カテゴリー「宗教」の2件の記事

主権が立ち現れるとき

宗教関連は弱いのですが、素人が素人なりに気になったことについて書いてみるという趣旨のブログですので躊躇せずに続けます。

"Trying to understand French Secularism" by Talal Asad[pdf]

コメント欄で教えていただいたタラル・アサド氏のフランスのライシテ(世俗性、非宗教性)についての論文です。50ページ以上あるので内容を要約するのはたいへんですからポイントだけかいつまんで感想を記しておきますが、主権論と規律訓練論でフランスのライシテを理解するという趣旨の論文です。スカーフをめぐる騒動は私もニュースやオピニオンを眺めていたのですが、フランス的語彙で言うと、統合主義と多文化主義、普遍主義と差異主義、共和国の世俗性と宗教的共同体主義等々の概念で盛んに論じられていました。もちろんスカーフはひとつの焦点であって他ではなくこの時にこのような形で問題化されたその背景まで考慮すれば、これはなんとも深刻な事態になっているなあと溜息が出る他なかったです。

メディア上の論調ではライシテの歴史を想起して共和国の原理としてこれを護持すべしという意見と移民の歴史を想起して文化的多様性を認めるべしという反対意見が戦わされていた記憶があります。個人的には知識人たちの神学論争よりも移民の子弟の置かれている状況やいわゆる普通のフランス人の不満の原因がどのあたりにあるのかといった具体的な話に興味があったのですが、私の記憶では論争の中で想起されていたのは戦後史、古くとも19世紀後半以降の歴史であり、この論文のように初期近代にまで遡って論じる人はあまりいなかったような気がしますね。

それでこの論文ですが、16世紀末の宗教戦争後のcuius religio eius religio(領主の宗教が領民の宗教となる)から始めています。これは宗教の核心が内面的なものであるとみなされるようなった時代に「特定の宗教問題」に「一般的な政治原理」を適応した例として重要である。政治的なものと宗教的なものとの分離そのものは中世にも認識されていたが、今日とはずいぶん違う。国家が脱キリスト教化され、非人格化され、政治的なものが宗教的なものをその領分から排除し、吸収し、といった具合にその下にさまざまな宗教を信仰する臣民が共存する抽象的かつ超越的な権力が立ち上がっていく。誰が宗教的寛容に値し、なにが宗教的寛容であるのかを決定するのはこの権力である、と。

フランスの文脈ではナントの勅令が言及されていますが、その後、革命政権により「宗教的不寛容」が弾劾され、自由、平等、友愛の名の下に教会が攻撃され、宗教の本質が個人の信仰として定義されるようになる、1世紀にわたる闘争を通じて第三共和国の下で最終的に解決されるという風に歴史を辿っていきます。人道と進歩の理念を掲げる共和国は実証主義的ヒューマニズムを涵養する公教育制度を樹立する一方で、文明化の使命の名の下に植民地を拡大する。反教権教育、教会との不平等な協定、帝国の拡大、この三つがフランス・ナショナリズムの柱であり、この上にライシテも誕生した。しかしアルジェリアのみがこの学校システムの例外で国家と教会が協働して改宗やムスリムの教育にあたった。マシニョンのようなオリエンタリストはムスリムの解放に熱狂したが、誰を解放するのか、いかに解放するのかを決定するのは共和国であった、と。

それで論者によればスカーフ事件から見えるのは今日のフランスはある意味でcuius religio eius religioのままであり、この原理の重要な点は特定の宗教へのコミットメントや禁止にあるのではなく、単一の絶対的な権力-主権国家-を立ち上げることにあるとされます。この権力は単一の源泉からその力を汲み、さまざまな信仰にかかわらず人民に対して世俗的配慮をするという単一の目的に取り組むような権力である。宗教はあの世のことに関わるのであって国家権力はこの世の福利厚生のための自らの適切な場を定義しなくてはならない。それゆえこの世の福利厚生のイメージが必要とされ、宗教のプレゼンスの記号はなにかという問題への答えも必要とされる、と。ここから特定の象徴が宗教的なものか否かを最終的に決定する権能が世俗国家に残されることになる。以下、国家の記号読解の様態をスタジ報告書から読み解いています。

論者によれば、スカーフをまとう動機は多様であり得るし、宗教的動機からだとしてもそれは「行為」であって「象徴」とはいえないかもしれない。それを宗教的シンボルと決定し-十字架とキッパとともに-禁止することを通じて世俗国家はその権力を行使する。さらに報告書はここに宗教的なシンボルを顕示する「意志」と「欲望」を読み込み、それを決定する、と。またカール・シュミットのいうように主権とは「例外」を決定する権力のことであるとして国家から補助を受けているキリスト教系とユダヤ教系の私学、国が教会財産を所有し、聖職者が給料を支払われているアルザス・モーゼル、司教区組織や様々な宗教的アソシエーション、軍隊、学校、病院付きの司祭の例などを挙げています。事実としてフランスは普遍主義的な市民のみから成り立っているわけではない、と。以下、友愛の問題やユダヤ人の問題やイスラム嫌悪の問題などについて具体的に論じていきますが、ここはよく語られる部分なので割愛します。具体的なことに興味のある方はリンク先をお読みください。

以上、ライシテの問題とは、なにが「宗教的」なのか、またなにを「例外」とするのかを決定する主権の行使の問題である、としています。そしてそこには本質的に恣意性がつきまとう点が示されていますが、特になにか政治的提言がある訳ではなくここでは「理解」が目指されています。まず、ここまで一般化するならば、フランスに限らず、政教分離が存在する近代国家であればどこでも権力の作動を記述できるのではないでしょうかね(こうした「批判的」な記述の仕方を好まない人もいるでしょうけれども)。確かに普遍的かつ世俗的な市民を育む公教育の場から宗教的記号を放逐せんとする情熱はいかにもフランス的ですが、スカーフが宗教的シンボルと認定され、これをまとうことが禁止されるにいたる経緯を見るならば、共和国の原理そのものから直接導き出される必然的な結論と言えるのかどうかは微妙なところもあるように思えます。なぜこの時期このような形でこのような措置がとられたのかはやはり具体的な政治社会状況を見ないと分からないでしょう。理念的にはライシテを「人類」の目標と普遍主義的に語る者もある一方で、ユダヤ・キリスト教文明やフランスの特異性に言及する者もあるといった混乱も問題でしょう。ただこの問題は長期的に見ないといけない問題だと思います。最後に、これは言って詮無いことかもしれませんが、私自身は象徴政治というのはやはり好きではないです。

信仰の土着化とナショナリズムの相関関係──「宗教の神学」の課題として[pdf]

こちらは小原克博氏の信仰の土着化とナショナリズムに関する論文です。日本のキリスト教の場から発せられた論文として読ませていただきました。当方、単なる歴史好きなので十分に咀嚼できているのかどうか心許ないところもありますが、問題意識は伝わってきました。世俗ナショナリズムと宗教ナショナリズムに対して寛容と多元主義を掲げるリベラリズムを掲げても問題の解決にはならない、そもそもこれらは西洋発の近代主義的ディスコースが排除した当のものなのだから、という認識が大きな枠組みになっています。

これに関連して近代国民国家における「宗教」と「迷信」の構築という論点が言及されていますが、この点は前エントリで紹介した記事などと認識を共有しているようです。近代国家は「宗教」がなんであるかを定義しつつこれを私的領域に割り当て、民俗的なものを「迷信」として排除することで世俗的な公共空間を形成していくが(近代的な「宗教」と「世俗」の関係の創出)、ナショナリズムと「宗教原理主義」は公共的な空間から排除されたものたちの復讐である。また植民地化と脱植民地化を経験した非西洋社会においては旧宗主国が押し付けた、あるいは輸入された制度たる政教分離に対して世俗的、宗教的ナショナリズムで応答する場合もある、と。

日本の文脈では天皇制イデオロギーおよび国民道徳が公的秩序原理として樹立される一方、伝統仏教の「再土着化」とキリスト教の「土着化」を通じて宗教が私的なものとして承認され、民俗的なものは迷信として排斥される日本的政教分離のプロセスを辿ったとされます。日本のキリスト教については土着化論と文脈化神学(というのがあるのですね)の観点から論じていますが、内村鑑三のようにキリストへの忠誠と日本への忠誠に引き裂かれ葛藤した人物もいたが、キリスト教のほぼ全体がナショナリズムの渦に飲み込まれてしまった。戦前にはナショナリズムは土着化の前提とされ、これが批判的に検討されることはなかった。逆に戦後は国家のみならず「日本的なもの」に接近することにまで強い警戒心を持つことになる。しかしただの反動であってナショナリズムを十分に対象化できていないといいます。

世俗的、宗教的ナショナリズムと批判的、建設的な対話をしつつ、自らを近代的価値の体現者と考えがちな西洋キリスト教の「宗教の神学」が前提とする「宗教」概念そのものを相対化する作業をすすめるために、論者は「一神教の神学」に加えてintra-contextual theology of religionsとinter-contextual theology of religionsという2つのプログラムを提唱しています。前者は郷土愛、民俗信仰や愛国心を対象とする神学、後者は国境を越えた文脈間の歴史的つながりや流動性を確認していく神学であるとされます。

シヴィック・ナショナリズム論やリベラルな多元主義論が単なる西洋の自己正当化に終わることへの警戒や宗教的ナショナリズムが近代からの逸脱ではなく近代化の産物そのものであることの認識などは私みたいな単なる国際ニュース好きにも理解可能な話ですし、ナショナリズムを単に否定するだけでは逆効果なことも実感させられてきたところですのでその問題意識は分るように思えます。「批判的・建設的」の「建設的」の部分が具体的にどういうものになるのかに興味があります。論者による近代日本の宗教概念についての論文も入手できたら読んでみたいなと思いました。ついでに「宗教」と「迷信」に加えて「科学」というのもありますね。特に我らが同盟国において宗教と科学が時に対立するだけでなく一緒になって迷信と戦ったりする光景をよく見ます。日本でも局所的にありますけれど。

"An interview with Peter Berger"[pdf]

かつて世俗化論の社会学者として知られたピーター・バーガー氏のインタビューですが、とても平易で明快です。氏の学説の放棄については仔細を知らなかったのですが、ネットで検索しただけでもずいぶん記事がありますね。このインタビューでは自ら説明しています。近代化とは世俗化ではなく多元化である、多元性と選択肢の拡大は世俗的選択につながるとは限らず、宗教的選択にもつながるのだとしています。ただ信仰がなんであるかではなく信仰がどのようになされているのかに注目するとそこには違いがあって、絶えず相対化にさらされるために確実性への信頼が毀損され易く、これが原理主義の土壌を形成しているとされます。

それから複数の世俗のあり方の可能性という話で日本が出てきます。最初に非西洋社会で近代化に成功した国として興味深いとしています。日本を世俗的な社会とみなした者もいたが、自分はそうは思わない、ただ異なる宗教性の形式を持っているのだ、西洋のようにドグマや教会を持たず、一人の人間が複数宗教のプラクティスを行っているというようにその宗教性は本質的にシンクレティズムである、ただ中国もそうであり、東アジア全体に言えることだろうとしています。西洋の一神教的な概念とは違うんだ、と。中村さん(誰?)の著書で一箇所だけ記憶に残っているところがあって、西洋のように一人の神がいてアリストテレスの排中律が支配する社会とは違うんだと言っていたと述べています。皮相といえば皮相かもしれませんが、まったくの間違いというわけでもないぐらいでしょうか。

次に米欧比較の話になりますが、宗教的アメリカと世俗的欧州という大衆的イメージは、実際には思われている以上にアメリカは世俗的で、思われてる以上に欧州は宗教的だったりもするが、有効ではあるとしています。「欧州化」した一握りの世俗的文化エリートがアメリカを牛耳り、他はまるで違う一方で、欧州では「信仰なき所属」が支配的である、と。世俗化論に従うならばアメリカは近代的でないことになるが、ベルギーのほうが近代的なのだろうか、アメリカが例外的なのか、否、欧州が例外的なのではないか、と問い、デイヴィーの世俗的欧州の考えを紹介しています。欧州といっても中東欧や正教圏では違うピクチャーになるが、と留保しつつ。一方、アメリカは振り返るならば最初から多元主義的であったし、多元主義というのは単なる事実ではなくアメリカのイズムそのものだと述べています。こうなると、結局、欧州の理論を学んだが、自国をうまく説明できないことに気付いたという話にもなりそうです。バーガー氏はこの構図はそれほど変わらないだろうとしていますが、欧州のムスリム人口の増大が与えるかもしれまない変化についても語っています。未来予測は難しいでしょうね。

その他、さまざまな質問に答えていますが、質問者の引用するエルヴュー=レジェ氏の言葉が印象に残りました。フランスは人々が教会に行かなくなった後にもカトリック文化のままであり、たとえフランス文化の中で無神論者だったとしても、その人は「カトリックの無神論者」である、と。とするならば「プロテスタント系の無神論者」というカテゴリーもあるのでしょうが実際、、彼らにはしばしば独特の宗教性を感じることがあるのですね。これだと宗教と文化の区別がなくなりそうですが、誰か無神論者の国際的比較分析でもしてくれないですかね。いや、もうあるのかもしれませんね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=lrCBNkINfr0

大島ミチル『御誦』(1984年昭和59年)

映画音楽やゲーム音楽で知られる作曲家の代表曲で読みは「おらしょ」です。長崎出身の方です。

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市民宗教ねえ

最近読んだ宗教がらみの記事をクリップしておきます。

"'Etiquette guide' for Thai monks"[BBC]

タイのお坊さんのよいマナーのガイドラインが出されたという和み系の話です。不良坊主問題が発生しているので-昔からといいますが-指導ということのようですが、その中でトランスとゲイの坊さんの話もあって、

He was especially concerned, he said, by the flamboyant behaviour of gay and transgender monks, who can often be seen wearing revealingly tight robes, carrying pink purses and having effeminately-shaped eyebrows.

とのこと。同性愛はオーケーだが、目立ち過ぎるなということのようです。かつては華やいでいた日本の仏教界ですが、現在はそういうのってどこかに残っているのでしょうか。ちなみにBBCはどうやらタイモンク・ネタが好きみたいですね。

"God is back: How Ned Flanders won the evangelical crusade"[Times]

タイムズのエヴァンジェリカルについての記事。アメリカのクリスチャンのカリカチュアとしてシンプソンズの信心深い隣人ネッド・フランダースに言及しています。これまでハリウッドではエヴァンジェリカルの説教師は偽善の代名詞のような扱われ方をしてきたし、フランダースも愚か者の象徴として描かれている、しかしフランダースは負け犬なのだろうかと記事は問います。実際にはフランダース主義は世界中で勝利しつつあるのではないか、と。啓蒙の時代以来、欧州の知識人は宗教が近代性によって没落することを予言してきたが、アメリカは当初から違っていた。確かにアメリカの知識人も合理主義の下での宗教の弱体化を予言し、弱者や貧者や愚者の間でのみ宗教は生き残ると考えてきたが、このピクチャーは変化しつつあるとしています。ピーター・バーガー氏によれば社会学者は近代性を世俗化と捉えたが、これは誤りであり、近代性とは多元性のことである。アメリカではどの宗教を選ぶことも選ばないことも自由である、と。またフランダースは世界展開しており、今ではクリスチャンの60%は途上国にいるといいます。ロシアや中国のような国家による強制的世俗化を蒙った国でも宗教リヴァイヴァルが顕著であり、欧州ですら世俗化の放棄の兆候が見られる、と。宗教紛争の原因ともなっているとしつつも、記事はグローバル化する世界において宗教のプラスの側面についても触れています。いかにも欧州的な戸惑いが感じられる記事ですが、後半ではわりと好意的な解釈もしています。仲間と一緒でヘルシーでハッピーだ、と。まあ、そうなんでしょう。

ただ日本でもその傾向がありますが、欧州ではアメリカの「エヴァンジェリカル」はだいぶ記号化されているような気がします。よく知らないのですが、そんなに単純なイメージでいいのかなと思われます。世俗化や多元主義は難しい話ですが、イスラームも含めて中世的なものの浮上ではなく近代性-曖昧な概念ですが-の内部の宗教の再編現象が生じているのでしょう。以下、多少関連した記事になっています。

"'Religon' and 'the Secular' in Japan. Problems in history, social anthropology, and the study of religion" by T. Fitzgerald[ejcjs]

日本における「宗教」と「世俗」概念の用法が「我々西洋」とはなにかずれているということを指摘する記事です。多くの人が無宗教を自称しつつ宗教的プラクティスを怠らないのはなぜなのかといった問題には様々な答え方があり得るのでしょうが、それは西洋から輸入した概念が社会的現実からずれているからうまく自己記述できないからだというのもひとつの回答になるのでしょう。比較宗教学的方法論にキリスト教的前提が多数忍び込んでいることもまたつとに指摘されるところですが、記事は非西洋圏の宗教現象を把握するためには歴史的コンテクストを踏まえつつ、基本的な概念の語用論的な分析をする必要があると主張しています。ここでなにか具体的な対象の分析をしている訳ではなく、多くの英語圏の日本の宗教に関する言説をとりあげて方法論的反省をしています。他者性を強調するあまりに不可知論みたいになるとそれはそれでひどく困るのですが、ずれているのは事実でしょう。ただ「我々西洋」ってそれほど一枚岩でしょうか。政教分離や社会における宗教のあり方にはずいぶん多様性があると思われます。

ちなみにこの調査では世界二位の無神論者の国ということになっているのはおそらく「宗教」概念の混乱ゆえなのでしょう。戦後日本人は宗教を失ったみたいな嘆きを聞くこともありますが、おそらく戦前でも同じ方法で調査したならば「無神論者」率は高くなるのではないかと想像します。そもそも無神論(atheism)というのは一神教空間内の概念だと思いますので意味が違っていると思うのですがね。

Religiones

法外なるものの影で 近代日本における宗教/世俗[pdf]

こちらは近代日本の宗教と世俗の概念の文節化を扱った現代思想系の論文ですが、上の論文に対するひとつの変化球的な応答になっているように思われます。日本の批判的知識人の間でとりわけ靖国とイスラームに関して政教分離をめぐる問題が近年では取りざたされているが、このふたつの問題に対して彼らは正反対の対応をしている。イスラームに関しては政教分離は西洋近代の生んだ局所的な理念に過ぎず、その普遍性妥当性を疑う一方で、靖国に関しては政教分離を金科玉条のごとく唱えている。政教分離の問題は非西洋社会が西洋の宗教概念および関連制度に包摂される中で浮上する問題であり、日本において政教分離を貫徹すべきか否かの二者択一的な議論をする前に、近代日本がこうした理念をいかに受け入れたのかを歴史具体的に論じる必要がある。戦後日本では普遍主義的な理念として政教分離が謳われるが、現実には西洋においてもこれが貫徹されることは稀であり、宗教の占める位置には多様性がある。実際、明治エリートはこのことを見抜いており、プロイセン型の「宗教の寛容」理念を採用したが、敗戦とともにアメリカ的な政教分離を受け入れることになる、と。

次に「国家神道」をめぐるこれまでの議論をまとめていますが、論者によって定義が異なるためにこの語でなにを指すのかは自明ではなく、例えば島園氏によれば現在でも広義の国家神道は存在するという話になっているとされます。ただし国家神道という語はGHQの「神道指令」で用いられる以前は行政や学術の世界で用いられることはなかったために、これを遡及的に使用することの問題性も指摘しています。後代の呼称である以上は、国家神道なるものがいつ存在したのか、あるいはまったく存在しなかったものなのかは言葉の定義によって決まってしまう、と。論者はここでは一貫した政策的意図を欠いた偶発的で紆余曲折の政策過程を捉えるための分析概念として用いるとしてます。

よく知られるように「国教」を定めず、諸宗教に「宗教の自由」を認める一方で神社神道を臣民の公的義務たる「祭祀」に割り当てるという戦略が採られる訳ですが、論者は「宗教」と「祭祀」は明確な二分法とは言えず、国家と癒着した祭祀が私的領域の宗教を覆うという曖昧模糊とした分割であったと評しています。以下、島地黙雷の政教分離論や美濃部達吉の説を引用して論文は帝国が「政治と宗教」、「宗教と道徳」といったニ分法では明確に括れない社会体勢であった点を指摘しています。またGHQによる国家神道の解体は一般には「敵対型政教分離」とみなされがちだが、そうではなく政治による「好意的無関心」に基づく政教分離を目したとされます。GHQの考える政教分離はフランス型ではなく法制度としてはともかく社会としては宗教に好意的なアメリカ的な政教分離である。これは日本側にとっても望ましいことで、結果、天皇制と神道との曖昧な関係を戦後に残すことになった、と。

次に現在まで混乱の続く「宗教」概念について論じています。戦前の日本では神社が宗教なのか祭祀なのか、宗教と祭祀をどのように定義するのかは法的に未規定のままであり、この区分はあくまでも「官私の別」という政治的配慮によるものであったため、神社政策や信教の自由との兼ね合いから激しい議論を呼ぶことになった。明治10年代には日本でreligionの訳語としての「宗教」が輸入され、20年代以降には宗教学が誕生するが、宗教の定義としては2系統が存在した。そのひとつはプロテスタント系の定義であり、姉崎正治の心理主義的、体験主義的、ビリーフ中心主義的な宗教の定義、それから加藤玄智による「国民的宗教」「神人同格教」としての神道理解が代表的である。ビリーフを重視する立場に対して柳田國男の共同体のプラクティスとしての宗教概念がもうひとつあり、宗教民俗学、宗教人類学によって洗練されていくことになる。現在にまで残るこの宗教の意味のゆらぎは宗教に対立するところの祭祀という言葉にも存在した。また神社祭祀が国民道徳論と結びついたために神社非宗教論は宗教と対立するところの道徳という世俗領域にまで浸透することになり、宗教と祭祀、宗教と道徳の二分論は無効化されることになる。このように二分法の境界はきわめて流動的であり、神社非宗教論も宗教の定義によって多様な解釈が主張される状態であったとされます。

最後に天皇制の問題を論じています。上述のような議論は穏やかな宗教の自由の下に許容されていたものの天皇の権威に及ぶところで弾圧の対象とされることになった。しかし、これは政府ではなく社会の側からの声による制裁としてなされた。様々な二分法に重層的に規定された天皇は宗教や国家神道といった概念では理解できない。そもそも幕末開国以降、西洋世界に包摂される中でこれに対抗する形で社会の中に本来的な伝統を見出す運動が起こり、日本という国民国家を根拠づける究極の権威として想像された以上、天皇は歴史的状況の内部に文節化された文化的一要素であってはならず、歴史的変化を超えて輝き続ける決定不能な外部でなくてはならなかった。また西洋的立憲君主であると同時に伝統的な祭祀王である天皇は「西洋/日本」という対立項を超え出た、宗教と世俗というニ分法を生み出すような根源である。以下、宗教/世俗、宗教/道徳の二分法を前提とする歴史学や宗教学の言説の不能を説き、天皇制のような外部に屹立するような存在がいかに歴史的文脈の内部に顕現してきたのか、そのプロセスを発生論的に対象化していく必要があるとしています。一見、超歴史的な存在に見えても非西洋が西洋に包摂する中で内部で夢見られた余白なのだから、と。

冒頭のバルトの引用からいかにもな香りが漂う論文ですが、「国家神道」や「天皇制」を実体的に考えるべきではないという点についてはその通りだろうと思います。だいたいこうした用語は「」に入れるか、個人的には使わないことにしています。宗教と世俗のゆらぎの論点も重要でしょう。ただ「決定不能な外部」とか「法外なもの」とか「余白」といった形で天皇制を過剰に神秘化することには同意したくありません。戦後神話というのもあって、メディアが空疎なプロパガンダを喚いていたとしても、実際、そんなにファナティックな人間ばかりだったはずはないでしょう。憲法の規定通りに象徴君主として遇すること、あまり深読みしないことが「社会に封じ込める」最良の戦略に思えますが、どうなんでしょうかね。

戦前期日本の日蓮仏教に見る戦争観[pdf]

大谷氏は近代日本の「日蓮主義」についての研究で知られる方ですが、これは田中智学、石原莞爾、妹尾義郎の三者の戦争観についての講演です。今日において日蓮仏教の公共的展開の可能性を考えるというテーマのようです。日蓮主義運動は「仏教的な政教一致による、国教の樹立を目指した宗教運動である」と定義されていますが、ご承知の方も多いように、大正から昭和初期にかけて流行したナショナリズムとの関連性の強い運動のことです。

まず問題意識を説明していますが、宗教と公共性に関して、現在、社会参加仏教(engaged buddhism)研究と公共宗教研究への注目があるとしています。前者に関してはムコパディヤーヤ氏の「国家化」「社会化」「大衆化」「国際化」の4類型を紹介し、これが戦前、戦後の日蓮主義の活動を分析するのに役立つとします。また後者についてはアメリカの研究動向で、公共宗教とは社会統合や資源動員に資する、あるいはこれに対抗する「公共領域で機能する宗教」のこととされます。最近では「国家神道」を市民宗教ないし公共宗教として断罪調ではなくニュートラルに捉え直す動向もあるようですが、その点についても触れています。いわゆる「宗教」は公的領域から排除され、そこに「国家の祭祀」たる「国家神道」がおさまり、近代仏教は私的領域に配分されることになる。しかし内面の信仰には留まらずに社会参加、教育や福祉を通じて国家や社会に関わろうとした。公的領域で仏教教団の果たす役割の可能性と不可能性に関心がある、と。

次に田村芳郎氏の日蓮主義ないし日蓮仏教の類型論を紹介しています。第一に国家主義や日本主義の高まりに伴って現われた日蓮信奉のあり方で、田中智学、本多多生の日蓮主義、第二に普遍的な個にたっての信仰、あるいは宇宙実相の信仰で高山樗牛、宮沢賢治、尾崎穂積、妹尾義郎の名前を挙げています。最後がいわゆる新宗教で本門佛立講、霊友会、創価学会であると。講演者は第一の日蓮主義は後の二者にも多かれ少なかれ影響しているとします。

以下、田中智学、石原莞爾、妹尾義郎の戦争観が論じられます。田中智学については国立戒壇論と「世界の大戦争」の教えが採りあげられていますが、日蓮仏教の国教化(国立戒壇の建立)にあたっては「二法冥合」「事壇成就」「閻浮統一」のプロセスがあるといいます。まず国体の自覚を促し(国体概念が重視されている点が特徴とされます)、日蓮仏教の教えを広め、憲法改正により国教化、国内で政教一致が実現した後に世界の統一へと進むと。しかし世界は日本に敵対するために「賢王」の指揮の下で「世界の大戦争」が起こる云々と。次に石原莞爾はこの日本国体論と世界の大戦争論と世界統一のヴィジョンを切迫した終末観の下にさらに先鋭化させたと。最後にこれとは対極的な例として妹尾が紹介されています。小作争議に関わる中で日蓮主義を捨て新興仏教青年同盟を結成し、社会主義的な宗教運動を展開したが、1936年には治安維持法違反で弾圧、戦後は仏教社会主義同盟や全国仏教革新連盟を結成し、平和運動や日中交流や日朝交流にも関わったという人です。要するに平和主義者ですが、テクストの中には血盟団事件で有名になった「一殺多生」の考えがある点に注目しています。

多様に展開した運動の中において「国家化」の過去の側面を踏まえていかに「民の公共」に関われるのかが日蓮仏教の課題であるとしていますが、まあ、そうなのでしょう。何系でもいいですから、日本仏教界からはもう少し活発な社会活動があってもいいと思われます。メディアが報じないだけでいろいろとなされていることはそれとなく見てはいますが。ちなみに昔よく読んでいた人々の名前がずらりと並んでいるのですが、この系統の資質があるのでしょうか。思いつきを言えば、戦後の平和主義も市民宗教みたいなものなのかもしれませんね。

ではでは。南無南無。

追記

Ideology, Academic Inventions and Mystical Anthropology: Responding to Fitzgerald's Errors and Misguided Polemics

The Religion-Secular Dichotomy: A Response to Responses

Dichotomies, Contested Terms and Contemporary Issues in the Study of Religion

上で紹介したフィッツジェラルド氏の記事をめぐってリーダー氏との間で論争があったことをtomojiroさんに教えていただきました。ざっと読んだところですが、同型の議論はあちこちで見たことがあるような気がします。確かに問題提起そのものは分りますが、やや性急な政治性が感じられてそれが生産的な意味をどこまで持ち得るのかどうかというところで、うーむ、という印象も受けますね。

[本日の一曲]

http://www.youtube.com/watch?v=qvKJCb1h0to&feature=related

HIS『夜空の誓い』(1991年平成3年)

この曲は好きでした。ピース。

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