同じで有害なものではないと反論しています。どうやら「霊spiritsとの交感」というアイディアがお気に召さないようです。カトリックの聖霊spiritus概念とはそもそも違うと思うのですけれどもね。

で世界各地でそれなりに浸透しているというreikiについてはご存知の方もいらっしゃると思いますが、戦前戦中の日本で流行った「霊気」のことです。臼井甕男氏が創始したこの療法は戦後は我が国では廃れたとされますが、ハワイの日系人高田ハワヨ氏を通じて米国へ上陸、東洋の神秘としてニューウェーブの波に乗って徐々に浸透、80年代ぐらいからカタカナ化されて「レイキ」として日本に逆輸入されるようになる-日本霊気と区別して西洋レイキとも呼ばれるようです-というのが大まかな歴史的経緯になるようです。最近の日本のヨガ・ブームがインドではなくマドンナもやっているということでアメリカから来ていたりするのとなにか似たような話ですね。もともと日本発だという点になにかアイロニーを感じますが。どこかで読んだ記憶はありましたが、なぜか連れ合いが詳しいのでいろいろ話を聞きました。

このマイナーと言えばマイナーな話題について真剣に考察する時間も余裕もないのですが、考え出すと多くの論点が含まれているように思われます。戦前戦中の新興宗教ブームの中で霊気とはどのような位置に置かれるのか、霊気史においては単なる中継点のごとく語られているハワイという場所の持つ意味はなんなのか、霊気からreikiに至るアメリカ化のプロセスにおいてこの術はいかに変容したのか、カトリック神学のreligio(「宗教」)対superstitio(「迷信」)という-しばしばきわめて巨大な政治的意味を持った-二項対立の概念史においてこの事例はどのように位置付けられるべきなのか、あるいは米国のカトリック教徒の置かれた状況に肉薄すべきなのか、それともカトリックから離れて米国における科学と宗教と迷信をめぐる論争における「東洋的なもの」「アジア的なもの」の位相を考察すべきなのか、こうした問題の立て方そのものを曖昧な笑みとともに拒絶してきたようにも思える風土にこうした問題関心をそのまま持ち込もうとする人々との間にいかなる対話の可能性が開かれるべきか、あるいはいかにはぐらかすべきなのか、といった問題群です。本エントリはこうした困難な問いに答えることをそもそも目的としてはいませんので、問いを放ったまま通り過ぎることにします。失礼しました。

"Searching for a sense of 'home'" by Stephen Mansfield[Japan Times]

イアン・ブルマ氏の『チャイナ・ラヴァー』という新刊の書評ですが、李香蘭こと山口淑子のフィクショナルな伝記ということです。満州国、日中戦争、パレスチナ紛争を背景として、血生臭い20世紀の政治史に巻き込まれた「心の故郷」を求めて止まないある真摯で無垢な魂の彷徨の物語といった趣向のようです。戦前に関しては王道楽土と亜細亜解放の悠久の大義に燃える理想主義的青年佐藤、占領統治期については過去の過ちゆえに故郷に帰ることができず、異国の地で再生を求める日本文化を溺愛するアメリカ人シドニーといった具合に複数の語り手の視点から山口淑子の生涯が辿られているようです。書評によれば、金日成に祝辞を述べる姿やパレスチナで日本赤軍の物語と交錯するといった具合に同時代の歴史的事象をふんだんに織り込んで「極端な御世」であった昭和の歴史が語られている模様です。評者は「今となっては信じがたいが」といっていますが、勿論中国への敬愛と満州の夢に燃えて敗れた理想主義者というのはたくさんいた訳ですし(私の親族にもいます)、占領統治期の描写は話題になった英国人作家ディヴィッド・ピース氏の『東京零年』を髣髴とさせるといいます。なかなか面白そうですね。

本来であれば小津安二郎や溝口健二と並び称されておかしくない存在であるにもかかわらず、戦後忘れ去られた巨匠とされる清水宏監督による李香蘭主演映画『サヨンの鐘』を見たばかりなのでこの本を読みたくなっているのかもしれません。ゴージャス過ぎるお方ですが、この映画の李香蘭は個人的にひどく訴えかけるものがあります。台湾の高砂族の愛国乙女の悲劇を扱ったこの戦中の空前の大ヒット映画については台湾で論争があったといいますが、この論争に関してネットソースで読みふけってしまいました。ここでも様々なエージェントによって歌と鐘をめぐって記憶の政治が展開しているようです。まあ、こうした歴史的文脈を捨象して聴いてもごくいい曲だと思いますし、だから歌い継がれたという側面は無視できないでしょう。

"Piracy and the Constitution" by Craig Martin[Japan Times]

ソマリア沖の海賊対策の国会審議に関する論評ですが、憲法9条と関連する国際法の諸原則が基本的に理解されていないと批判しています。海賊討伐のための海自の派兵は国際法的には憲法9条とは無関係であるのに国会での議論は集団的自衛権の行使の禁止という憲法の政府解釈に枠づけられて展開している。国際紛争の武力による解決を放棄するというのは主権国家とその国民に対して武力行使をしないという意味である。国際法における「海賊」とは私人による不法行為のことであり、各国家はこれを取り締まる義務を負っている。つまり公海上の海賊討伐はそもそも国際紛争の武力解決ではない。憲法違反の疑いのある派兵に批判的な勢力が憲法を楯にしてこれに反対するのは理解可能であるが、この戦術はかえって危険である。政治権力が道具的に憲法を利用して、その権威を毀損してしまう結果になる恐れがあるからだ。

There may be room for debate over the wisdom of deploying naval forces to defend against pirates on the high seas. The Constitution should not be part of that debate. One of the key defenses against government infringement of the actual constitutional principles is to ensure that the scope and meaning of the principles remain clearly understood and widely shared. And the government ought to ensure the integrity of the Constitution by applying its provisions consistently, and in accordance with that understanding, in the shaping of national policy.

以上のように憲法を持ち出すのは論理的ではないし、政治的にも危ういとしています。マーティン氏は憲法解釈は行政ではなく司法が行うべきだという観点から安倍政権の解釈改憲の動きやいわゆる柳井報告を厳しく批判している方ですが、海賊に関しては以上のようなクリアな議論をしています。そうですね、ともかく自衛権については国際法からあまりにかけ離れた解釈をして国際的に話が通じにくい状況というのはそれ自体危ういのではないでしょうかね。

以上、ジャパン・タイムズから記事を紹介しましたが、悪質な嘘と邪推に塗れた記事を事実チェックせずに無責任に掲載し続ける限りは信頼性を得られないでしょう。外国人の裁判が公平になされているのかどうか注目しよう、バイアスがかかりやすい条件をできるだけ排除して裁判の質を向上させていこう、という点には同意しますが、そのためにデマを流すことは報道の倫理とルールに反しています。アクセス稼ぎのためのパンダのつもりかもしれませんが、洒落になっていません。記事についても事実に関わる部分はチェックすべきではないですかね。あるいはもう手を切る時期なのかもしれませんね。

"Spy agencies believe NKorea has nuke warheads"[AFP]

北朝鮮:核小型化に成功、「ノドン」搭載…国際調査機関[毎日]

国際シンクタンクの「国際危機グループ」がノドンに搭載可能な核の小型化に既に北朝鮮は成功している可能性があるという報告書を提出するようです。この情報の真偽そのものは不明ですが、こうした情報が流れることで抑止は高まることになるのかもしれません。さて、どうしたものでしょうかね。前に出た策源地攻撃能力の保有あたりでしょうか。ただあの時とは政権も交代して状況も変わっていますから、米国の猜疑心を呼ばないようにかなり注意しないといけないのかもしれませんね。

"Gov't to enable Japanese to marry foreign gay partners overseas"[AP]

法務省が外国人との同性結婚を認める方向で動いているようです。日本語ソースが少ないですね。APの英語記事はずいぶん参照されていますが。国内での同性結婚を認めるつもりはないようで同性結婚が認められた国の人との結婚ということのようです。記事ではこれは第一歩だとアクティヴィストの方が法務省を賞賛していますが、国外と国内とで同性愛者の権利状態に差があることになる訳でなんだか奇妙な話ではあります。どういうロジックなんでしょうか。これに対して熱烈な大規模反対運動が起こったり・・・はなさそうな気がします。ちょうど三橋順子氏の『女装と日本人』という新書を読んでいて積年の謎のいくつかが解けた感じがあってとても面白かったところでしたので個人的にはちょっとタイムリーなニュースでした。この新書ですが、歴史が好きだからうならされたということもありますが、こういうトーンで語れる方が前に出られるならばかなり広い層にまで声は届くだろうなと思えました。

ではでは。

追記

同性結婚の話はいろいろ読んでみましたが、なにをどうしたいのかよく分らないですね。法務省が勝手にやっているといった印象を受けます。

近づく「テポドン2」打ち上げ[日経BP]

松浦信也氏の技術的なインタヴュー記事ですが、分りやすいのでおすすめしておきます。推測だが、とことわっていますが、情報収集体制が整っていない点から見て、技術者たちは追い詰められているようだとしています。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=w8ilpWgTYTk

渡辺はま子『サヨンの鐘』(1941年昭和16年)

http://www.youtube.com/watch?v=WK1lGpVxNgM&feature=related

紫薇『月光小夜曲』

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下からの発展主義者

すっかり春めいていますが、昨日今日読んだ記事を紹介しておきます。

"It's Not Just the Economy, Stupid: Asia's Strategic Dangers from the Financial Crisis" by Michael J. Green and Steven P. Schrage[CSIS]

CSISに掲載されていたグリーン氏とシュレージ氏の記事。タイトルはクリントン大統領の"It's just the economy, stupid"のもじりで、今回の金融危機が単なる経済の問題ではなく、戦略的危険を東アジアに及ぼし得る点について警告する内容です。といっても警世家のごとく喚いている訳ではなく、多くの人が危惧している事柄についてのごく慎重な考察です。今のところ東アジアの戦略的構図には変化が見られない。中国が米国に代わってヘゲモニーを握った訳でもなく、今回の金融危機の救済を主導する余裕もなく国内問題に忙殺されている。米国の財政赤字をファイナンスしているのだから米国は中国に膝を屈することになるだろうという予言もあたらない。中国の指導者は世界新秩序を構想している訳ではなく現状維持に汲々としている。中国に関する戦略的危険は米国の影響力の低下にあるのではなく、大恐慌の後の日本のような戦略的シフトが起こることだ。中国の社会的安定のためには8%の経済成長が必要だと言われるが、2009年の成長は5%程度だと予測されている。既に工場閉鎖にともなう抗議運動は生じているが、全国的なレベルでの騒擾は起こりそうにないという。しかし危機は始まったばかりであり、誰にも今後は予測できない。

北朝鮮、ミャンマー、イランが金融危機を受けて挑戦的になっている点に注意すべきだ。中国が国内不安へのインパクトを危惧し、日韓の指導者が議会で責められている間に、北朝鮮は核保有国としての地位の要求の声を強めている。ミャンマーの軍事政権はこの機会を捉えて数百人の反体制派を逮捕した。イランは中露とP3の齟齬を利用しつつ核開発を続けている。他方、経済情勢の悪化が燃料費の下落や経済援助の必要性ゆえにこうした危険な国々を軟化させる可能性はあるが、それは指導者が国民の福利厚生にどれほど関心があるのか、どれほど経済に関連して国内の圧力がかかるのかによる。現状ではどちらに転ぶのか十分なエヴィデンスがない。

経済危機は東アジアの民主主義国に打撃を与えている。日本では麻生首相の支持率は1割代であり、韓国の李大統領、台湾の馬総統の支持率も芳しくない(台湾経済の打撃は貿易の利を説いて中国との融和を主張する馬総統の説得力を奪っている)。タイの連立政権の未来は不確実だ。東アジアの新旧民主主義諸国は米中関係をアンカーし、「自由を推進する勢力均衡」と前ライス国務長官が呼んだものを維持するのに役立っている。ここ20年の民主主義の拡大に逆風が吹くようなことがあれば、グローバルな勢力均衡に影響を与えるばかりでなく破綻国家を増大させることにつながるだろうし、米国が中国に訴えているリベラルな規範のデモンストレーション効果を損なうことになるだろう。

1932年のSmoot Hawley関税のような保護主義的措置によって金融市場の崩壊は突如として自給的な貿易圏のゼロサムゲームに転じ、これが戦争の主因となった。今日では金融、サーヴィスのグローバル化、製造業ネットワーク、WTOなどのおかげでこうした急変はありそうもない。しかし、既に世界中で特定産業の保護がなされていて、これは競合する外国企業からは不公正な貿易措置に見えるし、これが"Smoot Hawley2.0"刺激効果といったものを生むかもしれない。政権によって「バイ・アメリカン条項」はどうにか抑えられたが、他の国々を誘惑する先例をつくってしまった。気候変動関連立法もまた保護主義の偽装の罠となり得る。平価切下げ競争もまた保護主義と摩擦を強化するだろう。既に世界貿易は縮小し、WTOの貿易自由化は停滞し、オバマ政権は韓国、コロンビアとの自由貿易協定に慎重な姿勢を見せている。保護主義の動きは1930年代式の自給ブロックの形成につながらないとしても、各国が脅威に対して協力するのを妨げたり、経済の回復を遅延させることになるだろう。

幸いなことに我々は過去の失敗から学べる。保護主義と戦うことの重要性を我々は知っているし、我々の同盟国はこうした努力を主導することができる。WTOやKORUS FTAを通じた攻撃的貿易自由化が保護主義の防衛に最もふさわしいことを我々は知っている。パキスタンのような脆弱な国家に経済支援することの重要性も我々は知っている。1920年代、30年代のように軍事費をカットしたり、抑止と強力な同盟関係を脆弱な外交的調整に代替することの愚を我々は知っている。経済成長を再び活性化するグローバルな戦略の必要性も安全保障との関連性についても我々は知っている。

といった具合に大恐慌後の歴史と重ね合わせて自由貿易体制と同盟関係の維持を訴えています。最後のパラグラフには「心配するな、でも、賢くなれ」という表題がついていますが、人はそれほど賢くなれますかね。日本の例が取り上げられている部分がやはり関心を惹きますかね。

Japan was arguably not a revisionist power before 1932 and sought instead to converge with the global economy through open trade and adoption of  the Gold standard. The worldwide depression and protectionism of the 1930's devastated the newly exposed Japanese economy and contributed directly to militaristic and autarkic policies in Asia as the Japanese people reacted against what counted for globalization at the time.

中国がこうならないように気をつけなくてはならないという文脈にある訳ですが、何年か前から同じ文脈で同じような記述を見るようにな気がします。「日本特有の道」論から横滑り論へといった感じでしょうか。正直、曲がりなりにも議会制民主主義のあった国と現在の中国を同一視できると思えないですが、逆に言えば、現体制の下では中国が冒険主義に走る可能性はあまり高くはなさそうだというアイロニカルな認識が得られるのかもしれません。それからヴェルサイユ・ワシントン体制の短い言及の部分は、米国で今後地域的なウィルソン主義的志向が高まるリスクへの牽制に見えます。勢力均衡と集団安全保障と同盟をめぐる問題群は日本にとって死活的に重要な話なはずなのですが、どうも日本側がどうしたいのかさっぱり意志が見えないのは米国から見てじれったい話でしょうね。一日本国民から見てもそうですから。ところでrevisionistやrevisionismにはこういう用法もあるのですね。現存する世界秩序に対する修正要求という意味合いなんでしょうか。

"Takahashi Korekiyo's Economic Policies in the Great Depression and Their Meiji Roots" by Richard J Smethurst[pdf]

英語圏の高橋是清のスタンダードな伝記を書かれたスメサースト氏の99年のシンポジウムでのペーパー。高橋是清の経済政策の由来を明治の思想潮流に探ることを目的にしています。確かに流暢な英語を話し、同時代の英語圏の政治経済の潮流に通じてはいたが、高橋は大学の経済学者ではなく多様な職歴を持つ人物であり、彼の思考はその経歴を通じて探求しないといけないとしています。

まず、高橋の5原則を確認しています。(1)政府は不況の際には経済を刺激するために財政金融政策を用いることができる。(2)政府は景気過熱の際には経済を冷まし、インフレ退治をするために財政金融政策を用いることができる。(3)市場の情報は経済成長の鍵である。(4)経済発展は単に国家を豊かにしたり、強くするためのものであるばかりでなく国民の生活水準の向上をもたらすものであるべきだ。(5)過剰な軍事支出は国民経済の健全性を損なう。

それで第二次世界大戦後にはごく普通になったこうした考え方を世界に先駆けてなぜ彼が持つことになったのかということになります。高橋はひとつのポストにとどまることなく、ポストの移動を重ねて政治、経済、金融の幅広い知識を身に付けたとされますが、論者は原則(3)(4)(5)については農商務省の先輩にあたる前田正名の影響を重視しています。薩摩藩士の前田は江戸末期に蘭学や儒学の教育を受け、明治維新とともにフランスに留学し、ティスランの下で政府による殖産興業の考えを学び、農業と在来産業の発展を政府の政策の中心と考え、『興業意見』を提出したこと、野に下った後にも地方の産業振興の運動を起こしたことで有名な人です。国家支援による経済発展を強調する前田の考えは高橋のマクロ経済政策的な発想に影響を与えたとされます。また高橋も前田も熱烈なナショナリストであるが、政府への軍の影響力の増大を恐れ、軍事支出の増大に反対した点でも、政策形成の前に現状の基礎的な調査をするという「根本」を強調した点でも、経済成長の利益は全国民が享受すべきであると考えた点でも、政府の役割を強調する一方で東京の官僚ではなく地方の役人や生産者のほうが多くの情報を知っていると信じた点で共通しているといいます。

1880年代に地域の実情、すなわち「根本」を調査し、『興業意見』を作成していた頃に両者は出会うのですが、この意見書は農業と在来産業の振興を通じた経済発展を目指している点で、重工業や軍事力偏重の政府方針と対立する要素を持っていたとされます。前田は平均的な国民の生活水準の向上なくして経済成長なしとの信念、強兵よりも富国の主義であり、農村経済に悪影響を与えるとして松方蔵相のデフレ政策を批判したといいます。論者は前田を財閥偏重の政府政策を批判した「下からの」発展主義者としています。これは前田の提唱した地方の意志決定を重視した産業銀行案に現れているとされます。松方および大蔵省の中央集権主義対前田、高橋および農商務省の地方分権主義という構図です。前田は政策論争に敗れるのですが、この地方の意志決定を重視するスタンスは高橋に影響を残したといいます。

以下、高橋の軍事予算をめぐる衝突や教育、公共事業等の分権化の訴えなどに前田の教えを見ていますが、特筆しているのは30年代の農村救済案への反対と自助の訴えです。論者はこの点に関しての従来の歴史家の解釈に異を唱えていますが、このペーパーの眼目はこの論点にあるのでしょう。金融資本階級の代表たる高橋には農民への共感などなかったとか老年の高橋はもはや大蔵省タカ派のロボットに過ぎなかったとかいった説明がなされてきたが、前者に関して高橋は常に地方の振興を訴えていたし、後者についても戦後になってからの戦争責任回避のための官僚の言い訳に過ぎないとしています。また財政赤字削減のための措置であり、軍事費縮小は政治的に困難だったたけに農村救済をカットしたのだという説明にはより説得力があるが、高橋は常に勇敢に軍と対立しているし、既に死ぬ覚悟は出来ていたとして退けています。それで著者の説明は地方の実情を知らない中央官僚主導の農村救済案は成功しないという彼の信念によるものだというものです。地方ごとに実情が違うのだが、その状況は十分に調査されていないので全国一律の救済案には効果がないという発言を取り上げていますが、この信念は前田の教えであるといいます。35年以降には分権的な意思決定と草の根の情報への注意による農村経済発展を訴えていると。また貧農ではなく自営農や小地主を支援したことでも批判されているが、これも的外れだとしています。村を支配する大地主階級ではなく農村中間階級が経済発展の鍵であると1880年代に前田は見抜いたが、1930年代には既にこの階級が村の政治経済リーダーに成長していたのだからこの層を支援したのは高橋が村の現実を知っていた証拠であるとしています。

以上のように農商務省時代に高橋は前田真名の経済思想から多くを学んだというのがこのペーパーの趣旨です。素人の私にはとても説得的な議論に感じられましたが、私の知らないいろいろな文脈があるのかもしれません。フランス留学組の見聞録のたぐいは以前まとめて読んだことがあって前田のことは知っていましたが(普仏戦争とパリ・コミューンを目撃した日本人です)、フランスの重商主義の伝統を引き継いだ殖産興業の人ぐらいの理解でしたのでなかなか勉強になりました。政府の役割の強調と下からの経済発展の理念が独特に結合している訳ですね。これが高橋是清につながるというのもなにか数奇なものを感じます。日本のワインの父みたいな人でもあるのですね。飲んべいの私としては前田ゆかりのワインというのも気になります。ちなみにスメサースト教授が朝日に寄稿しています。是清についてはアメリカのマクロ経済学者のみなさんにももっと知ってほしいところですね。ではでは。

追記

財務省→大蔵省に直しました。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=4VnURW4tNIk

江利チエミ『木遣りくずし』

幕末の有名な俗曲のカバーですが、とても耳心地のいい粋な歌いっぷりです。

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台湾の神様

"The Costs and Benefits of Japan's Nuclearization: An insight into the 1968/70 Internal Report" by Yuri Kase[pdf]

佐藤政権で日本の核武装の可能性が政府からの依頼で有識者によって検討された話は有名ですが、その際に提出された「68/70年リポート」について分析した論文。2001年に刊行された論文なので射程に入っているのは90年代までの議論です。先日亡くなられた永野陽之助氏もメンバーだった民間人からなる委員会では検討の結果、技術的には可能だが、政治的にはコストのほうが大きいという結論が出された訳ですが、このリポートを戦後の安全保障思潮や中国の核武装にともなう安全保障環境の変化といった同時代の文脈の中に位置づけています。個人的にはそれほど目新しい記述はないかなという感想でしたが、議論は明晰で英文で書かれた意味は十分にあると思います。関心を引いたのは佐藤政権の非核三原則とこのリポートの関係の部分ですかね。国会での首相発言を引用すると、

If the other fellow has nuclear weapons, it is only common sense to have them oneself. The Japanese public is not ready for this, but would have to be educated... Nuclear weapons are less costly than is generally assumed, and the Japanese scientific and industrial level is fully up to producing them.

というように親核武装的スタンスだった点が指摘されています。また有名な核政策の4つの柱にしても、自民党のリポートでは、優先順位として(1)核の平和的利用(2)核軍縮(3)米国の核の傘への依存の順番で、最後に「日本の国防が前記の三政策によって保証されている環境の下では」という条件つきで非核三原則が記述されている、従って核武装の可能性についての委員会が準備されたのもなんら不思議はないとしています。考えてみると核政策については歴代政権はかなり慎重かつ着実に事を進めたもんだなと感心させられます。政治的にはけっこう高いハードルだった訳でしょうしね。また個々の政策担当者の努力といった話だけでなくそこになにか集合的な意志のようなもの-分かりやすいところでは『鉄腕アトム』とか『ゴジラ』といった大衆的想像力の系譜が思い浮かびますが-を感じずにはいられません。ちなみに一部で話題になっている朝日社説には心底萎えてしまったことをここに記しておきます。私には同新聞の論調を揶揄する趣味はないのですが、想像力と認識が冷戦時代のままで根本的にずれていると思いますね。

"Formosa's First Nations and the Japanese: from colonial rule to postcolonial resistance" by Scott Simon[Japan Focus]

台湾の太魯閣(Taroko)族の集団的、個人的アイデンティティーにとって日本統治時代の記憶が意味するところを扱った論考。ジャパン・フォーカスにもたまには読める記事がある訳ですが、この論考はよく調査され、よく書かれています。当地の政治的アイデンティティーに関して「本省人」「外省人」の分割線が決定的に重要であること、またその政治志向に相即的に日本統治時代の評価が分裂していることは誰もが知るところですが、ここでは「原住民」の例として太魯閣族の場合が検討されています。太魯閣の人々は現在でも日本語混じりの言語を使用しているが、それは日本語が近代的概念の運び手であったからである。日本統治時代の記憶は「本省人」のそれとも「外省人」とのそれとも違う。近代的なものをもたらした日本という肯定的イメージがある一方で、部族の風習(入れ墨にかかわる苦い記憶)を喪失した痛み、抑圧に対して果敢に蜂起した相手としての否定的イメージもある。しかし、全体としては「古きよき時代」として統治時代は喚起されることが多く、日本の悪口は言わない。靖国神社への抗議に出かけた「原住民」を代表するとする議員には冷淡である。日本への勇敢な蜂起の記憶は現在の台湾社会内部の地位向上をめざした社会運動の基盤となっている云々。といった具合に日本統治時代は太魯閣族の生活様式を後戻り不能な形で根底的に変えた、イデオロギー的な歴史からは零れ落ちる記憶の層があり、その記憶は現在でも太魯閣の人々の集団的あるいは個人的な生にとって決定的な意味を持っているといった話です。善悪二元論的な認識から離れて歴史の複雑性をその幅と厚みのままに記述しようとする姿勢-原理的にそんなことが可能かといった問題は別にして、意志と企ての問題として-を評価したいと思いました。以前テレビで女性タレントさんが村を訪れるといった趣向の番組を見た記憶があるのですが、その時は日本式の教育を受けた高齢の方々が日本語を話すのだと思った訳ですが、どうもそうではないようですね。若い人の間でも「ありがとう」とか「何歳だ」とか「何時だ」とかいった表現が使われ、教会用語や計算や時間表現で日本語が日常的に使用されるそうです。対応する語彙がなかったということのようです。しかし、クリスチャンがkamisamaって言うんですねえ。

"The Inadvertence of Benedict Anderson: Engaging Imagined Communities" by Radhika Desai[Japan Focus]

こちらはベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』の新版発行に寄せた批判記事。個々の論点については既に多くの批判があるが、目的と議論とロジックの間の齟齬が問題だと言います。まずあれほどナショナリズムの重要性を語っていたアンダーソンが1990年代以降はグローバリゼーションが国民国家やナショナリズムを弱体化するといったたぐいの平板な現状認識にいつのまにか変化したのにこの点について新版での説明がないのはおかしいとしています。その通りです。

以下、批判になりますが、おおまかに言うと(1)本書の執筆動機、(2)先行理論との関係、(3)政治効果をそれぞれ対象にしています。(1)については中印紛争の際に左翼シンパだった著者がこれを従来のマルクス主義系の理論では説明できないと感じたことがこの本が書かれた目的であるとされるが、なぜ欧州の紛争は説明できてアジアの紛争は説明できないと思ったのかが問われるし、従来の緻密な議論を無視している。(2)偶像破壊者を気取ってマルクス主義とリベラリズムの破綻を宣告しているが、これは無根拠だったし、「文化」の位相に注目することで理論的隘路を乗り越えたというのも怪しい。ナショナリズムは「文化的」であるよりも「政治経済的」なものだからだ。批判的に継承したとするTom Nairnの理解も浅薄だ。下層階級の政治参加とナショナリズムの結びつきについての興味深い議論への著者の批判も弱い。Nairnの唯物論議論においてナショナリズムの根拠は18世紀以来の政治経済的発展の不均等性そのものにある-社会内部の不均等発展が階級の、地域的不均等発展がネーションの根拠-のであってナショナリズムが「文化的構築物」であるなどといった話は木を見て森を見ずの議論に過ぎない。またナショナリズム研究の「脱欧州化」のアジェンダについても著者が行ったのは最悪の形でのアメリカ化である。西洋のモデルに他の世界が従うといった話は第三世界のナショナリストの経験を軽視するものであり、モジュール、剽窃、模倣といった概念がこのために動員されているのだ。以下、アンダーソンの有名な概念が個々に批判されていますが、ここは省略します。

(3)政治効果については新自由主義が第三世界の独立の成果を根扱ぎにしようとしている最中にナショナリズムを脱政治化する結果となった。『想像の共同体』は偽りの破産宣告によって豊かな理論伝統を無にした。一番皮肉なのは、国民的階級的ラインによる進歩的政治が新自由主義に対抗すべきまさにその歴史的瞬間に第三世界のナショナリズムを西洋の構築物とすることで脱正統化し、これまでにないほどユーロセントリックなものにしたことだ。『想像の共同体』の人気の一部は新自由主義、グローバル化、帝国の産物であり、こうしたものは市場と資本主義の悪に対抗する国民的社会的試みと対立するのだ。最後に時事的なメッセージで締めくくっています。

As these come crashing down in the world-wide economic crisis which marks the end of the century’s first decade, as it becomes clear just how national the responses to the crisis have been despite decades of neoliberal and postmodern and postcolonial anti-state discourses, one hopes that those interested in nationalisms and nation-states will turn to the traditions of scholarship which have better illuminated the dynamics of nationalist and revolutionary change than has IC.

といった具合に用語からも分かるように筋金系左翼による軟弱系文化左翼批判といったおもむきの論考です。(1)(2)の理論的、実証的な論点の部分に関して言えば、私も、正直、『想像の共同体』のどこが凄いのかよく分からない-京都学派の「世界史の哲学」や戦後史学の「民族の世界史」のほうがある意味凄いような気がします-ですし、参考文献に挙げているのを見ると、ああ、またか、とげんなりすることがあります。しかしこの論文の書かれた動機はむろん(3)の政治的批判にある訳でしょう。リベラル左翼による国民国家批判、ナショナリズム批判はグローバル化なる美名の下での帝国の支配のお飾りに過ぎない、世界資本主義の暴政に対しては進歩的、革命的ナショナリズムで対抗せよ!ということのようです。しかし、まあ、文化左翼のみなさんは無害だからいいとして今後は筋金系左翼のみなさんを本気で相手にしなくてはいけない時代になるのですかねえ。だいぶ声が大きくなっている印象を受けます。ふう。歴史が反復しないことを祈ります。

"Japan’s Leadership Deficit" by Tobias Harris[Far Eastern Economic Review]

日本の政治家は駄目だという定評があるが、その原因を考えてみるというエッセー。原因論はいろいろあるがひとつは世襲に帰責する議論だ。しかし世襲議員がそうでない議員よりも悪いのかどうかはそれほど明らかではない。指導力を発揮した小泉は世襲議員であるし、戦後もっとも不人気だった森は非世襲議員である。指導力不足に関するAurelia George Mulganの議論によれば日本が強いリーダーを欠いているのは文化でもパーソナリティーでもなく制度デザインによるものだという。日本の首相と内閣の力は他の議会制の国と違って官僚や政府外の与党議員などのライヴァルとたたかう必要があるために制限されているのだと。

こうした制約に加えて一般的な制約もある。政治的コミュニケーションの技術を身に付けた首相候補の少なさだ。この点で小泉は例外で多くの年長の政治家には現代のメディア環境でコミュニケートする技術がない。再選されるかどうかはコミュニケーション技術を通じて選挙民を動員したり、公衆にメッセージを送ったりするよりも選挙運動をファイナンスする資金を集める能力にかかっているからだ。若い政治家は違うが、首相候補にはまだ遠い。近代史を通じて日本の政治家はその密室政治や与党内部、官僚、野党との調整能力で名高い。欧米の政治家とは似ていないように見えるが、少なくとも戦後の数人の首相は有能な指導者であった。

現在、あまりに多くの危機に直面して麻痺している状態であり、仮に民主党政権ができたとしても同じようになるのではないかと懐疑的になるのは当然だ。しかし民主党政権が変えることができるのは制度的制約だ。民主党は自民党の失敗を観察し、内閣とサブ内閣ポストを増員する案を練ってきた。この案は省庁に対する内閣のコントロールを強化し、民主党内部の潜在的ライヴァル関係を政府に持ち込むだろう。民主党はこうしたプログラムの実施に失敗するかもしれない。日本の問題は退廃した政治家にあるのではなく機能不全の制度にある。民主主義においては政治家の不足というものはないが、いい制度というものを手に入れるのはもっと困難なのだ。

以上、日本の政治家に指導力がないのは個々の政治家の問題ではなく制度の問題であるという考えです。ここでいう制度は慣習も含んだ広い意味合いでしょう。基本的にはその通りだろうと思います。コンセンサス政治の伝統に加えて自民党の尋常でない長期政権が現在の疲弊をもたらしている点についてはわざわざ想起するまでもないでしょう。党組織の現代化を怠ったことも政党政治の停滞の原因として批判されるべきでしょう。ただ最後の民主党の部分ですが、反官僚を掲げて真正面から敵対しようとしている(ように見える)点についてはどうなんだろうなと前から思っています。それが上手いやり方なのか、もっと賢いやり方があるのではないかと。政権交代が定期的に起こるようになればそれだけで政官関係はずいぶん変わると思うのですけれどもね。あるいは小沢氏は熾烈な闘争をするつもりになっているのかもしれませんが、内外の情勢がそれを許すのかどうか不安になりますね。まあどうなるんだかもはやよく分かりませんけれども。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=Pbu9tpq699g

水原弘『黒い花びら』(1959年昭和34年)

昨今の昭和30年代懐古にはいささかうんざりさせられますが、おミズの歌は少しずれていて当時の世相に収まらないものあるように思います。

追記

微修正しました(2009/3/24)

ところで大先生がまたジャパン・タイムズ上で警察・司法陰謀論を展開しています。空さんが反論されていますが(ありがとうございます)、ジョンソン教授のリファーの部分には思わず笑いました。こういう自爆の仕方が先生の先生たる所以です。しかし、こんないい加減な記事を掲載する新聞ってなんなんでしょう。この新聞にはファクチュアル・チェックという概念は存在しないのでしょうかね。これだから学級新聞レベルだと嘲笑されるんです。論調についてはお好きにどうぞですが、最低限、事実だけは正確にしてください。

再追記

空さんのリンクを間違えていましたので修正しました(2009/3/26)

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ディア・リーダーをめぐるあれこれ

拓殖大学大学院教授・森本敏 北朝鮮ミサイルの迎撃決断を[産経]

第1に、わが国の政治決断を急ぐべきである。ミサイル防衛は自衛隊法第82条の2項に基づき、防衛大臣が内閣総理大臣の承認を得て、指揮官に対処権限を委任する仕組みになっている。総理の承認がなければミサイル防衛は機能しない。この対処要領は、航空総隊司令官がイージス艦艦長やパトリオット部隊指揮官に下令し、飛翔するミサイルをわずか数分のうちに撃墜するものである。

その手順は防衛省内で決められているが、これを有効にするためには空域をクリアにする必要もあるし、パトリオットミサイルの運用に必要な電波管制も必要となる。まだ総理の政治決断は下っていないが、時機を逸したのでは取り返しがつかない。

第2に、日米間の運用上の調整を急ぐことである。米国はイージス艦を日本周辺に5、6隻配備し、海自も2隻の配備が可能だ。緊迫すれば、このうち最低2隻を日本海に展開させる必要がある。しかし、日米では指揮権が異なるため、司令部・部隊間の調整が不可欠になる。ミサイル防衛は日米が共通の対応をしなければ効果はない。日本だけが対応しなければ、その必要性が問題になり、米国だけが対応しなかったら日米同盟の信頼性という問題になる。

森本氏の論説でだいたい技術的な問題の輪郭が掴めます。だいたいこの通りの対応がなされるのでしょう、きっと。中国の圧力とやらがどの程度効くものなのか観察したり、粛々と国内的な問題を処理したり、日米間の調整をしたりする機会として活用すればいいという話なんでしょう。これ、集団的自衛権の問題は浮上しないで済みそうなんですかね。

"What Hillary Should Tell Japan" by Doi Ayako[CSIS][pdf]

ジャーナリストのDoi Ayako氏の拉致関連の記事。ヒラリー国務大臣は東京訪問の際に変な期待を与えずに日本の世論の拉致問題への執着に警告を発するべきだったという趣旨です。米国側の同情的発言が日本側に依存感情を生んできたが、ブッシュ政権後期の方針転換によって日本側には裏切られたという感情が広まっている。メディアはこの問題を扇情的にとりあげるばかりで冷静な分析がない。加藤紘一氏や山崎拓氏や田中均氏のように日本にも北朝鮮との対話をすべきだと考える者もいるが、「裏切り者」扱いされている。世論を正気に立ち返らせ、なにが国益なのかを思考させるには根拠のない期待の源を断つことにある。それゆえヒラリー国務大臣は誤りを犯したと。

あまり口汚くないという点を除けば、だいたい英語圏のリベラル系のオブザーバーと同じような意見ですね。まあ、これもひとつの意見でしょう。いささか表層的な現象に拘泥し過ぎではないのかといった疑問やそもそも非核化のプロセスに関与する気がないのは誰なんですかという話もありますがね。私の意見と大きく違いそうなのは米国への不信に関してはさほど問題だと思っていないところですかね。裏切られた感情というのは確かに一方的なものだと思いますが、妙な依存心から脱却して健全な懐疑を含んだ信頼の水準に落ち着く上で重要なプロセスだとも思うのですね。最後に細かいですが、この記事で気に入らないのはテレビ局のプロデューサーの発言の使い方です。これはオバマ就任の際のワシントン・ポストの同記者の記事に感じましたが、この種の手法の濫用はジャーナリズムとして反則だと思います。少なくとも私は嫌いです。ついでにこの就任時の記事の「世界で日本だけ」で世論が歓迎的でないって端的に嘘でしょ。

"Japanese Perceptions of Nuclear "Twin Commitments" Under the Obama Administration" by Jimbo Ken[CSIS][pdf]

オバマ政権の核廃絶と核抑止の維持の「二重のコミットメント」を日本側がどう見ているかについてのJimbo Ken氏の記事。"four horsemen"の提案を受けてNPT体制を維持し、核廃絶を目指す一方で現状の核抑止体制を維持するというドクトリンに対して日本には二通りの反応が見られる。これは核廃絶を望みつつも信頼できる拡大抑止を求めるという日本の核に関するアイデンティティーを示している。軍縮派は核廃絶に関する国連総会決議に米国がサインしたことを歓迎し、米国の核軍縮のプランを支持し、さらにロシアと中国との連携的な核軍縮を求め、これが北朝鮮を含む地域的な非核化に貢献することを望む。一方、軍事戦略専門家は警戒的である。米国の大規模な核軍縮がアジアにおける抑止を弱体化させ、対北朝鮮への交渉力を弱めることを危惧している。また米中間の相互確証破壊に近づくような両国の核のパリティーが実現すること、中国の核が最小限の抑止から限定的な抑止へ発展すること、MRBMのような戦域抑止に傾斜することを望まない。

米国に対して以下のような応答がなされるべきだ。日本は拡大抑止を毀損しない範囲での核軍縮の試みを歓迎する。日本はドクトリンおよび戦力の両面において米国から明瞭な核のコミットメントを要求する。米国がより明瞭な原則、目的、通常戦力の配置を示すことで拡大抑止はより有効になる。東アジアへの通常戦力のプレザンスは維持されなくてはならない。核戦力についても具体的に考慮されるべきだ。米国の拡大抑止にとって日本の自衛力の強化が必要で共同の抑止構造が維持されるように現代化を進めなくてはならない。日本は米国が絶対優位にあることが望ましいが、中長期的に米国が中国との相互バランスにシフトした場合でも非対称的なレベルが望ましい。日本のミサイル防衛能力の基準となる年は2011年であり、集団的自衛権の解釈の変更が必要だ。日本は欧州のミサイル防衛に対して米国が強い態度を示すことを望んでいる。ここでロシアに配慮した場合、中国に悪いメッセージを与える云々。後半は抜書きですので具体論は本文で確認してください。軍事用語は苦手なので変なところがあるかもしれません。

以上、前提が変わらずに事態が推移した場合のシミュレーションとしてはごく理性的な論調だと思いますが、どこまで現実的かどうかは別にして日本が自前の抑止能力を強化していく別のシナリオも描けるでしょうね。ミサイル防衛が支柱というのはどうなのよということになる日がそう遠くないうちに来るかもしれませんから。欧州のミサイル防衛の帰趨の極東への影響というのは重要な点でウォッチしないといけませんね。

"Bad Advice for Secretary Clinton" by Victor Cha[CSIS][pdf]

対北朝鮮政策についてのVictor Cha氏の記事。ヒラリー国務大臣のアジア歴訪はうまくいった。北朝鮮に関して悪いアドヴァイスに従わなかったからだ。悪いアドヴァイスには二種類ある。一方の極にいるのがSelig Harrison氏で北朝鮮との核との共存を訴える輩たちである。ヒラリー氏がこうした声に耳を傾けず、北朝鮮の完全な非核化を明瞭に訴えたのは正しい。米国は北朝鮮を核保有国として絶対に承認してはならない。核を完全放棄するまでは国交の正常化や平和条約の調印に応じてはならないということだ。これを放棄した場合には日本および韓国への拡大抑止は毀損するだろう。

もう一方の極にいるのがPhilip Zelikow氏でミサイル発射施設への限定攻撃を訴えている。ヒラリー氏がこうした声に耳を傾けなかったのも正しい。確かにミサイルプログラムを遅らせるが、こうした行動が数年後にもたらす結果はより全般的なものとなるだろう。日本も韓国も戦争を望んでいない。よいアドヴァイスとは次のようなものだ。同盟国や中国と連携して北朝鮮にミサイル発射を止めるよう警告し、ミサイル防衛システムを稼動させ、国連決議1695、1718に基づく制裁の準備をし、北朝鮮への援助を絞るように中国に圧力をかけるべきだといったものだ。金正日後の体制について日中韓と協議するという発言も今後の現実を見据えていて問題ない。関係国と連携して北の体制変革に備えるというのが慎重かつ賢いやり方だ。北の核との共存や発射装置の限定攻撃はそうではないのだ、と、いかにも現実派の氏らしい論評です。ところで国連決議に基づく制裁というのは実際にあるんでしょうかね。

以上、CSISから最近の記事をピックアップしてみました。外交安全保障に関心のある方々はだいたい目を通していると思いますが、あまり日本語圏で言及されないのは不思議に思えますね。日本人論者の声が全般に小さく感じられるというのと時に日本について言及する英語圏人のクオリティー・コントロールをちゃんとしたほうがいいのではないかと思うこともあります。大御所の間に英会話ティーチャーレベルが紛れ込んでいたりしますから。誰とは申しませんが。

"Why shouldn't Kim Jong Il fire his missile?" by Richard Lloyd Parry[Times]

パリー記者もいわゆるひとつのマコーマック化が進んでいるようでなりよりです。ねえ、どうして北朝鮮がミサイルを打っちゃ駄目なの?とあどけない眼差しで読者に語りかけています。パパ、the Westもそうしてきたんじゃなかったの、と。いい事教えてあげましょうか、別に発射に反対しているのはthe Westだけじゃないんですよ。北朝鮮はジャーナリストやアカデミシャンにとって死屍累々のフィールドですから気をつけることですね、パリーさん。

ところでマコーマック氏で思い出したのは-ええ、もちろん意地悪になっていますとも-1952年にパリで起こった反リッジウェイ・デモです。朝鮮戦争で国連軍が細菌兵器を使用したという例の共産陣営のプロパガンダを受けてフランスの共産主義者がNATO軍司令としてリッジウェイがパリに到着した際に大規模デモを組織したという事件です。"Ridgway la peste! Ridgway la pest!"というシュプレヒコールは戦後の混乱期を象徴する挿話のひとつとして国民の集合的記憶の一部を構成しているようなんですね。このたびのNATO完全復帰の件でこの挿話がよく想起されているようです。赤化が著しかった時代の反米感情を示す挿話として。ところでリッジウェイはGHQ総司令官もしていたのに日本では今ひとつ記憶に残っていないのはマッカッサーの印象が強烈すぎたからでしょうかね。

ではでは。

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まあ、ぼちぼちいきましょうよ

"One France Is Enough" by Roger Cohen[NYT]

ロジャー・コーエン氏のNYTのコラムです。フランスを当て馬にしてオバマ政権に忠告を発しています。つっこみどころが多過ぎるのですが、要はレーガン以来の小さな政府路線には確かに行き過ぎがあったが、現在のオバマはまるでフランスのエタティスム(etatisme国家主義)のようだ、フランスはふたつもいらない、移民の国としての米国は可能性とチャンスの国であり続けるべきなのだ!と主張しています。このベタベタな記事を紹介するのはこの話法のままフランスを日本に置き換えても成立しそうな論調に見えたからです。例えば、記事のタイトルを"Turning Japanese"とでもして、ウォルフレン氏流の官僚陰謀論を持ち出して、主題に関係ない性的な話題をなぜか入れて・・・、あれ、もう読んだことがあるような。実際、アメリカのフランス叩きと日本叩きは似ている部分があるので比較言説分析の面白い素材になるかもしれません。トップ・ダウン的なものへの敵意、歴史や文化への妬み、センシュアルなものへの道徳的不安などなど。日本の場合には異文化への不安が入る分さらに不当なものになりがちな訳ですが。

一応フォローしておくと氏とは意見が一致することも時にありますし、最近では「イランのユダヤ人」のコラムなどは世界の複雑性を読者に示すという意味で悪くないとも思いますが、それでもある種のリベラルって・・・、止めておきますか。言い忘れましたが、コーエン氏はわりと知られたフランス・バッシャーです。かの国ではアメリカ嫌いに対して個人的にはなんの義理もないのにアメリカを擁護する役割を果たしていたのですけれどもね。

"Japan's Crisis of the Mind" by Mamoru Tamamoto[NYT]

こちらは同じくNYTの玉本氏の記事です。玉本氏のことはご存知の方もあるかもしれませんが、日本解説者として英語圏の一部で知られる政治学者です。かつて外務省系の財団法人と産経新聞の古森記者と玉本氏、さらに何人かのジャパン・ハンズや半可通ブロガ-達を巻き込んだ脱力系の事件がありました。クレモンス氏がワシントン・ポスト上で逆上、古森氏がこれに反論、NBRなどでの場の罵り合い、と心底くだらないと思いつつも見物人的には手に汗握る展開(笑)と相成りました。古森氏のWikipediaの項に経緯の記述があります。日本語のブログもけっこうヒットしますね。

この記事はスルーしようと思ったのですが、それなりに反響があるようなので一言だけ。内容は現在の日本の危機は精神的なものであり、戦後、西洋に追いつけ追い越せでやってきたが、もはや目標を失い、自由の原理に基づく西洋諸国とは異なり、日本では官僚が支配する自由も幸福もないシステムが立ちはだかっている(ウォルフレン症候群!)、今必要なのはリスクをとる意思とダイナミズムであるといった感じです。「日本人の心理的危機」ではなくて「私の心理的危機」ないし「我ら戦後リベラル左派(?)の心理的危機」ぐらいにしておくのが謙虚な姿勢というものではないですかと思いました、はい。また英語圏の日本言説に呑み込まれた善良な魂の痛ましさみたいなものをところどころで感じました。ただの偏見や叩きを真に受けなくてもいいのにと。リベラル層のオブザーバーに動揺を与えるわさびのきいた記事を一本でも書いたら-まあ全部読んでいる訳でもないので分かりませんが-氏のことを評価するかもしれません。そうですね、ダイナミズムが必要だという点は同意しますが、私は不幸でも不自由でもないですね、悪しからず。共感というのか同情する部分もゼロではないですが、こうした語りに巻き込まれたくないんですよね。だってちっとも生産的でないではないですか。もう聞き飽きました、泣き言を言ってる暇があったら地味なところからでもなにかやりましょうよと。

"A Japanese lesson for Afghanistan" by Matthew Patridge[Guardian]

こちらは歴史から誤った教訓を導き出す見本のような記事です。日本の占領統治の例はイラクの際にも散々想起され、「サクセス・ストーリー」の語り手のジョン・ダウワー氏本人が引用されて反論する事態にもなっていましたが、今度はアフガニスタンですか。ふう。マッカーサー式にやれと主張しています。アフガニスタンを貶める意図はないのですが、どちらかというと豊臣秀吉が必要な治安状況のように思えたりするのですが、違いますかね。早い時期に政治権力による武力の独占が実現し、長いこと秩序社会の伝統が存在していたからこそ占領統治もありえないほどスムーズに進行したように思うのですが。また戦前についても占領軍のプロパガンダそのものですね。封建主義対リベラリズムですか、いまどき英語圏のアカデミシャンでも言わないです。言うまでもなく識字率が高く、所有権も確立し、工業化も進んだ近代国家だった訳です。それにイギリスにはfeudalな土地所有とやらが残っているじゃないですか、農地改革はむしろ後の農政に悪影響を与えたと思うのですがね。ええと、日本は凄かったんだと威張りたいのではなく、誤った歴史の教訓をたしなめているのです。本を一二冊読んだぐらいでなにか理解した気になっているだけの人なんでしょうが、よく知らないことを新聞に寄稿すべきではないですし、またこんなレベルの記事をチェックなしに掲載するようではガーディアンのレベルも知れようというものです。

追記

クレモンス氏の発言で苛立った記憶があって文句を書いたのですが、確認できないのでその部分を削除しました。ともかく氏はエキスパート面してほしくない人トップ10に入りそうです。玉本氏にはさほどの悪感情はないですが、こういうナショナルなレベルでのmindについてそう簡単に語るのは止めて欲しいです。少なくとも私は氏の語りの中に含まれたくない。それから私は別に官僚の味方ではないですし、政官関係のバランスのとれたあり方が実現することを願っていますが、昨今のムード的な官僚叩きにはいささか不健康なものを感じます(2009.3.7)

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=N3re38PkW_U&feature=related

江利チエミ『テネシーワルツ』(1952年昭和27年)

進駐軍のアイドル・エリーのデビュー曲。14歳の子供にしてはおませな声ですよねえ。

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政治的オーラ

"Commercial Appetite and Human Need: The Accidental and Fated Revival of Kobayashi Takiji's Cannery Ship" by Norma Field[JF]

小林多喜二の新書を刊行したばかりのフィールド氏が蟹工船ブームと昨今の反貧困運動について書いています。ブームを支える商業主義の論理を指摘しつつこれを求める社会的需要が現在の日本にはあるとしています。自分が研究した時にはなんでそんなこと調べているのといった白々しい空気だったのにねえという風に時代の変化への感慨を表明されています。この記事を読んでいて、個人的には日本の左翼やリベラルにはもっとしゃんとしてほしいものだとは思うのですけれども、世直しや人助けは彼らの占有物ではないのですよと言いたい気持ちにもなりました。ひとつだけ言うと、

If Japanese activists today, often securely middle-class, well educated, and middle-aged and older, who are dedicated to problems of historical consciousness, the former military comfort women or Article 9,have not seemed engaged by the antipoverty movement of the young, then the latter have not taken up the antiwar cause.  Given the limitations of time and resources, this is altogether understandable.  But in order to catch up with the consciousness of Takiji and his comrades of the late 1920s and early 30s, in order, therefore, to be adequate to the demands of the present, it is necessary to join the antipoverty and antiwar struggles. That entails overcoming the sectarian residues from the 1960s and 70s as well as generational divides.

この点はどうなのかなと思いました。個人的には昔の戦争の話や護憲の話はどうぞご自由にといった程度ですが、飯食わせろとか住むところくれの切実さには共感的になれるかもしれないといった感じですかね。別にシニカルになっている訳ではないですが、運動のやり方や目標の掲げ方や言葉の使い方があんまり上手じゃないように見えます。一般論として民主主義の活性化にとっても必要だとは思うのですが、私はどうにも日本の社会運動のノリが苦手なんですよね。いえ、有意義なことをしている人達も感じのいい人達もいるとは思うのですけれどもね。

""La Puissance ou l'influence ?", de Maurice Vaïsse : cinquante ans de diplomatie française"[Le Monde]

フランスの高名な外交史家のモーリス・ヴァイス氏の新著の紹介記事。ここ50年のフランス外交を扱った大著のようです。現在ではド・ゴール時代には考えられなかったようなアフガニスタンへの派兵やNATO統合軍事機構への完全復帰といった新しい展開を迎えている。無論フランスが並のミドル・パワーといった地位に満足できるはずもなく、絶えず世界的な影響力の拡大を目指している。本書はこれは今に始まった話ではないということを権力に関する派手な言説と現実の受け入れの間の逡巡を軸に辿っているようです。またこの紹介によれば本書は個々の外交官へのオマージュであるといいます。いつか読むかもしれません。ちなみに「戦後フランス外交」という時、「将軍」のこの隠し立てのない言葉を想起することがあります。

「私は劇場にいるのと同じである。私は信じるふりをしてきた。フランスが大国であるということを信じるふりをしてきたのである。それは永遠の幻想である」

それはたぶん幻想かもしれないのですが、それが事実ではないかもしれないことを痛苦とともに自覚し、それを信じているかのごとく振舞えない者は指導者たり得ないといった種類の国家を支える幻想になってきた訳です。多分、21世紀のフランス外交もまた簡単にこの幻想を諦めないでしょうね。

"Defending Kantorowicz"[The NewYork Review of Books]

"Kantorowicz. Juif et nazi?"[paris4philo]

カントロヴィチの「王の二つの身体」を再読してやはり傑作なんだろうなと思ったのですが、ついでに90年代初頭のカントロヴィチはナチなのか論争に関する記事をネットソースで読み直しました。簡単に説明しておくと、カントロヴィチはナチス政権ができた後に米国に亡命した20世紀を代表するユダヤ系ドイツ人中世史家で政治神学研究という副題を持つ「王の二つの身体」は近代国家の誕生を王権の観念や儀礼を通じて分析した代表作です。王には二つの身体がある、自然的身体と政治的身体である、前者はもろく束の間のものに過ぎないが、後者は永遠のものであり、王国の政治的秩序の永続性を表象する、王の政治的身体の観念の発達が近代的で公権的な観念を生み出すことになるのだ、といった内容です。日本語訳は文庫化もされてますのでおすすめしておきます。

でこの人は亡命ユダヤ人であるにもかかわらず、ナチ的だと糾弾されたのですね。いわゆる同化ユダヤ人で戦間期にはドイツの保守革命に近い位置にいて「フリードリヒ2世」という問題作を発表し、ヒトラー登場の際には一時的に共感したという「判断ミス」をした、またシュラムというこちらはナチべったりになった中世史家がいてこの人の王権儀礼研究と重なる部分が大きい点でナチ的だと。この論争、判断ミスぐらい人間なんだからするでしょう、それを認めないならば知的誠実性の観点から批判されても当然でしょうけれども、かなり早い時点で危険を見抜いた訳ですよね、政治的に責任ある立場に置かれていた訳でもないしょうし、なにか生産性のある論争なんですか、ぐらいの感想をもつ「甘い」人間なせいかピンとこない部分もあるのですが、ワイマール時代のあのなんだか判らない狂乱じみた空気には気になるところがあってあれこれ読みふけってしまいました。で、これはドイツに限った話ではないです。知らん顔をしていますけれども、欧州は程度の差はあれどこも似たような空気が存在していた訳ですから。

"A Sacred Aura"[The New Republic]

ちなみにBHL氏がサルコジ大統領は世俗的過ぎて聖なる政治的身体が欠けているという批判だかなんだか判らない論評をしていますね。私にはあの大統領にボナパルティズムの伝統がちらほら見えるのですけれども、違いますかね。といいますか、こういう「教訓」を引き出すべき本なんでしょうかね、揶揄のつもりでしょうけれども、けっこう危険なことを語っているような気もしますね(笑

追記

"Japan's Beleaguered Leader to see Obama"by Blaine Harden[WaPo]

ニュースでHarden氏のこの記事がよく引用されてましたね。就任の際のNYTの狂気じみた社説に騒がずにこれで騒ぐのですか。うーん、どうってことない記事だと思うのですがね。Harden氏の記事ではまともな部類だと思いますけれども。「国家元首」とした誤りは修正されましたが、それ以外に大きな間違いや誇張もないように見えます。といいますか、全部日本のメディアの政治的waiwaiではないですか。みのさんがなぜかお怒りのようですが、朝ズバで今日のけしからん日本記事でもやったらどうですか。おそろしいことになりそうですね。

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ストからデモへ

中川氏辞任「ご本人が熟慮した上での決断」17日の首相[朝日新聞]

与謝野氏頼みの非常事態 苦肉の策の3大臣兼務[朝日新聞]

酩酊の理由については存じませんし、果たして現在の景況やスケジュールを考えてそれが辞任に値する理由だったのかどうかも判りませんが(一般的に言って日本の政治家のみなさん簡単に辞め過ぎませんかね、あるいは簡単に辞めさせ過ぎではないですかね、酩酊大統領や酩酊大臣なんてこれまで国際ニュースで何人も見たような気がするんですけれども)、財務省およびその族議員の抑えとして中川氏の存在に期待している部分があったので-あんまり抑えが効いていなかったという話もありますが-ここで与謝野氏が3大臣兼務という状況にいささか不穏なものを感じてしまいます。景況の悪化とともにスタンスを変更するのかと思いきやここまでの発言と動きを見る限りちょっとヤバいんでないのと危惧してしまいます。大丈夫なんでしょうかね。

"Murakami defies protests to accept Jerusalem prize"[Guardian]

村上春樹氏が親パレスチナの抗議団体の反対にもかかわらずエルサレム文学賞を受賞した件に関するガーディアンの記事。エルサレムまで出かけていってガザ攻撃を批判してイスラエルの読者に感謝するというのは単に辞退するよりはそれはそれで作家のある種の一貫性が感じられて立派な態度なんじゃないのと思いました。またイスラエルは中産階級がいる成熟した民主主義国なんですから氏のメッセージだって通じる層というのは十分にいて、こういう層を絶望させないというのは長期的に見た場合には中東和平にとっても重要なことだと思うのですね。こうした層が国内的に周縁化され、国際報道的にもかき消されてしまうような状況はあまりよろしくないだろうと。

しかし彼らに卵のままでいて欲しくはなくて、みながみなとは思いませんが、その中の賢明で勇気ある人々には是非とも狡猾な蛇となって高い壁を攀じ登って欲しいなとも思うのです。例えば、マイケル・ウォルツァーが今回のガザ侵攻について「均衡を欠いた攻撃」論に反論したことで批判されたり、ウォルツァー・サイード論争が想起されたりしているようなのですが、個人的にはサイードに共感する部分もあったり、また氏の正戦論は一見人道的なようでいて「非道徳的」な現実主義よりもかなり危険なんじゃないのと思ったりするのですけれども、それにもかかわらずそう簡単には氏の言論を否定できないかなと思うのは、例えば、イスラエルのリベラル派や左派への氏のメッセージはこれはこれで判る感じがあったりするからなのですね。ここにあるのはとてもやっかいな問題なんだと思うのですけれども。

"Un nouveau mouvement social ?" by Guy Groux[Telos]

ギ・グルー氏の近年の社会運動についての考察。以下、忠実な訳ではなく要約です。4月29日の強力な社会動員は矛盾した性格を持っていた。一方でここ20年ほどで顕著になってきた特徴があり、他方では真の断絶、新しい要素がある。近年の社会運動はストからデモへの比重の移動があった。1968年には何百万人もの参加するストライキが工場や会社を覆い、CGTが組織する大規模デモが街頭に溢れた。1995年にはストライキはなお公的セクターでは強力だったが、運動はとりわけ大規模なデモによって特徴づけられていた。2003年と2006年にはこの状況は加速し、ストが減り、デモが増えていった。こうした傾向は今回もまた強化された。ストの比率は各セクターで減少し、デモが大規模化している。1968年にはストとデモの間に深い繋がりが存在したが、最近では両者の解離が進行している。かくして今回の運動はここ数十年の傾向に合致するものである。しかし、別の面では今回の運動には1990年代以降の運動とは異なる固有な性格も存在した。まず今回の動員はかつてとは異なり、金融危機、経済危機の文脈で展開した。確かにここしばらくの運動は失業の文脈でなされたものだが、緩慢な経済成長の中で展開したのだった。今回はそうではない。1995年から2006年の運動は特定のテーマについて政府の改革に抵抗すべく組織されたのだが、今回のはもっと包括的なテーマ、すなわち購買力と雇用に関するものであった。要求の特定性と限定性ゆえに直接に交渉することが可能だったのだが、今回は特定の地域やセクターの水準でしか交渉ができない。もうひとつ別の特徴がある。確かにここ30年ほどは失業が慢性的な問題であったし、これを私的セクターにおけるストの後退の理由と考える者がいる。それゆえ私的セクターの雇用者から公的セクターの雇用者に委ねられる「代理スト」という方式が成功を収めたのだった。しかし特定テーマの要求-社会保障のような-については代理ストのような運動もあり得るが、代理の失業というものは存在しない。今回の危機によってまさにこの問題、失業の問題がこれまでとは比較にならない深刻さで提出されているのだ。こうした文脈において組合は大規模な挑戦にさらされるだろう。経済危機と予見される多くの雇用の破壊に対して「私的なもの」の動員が掛け金となった。今日においてもっとも脅かされ、そしてもっとも代弁され、擁護され、動員される必要があるのは「社会の領分」なのだ。代理によってではなく直接に擁護されなくてはならない。4月29日に我々が見たもの、それは1977年のエットーレ・スコラの美しい映画タイトルを用いれば、「特別な一日」だったのだ。

以上、ここ数十年の傾向である「ストからデモへ」は加速している。しかし、今回の動員にはこれまでの個別的かつ具体的な交渉可能性をもつ動員とは異なる面がある。それは雇用および購買力という包括的なテーマに関わるものである。ここしばらくの私的セクターから公的セクターへの代理のような手段でなされた動員とは違うのだ。今回の動員で掛けられたのは「私的なもの」(このpriveは「奪われたるもの」のニュアンスもあるんでしょうね)の非代理的かつ直接的な擁護である、ということです。この記事ですが、大きな見取り図として判り易いのではないでしょうかね。まあ、ストとデモのないパリなんて火事と喧嘩のない江戸みたいなもんですし、大規模デモは今後もどんどん組織されることでしょう。願わくばそこに悲壮な怒りばかりでなく高揚の笑みもまた見られんことを。

追記

微修正しました(2009.2.18)

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抑止が効かなくなる時

"Impairing the European Union, Gibe by Gibe"[NYT]

欧州の内輪もめについてのNYTの記事。記事はフランス対チェコの図式を中心に描いています。「高校生の喧嘩」と評しています(笑 理念的な対立に加えて名誉感情上のぶつかり合いもあるようです。チェコはプライドの高い国として有名だったりしますからねえ。大国と小国、自由主義的経済と国家主義的経済、ユーロ圏と非ユーロ圏、西欧と中欧といった具合に複数の分割線が走っているが、経済危機がこれを悪化させている、保護主義と国家主義の声が強くなり、グローバル・プレイヤーとしての欧州というのも冗談みたいだと。フランスとチェコの最近の確執としてガザ侵攻の和平案をめぐる交渉でのサルコジ氏の独走の話や自動車産業への救済案を提出した際のチェコみたいな国から雇用を取り戻すのだ発言が挙げられています。また財政規律をめぐってフランスやイタリアとドイツやチェコが対立している点も書かれています。チェコの外相の発言が関心を惹きます。

“In a time of economic crisis, we see atavistic instincts emerging,” said the Czech foreign minister, Karel Schwarzenberg, describing the way that individual nations are responding to popular distress by patriotic and protectionist measures and statements and by playing down the unity of Europe.”

“I’m most afraid of the slogans of the 1930s” about the primacy of the nation, he said. “With these problems, people forget about European thinking, and it’s understandable but it’s damaging, very damaging to ignore Europe in a crisis, especially as the crisis grows.”

1930年代みたいに危機に直面した各国が愛国主義と保護主義に訴えて欧州の一致を犠牲にしていると。「隔世遺伝的な本能atavistic instincts」というのは面白い表現です。またフランスみたいに欧州の中央集権化を求める国が愛国主義に走るのは奇妙だとも語っています。記事はチェコの欧州担当大臣の発言を引用して小国の感情にも触れています。

France, Germany and Britain still dominate the European Union and want to continue to do so, said Alexandr Vondra, the Czech deputy prime minister for European affairs. “Occasionally they consult others,” he said, “but of course the people of small countries know this, and that’s why there is hesitation about the Lisbon Treaty,” which would create a permanent European president and foreign minister, and which the Irish have rejected and the Czechs have not yet ratified. “People fear more of this power management.”

優越的な地位を維持しようとする英仏独への反感がリスボン条約への躊躇の理由であると。まあ感情的には判るような気がしますが、こうやってぐずぐずしている場合ではないと思うのですけれどもね。フランスの欧州主義と愛国主義の矛盾は確かにその通りですが、この種の論理矛盾を意志と実用主義で乗り越えるのが政治家というものではないかとも思うのですね。必ずしもサルコ・ファンという訳でもないですし、保護主義は困ると本気で思うのですが、とりあえず提案と挑発を続けるよう期待しているところもあります。

"Japan's Decision for War in 1941: Some Enduring Lessons" by Dr. Jeffrey Record

地政学の奥山さんが紹介していた記事ですが、こうした認識が出てくるのはイラク戦への反省が背景にあるようです。論者のことはなにも知りませんが、戦略論の世界の人なんでしょう、道徳的、イデオロギー問題関心があまり前面に出て来ないためある種の清々しさを覚えます。正義や道義に関心のある人には物足りないかもしれません。要は日米戦争はどちらもやる気がなかったのに双方の判断ミスによって生じたという考えですね。歴史的観点から言って特に目新しい知見があるという訳ではありませんが、アメリカからこういう議論も出てくる時代なんだというある種の感慨はあります。それは必ずしも弱さではなく経験からのフィードバックが効きやすいアメリカという国の強さの証だとも思います。各論部分の分析は紹介し切れないのでパスして、6つの教訓の部分だけメモします。

(1)fear and honor, "rational" or not, can motivate as much as interest.

リアリストは利益計算による権力闘争として国際政治を説明するが、恐怖、イデオロギー、プライドといった要素を無視している。ツキディデスの言う「恐怖、名誉、利害」の前二者だ。石油禁輸措置の断行と代替的選択肢の不在が太平洋戦争を「不可避」にした。恐怖に怯える国家指導者は無軌道に行動する。911テロの後のブッシュ政権のように。名誉は日本の例だけでなく、英国のダンケルク後の開戦決定、フランスのインドシナとアルジェリア、南北戦争時の南軍の例もある。持たざる者はリソースを超えた行動をする。ヴェトナムのように。

(2)there is no substitute for knowledge of a potential adversary's history and culture

互いの文化に無知であったことは開戦にとって重要な要素であった。グルー駐日大使のような例外を別すれば日本については知っている者は米国にいなかった。日本には山本五十六のような知米派が存在したが、多くの指導者、とりわけ陸軍指導者は米国について無知であった。人種的偏見も両国に存在した。日系人を含めて人種差別の歴史を持つ米国では黄色い小さな人々に過ぎなかったし、人種的卓越性を信じる日本人は米国人は長期戦を戦うには物質主義的かつ個人主義に過ぎると考えた。日本はパールハーバーが米国世論に与える影響を理解していなかった。文化への無知は米国の外交政策を蝕み続けている。ヴェトナムとイラクへの無知は日本同様だった。ここで米国の自己過信が他の文化の尊重を妨げているというコリン・グレー氏の言葉を引用しています。

(3)deterrence lies in the mind of deterree, not the deterror

日本の南進に対してローズヴェルトはハワイへの艦隊の派遣、度重なる経済制裁、フィリピンでの軍備増強によって抑止しようとした。米国への勝利はあり得なかったためにこれが抑止になると考えられたのだ。東京が恥ずべき平和よりも負け戦を望んだことを知った時には遅すぎた。石油禁輸は日本には耐えられなかったのであり、従属よりも戦争を選択した。彼らは抑止されたのではなく挑発されたのだ。米国の軍事的卓越が戦争を急がせた。ミリタリーバランスが後戻り不能なまでに不利にシフトする前にできるだけ早く開戦しなければならなかったのだ。

(4)strategy must always inform and guide operations

日本には中国および東南アジアにおいて目標を達成する一貫した戦略がなかった。この戦略の不在は部分的に東アジアにおける野心と軍事的リソースの間のギャップに帰せられるし、また部分的には日本軍の戦争の戦術レベルへのフォーカスに帰せられる。日本は対米戦の戦略を持っていなかったし、いかに戦争を終結するのかの絵柄も描けなかった。初期の戦術的勝利が究極的な戦略的成功をもたらすということを信じていた、あるいは希望していただけだった。2003年のイラク侵攻、とりわけその戦後の計画の不在や兵力とイラク再建のミスマッチを想起させる。いかに古い体制を解体するかの軍事作戦しか考えておらず、後はイラク人は解放を喜ぶだろうといった希望的観測があったばかりだ。

(5)economic sanctioning can be tantamount to an act of war

1941年の石油禁輸は破滅的なものであり開戦を決定づけた。経済制裁が及ぼすダメージは国際貿易に依存する日本のような国にとっては軍事攻撃に匹敵し得る。戦争の代替策としての経済制裁という一般の見方は再検討が必要だ。

(6)the presumption of moral or spiritual superiority can fatally discount the consequences of an enemy's material superiority

卓越した意思が火力や技術で優位の米国を打ち負かすという考えは日本に限った話ではない。毛沢東は人民解放軍の士気が米国を朝鮮から追放すると信じたし、フセインやビン・ラディンはヴェトナム敗戦やレバノンの屈辱を見ていた。より強い敵に直面すると人種や戦略や戦術の卓越性への信仰が強いられることになる。非正規戦のみが強い敵に勝てるチャンスを与えるが、通常は正規戦を戦える能力を得る前に失敗に終わる。毛沢東は非正規戦を正規戦への移行と捉え、正規軍の卓越性を評価した。ヴェトナム共産軍がフランスに勝利したのは正規戦だった。

(7)"inevitable" war easily becomes a self-fulfilling prophecy

戦争は少なくとも一方がそう信じれば不可避のものとなる。日本は東南アジアの欧州の植民地のみを攻撃することで米国との戦争を回避できたが、そのチャンスをつぶした。パールハーバーとフィリピンへの攻撃がなければ、ローズヴェルトがアメリカの選挙民を戦争に賛成させるのは極めて困難、おそらく不可能であったろう。しかし1941年の夏の終わりには日本の指導者のほとんどが米国との戦争は不可避だと考えた。そして最も有利な戦術的な環境下でこれを開始すべく動き出すにつれてそれは不可避となった。不可避であるという仮定が先制攻撃を促し、これを命じすらする。予防戦争というものは不可避性と不利な戦略トレンドという仮定に基づく。ブッシュ政権はフセインとの戦争が不可避であり、核兵器を取得する前に開戦しなければならないと論じた。日本は抑止可能だと誤って考えたローズヴェルトと異なり、ブッシュは核を保有したフセインは抑止不能だと主張した。本当にそう考えていたのかどうかの証拠はないが、明白なのはこの予防戦争のコストが利益に比べて巨大であったことだ。この経験は対イラン戦略に生かされねばならない。

南部仏印進駐が決定的だった点については誰もが認めるところでしょうけれども、ローズヴェルトが日本の南進を経済制裁で抑止できると考えたのは誤りだった、むしろ戦争の引き金を引いてしまったという考えですね。勿論日本を戦争に引き込んだ式の謀略論はとっていません。もっとも論者が述べるようにそのまま南進したとしてもパールハーバーがなければ米国の介入がなかった可能性が高い訳ですから対米戦は「不可避」ではなかったということになるでしょうし、また経済制裁をくらっても実際にはいくらでも抜け道はあったでしょうからやはり「不可避」ではなかったということになるのでしょうね。あの思いつめ方はやはり「恐怖」と「名誉」の要素を無視しては理解不能ということになるのでしょう。

ひとつの論文にすべての論点を網羅することを期待する訳ではないですが、なにか言うとすれば、日本の意思決定プロセスでトップの部分のみに注目していて、海軍内部の派閥抗争や陸軍と陸軍との敵対関係やメディアに煽られて強硬になった世論の要素の分析が薄いところでしょうか。特に世論の動きはアメリカの方はあまり信じたくないかもしれませんが、民主主義国だった訳ですから重要でしょう。それから海洋での戦争の理解はともかく大陸の戦争の理解は怪しい感じがしました。こちらは道義性の問題が前面に出てしまってなかなか正確な像が描けていないのですから現状では仕方がない面があるのかもしれませんが、多分こちらのほうが中東政策にとっては教訓に満ちているように思いますがね。最後に二番目の教訓での主張に反して日本の文化と歴史の理解の届いていない部分があろうかとも思いました。実際にそういう戦時プロパガンダがあったのは事実ですから誤解されるのも無理からぬところがあると思うのですが、違和感のある部分がありましたね。前後から見てdetourと考えているようなので本質主義的な理解をしている訳ではないのでしょうけれども。まあ日本の論者のうちの理性的な部分とは対話可能な人ではないでしょうかね、といった感想を持ちました。

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日本の反ユダヤ主義?

”The 'Jewish conspiracy' in Asia” by Ian Buruma[Guardian]

ガーディアンへのイアン・ブルマ氏の寄稿。この方については日本について論じる左派の中ではわりあい評価しているほうなのですが、率直に申し上げて、このタイミングでこのネタ投じるのかといささか困惑しました。この記事で言うアジアというのは東アジアのことです。またJewsはユダヤ人で通します。以下、翻訳ではなく内容紹介です。

中国のベストセラーはいかにユダヤ人が国際金融システムを操作することで世界支配を計画しているかを描いている。この本は政府高官の間で読まれていると伝えられる。もしそうならばこれは国際金融システムにとってよくないことだ。こうした陰謀論はアジアでは稀ではない。日本の読者もこの手の本に食指を動かしてきた。こうした本は1903年にロシアで刊行されたシオンの議定書のヴァリエーションであるが、日本が出会ったのは1905年にツァーの軍隊を打ち破った後のことである。中国は多くの近代的なアイディアを日本人から受け入れたが、おそらくユダヤ陰謀論もそうだろう。しかし東南アジア人がこの種のナンセンスを免れている訳ではない。マレーシアのマハティール前首相は「ユダヤ人は代理を立てて世界を支配している。彼らは他人を戦わせて自分達のために死なせるのだ」と発言した。フィリピンのビジネス雑誌の最近の記事はいかにユダヤ人がアメリカを含めて自らが居住する国をコントロールしてきたのかを説明する。マハティールの場合には歪んだ種類のムスリムの連帯の観念がおそらくは働いている。しかし欧州やロシアの反ユダヤ主義とは異なり、アジアのヴァラエティーは宗教的ルーツを持たない。中国人も日本人も聖なる人物を殺害したことを非難しないし、実際に中国人や日本人やマレーシア人やフィリピン人のほとんどはユダヤ人を見たことすらない。

それではアジアにおけるユダヤ陰謀論の顕著なアピールをいかに説明するのか。答えは部分的には政治的なものに違いない。陰謀論はニュースへの自由なアクセスが限定され、自由な研究が制限された相対的に閉じられた社会で生き延びるものだ。日本はもはやそうした閉じられた社会ではないが、民主主義の短い歴史を持つ人々ですら見えない力の犠牲者であると信じがちなものである。ユダヤ人は相対的に知られていないが故に神秘的なのだ。そして西洋となんらかの仕方で結びついて反西洋パラノイアの備品となるのだ。どの国も数百年間西洋列強の犠牲となったアジアではこうしたパラノイアが広まっている。日本は正式には植民地化されたことはないが、アメリカの砲丸外交で開国した1850年代以降、西洋の支配を感じていた。

アメリカとユダヤ人を一つにみなすのは19世紀末に遡るが、欧州の反動主義者達は金融の貪欲にのみ依拠する根無し草の社会であるとアメリカを難じた。これは「根無し草のコスモポリタン」の金融屋というステレオタイプと完全にマッチした。それゆえユダヤ人がアメリカを動かしているという考えが生まれたのだ。植民地の歴史の大いなる皮肉のひとつは植民地化された人々が植民地統治を正統化する当の偏見を採用したことにある。反ユダヤ主義は欧州の人種理論とともに到来し、西洋では流行らなくなった後にもアジアで生き延びた。ある意味、東南アジアの中国系の少数派は西洋でユダヤ人が苦しんだ敵対感情を共有してきた。多くの職業から排除されて一族主義と貿易で生き延び、「大地の子」ではないという理由で迫害されてきた。そして彼らもまた金を生むことに関して超人的な力を有すると考えられた。物事がうまくいかないと中国系は貪欲な資本主義者としてばかりでなくユダヤ人同様に共産主義者として非難された。というのも資本主義も共産主義も根無し草性とコスモポリタニズムに結び付けられているからだ。恐れられるのと同時に中国人は誰よりも賢いと賛嘆されている。恐れと畏怖はアメリカ、そしてユダヤ人に対する人々の見方にもしばしば明らかになる。

日本の反ユダヤ主義はとりわけ興味深い事例だ。ニューヨークのユダヤ人銀行家のジェイコブ・シフの支援を受けて日本は1905年にロシアを打ち負かすことができた。したがってシオンの議定書は日本人が疑った事柄を確認したのだ。しかし彼らを攻撃する代わりにプラクティカルな国民である日本人はこうした賢く、強力なユダヤ人を友人にするほうがいいと決めたのであった。その結果、第二次世界大戦の間にドイツ人が同盟国日本にユダヤ人を引き渡すよう求めたにも関わらず、満州国では日ユ友好を祝うべく夕食会がもたれたのだった。上海のユダヤ人難民は決して快適ではなかったが少なくとも日本の保護下で生き長らえた。これは上海のユダヤ人にとってはいいことだった。しかし彼らを生き延びさせたアイディアそのものは今では彼らのことをもっとよく知るべき人々の思考を混濁させ続けているのだ。

以上、アジアではユダヤ陰謀論が受け入れられている、それは宗教的なものではなく無知に基づくものだが、それを支える政治的理由というものがあるという内容です。中国については知りませんので、日本についてのみコメントしておきます。

第一に「反ユダヤ主義」anti-semitismと呼ぶべきなのかどうかがまず疑問です。全体として日本国民にユダヤ人への憎悪があるかと言えばない訳ですし、遠くの話で興味もない訳ですね。にもかかわらず、聞いたことのないような人々の言説を取り上げて書かれたかなりバイアスの強い「日本の反ユダヤ主義」についての本なんてのがある訳ですね。かつてこれで日本批判もありました。しかし、例えば、「フランスの反日主義」についての本だってその辺の素材をランダムにサンプリングして書こうと思えば私でも書けますが、それがミスリーディングなことは言うまでもありません。日本には歴史的にユダヤ人差別は存在しないし、反ユダヤ主義が広汎に存在しているかのように表象することは投影と不当な一般化であるという点はしつこく繰り返さないといけないポイントだと思います。陰謀論マーケットは熱烈な人々の間のごく限定されたものであり、日本でもUFOやオカルトと同じ扱いでまともな議論としては相手にされていないし、三文ライターやネットの陰謀論好きに「日本人」を代表させるのは誤表象でしょうと。勿論こう言ったからといってこの種の言説を是認している訳ではなく有害であり、現状以上に周縁化されるべきだと思います。ちなみにブルマ氏はフルフォード氏をどう理解するのですかね。私には意味不明なんですけれども。

それからユダヤ人に学ぶ金儲けとかユダヤ人に学ぶジョークみたいな本が偏見に基づいているのは事実でしょうが、読者にとっては華僑に学ぶ金儲けやイギリス人に学ぶ資産運用やフランス人に学ぶ恋愛術との間に質的な差異があるとも思えません。読んだことがないので判りませんがね。こういう偏見なり無知なりと憎悪はやはり違うと思うのですね。ついでに無知や偏見ということで言えば、ここで悪意はないけれども偏見のある日本本-残念ながら多くがそうですが-に対して反日主義だ!と糾弾してまわる奇妙さを想像してみればいいと思います。私はこのブログでいろいろケチをつけたりしますが、それはクオリティティーを保つべき責務のある人々だと思うからであってそれ以外に対してはかなり寛容というのか期待水準が低いです。勿論ユダヤ人について正しい知識が日本で広まることは私も願っていますし、まともな本や論文は日本語でもいくらもありますので多くに読まれることを望んでいます。

第二に戦前日本におけるユダヤ人観についていささか単調な記述に見えます。シオンの議定書的な陰謀論を真に受けた人々がいたのも事実ですが、日ユ同祖論に見られるような同一視の(脱)論理もまた存在していたことも興味深い現象として記述すべきではないでしょうかね。西洋列強への恐怖とユダヤ人への共感さらには同一視といういささか倒錯した理路もあった訳ですね。これもいわゆるあやかりの心理ですから、プラグマティックという評価は正しいと思います。ただユダヤ人をめぐる問題は帝国臣民全体の共通の問題関心になったこともない訳ですし、論じていたのは事情通を気取る人々や政策担当者ぐらいなんですからから「日本人」を主語にして語って欲しくないのですね。日本から中国への陰謀論の伝播については面白い論点ですが、どうなんでしょうね。欧州からの直輸入経路もあると思いますが。

第三に明治デモクラシーも大正デモクラシーも昭和デモクラシーも無視して戦後デモクラシーではじめて日本にデモクラシーが開花したかのごとき記述もまたありがちなナラティブでしょうし、また閉じられた社会云々にしても戦前欧州で反ユダヤ主義が吹き荒れたのは欧州が閉じられた社会だったからなのか、黄禍論が吹き荒れたのはアメリカが閉じられた社会だったからなのかという疑問が浮かびます。あるいはブルマ氏はベビーブーマー世代らしく第二次世界大戦以前と以後で歴史を区分し、欧米も閉じられた社会だったと考えているのかもしれません。

では反ユダヤ主義の言説形式でユダヤ人の部分を日本人に置き換えたような言説が1980年代から90年代にかけての欧米の主流メディアを浮上し(今でもネットに残存し)、中国人に置き換えたような言説が2000年代に主流メディアにまで浮上した事実をどう考えればいいのかとか、また現在のアメリカのネットで陰謀論が盛んになっているのはどういうことなのかという問いも浮かびます。私にはむしろ情報技術の発達が新たなる人種主義の可能性をも押し広げているようにも見えるのですが、杞憂でしょうかね。情報の量と多様性が固定観念の解除に貢献するという一般論には同意しますが、その点は過度に楽観的にならないほうがいいと思いますがね。情報量の拡大に対応できずに単純な物語に固着するということもあるでしょうから。

この記事の特にリード文で「西洋」と「アジア」の対比が想定されているのが、あるいはそういう言説を誘発させるリスクがあるのが問題だと思うのですね。つまり西洋は反ユダヤ主義を克服したが(事実ではないでしょう)アジアはまだ克服していない(差別問題そのものが存在しないのに)といった珍妙な責任転嫁の言説として受け止められないかという危惧があるのですね。実際、既にそういう反響をいくつか見たので。愚かな読者の責任を書き手は負うべきだとは思いませんけれども、オリエンタリズムとオクシデンタリズムのリスクに敏感なはずの論者にしては少し脇が甘いように見えました。

誤解を避けるためにいうまでもなく陰謀論のたぐいは有害だと考えていることを繰り返しておきます。ガザに関して騒いでいる極左や極右で暗黒面に落ちているのもいるようですね。軽蔑の眼差しを捧げておきます。我々はそんなものを輸入すべきではない。またあまり真面目に見ていないのですが、主流メディアに対してもやや不満があります。基本的に日本国民はこの問題については他者であり、当事者とは別の認識とアプローチが可能であるはずなのにあちらのメディアのフォーカスの吟味なしにその上で踊るのはどこか滑稽な話だと思います。勿論イスラエルの批判をするなと言っているのではなく、批判的でももっと引いた視線が必要だと思うのです。

ちなみにこの記事のコメント欄がひどいことになっていてかたっぱしから削除要請しておきました。大先生のブログのコメント欄に登場する人も湧いていました(笑 この人達が忠実に反ユダヤ主義の「論理」を踏襲しているのもまた滑稽きわまりない話です。ねえ、友達つくったらどうですか、と忠告しておきますかね。

追記

コメント欄で指摘がありましたが、ガザ侵攻以降の世界の世論動向に関心があってこういう記事を掲載したのでしょうね。特に今、欧州で不穏な空気が漂っているので。それで私にはこの論調に他者への不安の投影を感じるのですね。

エントリを読み直してちょっと過敏に反応しているところがあるのかなという気もしてきました。ただこの話は間歇的にぶり返す傾向があるので困ったもんだなと前々から思っていたのですね。細かい部分での不同意を別にすれば、記事そのものはそれほどおかしな内容という訳でもないです。ただ日本人も、たぶん中国人も大多数にとっては?だと思うんですよね。そしてそういう反応そのものは差別文脈を欠いた地域が世界に存在している証拠でもあるのですから必ずしも悪いことではないと思うのですけれどもね。

細かい表現、誤字等修正しました(2009.2.12)

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滞っているようで

うーむ、国会はなにをやっているのでしょうねえ。前からそうですが、テレビのニュースを見るのがひどく苦痛なのですが・・・

パキスタン支援国会合、日米外相会談で提案へ[朝日]

数日前から報じられていたパキスタン支援国会合の件ですが、日米外相会談で提案される見通しのようです。パキスタンの支援策を主導するというのはよさそうな話ですが、ただ最近のパキスタン関連のニュースを見ているとかなり暗澹たる気持ちになりますね。震源地にならないことを願うばかりです。

それからクリントン国務長官が最初の外遊先に日本を選んだ件ですが、ジャパン・ハンズがいろいろ憶測していましたね。しばらく前から吹っ切れてある意味清々しくなりつつあるObserving Japanはこれを端的に誤りだとしていますが、残念でしたねえ。一言だけコメントすると確かに池田信夫氏は面白いですが、独自路線の方なので毒に当たらないように読まないといけないと思います。ともかくオバマ政権では当面東アジア政策に大きな変更はなさそうです。米中が経済対話で喧喧諤諤やっているこの凪を利用していろいろ手を打つべきだと思うのですが、相変わらず腰が重いです。ふう。

集団的自衛権行使 日米同盟堅持の証し[岡崎研究所]

岡崎氏が集団的自衛権行使に関する憲法解釈の変更を求めています。氏の従来からの主張ですが、手続き論の部分が気になりました。特命委員会の答申を受けて政府が新たな解釈を闡明して、政府答弁を修正、それから関係法令を改正していくという手続きを想定していた。しかし、

最近村田良平元外務次官の論を読んでハタと感じるところがあった。「委員会を設けたこと自体不要であり、不見識とすら感じた。(中略)総理大臣として責任において、日本は集団的自衛権は保有している、しかしその行使は慎重であるべきであり、最終的には総理大臣たる自分が判断すると述べ、もし法制局長官が異議を唱えれば、辞任を求めるべきだ。憲法上日本の総理はその権限を持っている」と。

ということです。そもそも内閣法制局に憲法を解釈する最終的な権限はない訳です。それがこれほどまで権威が与えられたのは55年体制下で安保に関して社会党対策を法制局に任せてきた政府与党の無責任-勿論野党やメディアのほうがはるかに無責任だった訳ですが-によると理解しているのですが、それでいいのでしょうかね。違憲審査に持ち込まれた場合にも最高裁は合憲と判断するだろうと氏は予測しています。要するに首相の決断次第な訳ですね。その際、個別的と集団的の区別をしない自衛権を主張する民主党はどのように反応するのでしょう。「自立性を高めるために」も必要なことだと思うので早いところ決着をつけてバトンタッチしてもらいたいのですが、そんな様子もないですね。

"North Korea may test-fire missile toward Japan: reports"[Reuters]

結局、テポドン祭りにでも便乗するしかないのでしょうかね。交渉に前向きとの報もありましたが、将軍様におかれましては日本の世論対策のために国威発揚の方面しっかりお願い申し上げます。いえ、つまらぬ冗談です。この問題に入り込まない形で同盟国としてできることをやっていくということなんでしょう。ふう。

首相、領土問題最終解決へ交渉 改めて表明[産経]

18日に予定されているサハリンでの首脳会談に向けて北方領土返還要求全国大会で麻生首相が挨拶をした模様です。そう言えば、テレビでも公共広告を流してましたね。記事によれば、エネルギー価格の下落を受けてロシアが擦り寄ってきているように見えるこの間に最終解決に向けて交渉を進めたいと考えているとのことです。関連してガズプロムのLNG供給に関するもありました。ただそういう雰囲気でもないような気もするのですがね。キルギスの基地閉鎖のもあったばかりですし。長いことロシアとの関係は強化したほうがいいと思っているのですが、進展はあるのでしょうか。

政府紙幣 悪循環からの脱出に期待[産経]

しばらく前から日銀批判を始めていた産経新聞の経済論調の変化に注目していましたが、これはおおっとなりました。この辺の発想の柔軟性が産経のいいところです。右翼新聞などと英語圏ではいつも揶揄されてますが、こういう顔もあるんですよー、どういう背景になっているのかは知りませんけれどもね。日銀が十分な緩和をする気がないならば、政府紙幣も考慮せねばなるまいと主張しています。日銀が素直にうんと言う場面を想像しがたい以上、こういう案が出てくるのは特に不思議ではないと思うのですが、「対案なしで」無下に否定する声が大きいようなのにむしろ違和感を覚えます。個人的には積極的に政府紙幣を支持しませんが、牽制球になるのでしょうからその方面におきましては大声で議論を続けるべきだと思います。ただ、そうですね、万が一発行されるとしたら、私自身は「ウラシロ」是清紙幣を是非見たいです。いえ、つまらぬ冗談です。現行と同じデザインでしょうね。

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[B号五十円http://chigasakioows.cool.ne.jp/syouwa04.shtml より転載]

追記

JFが農水省を揶揄していますね。私もあまり農水省ファンではないんですけれどもね、ここってブログでしたっけ?クリティカルでありたいなら本気でやったらどうですか。ごく稀に読ませる記事がありますけれど、常連さんに本当の意味でクリティカルな知性はいないようですね。自らの根拠を揺さぶらないクリティックなんてその名に値しないです。気楽なもんですね。個人的には日本のいわゆる「良心的」な人々が利用されている光景ほどうんざりさせられるものはないんですよね。

再追記

言わずもがなのことですが、これはいわゆる「裏切り者」をめぐる問題系の話ではありません。私は不安な民族主義者ではないですし、政治的すれかっらしを別にすればいわゆる「良心的」な人々に対してさほど悪感情はないんですね。私には彼らは懐かしい人々です。英語圏に彼らの発言の場があることそのものは悪いことではないでしょう。私の嫌悪はそれが公平な第三者のような顔をした、その実、自らのアジェンダを抱えた人々に利用されるような構造にあります。つまりくだらない叩きと真率な自己批判のブレンドぶりが不快なんです。また特定イシューについて意見の多様性を誤表象しないように編集するのが公平な態度というものではないですか。公平なんて知るかというならばそう宣言すべきです。Alternative JapanとかLeftist Journal of Japanとでも名乗ったらどうです。ともかく今の状態は中途半端でミスリーディングです(←文意不明でしたので修正しました)。

ロシア関連の報道がどうも変だ[極東ブログ]

うーむ。なにかぎくしゃくした感じがあるのは確かですが、特定の勢力による横槍というのもありそうな話ですねえ。まあ、私にはとうてい判りませんけれども。

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アマテラスの誕生

アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書) Book アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る (岩波新書)

著者:溝口 睦子
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

神々の居す国に生まれたわりには日本神話の世界への接触が遅れたのはあるいは私がアカの家の出であることと無関係ではないような気もしますが、おそらくは戦後生まれの日本国民の多数にとっても神社参拝の際にへえと思ったりする以外にはこの世界は日常生活からやや遠いのではないだろうかと推察します。大学の同級生でその名すら知らない人にやや衝撃を受けつつも請われてアマテラスとは何かについて説明させられた時に、いや、私もさっぱり知らないぞ、これはちょっとまずいのではないか(汗)、と思ったことからアマテラス関連の文献に目を通すようにはしていました。また或るフランス人とこの神について話したこともありますが、日本好きのブログなどを見ていても、どうも日本に関心のある外国人の日本文化のイメージにとって彼女はひどく魅力的な存在のようですね。日本文化に占めるフェミナンなものの位相がひどくエキゾチックに見えるという話は今に始まったことではないですが、そうしたものを象徴し、要約し、凝縮する記号として映じるようです。まあそういう見方もどうなんだろとは思いますが。岩波新書で新刊が出ていたので紹介しておきます。

本書はアマテラス論であると同時にタカミムスヒ論でもあります。アマテラスはともかくタカミムスヒについては一般的な認知はかなり薄いだろうと推察しますが、日本神話研究に多少の興味を持ったことのある方ならば上古においてはアマテラスではなくタカミムスヒ(高皇産霊)こそ天の最高神、皇祖神に他ならなかったという説が有力であることは御承知かと存じます。天孫降臨神話においてアマテラスとともにあるいは単独で出現するこの影の薄い神の由来について著者は大胆な仮説を提出しています。著者によればタカミムスヒが登場するのは4世紀末から5世紀初頭のことであり、これは高句麗を最大の仮想敵国として国造りを進めるヤマト政権が新しい王権思想を朝鮮半島から輸入した際に創られた神であるということになります。天孫降臨型の神話が朝鮮半島に存在していること、さらには北方ユーラシア世界に起源を有することは以前から指摘されてきた事実でありますが、著者は4、5世紀の東アジア世界の国際情勢の中でこの神の由来を説明していきます。五胡十六国の分裂時代に活発化する周辺地域の国家建設の動きの中で中華世界と北方ユーラシア世界の二重の性格を持つ統一国家として高句麗が立ち現れるが、広開土王の碑に記されたようにこの高句麗との戦争で手痛い敗北を喫したことが倭国に王権の強化への志向を抱かせることになった、この際、強力な統一王権を正統化するのに適当な北方系の天孫降臨神話の骨格が導入されのだ、と。

この競争的模倣説とも呼ぶべき著者の仮説ですが、国内情勢に目を転じるならば、やはりこの時期に倭国に大きな変動が生じているとされます。それは倭国の独自色の強い文化から朝鮮半島の影響の強い文化への古墳文化の劇的な転換、応神王朝論や河内政権論が想定するような政権の動揺のことですが、この変動を対高句麗戦の敗北と関連づけるべきだと言うのが著者の主張です。かくして敗戦ショックで戦勝国を意識しながらの国造りというその後何度か見られたパターンを著者は5世紀前半に見ています。豪族連合的な社会から統一王権体制への転換にはそれを正統化する政治思想が必要であり、それが天孫降臨神話であるという訳です。

タカミムスヒそのものについては、まず記紀神話における天孫降臨の場面の分析からタカミムスヒが主神であるのが古形であり、両神が併記されるのが過渡期であり、アマテラスが主神となるのが最終形であるといいます。また祭祀の面に注目して「月次祭」(つきなみのまつり)が紹介されますが、「月次祭祝詞」によれば「八神殿」においてタカミムスヒを筆頭とする「宮中八神」が皇祖神として祭られていたこと、またこの祝詞にアマテラスの名が挿入されるのが後の時代であることが指摘されます。この天の最高神、皇祖神であるという論点に加えて、神名分析からこの神が太陽神であること、日祀部(ひまつりべ)において太陽神祭祀がなされていたこと、朝鮮半島の神話の神名分析(「解」の語義解釈)から王祖神の名前がタカミムスヒと同型であること、この「孤立した神」にまつわる伝承がきわめて異質であることから外来神であると考えられること等が主張され、支配者は天から降りてきた天の主宰神の子であるという神話を当時の先進思想として導入したという論点を確認しています。

5世紀に怒涛のごとく北方系文化が導入される以前の弥生時代に由来する古層の文化がいかなるものであったのか、著者は手がかりを神話に求めていくのですが、この点について戦後の歴史学の禁忌について触れています。しかし神話は無文字時代の思想や文化、社会や歴史に接近するのに貴重な情報源であり、不可知論はとるべきではないとしています。ここで著者が提示するのは記紀神話の二元構造です。著者によればイザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノヲ~オオクニヌシと続くイザナキ・イザナミ系と天孫降臨神話を中心とするムスヒ系の二つの神話体系が存在し、両者は「国譲り神話」で結合されているとしています。著者によれば、まずムスヒ系建国神話が大王家と王権中枢の伴造氏族により作成され、次にイザナキ・イザナミ系神話が地方豪族によって作成され、第三に後者の主神たるオオクニヌシがタカミムスヒに国の支配権を譲るという神話を挿入して両系統が接合され、最後に海幸・山幸神話、日向神話が後から付け加えられて完成されたといいます。この説によれば豪族を中心に作成されたイザナキ・イザナミ系神話は4世紀以前の記憶の痕跡をとどめているということになります。

この系統の特徴として著者が挙げるのが、中国江南から東南アジア、東インド、インドネシア、ニューギニアに広がる南方的性格、「海洋的」性格、さらに「多神教的」性格です。海に関わる話に溢れていることは一読すれば判ることですが、本書では太平洋の彼方に存在するとされる「トコヨの国」とオオクニヌシとの関係などに触れています。多神教的というのは至高神のいない神々の戯れる世界のことで、4世紀以前の土着の神話世界における神々の王はアマテラスではなくオオクニヌシであったこと、圧倒的な量の伝承を誇るこの「国造りの神」に初期王権の性格が表れていること、天つ神と国つ神の二元構造は5世紀の作為であり、建国神話と分離してこの神を理解すべきことなどが論じられます。各種伝承から倭王が豪族連合の盟主に過ぎなかった時代の王権の姿が、有力神の頭領的存在であるオオクニヌシのイメージに透視されるとしています。

ではこの時代のアマテラスがどのような存在だったのかという点に関しては著者は伊勢地方の有力な地方神であったという直木孝次郎氏の有名な伊勢神宮論に同意しています。また日本書紀の伝承の分析から伊勢と沖ノ島が東国および半島への交通の要衝にあり、沖ノ島の宗像三女神とアマテラスとが神話上親子関係にあること、神功皇后伝説において政治的な役割を担った地方神として登場することなど皇祖神ではないアマテラスについて論じていきます。さらに著者の述べる神話の二元構造に対応して外来の北方系の神々が「連」系の氏グループ、在来の神々が「君」系の氏グループに担われるという分担体制が出来ていたとされます。この分担は「連」の下位の「伴造」系の氏が外来神、「君」系の下位の氏が土着神という具合に中・下の豪族層にも見られること、さらに地方豪族の系譜にイザナキ・イザナミ系の神話が記されていることなどから列島の豪族ネットワークにおいて神話の共有がなされていた事実に注意を促しています。

最後にこの地方の太陽神であったアマテラスが皇祖神、国家神の地位に格上げされるようになったのは律令国家の成立に向けて改革を推進する天武天皇の時代であったといいます。国際的な面から見るとこの動きは中国の文字文化という新しい外来文化を取り入れるにあたって古い外来文化である北方ユーラシアの支配者文化を脱ぎ捨てるという側面、それから圧倒的な中国文明に対して土着の文化で対抗するという側面があったのでないか、あるいは「蕃国」「朝貢国」として遇そうとする新羅への対抗意識の表れなのではないかと一般的に述べていますが、国内的には律令国家化の中での神話の一元化と姓制度の改革という政治課題に答える動きとしてアマテラスの皇祖神化を捉えています。天武による古事記編纂事業において日本書紀とは別のやり方で系統の異なる神話体系が統合され、一元化され、アマテラスが皇祖神の地位に置かれたが、これは一君万民的な世界観を必要とした天武の意向を受けたものであったといいます。また古事記において土着神系の臣、君の尊重と外来神系の連の軽視が見られるが、現実の姓の改革においても旧臣、旧君の尊重と旧連の軽視という古い伝統重視の志向が見られるといいます。かくして現実政治の場面では連系の重要性は疑えないにもかかわらず、文化的に古い層を担う集団に栄誉が与えられた点に著者は天武の政治的深慮を見ています。タカミムヒトのような政権中枢の王族や氏族にのみ奉じられた親しみのない神ではなく信仰の裾野の広いイザナギ・イザナミ系の土着の神のほうが求心力があると判断したのではないかと。古事記については激しい議論がある訳ですが、氏族対策という論点は朝鮮半島と対比させて国内情勢を考える上で極めて重要な論点かと思われます。

以上のように本書は5世紀から7世紀のヤマト政権=タカミムスヒ、7世紀末以降の律令国家=アマテラスと内外の情勢変化に対応して交代する王権を支える神々の系譜を描き出していきます。この枠組みそのものは他の研究者の著作からぼんやりと思い描いていたのですが、本書は壮大な展望の下に極めて詳細にこの交代劇を描き出しています。本書の特徴は神話学的分析と歴史学的知見とを接合する手つきにあります。私は後者の世界にはそれなりに親しんでいるのですが、前者は遠いところから望見している身ということもあって刺激的であると同時にその意見の妥当性について判断する術がないというある種のもどかしさも感じました。著者の説く神話の二元構造を真に理解するには著者の専門書のほうを読まないといけないのでしょう。読んだとしても私の能力を超えているのでしょうけれども。著者も述べているように皇国史観アレルギーに由来する神話を歴史へ持ち込むことへの極度の禁忌も問題だとは思うのですが、一方でやはり神話伝承を歴史的に評価するのは推論と解釈論の巧みさの勝負になりそうでなかなか難しそうだなという印象も受けました。この点で氏族系譜の議論が祭祀の担い手集団という地上に繋ぎ止められた現実の存在を持つだけに興味深く思われました。

文化の多層的、混交的な成り立ちという点に関して言えば、朝鮮半島からの流入を先として中国からの流入を後という風にくっきりと対照的に描いている点は、エクスキューズもあるのですが、やはり問題があろうかと思われました。時期的に影響の濃淡はあったにせよやはり常に既に交渉のあった世界なのでしょうから。個人的に中国南部との関係に興味があるせいかもしれません。それから北方ユーラシア世界や南方的世界や中華世界といった具合に外部世界がいくぶん抽象化され過ぎているような印象も受けました。もう少し特定された名称で論じないとイメージが先行してしまうような危惧があります。それから文化の混交性や多層性を論じるには外来/土着の二分法がやや強く出過ぎているような印象も受けなくもなかったです。同時代人がどう外来的なものと土着的なものを区別、認識していたのかに迫れたらこの枠組みもより生きてくるのかなとも思いました。よく判りませんが、当時にあってはそれもかなり流動的なものに思えます。最後に主権神や唯一絶対の至高神といった用語にいささか違和感を覚えました。主権概念を持ち込むとけこうややこしい議論を誘発しそうであることと神々の階層秩序が成立したとしても多神教には違いないだろうということです。日本語の語感の問題なのかもしれませんけれども、私の耳にはいささか西洋的に聞こえますね。

最後は素人にもかかわらず生意気にも注文じみたことも書いてしまいましたが、本書は明快、平易な文体で読みやすく、異論に対しても公平な姿勢が好もしく、なによりも伊勢神宮の外宮の森にほど近いところで幼少期を過ごされたという著者のアマテラスへの愛が静かに伝わってきますのでこのテーマに興味をもたれた方にはおすすめしておきます。

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アルノルドゥス・モンタヌス「日本誌」の挿絵が楽しい件

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BibliOdysseyで他の挿絵が見られます。17世紀オランダ人にとっての日本。これはなんなんでしょう。仏教なんでしょうけれども、異教の国ですねえ。

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偏りについて

気づいたらこのブログを始めて一年経ったみたいなのですけれども、変わりなく淡々と更新していくことにします。なお自宅のマックが死亡しているためしばらく更新頻度は落ちると思います。ご了承くださいませ。以下最近読んだ日本関連記事をクリップしておきます。

”Celebrating ’Multicultural Japan’ Writings on 'Minorities' and the Discourse on 'Difference” by Cris Burges[ejcjs]

最近の英語圏の日本に関するアカデミックな言説に警鐘を鳴らす記事。以前Japan Focusに掲載されたこの論文と類似した内容の記事を読んでからバージェス氏には注目してきました。とりわけ90年代以降は日本人論批判と文化的多様性称揚がトレンドな訳ですが、それが奇妙な政治的効果を果たしている点については私もここで度々書いてきました。社会的現実から遊離したまま英語圏の論調と日本語圏の論調との間で変な悪循環現象を起こしている点、また英語圏における日本人論批判が、おそらくたいがいの人がそんな議論とはほとんど無関係に生きているという事実にも関わらず、すべての日本人を日本人論の盲目的な信奉者であるかのように表象することでもうひとつの日本人論に成り下がっている点については誰もが気付く問題点だと思いますし、またこののっぺりとした集団として表象される「多数派日本人」という名の想像的な存在に対比されるところのマイノリティー達に関する言説にしても、いわゆるマイノリティー自身の声を本当に反映しているのだろうかとか、個々人をエンパワーするどころかむしろ抑圧的に機能する側面もあるのではないかとか、こうした言説そのものが社会的範疇の創造を行う政治効果(囲い込み効果)を持つことについてやや鈍感なのではないかといった問いもおそらく多くの人が抱くだろうと思います。このあたりの機微について記事は様々な事実を挙げて丁寧に論じています。

まずmulticultural Japanを強調する言説には二重の性格がある点について指摘しています。ひとつは現在もかつても存在した日本社会における多様性を確認する記述的側面と1970年代以降の英語圏における多文化主義的実践が日本において採用されるべきだとする規範的主張の側面が未分離である点です。

Thus, in contrast to the use of 'multicultural Japan' as used to describe social variation, these works have a predictive and prescriptive slant, showing what Japan inevitably will and indeed should become.

それからなにを「差異」の焦点とするのかという点で極端にエスニシティニ-に偏りすぎている点が指摘されます。しかし例えば在日にとってはエスニシティーよりもクラスの問題のほうが大きいという金氏の指摘が引用されているように差異のラインというのは部外者が勝手に引けるものではない訳です。また多様性を強調すべくあらゆるサブカルチャー集団を同等にあげつらう傾向に対してもそれぞれの歴史的経験が無視されているという批判を引用しています。より深刻な問題としては自分たちの言説を日本人論に対抗させることによってこれをむしろ正統化し、強化する結果に陥っているという指摘が重要でしょう。クラマー氏によれば、

[Mouer and Sugimoto] still choose to frame their argument in terms of a debate with the Nihonjinron even though it is the (false) assumptions of this that they are supposed to be attacking…so the Nihonjinron is kept in the foreground of academic debate, especially internationally, by those who deny its legitimacy…Paradoxically the concentration by scholars on the Nihonjinron…has actually succeeded in strengthening rather than undermining the view of Japan as a culturally and sociologically monolithic entity

ということになります。実際、こうした議論の形式は半可通のブロガ-あたりにも伝染しているのですが、ただの藁人形議論になっているのですね。またマイノリティーへの過剰な関心の集中がマジョリティーを捉える視点をおかしくする点についても警告しています。ヘンシャル氏によれば、

[T]he pendulum has now swung too far. Decontructionist literature, while valuable as a counter-balance, has come to occupy a disproportionate role in recent studies in Japan. You cannot properly understand English society by concentrating on French-speakers in the Channel Islands, or on recently arrived Chinese immigrants running fish-and-chip shops in the East End of London. The equivalent is true of Japan and its minorities. This does not mean that such people, minorities, can be ignored….And yet, in any society the vast majority of people generally conform to a range of accepted norms, however much they might differ in gender, age, occupation, and personality profile

それから一枚岩で画一的な国家が抵抗するマイノリティーを抑圧、排除しているといった「陰謀論」に注意しなくてはならないと述べています。実際、「闘争」や「抵抗」がロマン化され過ぎてすべてがヘゲモニーと対抗ヘゲモニーの二項的な関係で解釈されることになっているが、こうした「排除」する国家の像とは異なって、実際には日本でもどこでも「同化」がネーション形成における特徴なのだと。ここで戦前における議論を想起しています。アスキュー氏によれば、

One of the ironies of modern Japanese history is that assimilation was advocated by the egalitarian members of the Japanese enlightenment, thus providing a justification for a wholesale assault on local traditions and customs, while it was the racist social evolutionists who argued in favour of a low-cost form of colonial rule which entailed local autonomy and respect for local customs

といった具合に啓蒙的な平等主義者が同化を主張し、差別主義者が植民地における自治や慣習の尊重を主張していた点に注意を向けています。以下そもそもマイノリティーとは何ぞやという議論になりますが、社会において「差異」がそれとして認知されるプロセスにおける恣意性と流動性が強調され、誰が「エスニック・マイノリティー」なのかも必ずしも自明ではないことを在日やアイヌや沖縄のアイデンティティーの複雑性や内部の多様性やリーダーや活動家の代表性をめぐる問題に言及しつつ論じています。こういうデリケートな問題については特別の利害関係がある訳でもないのに妙に鼻息の荒い英語圏のある種の人々はどうしても理解したくないようですが、現状からさらに一歩でも物事が進むことを本気で期待するならばやはり立ち止まって考えるべき局面にあるように思えるのは私が楽観主義的に過ぎるからでしょうか。

以下論文は産経新聞の記事検索結果から英語圏のアカデミックな言説と日本語圏のジャーナリスティックな言説との間のずれを指摘し、人口データから外国人労働者の存在の限定性を確認しています。以上、英語圏のアカデミックな言説は日本の社会的現実から遊離した観念図式を振り回して誰のためだかよく判らない説教をしているだけではないかという論者の誠実な反省には謙虚に耳を傾けてほしいものだと思います。残念ながらかなり真実だと思いますから。いえ、なんでもかんでもオリエンタリズムの一言で片付けたりはしません。違和感をまったく抱かせない研究者だっていらっしゃる一方で、全体としてどうやら日本に似ているがどこか別の惑星の話に聞こえることがあるのですね。別に日本人に違和感を抱かせないことが日本研究の使命だなどとは思わないですが、ここまでずれてしまうのはやはり致命的ではありませんかね。パースペクティブの違いでは済まないと思います。なおいわゆるマイノリティー・グループに研究が集中しているのは英語圏の日本研究ばかりでなく日本語圏のアメリカ研究などもそうみたいなのですが、これはいったいなにを意味しているのでしょう。日本語圏のアメリカ研究が米国の動向に影響を与えることなどなさそうですけれども、同じような誤りを犯していないという保証もなさそうですね。それから最後になにか言うとすれば、外国人労働者なり移民なりの人口が今後増大したとしても北米的な多文化主義は部分的には取り入れても未来の日本のモデルにはならないだろうと個人的には思います。歴史は飛躍をなさずということで好むと好まざるとに関わらず訛りのきつい翻訳概念で飾られた新しい装いの下に「民族協和的」な理念に近づいていくのではないでしょうかね(「多文化共生」にその響きが聞こえます)。で、たぶん実質的には統合主義的な欧州のどこかの国に似るのではないでしょうかね。まあ未来は誰にも分かりませんけれども。

”The Era of Bullying: Japan under Neoliberalism” by Shoko Yoneyama[Japan Focus]

でこちらは相変わらずのJF的ないじめに関する記事です。データの紹介と類型論あたりはともかく社会評論家風の新自由主義批判は首を傾げざるを得ないです。統制経済下におけるいじめと自由主義経済下におけるいじめについての実証的比較研究なんてものがあるのならば説得力もあるのかもしれませんけれども(たぶん私は説得されなさそうですけれども)、どう考えても学校のいじめとは関係ないネタばかり取り上げてイメージ操作をされてもなあという感想しか出てこないです。いかにいじめを減らすのかとかいかにケアするのかといった実践的関心ではなくて単にいじめをネタに世界に否をつきつけたいのでしょうか。それとも地道な実践をされているのだけれども、書くものはこうなってしまうのでしょうか。ところで謝辞を捧げている方々の中に個人的に許し難いと思っている御仁達が含まれているのですが、この記事の書き手を日本人コラボと認識してもいいのでしょうか。そういう見方は政治主義的に過ぎますかね。ただこの不毛かつ狭隘な言説政治の舞台において自らの声がいかなる機能を担わされるのかに自覚的になって欲しいです。この御仁達の「これは私の意見ではない、ほら、日本人自身が言っているじゃないか」戦略は見え透いていますから。これは日本を別の国に入れ替えても成り立ちます。なお言うまでもなく私は反西洋主義者でも反アングロサクソン主義者でもなくてただ単にアジアやアフリカに張り付いている欧米系左翼の中の「特定の傾きを有する人々」に没落していだくことを祈念しているだけなのですね。

という訳でどうも新年早々筆が走ってやや攻撃的になっているような気もしますが、不機嫌になっている訳ではなくて実に爽快な気分です。わっはっは、どーんと来い、という感じですね。それでは笑って不況の一年を乗り切りましょう。死ななきゃたぶんなんとかなりますさ。

追記

少し修正しました(1・8・2009)。アカデミシャンにはそれでも自制や事実尊重的な態度があるのですけれども、ジャパン・タイムスあたりの論調がこの戯画化になっている訳です。この辺りの機微に敏感な方も少数ながらいるようですけれども、ベタな人はベタですからね。本当を言えば一番困った存在なのは利用しているんだかされているんだか本人もよく理解していないような島国左翼の方々です。なんといいますかね、切なくなります。

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テレグラフもなあ

"Japan’s Historical Memory: Reconciliation with Asia" by Kazuhiko Togo[Japan Focus]
東郷和彦氏の歴史問題についての論考。先の大戦の認識に関する左派と右派の飽く事なき言論闘争がもたらした国論の分裂を克服すべく中道派は結集し、功罪含めたバランスのとれた認識を打ち出すべく自らの立場を強化せよとのこと。前にリンクしたジェニファー・リンド氏の提言に呼応しつつ「アジアとの和解」の道筋を描いています。後者の論点について言えば、国内でゆるいコンセンサスが生まれるまでは下手な動きはすべきでないでしょうね。リンド氏も言う通りこじらせるだけでしょう。国論の分裂状態を克服すべきだという点については誰のためでもなく我が国のためにそうした方向に向けた動きがあってしかるべきでしょうねとは思います。もっとも自由民主主義国においては意見の多様性がある以上は難しい話ですが、言論の世界のあまりに極端な分極化とそこに飽きたマジョリティーの無関心といった事態が進行することは望ましくはないでしょう。新刊は未読ですが、氏の言動の背後に東郷家のパーソナルな歴史をぼんやりと思い描いていたのであるいはそこに触れているのかもしれません。それとこれは如何ともし難い話ですが、私はやはり東郷氏の言うmy generationに属していないので温度差があるような気がします。いや、これは世代とは関係ないのかもしれませんが、できるだけ距離をとって「理解」したいという感じですね。なお英語圏においては左右の極論ばかり紹介される傾向がありますので中道派の声を英語にすることはそれだけで意義があると思います。ともかくこの実務に長けた分厚い層が大人し過ぎるのが日本の言論の世界の最大の問題だといつも思いますね。

"So Now the US is Trying to Emulate Japan's Lost Decade?" by Yves Smith[Japan Focus]
まあこの記事そのものはどうということはないのですが、いつも見ているnaked capitalismのスミス氏の記事がJFに掲載されていたので。アメリカは日本の90年代と同じ運命を辿るのだろうかという疑いを表明しています。いろいろ懸念もありますし、後遺症に苦しむことになるのかもしれませんが、多分アメリカはそうはならないだろうと今でも思っています。なぜこの記事がJFに掲載されたのか考えたのですが、今ひとつよく判りません。ともかくJFはもっと論調を多様化すべきです。読める記事もありますが、少な過ぎます。

"Japan concerned over US relations with China"[Telegraph]
中国海軍のソマリア沖派遣は国内外ともに大々的に報じられていますが、日本の懸念については英語圏ではこの記事が扱っていました。日本はオバマ政権の日本軽視と中国への接近を怖れている、海自の派遣には公明党と憲法の制約といった障害があるといった基本的な事柄が書かれています。ソマリア沖については前からけっこう騒がれていましたし、安全保障関係者は提言もしていたのにあいかわらず日本の動きは鈍いですね。この件に関してインド側のリアクションが知りたいところです。それはともかくテレグラフの日本ページがけっこう無惨なことになっていますね。コリン・ジョイス氏以降はどうにもならないようです。ジョイス氏の告白に書かれたように新米記者がデスクの注文仕事をさせられているだけなんでしょうけれども。そうですねえ、日本にはイエスの子孫もいますけれども、唯一神そのものが存在していますよ、こちらのほうが凄いと思うのですが、取材したらどうですかね、どうなっても知りませんけれどもね。

"Koons reste à Versailles, n'en déplaise à l'héritier de Louis XIV"[Rue89]
ヴェルサイユでジェフ・クーンズの展覧会を開催しているらしいのですが、そこに展示されている「ピンク・パンサー」という作品がフランス王家の子孫の気にえらく障ったらしく訴訟沙汰になっています。この子孫氏はルイ14世とマリ・アントワネットの直系の子孫にあたる人物だそうでその名もドつきのシャルル・エマニュエル・ド・ブルボン・パルム氏というなんとも高貴なお名前です。この獣と熱情的に対話をする女性の表象はご先祖様への敬意を欠いていると上品な口調で憤慨しています。獣姦は古代からそしてアンシャン・レジーム下でも禁止されていた、っていったいいつの時代の話ですか(笑)。ことごとく王家に物事を関連づけないと気が済まないようで、なるほど由緒の世界の住人の方のようですね。ヴェルサイユ城は国有財産だということで訴えは退けられたそうです。

追記
国連総会に同性愛の非犯罪化求める宣言案提出、66か国が賛同[AFP]
「性的指向や性同一性がいかなる状況でも極刑や逮捕、拘束を含む刑罰の根拠とならないよう法的および行政的を含めたあらゆる必要措置を取ることを求める」と謳われた宣言が国連で出されたようですが、日本はアジアで唯一の支持国だったようですね。この宣言に関連した教皇猊下の発言は西洋諸国ではずいぶんと波紋を呼んでいるようです。

"Gay scene: Tolerance, legal limbo"[JT]
同性愛をめぐる日本の状況についての解説と各氏のインタビューの記事。確かに同性愛に対して寛容なのか不寛容なのかよく判らない国ですね。世界に冠たる同性愛文化の歴史を誇り、宗教的原理勢力もほぼ存在せず、ホモフォーブによるヘイト・クライムのニュ−スなども聞こえない訳ですが(多分イメージと違ってフランスでもこういうニュースはあります)、寛容というよりはあまり関心がないといったほうがいいような気がしますね。アイデンティティー・ポリティックスに疲れて日本に来て「解放」されている欧米系の方はけっこういらっしゃるようですけれども。

"It took more than three decades for sexual minorities to begin obtaining rights in the U.S., but Japan does not have any religious restraint," he said. "We just need one small start, which will hopefully trigger a larger movement for the rights of LGBTs."

と記事は締めくくられていますが、法的権利運動となるとどうなるのでしょうか。不必要な敵対的修辞や上から目線の啓蒙的修辞を避けて「まごころ」的アプローチをとれば案外するっといきそうな感じは確かにありますね。これまでの運動が辿った悪いパターンを踏まなければ。

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お疲れ様でした

ここしばらくかなりあたふたしているのですが、とりあえず生来の三日坊主な性格を矯正するためにも—このブログを運営する目的のひとつ—ゆるゆると更新しておきます。

"Six-party standstill"[Economist]
六カ国協議が暗礁に乗り上げたのを受けた記事。英語圏の議論が分裂的になりがちなのでこうした引いた感じの記事はいいですね。そう言えば、日本もなんだか随分と理不尽な叩きを受けてましたね。北朝鮮の相手は誰がやっても難しいのでしょうが、ともかくヒル氏の顔を見なくて済むのは個人的にはありがたいです。将軍様の状況に関して様々な情報が入り乱れていてどうなるのかよく判りませんが、体制がなんとか保たれる限りは膠着状態が続くことになるのでしょうね。まあもう米中間の問題ですから日本としては国内問題の処理や安全保障体制の整備を粛々と進めていく他なさそうです。政治社会言説の再編成も進めないといけないのでしょうが、こちらはもっと時間がかかりそうですねえ。

"Escapee Tells of Horrors in North Korean Prison Camp"[Washington Post]
"Three Kernels of Corn"[Washington Post]
率直に申し上げてBlaine Harden氏はさほど評価していないのですが、WaPoにこの記事が掲載されるのは意味があると思うのでリンクしておきます。脱北者のロング・インタビューです。またこれを受けて北朝鮮の人権問題にもっと関心を向けろという社説です。大量難民を怖れて人権問題に目を閉ざす韓国と核問題に集中して人権問題から目を逸らしている米国を批判しています。アメリカの高校生はルーズヴェルトはなぜヒトラーの収容所行きの鉄道を爆破しなかったのか討論しているが、何世代か後にはなぜ西洋は衛星で把握していながらキム・ジョンイルの収容所になにもしなかったのか子供達に尋ねられるだろうと。私はこの種の歴史的類比はあまり好みませんが、現在の膠着した状況でこうしたメッセージを発する意味はあるのでしょう。

"False god?"[Economist]
朝鮮日報も中央日報も長いこと目を通していないので隣国の状況をさっぱり掴んでいないのですけれども、このミネルヴァとかいう経済ノストラダムス氏による騒ぎについては聞き及んでいました。この記事では民主化との絡みで政権批判の要素を強調していますが、どうなんでしょう、やや不健全な現象に見えます。ネットでの流言がマクロなレベルでネガティブな効果を発揮するという現象ですね。やはり似たところの多い国ですから我が国と比べたくなりますが、社会の細分化が進んでいる分ここまで大きな話にはなりにくいのでしょうか。現在の日本で予言者氏のところに数百万人が殺到するということはなさそうな気がしますが・・・、そうでもないかな、どうなんでしょう。

"Japan, Australia sign cooperation pact"[AFP]
第2回の日豪2プラス2が開催され、「アジア・太平洋地域の安全と安定の促進」が謳われています。他のソースでは防衛情報共有の促進での合意の部分にアクセントが置かれていますが、軍事訓練や将官の交流等を今後さらに押し進めることが確認されたとのことです。防衛情報の共有ということで法制面での調整等もあるようですが、我らが自衛隊の情報管理能力の向上を願います。この記事は両国の外交関係がしばらく冷え込んでいた点について細々と書かれていますが、鯨についてはイデオロギー・イシューを非妥協な仕方で外交に持ち込んだ際にはどういう結果になるのかという問題のひとつの事例として、あるいは英語メディアの言説戦術の読解練習問題としては多少興味がありますが、本音では季節の風物詩ぐらいにしか捉えていないので特にコメントしないでおきます。ところで去年もそうでしたが、一般に日本のメディアの日豪防衛協力への関心の薄さはどうにかなりませんかねえ。アメリカと中国と朝鮮半島だけが世界ではないと思うのですけれども。

"Japan ends five-year Iraq mission"[BBC]
自衛隊がイラクでの任務を終了して撤収することが決定したという話ですが、隊員のみなさまお疲れ様でした。麻生首相が隊員および家族を称える言葉が引用されています。記事では今回の派兵がcontroversialなものであった点を強調していますが、まあそれはいいでしょう。実際、そうだった訳ですから。このたびの貴重な経験は今後の活動に活かされることでしょう。本当にお疲れ様でした。

追記
日豪2プラス2は読売が社説で扱っていましたね。有力紙が一紙も社説でとりあげないのはまずいでしょうから評価したいと思います。

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仏露の接近

"Pourquoi Paris et Berlin ne s’entendent pas sur la relance" by Philip Ward[Telos]
独仏両国の歴史的経験と経済思想の差異に関してフランス人読者に解説する記事。ドイツにおいてトラウマとなっているのは1930年代の大恐慌よりも1920年代のハイパーインフレであること、また現在、英米でルーズベルトが想起されているが、ドイツでは大規模な公共投資がナチスの記憶と分ち難く結びついてしまっていること、それで現在想起されるのがケインズではなくて戦後の奇跡の復興の象徴たるエアハルトであることなどを説明しています。メルケルの演説でも「オルドリベラリズム」や「社会的市場経済」といった戦後ドイツ的な概念が参照されていると。米国的な「無秩序な」規制緩和主義への反発や不況時のケインズ主義的な国家介入への懐疑にこうした歴史的経験があるというのはいかにもそうなんだろうなという気がしますが、なにぶんにもドイツ事情には疎いので正確な解説になっているのかどうかはよく判りません。ともかくドイツ人の思考を理解せずには説得できないぞとのことです。

"Bruno Le Maire, loyal avec Sarkozy mais fidèle à Villepin"[Le Monde]
関連する話ですが、ジャン=ピエール・ジュイエ氏の辞任を受けてブリュノ・ル・メール氏が欧州担当閣外大臣に就任するとこのことです。この記事もそうですが、サルコジ氏のライバルであったド・ヴィルパン派の人物であるという点にメディアのフォーカスがあたっていますが、氏がドイツ語話者であるという点が重要だと思われます。この点については以前エントリに書きましたが、最近冷え込んでいる両国関係を調整するためにぜひともドイツ語能力が必要であるという点は識者によって指摘されていました。外務にも携わっている経歴がありますが、説得役ということで語学能力を買われたという面があるような印象を受けますね。

"Cold War takes gloss off Nicolas Sarkozy's presidency"[Times]
フランスの欧州およびロシア外交に関する記事。独仏関係の冷却化についても触れていますが、ジャン=ダヴィッド・レヴィット氏の発言の部分が重要でしょう。サルコジ氏はギリシアのような第二ランクのメンバーを使って欧州のバランス・オブ・パワーを揺るがしたいと考えていると。随分率直な物言いですね。またEUの議長国の任期切れに合わせてユーロゾーンのチェアマンに就任する事で事実上の欧州大統領への道を目指した試みはメルケル氏の反対で頓挫したが、EU地中海連合のチェアマンの任期はまだ18ヶ月残されていると。最後にロシアについては、

His next plan, not yet announced, is a new “economic and security space” with Russia, Mr Levitte disclosed. Given anger in the West towards Russia's occupation of northern Georgia, European leaders will be surprised to learn that Mr Sarkozy aims to offer a new security pact to Russia and hopes to bring in Ukraine and Turkey.

といった具合に新たなる「経済・安全保障空間」をロシアとの間に設定するプランを提出するつもりのようです。やはり先日のミサイル・ディフェンス批判はレヴィット氏の入れ知恵だったのでしょうかねえ。徐々にパズルの完成形が見えてきました。これではアメリカとの齟齬がだんだん大きくなりそうな予感がしますね。上手く立ち回る自信があるのでしょうけれども。しかし地中海連合にせよ親ロシア外交にせよやはりゴーリスムの伝統は永久に不滅でありますねえ。極東の見物人としてはそうこなくちゃという感じですけれどもね。

以下日本関連記事です。
"Fallout from Pentagon's gaffe spreads" by Kosuke Takahashi[Asia Times]
高橋浩祐氏のペンタゴン報告書をめぐる記事。同報告において北朝鮮を核保有国と記述した点について韓国では騒がれているようです。記事は志方俊之、権鎬淵、李英和各氏や外務省関係者の取材に基づいています。専門家の各氏は核実験は失敗だったのであり、核保有国とは言えないとし、senior officialは

"As the only nation in the world to be bombed with atomic weapons on Hiroshima and Nagasaki [in 1945], Japan can never accept such a policy stance," a high-ranking Japanese diplomat told Asia Times Online on the condition of anonymity. "In addition, Japan upholds the NPT. Also, admitting North Korea as a nuclear state is not a good negotiation tactic. It only benefits Pyongyang. "

と述べたとのことです。日本のメディアがスルーしている理由はよく判りませんが、こうやって英語記事にすることは十分に意味があるでしょう。ところでいつになったら日本のページからAsian Sex Gazetteのリンクバナーを撤去してくれるのでしょうねえ。非常に目障りなんですけど。

"Japan's premiers doomed to failure" by Yasuhiro Tase[Asia Times]
何故日本の首相の任期が短いかについての考察。これは首相個人の資質の問題ではない。アメリカ大統領の資質だって似たりよったりだ。問題は大統領を支えるようなシステムが日本にないこと、また公衆に訴えかけるには専門のスピーチライターが必要だが、日本の首相は生の言葉で語らされている。最後に各メディアが毎月支持率調査をしては騒ぎ立てるが、これは政策ではなく個人のパーソナリティーの投票に過ぎず、これを乗り切れる人間などそういない。それゆえ

As a result, the PM's approval rating falls day by day. The market is sensitive to this figure, leading to drops in the Nikkei Stock Average, which in turn pulls down the PM's approval rating. Japanese politics is caught in a vicious circle. A Japanese prime minister is expected to do an impossible job of implementing policies welcomed by the public, maintain a lovable character and exercise strong leadership on the world stage at the same time. This results in prime ministers with an annual income of approximately 30 million yen (US$325,000) being criticized by TV presenters earning hundreds of millions yen in income as "thoughtless of the public". The day might come soon when no one wishes to become prime minister in Japan.

ということです。元日経の方のようですが、メディアの政局報道への苛立ちが表明されています。日本の首相の任期の短さをメディアにのみ帰責する訳にはいかないと思いますが(明治以来の首相任期を想起しましょう)、ここで言う「悪循環」現象が現在存在しているのは確かだと思います。どうでもいい情報ばかりで本質的な議論を喚起するための素材提供の使命を十分に果たしていないどころか邪魔ばかりしているという印象を受ける人はかなりの数に達するでしょうし、供給サイドでもそう思っている人はかなりの数に達するでしょう。どうしましょうかね。少なくとも一流紙ぐらいは矜持を保って欲しいのですけれども、率先して政局を動かそうと仕掛けますからね。ふう。

"Norms of citizenship law"[Mutantfrog Travelog]
国籍法についてかつて大先生が盛んに流していたデマをとりあげている記事。なかなか考えさせられるコメントもありますね。血統主義と生地主義の歴史的展開の話は本当に複雑なんですよね。お手軽日本人論と結びつけて批判する人は大先生ならずともけっこういますが、そんな単純な話ではないです。ドイツと対比されてよく例に出されるフランスの国籍法についてもそもそも父系血統主義の元祖はナポレオン法典だという重要な事実をスルーしていはいけませんし、フィヒテとルナンの国民概念の対比を国籍法に重ね合わせるのは単なる歴史の無視でしょう。新哲学派の面々は歴史などお構いなしなのだということも忘れてはいけませんし、ルナンという人が悪名高い人種主義者で政治的にも反動派だという事実も省略すべきではないでしょうね。明治日本の国籍法でも血統主義と民族主義とはもともと別物ですし、帝国というものを無視しては国籍法は議論できないでしょうね。この点については私も勉強しないといけませんが、要はイメージで語ってはならないということですね。

おまけ
"Corporate Japan's War Stories" by William Underwood and Mindy Kotler[Far Eastern Economic Review]
Underwood氏とKotler氏の黄金コンビのご登場です。これまでのまとめといった感じで内容はpoorとしか言いようがないものでありますが、彼らの私的な正義の法廷の被告人をCorporate Japanとしているところがポイントです。クリントン時代に見られたような目立った動きはないだろうと予測しますが、まあこの二人の動きはモニターしておいたほうがいいです。Underwood氏は長年麻生氏を付け狙っている自称研究者ですね。またKotler氏の活躍はReconciliation between China and Japanという麗しい名の一方的な日本糾弾サイトで見られます。中国ではなく慰安婦ネタばかり書いているんですけれどもね。善意の人なんでしょう。でもこの人の東アジア史の絶望的な無知には溜息がでますし、ダブルスタンダードが非常に香ばしいです。中でもトルコのアルメニア人虐殺非難決議の際にこの人が見せたダブスタのことは決して忘れないでしょう。日本語読めなさそうですからここに日本語で書いても無意味かもしれませんが、米国の例の決議はあなたが思っている以上に深く持続性のある心理的インパクトを及ぼしていると思いますね。なぜかって。他ならぬ米国だからですよ。普段はなんとも思っていなくとも抑圧された記憶が回帰するという人々もけっこういる訳ですね。自己満足と引き換えになんだか困った人々を増やしてしまったようですね。ふう。文脈をわきまえない善意の介入主義は悲惨な結果をもたらし得るのだぐらいのことは学んで欲しいです。謝罪だの和解儀礼だので平和が実現すると思うほど私はナイーブではないのですけれども、そうですね、ジェニファー・リンド氏ぐらいのリアルな認識も持っていただきたいです。公正と正義を愛するならばマルチラテラリズムでやるというのもあると思いますよ。それがこの地域の大いなる和解につながるとは思えませんが、救われる人も個々にはいるのでしょうから。とっても判りやすいダブスタぶりから見てアメリカン・ナショナリズムを超えることは期待していませんけれどもね。

"Young 'Zainichi' Koreans look beyond Chongryon ideology"[Japan Times]
このブログでは批判的に言及することがありますが、別に私は根っからのJT嫌いという訳ではないです。あまりにも懐かしい論調の記事は別にして日本語のメディアではあまり読めないような記事が掲載されることがあるのは事実ですから。この記事は北朝鮮系の在日の若者の最近の動向を扱ったものです。話には聞いていましたが、イデオロギー離れの傾向は加速しているようです。拉致事件というのは戦後的なタブーを本当に破ってしまった事件だったのだなとしみじみと思ってしまいました。葛藤の中におられるようですが、みなさんに幸いがあらんことをお祈り申し上げます。私にはべき論を語る資格はなさそうですが、一つだけ言えるのは、イデオロギーなんてつまらんもんですよ、本当に、ということです。

追記
少し修正しました。タイトル変更しました(2008/12/16)。

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今さらですが

戦後史のなかの日本社会党?その理想主義とは何であったのか (中公新書) Book 戦後史のなかの日本社会党?その理想主義とは何であったのか (中公新書)

著者:原 彬久

販売元:中央公論新社
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2008年の師走のこの忙しい時期に日本社会党の歴史を個人的に回顧することほど無益なことはまたとあるまいという気もしてきますが、やはり戦後政治史を回顧するにはこの政党を無視することはできません。社会党関係の書籍も折にふれてそれなりに目は通しているのでありますけれども、率直に言って少数を除くと現在の目から見て面白く思えるものはほとんどありません。本書は社会党の通史ですが、戦後政治とはなんであったのかという問題意識に貫かれているため社会党そのものに興味のない人にでも読める内容になっています。明晰かつバランスのとれた記述スタイルで非常に読みやすいですので政治に多少とも関心のある人ならば読んでおいて損はないでしょう。たぶん途中から気が滅入ってくると思いますが。一部だけ紹介します。

現在の目から見るならば、どうしてもあり得たかもしれない戦後史の視点、条件法過去の視点において回顧する他ないのですが、そうした視点から見るならば、やはり敗戦直後から片山政権時代に特に興味を惹かれます。社会党の思想的、運動的水脈は言うまでもなく戦前の無産運動に遡ります。農民労働党転じて労働農民党が分裂した結果生まれた代表的な三つの潮流たる日無系、日労系、社民系、この三派がそれぞれ後の社会党左派、中間派、右派を形作ることになった事実は著者も強調するようにこの党を理解する上で最も基本的な事実として想起されなければなりません。この三派が戦後になっても党内の路線対立や派閥対立の軸をなすことになるからです。日無系は共産党の支配を嫌った労農派マルクス主義者を中心としますが、最終的に社会主義革命を理想としている点では共産主義からさほどの距離はないイデオロギー集団です。次に日労系ですが、総力戦体制と深い結びつきを持っていた集団で岸新党いわゆる護国同志会のメンバーが多数含まれていたことでも知られています。以前紹介した雨宮氏の分類では「高度国防派」と「社会国民主義派」ですね。最後に後に民社党へと分裂することになる右派の社民系ですが、マルクス主義の影響の薄いこの集団のリーダーたる西尾末広が社会党結成の立役者であったこと、当初は社民系と日労系が中心で左派の日無系は少数派であったことが重要かと思われます。

また社会党党首として当初は徳川義親侯爵、さらには有馬頼寧伯爵を党首に担ごうとした点も興味深いです。前者は徳川19代当主にして戦前の軍部右翼の「国家改造計画」への関与で有名であり、後者は大政翼賛会事務局長で鳴らした人物といった具合に初期の社会党は総力戦体制の香りの濃厚な政党であった訳です。かくして結党大会において社会主義者達によって天皇陛下万歳や国体護持の称揚が堂々となされたこともなんら不思議ではありません。最後に党名論争においてマルクス主義階級闘争論に立つ日無系が「社会党」を望み、反共かつ議会制民主主義を重視する社民系が「社会民主党」を望んだこと、階級政党なのか国民政党なのかという問題が既に党名で争われた点が重要でしょう。日本名「日本社会党」英語名「ソーシャル・デモクラティック・パーティー・オブ・ジャパン」という意味不明な—考えてみれば意味深長な—妥協に終わった訳ですが。

戦後初の衆参総選挙で第一党に躍進した結果、社会党、民主党、国民協同党の連立による日本で最初の社会主義政権たる片山哲内閣が成立した訳ですが、著者によれば、戦後的な意味における「革新」を呼号するこの政権が社会党右派主導政権であった点が重要とされます。固定化してしまった社会党のイメージとは大分違っているのですね。第二に経済安定本部、いわゆる「安本」長官に企画院事件に連座した革新官僚たる和田博雄が就任したことは「安本内閣」と呼ばれるほどにこの政権にとって大きな比重をもつ事実であったとされます。個人的に企画院→経済安定本部→経済審議庁→経済企画庁の流れに関心を持っているのですが、安本に集った統制主義の革新官僚や社会主義者の面々にはある種の感慨を抱かされます。最後にここまでGHQの対日占領政策への応答が外交のすべてであったステージを脱して「日米共同防衛」構想を提出した点が戦後史における重要な転換点と評価されています。冷戦の高進にともない芦田外交が始動し始める訳ですが、本書ではガスコイン英代表との会談の内容について芦田メモから紹介されています。ここから伺えるのは後の日米安全保障体制の下絵が社会党右派と保守派の協同によって描かれたという事実です。少なくともこの時期の右派優位の社会党は欧州的社民主義を志向して資本主義陣営との連携を模索していたという点が重要でしょう。

私個人としては社会党の歴史で興味深いのはどうやらこの55年体制完成以前に限定されているようです。ある意味で社会党が最も輝いていた安保騒動については華麗にスルーすることにします。ま、その非現実的な目標は別にして社会運動史的文脈において全否定はしませんけれども。批判はしても全否定はしない主義ですので。また1960年代の構造改革派の江田三郎ブームをうまく利用すれば、欧州的社民主義ないし市民主義政党に脱皮してあるいは党勢を回復することもできたかもしれませんが、原則論において議会制民主主義を否定し、国民の代表たることを拒否している左派優位が決定的になって以降は勝利などあり得なかったという話です。自己改革能力を失って以降の路線対立も派閥争いもその哀れとしか言いようのない外交政策からも学ぶべきものはないでしょう。社会進歩的提言を時にはなしたこと、容共勢力を内部に抱えたことで日米関係強化に逆説的に貢献したことなどを取り分として認めることもできるかもしれませんが、後者は望んだものではないですからねえ。自由党と民主党の二大政党で戦後再出発していたら・・・とか岸信介が右派社会党に入党してあの恐るべき権謀術数で左派社会党を壊滅してくれていたら少なくとも欧州的な保守と社民主義の対立構図にもっていけただろうに・・・とか歴史にifを持ち込んではいろいろ考えてしまいます。

終章の「日本社会党の理想主義」で著者の社会党の評価が端的に示されています。通常の議会制民主主義において当たり前の権力移動システムが機能しなかった理由として社会党の「理想主義」を著者は重視しています。ここで著者は現実主義-シニシズムと理想主義-ドリーミズムの対概念で説明しようとしていますが、要は後者は前者の頽落形態であり、現実との接点を失って主観主義の牢獄に落ち込んだ社会党は心地よいドリーミズムに微睡み続けていた。また議会制民主主義が機能するためには「体制」へのコンセンサスが前提となるが、戦後日本の議会制民主主義はこの点で極めて脆弱であった。米ソ冷戦構造下にあって一方に自由主義、民主主義、資本主義を価値とする日米同盟にコミットする保守陣営がいて、他方に労働者中心の社会主義を標榜して中ソ北朝鮮に憧憬をよせる左派優位の社会主義陣営がいる。ここにおいては政権選択は「体制選択」そのものを意味してしまう。かくして政党Aに国民が不満を抱いているにもかかわらず、政党Bを選択することができない時政治不信は不可避のものとなる・・・

要するに戦後の政治エリートは国民に選択肢を提示することに失敗したということですね。私は別に戦後日本に対して自虐的ではなく胸を張って誇るべきだと思っていますが(「同時に」戦前を否定すべきだとも思いませんが)、やはり政党政治の成熟が遅延してしまったこと、安全保障体制の整備が中途半端に終わったこと、この二つの負の遺産が克服されるべき課題として残されていることは、カオス的な様相を呈している現在の政局を眺めるに日々実感されるところであります。もっともここ20年ぐらいずっと実感されるところな訳でありますが。とほほ。民主党内の元社会党のみなさんも「結党三人男」の精神を思い起こしていただきたいものです。彼らはそこまで愚かではなかったです。

おまけ
"Facing the Past: War and Historical Memory in Japan and Korea" by Gavan McCormack[Japan Focus]
エマニュエル・トッド氏言うところの「構造的反米主義者」—冷戦時代の亡霊—たるマコーマック氏がなにかまた呟いています。この記事そのものは特にコメントに値しないのでスルーします。日本に過去との直面を要求するのもいいですが、その前にあなた自身が自身の過去と向き合って自己批判することを私は待っています。Japan Focusの編集委員のみなさんはなぜこの道義的に疑わしい御仁を批判しないんですか。まあ似たり寄ったりの亡霊がメンバーに含まれていることは承知しておりますから最後のは修辞疑問です。人間ですから間違えることはあると思うのですよ、でもまずその事実を認めるところからすべては始まるのではないですか。それがないからいつまでも変われないんです。Yes, you can! 

"Back to the baths: Otaru revisited"[Japan Times]
ポール・ド.ヴリ氏による大先生の批判。読者欄でも呼応する声あり。ポール氏の「連帯責任」の説明には同意しませんが(アジアでなくとも起こりえる話です)、大先生のダーティーなやり口はもはや周知のところであり、今後も批判の声は高まるばかりでしょう。こんなやり方ではバックラッシュしか呼ばないなんてことは少しでも自国の移民をめぐる状況に真剣に思い悩んでいる人であればすぐに判る事柄です。最近はオバマ政権の誕生が自分の活動の正統性につながるなどといった甘い夢想を抱いているようですが、言うまでもなくそんなことはあり得ません。残念ながら公的に謝罪しない限りはあなたの汚名は消えません。あなたも変わらないといけない。Yes, you can!

追記
一部加筆しました(2008/12/12)。ちなみに社会党右派の指導者にして民社党初代委員長の西尾末広の自伝、それから革新官僚転じて社会党政審会長、国際局長の和田博雄の伝記はいろいろ考えさせられてなかなか面白かったです。特におすすめはしませんが。

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デジャヴュな日々

"Après la démocratie", d'Emmanuel Todd : la société française en crise[Le Monde]
"Europe urged to protect and survive"[FT]
以前「保護主義の声」というエントリで歴史家にして人口学者にして社会学者のエマニュエル・トッドの経済自由主義批判と保護主義の訴えについて少し紹介しましたが、新刊の「民主主義以後」の書評が出始めています。現物は読んでいません。多分そのうち邦訳も出るでしょう。なぜか日本にはファンが一定数いるようですから。私自身は人口学的、家族論的な著作には刺激を受けた記憶はあるのですが、その大仰な口吻の時事的な評論はどうも好みに合わないようです(ちなみに日本には核武装を勧めています)。今度の著作ですが、反グローバリズムの書のようです。それでル・モンドとFTに書評が出ているのですが、奇妙なことにル・モンドがこき下ろし、FTがわりと好意的な評になっています。前者は、こいつは冗談を言っているのかといった冷たい反応ですが、後者は自由貿易主義の議論について問題提起をしている書だというあまりらしくない評です。なにがあったのでしょう。紹介を見ている限りでは、要は、今の世界というのは先進国が中国とインドを経済的に搾取することによって成立しているが、先進国の生活水準の低下と民主主義の機能不全がその巨大な対価である、欧州は英米型の自由貿易主義を袂を分って断固として保護主義政策を採用して中国の労働者との競争から自らの労働者を守らなければならないということのようです。それでフランス政治についてはサルコジはもはや沈める船に過ぎぬアメリカに追従する愚か者で、ロワイヤルの空疎な人気ぶりを見ると社会党ももう駄目だということのようです。またエリート層はもはや革命前の貴族層のごとく傲慢で選挙民の声など無視している。ポピュリズム現象の背景にあるのはイデオロギーと宗教の空洞化であり、反民主主義的なエリート勢力が成長し、イスラム移民を標的にした排外主義を煽って選挙民の不満を逸らしていると。タイトルの「民主主義以後」というのはグローバル・エリート専制みたいなイメージなんでしょうかね。ともかく保護主義によって民主主義が復活し、賃金水準が上昇し、社会的連帯も強化されるということのようです。なんだかひどい論理の飛躍があるような気もしますが、こういう論調そのものは実はフランスではけっこうありふれたものですから、別にいまさら驚きはしません。ただトッドはそれなりに有名な人ですから、それがここまでストレートに保護主義を主張するというのは兆候的な現象に見えます。こうした保護主義の声の高まりを予期し牽制するかのようにVoxEUも反保護主義のE-bookを新たに公表していますね。

"Rencontre historique entre Sarkozy et le dalaï-lama"[Le Figaro]
北京のあいかわらずの強烈な恫喝にもかかわらず、土曜日にグダンスクでサルコジ氏がダライラマ猊下と会談した模様です。猊下は独立を望んでいる訳ではないと述べ、大統領は中国の主権を侵害する意図はないと述べるといった具合にこの会談そのものを過剰にドラマタイズしないように配慮しているようです。かならずしもそうなることを意図していなかったにもかかわらず、行きがかり上すっかり強硬派のような立場に置かれてしまった仏国ですが、ここで会談という展開はなかなか悪くない人権カードの切り方だったのではないでしょうかね。これで両者の仲介役としての役割を果たす資格を得たということなのかもしれませんから、やはり時には根性を見せることも大切なのですね。もっとも中国はあいかわらず恫喝しているようですし、チベット問題についてのフランスの国家戦略はまだよく見えてきませんけれども。

"Devedjian et l'avenir de son ministère"[Le Figaro]
"Hortefeux appelé à devenir le nouvel homme fort de l'UMP"[Le Figaro]
サルコジ氏の盟友にして失言野郎のドゥヴェジャン氏がこのたびUMP幹事長から経済回復大臣に就任したようです。このたびの危機に対応して新設された特命大臣職です。ドゥヴェジャン氏が入閣できずにこぼしていたのは知っていましたが、それほど経済に強いようにも思えませんのでやや意外でした。もっと重視されているポストかと思ったのですがねえ。党務はどうやら移民・国家アイデンティティー相のオルトフー氏が担当することになるようです。あまり我の強くなさそうな氏のことですからこちらはたぶん適任のような気がします。

"Le plan de relance de Sarkozy, toujours très critiqué"[Le Monde]
サルコジ氏が公表した260億ユーロの景気刺激策に対する社会党とモデムの批判の記事です。社会党第一書記のオブリ氏によれば、400億ユーロが銀行に注入されたのにこの景気刺激策は危機のレベルに対応していないとのこと。中道派のモデムのバイル氏もまたドゥヴェジャン氏が担当するこの刺激策は危機のレベルに対応しておらず、この規模では経済機構を再起動させるのには不十分であるとしています。他方、OpinionWayの調査によれば、国民の61%が賛成している模様です。OFCEのグザビエ・タンボー氏はこのプランは不十分なものであり、需要を喚起するにはほど遠いため、第二次の景気刺激策を待たねばなるまいとし、バークレーズのロランス・ボヌ氏はこのプランは「必要」なものであるが、景気後退のレベルに対応しているかどうかは疑問だとしています。この措置そのものは悪くないが、その効果は短期に限定され、家計に信頼を回復させ、投資を再活性化させるかどうかは確かではないと。

"Les économistes pronostiquent déjà un deuxième plan de relance"[Le Monde]
こちらはエコノミストのフィトゥシ氏とアギオン氏の意見を紹介する記事。サルコジ氏の260億ユーロの財政刺激策はケインズ主義の最も純粋な伝統に即したものであり、純粋主義者はこれに拍手を送っていると。OFCEのネオ・ケインジアンのジャン=ポール・フィトゥシ氏はこれは数ヶ月前から考慮していた理想的な刺激策であると激賞しています。これは「1981年以来最も重要な措置」であり、ミッテランが夢見たものをサルコジが実現したと。大部分のエコノミストはこの刺激策の二つの柱—銀行の萎縮により悪化した企業の支援と公共投資の推進—を支持している模様です。しかし別のエコノミスト達は消費と購買力の回復に関して疑問符を付けている模様です。ハーバードで教鞭をとるフィリップ・アギオン氏はアメリカやスペインのような家計に向けた消費と需用の真の刺激策が必要であるとしています。氏によればこの危機は需要サイドの危機であり、典型的なケインズ的状況である、したがって需要を直接に支える対応をなすべきであると。「供給サイドを対象とするフランスのプランは間接的な影響しか持たず、時間もかかるだろう」と。ジャン・ピザニ・フェリー氏は付加価値税の全欧州レベルでの減税を訴えている模様です。なんだか聞いたことのある議論ですねえ(遠い目)。

それから国家公務員の削減計画はアギオン氏によれば狂気の沙汰であるということです。むしろ公共セクターの雇用をつくる必要があると。また自動車産業支援についてはベルナール・マリス氏は必要ではあるが、これが優先的かつ戦略的なセクターであるとは思えないとしています。その他のエコノミストの意見も掲載されていますが、まず必要なことをやってはいるが、これだけでは不十分であり、追加的な経済対策が望まれるというのがコンセンサスのようですね。とはいっても供給サイド重視派と需要サイド重視派で意見が割れているようなのは日本の経済論戦と似ています。マルクスの亡霊がちらちらしているところも含めて。財政均衡主義者の悲鳴も聞こえてきます。

おまけ
"Conservatives, Clientelists, and Koizumians"[Observing Japan]
小泉政権以後の自民党の党内政治の動向をまとめています。第一次近似としては判りやすく悪くない説明なのではないでしょうか。ただ問題は各グループの内部構成と境界線ですね。英語圏の議論でいつも感じるのですが、コイズミアンへの期待から逆算的に勢力地図が表象構築されているという側面はないでしょうかね。コンサバとかクライエンタリストといってもいろいろあると思うのですよ。「保守」の語に込める意味合いもそれぞれなわけでしてね。やはりルネ・レモンばりに明治以来の政治諸潮流に関する総合的歴史の決定版を日本の歴史家が書かないといけないのかもしれませんね。慣用的なラベリングを徹底的に相対化して。そこには目くるめく多様性とともに驚くべき連続性もあると思うのです。いわゆる改革派も含めてです。それはともかく麻生政権がいわゆる上げ潮派を完全排除してしまったのはやはり上手くなかったように思えます。ある程度とりこんでおいて管理しておけばここのところ目立ち始めた離反の動きを最小化できたようにも思うのですがねえ。まあ政局についてはコメントしないでおきます。だいたい政局読みで当たったためしがないですので(笑)。

"Tamp down the old ways" by Hanai Kiroku[Japan Times]
以前靖国問題でアメリカ様に介入を願って泣きついた恥知らずな(別に参拝批判はいいですよ、でも自分の足で立ちなさいということです)元東京新聞のHanai Kirokuさんが、タモガミ・アフェアでまた煽っています。ブログにも書いたように例の論文は問題外であり、また幕僚長の職務にはこの人物は不適当であり更迭されてしかるべきというのが私の立場でありますが、かといってこういう論調にも与するつもりもないのです。

If no action is taken, Japan could start moving back to the age of military dictatorship.

といった個人的妄想を在日外国人に向けて垂れ流すのは止めていただけませんかね。客観的にそういう状況は存在していませんよ。見たでしょう、あのヒステリカルな反応を。それから軍事独裁ってなんなんですか。もしかして東条英機を「独裁者」かなにかと考えているのでしょうか。独裁であったらあるいは日米戦の開戦は回避できたのかもしれませんねえ。本質的に今とさっぱり変わらないですよ。弱い指導者が立っては引き摺り降ろされてとね。キツいかもしれませんが、ピアニストを撃つなというのは個人的にもう止めようかなという気分になっているのですね。まあそれほどの政治的すれっからしさんには見えませんけれども、記者さんのようですからピアニストということはないのでしょうね・・・Baaang!・・・ お元気で。

"Understanding Pearl Harbor"[Guardian]
ガーディアンのEri Hotta氏の記事。米国はパール・ハーバーから熱狂的愛国心ばかりでなく外交の重要性も学ぶべきではないのかという内容です。他者の屈辱感に対して鈍感過ぎるのではないかと。開戦に至る経緯について我々にはごく当たり前の話ですが、英語圏の記事ではあまり見ることはない解説がなされています。要はいまだに頭のおかしな連中が攻めてきたというナラティブですから。Hotta氏はアジア主義と先の大戦の研究をされている方のようです。著書は読んでおりませんが、英語でこうして意見を表明できる日本史研究者が増えることそのものはいいことなのでしょう。ただ本質的に違うがとはことわっていますが、イスラーム・テロリストと重ね合わせるような修辞は危ういのではないでしょうかね。実際、そこからカミカゼ=聖戦士みたいな奇妙なステレオタイプが生じている訳ですから。なおこの論調はフランス語圏の左翼層なら多分それなりに通じると思いますが、英語圏でもガーディアンの読者ならばあるいは通じるのでしょうか。いささか懐疑的なところがあります。

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宿命ですか

"The 'Honne-Tatemae' Dimension in Japan's Foreign Aid Policy Overseas Development Aid Allocations in Southeast Asia"
読んでいて頭が痛くなりました。たぶん善意の人達なんでしょう。批判はいいんですよ、でもこの論文のなにが憂鬱にさせるかというとタイトルからも判るように外国人受けしそうな「文化的説明」を恥ずかしげもなく披露している点です。「本音と建前」論の誕生が実は最近のことらしい(それ以前は言葉の意味も違ったらしい)という「歴史的事実」を知らないようですね。といいますか参考文献にアンチ日本人論やメタ日本人論を挙げているのになんでベタな日本人論を展開しているのか意味不明です。それからずいぶんと理想化しているようですが、諸外国の援助の実態を知らないのでしょうかねえ。日本に必要なのは自己満足を止めて厳密な成果の評価と戦略的視点を導入することだと思います。なお私は「文化的説明」は好みませんが、援助をめぐる戦略性の乏しさという点ではいわゆる「お大尽」志向のほうがイメージ的には説得的なような気がしますね。まあ見直されるべき時期だという点には同意しますけれどもね。

"The Anxiety of Influence: Ambivalent Relations Between Japan's 'Mingei' and Britain's 'Arts and Crafts' Movements"
民芸運動とイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響関係に関する考察。産業主義への反発から英国で生まれたモリスやラスキンらの伝統工芸の復興運動が柳宗悦の民芸運動に与えた影響についての入り組んだ関係を解き明かそうとしています。モリスやラスキンの著書はすぐに翻訳され知識人の世界ではブームとなった訳ですが、柳は民芸運動を日本オリジナルな運動と称して影響関係を認めなかったとされます。論者はこのアンビヴァレンツに西洋コンプレックスとナショナリズムの結合を読み取っています。また柳による朝鮮の民芸の美の発見の眼差しには帝国日本の他者に対するオリエンタリズムがあったとしています(「オリエンタル・オリエンタリズム」)。一方で英国では自己の文化的優越性を維持すべく日本の工芸を「野蛮」視するという冷ややかな態度が一般的であった点を指摘することを忘れていません。最後に西欧への劣等コンプレックスを抱くアメリカにおいては日本の工芸は欧州の工芸に匹敵するものと絶賛されたのことです。西欧コンプレックスを媒介に日米が結ばれるわけですね。いささか図式的な感じもしますが、イメージとしては判らなくもありません。

ただこの論文では近代日本の美的階層秩序の中における民芸が占める位置への言及が乏しいような気がしました。近代日本では「美術」制度は非常に不安定な状態だったわけで近代英国におけるモリスの占める位置とはやはり違うわけですから。またロシアの影響に言及しないのもどうかと思うのですがね。民芸運動というのはトルストイ主義や白樺派運動とリンクしているわけですよね。大正時代の日本帝国をめぐるジオカルチャラルな構図を描くのだとしたら、最大の仮想敵国である一方で知識層が非常に親近感を抱いていたやはり西欧への劣等コンプレックスに苦しむ大国ロシアへの言及は省くべきではないように思いました。あれがないこれがないというのはあまり上等な意見ではないのでしょうけれどもいわゆる大正生命主義に多少興味があるので柳宗悦のもう少しややこしい位置づけをおさえて欲しかったのです。

"Yosano rejects increased public spending"[FT]
"Japanese stimulus will fail, warns minister"[FT]
"Japan shuns role as leader of recovery"[FT]
与謝野氏がFTのインタビューでなにか評論家風の発言をしています。政治家としてこういう場面で正直に持論を展開するのは止めていただきたいのですが、与謝野氏になにを言っても無駄なのかもしれません。政策余地は少ないができることはしていきたいぐらいのことを言えばいいのに、ここで日本はなにもしないぞ宣言を高らかにされてもね。いや、そんなに大規模な財政政策を期待しているわけではないのですが、ここまで頑固だとは思わなかったです。私も見る目が甘かったようですね。ふう。ところで関連記事が3本もあるのはなぜでしょう。財務省からのクレームでもついたのでしょうか。どれも似たような記事に見えますけれども。「宿命論」というのは言い得て妙ですね。意図はともあれこれだと単にもう駄目だとしか聞こえないのですよね。

"German complacency poses a serious threat"[FT]
ミュンヒャウ氏のドイツについての論評。ドイツの欧州協調の拒絶が深刻な脅威となるという内容ですが、ドイツが意固地になっている理由として、ドイツの経済「構造主義者」の癖のある思考(改革はすべてうまくいっている)、歴史的にこうしたスランプに対応する能力のなさ(メルケルは大恐慌時のハインリヒ・ブリューニングと同じ)、最後にメルケルとサルコジの強烈な敵対感情の3つを挙げています。ドイツ経済の沈没もあきらかであり、またドイツがこの路線に固執する限り、欧州レベルでの適切な対応は不可能だ。アメリカの景気刺激策は大規模に過ぎ、欧州の財政刺激策は小規模に過ぎる。ECBの金融政策は限定的な効果しか持たない。最後は例のごとく

The dual problem in the eurozone, and in Germany in particular, is the conviction that all economic policy is structural and that the creation of a single currency is irrelevant to economic policy. The fallacy of those convictions will be demonstrated shortly – at crippling cost.

と暗い見通しを示しています。ところで“We can only hope that the measures taken by other countries ... will help our export economy.”に日本の本音と似たものを感じてしまったのは私だけではないでしょう。

おまけ
"De latrinis Japonorum"[Ephemeris]
エフェメリスで日本の便所のニュースが報じられています。世界に冠たる我が邦のハイテク便所でありますが、ラテン語で関連記事を読むことになるとは思いませんでした。俳句が引用されていますね。

"Fert mihi sola mea in vita latrina calorem."

人生で暖かみを与えてくれるのは我が便所だけだといった意味です。ラテン語になるとなにか違った響きがありますね。ポンペイの壁に遺された古代人の落書きみたいです。

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マグロ食うな

すっかりと冬めいてきましたねえ。私はこの時期がわりと好きなんですよね。というわけでここしばらくなにか生き生きとしているような気がします。

"Geithner a balm for Japan's Clinton trauma"[Asia Times]
Kosuke Takahashi氏のこの記事ですが、新政権における財務長官へのガイトナー氏の就任をめぐる日本側の反応についてよくまとまっています。民主党政権ということでクリントン時代の悪夢を想起する人も多かろうが、そんな心配はいらんだろうということですね。日本語話せるから嬉しいみたいな反応はどうかとは思いますが、確かにサマーズ氏よりはやりやすそうではありますね。前政権からの「変化」の強調には向かないでしょうけれども、GSのポールソン氏よりはこの実務屋さんのほうが受けがよさそうな印象を持ちますが、私はアメリカ国民ではないのでその辺はよく判りません。なお橋本政権時のパッシングについての物悲しいけれどもやはり正しさを含んでいるのかもしれない解釈に軽く頷かされました。どうせまた今後もジャパン・パッシングだの日本の存在感の低下だのといった扇情的な文句がメディアの一部で踊るのでありましょうが、共和党政権のゼーリック氏にだって「パッシング」されていたわけで、この凪を利用して我々は我々がなすべきことを淡々とやればそれでいいのであって、あのニコラ・クリストフ氏とつるんでいる誰かさんがなにを言おうとも涼しい顔をしてスルーすればそれでいいのですね。関係ないですが、記者クラブのよくある批判なんかよりもFCCJ改革の提唱をしたらこの方も評価するかもしれません。そうですねえ、まずはスシ・バーからマグロネタを出すのを止めることあたりから始めたらどうでしょうかね。いえ、勿論冗談です。

"China's cyber warriors a challenge for India"[Asia Times]
同じくアジアタイムズですが、インド側から中国のサイバー・ナショナリズムを警告する記事です。孫子の戦わずして勝つ戦法を紹介して国境問題での心理戦でインド国民が戦意を喪失しないようにする必要があると論じています。インド国民はそんなやわではないような気がするのですがね。というか最近はきなくさい話ばかり聞こえてきますねえ。この記事ではオリンピックの際の反西洋ナショナリズムをとりあげていますが、やはりこっちが本筋なわけですよね、日本は手軽なターゲットということで。逆に西洋メディアが日中対立を強調するのは願望が入っているような気がしますね。このもつれた関係を日本に有利に動かすにはどういう戦略が望ましいのかなかなか難しいところですが、結局、涼しい顔で見物しているのが当面は正しいような気がしてきます。この点で我が国が外国語音痴ばかりなのはあるいは幸運なのかもしれません。ところで前に紹介したサルコジ氏とダライ・ラマ猊下の会談話がサミットへの中国代表の欠席ということでさっそく展開しているようです。中仏の確執ならばまあいいですよね、自己中同士やってなさいと。だいたい砲弾が飛び交ったり死人が出るようなこともないわけでしょうし。まあ他国は最終的にはどうでもいいのであって淡々となすべきことをなすのがすべてに優先ということなんでしょう。

"Obama and Japan’s security policies"[East Asia Forum]
Peter Drysdale氏の岡本氏の提言への論評。前に岡本氏がアジアタイムズに寄稿している記事は紹介しましたが、このブログ記事が言及しているのはNautilus Instituteのサイトに掲載されたほうの記事です。内容はだいたい同じで日本がより自立性を高めることが対米関係を安定させるとして、具体的になすべきことが列挙されています。
(1)在外日本人の保護の能力を高めよ(バングラディッシュなど大使館等在外公館保護のために自衛隊を利用せよ)
(2)復興支援国で援助活動をする民間人保護のために兵員その他を送れ(アフガニスタン)
(3)大量避難や人道救助のための自衛隊の能力を向上させよ
(4)公海における船舶の安全航行を保護する作戦への参加のための恒久法を策定せよ
(5)テロとの戦いへの「言葉での」コミットメントを再び表明せよ
これは難易度はそれほど高くなさそうですが、現在の政治の混迷ぶりを見るとちょっと実現しそうにはないとしています。ただ日本の著名かつ尊敬されている安全保障グルの意見として重要だと。まあこんな風に受け止める人もいるわけですから、やはり英文で公表する意味はありますね。なおDrysdale氏の対北朝鮮政策への論評はやや田中均氏寄りに過ぎると思います。いえ、私は別にもともと強硬派支持者ではないです。が、タカとハトの間にもいろいろなスタンスがあり得ることを知っていただきたいなと思うのですね。

"軍を律する文民統制とは何か 民主国軍と非民主国軍の違い(1)"[NBonline]
吉田鈴香氏の文民統制に関するバランスのとれた啓蒙的記事。スウェーデンに詳しい方のようで具体論の部分は著者の見聞が活かされています。この件で統制主体であるはずの総理大臣と防衛大臣が他人顔をしているのはよくない、またこの問題を政争の具にしようとしている野党の姿勢も筋をはずしている。また日本の政治家は兵士の士気を高める言葉を常日頃から発しなければならない。文民統制が真に機能しているかどうかを判別するのには教育プログラムを見ればいい。軍の質をはかるには「理論教育」「倫理教育」「実戦訓練」「最新鋭装備」の4つの視点から観察すればいいが、この4点が○なのが民主国軍であり、非民主国軍は「理論教育」が△ないし×であり、「倫理教育」は×である。だから危ない。倫理教育とは人権思想の根幹が入っているかどうかだ云々。日本語圏で議論をするとどうしても先の大戦の記憶に左右されてニュートラルにならないこともあってこういう冷静な視点はいいですね。ただ一般論部分はいいとしても、文民統制の具体的なあり方というのは国によってけっこう違うのでなかなか面倒くさいんですけれどもね。

なお文民統制に関するネットソースとしては山田邦夫氏の「文民統制の論点」というpdfは一般論から具体論まで論点が網羅されているのでおすすめしておきます。スミスもハンチントンも読んでいない無学な人間なのでなにも言えませんが、日本の政軍関係史におけるパールマター氏やファイナー氏の見方は興味深いですね。三宅氏や纐纈氏は反論されていますが、実は私もこういう見方に近いところがあります。明治立憲体制は完全に維持されており、言うまでもなく途上国型の軍事独裁などではなかったのですから。いえ、別にだからいいというのではなくて、だから難しいのだと言いたいのです。単に低く見たり悪く言えばそれを克服できると思い込むのは思い違いというやつです。それから文民統制の話になると文官統制とは違う云々という決まり文句が飛び出ますが、ここは政治文化の問題になると思います。行政権の強い国はどこでも文官統制的になっていますし、それも文民統制の一部と理解されているようですから。ちなみにタモガミ・アフェアに関して国会やメディアで叫ばれている文民統制についてはうーむ、という感じがありますね。私みたいな無学者でもなにか変だと思うのですから、困ったものです。シビリアンの側がこれでは軍隊をコントロールできないではないですか。まあ私もぼちぼち勉強することにします。

ではでは。皆様もお元気で。

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封建制をめぐって

封建制の文明史観 (PHP新書)Book封建制の文明史観 (PHP新書)

著者:今谷 明

販売元:PHP研究所
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室町政治史論や天皇論で高名な今谷明氏の新書です。ビザンツに関する著書で最近は比較封建制論に関心をお持ちであることは承知しておりましたが、本書からは著者の新しい関心の在処とともに著者のよって立つ基盤のようなものが伺えます。非常に大きな史学上のテーマを扱っていますが、同時に非常にパーソナルな印象を与える不思議な書です。特定のテーマについての新書としての完成度という意味ではそれはあるいは欠点なのかもしれませんが、私のような読者はある種の感慨を与えられました。封建制についての本というのも最近はあまり見かけませんし、このテーマに関心のない方にも近代日本が過去をいかに捉えたのか、あるいは西洋人が日本の過去をいかに捉えたのかといった事柄について予備知識なしで平易な文体で読めますのでおすすめしておきます。

多岐にわたる話題を同時に扱っているので率直に申しましてやや見通しがよくないのですが、本書は文明論としての封建制と日本の封建制をめぐる言説史のふたつのテーマを同時に扱っています。実際、前者に関しては本書ではそれほど明瞭な像が与えられるわけではないのですが、我が国の近代化にとって封建制の時代は不可欠であった、それなくして日本の近代はなかったという著者の確信が本書を通じて強く伝わってきます。そのヒントとして、モンゴル帝国の進撃を食い止められたのは封建制の確立していた西欧とエジプトと日本のみであった事実(著者は単なる神風原因論を否定しています)、また「東洋的専制主義」のウィットフォーゲルと「文明の生態史観」の梅棹忠夫の説を紹介してユーラシア大陸の内陸ではなくその辺境地域たる封建制を通過した西欧と日本において近代化が展開された事実を重視しています。実際、西欧と日本の歴史の奇妙な平行性について語られることが多いわけですが、著者はこれをグローバルな枠組みの中に位置づけることを志向しているようです。

こうした壮大な文明論の展望が語られる一方で、本書のコアになっているのは封建制の言説史です。日本においては「封建」「封建的」「封建制」等の言葉が概念規定の曖昧なままに多用されたこと、またその言葉に込められた思いや評価が激しく揺れ動いたことが叙述されます。まず概念規定の曖昧さには二重の原因があって、一つは中国の「封建」と西欧のfeudalismの両者の意味の間で混乱が生じたこと、もう一つは西洋の法制史的概念としてのfeudalismと経済史的な発展段階論(ドイツ歴史学派、マルクス主義)の概念としてのfeudalismの混同があったことを上原専禄の所論を紹介して指摘しています。さらにこうした混乱に加えて単なる旧弊や固陋を意味する非難のための言葉として明治および戦後にこの語が使用されたことがこの言葉の意味の過剰を生んだ大きな原因であったとされます。

まず近代以前における封建ですが、勿論これは群県に対するところの封建という中国的意味です。周の時代に王の一族や功臣を地方に分封し、その子孫が世襲をして各地を治めたという古典の記述に倣ったもので、この王の一族による分封は中国的ないし儒教的封建観と呼ばれています。「愚管抄」にせよ「神皇正統記」にせよ「武士の世」という言葉あっても「封建」の語はなく中世で同時代を封建時代と考えたものはいないとされます。しかし江戸時代になると本居宣長を含めた国学者達が大化以前の古代を封建の時代とみなす考えが生まれたといいます。国造が世襲して地方を統治する制度を「封建」とみなすと。さらに日本の中世を「封建」と捉えた最初の例は幕末の頼山陽の「日本外史」で、鎌倉、室町の開幕を「封建の勢」と呼んでいるそうです。

西洋のfeudalismを最初に封建と訳したのは他ならぬ「文明論之概略」の福沢諭吉で明治8年(1875年)のこととされます。福沢は門閥制度=封建制ということで啓蒙家として封建制批判の急先鋒に立つわけですが、著者はここで福沢の封建制攻撃は「為にする議論」であって本音ではないというニュアンスのある解釈をしています。またアカデミックな用法でもないと。なおこの訳語はまだ定着しておらず、法学者の間では「籍土の制」とされていたのが、国会開設の頃までに徐々に「封建制」にとって代わられたそうです。しかし文明開化の反対物としての封建といった民間の議論は別にして、伝説を次々と放逐したことで通称「抹殺博士」と呼ばれた実証史学の重鎮たる重野安繹の見解たる「日本に封建の制なし」が学会の公式見解であったとされます。これが変わるのは20世紀に入ってからで福田徳三、中田薫、三浦周行の三人の巨匠によって日本に封建制が存在したことが主張され、日本中世は封建時代であることになったといいます。ここで言う封建は勿論西洋的なfeodalismの意味の封建で日本と西欧の歴史展開が類似したコースを辿ったという認識が学会で広まったとされます。ここでの封建制は全く中立的な学問的用法であったとされますが、著者はここで開国時には圧倒的に思われた落差が日清日露戦争を通じて急速に接近したという意識が日欧を類似の存在としてみなす風潮として存在したのではないかと推測しています。

ここで学会から目を転じて島崎藤村の文明論が分析されます。西洋熱に浮かされて洋行し、一時はパリの日本人コロニーの主的な存在になるのですが、英国植民地でのコロノストの横暴を目の当たりにするにつれて祖国の運命に思いを巡らせる文明批評家藤村が誕生したとされます。西洋の植民地化に抗することを可能にしたなにか強力な「組織的なもの」はなんだったのかという問いに対して日本に中世があったこと、封建時代があったことを発見するプロセスは平田篤胤の熱烈な信奉者で最後は狂死した父(「夜明け前」の主人公)とのある種の和解を伴ったようです。藤村によれば日本文明とは江戸封建制の遺産の近代化である。こうした見方は明治世代とは異なって断絶ではなく江戸と近代の連続性を重視する立場であったといいます。少し引用します。

幸いにして我が長崎は新嘉堡たることを免れたのだ。それを私は天佑の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力にのみ帰したくない。その理由を辿ってみると様々なことがあろうけれども、私はその主なるものとしてわが国が封建制度の下にあったことを考えてみたい。実際わが国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。(中略)印度でもなく支那でもないのは彼様いう時代を所有したからではないか。今日の日本文明とは、要するにわが国の封建制度が遺して置いて行ってくれたものの近代化ではないか。

こうした封建制の肯定的評価が出現する一方で大正後半にマルクス主義が導入されると再び福沢諭吉同様の封建制害悪説が復活することになります。有名な講座派と労農派の対立(「封建論争」)についても言及されていますが(明治をブルジョワ革命後とみなすのか絶対王政とみなすのかという不毛なアレ)、こうした政治的議論とは別に朝河貫一や上原専禄の学問的業績が生み出されています。

戦後は再び「封建制バッシング」の時代となるわけですが、これは敗戦原因が日本の前近代性の克服の不十分性に求められたからで学会と論壇の両者で「封建」をめぐる言説がインフレーションを起こします。しかしここでも学問的な用語ではなく旧弊や固陋と同意味で「錦の旗のように」使用されたのは明治と同じであり、戦後啓蒙派の丸山真男、大塚久雄、川島武宜等も史的唯物論の影響下にあった戦後史学の言説も同様であったとされます。上原専禄による概念整理の提言が要請されたのは、講座派的な「封建遺制」の克服が社会運動の文脈でも政治課題として取り沙汰されたような沸騰的状況であったとされます。こうした高揚した状況の中にあって駐日大使となったライシャワーは封建主義的なものを経過したことが日本の近代化を促す要因となったと説きます。専制制度に比べて法律的な権利と義務が重視され、商人と製造業者は大幅な活動範囲と保障を得られ、政治権力の外部にあっては身分志向的な倫理観よりも目的合理的な倫理観が重視される傾向があると。これは西洋史ではごく標準的な見方ですが、史的唯物論の支配下にあった当時の学会ではタブーとなる考え方だったといいます。またライシャワーを擁護した西洋中世史学者の堀米庸三は封建制を先行統一国家の崩壊の後に治安秩序を維持するために自然発生的に生まれた不可避の制度であるが、同時に先行的統一への寄生をも要請するとして天皇制度が持続した原因を説明したとされます。こうした冷静な議論が可能になり、1970年代以降は封建制の用語の使用に人々が慎重になる一方でこの語のもつ「イデオロギー性」ゆえに歴史学会でも封建制を語るのを忌避する傾向が徐々に広まるといいます。2004年には保立道久氏が封建制は西欧に固有の制度で日本中世史理解から封建制概念を放棄すべきとする本を出版するにいたって「日本に封建の制なし」に再び戻ったかのようだと述べています。大谷瑞郎氏の批判を引用しておくと、

問題の所在については(中略)きょくたんな言いかたが許されるならば、第二次世界大戦後の日本における歴史学は、「封建」というまじない文句に振廻されてきたとも言えるのではなかろうか。「封建」ということばの安易な用法が、日本についても外国についても、また、近代からさかのぼって古代にいたるまで、歴史の見かたをゆがめてきたと言っても、おそらく言いすぎにはならないであろう。そして、その背景にはいわゆる「単系的発展段階説」が伏在し、それが大きな影響を及ぼしてきたのである。

かくして「日本に封建の制なし」から「日本に封建の制あり」へ、一方では「日本の近代化の原因」、他方では「日本の近代化を阻害する要因」と日本近代史を通じて学会、論壇を巻き込んだ論争を引き起こし続けた封建制ですが、現在は鳴りを潜めている状態のようです。またこれが開国と敗戦の二度にわたる日本の自信喪失の局面で否定的に使用され、そこから自信回復する局面で肯定的に使用されるというパターンを辿った点も興味深く思われます。つまり封建制をめぐる言説史は近代日本が自身の過去にいかに対するのかという態度の動揺をきれいに反映しているわけですね。なお本書ではザビエル以来の西洋人の見た日本と封建制についての言説も日本人の言説の鏡として叙述されているのですが、興味のある方はそちらのほうは購入してご確認下さい。初めて知ったことも多かったですし、個人的に勉強になりました。最後に本書の随所からまた上原専禄氏のobituaryのエピローグあたりからはなにか個人的に伝わってしまったものがあるような気がしますが、一読者として著者が今後もスケールの大きな比較封建制論的視座から新鮮な歴史像を提示され続けますことを期待しております。

追記
大谷氏の批判ですが、状況は例えばフランスも似たようなところがありますね。あちらもマルクス主義が強かったわけで1980年代以降に封建制について語るのになにかしら白けた空気が漂うようになる点も含めて。ただなにが違うのかと言えば、日本の戦後の学会が一色に染まってしまった点ではないでしょうかね。敗戦の心理的ショックに加えて学会におけるネポティズムの問題等いろいろあるのでしょうが、あまりにも支配的論調が硬直的だったせいで、それが倒壊した後にアカデミズムの信頼そのものを一時的に失わせる結果を招いてしまったという点は今後に生かされるべき教訓に思えます。90年代以降の「歴史認識論争」があれほど熾烈かつ不毛なものになってしまった原因はやはりアカデミズムの世界の側にもあったと思います。今のドグマ的な特定論壇の論調を擁護する気はさらさらないですし、先行世代の負の遺産を苦々しく思う現役世代の方々を批判する意図もないのですが(ええと、ゾンビ除く)、戦後のアカデミズムがもう少し健全だったならばたぶんここまでひどい状況にならなかったのでしょうねえ。ふう。

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閉ざされた言語空間

"The ghost of wartimes past"[Economist]
"Japan's revisionist problem"[Observing Japan]
エコノミストの幕僚長氏の更迭に関する記事です。内容はObserving Japanのいくつかのエントリの内容のほぼ引き写しです。ここしばらくのエコノミストの政治ネタのハリス氏のブログへの依存ぶりは普通の参照の度合いを超えていると思いますが、こんなんでいいんですか。まあ経済ネタ以外ははじめから期待していないですけれども。内容については特に言う事はないです。まあこう書かれるよねという見本です。以前のエントリで書いたように例の「論文」の稚拙過ぎる内容を支持できるというのは知的にさらには道徳的にどうかしている人しかいないでしょう。これは右だの左だのとは無関係です。また政治的次元から言えばこの幕僚長氏の自爆行為はこれまで自衛隊が揶揄されつつも必死に築いてきたソフトイメージを壊してしまうものであり、国益侵害的なものであることも忘れてはならないでしょう。自衛隊関係者=右翼みたいなステレオタイプを強化してしまうことは我が国の自縄自縛的な安全保障の枠組みを動かしていく上で障害にしかなりません。先鋭的な人々にはどうしても理解できないようですが、中道層にまでアピールできないようでは自由民主主義国家においてはなにもできないのです。

それとこの記事やハリス氏のエントリにもある日教組批判ですが、元文科相にせよ大阪府知事にせよ結局のところイデオロギー的観点からの批判のようですから拍手をおくる気にはなれないです。現在の学校現場からはひどくかけ離れた存在になってしまっている点で批判されるべきだと思いますがね。またその教育メソッドも意見の多様性を尊ぶ自由民主主義の原則から言って批判されるべきです。ところで英語圏の論調の一部を見ていると多分日教組というのがどういう組織なのかご存じないのでしょう。平和主義の社会主義者ぐらいの認識なんでしょう。で、それが批判されているから平和が危ないみたいな。一言だけ述べますと、戦後の国民的平和志向と平和主義イデオロギーは「別物」です。前者は評価するが、後者はさほど評価しないというのが私の立場です。平穏な日常を愛するという意味での平和志向はやはり日本のよさなんでしょう。後者についてもう少し言えば、死者の記憶が生々しかった時代にはそこにはある迫力があったわけですが、遅くとも1970年代以降は形骸化してしまったと思います。形骸化とイデオロギー化は同じことです。

なぜ「歴史修正主義」が90年代からごく一部の世論ではありますが、大きな声になっているのかですが、彼らは焦っているのでしょう。冷戦終了以降、国際政治がこれほど大変動しているのに、大きな政治にまったく興味を示さない国民と念仏を唱えるばかりで現実を見ようともしない昔ながらの知識人に。勿論彼らの主観的な世界にそう映っているという話であって日教組だの朝日的論調だのは現在のメインストリームなどではないのですけれども。かつて左翼全盛の頃に日陰者としていじめられたルサンチマンがあるんでしょう。また左派やリベラルが安全保障について現実的なことを語れないのが問題なわけです。ここは英語圏であまり理解されていないようですが、戦後民主主義者とか戦後平和主義者とかいうのはニューディラーとは「全然関係なく」てですね、日露戦以降の平和主義思潮の流れを受けていて、ともかくなぜあの戦争を防げなかったのかという反省意識がその起点にあったわけです。あまりにも理想主義的過ぎておまけに冷戦構造の中でアカい風味がついたりして結局奇妙なものになってしまったわけですが。現実政治とメディア、教育界がねじれた状態だったことも英語圏の方々には知っておいていただきたいです。1980年代ぐらいまで「保守」というとひどくやばいイメージが流布されていたんですね。なにしろ「反動勢力」ですから。もっとも国民は社会党には投票しないんですけれどもね(笑)。そこは非常に賢明なんです。なぜこんな昭和の光景を想起しているかと言うと「歴史修正主義」の主導者達は今でもこの時代の世代的記憶に生きているみたいだからです。ある世代以下は判らないでしょう。私はぎりぎり昭和末期の記憶がありますけれども。元号によって時代が変わるという感覚はやはり日本独特ですから英語圏の人には判り難いかもしれませんが、江藤淳の言う「閉ざされた言語空間」が確かにそこにあったのです(彼みたいに占領軍のせいだみたいなことは「プライド」にかけて言いませんが)。平成の世の中になってもなかなかそこから出られなくてもがいているという状況なんだと思います。明治初期の言語空間が江戸後期の言語空間の内部で悪戦苦闘していたようにです。結局、それを終わらせたのは無用の観念論を排したプラグマティズムでしたというのは我々にとってとてもいい話なのでやはり日本の保守派は明治に根拠イメージを持つべきです。「東京裁判史観」とやらと戦っているうちは戦後の内部です。だいたい東条英機なんてあんなつまらぬ人間よりも維新の志士や明治の元勲のほうが格好いいじゃないですか。明るいですしね。

それからハリス氏のいう社会ダーウィニズム云々ですが、帝国主義の時代ではないというのはその通りでしょうが、中国にせよロシアにせよ「19世紀的」な安全保障観の国であることは自明だと思いますし、理想主義的な戦略家はこの点について幻想を持つべきでないと思います。これは単なるゲームの与件であって別に私は反露派でも反中派でもありません。6カ国協議から北東アジアの地域的安全保障の枠組みというアイディアそのものは理解できなくもないですが、ワシントン体制の失敗みたいなことにならないようにそこでは徹底的にリアリズムを貫く必要があるのではないでしょうか。四カ国条約で日英同盟を失った後の日本帝国の漂流の歴史は教訓に満ちていると思います。右派の論壇人みたいにアメリカのせいだなどとは「プライド」にかけて言いませんが、やはり当時の米国の対日政策にはなにか問題があったように思えます。もし地域的な安全保障の枠組みづくりを推進したいならば、各国の世界観について主観的なアプローチもしないといけないと思います。東アジア諸国は伝統的に欧州諸国のような戦略文化、外交文化ではないですからあちらのイメージでやると必ず間違えます。何人かの民主党系の戦略家の意見を読んでいるとなにか途方もない錯誤をしているのではないかと思わされることがあるのです。日本もそうですし中国のことも基本的な事柄すら判っていないのではないかと。

空さんとハリス氏の間の忘却と修正は違うという議論に関して言いますと、単なる忘却ではないでしょうと意地悪なつっこみを入れておきましょうか。誰もが知っているように英米には問題化を防ぐための巧妙な戦術があります。例えばフランスはこの辺のハンドリングはあまり上手ではないようです。もう少し正直みたいです。私はこの賢明さといいますか狡猾さを、不道徳でありますが、たいしたもんだなと思っているのですね。例えば、メディアのレベルでも、日本がアジアのaggressorだという時には(ええ、勿論堂々たるaggressorだと思います)、against Asian countriesまでであって、colonized by Western Powersをさりげなくオミットするとかです。こうすることで自分達を第三者であるかのように切り離すわけです。いえ、お前らも・・・みたいな下品なことは言いません。ただ忘却はdeliberateなものであることだけ指摘しておきます。これは例が悪かったかもしれませんが、英語圏のアジア報道全般にネタの取捨選択のレベルから記述の仕方のレベルまで問題化を防ぐための言説戦術は見て取れます。BBCだろうがインディペンデントだろうがNYTだろうがです。たいしたものです。

だらだらとなにを書いているのかよく判らなくりましたが、もう眠いので投稿しておきます。

追記
「全然関係ない」というのはさすがに言い過ぎでしたね。そこには互いに利用し合うような関係があったわけですから。ただ基本的には彼らも日本思想史の中にいるんだという点を強調しておきます。また論壇がなんでこんなに歴史の議論ばかりしているのかという点については中韓の歴史カードの乱用や右派内部の親米と自立をめぐるジレンマなどについても言及しないといけなかったですね。ただこういう議論は国民の大多数からはかなり遊離したところの空中戦だと思います。そうした努力を無益だなどとは勿論言いませんが、全体として閉ざされた空間の中での白熱に感じられてしまいます。で状況はさっぱり動いていないと。こういうメタに立ったような物言いは偉そうですが(私もその内部にいることは自覚しています)、やはり現実を動かすことのほうが先に思えます。それからこのエントリはエコノミストの記事ではなくてハリス氏のポストに対するコメントです。空さんのエントリも参照しています。誰に向けてどういう文脈で語っているのかここだけ見ても意味不明な文章で失礼しました。

再追記
>例の「論文」の稚拙過ぎる内容を支持できるというのは知的にさらには道徳的にどうかしている人しかいないでしょう。

あちこちのブログを読んでいるうちにやはり少しキツ過ぎる表現かなと思いました。別に一般の人が嫌みたらしいセミプロ歴史家気取りになる必要もないわけですから。「この論文は知的にさらには審美的にかなり深刻な問題を含んでいる」に修正しておきます。制服組トップクラスの人にはもっと戦史や国際法について重厚な知識を期待したくなるのでこんなもんなのかという拍子抜け感があるのです。種々の情報から察するにたぶんいささか風変わりなところはあっても根は国を愛する「いい方」なんでしょう。この職務にふさわしい方だとは思えませんが。政権にダメージを与えることを想像していなかったんですね。ふう。

"Tamogami's World: Japan's Top Soldier Reignites Conflict Over the Past"[Japan Focus]
「昭和天皇」における史料の扱いの杜撰さと解釈の恣意性によってかつて春先の午後の公園のベンチで激しくわなわなとさせられたビックス氏がここで介入ですか、軍国主義の復活ですかと身構えて読んだら随分ぬるくて拍子抜けしました。幕僚長の認識に軽蔑の入り混じった微笑みを見せつつ現状の日本の平和に安堵し、アメリカ帝国主義に敵愾心を燃やす内容です。また米国の後押しで進む平和憲法の骨抜き化を憂いています。天皇裁判がなかったことを悔やむ一方で、米国による都市無差別爆撃と原爆投下を非難し、パール判事と呼応するかのように西洋列強の帝国主義、植民地主義も糾弾しています。まあ左翼としてある意味一貫している人ではあります。確かに一見したところダブスタはない。一貫していればそれでいいのかという話もありますが。ただもしビックス氏が述べるように1945年に皇室制度を廃止して共和政にした場合には戦後日本は第二のワイマール共和国になったかもしれませんね。敗戦後、先帝陛下が強力な統合象徴機能を果たされたことはやはり日本にとって僥倖だったのでしょう。

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変われば変わるほど

「狡(こす)いぞ日銀」[産経]
一般紙はまたスルーかと思ったのですが、産経が今回の利下げについて批判的な記事を掲載しています。産経の経済論調ってこんな感じでしたかね。一言、「狡いぞ」と。中央銀行の政策について一般の人が関心がない(さらに日銀がなにをしているのかも知らない)というのはどうかと思いますのでこうやって記事が出ること自体は多分いいことなのでしょう。でも普通に考えてこういうイベントの時にはエコノミスト達が各紙に論評を寄稿するものだと思うのですが。ところで産経サイトの「小新聞化」傾向は世の中的にはどのように受け止められているのでしょうか。世相への敏感さとある種のアナーキーさが持ち味だったのは以前からそうだったような気もするのですがどこまでいくのかやや心配になります。

“パラオの父”死去 日本軍玉砕のペリリュー島で遺骨収集や慰霊に尽力[産経]
産経らしい記事ということなのかもしれませんが、遺骨収集事業に関しては個人的に思うところがあるので感慨深く読みました。こういう方への感謝を忘れるべきではないですし、また個人で執念深くやっている方にも関心が払われるべきです。本当は政府が動くべきなのであって、こういう部分を怠るから祟られるのだと思います。

"Probing the real Japan"[JT]
国際交流基金賞受賞記念のケネス・パイル氏のインタビュー記事。著名な近代日本外交史家で最近話題になったJapan Risingの著者です。積読ですが、明治期の欧化と国粋のせめぎあいを扱った著書もあります。このインタビューでも著者の基本的な考え方が示されています。長期的な視座からいわゆる政治文化の連続性を強調する議論ですから文句のある人もあるでしょうが、そうした視座にはそうした視座なりの認識利得があるのだろうとは思います。それですべて説明されると困りますがね。

まず日本はその生存のために外的環境の変化にきわめて敏感でなければならないという条件を背負っている国であるという点。長期的なスパンでの外部環境への適応の話です。インタビューにはありませんが、著者によれば、ここから日本の驚嘆すべき「機会主義」の伝統が生まれると。外部からの無原則的な文化の摂取の貪欲さもこの外部環境への敏感さと関わっているわけです。島国は多かれ少なかれそういう傾向があるような気がしますが、これはまあその通りでしょうね。

それから日本の保守的伝統とはなにかという点。日本の保守的伝統は全歴史を通じて一貫している。アメリカは占領時代に日本を民主化し、保守主義を根絶やしにしたと考えたが、彼らは生き残り、今でも権力を握っている、今の内閣のメンバーを見てご覧なさいなと。それで日本の保守とはなにかという点ですが、

And Japanese conservatism is very different from conservatism in, say, Europe, where you have a set of deep-seated conservative principles. Japanese conservatism is pragmatic. It goes with the flow.

欧州の保守のようなプリンシプルズを持たないプラグマティストだ、流れのままに行くと。go with the flowというとなんだか禅みたいです。なんだかんだ言っても私はこういうプラグマティズムの伝統については基本的には尊重していますので、ドグマチックな保守には違和感を抱くのかもしれません。非イデオロギー的な実際家といえどもやはり言葉は欲しいわけでそれを供給する言論の質の悪さに困惑させられてしまうようです。ついでに言っておくとパイル氏によれば日本の保守的エリートは国粋主義だろうが亜細亜主義だろうが自由民主主義だろうが西洋的な意味において「信じている」わけではないということになるのですが、そこまでクールなマキャベリスト集団とまで言えるかなという気もしてきますね。「情」の成分の濃さというのもありますね。

最後に外部から見るとなにをしたくてどこに行こうとしているのかさっぱり判らないが、そこには感知し難いdeliberateな戦略というものがある。インタビューでは、最初に日本に来た頃には戦後の世界情勢への非関与は平和主義や戦争のトラウマによって説明されていたが、そこには戦略の存在が感じられた、永井陽之助教授が「吉田ドクトリン」と名付けたものだが、日本が戦略をもっているということを見つけ出すことが一番エキサイティングだったと語っています。また日本で変化が起こる時にしばしばその急激さで外国人を驚かせるが、それは部分的には我々がレーダーの下で進行している事態について研究していないからだと言います。

The things that are changing — they're there, and when the tipping point comes, whether it's through North Korea deciding to fire a missile over Japan again, or Chinese provocation, or something, or a consensus reached through a political realignment at home — Japan can change very rapidly because those things are there.

those things are thereのフレーズを繰り返しているのですが、お前さんには見えないのかと言いたいのかもしれません。そういうわけで著者はJapan Risingでやはり微細な兆候的な事象から今後は日本が外交的にassertiveになると予測しています。インタビューでは軍国主義云々ではないよと釘を刺していますね。前からそう思っていましたが、このインタビューを読んでいて日本研究というのは暗号解読に近いものがあるんだなとあらためて感じました。また日本研究者の第一世代と第二世代の差について述べているところも興味深かったです。ライシャワー世代に比べるとsympatheticでないということはないのだが、アカデミックなのでもう少しdispassionateだと。個人的にはこのぐらいの距離感がいいようです。それと小沢一郎の高評価がこの人の特徴でしょうね。そこからアーミテージ・ナイ・リポートを批判したわけです。日本がイギリスみたいになるはずがないと。ところでJapan Risingの邦訳がなくて韓国語訳があるという状況はどうなのよと思います。あちらでは日本の野望云々の文脈で受け取られているようですね。とほほ。

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反論では弱過ぎる

"Rudd angered by Gallipoli remarks"[BBC]
日本にとって第一次世界大戦はやはりどこか対岸の火事のように—それが誤りの始めだったわけですが—記憶されている歴史事象でありますが、ガリポリ上陸作戦は後のトルコ共和国初代大統領ケマル・アタチュルクが当時零落の一途をたどっていたオスマン・トルコ側の「反乱将軍」として獅子奮迅の激闘をしたことで有名な戦いです。オーストラリア史には最近まで興味がなかったので恥ずかしながらこの戦いで敗北した側へのインパクトについて知ったのはごく最近のことでした。そういうわけで個人的にとてもタイムリーな記事でした。オーストラリアとニュージーランドのネーション意識形成にとって重要な意味を持つとされるこの戦いの評価をめぐって元首相と現首相の間でちょっとした諍いが生じているようです。記事によると、労働党の元首相のポール・キーティング氏の発言は以下。

Without seeking to simplify the then bonds of empire and the implicit sense of obligation, or to diminish the bravery of our own men, we still go on as though the nation was born again or even was redeemed there - an utter and complete nonsense.

これに対してラッド首相がガリポリはオースラリアのナショナル・アイデンティティーの一部であり、この戦いの犠牲となった兵達はプライドの源泉であり続けると批判しているとのことです。「ナショナリスト」ラッドの一面が出ていますね。記事にもあるように、この戦いで勇敢なアンザス軍兵士が無能な英軍に裏切られたという「伝説」(ママ)が旧宗主国からの独立意識の高揚に大きな役割を果たしたとされているようですね。オーストラリアのナショナル・アンデンティティー・ポリティックスもなかなかに複雑なようでそれが時に不透明に見える動きとなって現れることもあるようです。最近少し勉強し始めたばかりの素人ですのでここではあまり踏み込まないことにします。なお今日はオージー・ビーフをいただきました。牧畜業のポールさん(かどうか知りませんが)には感謝を捧げます。

"U.S. candidates vow to 're-engage' Japan"[Japan Times]
アメリカの両大統領候補の対日政策についてのJTの記事。小泉ブッシュの蜜月時代—首脳同士の個人的関係に依存する—から徐々に齟齬が大きくなっている中で日米関係をどう再定義していくのかは勿論我が国にとって死活的な問題なわけですが、関係者を除くとどうもそういう問題意識が広く共有されているようにあまり感じられないのが困ったものです。それほど濃い内容ではありませんが、ジャパン・ハンズや研究者の声が拾われているので便利な記事かもしれません。個人的にはマケイン氏よりもオバマ氏のほうが日本の国益にとってはいいのではないかと思い始めていますが、これには賛成しない方も多そうな気がします。ただ嬉しいことを言ってくれる相手が必ずしもいいパートナーとは限らないわけで、一部にある民主党アレルギーにはあまり根拠がないように思います。それもある種の対米依存心の現れだといったら叱られるのでしょうか。記事の最後にあるように問題は日本側で政権交代があった場合にどうなるかですね。やはりやらかしてしまうのかもしれません。それが致命的なものにならないことを願うばかりですが、いくらなんでもそこまで愚かではないだろうと信じたいものです。

白川日銀総裁記者会見の一問一答[朝日]

 ──与謝野馨経済財政担当相が利下げに肯定的な発言をして以降、日銀の考えが変わった印象があるが。総裁は政治的な圧力を感じたか。

 「結論から言うと、政治的なプレッシャーを感じたことは全くない。どの委員もそうだが、国会の同意を得て内閣が任命して政策委員メンバーが選ばれるが、いったんこの仕事に就くと、何を一番大事にするかと言うと、自分に託されている仕事をしっかり果たしていくという責任だ。責任は、その瞬間で評価されるのではなく、ある程度の時間を経て経済や金融の姿によって評価される。それだけに、何年何月にこういうことがあったというのは、ほとんどの人は覚えていない。自分が、ここでどういう決断をするかが、将来の金融・経済にどのような影響を与えるか、その一点で判断をしている。例えば、これだけ経済情勢が厳しい中で、政策金利を引き下げてもどれほどの効果があるのか、ということもあると思う。確かに、今、経済の大きな調整を考えると、金利だけで変化するわけではない。一方で、日本銀行は金利政策を委ねられている。自分達自身がアクションに責任を持っている立場であり、そうした立場で何をやるべきかということをギリギリ考えているということだと思う。ほかの委員の頭のなか、感情の動きをわたしが云々する話ではないが、自分の経験からして政治的なプレッシャーがあって、この際、金利を下げようと判断した人は1人もいないと断言できる」

へえ、そうなんですか(棒読み)。しかし金利の上げ下げのたびにこうも方々からノイズが発生するのは本当に困ったものです。日経も・・・。日銀がまるで高い見識をもって政策決定しているがごとく見せることが大切だと思うのですけれどもね。

"So much for the Japanese system of lifetime employment"[Coming Anarchy]
またですね。これほどの責任ある公的地位にある人間がなぜこうも不用意な個人的見解を公表したがるのか理解を絶しています。繰り返しますが、歴史は歴史家に任せろです。この「論文」は読んでいませんが、報じられている限りでは「正論」あたりのサークルの論議とさほど変わらないように見えます。仲間内の談義の臭いがします。この方はまったく存じ上げておりませんが、幕僚長がこの程度の見識では困ります。個々の論点についてコメントしませんが、この手の論調の問題を指摘するならば、それが「反論」でしかない点です。「東京裁判史観」とやらへの反論形式をとっている限りは永遠に脆弱な立場にとどまり続けるでしょう。たとえそこに実証的になにほどかの貢献があったとしてもです。戦後の支配的言説に不満があったとして事実を淡々と積み上げて単純なナラティブに複雑な現実を対置するか、より洗練された複数のパースペクティブを提示していくかのどちらか以外にはなんら生産性はないのであって粗雑な「反論」の形をとった時点で敗北してしまいます。不条理に思えてもそれが現実であることを認識してください。ともかくこういう自爆は百害あって一利無しです。拍手をおくっているむきには暗澹たるものしか感じません。あなた方はすっきりすればそれでいいのですか。政権の動きは迅速で評価に値すると思います。やはり麻生氏は外交に関してはなかなか手堅いようですね。

ではでは〜。

追記
後で読んで舌足らずに感じられましたので追記します。「歴史は歴史家に・・・」というのは単に放っておけという意味ではなくて歴史問題については国際的に通用する学者を養成することが大切だという積極的な意味合いもあります。また不用意な発言に対して批判的なのであって、一切語るべきではないという意見でもありません。ただ余程戦略的に振る舞わないとやられます。メディアも日本語圏以上に英語圏のメディアを意識したほうがいいと思います。もはや主戦場はそちらになってしまっているようですから。次に幕僚長の主張ですが、論点のすべてを全面否定するつもりはないですが、単純な誤謬に溢れていますし、自衛隊のトップクラスの主張としては幼稚過ぎると思います。こんなチープな陰謀論つかまされるなんて。最後に「正論的」論調(ひとくくりにはしませんが)については「東京裁判史観」へのアンチをやっている限り、そこから抜け出せなくなると思うのですね。東京裁判そのものはいくつかの優れた仕事によって既に「歴史化」されているわけですからもはや議論の参照点にしないほうが賢明だろうと思います。またここにこだわりだすと反米主義しか出てこないような気がするのですが。また一部の論者はその悪魔化の修辞の乱用により視点が極度に狭隘化してしまっていて対立する当の相手のイメージもそうとうに奇妙なものになっていると思います。もはやマルクス主義者全盛の時代ではないのです。アンチが強くなり過ぎると対立する当の相手をちょうど裏返したようにしてドグマ化、イデオロギー化してしまうなどとよく言われますが、その見本のような話に思えます。こういう人々に関しては、率直に申し上げまして、左翼イデオローグもろともに没落することを祈っています。

再追記
雪斎氏の軍人勅諭による批判にシビれてしまいました。まあここで226を想起するのはいささか行き過ぎかもしれないとは思いますが。今回の事件には人をして脱力させるなにかが漂っています。なおこの件についてはいろいろ読んでみていくつかの軍事ブログが一番説得的でした。

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サンにはサンの「道」がある

きのこの美味しい季節ですね。あまり真面目なことを考えられる心境でもないので日本関連ニュースとしばし戯れたいと思います。

"Democratic pretension vs. airs of entitlement" by Hiroaki Sato[Japan Times]
「イルカ」と「強制連行」が目玉のジャパン・タイムズですが、この記事はある意味典型的に思えましたので紹介します。柔道の金メダリストの石井選手の「天皇陛下のために戦いました」発言から唐突に三島由紀夫と軍国主義をめぐるいかにも外国人向けの皮相なおしゃべりへと飛躍し、最後はアメリカ大統領の君主的性格を語りつつ民主政の困難に思いを馳せてみるという前後の脈絡の不分明な文章であります。枕だけにしておきますかね。石井選手がどういうキャラクターでこの発言がどれほど不敬な響きを持っているのか判らないようですね。三島由紀夫も草葉の陰で泣いているでしょう。つまりあなたの認識の正反対です。というわけでスタート直後での大転倒、立ち上がってよたよた走り出してみたもののあさっての方向に向かってしまってゴールは出来ずといった走りでした。次回はまっすぐ前方を見てゴールを意識しながら走ることをおすすめします。ところでデスクはチェックは入れないのですかね。

"Japan hangs two more on death row"[BBC]
もはや日本で死刑が執行された時にはBBCがすべて報じてくれるというありがたい仕組みが出来上がっているようでなによりです。私自身のこの問題に対する考えはここでは開陳しないことにします。この記事で特筆すべきは麻生首相がカトリック教徒である点の強調ですかね。写真の下にもわざわざキャプションがついています。教皇猊下は死刑に反対しておられますよと。都合のいいときだけ権威を利用するとははさすがですね。ちなみにBBCさんは就任以来この点を盛んに強調するのでありますが、勿論ここはイギリスではないのです。ブレアがカトリックに改宗した、ふーん、それで?、の国なのです。私個人は英国カトリック史には非常に興味がありますけれどもね。ふふふ。日本ですけれども、どうやら宗教的信念を政治に持ち込まず、善政をなしている限りは、首相がなに教徒でもさほど気にしない(あるいは儀礼的に無視する)人が多い国のような印象を受けますね。印象ですけれどもね。

"North Korean leader 'in hospital'"[BBC]
"Pulses race in Pyongyang"[Asia Times]
キム・ジョンイル氏の病状に関するニュースが世界を駆け巡っていますが、やはり日本には北朝鮮に関するインテリジェンスはあるのですね。どこ発の情報なのか知らないのですが、この記事だとフジテレビになっていますね。ふーむ。フランスでもこの話はけっこう大きく報じられています。普通に考えるとテロ支援国家指定解除との関連を想定したくなりますが、そういうことでいいんでしょうか。どうやら情報戦の最中みたいなので判断は保留しておきますが、いずれ舞台裏が明らかになる日も来るのでしょうかね。

"Plus ça change..."[Observing Japan]
ハリス氏の政局ネタ。民主党は総選挙を求め、自民党は国際的危機を理由にこれを遅延させる。自民党は民主党を国よりも政局を優先していると非難し、民主党は世論を意識しながら政府と時に協力し、時に反対すると。タイトルの「変われば変わるほど・・・(変わらない)」というのは今の政局が福田政権の序盤とまったく同じ構図であることを指しています。この金融危機は自民党にとっては天の助けとなりそうな予感がします。いろいろ書いてはいますが、経済の見通しについてはさほど悲観的ではありません。しかしいったいいつになったら政権交代のチャンスはやってくるのでしょう。民主党はどんどん魅力に乏しくなっていきますしねえ。困ったものです。

"Heroes""Instant Karma"[Shisaku]
ホテルのバーだのカップラーメンの値段だの「庶民感情」からの乖離ネタが日本のメディアでは流行っているようですが、幸福な国だなあとしみじみと思います。グローバルな阿鼻叫喚の中にあってやはりのほほん教徒の国ですね。いいえ、これは本当に日本の強さだと思うんですよ。ところでジャコバン派の記者が「庶民」であろうはずもないことぐらい当の「庶民」が知らないとでも思っているのでしょうかね。また隣家の庭の小さな変化は気になっても一国の宰相の小さな贅はさほど気にしないのがいわゆる「庶民」らしいあり方のような気もしないではありませんが、あるいはジャコバン派には気にいらない認識なのかもしれません。私はアカの家の出なものでこのあたりの自己欺瞞には幼少時からとても敏感なんですね。ちなみに私はカップラーメンの値段を知らない麻生氏は嫌いではないですが、秋葉原で媚びを売っている麻生氏はあまり好きではないです。コメントは別にShisakuさんに向けたものではないです。

"Exclusive: Killer of Lindsay Hawker, teacher buried in bathtub, 'commits suicide'"[Times]
"Sympathy turns to scepticism as courtiers whisper princess does not do her duty"[Times]
パリー氏が日本に戻ってさっそく飛ばしています。あのー、この人のソースは週刊誌と2chみたいですのでこれをネタにwaiwaiしてもあまり意味ないと思いますよ。縦を横にしているだけです(本人は日本語読めないようですが)。ちょっとシニカルな味付けをして一丁上がり。楽な商売ですよね。それにしても市橋容疑者自殺断定報道は飛ばしましたね。警察の否定を受けて本人はブログで言い訳をしているようですが。それとどうでもいい話ですが、タイムズが「高級紙」である点を妙に強調して報じているのにはやや違和感があります。いったいいつの時代の話ですかね。俗に「東スポのほうがなんぼかまし」という言い回しがありますけれども(ない)、こういう中途半端な新聞よりはサンのほうが潔いだけなんぼか好もしいですね。

それではみなさまも秋の深まりを楽しみましょうぞ。

追記
ジャパン・タイムズのエッセーですが、本当を言うと、私を苛立たせたのは石井君の話ではなくて三島由紀夫と久野収の粗雑な扱いです。どちらももっと複雑な人達であってこういう平板な図式に収めるべきではないと思うのです。左派は平板な市民派のイメージから離れて久野収をちゃんと読むべきだと思います。この人の右翼認識はなかなかのものです。だいたいこのエッセー、英語圏の三島幻想に媚びているのが不快なんですよ。三島氏の思う壷ではないですか。言っている意味わかりますかね。

また「庶民感情」の話は左派メディアばかりでなく右派メディアも騒いでいたのですね。ふう。こちらは松平定信症候群でしょうか。どちらにしても政治家に過度な清廉潔癖を要求する風潮は好まないですね。青年将校を焚き付けていた頃から進歩がないです。だいたい景気後退なんですからお金持ちのみなさんに消費していただかないと我々も困るではないですか。

なにを思っていたのか、タイムズを「雑誌」と書いていましたので直しました。ところでパリー氏はわりと人気者(?)なのですねえ。まあ言い過ぎだとは思いますが、ここしばらくのタイムズには苛立たされる傾向があるのですね。欧州ネタはまあいいんですけどね。

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声が小さい

東欧の経済状況の悪化ぶりについて書こうかと思ったのですが、もう少し調べてからにしようと思い直して以下最近の英語圏のJapanネタをクリップしておきます。

"Will Japan Go Nuclear?" by Robyn Lim[Far Eastern Economic Review]
ねえ、最低限ググって調べてから投稿したほうがいいんじゃないという他のまともなメンバーの無言の抗議と冷ややかな視線を全く気にしないその傍若無人ぶりで名高いNBR常連のロビン・リム氏の記事。関係ないですが、NBRって無知で傲慢な人間達を少数のエキスパートが教え諭す場なんでしょうか。この記事は地政学の奥村さんのところのその著書についてのコメント(ふーん)つきのエントリから。このたびのテロ支援国家指定解除が日本の核武装への道を開くだろうと警鐘を鳴らす内容です。どうもまったく思わぬところから援護射撃(?)が来たようで、まあ、危機を煽っておいてくださいな。誰かに対する牽制になればいいんじゃないですかぐらいですね。

"Japan as Spoiler in the Six-Party Talks: Single-Issue Politics and Economic Diplomacy Towards North Korea" by Maaike Okano-Heijmans[Japan Focus]
Japan Focusということでどうせまたアレな記事だろうなと思っていたらなかなか精密な分析で感心しました。そう言えばこの論者は前にどこかで読んだことがありましたねえ。日本の対北朝鮮外交についてこの記事はよくまとまっていますのでこの問題についてなにか言いたいJapan論者は最低限この程度の知識と認識をもってからなにか言うようにして下さいね。勿論すべての文脈をひとつの記事に網羅することなどできませんから、他の文脈もあるだろうぐらいの想像力ももっていただきたいですが。別に日本が積極的にエンゲージメントすべき理由がなかっただけの話で特定条件下においてはごく合理的な行動でしょう、そして条件がどのように変化したのかの算術が今必死になされているのでしょう。それだけのことです。アメリカへの信頼性については別に平気なのではないでしょうかね。単純な反米屋さんには本当に困ったものですけれども、我が国には戦略的親米派がいればいいのであって奇妙な種類の親米屋さんが減少していることそのものはよい傾向だと思いますね。なお私は戦前の「親米派」自由主義者達に深い敬意と愛着を抱いている人間です。

"Managing the Japan-US alliance" by Koji Murata[East Asia Forum]
East Asia Forumは全般に「東アジア共同体」的な発想をする英語圏のリベラル系論者が集うところという印象のあるブログですが(いろいろいますが)、日本や中国においてその名が口にされる時の響きやイメージと英語圏のリベラル系論者のそれとの落差を味わうにはなかなかいいところかもしれません。Siro Armstrong氏の政局ネタにも飽きていたので村田教授が寄稿しているのを見ておやと思ったので紹介しておきます。ここしばらくの日米関係の不協和音に対する警鐘といった内容で日本国民からするとなんということもないことが書かれているわけですが、英語でこういう場所に寄稿すればそれだけで十分に意味があります。なぜならば英語圏においては日本国民のヴォイスが圧倒的に不足しているのですから。

"New US leaders need a Japanese 'jolt'" by Yukio Okamoto[Asia Times]
ウィリアム・スパロー氏の植民地主義的欲望に塗れた記事によって信頼性を著しく損なっているアジア・タイムズですが、この微妙過ぎる新聞にも日本国民の寄稿者が増えているようでなりよりです。岡本行夫氏による日米の安全保障関係についてのこの記事ですが、民主党によるインド洋での給油活動への妨害を批判し、在留邦人の保護や海洋の安全における自衛隊の役割の強化を訴えています。これも日本国民からすれば特になんということもない話でありますが、英語で発信することに意味があるわけです。なぜならば英語圏において日本国民のヴォイスは徹底的に不足しているのですから(何度でも反復します)。

"The LDP's Long Goodbye" by Tobias Harris[Far Eastern Economic Review]
ハリス氏の自民党における派閥の機能についての記事。近年の総裁選挙や閣僚人事から派閥の無意味化の傾向を指摘しています。派閥はどうやら多数の勉強会や議員リーグやイデオロギー的なクラブや伝統的な族議員に席を譲ったように見えるといい、近年の自民党は派閥や政策集団というよりも漠然としたイデオロギー的な「傾向性」で分裂しているようだと述べています。中川昭一氏の「真の保守」、中川秀直氏の「上げ潮派」、与謝野馨氏の「財政再建派」、伝統的な族議員、加藤紘一氏の「リベラル」、それから多数派たるリスク回避派(the risk averse)と。それで麻生内閣で表舞台から去った小泉構造改革派の後継者達の去就、彼らが自民党にとどまるのかあるいは党を離脱するのかが問題になるとしています。そしてこのイデオロギー的傾向性へのシフトによって自民党はかつてのような一貫性—権力の座につき続けるという目的の下で—を喪失した。かつてもイデオロギーは存在したが、派閥が無意味化するにつれて、政権の維持と並んで政策的目標がイデオローグ達にとって重要になっている。最後は問いかけで終わっています。

Can the LDP last as a party pursuing several distinct and contradictory policy agendas? Will Mr. Aso or a future party leader be able to impose a uniform policy agenda on the party? Or will the next general election prove a catalyst for a party realignment that breaks up the LDP as it exists today?

なるほど。これならばさほどの異論はないですね。私はハリス氏の「イデオロギー」や「イデオローグ」の用法を取り違えていたのかもしれません。別の言葉に置き換えて読めばいいわけですね。ただ日本政治思想史と日本政治史の常識が英語圏で十分に共有されていない以