カテゴリー「我が国」の54件の記事

複雑な関係

波乱含みで日米関係と日中関係が焦点化されている日々ですが、ル・モンドに後者について記事が出ていましたので紹介しておきます。

「北京と東京、複雑な関係」
“Pékin-Tokyo, une relation complexe” par Philippe Pons[l19.12.2009, Le Monde]

中国の副主席でおそらくは未来の「ナンバーワン」である習近平は好意的な扱いを受けた。政府の要請で、天皇との会見には一ヶ月前の事前申請を求めるプロトコルにもかかわらず、君主によって迎えられたのだ。その一方で彼が成田空港で篭城している同胞の馮正虎を目にすることはなかった。中国はこの問題には無関心なようであり、日本にとってはこうしたケースが提起されるのは初めてのことである。

人権は日本外交の「十八番」であったことはない。民主的価値の擁護者たる日本はこの件について激昂を示していない。

過去の拡張主義-とそれに伴う残虐行為-は日本をなかなか「教えを垂れる」位置には置かない。政治的現実主義もまた妥協的に振舞うことを強いている。1945年の敗北以降、日本は経済的観点を除けばアジアに無関心であるかのようであった。日本は明治時代(19世紀後半)の改革主義者達の思考の延長にあったが、彼らにとって、列島の近代化は「アジアの根を絶つこと」そして西洋、この場合、欧州の方法を採用することを要請するのであった。たとえ自由と権利の擁護者たる日本の思想家達が西洋の諸価値とその帝国主義の間の落差を非難したとしてもだ。

中間の道

列島は20世紀初頭に汎亜細亜主義のスローガン―間もなく帝国的イデオロギーとなった―の下にアジアを再発見した。

西洋との接触以来、日本は近代性の参照モデルとみなすものとの関係性において自らを定義づけようと止むことなく努めてきた。こうした思考は列島では極めて意味深長なものであり、1990年代には日本とアジアの同一化の支持者達は「アジアへの回帰」を告げることで明治時代の表現を転倒した。鳩山政権は中間の道に位置している。つまり一方の足を西洋に、もう一方の足をアジアに置いている。

民主党は前任者たる、半世紀にもわたって政治生活を支配した自由民主党よりも、「開かれた地域主義」の立役者となるべく、右翼のなかった主義(negationisme)とは断絶して戦前の負債を引き受ける用意があるようだ。中国の台頭は日本をして地域に再焦点化することだけなく、不快なテーマを避けて北京との良好な関係を築くことを余儀なくさせている。

以上、この地域に特に知識のない人々に向けて歴史的パースペクティブを与えようといった趣きの短い記事です。汎亜細亜主義の問題性についてはもう少し書いてもらいたいところもありますが、同記者は確か戦前の亜細亜主義者や親中派についての記事も書いていた記憶があります。個人的には「脱亜」とか「入亜」とかというのはどうも苦手なところがあるのですけれども(そもそも西洋とはなにか、アジアとはなにかの段階でつまづく)、この言説系譜で言えば、民主党は「中間の道」を歩んでいるとみているようです。

ついでに。特例会見で戦後的な立憲象徴君主制の根幹に無造作に触れた点には困惑させられました。これは親中とか反中とかいう問題ではないし、政治的なものと官僚的なものとの対立の問題でもない。国際政治の荒波に天皇陛下を巻き込むことは望ましいことなのかどうか、大げさに言えば、戦後的な「国体」概念に関わる要素を含んでいるだけに政府にはそれなりの理論武装が必要であるように思えます。また冒頭で国際的には大きく報じられているにもかかわらず日本国民にはあまり知られていない成田の馮正虎氏の問題に触れていますが、「教えを垂れる」ような高圧的な態度でなくとも政府はしっかりとした対応をしたほうがいいと思います。日中友好も結構な話でありますが、原則論的な部分については確固とした態度をとっていただきたいわけです。

追記

背景や経緯が十分に報じられていないところで少し大げさだったかもしれません。でもこういう不透明なやり方は個人的にとても望ましくないです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

日本元年


このたびの民主党の圧倒的勝利をめぐる英語圏の報道も紹介されているようですので仏語圏の報道でも紹介しておきましょう。いささかシニカルな論調も散見される英語圏の報道に比べると民主党の勝利を日本の民主主義の勝利として素直に称えるトーンが優勢かなという印象を受けますね。それから左派メディアではサルコジスムを自民党に見て、社会的なものを民主党に見る傾向もあるようです。人は見たいものを見るということです。以下、ル・モンドの社説「日本元年」です。

"Le Japon, an 01"[Le Monde]

日本人は変化を選んだ。8月30日の総選挙での中道左派の民主党の圧倒的勝利は歴史的なものである。ここまで自民党の保守主義者による権力の独占的な行使、そして複数の派閥間の「木刀での闘い」が半世紀以上も続いたのだった。この成功は列島における深甚な諸々の変化に表れているにちがいなかろう。

民主党の与党としての未経験は完敗後の狼狽の中にある自民党内部の分裂の可能性と結び合わさってこの安定に慣れた国に一定の政治的混乱をもたらし得るだろう。もはや投資や輸出によってでなく内需主導の成長と社会的保護を優先するというのであるから民主党は1960年代以来優勢であった「日本工場」のモデルを覆そうとしている。

8月30日の選挙は自民党に関する国民投票となった。すなわち個別のプログラムを超えて拒否されたのは権力の実践であり、経済的、社会的ロジックである。民主党は生活条件の改善を政府の基本的目的とすることで優先順位を転倒させようと求めている。敵対者から見れば、こうした「ロビンフット的」な政策は列島の産業的競争力を危険にさらすものであり、財政を不安定化するものである。

1990年代初頭の「投機バブル」の崩壊以降、日本社会は不安定化した。機会の相対的平等、給与の幅の小ささ、ほぼ完全な雇用、成長の配当の再分配による生活水準の改善が不平等の拡大、雇用の不安定性、ほぼ破綻した年金システム、多くの人々の相対的貧困化に席を譲ったのだ。こうした社会的不安定に起因する諸々の現象が選挙の背景となっていた。

民主党のプログラムは野心的なものである。社会的保護を優先することでこのプログラムはスカンジナヴィア諸国の「民主的資本主義」の列に位置することになる。しかし民主党は国民的な社会文化的遺産を考慮しつつネオリベラリスム/福祉国家の二者択一を超克することを可能にするような日本的な成長の道を見定めなければならない。換言すれば、1960年から80年の拡大の起源となったモデルを改訂しなければならない。日本人が選択した過去との断絶は救済的なカタルシス効果を持っている。後は民主党が期待の水準に達することが残されているのだ。

という訳でいかにも同じ中道左派への共感のある社説です。新自由主義か福祉国家かの二者択一を超克する日本的な道というのがどういうものかは分かりませんが、私にはここしばらく民主党からは協同主義の木霊が聞こえてきますね。超克。

ではでは。


| | コメント (0) | トラックバック (3)

民主党の中道化

政権の交代が確定的になってきた中で同盟に与える影響についての予測の記事がちらほら出るようになっていますね。FEERに記事があったので紹介しておきます。

"Change the U.S. Can Belive In" by Abraham M. Denmark[Far Eastern Economic Review]

民主党が主張していることは大まかに言えば「より独立的な」外交政策であり、「より対等な」同盟関係である。これまでのリーダーたちの発言は民主党が日本の独立性を高めるために同盟にラディカルな変化を求めるのではという懸念を米国にもたらしてきた。おそらくは日米地位協定、インド洋での給油、米軍のグアムへの移転費用、米軍基地縮小といったイシューが最初の数ヶ月間を支配することになろう。しかし日米同盟の劇的な変化はありそうもなく、民主党は中道化に向かうだろうと予測しています。

これまでの発言は自民党批判の選挙戦術であり、民主党の関心は内政イシューにある。民主党支持は国民世論のイデオロギー的左傾化ではなく自民党の統治能力への不満にある。民主党はさまざまなイデオロギー的支持者の間で妥協し、中道層に訴えなければならない。こうした民主政治の鉄則に加えて、民主党自体がイデオロギー的に多様である点から党の結束をはかるために中道化は不可避であると予測しています。

書き手の意見としては民主党が日本の国際的地位にふさわしい形に同盟が更新されるよう求めるのは正しいとしています。日米同盟は冷戦時代に形成されたが、未だにこの時代に束縛されている。交渉の席で日本側は「ノーと言う」かもしれないが、米国は日本側の期待に適応しないとけない。また民主党の側も軍事費増額や集団的自衛権の支持など自国の防衛に責任を持たなければならない。最後は

Change can be painful, and this will no doubt be the case in the future of the Alliance. But change can also be transformative, and a more equal relationship with a more capable Japan will be a net positive for American interests and regional stability.

とまとめています。だいたい穏当で建設的な意見だと思われます。民主党の中道化は既に顕在化していますね。言うべきは言って欲しいと思いますが、問題は民主党のヴィジョンが今ひとつ見えてこないところにあります。なにをしたいのか見えない点では自民党も似たようなものだとも言えますが、いくらなんでも社民党まで抱き込むとはねえ。結局、自衛権の問題はどう整理するつもりなのでしょう。また軍事費の増額についてはーGDP比1.5-2%ぐらいでしょうかーこのご時世には無理でしょうねえ。ふう。当面は地味な交渉が続くことになるのでしょう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

日露戦なかりせば

もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から (朝日選書) Book もうひとつの日露戦争 新発見・バルチック艦隊提督の手紙から (朝日選書)

著者:コンスタンチン・サルキソフ
販売元:朝日新聞出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ここしばらくまとまった時間がとれなくてTwitter(右側にリンクあり)でのつぶやきにとどめていましたが、三日坊主の性格を矯正すべく軽めの内容で更新しておきます。

以前コメント欄で勧められたサルキソフ氏の『もうひとつの日露戦争』を読みました。この戦争に関しては最近では、文化史的、メディア史的な研究の他、「最初の総力戦」とか「第零次世界戦争」とかいったやや大仰なキャッチフレーズの下にグローバルな視座から新たな照明を当てようとする試みがなされているようですが、本書はあまりけれん味なくバルチック艦隊提督の私信を中心に当時のロシア側の事情を明らかにしています。私はこういう着実な仕事が好きです。戦争の語りというのは一般にそういうものですが、日露戦争の語りも日本側の視点ばかりになっていますので本書は新鮮な視点を提供してくれるでしょう。

本書は著者が独自に発掘したロジェストヴェンスキー総督の妻子にあてたプライベートな書簡史料の紹介が目玉になっている点で「発見」の書です。書簡から浮かび上がる総督の人柄や錯綜する人間関係はなかなか興味深いものがあり、単なる「愚将」のイメージからは遠い人物であったことが分ります。このイメージは日本だけでなくロシアでも強いそうですが、著者によれば、帝政末期の無責任体制において無謀な作戦の責を全面的に負わされた格好になったということです。精鋭たる旅順艦隊(太平洋第一艦隊)に比べてバルチック艦隊は俄かづくりの混成部隊に過ぎず、欧米列強の中立維持によって燃料補給や食糧補給もままならず、本国との連絡もきわめて困難な状況に置かれ、戦闘開始以前に勝負がついていたことが総督の嘆きの書簡からよく分ります。歴史の肌合いの感じられるところですが、だらだら引用を続けるのもなんなんで簡単に済ませると、例えば、日本海海戦前の書簡から。

 お前にはもう伝わっていると思うが、昨日、われわれは南シナ海に到達した。われわれは今、日本艦隊がわれわれを打ち負かすためにいつ攻撃を開始するのか、また、日本艦隊がいつ、そしてどこで、ニェボガートフを捕捉することができるか、と判断することで大忙しだ。

[...]私は疲れた。熱帯の暑さの中でもう六ヶ月目だ。お前も覚えている通り、ペテルブルクの夏でさえ、私にはつらい。航海を続行してからあと二日ですでに一ヶ月になる。四十五隻体制の艦隊だ。航海再開からすべての船で故障や異常が起こっている。中には、十二回も故障や異常を起こした船もある。

[...]たとえ惨めなものであろうとも、幕を閉じることは必要だ。今、艦隊の誰もが締め付けられるような思いになっている。

[...]われわれはうぬぼれて、全部門にわたってロシア独自の学問を発展させようとし、時期尚早のうちにわれわれの教師だったドイツ人を追い出してしまった。すべてはここに起因する。彼らのもとに戻るべきである。ドイツに学ぶためロシア国民を派遣すべきである。我々の秩序のため、ドイツ人を呼ばなければならない。

といった具合に敗北を完全に予期しているにもかかわらず、軍人として死地に赴く悲愴な覚悟が記されています。個人の進退のみならず、敗北の後にロシアはどういう運命を辿るのか、ロシアにはなにが欠けているのかについて考察しているあたりには「戦艦大和の最期」を彷彿とさせるものがありました。

また本書の特徴としては「日露戦争は避けられたかもしれない・・・」という歴史のifをめぐって考察がなされている点でしょう。著者によれば日露戦争は日英同盟締結後でも十分に回避可能なものであったとされています。大津事件によるニコライ2世の怨恨説を退け、皇帝側に戦争の意思が必ずしもなかったこと、当時の極東政策が中央の手を離れて極東総督一派の推進派に握られていたこと、皇帝の曖昧な性格から責任体制が不透明になっていた状況-どこかで聞いたような話ですが-などが明らかにされていきます。

例えば1903年の日本側の均衡提案をロシア側が受け入れ、ロシアが満州、日本が朝鮮というように影響圏を分割できていたならば、日露戦争は回避できただろう、第一次政界大戦後の日露秘密協約に結実したように英米の中国進出に対して日露には共通利害があったのだとしています。ここで引用される日露をぶつけて両国の国力を消耗させ、フィリピンを安堵するというルーズベルトの発言にはやはりなと思わせられるものがあります。日露戦争というのは代理戦争ですからね。ついでにこの敗戦がなければロシアの共産革命も回避できたかもしれないという思いも-著者のソ連に対するスタンスは承知しておりませんが-伝わってきました。

当時の国際政治的、地政学的状況についての思考を非常に促される議論なのですが、ロシアのみならず日本にとっても都合のいいシナリオのように思えてくるのは著者一流の説得力なのでしょう。実際、回避シナリオが実現した場合には朝鮮統治と満蒙特殊権益をめぐる深刻な問題は発生しなかった訳でしょうから。勿論こういうのは「後知恵」に過ぎないですし、ロシア側の膨張主義的傾向を甘く見積もっているのではという批判もできるでしょう。ちなみに日露戦争の批判といっても日本側の「侵略」の糾弾ではなくてロシア側の自己批判、そして著者の日露の友好への思いが伝わってくる趣きの議論になっています。

以上、予備知識なしでも読める一般向けの内容ですが、発見と洞察に満ちた本ですのでおすすめしておきます。

| | コメント (13) | トラックバック (1)

優雅な報復攻撃能力の保有について

"The Homecoming of Japanese Hostages from Iraq: Culturalism or Japan in America’s Embrace?" by Marie Thorsten[Japan Focus]

イラク人質事件について英語圏でも論じられているのを何度か見ましたが、どちらかと言えばフェアなほうの批判記事でしょうね。「日本人のお上意識」を熱っぽく語る大西氏のNYT記事には軽く苛立った記憶がありますが、記事では日本の批判派もまたこの件をいつもの日本人論の枠内で理解しようとしていたと論じ、確かに日本的文脈はあるとしつつも、やはりアメリカでも同様のバッシングが存在した点から「犠牲者非難」の反応の共通性を指摘しています。only in Japanな話ではない、と。

異論がない訳でもないですが、日本の批判派や海外ウォッチャーが頼りがちな平板な文化主義的な解釈-十分に文脈化された解釈とは違う-に距離を置こうとしている論者の姿勢そのものは評価したいと思いました。勿論批判的な視座というものは必要なものですが、伝統芸能化した内外の批判の様式が気に入らないという話です。それはどこにも人を連れていかないし、なんの変化ももたらさない。

でこの事件そのものに戻ると、個人的に重要だったかなと思うのは、これがきわめてメディア的な出来事であったように思える点です。小泉政権下において右派からは共感とともに真実の民の声として、左派からは警戒とともに危険なポピュリズムとして、ネットの声という未知の存在が注目され始めたタイミングで生じたためにハレーションを起こす結果となった、そうした事件として個人的には記憶しています。その後、両メディア間での増幅効果が限定的なものにとどまっているように見えるのは、マスメディア側が考えたところもあるのでしょうし、ネットが一般社会に接近してかつての先鋭性と危険さを喪失して平常化しつつあるのもあるのでしょう。単に危険そうな領域に近づかなくなったからそう見えるだけなのかもしれませんが。

防衛大綱・自民素案「北策源地攻撃に海上発射の巡航ミサイル」[産経]

敵基地攻撃能力の保有を盛り込んだ自民党国防部会の出した防衛大綱素案が話題になっているようです。メモしておきます。

政府は敵基地攻撃は、敵のミサイル攻撃が確実な場合は憲法上許されるとするが、北朝鮮まで往復可能な戦闘機や長射程巡航ミサイルがない。素案は弾道ミサイル対処で、ミサイル防衛(MD)システムに加え「策源地攻撃が必要」と明記。保有していない海上発射型巡航ミサイル導入を整備すべき防衛力とした。

ということなんですが、もう少し具体的な情報が欲しいところです。ところで前から思っているのですが、「策源地」と「敵基地」はどちらも英語だとbaseだと思うのですが、日本語では前者のほうが非限定的で、後者は限定的に感じられます。どうなんでしょう。用法を見ていると、策源地のほうが融通性がきく、遊びのある概念のように見えなくもないのですが(違っていたらすみません)。

敵基地攻撃能力だけでは弾道ミサイルを防ぐ事は出来ない[週間オブイェクト]

弾道ミサイルへの対策としてはMDが主軸であり、敵基地攻撃はあくまでも従である、イラクの「スカッド狩り」も穴だらけであった、実際、北朝鮮の弾道ミサイルに対抗するのに都合のいい兵器があるなら教えて欲しいと述べています。この件は政治的な意味合いが強いと思っているのですが、そこには軍事的リアリズムの裏打ちがなければいけない訳でふむふむとなりました。象徴的には大きな変化のように見えますが(この能力の保有のアイディアそのものは当然の自衛権の範囲だと思います)、コスト的、技術的な問題から現実化されたとしても半島有事の際に補助的に機能するかもしれない能力程度のものになるといったところでしょうか。

Separated by a common enemy[Observing Japan]

なんだか粘着しているような気もするのですが、基本的には優れたブログだと思っているので。敵基地攻撃能力が地域の状況に与えるかもしれない影響について考察しています。日本の北朝鮮へのアプローチと米国とのそれには違いがある。日本は自国の安全の観点であるが、米国の関心はより広い。世界的な核拡散の問題への懸念に加えて米国には日本との関係ばかりでなく韓国との関係もあるからだ。米韓同盟と日米同盟の相反する要請は日米同盟にやっかいな影響を与える。米国の言動は韓国のことを考えなくてはならず、抑制的なものとなるが、これは日本側に不安を与える。米国側が日本の自立的な先制攻撃能力の保有を懸念するとしたら、それは日本が自国の安全保障上の理由で動くことで他の国にダメージを与える可能性があるからだ。実際にはこれはありそうもないシナリオではあるが、もし日本がこの能力を保有するならば、他の諸国に与える影響について責任をもって考慮しないとけない。地域の安全と安定は日本の国益であり、この点を自覚することで日本の指導者は米国の努力をより評価できることになるだろう云々。

原則論的な反対という訳でもないようですが、どういうベネフィットがあるのか不透明である、また敵基地攻撃能力を保有するとして実際にそれを行使するにあたって自国の安全のみならず地域の安定に貢献するよう思考しなければならないという考えのようです。日米に限らずあらゆる同盟には同床異夢の側面があると思いますが、パースペクティヴの差そのものについては埋まらないところがありますね。現状では調整可能な範囲だと思いますが、今後日本側のいらいらが募ることになるでしょう。

"Japan Debates Preparing for Future Preemptive Strikes against North Korea"[pdf]

2006年に書かれたこの論文では法的、技術的、財政的問題から言ってこの構想はincredibleであり、これは国内向けの政治的な議論であるとしています。本気ではない、と。実際、国内向けの要素もなくはないとは思いますが、本気ではないとまでは思いません。技術的な問題についてはいざとなったら金一族を広義の策源概念に含めるとか誤爆だと言い張って政府機関にでも打ち込めばそれでいいんじゃないかという気もしますが(冗談です)、素案の段階で賛成だ反対だと騒ぐのもどうかと思いますのでしばらく眺めることにします。

こと安全保障関係については細心に物事を進めていくしかない訳であまり力瘤を入れた議論-賛成論も反対論も-は現実から遊離してしまうようにも思えます。対米不信や独立願望がここに強く投射されると米国側の猜疑や誤った解釈を呼んでおかしなことになるのかもしれませんからこのあたり主導する人々には修辞の研究が少し必要な気もします。実際のところ、あの決定的な敗戦の心理的後遺症が残っている中、また日本の置かれたなかなかに険しい戦略環境の中、さらに国内のリソースの制約の中にあっては、日米同盟を堅固なものにする一方で地道で粘り強い調整を通じて中長期的に相対的な自律性を高めていくしかないように思われるのですね。まあ、そんなに悠長なことを言っていられない可能性もありそうですが。

“After death cometh judgment” - Why are there so many Christian signs in provincial Japan?[MTG]

いたるところで不吉なメッセージを伝える「キリスト看板」についての良ポストです。目的と手段の関連の見えないところがいっそう不穏さを醸している訳ですが、この協会の堅忍不抜の恫喝的宣教活動にはなにかしら心を打たれるものもあります。これはこれでアートなのかもしれません。高校生の頃、学校帰りにフレンドリーなモルモンのお兄さん方に話しかけられてなにをやっているんだと思いつつもユタの事情に詳しくなっていたことを思い出しました。

【パリの屋根の下で】山口昌子 カンヌに登場した“蔑視”映画

「国辱」映画といいますかwaiwai映画のようですね。このイメージはけっこう強力にあると思います。リベラルなみなさんも「ナショナリズムに絡めとられるのはちょっと・・・症候群」を脱してこの手の破廉恥幻想については少しは批判すべきではないでしょうかね。また型通りのオリエンタリズム批判ではなく創作によるわさびのきいた文化的報復というのもあると思うんですよね。個人的には優雅なやり方のほうが望ましいです。とはいえこの種の幻想の悪循環に加担するコラボばかりが出現するのには困ったものです。ふう。

追記

細かい表現を直しました(2009.6.4)。一応書いておきますが、タイトルは遊びです。蔑視だ!とか偏見だ!といった糾弾調の言説よりも文化領域での余裕のあるやり合いが望ましいと思うのですね。

再追記

民間で多様な意見が戦わされることはいいことだと思うので頭ごなしに否定はしないですが、本当を言えば、政治のレベルでは難易度の高そうな話よりも集団的自衛権や通常戦力の問題に議論を集中して欲しかったりします。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=8lcDJhq1sDQ&feature=related

エミー・ジャクソン『涙の太陽』(1965昭和40年)

極東のシルヴィー・ヴァルタンこと(今勝手にそう呼んでみた)エミー・ジャクソンの40年のヒット曲。和製ポップス一号とも言われる曲ですね。涙のシリーズはどれもいいです。

| | コメント (38) | トラックバック (0)

負けじの心

"A New Look For Japan’s Musicians"[Newsweek]

日本の音楽シーンが多民族的、多人種的になっているという話なんですが、そのことを強調するために日本の純血主義とやらを誇大に唱えることで-伝統的に血統幻想がそんなに強い社会だったとも思えないのですが-神話の強化に貢献してしまうというよくあるパターンの記事です。大衆はそんな話にさほどの関心がないことの証拠として捉えることだってできるかもしれないと思うのですがね。この奇妙な言説効果については何度も言及しましたのでもういいです。

それ以前にビルボード関係者とされる書き手には日本芸能史や歌謡史の基礎教養がないみたいです。確かに最近はいわゆるハーフの歌手や外国籍の歌手が増えている印象を受けますけれども、昔から日本の芸能の世界はそんなもんだったように思います。なお日本の歌謡についてなにか論じるには「芸能」が「芸術」(欧)や「エンターテイメント」(米)と取り結んできた入り組んだ関係への視座や東アジア諸国の芸能者たちの愛憎半ばする交流の歴史に関する認識も必要な気がするのですが、indigenousな日本にしておきたいのでしょう。こういう粗雑な地理-文化的なヴィジョンでは東アジアのマーケットには食い込めないんじゃないですかね。

ルイズ・ルピカールさん 「お百度参り」の日本訪問[毎日]

"French woman raised in Japan during war makes annual nostalgic pilgrimage"[The Mainichi Daily]

フランス人の父と日本人の母をもつ「トゥールーズの大和撫子」ルピカールさんが日本の訪問をしたという記事です。軍国少女時代の自伝『ルイズが正子であった頃』にはつくづくいろんな戦争体験があるんだなと思わされましたが、記事では「なにくそ」の「負けじ魂」について語っておられます。日仏の架け橋として活躍されていらっしゃるそうですが、本当に凛とした方のようですね。

週刊誌記者の取材に心が汚れた[Cnet]

別にメディア人が総じてすれっからしだとも思いませんし、それほどネットに大きな幻想を持っている訳でもないのですが(小さな幻想はありますが)、この記事にはなんだかしみじみとさせられました。「心が汚れた」という表現はいささか可憐に響きますが、氏には負けじの心でやってもらいたいものです。

"How do you solve a problem like Korea?"[Guardian]

どうということもない記事ですが、典型的に思えましたので。北朝鮮問題を解くには中国の協力が必要だ。しかし体制崩壊にともなう難民の発生を怖れる中国はこれまで非協力的であった。ところで北朝鮮の暴走は中国にとってコストになりつつある。なぜならば北朝鮮の挑発行動は中国が難民以上に怖れる日本の軍事化を促すからだ。この点で中国には状況を管理できる状態にするインセンティヴがあり、米中には共同の利害がある、と。もっとストレートに日本を後押しして中国に圧力をかけろ式の意見もちらほら見ますが、日本の現状を見ていないその幻想性においては軍国主義の復活だ!組と五十歩百歩なのかもしれません。

"On North Korea's nuclear and missile tests"[FP]

ウォルト氏に米国のリアリストの意見を代表させるのがいいのかどうか分かりませんが、同盟国は戦争を望んでいない、米国にはほとんど打つ手はない、この問題は中国に主導させろ、と述べています。あまり関心はなさそうですが、誰かが聞けば、日本については拡大抑止の有効性を確認して安心させとけ云々が続くのでしょう。

自国を棚にあげて言えば、米国の対北朝鮮外交はやはり稚拙なところがあったように思いますけれども、同盟国の足並みが乱れ、戦争オプションがとれないとなると他にどうしたらいいのだという気持ちにもなるでしょう。とりあえず今回韓国がPSIに参加したことは言祝ぐべきなのでしょう。当面は国連外交を進めたり同盟の空洞化を防いだり安全保障に関する縛りを緩めたり外交的手数を増やしたりすることぐらいですかね。ふう。否、負けじ。

追記

"A nuclear Japan is not an option"[Observing Japan]

クラウトハマー氏の日本核武装論に対して上のウォルト氏の記事を引用してオバマ政権は過敏に反応せずに同盟国に拡大抑止の口約束をせよと述べています。反対の理由としては日本の国内世論を挙げる一方で、地域の安定にとってワイルド・カード過ぎるからと述べていますが、後者は曖昧な言い方ですね。氏の見方には総じてそれなりの(米国から見た)合理性と現実性があると思いますが、現在の同盟関係が日本側にもたらす心理的側面についていささか楽観的に思えます。別に「保守」の頭がとりたてておかしい訳ではないと思いますよ(おかしい人もいますけど)。

ついでに、たとえ米国がゴー・サインを出したとしても(この仮定の現実性は度外視します)、核の目的をめぐって日米で齟齬が広がるように想像します。対中国の最前線の位置付けは御免蒙りたいと考える人が多いでしょうし、日本の日本による日本のための核戦略に賛成するほどアンクル・サム氏も親切ではなさそうですしね。なにかコンセプトが欲しいところです。ただ核であれなんであれ思考の縛りは無用だと思いますが、国民の合意がまったく存在しない現在は通常戦力の強化の問題に議論は集中すべきだと思います。

再追記

細かい部分の修正をしました。MTGで白熱した議論になっています。一応注記しておくと私はゴーリストではないですね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=2Y8I8xD46wU&feature=related

バートン・クレーン『酒がのみたい』(1931年昭和6年)

日本初の欧米系外国人歌手と言えば、このジャーナリストさんですね。お世辞にも上手いとは言いがたい歌唱ですが、この曲は耳に残ってよく口ずさみます。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

村と帝国の戦いでは村を支援せよ

(タイトルに特に意味はありません)

コメント欄でリクエストがあったのでグーグル・アース事件に関するル・モンド記事の訳をアップしておきます。話題になったAP記事に比べるとだいぶ短いですが、この問題について非常に詳しい記者の記事なので意味があるかもしれません。また部落解放同盟の古地図に対するスタンスがあまり世の中に伝わっていないようなのでその点で価値があるかもしれませんね。地名削除は歴史の抹消を意味してしまう、というのが同盟の見解のようです。基本的スタンスはココにありますね。文脈を無視して複製をアップしたのも、問題化すると泡を食って地名削除に及んだのも不満である、と。そうですね、個人的には古地図から地名の削除というのは薄気味悪いです。

「日本でグーグルが禁じられた地区に侵入する」ル・モンド5月20日フィリップ・ポンス

その性質から言って古地図より無害なものはあるだろうか。徳川将軍時代(1606-1868)の東京と大阪の歴史地図を公開した時、グーグル・アースは自らがタブーに抵触することになるとは知らなかった。かつて差別の対象となった社会の周縁の者たちが居住していた-現在もその子孫の一部の者たちが暮らしている-地区を地図上で位置決定することが引き起こすかもしれない偏見を理由に、この検索エンジンは数週間前から法務省の調査対象となっている。

1871年に差別は廃止されたが、この社会カテゴリーの者たち-生まれた場所ないし居住地以外には他の日本人といかなる違いもない-への偏見は人々の心性に深く根を下ろしている。グーグルのおかげで今後は”burakumin”(「小集落の住民」の意)地区を位置づけることは容易くなる。公式には彼らは150万人とされるが、その倍いるかもしれない。その一部は列島各地の4000ヶ所で暮らしている。その土地の名はしばしば変更されたが、微妙な差異をとどめている。

”eta”(穢れた者の意)は彼らの職(皮革、屠殺、解体の従事者)ゆえに仏教から非難され、下層階級のいかがわしい周辺の者たち(娼婦、物乞い、落伍者、軽業師)である"hinin"(非-人間の意)は特別の地区に押し込められた。差別が廃止された後も彼らはそこにとどまり、やがて農村から都市へ移住した大勢の困窮者たちがそこに合流した。先祖に関わる偏見は区別を欠いたこの貧困層へと押し広められることになった。

家族の秘密

生まれた場所でこの「部落の民」を「同定」することはできない。かつての「ゲットー」の場所のリストが内密に企業の人材サーヴィスを流通している事実は根強い偏見を証言している。今後はこうした地区がかつてはゲットーであったことを知るのにワンクリックで十分になるし、ゲットーを特定するには古地図と新しい地図を重ね合わせるだけで十分になる。

古地図の複製は日本では禁止されていないが、一般に歴史的説明の補足がつく。カリフォルニアのコレクター所蔵の地図をオンライン化するにあたってグーグルは用心を欠いた。最も重要な反差別団体である部落解放同盟は反応した。二週間後、グーグルは”eta”のような差別的言及を地図から削除した。しかし解放同盟は満足していない。というのも「それはそこに暮らした人々を世界から抹消することに帰着する」からだ。かつてのカースト外の人々をめぐるやっかいな問題はここでは慎重に取り扱われているのだ。グーグルが頓着しない「家族の秘密」の問題は。

といった具合にグーグルの慎重さの欠如にやや批判的なトーンです。ついでに書いておくと、成長の壁にぶつかりつつあるかに見えるこの企業をめぐって近年日本で起きている諸事件は兆候的に思えます。ストリート・ヴュー事件の際にも英語圏論者には日本の文化ナショナリズムの主張のように受け止めるむきが多かった印象がありますが、日本的近代における公私区分編成の問題なのか公共的なものと世間的なものとの争いなのかシステムに対する生活世界の側の抵抗なのかあるいはこうした説明は嘘っぱちなのかよく知りませんが、日本だけでなく世界中でこうした問題は起こり得るのではないでしょうかね。グローバル化の概念と関わってくるのでしょうけれども、私がこの言葉から連想するのはマクドナルド化する世界のような平板化のイメージでも文明の対立のようなシンプルな闘争のイメージでもなく、どこが内でどこが外なのか不分明な入り組んだ文脈間の絶えざる折衝のイメージです。

追記

で、この件についてどういう要望の下に折衝がなされるべきかがそもそもよく見えてこないのが困ったところですね。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

マスクな一日

"Despite Political Uncertainty, Japan Can Still Show the Flag"[CSIS]

グリーン氏とセーチェニ氏の論評です。日米同盟に関して悲観的な声が広まっている。政局の混迷がこれに拍車をかけている。しかし日本の戦略的信頼性や重要性は過小評価されるべきではない、現在の混迷は55年体制の最終局面なのである、といい、先日の飛翔体発射への対応やインド洋への海自派遣、シンクタンクの戦略提案、憲法改正の支持率等の例を挙げ、両国とも同盟の未来について野心的になるべきだとしています。民主党に関する言及部分が気になるところですが、基地問題について鳩山はプラグマティストだが、党内左派や社民党のマネージをしないといけないのだ、とか、「よりバランスのとれた」同盟というのがアジアでの積極外交を意味するならば米国にとってもいいことだとかいった具合にフォローが入っています。悲観論への牽制ということなんでしょうが、それはもともと性急な期待をするから悲観的になるのであって・・・、まあ、当面はぐずぐずしつつ身動きができる範囲を少しずつ広げるしかないのでしょう。アフガンもどうなるのかよく分りませんしね。

たぶんイメージだけなんでしょうけれども、米国側の日本への信頼度はずいぶん高いですね(HT to Curzon)。価値観の離れた大国の台頭を前にした漠たる不安が米国市民にあって伝統的な同盟国の存在に安堵するという部分があるのかもしれません。ついでにこれも不安の投影なんでしょうけれども、ごく一部には日本国民の漠たる対米不信をイデオロギー的な反米と取り違える過敏な反応も見られますね。

"Call: Economic recovery but political gridlock in Japan"[FP]

経済的にはどうやら日本は底を打っているようだが、政治的な混迷が気がかりだというブレマー氏の記事です。自民党と民主党の不満層が中道的な第三党を結成するだろうという情報を個人的に得たと書いています。中国が台頭し、オバマ政権が新たな関係を結ぼうとし、回復が構造改革のチャンスを提供しようとしているときに政治的麻痺状態が続くようだとこれは日米にとって悪いニュースだと述べています。ところで民主党のrising starって誰でしょう。なんとなく想像はつきますけれども、この情報は意味があるのですかね。

Face à la grippe, "les Japonais restent calmes"[Le Monde]

こちらのル・モンド記事は在日フランス人たちによる列島リポートです。学校が閉鎖されたとか会社で注意喚起があったとかマスクが売れているとかあるが、一部のジャーナリストが主張するようなパニックはないと口を揃えて述べています。不安感は漂っているが、市民はごく落ち着いていて普段と変わらない、と。そうですね、私の見る限りでも、のほほんとした空気に見えますね。マスクの着用についてはどうすんべと思っていたのですが、職場で支給されて着用を要求されました。暑苦しかったです。

"Au Japon, Google s'aventure en zone interdite"[Le Monde]

フランス語圏の日本記事にはほとんど言及していませんが、一応読んでいます。言及しないのは日仏関係に関心のある人以外にはそれほど意味がないように思われるからです。これはグーグル・マップの古地図に被差別部落名が記載されていた例の話です。この問題の歴史や現状についての要領のいい説明があり、グーグルは「家族の秘密」には顧慮しないといったまとめ方をしています。グーグル的なものの受け止め方にはいろいろある訳でしょうが、書き手のポンス氏には微妙な留保があるのかもしれません。私は検索以外は使わないのでどういうサービスがあるのかもよく理解していませんが。

ちなみに同記者が一時期「反日」と呼ばれているのを見たことがありますが、基本的に日本の歴史と文化に対する敬意と日本国民への共感がある方ですのでそう思ったことはありません。もっとも政治レベルでの氏の進歩派への共感と保守派への反感はあまり買いませんが。しつこいようですが、それは私が概して保守派に共感し、進歩派に反感を抱いているからではなく(保守にも進歩にも共感できる人も反感を抱く人もいます)、社会的現実から遊離した現在の言論の対立構造に不満だからです。また対立の存在そのものに批判的なのではなく現在の日本が直面している問題に合わせて対立軸をずらして欲しい訳です。実際には言論と関係なく事態は進行している訳ですが、それはいいことではないでしょう。

最後に地図の話については確かに現実的な不都合があるところにはあるのかもしれませんが、これだとタブーを強化するような気もするのでこれでいいのかなという感じがどこかに残ります。コメント欄ではフランスの郊外のいわゆる敏感な地区の問題が言及されていますが、この話ではやはりカゴの話が想起されるべきでしょうね。

"Wakamatsu voit rouge"[Liberation]

"Ce film est adressé aux jeunes Japonais"[Liberation]

連合赤軍映画のフランス公開に合わせた若松監督の紹介記事とインタビューです。日本の伝説の怪物といった具合に60年代70年代の文化的カミカゼぶりを紹介しています。「教訓。怖れるな!」という結論です。インタビューでは監督が戦後史における学生運動について説明し(あれは父達の失敗を繰り返さないための闘争だったのだ・・・)、これは日本の若者たちへの映画なのだと語っています。いかに彼らが失敗したのかを記録として伝えたいのだ、と。連合赤軍には肯定的にも否定的にも思い入れはないのですが、この武勲詩・聖女伝にはなんだかなと思わされました。歴史的落とし前をつけたいという孤独なモチーフそのものはいいとして監督が語る世代論の枠組みを借りるならば、氏の敗戦映画は甘過ぎて例えば父世代の岡本喜八の敗戦映画の足元にも及ばないように思えます。それとやはり女性闘士の問題は氏には扱えないようです。それから実際、世相に大きな影響を与えた以上仕方ないのかもしれませんが、あり得べき日本の社会運動というものを想像する時、これがピリオドだと言わんばかりの事件の神話化は好ましくないでしょう。前にも書きましたが、実際には歴史は続いている訳ですから。

なんのまとまりもないエントリですが、ただの日記ということで。

追記

"Spread of Swine Flu Puts Japan in Crisis Mode"[NYT]

「一部のジャーナリスト」って田淵さんですかね。ほぼ予想通りの展開でオチがついたようでなによりです。もはや伝統芸ですね。

"Random gaijin mail magazine dude nails it on Japan's media-fueled swine flu panic"[MTG]

あるいは私や私の周囲が暢気すぎるだけで世の中的にはパニックになっているのでしょうかね。うーむ。

「リスク」というのは大げさだったかもしれませんが、言語共同体に安住して日本国民とコミュニケーションをとろうとしない在日外国人が多いようですので日本語で書く方が増えるといいなと願っているのですね。批判的な内容でも同じ目線の高さから発せられた誠実な声ならば大概の人は真面目に聞くと思いますよ。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=NeVdlNZ4yMQ

テレサ・テン『つぐない』(1984年昭和59年)

三木たかし先生の訃報は残念でした。平和のうちにお休みください。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

疫学的想像力

"Misreading the Map: The Road to Jerualem Does Not Lead Through Teheran"[Foreign Affairs]

リアリストの声が大きくなるにつれ、特に先日のガザ侵攻以降、米国でのイスラエルに関する論調のトーンに変化が生じている点については多くの人々が気づくところでしょうけれども、このフォーリン・アフェアーズの記事はごく冷静な筆致でオバマ政権はネタニヤフの言うことを聞かずにイランに対抗することよりもパレスチナ問題の解決に焦点をあてたほうがいいと進言しています。イランの台頭を前にしてスンナ派諸国とイスラエルの間に利害の一致が出来つつあるように見えるが、イランへの強攻策は各国の国内世論を反米、反イスラエルに傾かせることになる。こんな言い方をしていますね。

But the fact that they share certain U.S. or Israeli strategic concerns will not create the foundation for long-term strategic alliances (as opposed to ad-hoc tactical arrangements). In the Middle East, as elsewhere, one-night stands do not necessarily lead to marriage.

それでイランの核開発を遅延化させるべく交渉しつつ、その日が来た後に備えて抑止の枠組みをつくらなくてはならない。一方で中東の不安定化の根源にはパスレチナ問題があり、オバマ政権はこの解決に向けて力を注がなければならない、と。

"The good, the bad, and the unknown"[Foreign Policy]

でこちらはスティーブンのほうのウォルト氏のブログの記事ですが、基本的な認識で上の記事と一致しているようです。イラン問題とパレスチナ問題のリンケージははずすべきであり、後者についてオバマ政権は具体的に動きべきだ、と。リアリストのイスラエルに対する見方は長期的には必ずしもイスラエルにとってマイナスばかりだとは思わないのですが、イスラエル側-といっても多様な訳ですが-に想像的に内在してみるとかなりきつく見えるでしょうねえ。

アメリカ知らずのくせに余計なことを書いておくと米国のリアリストにも微妙な印象を抱くことがあります。悪いという意味ではないですが、彼らもまたアメリカ的に感じられます。欧州系のリアリズムとはなにか違う。もちろん我が邦のそれとも。今は亡き永井陽之助氏が冷戦期の封じ込め(containment)や隔離(quarantine)言説に関して指摘した「疫学的戦略観」-イノセントな国土の健康を守るために遠隔からの病原菌の進入を防ぐべく伝統的な勢力圏を無視して防疫ライン・道義的ラインを引こうとする-に彼らもまた多かれ少なかれ規定されているように見えるからなんでしょうか。そこに葛藤と苦悩があり、そこから特有の悲劇的トーンが出てくるのでしょうけれども、そこに米国的なものを感知する訳ですね。

日米同盟に関するNYTのオピニオン記事。日本の政局の混迷の中で日米同盟は漂流しつつある、変化するアジア情勢に応じて更新が必要であるという意見です。ごく穏当な内容ですが、注目すべきは北方領土問題を含めた日露関係の改善と日米韓の三カ国の関係強化の言及でしょうか。歴史を遡るならば領土をめぐる日露交渉の難航の責任の一端は米国にもあると思われるのですが(別に責める気もないですが)、米国が日露関係についてどう考えているのかは今ひとつよく分らないです。米国の戦略と両立する形で日本が中露のバランサーをつとめるというのはgeopolitically correctな選択のようにも思えるのですが、日本側にはそんな意志はなさそうですね。日韓については互いにhistorical antagonistsとみなし合っているのではなくて片方が一方的に・・・まあ、いいです。基地問題については語るも憂鬱なのでパスしたいところですが、国土防衛の役割分担についての小幅な-象徴的には大幅な-変更があってしかるべき時期かもしれませんし、それに応じた再編の構想案が民間からも出てきてもいいように思えます。ちなみにリアリストから見ても、

Moreover, mounting voter frustration in Japan with an unresponsive political system leaves the door ajar for nationalist politicians and policies, which undermine Tokyo’s ability to cooperate on pressing issues.

という風に見えていると思われます。ナショナリストのみなさんは、たとえそんなものを信じていなくとも、交渉とか協力とか妥協とかの重要性を語る芝居の稽古をしたほうがよろしいかと存じます。曇りなき赤心に加えて蛇のごとき狡猾なくして祖国の生き残りははかれませんです。

"The concept of quarantine in history"[pdf]

豚インフルエンザをめぐって検疫が話題になっていますが、この語は英語だとquarantineといいますね。語源はイタリア語の40を意味するquarantaとされます。ヴェネチア共和国とビザンツ帝国の間にあって東地中海商業の覇権を握ったラグ-ザ(現ドゥブロクニク)において黒死病到来に対応して1377年に敷かれた制度が現在の検疫体制の起源とされることは西洋史好きならばご存知でしょう。これは検疫概念の歴史についての概略的な記事ですが、ラグ-ザの検疫体制について特筆しています。旅人を40日間隔離したのですね。というわけでquarantineという語は黒死病と隔離の暗い歴史を想起させ、また日本と同様に人権に敏感な人々に懸念を呼び起こす語であるようです。中国の検疫についてのNYTの第一報における日本の不正確な言及およびその修正についてはGlobal Talk21さんがエントリされておりましたが、政府にはきちんとbecauseを内外に説明できるよう準備することを願います。

またマスクの着用をめぐってなんだかあちこちで小競り合いがあるようですが、MTGのアダムさんが日本語でエントリされていました。「日本語で書く」というリスクをとっている人々の意見は賛成するにせよ反対するにせよ尊重するのが礼節というものかと存じます。公衆衛生の知識が乏しいのでなんとも言えないところがありますが、個人的には我が邦のマスク文化には国土地理的、都市構造的な観点から言って一定の合理性があるように思われるのですけれども、どうなんでしょうね。

ではでは。

追記

政府の対策に批判的に言及している笹山氏が記事で日本の「清浄国神話」に触れています。米国の疫学的想像力とはなにか違う感じがありますが、孤立主義の伝統から来るものというのはあるのかもしれませんね。なんだかあやしい日本論やアメリカ論になってしまいそうなのでこれ以上は止めておきますが、この点に関連してアメリカ人の日本言説に自己の投影を感じることがあります。

などと呑気なことを書いているうちに国内での感染が始まってしまったようですね。ふう。気をつけましょう。

一部簡単な説明を追加しました。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=vHt1t-GxNWw

ジノ・ヴァネリ『Brother to Brother』(1978年)

北米のラテン男ヴァネリの代表曲。ヴァネリの歌唱にはいつも圧倒されます。胸毛もナイスです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

市民宗教ねえ

最近読んだ宗教がらみの記事をクリップしておきます。

"'Etiquette guide' for Thai monks"[BBC]

タイのお坊さんのよいマナーのガイドラインが出されたという和み系の話です。不良坊主問題が発生しているので-昔からといいますが-指導ということのようですが、その中でトランスとゲイの坊さんの話もあって、

He was especially concerned, he said, by the flamboyant behaviour of gay and transgender monks, who can often be seen wearing revealingly tight robes, carrying pink purses and having effeminately-shaped eyebrows.

とのこと。同性愛はオーケーだが、目立ち過ぎるなということのようです。かつては華やいでいた日本の仏教界ですが、現在はそういうのってどこかに残っているのでしょうか。ちなみにBBCはどうやらタイモンク・ネタが好きみたいですね。

"God is back: How Ned Flanders won the evangelical crusade"[Times]

タイムズのエヴァンジェリカルについての記事。アメリカのクリスチャンのカリカチュアとしてシンプソンズの信心深い隣人ネッド・フランダースに言及しています。これまでハリウッドではエヴァンジェリカルの説教師は偽善の代名詞のような扱われ方をしてきたし、フランダースも愚か者の象徴として描かれている、しかしフランダースは負け犬なのだろうかと記事は問います。実際にはフランダース主義は世界中で勝利しつつあるのではないか、と。啓蒙の時代以来、欧州の知識人は宗教が近代性によって没落することを予言してきたが、アメリカは当初から違っていた。確かにアメリカの知識人も合理主義の下での宗教の弱体化を予言し、弱者や貧者や愚者の間でのみ宗教は生き残ると考えてきたが、このピクチャーは変化しつつあるとしています。ピーター・バーガー氏によれば社会学者は近代性を世俗化と捉えたが、これは誤りであり、近代性とは多元性のことである。アメリカではどの宗教を選ぶことも選ばないことも自由である、と。またフランダースは世界展開しており、今ではクリスチャンの60%は途上国にいるといいます。ロシアや中国のような国家による強制的世俗化を蒙った国でも宗教リヴァイヴァルが顕著であり、欧州ですら世俗化の放棄の兆候が見られる、と。宗教紛争の原因ともなっているとしつつも、記事はグローバル化する世界において宗教のプラスの側面についても触れています。いかにも欧州的な戸惑いが感じられる記事ですが、後半ではわりと好意的な解釈もしています。仲間と一緒でヘルシーでハッピーだ、と。まあ、そうなんでしょう。

ただ日本でもその傾向がありますが、欧州ではアメリカの「エヴァンジェリカル」はだいぶ記号化されているような気がします。よく知らないのですが、そんなに単純なイメージでいいのかなと思われます。世俗化や多元主義は難しい話ですが、イスラームも含めて中世的なものの浮上ではなく近代性-曖昧な概念ですが-の内部の宗教の再編現象が生じているのでしょう。以下、多少関連した記事になっています。

"'Religon' and 'the Secular' in Japan. Problems in history, social anthropology, and the study of religion" by T. Fitzgerald[ejcjs]

日本における「宗教」と「世俗」概念の用法が「我々西洋」とはなにかずれているということを指摘する記事です。多くの人が無宗教を自称しつつ宗教的プラクティスを怠らないのはなぜなのかといった問題には様々な答え方があり得るのでしょうが、それは西洋から輸入した概念が社会的現実からずれているからうまく自己記述できないからだというのもひとつの回答になるのでしょう。比較宗教学的方法論にキリスト教的前提が多数忍び込んでいることもまたつとに指摘されるところですが、記事は非西洋圏の宗教現象を把握するためには歴史的コンテクストを踏まえつつ、基本的な概念の語用論的な分析をする必要があると主張しています。ここでなにか具体的な対象の分析をしている訳ではなく、多くの英語圏の日本の宗教に関する言説をとりあげて方法論的反省をしています。他者性を強調するあまりに不可知論みたいになるとそれはそれでひどく困るのですが、ずれているのは事実でしょう。ただ「我々西洋」ってそれほど一枚岩でしょうか。政教分離や社会における宗教のあり方にはずいぶん多様性があると思われます。

ちなみにこの調査では世界二位の無神論者の国ということになっているのはおそらく「宗教」概念の混乱ゆえなのでしょう。戦後日本人は宗教を失ったみたいな嘆きを聞くこともありますが、おそらく戦前でも同じ方法で調査したならば「無神論者」率は高くなるのではないかと想像します。そもそも無神論(atheism)というのは一神教空間内の概念だと思いますので意味が違っていると思うのですがね。

Religiones

法外なるものの影で 近代日本における宗教/世俗[pdf]

こちらは近代日本の宗教と世俗の概念の文節化を扱った現代思想系の論文ですが、上の論文に対するひとつの変化球的な応答になっているように思われます。日本の批判的知識人の間でとりわけ靖国とイスラームに関して政教分離をめぐる問題が近年では取りざたされているが、このふたつの問題に対して彼らは正反対の対応をしている。イスラームに関しては政教分離は西洋近代の生んだ局所的な理念に過ぎず、その普遍性妥当性を疑う一方で、靖国に関しては政教分離を金科玉条のごとく唱えている。政教分離の問題は非西洋社会が西洋の宗教概念および関連制度に包摂される中で浮上する問題であり、日本において政教分離を貫徹すべきか否かの二者択一的な議論をする前に、近代日本がこうした理念をいかに受け入れたのかを歴史具体的に論じる必要がある。戦後日本では普遍主義的な理念として政教分離が謳われるが、現実には西洋においてもこれが貫徹されることは稀であり、宗教の占める位置には多様性がある。実際、明治エリートはこのことを見抜いており、プロイセン型の「宗教の寛容」理念を採用したが、敗戦とともにアメリカ的な政教分離を受け入れることになる、と。

次に「国家神道」をめぐるこれまでの議論をまとめていますが、論者によって定義が異なるためにこの語でなにを指すのかは自明ではなく、例えば島園氏によれば現在でも広義の国家神道は存在するという話になっているとされます。ただし国家神道という語はGHQの「神道指令」で用いられる以前は行政や学術の世界で用いられることはなかったために、これを遡及的に使用することの問題性も指摘しています。後代の呼称である以上は、国家神道なるものがいつ存在したのか、あるいはまったく存在しなかったものなのかは言葉の定義によって決まってしまう、と。論者はここでは一貫した政策的意図を欠いた偶発的で紆余曲折の政策過程を捉えるための分析概念として用いるとしてます。

よく知られるように「国教」を定めず、諸宗教に「宗教の自由」を認める一方で神社神道を臣民の公的義務たる「祭祀」に割り当てるという戦略が採られる訳ですが、論者は「宗教」と「祭祀」は明確な二分法とは言えず、国家と癒着した祭祀が私的領域の宗教を覆うという曖昧模糊とした分割であったと評しています。以下、島地黙雷の政教分離論や美濃部達吉の説を引用して論文は帝国が「政治と宗教」、「宗教と道徳」といったニ分法では明確に括れない社会体勢であった点を指摘しています。またGHQによる国家神道の解体は一般には「敵対型政教分離」とみなされがちだが、そうではなく政治による「好意的無関心」に基づく政教分離を目したとされます。GHQの考える政教分離はフランス型ではなく法制度としてはともかく社会としては宗教に好意的なアメリカ的な政教分離である。これは日本側にとっても望ましいことで、結果、天皇制と神道との曖昧な関係を戦後に残すことになった、と。

次に現在まで混乱の続く「宗教」概念について論じています。戦前の日本では神社が宗教なのか祭祀なのか、宗教と祭祀をどのように定義するのかは法的に未規定のままであり、この区分はあくまでも「官私の別」という政治的配慮によるものであったため、神社政策や信教の自由との兼ね合いから激しい議論を呼ぶことになった。明治10年代には日本でreligionの訳語としての「宗教」が輸入され、20年代以降には宗教学が誕生するが、宗教の定義としては2系統が存在した。そのひとつはプロテスタント系の定義であり、姉崎正治の心理主義的、体験主義的、ビリーフ中心主義的な宗教の定義、それから加藤玄智による「国民的宗教」「神人同格教」としての神道理解が代表的である。ビリーフを重視する立場に対して柳田國男の共同体のプラクティスとしての宗教概念がもうひとつあり、宗教民俗学、宗教人類学によって洗練されていくことになる。現在にまで残るこの宗教の意味のゆらぎは宗教に対立するところの祭祀という言葉にも存在した。また神社祭祀が国民道徳論と結びついたために神社非宗教論は宗教と対立するところの道徳という世俗領域にまで浸透することになり、宗教と祭祀、宗教と道徳の二分論は無効化されることになる。このように二分法の境界はきわめて流動的であり、神社非宗教論も宗教の定義によって多様な解釈が主張される状態であったとされます。

最後に天皇制の問題を論じています。上述のような議論は穏やかな宗教の自由の下に許容されていたものの天皇の権威に及ぶところで弾圧の対象とされることになった。しかし、これは政府ではなく社会の側からの声による制裁としてなされた。様々な二分法に重層的に規定された天皇は宗教や国家神道といった概念では理解できない。そもそも幕末開国以降、西洋世界に包摂される中でこれに対抗する形で社会の中に本来的な伝統を見出す運動が起こり、日本という国民国家を根拠づける究極の権威として想像された以上、天皇は歴史的状況の内部に文節化された文化的一要素であってはならず、歴史的変化を超えて輝き続ける決定不能な外部でなくてはならなかった。また西洋的立憲君主であると同時に伝統的な祭祀王である天皇は「西洋/日本」という対立項を超え出た、宗教と世俗というニ分法を生み出すような根源である。以下、宗教/世俗、宗教/道徳の二分法を前提とする歴史学や宗教学の言説の不能を説き、天皇制のような外部に屹立するような存在がいかに歴史的文脈の内部に顕現してきたのか、そのプロセスを発生論的に対象化していく必要があるとしています。一見、超歴史的な存在に見えても非西洋が西洋に包摂する中で内部で夢見られた余白なのだから、と。

冒頭のバルトの引用からいかにもな香りが漂う論文ですが、「国家神道」や「天皇制」を実体的に考えるべきではないという点についてはその通りだろうと思います。だいたいこうした用語は「」に入れるか、個人的には使わないことにしています。宗教と世俗のゆらぎの論点も重要でしょう。ただ「決定不能な外部」とか「法外なもの」とか「余白」といった形で天皇制を過剰に神秘化することには同意したくありません。戦後神話というのもあって、メディアが空疎なプロパガンダを喚いていたとしても、実際、そんなにファナティックな人間ばかりだったはずはないでしょう。憲法の規定通りに象徴君主として遇すること、あまり深読みしないことが「社会に封じ込める」最良の戦略に思えますが、どうなんでしょうかね。

戦前期日本の日蓮仏教に見る戦争観[pdf]

大谷氏は近代日本の「日蓮主義」についての研究で知られる方ですが、これは田中智学、石原莞爾、妹尾義郎の三者の戦争観についての講演です。今日において日蓮仏教の公共的展開の可能性を考えるというテーマのようです。日蓮主義運動は「仏教的な政教一致による、国教の樹立を目指した宗教運動である」と定義されていますが、ご承知の方も多いように、大正から昭和初期にかけて流行したナショナリズムとの関連性の強い運動のことです。

まず問題意識を説明していますが、宗教と公共性に関して、現在、社会参加仏教(engaged buddhism)研究と公共宗教研究への注目があるとしています。前者に関してはムコパディヤーヤ氏の「国家化」「社会化」「大衆化」「国際化」の4類型を紹介し、これが戦前、戦後の日蓮主義の活動を分析するのに役立つとします。また後者についてはアメリカの研究動向で、公共宗教とは社会統合や資源動員に資する、あるいはこれに対抗する「公共領域で機能する宗教」のこととされます。最近では「国家神道」を市民宗教ないし公共宗教として断罪調ではなくニュートラルに捉え直す動向もあるようですが、その点についても触れています。いわゆる「宗教」は公的領域から排除され、そこに「国家の祭祀」たる「国家神道」がおさまり、近代仏教は私的領域に配分されることになる。しかし内面の信仰には留まらずに社会参加、教育や福祉を通じて国家や社会に関わろうとした。公的領域で仏教教団の果たす役割の可能性と不可能性に関心がある、と。

次に田村芳郎氏の日蓮主義ないし日蓮仏教の類型論を紹介しています。第一に国家主義や日本主義の高まりに伴って現われた日蓮信奉のあり方で、田中智学、本多多生の日蓮主義、第二に普遍的な個にたっての信仰、あるいは宇宙実相の信仰で高山樗牛、宮沢賢治、尾崎穂積、妹尾義郎の名前を挙げています。最後がいわゆる新宗教で本門佛立講、霊友会、創価学会であると。講演者は第一の日蓮主義は後の二者にも多かれ少なかれ影響しているとします。

以下、田中智学、石原莞爾、妹尾義郎の戦争観が論じられます。田中智学については国立戒壇論と「世界の大戦争」の教えが採りあげられていますが、日蓮仏教の国教化(国立戒壇の建立)にあたっては「二法冥合」「事壇成就」「閻浮統一」のプロセスがあるといいます。まず国体の自覚を促し(国体概念が重視されている点が特徴とされます)、日蓮仏教の教えを広め、憲法改正により国教化、国内で政教一致が実現した後に世界の統一へと進むと。しかし世界は日本に敵対するために「賢王」の指揮の下で「世界の大戦争」が起こる云々と。次に石原莞爾はこの日本国体論と世界の大戦争論と世界統一のヴィジョンを切迫した終末観の下にさらに先鋭化させたと。最後にこれとは対極的な例として妹尾が紹介されています。小作争議に関わる中で日蓮主義を捨て新興仏教青年同盟を結成し、社会主義的な宗教運動を展開したが、1936年には治安維持法違反で弾圧、戦後は仏教社会主義同盟や全国仏教革新連盟を結成し、平和運動や日中交流や日朝交流にも関わったという人です。要するに平和主義者ですが、テクストの中には血盟団事件で有名になった「一殺多生」の考えがある点に注目しています。

多様に展開した運動の中において「国家化」の過去の側面を踏まえていかに「民の公共」に関われるのかが日蓮仏教の課題であるとしていますが、まあ、そうなのでしょう。何系でもいいですから、日本仏教界からはもう少し活発な社会活動があってもいいと思われます。メディアが報じないだけでいろいろとなされていることはそれとなく見てはいますが。ちなみに昔よく読んでいた人々の名前がずらりと並んでいるのですが、この系統の資質があるのでしょうか。思いつきを言えば、戦後の平和主義も市民宗教みたいなものなのかもしれませんね。

ではでは。南無南無。

追記

Ideology, Academic Inventions and Mystical Anthropology: Responding to Fitzgerald's Errors and Misguided Polemics

The Religion-Secular Dichotomy: A Response to Responses

Dichotomies, Contested Terms and Contemporary Issues in the Study of Religion

上で紹介したフィッツジェラルド氏の記事をめぐってリーダー氏との間で論争があったことをtomojiroさんに教えていただきました。ざっと読んだところですが、同型の議論はあちこちで見たことがあるような気がします。確かに問題提起そのものは分りますが、やや性急な政治性が感じられてそれが生産的な意味をどこまで持ち得るのかどうかというところで、うーむ、という印象も受けますね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=qvKJCb1h0to&feature=related

HIS『夜空の誓い』(1991年平成3年)

この曲は好きでした。ピース。

| | コメント (6) | トラックバック (3)

より以前の記事一覧